Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第七章 風に乗って(1)




 最後の通信から三日後に、アイド・フェイトンは死んだ。その知らせを、ジェレミーはリクエスト集計プログラムをチェックして、初めて知った。その時にはもう、その死から二日がたっていた。
 彼の死因は、薬物中毒というということだった。芸能局所属者ならばみな最初に渡される、あの薬――落ち着いてリラックスできるという、しかしアイドがかつて『すべてどうでもよくなる。絶望的な気分になったら、飲むと良い』と言っていた薬を、誤って過剰に飲みすぎたのが原因だと。そして音楽プログラムではその死を悲劇的な過ちと捉え、アイド・フェイトンは己の心の弱さゆえにそういう薬に頼ったのだと、低俗な同情を引きながらも、侮蔑をこめた調子で語られていた。
 ジェレミーは床が沈んでいくような、強烈なショックに見舞われた。五日前に交わした会話が、脳裏によみがえってくる。たしかにあの時のアイドは、絶望に見舞われていたようだった。無理もないだろう。やっとこれから自分の人生をつかめるという時に、まさにその輝かしい未来を手につかみかけていた時に、それが丸ごとすり抜けていった時の思いは。耐え切れず、アイドは薬に救いを求めたのだろうか。そしてその結果、命を落としてしまったのか――。
 ふと、心に疑問が湧きあがってきた。アイド・フェイトンは本当に過失から、薬を飲みすぎたのだろうか。それとも死ぬつもりで――でも芸能局の歌手ともなれば、その痕跡を丸ごと消すわけにはいかない。だから自殺ではなく、過失死という発表しか出来なかったのでは――いや、そうとも限らない。普通の人は、自分から命を断とうなどとは考えまい。本当にただ彼は、絶望を癒そうと、続けざまに薬を飲みすぎて、その結果致死量を越えてしまっただけの可能性も高いのだろう。
 
 翌日、ジェレミーは仕事に行くために、芸能局本部のロビーに降りていった。自分の担当であるハワード監督官と、アイド・フェイトンの担当官だった人物が、ソファに座って話していた。その会話が、耳に聞こえてきた。
「いや、しかし、こうなるとは夢にも思っていなかったな」
 アイドの担当だった、リチャードソン監督官が言っていた。
「もうこのタームで引退だとばかり、私は思っていたがね」
 ハワード監督官が首を振りながら、同調する。
「そう、そのつもりだったんだ。だが、ここへ来てヒットが出た。それでもう一タームの延長を決めたんだが……どうだ。落ち目になって引退するどころか、ここまで華々しい幕引きをやってくれるとはね。追悼と称して特集を組めたし、いっぺんに五曲もリクエストベストテンに戻ってきた。いやはや、あの男は大ヒットだったよ」
「しかしビンの中の薬を全部……五十錠は入っていたというが、それを飲んでしまうとはね。あの男は本当にバカだったのか?」
「バカな奴だったのさ、本当に。だがハワード、あいつがどのくらい薬を飲んだかなんていうことは、決して言わない方が良いぞ」
「そうだな」ハワード監督官は苦笑を浮かべているようだった。そして振り返り、ジェレミーを見つけると、眉根を寄せた。
「そんなところに立ってないで、さっさと来い」
 彼は立ち上がり、リチャードソン監督官に頷いてから、ジェレミーを促した。
 ハワード氏の後についていきながら、ジェレミーの頬は紅潮していた。監督官たちは、立ち聞きしたと思ったかもしれない。だが、そんなことはどうでも良い。ジェレミーの胸は憤りに燃えていた。華々しい幕引きだったとは何だ。自殺にせよ過失にせよ、アイドが上層部の残酷な気まぐれでどれほど傷つき、悩んだことか。そのあまり、薬の瓶に手を伸ばしてしまい、その命は絶たれた。それなのに、まるで心の存在していない商品のように語るなんて――。
