Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第七章 風に乗って(3)





 目覚めた時には、太陽が地平線に昇ろうとしていた。二人は外に出、狭い場所で寝たために少し硬くなった身体を伸ばしてから、あたりを少し散歩した。短い草の茂る大地の向こうに切り立った岩山があり、東の方には湖があった。空気は冷たかった。
「今、どの辺りにいるのかしら」
 アヴェリンは湖の水面に目をやりながら、問いかけた。
「モントリオール市から北に七、八百キロくらい来たあたりだと思う。進路を真北にとって、時速百キロくらいで七、八時間飛んできたから。一回車に戻って、地図を確認しようか」ジェレミーはエアロカーを止めた地点まで戻ると、運転盤の地図を見た。
 現在地確認のチップを外したので、今どこにいるかはわからないが、地図をたどると、だいたいの現在地は見当がついた。かなり北のはずれだ。あと二、三時間も飛ぶと、海に出るだろう。大小の島はあるが、北極圏に入るため、気温も低い。下の地面も凍っていることが多いだろう。休憩や食事をしたり、眠るためにキャンプをしたりするのに適した場所ではない。
「もう少し南に戻ろう」
 パンとジュースの簡単な朝食を取りながら、ジェレミーは提案した。
「そうね。あまり北に行くと寒いし」
 アヴェリンも頷いた。そして二人でもう一度、地図を確認する。
「でも、南に行くと、またモントリオール市に戻ってしまうね。もう少し西か東へずれた方が良いけれど……とりあえず、南西に行こう」
 エアロカーは再び発進した。南西の方角を目指して。
 車の中で、アヴェリンは聞いてきた。
「ねえ、ジェレミー。最初に北へ行こうと思ったのは、なぜ?」
「そうだね……漠然とだけれど……あまり周りに街のないところへ行きたかったんだ。半日も飛ぶと別の街に来てしまうようなところだと、なんとなく落ち着かないと思ったから」
「そうね。見つけられてしまう可能性も、高くなるかもしれないものね」
「そう。追っ手がかかるにしても、起点の街から遠い方がいい。その分だけ、時間が稼げる。だから、そうだ……南へ行くのは危ないね、やっぱり。このまま西に行こう」
 そして再び、エアロカーは進路を変えた。
「……どのくらい、こうしていられるかしら」
 アヴェリンはポツリと呟いた。
「わからない。少なくとも食料は一週間分くらい買っているけれど……食べ物が尽きると、難しいね。それより前に、っていうこともありえるけれど」
「そうね」
 しばらくの間、沈黙が流れた。
「後悔している、アヴェリン?」
「ううん、全然。ただ……この時が終わってしまうのが、怖いわ。いつかは来てしまうのだということが」
 ジェレミーは無言で、彼女のか細い肩を抱きしめた。
 
 途中二度ほど休憩し、昼食も取り、午後の日も半分ほど傾いてきた頃、ジェレミーは行く手に小さなドームを見つけた。
「レインボーシティだ」
「えっ、あの最北端の町?」
 アヴェリンも驚いたように、前方に目をやっている。
「こんなところにあるのね、レインボーシティ。どうするの?」
「あまり近づきたくないな」
 ジェレミーは進路を東に変えた。ともかく、人のいるところからは遠ざかりたかった。その夜も岩陰にエアロカーを止め、星空を眺め、抱き合い、簡単な食事を取り、そして車の中で眠りについた。

