Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第七章 風に乗って(2)




 それは、アヴェリンの懲罰期間が明けた夜のことだった。ジェレミーが仕事を終え、日課の練習を始めようとした時、来客を知らせるチャイムの音がした。来訪者――アイド・フェイトンを失った今、ジェレミーの部屋を訪れる友人は、もはやいない。それにアイドは以前から、来る時には必ず内部通信で連絡を入れていた。
 ジェレミーは胸の高鳴りを感じながら、立ち上がった。一ヶ月前の夜の突然の訪問者、アヴェリンのことを思い、そしてまた彼女が訪ねてきたのだろうか、というかすかな期待を感じたのだ。いや、ありえないことだ。彼女とて、二度も同じ過ちを繰り返すほど愚かではないはず――。
 しかし、ドアの外にいたのは、やはりアヴェリンだった。ただ一ヶ月前と違い、白いミニ丈のワンピースに、ふくらはぎまでのピンク色のスパッツ姿で、髪の毛もふわふわと肩にかかっていた。あわてて出てきたという感じではない。一ヶ月に及ぶ懲罰室の生活で、以前にも増して色が白くなり、線が細くなったようだったが。その顔は真っ青で、唇はかすかに震え、眼はたまった涙で潤んでいた。
「どうしたの、アヴェリン……」
 ジェレミーは驚きと、もう一つこみ上げてきた熱い感情と抗いながら、そう聞いた。
「あの……」アヴェリンは小さな声で言い、両手を前で握り合わせた。
「担当官さんに言われたの。明日の九時まで自由行動にしてやるから、最後にボーイフレンドに会って来いって。もう会うことはないだろうからって」
「えっ?」驚きと当惑の中、ジェレミーは彼女を部屋に招きいれた。
「君の担当官さんは、どういうつもりでそんなことを?」
「わからない。本当に親切で、わたしを最後にジェレミーさんに会わせてくれようとしたのか、それとも皮肉なのか。でも、わたし、言葉どおり来てしまったわ。そうしないではいられなかったの。本当に……これが最後になってしまうから」
「最後……そうだね。僕らの恋愛は、芸能局では絶対に認められないだろうから。僕もこうして君に会えて、本当に嬉しいよ。スミスさんだっけ……君の担当官さんに感謝するよ。どんなつもりで言ったのかは、わからないにせよね」
「ええ……」
「そこのソファに座って。何か飲むかい?」
「ありがとう。でも、いい」
 アヴェリンは頭を振り、ソファに腰を下した。
「ただ、スミス担当官に釘は刺されたの。変なことは、してはいけないって」
「ああ、変なことね……担当官さんらしい」ジェレミーはかすかに苦笑した。
「あなたにとっても、良くないからって。あなたはトップアイドルだし、それをわたしのような女が、絡んじゃいけないって。迷惑になるって」
「僕のことなんて、どうでも良いんだよ。僕は今の地位に固執しているわけじゃないし」
 ジェレミーは首を振った。「それより、君のことが心配だ。懲罰室では、どうだったの。そしてこれから、どうなるって?」
「懲罰室では、ずっと一人であの狭い部屋にいて――あなたも入ったことあるんですってね。担当官さんがそう仰っていたわ――反省文を毎日書くだけだったわ。後はずっと、思い出していたの。子供の頃からのこと、ママのこと、兄さんのこと。あなたのことも、たくさん思ったわ。二週間目からは、電子ボードを貸してもらえたから、そこに絵を描いたりもしていたの。それがとても、ありがたかった。そうでないと、本当に他に何もすることがないんですものね」
「そう。良かった。僕もあそこに三日いたけれど、一ヶ月となると、本当に何もしないでは、大変だからね。長期に入れられる人には、そういうこともしてくれるんだろうか。電子ボードか。懐かしいな。声が出なかったころ、それを使って筆談していたんだ」
「声が出なかったころ? ジェレミーさんは歌手なのに、そんな時期が?」
「ああ、環境のせいなんだろうけれど、僕は七、八歳くらいから十四まで、声をなくしていたんだ」
 ジェレミーは声を失くした原因と、取り戻した簡単な経緯を話した。アヴェリンも驚いているようで、息をのんだように聞き入っていた。
「そんなことが……でも、声を取り戻せて良かった。素敵な声ですもの」
「ありがとう」ジェレミーは肩をすくめた。
「君はその電子ボードで、ずっと絵を描いていたんだね」
「ええ。タッチペンで。それと、一週間に一回は、外へ出て、シャワーも浴びられるの」
「そうなんだ。それで、何を描いていたの?」
