Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第七章 風に乗って(4)




 雪は止み、霧は晴れていた。空はやわらかい青さを取り戻している。しかし風は冷たかった。ここへ来た時よりも、さらに寒さを増していた。
「あと、二、三時間くらいで日没になると思うけれど、その間に海を渡ってしまおう」
「そうね」
 二人は地下から荷物を持ってくると、地上に上がり、天窓を閉め、元通りプレートを戻した。
「いつかまた、地上に戻してあげたいわね。いくら本体はどこか他にあるって、わかっていても」アヴェリンがそう呟いた。
「そうだね」
 今の政府の元では無理かもしれないが――そう思いながらも、ジェレミーも頷かずにいられなかった。
 エアロカーを止めた場所まで歩きながら、ジェレミーは思った。今でもこの寒さなのだ。ここはあの時、どれほどの寒さだったのだろう。アイスキャッスルでの一年は、どんなものだったのだろう。彼らはほとんどすべてを失い、それでも希望をつなごうとしてきた。その思いは――。
 ジェレミーは歌っていた。昨夜の夢で聞いた歌を。歌いながら、再び涙が溢れた。
「それは、何の歌?」アヴェリンが聞いてきた。
「これはたぶん、あの人たちの歌だと思うんだ」
「まあ。あのファイルに入っていたもの?」
「君も聞いたの?」
「いいえ。でも兄さんは聞いたらしいわ」
「そう。なんて言っていた? 君のお兄さんは」
「もう二度と元の自分には、戻れなさそうな気がするって」
「僕もそうだったよ。だから僕は芸能局を志願したんだ」
 ジェレミーは白い地平線の彼方に目をやった。
「でもこの曲はね、まだ聞いたことがないんだ。僕たちは最初のファイルしか聞いていないから。ああ、君がお兄さんからどこまで聞いたのかはわからないけれど、あの音楽ファイルは前半と後半があって、僕は前半しか聞いていないんだ。共同閲覧最後の日に聞くはずだったんだけれど、僕が芸能局に入って、閲覧許可期限がなくなったから、後半は夢がかなったら二人で聞こうって、パットと約束しているんだよ」
「そうなの」
「ああ。だから、もしかしたら、後半のファイルかもしれないし、元々ファイルには残されなかった曲なのかもしれないけれど……この曲はね、昨日夢の中で聞いたんだ」
「夢の中で?」
「うん。そこから、いろいろな思いが伝わってきた。悲しみ、嘆き、憤り、絶望……そしてそこから抜け出ようとする勇気、希望、愛……いろいろな思いが。彼らは……ここに来たみんなは、今までの世界が完全に壊れて、自分だけしか残らないという状況で、未来を築くんだという希望のみに支えられて、ここで一年間を過ごしてきたんだ。それは、どんな状況だったんだろうって思うとね……」
「ええ。なんとなくわかる気がするわ。寒くて、悲しくて、惨めで、寂しくて……」
 アヴェリンも涙を流していた。
「ここから、僕らの世界が始まったんだ」
 ジェレミーはそっと恋人を抱きしめ、周りの風景に目を注いだまま、静かに言った。
「でもそのことを、僕らは誰も知らない。ごくごく一部の、学術の人たちを除いては。今生きていることを、当然のこととして、何も思っていはしない。この世界のすべてが、あたりまえのことだと……」
「そうね……」
「でも、ここを埋もれさせてはいけないんだと、僕は思うよ。こんなに荒れ放題にして、訪れる人もなく、忘れられているなんて……」
「そうね。でもわたしたちだけでも、ここへ来られて、良かったと思うわ。何も出来ないけれど」
「ああ、そうだね」
 二人はエアロカーのところまで歩いていくと、荷物を積み込み、乗り込む前にもう一度まわりを見回した。その目に焼きつけるように。

 傾きかけた夕方の陽の中、ジェレミーは車を南へ進めた。流氷の海を再び渡り、ツンドラの大地へと。あたりが暗くなったころ、彼らはようやく海を渡り終え、再び岩陰に車を止めた。
「なんとかそれほど暗くならないうちに、陸地へ戻れたね。でもここも、あまり暖かくはないけれど」