 翌日、二人は北東に飛び続けた。お昼を過ぎた頃、眼下に流氷が流れる海が現われた。
「ああ、海の上に来てしまったね」
 ジェレミーは真下に広がる風景を見ながら、小さく肩をすくめた。
「一回南に戻ろう」
「そうね」
 ジェレミーは進路を変更しようとした。ここはかなり北だ。北東にせよ北西にせよ、北へ向かって飛んでいけば、やがては凍りついたツンドラか凍った海の上に出るのはわかっているのに――自嘲気味に、彼はそう考えた。人が少ないのはたしかだが、車の中で半野宿しなければならないのに、寒いところへわざわざ行こうとするなんて――。
 ジェレミーは運転盤の地図に目を落とした。たぶん現在地に近いであろう場所の地図を、あらかじめスクロールさせて出してある。
 あっ、ここは――気づいて、身体に電流が走り抜けたような気がした。もしかしたら自分は今、かなり近いところにいるのではないか。あの新世界発祥の地――旧世界が滅びた時、唯一救われた場所、アイスキャッスルに。この流氷の流れる海の上をずっと北に飛んでいけば、その先の島にたぶんあるはず――。
「アヴェリン。寒くて悪いんだけれど、もうしばらくこの海の上を北へ行っていいかな」
 ジェレミーは頭を振り、唇を軽くかむと、連れに向かってそう声をかけた。
「え、ええ……わたしはかまわないけれど。あなたの行く場所なら。でも、どうして?」
「ここまで来たら、アイスキャッスルを見ておきたいんだ」
「アイスキャッスル……あの、新世界が始まったという場所?」
「知っているの、アヴェリン?!」
「ケン兄さんが教えてくれたの」
「ああ、学術の? ということは、お兄さんもあのファイルを見たのかな?」
「ジェレミーも? そうよね。アイスキャッスルを知っているんですものね。でも、あなたは学術ではないでしょう?」
「ああ。でも僕も見たんだ。学術の従兄が共同閲覧させてくれて。君も?」
「わたしは共同閲覧の許可は下りなかったの。まだ適正テスト前だったから。本当はわたしにしゃべったのも、違法なのよね。でも兄さんはあまりに感激したらしくて、ついわたしにしゃべってしまったのよ。兄さんに言わせれば、ほんの少しだけらしいけれど。でも、それがわかったら学術員の資格を剥奪されるから、絶対誰にも言わずに秘密にするようにって言われたから、今まで黙っていたの」
「誰にも言わずにいるのは、たしかに重たいよね。お兄さんの気持ち、わかるよ」
 ジェレミーは苦笑した。
「新世界の発祥の地って、今はどうなっているの?」
「さあ、わからない。少なくとも新世界発祥関連の資料が書かれた二四世紀には、慰霊塔とそこで亡くなった人たちのお墓と、礼拝堂があるという話だった。でもそれから……今は四十世紀だよね。だから十六世紀……千六百年もたっている。僕らは一般教養で、新世界発祥の地はオタワだと習ってきている。アイスキャッスルのことは、二七世紀からずっと、一般には言及されていない。一般図書の記録にもないって、前にパットが――僕の学術の従兄だけれど――そう言っていたんだ。だから少なくともその千三百年間は、放っておかれている可能性も高いね。いや、最悪取り壊されていて、何もなくなっている可能性もあるよ」
「そうなっていたら、見つけられないんじゃない?」
「そうだね」
 しかし海の上をさらに北に向かうと、雪に覆われた島の中に、ぽつんと白い小さなモニュメントが見えてきた。
「あれがそうかしら」
「そうかもしれない」
 ジェレミーは胸の鼓動が早くなるのを感じながら、車を進めた。そう、たしかにあれは――エアロカーを着地させ、ジェレミーは夢中で飛び降りた。続いて、アヴェリンも降りてきた。北の果ての島は寒く、身を切るような風が時折吹いてくる。アヴェリンはあわてた様子で車に引き返し、セーターと上着を着込んで、マフラーを首に巻き、毛布を腰に巻きつけたが、ジェレミーは戻ろうとはせず、そのまま前に進んでいる。
 