「わたしの家族や、あなたの絵。それから花や、住んでいた家や……あまり上手じゃないけれど、あなたの絵なんて、見たら怒られそうなほど似てなくて、いやになってしまったけれど。でも絵を描いていると、時間が早くたつような気がしたわ」
「そう。見てみたかったな、君の絵」
「本当に恥ずかしいから、見てほしくないわ。それに電子ボードだから、次の絵を描く前に、元の絵は消えるのよ」
「そうだった。残念だね」
「絵自体は、時間つぶしですもの。でも、わたしが何の絵を描いたのか、監督官さんは知っていたの。そのタッチペンで書いた内容が、監視室の端末に記録されていたみたい。それで、似ていなくても、あなたの絵を描いたのが、わかってしまったみたいで、監督官さんにあなたのことが好きなのか、懲罰室から出された時、問い詰められたわ。それでつい認めてしまったの。ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。僕はうれしいよ」
 ジェレミーは相手の手を握りたい衝動に駆られた。しかし、今夜で本当に別れなければならない自分たちだ。親しさの発露は、お互いにかえって苦しくなるだけかもしれない。そんな苦い思いで、ジェレミーは衝動を押さえつけた。
「あのね……ジェレミー」
 アヴェリンは顔を上げ、まっすぐに眼を見つめてきた。そのすみれ色を帯びた瞳には涙がたまり、声はかすかに震えていた。
「わたし、一ヵ月後にデビューすることになったの」
「そう。それは良かった」
「でも、条件付きなの」
「えっ?」
「この間の芸能局上層部の人……これからデビューまで、一週間に二回、夜あの人のところに通わなければならないの。そうしなければ、デビューさせてくれないって」
「ええっ!?」
「わたし、そのくらいなら、デビューなんてしたくない。芸能局なんて辞めて、家に帰りたいと思ったわ。たとえ労働局になっても良いから……」
 アヴェリンは両手で顔を覆った。
「でもここまで来たら、後戻りは出来ないのよね。一度は覚悟したのよ、懲罰室にいる間に。だけど、やっぱりいやだって……でも、今度この間のようなまねをしたら、今度は一ヶ月の懲罰じゃすまないぞって、担当官さんに脅されたわ。『いやだと思うなら、そう思う心を消してやる』って。もうわたし、どうしていいかわからない……」
「なっ!」
 激しい憤りが突き上げてくるのを感じた。その怒りは一瞬のうちに身体を駆け巡り、頭に到達し、ジェレミーの心を根底から揺るがせた。いいのか、このままでいいのか――いくら芸能局の掟とはいえ、愛する女性が他の男に弄ばれるのを、黙って自分にはかかわりないことと、認めてしまっていいのか。それでも男か。それでも人間か――。
 激しい憤りが、波のようにかぶさってきた。いや、絶対に許せない。彼女を守りたい。何があっても。でも実際に、自分に何が出来るのか。芸能局に一端所属してしまったら、そこの掟がすべてなのは、わかっていたはずだ。上層部の決定には、親族と言えど、抗う権利はなくなる。それは警察命令と同じくらいの効力があるものなのだ。実際、芸能局入りする時、自分は契約書にサインさせられている。局の上層部の決定には、無条件に従います、と。おそらく芸能局所属者全員に、同じ誓約がなされているに違いない。恋愛禁止のルールだから、恋愛は出来ないのだ。夜の相手をしろと命じられれば、従わなければならないのだ。逆らってカウンセリングにかけられると決められたら、それにも従うしかないのだ。そこには選択の余地はない――。
 わかってはいる。それでもなお、このまま芸能局という理不尽な牢獄に、上層部たちの気まぐれで残酷なルールに、自らの気持ちを殺し、黙って従うのは耐えられない。
 激しい衝動は、なおも突き上げてきた。行動を起こすべきだ。黙って流されていてはいけない。今こそ――。
「逃げよう」
 ジェレミーは身を乗り出し、アヴェリンの華奢な手をつかんだ。
「二人で逃げよう。外の世界へ」
「えっ?」
 アヴェリンは一瞬、言われたことの意味がわからなかったように、目を見開いた。
「逃げる……? どういうこと?」
「文字通りの意味さ。こんなところ、もういる価値はない。僕も今まで耐えてきたけれど、もう限界だ」
「ジェレミー、本気なの?」
「ああ、もちろん」
「……いけないわ!」アヴェリンは眼を見開いたまま、首を振った。
「そんなことをして、捕まったら間違いなく、機械カウンセリングにかかってしまうわ」
「それなら君は、いやな男に関係を迫られても耐えられるのかい?」
「それは……でも……」