「そうね。もう一晩あそこに泊まっても良かったかもしれないけれど、でも車の中は暖かいから大丈夫よ。毛布をかければ、寒くはないわ」
「そうだね。じゃあ、夕食にしよう。もう残っているのはクラッカーが三箱とビスケットが二箱だけだね。それとビーフジャーキーと干し果物が二袋ずつ、あとはジュースのボトルが六本か」
「それと、キャンディがあと二袋あるわ。お水が汲めるところがあったら、空のボトルに汲むといいわね。飲み物はそれで足りるんじゃないかしら。大事に食べれば、あと五日くらいは持ちそうね」
 二人はクラッカーとジュース、そして少しのビーフジャーキーを食べた。食料がなくなったらどうするか、ジェレミーはその恐れをあえて口に出したくはなかったし、アヴェリンも同じようだった。その時になったら、いずれ考えなければならないが、とりあえずは今を大事にしたい、そんな思いだった。
 
 その夜、眠りにつく時、夜空に不思議な光が現れた。金色に輝く、空のカーテンのような、荘厳な光だった。
「あれは何かしら?」アヴェリンは小さく声を上げた。
「北極光……オーロラだね」
 ジェレミーは答えた。彼もまた好奇心で目を青く輝かせながら、その光に見入っていた。
「高緯度地域で見られる、地磁気の乱れによる光の拡散……だっけ、そう書いてあった。高等地理のテキストに。でも、実際に見たのは初めてだ」
「そう……どうしてそうなるのか、わたしにはわからないけれど……きれい……」
「そうだね……」
 二人はしばらく無言で、空を見上げていた。無数の星が輝く夜空に現れた、光のカーテン。それはあまりに幻想的で美しく、畏怖の念さえ起こさせた。
「……なんだかわたし、泣けてきたわ。なぜだかわからないけれど……」
 アヴェリンの頬には、涙が一筋流れていた。
「でも、思い切ってあなたと二人で逃げてきて、いろいろなものが見られたわね。広い大地に本物の風、ドームにさえぎられない空と太陽、鳥、星、アイスキャッスル、そしてあの光。この四日間で、今までの人生すべてとこれからの人生すべてと引き換えになっても、悔やまないだろうと思うほどの体験をしたと思うわ」
「うん。僕もそうだよ。本当に良かったと思う……」
 ジェレミーは手を伸ばし、二人は手をつなぎあった。そして空に舞う光の乱舞を見つめている間に、眠りに落ちたのだった。

 それから三日間、二人は逃避行を続けた。カナダ地方の平原を、比較的温暖な気候の場所を選んで西に東に飛び回り、草の上で食事をし、愛し合い、車の中で手をつないで眠った。しかしその翌日――彼らがニューヨークを出てから一週間がたったその朝、車から出ようとしたアヴェリンが、突然倒れた。
「どうしたんだい?!」ジェレミーは驚いて、彼女を抱きとめた。
「ごめんなさい……ちょっとめまいが。大丈夫よ……」
 アヴェリンは弱々しく言った。その身体は異常に熱かった。熱が出ている。この感じでは、たぶん三九度台はあるだろう。彼女を再び車の座席に寝かせると、ジェレミーは近くの泉に走り、冷たい水でタオルを冷やして、その額にあてがった。ジュースの空ボトルに水を汲み、唇を湿した。
「大丈夫。ちょっと風邪を引いたんだわ」
 アヴェリンは小さく咳き込みながらも、微笑もうとしていた。
 ジェレミーはその午前中、アヴェリンのそばに付き添いながら看病を続けたが、彼女の熱は引きそうになかった。その息遣いは苦しそうになり、赤かった唇は色を失っていた。
 太陽が天頂を過ぎる頃、ジェレミーは頭を上げ、唇をかむと、荷物を車に戻し、運転台に座りなおした。
「街へ行こう」
「え? ダメよ!」アヴェリンは即座に首を振った。
「街へ行っては、だめ。つかまってしまうわ。あなたもわたしも。何もかも終わりよ」
「わかっているよ」
 ジェレミーは運転台のハンドルをぎゅっと握りしめた。
「わかっている。これですべてが終わりになってしまうことは。でも僕には、君の病気は治せない。街の病院に連れて行かないと」