 アイスキャッスルの慰霊碑は、底辺は一辺が約四メートル、上辺は三メートルほどの台形で、高さは五メートルほどの白い大理石を張った台座の上に、新世界の国旗図案である星と子供――元は創立先導者たちのバンドのマークであったというあの意匠が、白い石膏彫刻となって、のっていた。台座に取り付けられた金色のプレートに書かれた言葉は、上から強化アクリル板でカバーされているため、今も読める。
【安らかに眠ってください。あなたたちの心は、いつまでも私たちの中にあります。私たちの新世界を、未来を見守り、一緒に築いていきましょう】
 しかし台座に直接刻みこまれた二千五百人近い名前は、長い年月、雪と風にさらされたせいだろう。線は浅くなりお互いにくっつきあって、ほとんど読めなくなっていた。
 ジェレミーは長い間この慰霊碑を見つめていたが、やがて歩みを進め、広場のようなところへと出て行った。しかし、そこは広場ではなかった。およそ一メートル間隔で、五十センチ四方の、白いプラスティックのプレートが並んでいる。数を数えてみると、一列に五十あった。そのプレートの列が、二メートルほどの間隔を置いて、並べられている。四九列。これはここで亡くなった人たち一人一人の墓標なのだ。しかし、そのプレートに書かれた文字はほとんどが消え、慰霊碑同様、判読が出来なくなっていた。
 彼らはやはり、歴史とともに、忘却の彼方に沈んで行ってしまうのだろうか――。
 もう四年以上も前のあの晩、パトリックの部屋で読んだ新世界創設のレポートが、頭によみがえってきた。新世界に参加することなく力尽きた、二千数百人の人々。彼らが歴史の波間に消えてしまわないよう、この慰霊碑は、この共同墓地は建てられたはずで、実際に二四世紀に創生の物語が明らかにされてから何世紀かの間、ここには多くの人が訪れ、先駆者たちの苦難に思いをはせたという。しかしさらにそれから千数百年がたった今、もはや個々の名前は風化してしまい、読むことは出来ない。
 ジェレミーはしばらく墓地の間を、あてどなくさまよった。もはやどれがどの人だかわからず、もとより彼には面識のあるはずもない人たちではあるのだが、ファイルに記載のあった創立先導者の一人を見出すことも出来なかった。でも、もう一人は――ジェレミーは立ち止まり、辺りを見回した。あの人は――あの人は遺体が残らなかったため埋葬できず、代わりに礼拝堂を建てたというが、しかしその礼拝堂というのは、どこにあるのか。見渡す限り、慰霊塔と、規則正しく並んだ足元のプレートのほかには、何もなかった。取り壊されてしまったのだろうか。音楽の封印とともに、新世界の守護神は不要なのだと。
 何かが心の中で崩れていくような気がした。自分が無意識に北を目指したのは、ここへ来たかったからなのかもしれない。しかし、ここへ来て、何をするつもりだったのか――アイスキャッスルは千年以上もの間打ち捨てられ、人々から忘れ去られている間に、その存在意義も失ってしまったかのようだった。いや、実際にこの世界の人々は、ここの存在など、知りもしないのだろう。新世界創世の物語も、あの音楽も。そうして永遠に忘れ去られていくのかもしれない。
 幻でしかなかったのだろうか――あれほど自分を突き動かした、音楽への情熱さえも。しんと静まり返りったこの場所に立っていると、心の底からその思いが突き上げてきた。あの音楽も、このアイスキャッスルと同じだ。存在も知られず、消えていく。永遠に。結局自分がやろうとしてきたことは、叶わない夢でしかないのだろうか。この四年間は、まったく無駄だったのだろうか。この北の果ての廃墟と同じに。
 涙が溢れてきた。これ以上立っていることが出来ず、ジェレミーはひざまずき、天を仰いだ。でも、おそらくこれで良かったのかもしれない。この旅にいずれ訪れる終わりの時、少なくとも自分の夢に苛まれることはなくなるかもしれないのだから。ここで夢の終焉を悟った今は。