 アヴェリンはしばらく考えているように、視線を床に落として黙ったあと、顔を上げ、再び首を振った。「やっぱりダメよ。あなたにそんなことはさせられない。わたしは……わたしは、良いの。自分の心を自分で殺しても、機械で殺されても。でも、あなたがわたしのために、そんな危険なことを言い出すなんて……あなたは何もしていないじゃないの。このまま今の仕事を続けていくことが出来るじゃない。何もしなくても」
「それじゃ、いやなんだ!」ジェレミーは叩きつけるように言った。
「こんな生活は、死んだも同然だ。それに僕は君がそんな目にあっているのを知りながら、のうのうとしているなんて、とても耐えられないんだ」
「ジェレミー」アヴェリンの眼は涙で潤んだ。
「ありがとう。わたしのことを、それほどまでに気にしてくれて……」
「当たり前じゃないか」ジェレミーは一息置いて、続けた。
「僕は君を愛しているんだから」
 アヴェリンの目が、さらに大きくなった。そして一瞬の沈黙ののち、頷いて言う。
「わたしも……わたしも、あなたを愛しているわ」
「僕らは愛し合っているんだ。なのに、どうして結ばれないんだ」
「だって、それは規則だから……」
「規則がすべて正しいとは限らないよ。そんな芸能局の掟なんて、間違っていると思う」
「正しくても間違っていても、規則は規則よ。わたしたちはそこに所属しているのだから、規則には従わなければならないわ。たとえどんなにいやでも。仕方のないことだから」
「そうかもしれない。でも、本当に君はそれで良いのか? 我慢できるのか?」
「わからない。わからないけれど……我慢しなくちゃ。そう思えるようになってきたわ。だって、あなたにバカなことはさせられないもの」
「僕のために? それだけは止めてくれ、アヴェリン!」
 ジェレミーは瞳を緑に燃え立たせながら、激しく首を振った。
「僕はもうこれ以上、黙って見ていることなんて出来ないんだ。いや、君が本当に、僕と来る気がないなら、無理にとは言わないけれど。それに、逃げたらたぶん、最悪の処罰になる確率も高いからね。でも、僕は今はじめて、心からわかったよ。ヘイゼルさんとブルースさんの気持ちが」
「ヘイゼルさんとブルースさんって?」
 アヴェリンに問われ、ジェレミーは彼らの物語を語った。もはやいないこととされ、その存在を語ることは許されない二人だったが、今ジェレミーは、そんなことはもはやかまわないという心境だった。彼らは存在したのだ。今も、自分の心の中にヘイゼルは生きているのだ。そして今、彼らが貫こうとした愛を心から理解できたのだ。
「そうなの。そんなことが……だからあなたはあの時、悲しいって……」
 アヴェリンは一瞬黙ったあと、ポツリと呟いた。
「勇気のある方なのね。あなたの従姉さんと恋人さん……」
 そして目を閉じ、続けた。
「わたしにも、その勇気があれば……」
「でも僕らは死のうとは思わないんだ」ジェレミーは首を振った。
「ただ、この自由のない籠から逃げ出したいだけなんだ。君を連れて」
「でも、どうやって?」
「一回、僕はこの建物から抜け出したことがある」
 ジェレミーは窓の外を見やった。
「その時の部屋は、ここじゃなかったけれど、ここは二階だ。あの時より低い。ちょうど窓の外には、同じように木もある。あの木を伝って塀の上に降りれば、外に出られるよ」
「外に出たとしても、そこからどうするの?」
「そうだね。とりあえずインターシティ・シャトルのステーションを目指す。そしてニューヨークから出て行くんだ」
「シャトルの切符を買うのには、IDがいるのよ」
「そこだけれど……君は明日の九時までは自由行動だということだよね。僕もその時間までは、仕事がない。だから少なくとも、明日の九時を過ぎなければ、僕らが手配されることはないはずなんだ。だから……」
 ジェレミーは壁にはめ込まれた時計を見た。
「今、二二時三十分だ。二四時までにシャトルに乗って、そこから七、八時間で着く場所まで行き、そこで生活用品を買って、個人用のエアロカーをレンタルして、九時までにその街を出て行けば……」
「でも、そこからどこへ行くの? それに、すぐ追跡されてしまうわ」
「出来るだけ遠くへ行くつもりだ。追跡されることは、覚悟している。いつまでも逃げ切れるとも思えないし、いずれ終わりは来るのだろうと思う。でも……」
 ジェレミーは言葉を止め、アヴェリンの顔を見た。そして頭を振った。