「わたしはいいの、このままでも!」アヴェリンはかすれた悲鳴を上げた。
「じっと寝ていれば、そのうちに治るわ。それにもしこのまま治らなくても、わたしは良いの。かりに死んでしまっても」
「ダメだよ!」ジェレミーは強く遮った。そして発進ボタンを押した。エアロカーは浮き上がり、東へと向かった。
「僕には、そんなことは出来ない。君が苦しんでいるのを、黙って見ているだけなんて。そう……食料も、あと二、三日で完全に切れる。旅の終わりがちょっと早くなってしまった。それだけのことだよ」
「ジェレミー、お願い。止めて……」
「わかって、アヴェリン……僕だって、できるだけ長く二人でこの旅を続けていたかった。こんな形で終わるのは残念だけれど、僕には君の命が一番大事なんだ。だから……」
 声が震えるのをこらえようとしたが、出来なかった。
「トロント市へ行くよ。そこが一番近い」
「ジェレミー……ごめんなさい」アヴェリンはすすり泣いていた。
「泣かないで、アヴェリン。涙で終わりたくはないんだ」
 ジェレミーは唇をぎゅっと噛みしめた。彼の視界も、また涙でかすんでいた。自動運転装置は働かなくなっているものの、各都市のゲートからはシグナルが出ており、それを感知することで、車を誘導することが出来る。そのシグナルを頼りに、エアロカーは無情に進み続けていた。二人の旅の終わりへと。

 それからの数時間は、ぼんやりとした悪夢の中にいるようだった。街へ行くことを決意してから二時間あまりのち、到着したトロント市のゲートで二人は身柄を拘束され、警察に付き添われて、市内の病院へと移送された。そこでアヴェリンは診断と手当てを受け、病室に移された。その間にジェレミーは、警察から尋問を受けた。
「逃げようと言い出したのは、僕なんです」
 ジェレミーは青ざめながらも、そう主張した。
「彼女は嫌がったけれど、どうしてもと言って、無理やり連れてきたんです。僕は彼女が他の男性のものになるのが、我慢できなくて、それで……」
「では芸能局には、そう報告して良いのだね、ジェミー・キャレル。いや、ジェレミー・ローリングス」取調べを担当している警官は、重々しい顔で確認してくる。
「わかっていると思うが、君の罪は重大になってしまうぞ」
「わかっています。覚悟の上です。それに、それは事実ですから」
「では、そう報告しよう」
 警官が報告をしようと立ち上がった時、アヴェリンの担当医師が部屋にやってきた。
「どうですか、先生!」
 ジェレミーははじかれたように立ち上がり、問いかけた。
「肺炎を起こしかけていました。でも、もう大丈夫です。一週間もすれば退院できると思います」医師は答えた。
「そうですか……よかった。ありがとうございます」
 ジェレミーは安堵のあまり、椅子に座り込んだ。
「それと、もう一つお知らせしたいことがあるのですが」
 医師はジェレミーの顔を見ながら、言葉を継いだ。
「患者さんは、妊娠していますね。胎児の状態からすると、五、六週くらいだと思います」
「ええ!!」ジェレミーは驚きのあまり、再び椅子から立ち上がった。
「アヴェリンに……赤ちゃんが……」
「ええ」
「じゃあ、その子が受胎したのは……五、六週間前?」
「そうなりますね」
 現代は規定出生が主流ということもあり、受胎した時を妊娠一週と数える。そして三八週目の終わりが、出産予定日だ。受胎が五、六週前というと、初めてアヴェリンがジェレミーの部屋にやってきた頃――自分の子だ。他にありえない。ジェレミーはそう直感した。二人の子供が出来ていたのだ。あの夜に。
「僕の子だ……」ジェレミーは深い息を吐きながら、そう呟いた。
「子供……アヴェリンと僕の……」
「血液検査や超音波、その他の結果を検討してみましたが、その胎児が重篤な障害を持っている可能性は低い、と出ました」医師はさらに言葉を継いだ。
「それは、健常児の可能性が高いということですね」
 警察官が確認している。