 肩に手がかけられるのを感じて、ジェレミーは振り返った。アヴェリンが心配げな顔で片方の腕に上着を抱えて、気遣わしげに見ていた。
「大丈夫、ジェレミー?」
「ああ、アヴェリン。恥ずかしいね、泣いたりして」
 ジェレミーは寂しげな笑みを浮かべて立ち上がった。
「恥ずかしくはないわ。わたしもなんだか泣きたくなってしまったもの。ここは、寂しいところね。寒くて、冷たくて、寂しく、悲しい……こんなところから、新世界が始まったなんて。そしてここから世界がまた始まったっていうのに、今こんな有様だなんて」
 ジェレミーはアヴェリンの手を握った。彼女はやはり、自分と同じ人種だ。同じ思いを共有できる仲間という意味で――かつてマーティンがジェレミーはパトリックと同じ人種だといった、まさにその感覚が、アヴェリンにも存在するようだった。だから自分は彼女を愛しているのかもしれない。それが理由のすべてではないが。
「ありがとう、アヴェリン」
「上着を着ないと、寒いわよ。風邪を引いてしまうわ。車に戻りましょうよ、ジェレミー。ここはあまり長くいるような場所じゃないと思うの。日が暮れる前に、もうちょっと南に戻った方がいいんじゃないかしら」
「そうだね」
「このプレートは、まるでチェス盤のようにきれいに並んでいるわね。これは、何なのかしら」アヴェリンは足元に目をやっていた。
「これは、ここで亡くなった人たちのお墓なんだよ」
 ジェレミーは視線を落とした。
「お墓……?!」
「ああ。あの資料に書いてあったんだ。ここには慰霊碑とここで亡くなった人たちのお墓と、小さな礼拝堂があったって」
 彼女の兄がアイスキャッスルのことをうっかりしゃべってしまった、とアヴェリンが言っていたが、本来秘密にしなければいけないことだったため、そこまで詳細には妹に言わなかったのだろう。そう思いながら首を振ると、ジェレミーは再び足元を見つめた。
「でも、墓標はもう読めないんだ、ほら」
「本当ね。これだけだと、なんだかわからないくらい」
 彼らは歩き出した。日はかなり傾き、あたりは金色に染まっていた。
「そういえば、向こうの方に、同じ白いプレートが一つだけ、ぽつんとあったのよ。あれもお墓なのかしら」
 歩きながら、アヴェリンが首をかしげて言った。
「一つだけあるプレート? どこに?」
「あそこに」アヴェリンは慰霊塔を指差した。
「あの慰霊塔の後ろ、十メートルくらいのところかしら」
「そう。なんだろう。ちょっと行ってみてもいいかい?」
「ええ」
 ジェレミーはアヴェリンの言う場所まで行ってみた。そこには墓地のものより少し大きい、長方形の白いプレートが置いてあった。その表面には、何も書かれていない。他のプレートのように文字が書かれた形跡すらなく、つるりとした白さだった。しかしジェレミーは、このプレートの意味が理解できたような気がした。これはたぶん、かつてここにあったのだろう礼拝堂のかわりに置かれた、あの人の墓碑なのだろう。
 ジェレミーは屈みこみ、そっと手を触れてみた。プレートそのものは、風などで飛ばされたりしないよう、かなりの重さがある。しかし、これは他の墓標のように固定されていないようだった。実際に力を入れて押してみると、かすかに動いた。
「え?」少し意外な気がしたが、でももともと、あの人に墓はないのだ。この下に眠っているわけではない。だから固定せず、置いただけなのかもしれない。
「動くの、これ?」アヴェリンは興味深そうに、覗き込んでいた。
「そうみたいだね」
「あんがい、この下に隠し階段があるかもしれないわよ」
「え?」
「嘘よ、冗談。昔兄さんと読んでいた小説にそんな話があったから、言ってみただけ」
「そう」ジェレミーは微笑した。でもあながち、荒唐無稽な話ではないかも。そうも思え、力を込めてプレートを押してみた。プレートが完全にずれると、その下に透明なアクリル樹脂板が現れた。そしてその樹脂板は、スライドドアのように手で開くことができた。