「いや、無謀な計画なんだろうと、自分でも思うよ。君を巻き込んで、わざわざ破滅に向かっているとしか思えない。ばかげているとも思う。でも、それでも……僕は君と一緒にいたいんだ。たとえ数日でも。そして君に、これ以上悲しい思いをさせたくない。僕が君を無理に連れて行ったとでも言えば、君の罪は軽くなるかもしれない。わからない。でも、それでも……」
「数日間でも、あなたと一緒にいられるなら……わたしは、後の人生を心のないまま過ごしても、悔いはないかもしれないわね。いえ、わたしは死んでも良いわ。あなたの従姉さんのように。わたしはまだデビューしていないし、簡単に非存在になれるはずだから」
「死ぬのはいけないよ」ジェレミーは即座に否定した。
「でも、それは後で考えよう。どうする、アヴェリン? もし実行するなら、戸惑っている時間はないんだ。すぐに決断しないと」
「でも、わたし……やっぱり、あなたに迷惑をかけていると思ってしまうわ」
「そんなことは、どうでも良い。僕もそれを、強く望んでいるんだから、気にしないで。さあ、早く決めて!」
 アヴェリンは両手を胸に組み合わせ、目をぎゅっと閉じた。そうして考えているようでもあった。短い沈黙の後、彼女は答えた。
「行く。行くわ。あなたと一緒に」
「わかった。じゃあ、行こう。荷物は持たない。IDリングはもうつけているから、それで大丈夫なはずだ。買い物もそれで出来るしね」
 ジェレミーは彼女を振り返った後、窓を開けた。
「じゃあ、気をつけて……僕の後についておいで」
 ジェレミーは木に飛び移った。三年半前、死に物狂いで飛び移った木とは別のもので、一階低いだけ距離は近い。ジェレミーは躊躇しなかった。アヴェリンもまた、ためらいはないようだった。幹に飛びついたが少しバランスを崩しかけ、ジェレミーが手を差し伸べて、彼女を抱きかかえた。
「ここから、あの塀に飛び移るんだ」
「大丈夫なの? 塀の上にセンサーや電流でも流れていたりしない?」
「大丈夫だと思うよ。少なくとも、三年半前は大丈夫だった」
 ジェレミーは確かめるために上着のポケットを探り、手に触れた放送プログラム制作局の出入りパスを、その壁の上に放り投げてみた。何も反応はない。
「大丈夫みたいだ」
 ジェレミーは頷き、その上に飛び降りた。ついで、アヴェリンもやってきた。ジェレミーはパスを拾い、最初に道路の上に飛び降りた。ついでアヴェリンには塀のふちにぶら下がるように言い、下から彼女の体を受け止めた。
 
 外に出た二人は足早にシャトルのステーションまで行き、やってきた小型シャトルに乗り込んだ。これは市民のバスとタクシーを兼ねた移動手段で、カプセル型をした乗り物だ。道路の下、地下のトンネル内を走っていて、交差点の真ん中にステーションへ降りる階段がある。シャトルは一人用のものから四人用までサイズがあり、リクエストされた人数によって、そのサイズのものがやってくる。IDリングをセンサーに触れさせ、運転プログラムのセッションを開いて、行き先を打ち込むと、そこまで自動的に連れて行ってくれるのだ。
 大丈夫だとアヴェリンには言ったものの、果たして自分のIDが止められていないか、ジェレミーにはよくわからなかった。自分は休暇中ではないから、外部では使えないようにしている可能性も大なのだ。しかし、IDリングを触れさせると、運転プログラムは簡単に開いた。ジェレミーはほっとして、インターシティ・シャトルのステーションを指定した。ここからミニシャトルで、三十分くらいで着くはずだ。
 どうやら休暇中でなくても、自分のIDは外で有効らしい。安堵と同時に、不安も感じた。もちろん、明日の九時になれば、自分たちの脱走が発覚して、ID使用は停止になるだろう。それまでに、どこまで行けるか。それに、シャトルの切符を買うこと、食べ物や生活用品を買うこと、個人用エアロカーを借りること、街の外へ出ること、すべてに自分のIDが必要となる。そこでは止められなくとも、容易に追跡可能な刻印を残していくのも同様なのだ。だからヘイゼルとブルースも、すぐに居場所が突き止められてしまった。でも、今は考えても仕方がない。やれるだけのことをやるしかないのだ。
 
 やがてミニシャトルは、都市間を結ぶインターシティ・シャトルのステーションに到着した。四ヶ月前、ロスアンジェルス市に帰るヒルダ一家を見送った場所だ。
 どこへ行けばいいか――チケット販売機の前に立ち、ジェレミーは考えた。海を越え、東に行って、ヨーロッパ地区へ渡るか。それとも南へ行き、かつてアンソニー一家がいたサンパウロ市やその隣のリオデジャネイロ市に行くか。西に行き、ロスアンジェルス市のようなアメリカ地区西海岸の都市へ、いや、もっと遠く海を越えて、アジアやオーストラリア地区に渡るか、いや、それには時間が足りない。向こうに着くころには、もう手配されてしまっているだろう。北へ行くと――カナダ地区。今は四月の下旬だから、まだ少々寒いかもしれない。でも――。