 いや、そうなのだろう。自分の前を歩いていく監督官の広い背中を見ながら、ジェレミーは思った。監督官を初めとする、芸能局の管理側に立つ人間にとっては、そこに所属する歌手や俳優など、人間ではなく、単なる商品に過ぎないのだろう。売れている限りは使い、売れなくなったら捨てる。その背後にある彼らの人生など、どうでも良いのだろう。
 
 仕事を終え、部屋に帰ってから、ジェレミーはベッドのふちに腰をかけ、再びそのことを考えた。薬剤を五十錠――芸能局に入局し、インストラクターからはじめてその薬瓶を渡される時、こう言われた。
「これを飲むと、気分がリラックスして楽になれる。良い気持ちにもなれるんだ。その効果は、一錠でだいたい六時間くらいは効果が持続する。寝る前に飲むと、よく眠れるようにもなる。しかし、一日に飲む限度は四錠だ。それは守れよ」と。
 それの十倍以上を一度に飲んだとしたら、それは自殺を図ったと言えないだろうか。その可能性があるということで、アイドが実際どのくらい薬剤を服用したのか言ってはいけないと、リチャードソン氏は警告したのだろうか。実際のところはわからない。アイドがジェレミーに残した言葉は、最後の通信だけ。そこから彼の思いを、完全に推し量ることは出来なかった。それだけの薬剤を口にしたということは、その時のアイドは自暴自棄になっていた、それは間違いないのだが。
「アイドさん……どうしてこんなことに……なっちゃったんですか……」
 こらえきれず、嗚咽が漏れた。友を悼んで涙を流すこと――それより他には、何も出来なかった。

 ヘイゼルの事件に続いて起きた友人の死に、ジェレミーは打ちのめされた。それでも日々は過ぎていく。自分にはこなさなければならない仕事があり、まだなお捨て切れない夢がある。毎日は重苦しく、気分は決して晴れず、時間が立つのがばかばかしいほど遅く、自分が演じている『ジェミー・キャレル』がますます遠い存在に思えても、自身は生きることを止められない。そして、一ヶ月半が過ぎていった。
 
 その夜、いつものように仕事を終えて、ジェレミーは部屋に帰ってきた。新しく来た付き人は(今度も女の子だったが、アヴェリンとは違いあまり気もきかず、どことなくよそよそしい感じの子だった)ドアのところで挨拶をした後、自分の部屋に帰っていた。ため息をひとつつき、服を着替え、一息ついて、日課になっている練習を始める。そしてシャワールームでの発声練習とランニングを終え、体操をするために部屋に戻ってきた時だった。彼はかすかにドアを叩く音を聞いた。初めは気のせいかと思うほど、小さな音だったが、ジェレミーはドアを開けた。
 アヴェリンがそこに立っていた。彼女は大きく眼を見開き、咳き込むような口調で懇願した。「ごめんなさい! もう来ないつもりだったんですが、来てしまいました! お願い、今だけ少し中に入れてください!」
 ジェレミーは仰天しながらも、アヴェリンを室内に入れ、再びドアを閉めた。
「どうしたの、いったい?」
 アヴェリンはピンクのワンピースを着ていたが、慌てて着たかのように、少し襟が曲がっていて、スカートの裾も少しめくれていた。髪ももつれ、少し濡れている。彼女は息を弾ませ、頬を紅潮させていた。そして身体を震わせながら、両手を絞るように組み合わせ、何かに衝かれたように、繰り返し呟いている。
「どうしよう。どうしたらいいかしら……」と。
「アヴェリン、落ち着いて。とにかくそこに座って」
 ジェレミーはそっと肩に手をかけて、彼女をソファに座らせると、冷蔵庫から甘いピンクのドリンクを一本持って来た。
「これを飲んで、少し気分を落ち着かせると良いよ」
「あ、ありがとうございます……」
 アヴェリンは椅子に腰かると、大きく息をついていた。そしてしばらく気を静めるように呼吸を整えた後、「すみません、じゃ、いただきます」と瓶を開け、中身をゆっくりと飲んでいる。
「いったい、どうしたの?」ジェレミーは改めて問いかけた。