「えっ、まさか本当に隠し階段なの?」
 アヴェリンが驚いたように見ている。
「いや、階段じゃないみたいだ」
 ジェレミーは息を呑みながら、なおも覗き込んだ。
 そこは地下室のようだった。開いた入り口から地下の壁に沿って、縄梯子が下がっている。入り口は人一人がようやく通れるくらいの狭さだった。ジェレミーは梯子を伝って、下へ降りてみた。内部は真っ暗かと思ったが、意外に灯りがある。天窓のような入り口から漏れる光のほかに、一方の壁にライトが埋め込まれていた。たぶん小型の発電地が地上のどこかに埋め込まれ、電力を供給しているのだろう。この部屋全体に、ぽうっと光を投げかけている。内部は二・五メートル四方くらいの広さがあり、壁は土壁ではなく、建材が埋め込まれ、白い壁紙が張ってあった。床はモケット張りのような、青いマットが敷き詰められている。ジェレミーは四方の壁を見回した。そしてライトが埋め込んである反対側の壁を見た時、思わず息を呑んだ。彼はそこにいた。長い光色の髪、両側に青い髪が二筋、白いブラウス、左手に金色の尺杖のようなマイクを捧げて。
「守護神 (ガーディアン) ……」
 ジェレミーは呟いた。もとの礼拝堂は取り壊されたものの、この肖像画だけは当時の政府も、処分に困ったのだろう。彼らにも、多少なりと畏敬の念があったのかもしれない。だから人目につかぬ地下に礼拝堂を『移設』したのか――。
【過去は大切に思うだけで良い。昨日ではなく明日を見つめて、進んでいこう。愛と希望と勇気をもって。一人一人が英雄になれば、世界はまた輝き始めるから】
 その言葉も、そのままあった。肖像画の下に。金色のプレートに書かれたその字は、まだ読めた。肖像画もまだ色を保っている。建物はなくなっても、地下に移設されたことで、風雨から守られてきたのだろう。
 アヴェリンが後から、好奇心と不安が入り混じったような表情で、ゆっくりと降りてきた。そして内部の様子に驚いたようで、ジェレミーのそばに立ち、その腕を取った。
「この人は……?」
「僕が目指している人……新世界の守り神だった人。遠い昔に」
「そうなの。この人が……」ジェレミーの腕を握るアヴェリンの指に力がこもった。彼女もまた、息をのんでいるようだった。
「この人は……まるで女神様のようね。でも、なぜこんなところに?」
「男の人なんだけれどね、一応は……きっと、処分ができなかったんだと思うんだ、畏れ多くて。だから地下に移したんじゃないかな」
「そう……」アヴェリンは肖像を見、そして回りを見た。
「今日はここで寝ましょうか」
「えっ?」
「今から南に向かっても、海の上で日が暮れてしまうわ。それにここ、わりと暖かいし、マットもあるし」
「まあ、たしかにそうだけれど。ここで……なんだか不敬な気がしてしまうよ」
 ジェレミーは苦笑した。
「でも、ポスターが壁に貼ってあるのと、同じようではないこと?」
「ああ、そう見れないこともないけれどね。そうだね。ここだと手足が伸ばせそうだから。じゃあ、車から荷物と毛布を持ってくるよ。すみません……ではちょっとお邪魔させてください、失礼します」
「誰に言っているの?」
「いや、なんでもない。でも僕にはただの絵だと思っても、どうしても、ね」
「新世界の守護神が、こんな狭苦しい地下にいるわけはないわ」
「そうだね」
 アヴェリンはくすくす笑い、ジェレミーも微笑と苦笑が同時にこみ上げてきた。そう、本当のあの人は、自分たちとは違う世界のどこか、どこか遠いところにいて、見ている。そんな気がした。
 その晩、地下の礼拝堂で眠りに着くころには、ここに来た時に感じた絶望感は薄れていた。希望はまだあるのかもしれない。たとえ地中に埋もれてしまっていても。