 ジェレミーはモントリオール市行きのチケットを二枚買った。それが一番早く出る列車だったからだ。改札にチケットを通し、ついでIDリングを触れさせる。もし街から出る許可がなければ、ここでゲートは閉まるはずだ。しかし、ゲートは閉まらず、ジェレミーは改札を通過した。続いて、アヴェリンまでも。彼女のIDを通すのは、自分以上に心配していたのに。彼女はまだデビュー前で、外出など許可されていないはずだ。なぜだろう――かりに逃げても、絶対追跡できる自信があるからなのだろうか。無事に出られたことで、かえって自分たちが何か巨大な罠のようなものにはまっているような、どこからともなく監視されているような感覚が、一瞬心をゆるがせた。でも、それも覚悟の上だ。
 ジェレミーは唇をかみ、アヴェリンを促して、チケットに指定された二人用のキャビンに乗り込んだ。インターシティ・シャトルは先頭の駆動車(卵形の丸いカプセル状の車両に、太陽電池から取り込んだ動力源と、運転プログラムを組み込んだコンピュータを搭載した、無人の運転車だ)に、同じく卵形をしたカプセル状の客車(キャビンと呼ばれ、二人用から六人用の席が中に取り付けられている)が、いくつも連なり、その後ろには荷物用の大きな四角いコンテナが連なっている。客車の下部とコンテナは列車によって色が違い、モントリオール行きを初め、カナダ地方を発着する列車は、先頭の駆動車と同じ緑色をしている。客車の上部は透明のアクリルガラスで覆われていた。客車の数は乗車人数によって増減する。ジェレミーたちが乗ったこの長距離シャトルは深夜便であるために、乗客はそれほど多くはないようで、連結されたキャビンの数は、大小合わせて二十個足らずだった。
 ジェレミーとアヴェリンが乗り込んだ二人用キャビンの、少し毛足のある緑色布張りの座席に腰を下ろし、二人は身を寄せた。インターシティ・シャトルは発車し、まもなくニューヨーク市境に着いた。街を覆うドームの入り口が開かれ、シャトルはそこをくぐり抜けていく。夜の闇の中に、透明なドームに覆われたニューヨーク市の街の灯りが、背後に退いていった。インターシティ・シャトルの線路は、空中に伸びた細い銀色の光の糸のようで、それがかすかに光って、夜の闇の中に見える。そこから送られる動力源と位置情報、そして先頭の駆動車の動力で、シャトルは空中の、細い線路の上を走っていく。
 ジェレミーは小さくため息をつき、アヴェリンの肩を強く抱いた。アヴェリンも小さな吐息とともに、身をもたせかけてきた。二人はどちらも、外の闇を見つめていた。言葉はなかった。この旅の果てに、二人に確実に待ち受けているもの、そのことは考えまい。
「少しお眠りよ、アヴェリン」
 ニューヨーク市のドームが完全に見えなくなった頃、ジェレミーはささやいた。アヴェリンは頷き、目を閉じた。しかし、本当に眠っているかどうかは、わからなかった。ジェレミーは、目を閉じることが出来なかった。自分の肩に頭を持たせかけ、目を閉じているアヴェリンと、窓の外に広がる漆黒の闇を、じっと見つめていた。

 モントリオール市に到着したのは、六時前だった。街は夜明けを迎え、薄紫とオレンジ色に染まっていた。インターシティ・シャトルを降りたジェレミーとアヴェリンは、ステーションに付属した食堂で朝食を取った。食堂と言っても、食料ボックスの販売機と自動給水機、飲み物販売機、そしていつくかのテーブルと椅子が置いてあるだけの場所だ。
 早朝のためか、食堂にほとんど人はいなかった。二人は朝食プレートを二つ買い、温められて出てきたものを受け取って、さらにコーヒーを二つ買うと、他の客の目に付かないように、隅のテーブルに座って食べた。食べ終わると、容器を所定の場所に返し、隣の建物にある商店へ行く。
 この時代の商店には、新世界が軌道に乗って以来ずっとそうだが、売り子はいない。大きな自動販売機がずらりと並んだ場所だ。その販売機はジャンルによって分かれており、購入者は品物を指定して、IDリングで代金を支払う。二人はそこで、必要なものを買い込んだ。着替えの服、上着、毛布、食料、水のボトル、工作キット、それらを入れるバッグ。支払いも、特に問題はなかった。