「ええ。かりに障害があっても、それほど重篤なものではないという可能性が高いです」
 医師が頷くと、安堵の波がジェレミーの体内を駆け抜けていった。
「ではそのことも、芸能局に報告しなければなりません。先生もご協力願えますか」
 警官は医師とともに連れ立って、部屋を出て行った。入れ替わりに別の警察官がやってきて、ジェレミーをアヴェリンの病室に連れて行ってくれた。
「とりあえず、芸能局で処分が決まるまで、ここで待っているといい」
 ジェレミーが病室に入ると、外から鍵が閉まった。軟禁状態とはいえ、二人にしてくれたことに感謝しながら、ジェレミーはベッドの傍らに腰を下した。
 アヴェリンは眠っていた。その顔は青ざめていたが、呼吸は安定している。枕の上に広がった亜麻色の巻き毛が、白い顔を縁取っていた。唇には少しだけ、赤みが戻ってきている。左腕には少しずつ薬剤が身体に流れていくように、点滴パックが付けられていた。ここに来る前に着ていた服は、病院に備えつけのものらしい、白い診療着に変わっている。彼女のバッグはすでに病室に運び込まれていて、着ていた服も隅に置かれたかごの中に、きちんとたたまれて入れてあった。近寄って見たところ、もうすでにクリーニング済みのようだ。
 
 ジェレミーは眠るアヴェリンを、じっと見守っていた。何かを考えようとしたが、頭には何も浮かんでこなかった。自分の未来、アヴェリンの未来、おなかの赤ちゃん――何もかもが、今は真っ白なスクリーンのようで、何も見えてこない。
 やがて、アヴェリンが目を覚ました。最初は薬のせいか、ぼんやりとした認識しかなかったようだが、やがて思い出してきたのだろう。恐怖がその眼に浮かび、そして動かしたその眼が、ジェレミーを捕らえた。
「ジェレミー」アヴェリンは小さく呟いた。その声は震えている。
「ごめんなさい……ごめんなさい、わたしのせいで……」
「大丈夫だよ」ジェレミーは手を伸ばして、アヴェリンの乱れた髪をなでた。
「危なかったんだ。君は、もう少しで肺炎を起こすところだったらしい」
「そう……でも、わたしは別にそれでも良かったのよ。ここに来るよりは……」
「いや、ダメだよ」ジェレミーはきっぱりと遮った。
「それは、前にも言ったことだ。君のことが、何より重要なんだ。それに君の命はもう、君一人のものじゃないんだよ」
「えっ?」
「君を診療したお医者が言っていたんだ。君は、妊娠しているって」
「妊娠……赤ちゃんが、出来たって言うこと……?」
「ああ」
「それなら……あの時に?」
「ああ、間違いないよ。五、六週目らしいから」
「そう……そうなの?」
 アヴェリンは心底驚いたように眼を見張ったあと、そろそろとおなかに手をやった。
「今月来なかったのは、懲罰室にいたり、いやなことを迫られたりしたせいだと思っていたわ。まさか、赤ちゃんが出来ていたなんて……」
「気分が悪いとか、そんな兆候はなかったのかい?」
「いえ……食欲はあまりなかったけれど、それは環境のせいだと思っていたの。悩んだりしていたから……あなたと二人でいた時には、興奮していたのと、外にいたせいだと思っていたわ」
「ああ。それはそう思っても、不思議ではないかもね」
 二人はしばらく黙った。やがてアヴェリンが、すみれ色の瞳に不安の色を宿してジェレミーを見つめ、問いかけた。
「わたしたち、これからどうなるのかしら……あなたは、わたしは……赤ちゃんは……?」
「子供は健常児か、障害はあっても軽い可能性が高いと、先生は仰っていたんだ」
 ジェレミーは紫に煙る瞳でアヴェリンを見つめ返しながら、静かに言った。
「だから、まずは子供が優先されると思う。たとえ芸能局でもね。芸能局は、結婚規定は例外的だけれど、人命優先という社会規定だけは守られると聞いたことがあるから」
「そう……そうだといいけれど……」
「二時間くらい前に、警察の人が芸能局に報告に行ったよ。医局へ。あそこには通信できる端末があるから。結果が出たら、ここに報告に来てくれると言っていた」