 取り巻いているのは、闇ではなかった。白っぽい光に包まれているようだ。映像はなかった。ただ白い霧のような光が回りにあり、そして声が聞こえてきた。
(ジェレミー・ローリングスさん……)
 明るく、清澄で、優しく柔らかな、しかし荘厳な響き。まるで金の鐘が静かに鳴っているような――。
(ここに来たのですね、アイスキャッスルに。滅びから唯一逃れえた救いの地。そして、苦難と嘆きの地に)
『はい……でも、あなたはどなたですか……』
 ジェレミーはそう問い返していた。同時に思っていた。夢の中の声――でも、これはジェナインとは違う。明らかに女の人で、そして清らかな光を感じさせる。同時に、かすかな意識の底で感じていた。自分はこの声に聞き覚えがあると――遠い昔に。
(わたしは今なら、あなたに少しだけ接触できます)
 それには答えず、その声は続ける。
(この地には、かつてのわたしの念、思いの残像が残っていますから。わたしの記憶の中に。しかし、わたしを守護神(Guardian)と呼ぶのは止めてください。そういうプログラムなのですから、致し方ないとはいえ、そしてそれはすべての起源子に共通のものだとはいえ、わたしはどうもその呼び方には、抵抗を感じてしまうのです。見てはいますけれど、守れはしないので。多少は干渉しますが。でもこの世界は基本的に、守られていますよ。わたしではなく、もっと大きな力に)
『えっ……?』
(でも、せっかくここまで来てくれたのですから、ヴィヴァールが記憶の残像をあなたに見せたように、わたしもあなたに、わたしの記憶の残像を見せようと思います。いえ、映像は少し控えましょうか。場面が場面なので。音だけでも、聴いてみてください)
 その言葉に対し返答するまもなく、音楽が聞こえてきた。優しいシンセサイザーの響き、それに絡んでいくギターの音色。緩やかにうねるベースとドラムス。そして歌が入ってきた。この上ない清澄なトーンで、優しく、穏やかに、しかし限りない熱意を込めて。