 買い物を済ませると、ステーションの前にある、個人用のエアロカーをレンタルしている店に入り、一台借り受けた。これも機械を通して手続きをするので、人に会うことはない。手続きを行う機械の前に立ち、必要な情報を打ち込み、IDリングで代金を支払うと、番号のついたキーが出てくる。そのキーで店の裏にあるゲートを開けると、シルバーグレーのエアロカーが何台か並んでいる場所に出る。キーと同じ番号の車を探し、ロックを解除して、荷物を積み込んだ。発進させ、モントリオール市の外へ。市境のゲートも無事に通過できた。時刻は、八時四五分になっていた。
「ぎりぎりだったわね」
 遠ざかるモントリオール市を見やりながら、アヴェリンが両手をあわせた。
「無事に出られて、よかったわ」
「ああ」ジェレミーは頷いた。
「でも、ここからが問題だよ」

 九時になると、ジェレミーは一端、エアロカーを地面に止めた。
「ここは?」
「モントリオール市の西、二十キロくらいのところだね」
 ジェレミーは運転盤を見ながら答えた。太陽が昇ってきている方向に、小さくモントリオール市のドームが見えていた。
「わたし、街の外へ出たのは初めてよ。いえ、インターシティは使ったことがあるけれど、窓から見ただけだし。実際に外に降り立ったのは、初めてだわ」
 アヴェリンは足元に生い茂るやわらかい草を見下ろしていた。北の方に岩山が見え、東の方に森が見え、湖が見える。そのほかは、薄みどりの草原が広がっていた。春の空は柔らか味を帯びて澄み渡り、風が吹き抜けていった。
「気持ち良い……いいえ、今の状況でそんなこと言っている余裕はないんだけれど、でも本当に、景色がきれい。空気もきれいで、空も風も……」
「本当だね」
 ジェレミーも軽く目を閉じ、降り注ぐ日の光と、髪を吹きぬける風を感じた。
「街にも風は吹くし、太陽も輝くし、空も見えるけれど、でもこれが、ドームにさえぎられない、本物の自然なんだね」
 二人の頭上を、小さな褐色の一羽の鳥が飛んでいった。
「あらっ」アヴェリンは驚きと好奇心の入り混じった表情を浮かべ、目を見開いた。
「鳥なんて、はじめて見たわ」
「鳥が復活したのは千年くらい前だって、パットが以前言っていたっけ」
「復活って? ……ああ、そうね。旧世界が滅びた時に、鳥や動物は一端、ほぼ全滅状態になったんですってね。それから科学者たちが努力して、地球を元に戻そうと、失われた生物たちの復刻を目指したって。兄さんがそう言っていたわ。あの鳥もそうなのね」
「そうだね。君のお兄さんも学術だったって言っていたね」
 ジェレミーは微笑んだ。次いでエアロカーに積んである二つのバッグの一つを開け、その中からさっき物品センターで買った、工具セットを取り出した。
「なにをするの?」
「この旅の終わりを、出来るだけ先にしたいんだ」
 ジェレミーはエアロカーの制御パネルを外し、内部の機械を露出させた。
「大丈夫?」
「わからない。でも、このどれかが現在位置の発信装置のはずなんだ。それを外さないと、すぐに居場所を突き止められてしまう」
 エアロカーには、地図上の目的地と現在位置の座標を相対で確認するために、現在の自分の位置を、衛星を通して知らせるシステムが組み込まれていた。自動運転には欠かせないシステムだが、それがついていると、エアロカーをレンタルしている会社のコンピュータに、自分の車の現在地がたちどころに記録されてしまう。芸能局が二人の脱走に気づき、警察に手配を要請すると、二人のIDが刻まれた場所をたどって、このエアロカーを特定するのに、一時間もかからないだろう。そうすれば、すぐに現在位置もわかってしまい、今日中に追っ手をかけられて、捕まることは必至だ。なんとしても、これは外さなければならない。その結果、自動運転が出来なくなっても。
「まあ……だけど、どれがそれだか、わかるの? それに、その部品を外しちゃって、大丈夫なの」アヴェリンは心配そうに問いかけてくる。
「わからない。エアロカーの内部なんて、いじったことがないから。モーターエンジニアリングの勉強なんて、しなかったからね。でも……わからないかな」
 ジェレミーはむき出しになった部品の数々を、じっと見つめた。それらしき記述なり名称が部品に書いてあれば、自分でもわかるのだが――そう思って内部を開けてみたのだが、どの部品にも製造番号らしい記号と数字が小さく刻まれているだけで、どれが現在地の発信装置なのだか、わからなかった。
 やっぱりだめか――モーター器官を知りもしない自分が、エアロカーの内部をいじれるはずもないのだ。下手をすると、動かなくなって、ここで立ち往生だ。二人で歩いていったとしても、警察が来るまでにそう遠くへは行けないだろう。