「そう……」
 再び、沈黙が降りた。ジェレミーにはそれ以上言葉を捜せなかったし、アヴェリンもまた、そうだったのだろう。アヴェリンは自由な方の手を差し伸べ、ジェレミーはその細い手を、力を込めて握り締めた。アヴェリンの頬を、再び涙が伝った。ジェレミーはもう一方の手を伸ばして、そっとその雫を拭ってやった。時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。

 警官が再び病室にやってきたのは、それからさらに二時間近くたった頃だった。三十代後半と思しき、茶色の髪を短く刈り込み、青いユニフォームに身を包んだその警官は、端末から複写したらしい紙を手に持っていた。後からロボットが一台、ジェレミーの荷物を持ってついてきている。彼らの手荷物はゲートに入る時、一度没収されていたのだ。
「まずは、君の私物を返すよ」
 警官はロボットからバッグを受け取ると、それをジェレミーに差し出した。
「はい。ありがとうございます」
 ジェレミーは半ば機械的に受け取り、傍らに置く。
「それと、その中に入っていた写真に非存在者が写っていたので、処理させてもらったよ」
「えっ? あっ、はい……」
 ジェレミーはバッグを開け、二枚の写真を取り出した。芸能局に入って以来、ずっと持っていたもの――幼い弟を抱いた母の写真と、アンソニー伯父一家の写真。そこに映っていたヘイゼルの姿は消え、五人だけになっていた。彼女が映っていた場所は、背景と置き換わっている。彼は一瞬息をのみ、小さくため息をついて、写真をバッグに戻した。
「さて、それで君たちの処分だが……見るかい?」
 警官は手に持った紙片を二人に差し出しかけ、少し思い直したように再び引っ込めた。
「いや、まずは言ったほうがいいだろう。あとで見たらいい。芸能局から、君たちに対する処分が決まったと通知して来た。まずは、アヴェリン・シンクレア・ローゼンスタイナー、まだデビュー前だが、芸名アリスン・ローレルに対する処分だが……」
 警官は少し間を置いて、読み上げた。
「芸能局所属の身分を剥奪する。規定により、以前専攻していた教育局三級オペレータ職に復帰できるかどうかの試験を受け、可能ならば中断していたコースに戻ること。不可となれば、再度適正試験を受けなおすように。その上で、女子矯正寮に三ヶ月収監する。ただし、本人は妊娠中ということなので、女子矯正寮の入所は、子供が職業適性を受け専門コースに入るか、死亡するまで、猶予する。ただし、ジェレミー・ローリングスとは、どちらにせよ結婚適正があわないので、結婚は不可。両名は今後決して、会ってはならない」
「それでは……わたしは、芸能局追放ということですか?」
「そういうことだね」警官は頷いた。
「君たちがやったことに対する処分にしては、ずいぶん軽いと思うよ。芸能局としてはね。元のコースに戻れればそれでよし、かりに今から適性試験を受け直すことになっても、君はまだ十八だから、十分他の仕事に就けると思う。それに子供が無事に生まれれば、矯正寮収監も現場に出て働くことも、十六年くらいは猶予があるだろう。その間に結婚することになるだろうから、もっと先に伸びる。幸いしたね、君が妊娠していて。さもなければ、もっと重い処分だったかもしれない」
「ええ……」アヴェリンは頷き、ついで気遣わしげに相手を見た。
「それで……ジェレミーの処分は……?」
「ああ、それだね」警官は、ジェレミーのほうに向き直った。
「君も覚悟はしていたと思うけれど……いいかい、読むよ。気をしっかり持って聞いてくれ。ジェミー・キャレルことジェレミー・ジェナイン・ラーセン・ローリングスの思想偏向と逸脱傾向は、デビュー当初から懸念されていたが、ついにこんな事件を引き起こしたことを残念に思う。今後本人の社会活動において、この傾向は重大な妨げになり続けるだろうことが予想されるため、機械カウンセリングにかけるものとする」