「あの……わたし、逃げてきちゃったんです」
「逃げてきた? 誰から?」
「歌手部門の総監督さんの一人から」
「誰?」
「ドゥエインさんです。チャールズ・ドウェイン総監督」
「ああ……僕はほとんど会ったことがないな。上層部の一人だね。その人からどうして逃げてきたの、君は」
「それが……」アヴェリンは口ごもった。その顔は、首まで真っ赤になっている。
「あの……その人に呼び出されたんです。デビュー前面接をするからって。そして……あの……わたしに、夜のお相手をするようにって……」
「え……ええ?!」最初ジェレミーは意味がわからなかったが、それが何を意味するかがわかると、彼の顔も額まで真っ赤になった。
「なんてことだ!」
「わたしはいやだった……がまんできなかった……でも、その人は言うんです。『おまえは人間じゃない。人形の一人なんだから、心なんて持っちゃいけない。言うとおりにしろ』って……」
「な……!」
「それを聞いて、わたしは頭に来ちゃったんです。わたしは人形じゃないわ! あんたなんて、絶対ごめんよっ、って、なんだかもう凄くかっと来ちゃって、わたし、あの人を思い切り突き飛ばして、逃げてきちゃったんです。自分の部屋に戻って、あわててシャワーを浴びて着替えて……そうしたら、やっと我に返って、そのとたんに、自分のやったことが凄く怖くなってしまったの。どうしよう……わたし、機械カウンセリングにかけられてしまうのかしら……」
 アヴェリンは激しく震えていた。その震えを止めようとするかのように、自分の身体に手を回してぎゅっと抱くような仕草をしているが、止まらないようだ。
 ジェレミーは衝撃のあまり、しばらくじっと彼女を見つめていたが、やがてそっとその肩に手を伸ばした。
「君は……勇敢な子だね」
 そのまま彼女の身体に腕を回し、抱きしめた。アヴェリンは一瞬驚いたように動きを止めたが、やがて堰を切ったように泣き始めた。
「ジェミーさん……ごめんなさい。わたし、ジェミーさんにご迷惑をかけるつもりじゃなかった。でも、自分の部屋にいたら、きっとすぐに捕まえられると思ったら、怖くなって、出てきてしまって……気がついたら、このお部屋の前に立っていたの。会いたかった……こんなことを言ってはご迷惑でしょうけれど、わたし、ジェミーさんに会いたかった」
「アヴェリン……」
 ジェレミーは喉元までこみ上げてくる熱い塊を飲み下しながら、その手に力を込めた。
「僕も会いたかったよ、君に……」
「ジェミーさん……」
「僕はジェミーじゃない。ジェレミーなんだ。ジェミー・キャレルじゃない。ジェレミー・ローリングスなんだ。これからは、そう呼んで」
「ジェレミーさんなんですか、本当は?」
「ああ、僕の本名はね。君もきっとデビューしたら、芸名がつくと思うよ」
「ええ。わたしも芸名はついたんです。アリスン・ローレルって」
「アリスン・ローレルか。良い名前だけれど、君はやっぱり僕にとっては、アヴェリンだ。その方が君らしいし、きれいな名前だと思う」
「ありがとうございます、ジェミーさん、いえ、ジェレミーさん」
「さんもいらないってば」ジェレミーは苦笑を浮かべた。
「それにもう君は僕の付き人じゃないんだから、普通にしゃべってほしいな。僕はアイドさんとは、丁寧語を抜けられなかったけれど、君には普通にしゃべってほしい」
「いいんですか? それじゃ、失礼じゃ……」
「かまわないよ」
「でもそんな急に変えるのは、無理……でも、がんばってみます。ジェレミー……さんつけないのって、なんだか失礼な気がしてしまうけれど」
「いや、全然失礼じゃないよ」
 その時突然、お互いの距離の近さに改めて気づき、ジェレミーは狼狽を覚えた。アヴェリンの肩を優しく抑えて座らせてから、自分も別の椅子に座り、テーブルを挟んで向き合い、冷静になるためにひとつ息をついてから、口を開いた。