 かすかな絶望感に苛まれたその時、ふと、心の中に声が聞こえたような気がした。
『それだ……その上から三列目左から二番目の、S23615って書いてある、銀のチップ』
「えっ?」ジェレミーは頭を上げた。今の声は、天啓だろうか。それとも――。
 心の中に、懐かしい思いを感じた。この声、聞き覚えがある。ジェナイン――生まれた時に生死を分け、自分の中に取り込まれた双子の兄弟。いつか、先導者たちに間接的にだが会わせてくれたジェナイン。彼がまた力を貸してくれるというのだろうか。
 ジェレミーはそっと工具をそのチップに当て、外した。そしてチップを草むらに投げ捨てた。
「どうかな……」
 運転席に戻る。自動運転のセッションはエラーになり、開かなくなっていた。地図も手動表示になり、現在地も出ない。しかし、手動で車を動かすことは出来た。
(ああ、ありがとう、ジェナイン……)
 心の中でそうつぶやくと、右手からIDリングを抜き取り、草の中に投げ捨てた。ピーっとけたたましいアラーム音が響いた。リングが指から外れた時に、鳴るものだ。
「リングもね、現在地を特定される可能性があるかもしれないから。それにもう、買い物をしたり街に入ったりも、出来ないから」
「そうね……」
 アヴェリンも頷くと、同じようにリングを抜き取り、草むらに投げた。

 二人は再びエアロカーに乗り、走り出した。行くあてはなかった。漠然と、ジェレミーは北に向かった。スピードを上げ、北へ、北へと。モントリオール市から東西南北、どちらへ向かうかといえば、北へ行く可能性は一番低いと、警察は考えるかもしれない。一日走っていけば北極圏、春とはいえ、まだ寒い。エアロカーの中でも、野宿を考えるなら、暖かい方に行くだろう。そう考える可能性が高いと思えた、そのせいかもしれない。
 この旅がいつまで続くのか、どういう終わり方をするのか、わからなかった。ただこの時が、二人が共にいられる時が、一分一秒でも長くなれば良いと思った。それがジェレミーの、いまや唯一つの願いだった。それはきっと、アヴェリンも同じだっただろう。
 頭の上にはやわらかく澄んだ青い空が、眼下には緑の大地が広がっていた。様々な形の、白いふわふわした雲が、岩山や湖や森が、絶えずその風景に変化を与えている。エアロカーのウィンドウを細めに開けると、風が吹き込んできた。車のスピードに加速されて強く吹き付けてくるものの、ほんのり温かさを帯びた、春の風だった。太陽は東の空から天頂へと上がり、ゆっくりと西に傾いていった。
 お昼を少し過ぎた頃、ジェレミーはいったんエアロカーを着地させた。二人は草の上に毛布を広げて、朝モントリオール市で買ってきたサンドウィッチを食べ、ミルクを飲んだ。
「まるで、ピクニックのようね」アヴェリンは微笑んだ。
「子供の頃、時々公園にランチを持って行って、食べたことを思い出すわ。ピクニックに行きましょうって。それが楽しみで仕方がなかったの」
「アンソニー伯父さんの家でも、時々そういうことをやっていたらしいよ。パットやマーティが言っていたっけ。僕は、それがどんなものかな、と思っていたんだけれど」
「どう?」
「そうだね。とても楽しいよ。こんな状況ではあるんだけれどね」
 ジェレミーは笑った。悲愴な気持ちは常にあるにもかかわらず、幸福な思いもなお強く、未来の恐怖ですら、その思いを消し去ることはできなかった。この広い、有るがままの自然の中、光と風に包まれて、愛する女性とともにいる。幸福だ。これ以上の幸せはないだろうと思えるほどに。仮に明日世界が潰えても――警察に見つけられて連れ戻されることになったとしても、この時間を持てただけで、十分残る生涯の埋め合わせはつくように思えた。しかし、同時にまた貪欲ともいえる思いが、心を占めてもいた。この幸せがいつまでも続いたら――いや、それはありえないだろう。持ち出した食料も限られている。それが尽きたら、もう補給は出来ないのだ。それ以前に見つかる可能性も、十分にある。だが、いつまでもとは言わない。出来るだけ長く、そう、一分一秒でも長く、二人こうして一緒にいられたら――。
 その時、アヴェリンが深くため息をついた。
「どうしたの?」
「ううん……なんだかね、切なくなってしまったの」
 見上げたその瞳は、涙で潤んでいた。
「あんまり幸せすぎて……この時が続いてくれたらって思って……」
「僕もだよ」
 ジェレミーは低く言った。二人はどちらからともなく、抱きあった。