 その言葉に、アヴェリンは衝撃で一瞬気を失ってしまったように、目を閉じた。両腕は力を失ったように、だらりとベッドの上におかれている。そしてジェレミーは、一瞬まわりの世界が凍りついたように、目を見開いたまま動きを忘れた。機械カウンセリング――心を破壊する、最悪の処置。恐れていたことが、現実になってしまった。覚悟はしていたことだが、今こうしてその目の前に突きつけられると、ただ言葉を失い、震えることしか出来なかった。
「明日、芸能局から担当官が迎えに来るそうだ。到着は十三時前後の予定ということだ」
 警官はジェレミーに目を注ぎながら、言葉を継いだ。その目は感情を表してはいなかったが、この人が心の隅では自分にいくばくかの同情を感じていることを悟り、ジェレミーは慰められたような気がした。冷笑されながら処置を言い渡されるより、はるかに耐えやすい。それでも恐怖は決して消えはしないが。
「明日十三時に迎えが来るまで、君はここにいるといい。プログラムを切り替えたから、この病室は中からドアを開けることは出来ないからね。洗面所とトイレはその隅にある。部屋には長椅子もあるから、そこで眠れるだろう。芸能局の担当官さんも、それでいいと仰っている」
「そうですか。ありがとうございます」
 ジェレミーは緊張を隠せないながらも、頷いた。これで明日のお昼までは、アヴェリンと一緒にいられる。そこから先は、もう二度と会えないのだろうが。
「それで、君のほうは」警官はアヴェリンに目をやった。彼女は一瞬失神したような状態になった後、すぐに目を開き、呆然とした様子で宙を見ていたのだ。
「一週間後に退院となるだろうから、そこからまっすぐシカゴ市の自宅に帰るようにということだ。芸能局は、すでに君の家族に連絡を取ったそうだ。君の母親が明後日ここに来て、君が退院したら一緒に帰るらしい。芸能局の寮にある君の私物は、今日中に自宅に送り返されるそうだ。それから君はまだデビュー前ということで、芸能局でレッスンなどにかかった費用を君や君の家族に請求することも考えたそうだが、君はこれから子供を養育しなければならないので無理だろう、ということで見送りになったそうだ。その代わりに矯正寮で労働三ヶ月ということらしい」
「はい……」彼女には、どこまでその言葉が入ったのかわからないようで、視線も動かさず、青ざめた顔のまま、呟くようにそう答えている。
 警官はかすかに苦笑を浮かべて、首を振っていた。
「ここに芸能局から送られてきた処分書の写しを置いておくよ。後でもう一度見たらいい」
 警官は小テーブルの上に、手にしていた紙を置いた。そして出て行こうとしたが、立ち止まり、ポケットからたたんだ紙を引っ張り出した。今では紙を使うことはあまり多くはないが、時々は印刷用に使う。この紙もそうで、裏にはなにやら印刷してあった。警官はその紙とペンを持って、ジェレミーの前に来た。
「そうそう、これをやると公私混同になるが、少しくらいはいいだろう。上の娘がファンなんだよ、ジェミー・キャレル。サインをもらえるかな。去年のサイン会に行きそびれて、泣いていたんだ」
「えっ、ええ。喜んで」
 ジェレミーは当惑と面映さを感じながら、ペンを走らせた。だからこの警官は自分たちに、ある程度の親しみを持ってくれていたのかと思いながら。そしてその娘のためにも、職務の秘密は守ってくれるのだろう。そうも思えた。

 警官が部屋を出て行くと、再び二人きりになった。二人はしばらく言葉もなく、互いに見つめ合っていたが、不意にアヴェリンが激しくむせび泣いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ジェレミー……」
「なぜあやまるんだい、アヴェリン」
「だって……わたしだけ軽い罰で、あなたは……あなたは……」
「覚悟はしていたさ」
 声が震えるのを懸命にこらえながら、ジェレミーは手を伸ばし、恋人の髪をなでた。
「それに、良かった。君の処罰が軽くて。おなかの赤ちゃんのおかげだね。僕らの子供の」