 僕らの世界は跡形もなく壊れた
 もう取り戻せない、壊れやすい夢のように
 見渡す限り、不毛の荒野が広がり
 すべての命も、築き上げたものも返ってこない

 二つの世界の狭間に立って
 永遠に続くかのように見える長く冷たい夜の中
 失ったものすべてに思いをはせ
 愛するものや友たちのために嘆く

 でも僕らに何が出来るだろう
 今出来ることは、なんなのだろう
 失ったものは二度と戻ってくることはない
 僕らに出来ることは、また新しく作り直すことだけ

 過去やいとおしい思い出を胸に抱いて
 未来にはまた、何かを得られると信じて
 今、道は壊れてしまったけれど、ここからまた作っていける

   世界の狭間に立って
   二つの世界を眺めている
   一つは終わってしまったもの、
   もう一つは、これから築いて行くもの

   さようなら、僕らの世界
   もう永遠に失われてしまったもの
   過ちは犯したかもしれないけれど
   誰も責めはしない
 
   こんにちは、新しい世界
   生まれたばかりの幼い国よ
   壊れやすく、それでも力強く
   僕らの流した涙が作ったもの

   新しい世界が上ろうとしている
   伸びろ、そして広がれ、いつまでも
   おまえは僕らの祈りで築かれた、すべての希望
   新世界は昇る、ここから、はてしなく
   そのために、僕らはここに生きてきたのだから

 聞いたことのない曲だった。だがそこには、異様な感動があった。悲嘆、苦悩、絶望、そしてそれらを乗り越えてなお生きようとする力が、未来に対する真摯な祈りがあった。浮遊するような、美しい、しかしそれだけではない個性と力強さを持ったメロディは非常に印象的で、衝撃的だ。そう、彼らの音楽を聴いた時のように――。
 これは誰の曲だろう。いや、間違いない。この声は――あの人だ。そして絡みつくようなギターの音色、他の楽器群の調和。そう、これは彼らの曲なんだ。二つの世界の狭間に立って作られた、彼らの曲なんだ――。

 目覚めた時、涙がとめどなく流れていた。天窓からは、光が差し込んでいた。もう朝になっているのだろう。傍らではアヴェリンが、まだ眠っていた。安心しきったような、安らいだ寝顔だった。しかし閉じた目から頬に、涙の筋が伝っている。どんな夢を見たのだろう――ジェレミーは恋人の寝顔を眺め、そして壁の絵に目を移した。
「守護神 (ガーディアン) ――僕は、負けたくないです。あなたのようにはなれないけれど、でも僕は、少しでもあなたに近づきたい。そしてこの世界を、あなたがたが悲しみの中から残してくれたこの世界を、また混沌の中で終わらせたりしたくない。そのために僕に何が出来るのか、どうすべきなのかわからないけれど、でもひとつだけ、僕は誓います。状況がどんなに絶望的でも、決して希望だけは捨てませんと」
 思わずそう言葉に出してしまった後、不意に思い出した。夢の中の声は言っていた。(わたしをガーディアンと呼ぶのは止めてください)と。では、あの声は――彼なのか。いや、でもあの声は、明らかに女性だった。この人も非常に女性的エッジを含んだ中性的な声ではあるが――そういえば、あのファイルに書いてあった。彼は潜在的には両性だと。もしかしたら、この彼の姿は一時的なもので(この姿でさえ、非常に女性的な要素を含むが。アヴェリンが女神様のよう、と言ったほどに)、この人の本質は、女の人なのかもしれない。
『たぶん、それで当たっているよ』
 心の中から、別の声がした。それはジェナインのようだ。
『なんだか凄く懐かしかった、僕は。なぜだかわからないけれど……』
「そうなんだ……」
 ジェレミーは不思議な思いにとらわれ、頭を振った。
 天窓から漏れてくる光は、かなり弱かった。ジェレミーはここに持ち込んだバッグの中から、携帯時計を探した。八時を回ったところだった。朝にはなっているはずだが、天気があまり良くないのか、それとももともとこのあたりの日差しは弱いのか、よくわからなかった。
 ジェレミーは起き上がり、そっと縄梯子を伝って天窓を開け、外へ出てみた。空は灰色で、重くどんよりとしていた。ジェレミーはもう一度、地下へともぐった。