 十五時を過ぎた頃、二人は再びエアロカーに乗り込んだ。やがて空が金色に染まり、だんだん色を暗くして、闇の帳が下りる頃、大きな岩陰に車を止めた。
「少し肌寒いわね」外へ出ると、アヴェリンが小さく身体を震わせた。
「そうだね。ここはかなり北のはずだから。それに街の外だからね」
 ジェレミーはエアロカーの運転パネルにある外気温表示に目をやった。
「八度。そうだね。街の中に比べれば寒いだろうね。上着を着たほうが良いよ」
 モントリオール市で買った上着を取り出すと、一枚をアヴェリンに着せかけ、残った一枚を羽織った。厚手の上着は寒冷地域で、森林管理者や、町の外にエアロカーで出かけたいという趣味を持つ少数派のために作られていたが、そう需要は多くないため、商店の片隅でひっそりと販売されていたものだ。サイズもさほどなく、色も紺とグレーしかない。それで二人は、サイズ違いの紺の上着を二枚購入した。それは温かそうなやわらかい生地で出来ていて、中には綿が入っているようだ。同じ販売機で二人は白いセーターとマフラーも買っていたが、今のところ、そこまでは必要なさそうだった。
「温かくなったわ。少し暑いくらい」アヴェリンは微笑み、空を見上げた。
「凄い星空ね。街からでは、こんなにきれいに見えないわ」
「そうだね」ジェレミーは頷き、見上げた。なんて広いのだろうと思いながら。ビルやドームにさえぎられない夜空。無数の星のきらめき。その美しさに打たれ、二人ともしばらく言葉をなくしていた。やがて、再びどちらからともなく抱き合って、キスを交わす。
 二人は再び地面に毛布を広げ、サンドイッチとボトル入りのジュースで、簡単な食事を済ませた。
「そういえば、芸能局にあるドリンクは、普通のお店には売っていないのね」
 甘い桃風味のジュースを飲みながら、アヴェリンが言った。
「あれは芸能局の特製らしいよ」ジェレミーは答えた。
「芸能局に入ると、あれしか飲めないのかしら。いえ、好きは好きなんだけれど。特にピンクのが」
「ホーム期間中は、飲み物といえば水と、あのドリンク類だけだよね。ロードに出れば、いろいろと普通のものが飲めるけれど」
「そうなの?」
「ああ、コーヒーやジュースも出てくるよ。ドリンクもあるけれど」
「そうなの……」
 頷いたあと、アヴェリンはさらに何か言いかけたようだったが、首を振ってジュースのボトルを見つめた。ジェレミーにも、彼女が何を思ったのか、わかるような気がした。ロード期間――デビューしなければ、巡ってこない全国興行の時。果たしてアヴェリンにそれを体験する機会があるのかどうか――彼女の心を保ったままで。
 アヴェリンは再び軽く首を振ると、思い切るように、ジェレミーに向き直った。
「あなたはどのドリンクが好きなの、ジェレミー?」
「僕はブルーが好きだよ」
 ジェレミーは喉元までこみ上げてきた重いものを飲み下すと、努めてさりげなく答えた。
「あれは、あまり甘くないでしょう」
「そうだね。でもグリーンよりも辛くないよ」
 今はなきアイド・フェイトンが部屋に遊びに来た時には、この緑のボトルを好んで飲んでいたな、と、ジェレミーは思い出していた。
 芸能局所属者、特に歌手や俳優部門などの現役がホーム期間に飲んでいるドリンクは、レッド、ピンク、ゴールド、グリーン、ブルーと五種類あり、200CC入りのプラスティックボトルに入って、いつも何本かが備え付けの冷蔵庫に入っていた。補充する時には、各部屋の端末から簡単に依頼できた。各種ビタミンと栄養成分、そして少しのアルコールが入ったその飲料は、いわば芸能局限定ドリンクなのだが、他の一般的な飲み物の代わりにいつもそれなのか、その理由はわからなかった。
 簡単な夕食を終えると、二人は毛布を片付け、エアロカーの中に戻った。そしてシートを倒し、毛布を身体の上にかけた。
「眠るには、少し早い時間だね」
 ジェレミーは透明なルーフ越しに見える夜空を見ながら、言った。
「そうね。まだ二十時ですものね。でも昨夜少しうとうとしただけだからかしら。ちょっと眠いわ」
「僕もだ。昨夜は眠れなかったから。じゃあ、もう寝ようか」
「ええ。街の外で眠るなんて、初めてね」
「僕もだよ。不思議な気分だ。でも決していやな気分じゃないよ。嬉しいような、ちょっとワクワクするような、でも少し寂しいような、そんな感じなんだ」
「わたしもそう」
 アヴェリンは毛布を胸の上に引き上げながら、ささやくように言った。
 二人はキスを交わし、そして眠りに落ちた。




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