「ええ……でも……」
「君はもう、一人の身体じゃないんだから、その子のためにも、しっかり生きて行ってほしいんだ。僕は自分の子供を見られないと思うと悲しいし、何も出来ないのが悔しいけれど、でも君とともに僕の子供が生きているんだと思うと、とても救われる気がするよ。たとえ……」ジェレミーは一瞬、言葉をのんだ。そして少しの沈黙の後、言葉を継ぐ。
「僕の心がなくなってしまっても、いや、肉体が死ぬまで、精神が深い眠りにつかされていても、僕の魂は、君とともにあるから、アヴェリン。忘れないから、絶対に。君と子供のことは。誓うよ。たとえ心の奥深くに封じ込められたとしても」
「ジェレミー……」アヴェリンは何も言えないように、ただ泣きじゃくっていた。
「あまり悲しみすぎないで。おなかの子供に良くないかもしれないから」
 ジェレミーは再び手を伸ばし、その手を握った。
「君は君の心を持って、これからも生きていってほしい。僕らの子供を、頼むね。僕の分まで、愛してやって。お願いだよ」
「ええ……ええ、もちろんよ。絶対にこの子は元気に産んで、育ててみせるわ」
「よかった……」ジェレミーは微笑んだ。そして身をかがめ、キスをした。
「愛しているよ、アヴェリン」
「わたしもよ……」
 時間は過ぎていった。夜が更け、アヴェリンが眠ってしまったあとも、ジェレミーは目を覚まして、じっとその寝顔を見つめていた。己の目に、心にその姿を焼きつけておこうと。彼女のことを、その中で育まれている、自分たちの子供のことを、そして二人で過ごしたこの一週間の思い出を。

 翌日、切なくも美しい午前の時間が過ぎ去って間もなく、別れの使者がやってきた。ジェレミーの担当監督官、イーザン・ハワード氏は、ほぼ時間通りに病室を訪れた。監督官はかなりがっしりした体格だったが、この十日足らずの間に少しやせたようで、目の下のしわも深くなり、髪に混じった白いものも、かなり割合が増えていた。
 監督官の姿を見た時、ジェレミーは激しい叱責の言葉を予期した。しかし彼はただ薄い灰色の目でじっとジェレミーを見、低い声でうなるように短く言っただけだった。
「バカめが……」
 そしてくるっと背を向け、再びドアの外へ出て行った。
「五分間だけ、時間をやる。私は外で待っている。時間になったら合図をするから、荷物を持って出て来い」
「ありがとうございます……」
 ジェレミーは驚きながら、口ごもった。与えられた時間を、無駄にはしたくなかった。ジェレミーは恋人を抱きしめ、そのぬくもりを身体に刻みつけようとした。アヴェリンも同様だったようだ。二人はかたく抱きあった。
「さようなら、アヴェリン……」
 ジェレミーは声を震わせ、告げた。
「忘れないよ、君のことは。忘れたくないよ。元気で……それから、子供をよろしく」
「行かないで、ジェレミー」
 アヴェリンはしゃくりあげながら繰り返した。
「行かないで、お願い……お願いよ……」
「僕も行きたくはなかった。ごめんね、アヴェリン」
 ジェレミーは愛する女性にキスをした。万感の思いを、その中に込めて。
「ごめんなさい。そうよね……ジェレミー。わたしもあなたのこと、絶対忘れないわ。一生愛し続けるわ。たとえあなたが……今のあなたが失われてしまったとしても。もう会えなくても。赤ちゃんも……立派に生んで、育てて見せるわ。大丈夫……わたしは大丈夫」
「僕も君を愛しているよ、アヴェリン。いつまでも……」
 その時、軽くドアを叩く音が聞こえた。時間が来たことの合図だ。ジェレミーは自分のバッグを取り上げ、もう一度だけアヴェリンに触れた。
「アヴェリン……元気でね」
 それだけ言うのが、精一杯だった。ジェレミーは身を引き裂かれるような思いで、病室をあとにした。彼の名を呼ぶ愛しい人の声を振り切るようにして。そして二人を永遠に隔てるかのように、ドアが閉まった。




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