 ちょうどアヴェリンが目を覚ましたところだった。目をこすり、回りを見回し、少し怪訝そうな表情になったあと、昨夜ここで寝ることになった経緯を思い出したらしい。彼女はほっと一つため息をつき、軽く頭を振った。
「なんだか、変な夢を見たわ」
「どんな夢?」ジェレミーはその傍らに腰をおろしながら、聞いた。
「あのね……」アヴェリンはもつれた髪を手で撫で付けるようにしながら、目を上げて壁の肖像を見、次いでジェレミーに目を移した。
「ここが、こんなにまったいらで何もないところではなくて、奇妙な形の、そうね、たぶん四つか五つくらいのビルの上から、銀色の風船のようなドームがかぶっているような、そんな感じのところで、わたしは泣いていたのよ。行かないで、行かないでって。何かものすごく悲しくて、胸が引き裂かれそうで……わたしが愛している人が行ってしまうって、夢の中でそう思っていたの。次に場面が変わって、その人が帰ってきて、わたしは夢中で駆け寄るのだけれど、それが……あの人なの」
 アヴェリンは再び目線を壁に向けた。
「えっ、あの人? ……守護神 (ガーディアン) ?」
 本人には抗議されたものの(たぶん、そうなのだろう。ジェナインもそう言っていたし)、ジェレミーには他に呼びようがなく、思わずそう声を上げた。
「そう。彼はわたしに黄色い包みのキャンディを手渡して、かすかに笑いながら言うの。『君は生きて……』って。その瞬間、わたしは涙があふれてきて止まらなくて……そして思っていたの。ああ、わたしもジェレミーに劣らず、この場所に惹かれて、ここへ来たんだ。再びあの人に会うためにって」
「それって……でも、どういう意味だい? 君は彼をここで肖像を見るまでは、知らなかったんだろう?」
「ええ。そうよ。だから、言ったじゃない、変な夢だって。もしかしたら、昔の人の魂が……あの人の奥さんか恋人の、記憶かなにかをわたしの中に落とし込まれたみたいな、そんな感じだったのよ」
「そうなんだ……」
「それに、なんだか不思議な感じもしたわ。ここに来るのはわたし、初めてなのよ。なのに昨日眠る時、また帰ってきた、そんな気もしたのよ。ねえ、もし幽霊とか……いいえ、そんなものはいないのはわかっているけれど、ちょっと怖くなってきたわ。考えてみたらここって、二千五百人近くの人が、亡くなっているわけでしょう。その人たちの念が二千年たっても、まだこのあたりに残っていたら……」
「そんなはずはないよ」
 この言葉は自分で思う以上の確信を持って、ジェレミーの口から出てきた。
「安っぽい娯楽小説やドラマじゃあるまいし、幽霊なんていやしないさ。たぶんね、アヴェリン、君の魂の奥深くの何かが、この場所に共鳴して、古い記憶が呼び覚まされたんじゃないかな?」
「古い記憶って」
「君が君になる前の記憶かもしれないね」
 ジェレミーは不思議な感じがしていた。まるで自分自身がしゃべっているのではなく、どこか違うところから、自然に言葉が沸いて出るような感覚だった。もしかしたら、双子の兄弟ジェナインが何か言おうとしているのかもしれない――半ば直感で、そう感じた。彼の意思が言葉を通して、観念として流れ込んでくるようだった。
「どういうこと?」アヴェリンは心底不思議そうな顔をしていた。
 この時代では、宗教を初め、精神的な概念はかなり即物的になっている。神様という概念はあるが、それは『運』をつかさどる漠然とした存在という捕らえ方でしかない。試験で自分が勉強した問題が出るか、店で自分のほしい商品を見つけられるか、たまに放送プログラムで募集する懸賞に当たるか、そういう『運』を決めるのが神様というわけだ。そして『運』自体、考える人はかなり少ないというのが現状である。娯楽小説やドラマなどで、『神様お願い、良い人に会わせてください』という台詞が時々見られる程度だ。それにはたいてい、『神様にすがるなんて、努力が出来ない言い訳に過ぎない』と冷笑される落ちがつく。今生きているこの人生のみしか、人々は考えない。誕生は無からの生産、死はすべての消滅。それが一般的な考え方だ。娯楽分野では幽霊という概念は存在するが、あくまで架空の産物だということは、みなわかっている。
「この人生だけが、すべてじゃないとしたら」
 ジェレミーは半ば衝かれたように話し続けた。
「君が君として生まれる前に存在していた別の人生があって、君が死んだあとも、また別の人生があるのだとしたら。人は何度もこの世に生まれて、死んでいくのだとしたら」
「生まれて、死んで……また、別の人として生まれるの? 未来に?」
「ああ」
「そんなこと……ありえないわ」
「どうして?」
「だって、死んでしまったら、すべてがなくなるのよ。何も見えない、何も聞こえない。記憶もなくなる……だって、身体がなくなってしまうんですもの」
「身体がなくなっても、なくならないものがあるかもしれないよ」
「霊魂のこと? いやだわ、ジェレミー。あなたが空想小説好きだとは思わなかった」
「僕にもよくわからないんだけれど……たとえば、魂というようなものがあって、人が生まれた時に、それがその人の肉体に宿るのだとしたら……肉体が死ぬ時、魂はその身体を離れて、天に昇って、時がたったら、また他の肉体に降りてくるのだとしたら」
「その時、記憶はどうなるの? 前の人生のことは?」
「忘れてしまうのだろうね。でも、どこか記憶の奥深くには、残っているのかもしれない」
「記憶の奥深く……」
 アヴェリンは考え込んでいるようだったが、やがてぶるっと震えた。
「なんだか、考えたら怖いわ。でも……よく、わからない。あまりそういう話はしたくないわ、ジェレミー。そういうことって、生きている間に考えることじゃないと思うのよ。怖いじゃない、なんだか」
「そうかもね。ごめんよ、怖い思いをさせて」
 ジェレミーはアヴェリンの肩を抱いた。
「僕も、自分でもよくわからないんだ。なぜこんなことを言っているのか。ここの空気のせいかもしれないね」
「そうね。何か食べたら、出発しましょうよ」
「ああ。でも、天気があまり良くなさそうなんだ」
「あら、そうなの」
 二人は外へ出てみた。さっきジェレミーが出た時には曇っているだけだったが、今は雪が降り出し、あたりには濃い霧がたちこめはじめていた。
「あら……」アヴェリンは当惑したように、小さな叫びを上げた。
「こんなお天気で、大丈夫かしら」
「いや、これだと飛べなさそうだね」ジェレミーは肩をすくめた。
「雪が止んで、霧が晴れるまで待たないといけないよ」
「そうね。幸い、雨宿り場所はあるけれど……」
 二人は再び、地下の礼拝堂へともぐった。そしてビスケットとジュースの軽い朝食をすませ、梯子の下の壁にもたれて座った。
「ねえ、ジェレミー……さっきの話だけれど」
「ああ……」
「あなたはここに来たことがあるような感じがする?」
「いや」ジェレミーは首を振った。
「僕はたぶん……ここは初めてかもしれない。でも、ずっと行きたかったような、そんな気はするんだ」
「それは、従兄さんと、新世界創生のファイルを見てから?」
「たぶんね。でも、それだけじゃなく、もっと前から行きたかったんじゃないかって、そんな気もしているよ。わからないけれど」
「そう……」アヴェリンはしばらく黙り、そして首を振った。
「この話はやめようって言ったのは、わたしだったわね。他の話をしましょうよ」
「そうだね」
 そして二人は話し出した。互いの子供時代のこと、家族のこと、好きな本やドラマ。そのほかにも、多くのことを話した。二人で話していると、話題には事欠かないような気がした。そして十六時を回った頃、空が明るくなるのを感じた。二人は再び外へ出て行った。



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