「君は何も悪くないよ」
「でもわたし、上官に逆らってしまったわ。しかも、かなり偉い人に」
「でも、君が悪いわけじゃない。そんな理不尽なこと、我慢できないっていうのは、自然な感情だと思うな」
「でもここでは、そんなこと通用しないんじゃ……だって、ここは芸能局ですもの。入局する時に、言われたの。上の言うこと、やることには決して逆らっちゃいけないって。ここでの返事はYesしか許されないって」
「僕も同じ事を言われたけれど……」ジェレミーは唇をかんだ。
「だけど、それって変じゃないのかな。どうして芸能局の所属者は、意思が認められないんだろう」
「わたしたちは人間じゃない。人形だから、商品だからって……」
「でも、僕らは人間だよ、紛れもなく」ジェレミーは強い口調で遮った。
「君だって、そうだ。君は心を持った人間だから、感情を持っているから、そして気概もプライドもあるから、理不尽な要求を拒絶したんだ。それは当然の権利のはずなんだ。でも、どうして認められないんだろう。僕らは人間なのに……どうして人間扱いしてくれないんだろう」
「芸能局は入ったらもう、人間としては認められなくなるって言われたけれど……」
 アヴェリンはテーブルに視線を落とした。
「そうなんだろうね……」ジェレミーはテーブルの上に手を組み、眼を伏せた。
「芸能局は、普通の家庭で、規定出生で生まれた人は決して採用しないって、聞いたことがあるよ。アイドさんも、そんなことを言っていた。『まともな生まれの奴は取りたがらない』って。そういう方針になっているっていうことは、僕らのような半端な生まれだったら、非人間的に扱って良いって、上層部は思っているということだよね。でも、どうしてだろう。どういう風に生まれたって、同じ人間に変わりはないのに」 
 でも、これは芸能局に限ったことではないのかもしれない。ジェレミーはそう悟った。ここへ来る前から、そうではなかったか。その生まれゆえに一族から軽視され、蔑まれてきた自分だったのに。アンソニー伯父の一家は幸運な例外だということを、忘れたわけではないのに。
 メラニー伯母と初めて会った時、彼女が話してくれたことを思い出した。彼女もまた普通の生まれではなかったゆえに、家族から偏見の目で見られて育ち、嫁いでもなお、夫の一族からは決して認められなかった、と。しかし彼女はその夫とともに、素晴らしい家庭を築いてきた。メラニーはジェレミーが今まで会った人々の中でも、最も誠実で暖かい人間の一人だ。だが、彼女が婚前出生児であるという、その理由だけで、仕事の上では決して下級職員から上がれず、嫁いでも夫の一族から軽んじられているのだ。
 強い憤りを再び感じた。理不尽だ。考えてみれば、この社会はなんという理不尽の塊なのだろう。ヘイゼルとブルースは死に追いやられ、残された家族は悲嘆の中に落とされた。しかし、彼らが貫こうとした思いは、果たして本当に許されないものなのだろうか。彼らは愛し合った。でも結婚しようとしたら、政府が許可しなかった。遺伝子適正が合わない、それが拒否の理由だった。
 結婚許可が下りないのは、ある種の因子の組み合わせが重なって、流死産率や障害児出生率が上がることが予想される場合だと、以前パトリックが言っていた。つまりは、健全な子孫が残せる可能性が低いから、許可が下りないわけだ。でも、なぜそこまで強制されるのだろう。その事実を知った上で、それでも結婚に踏み切るかどうか、どうして当人同士の判断に任されないのだろう。もしそうならば、きっとあの二人なら、それでも結婚に踏み切り、お互いに愛し合い、幸せに暮らしていたはずだ。子供の障害率が上がると言っても、それを回避するために遺伝子操作があるのだし、そのための規定出生だったはずだ。仮に子供は望めないとしても、それでも二人はお互いが一緒にいられることで、満足できたはずなのに。どうしても子供が必要なら、里子という手もあるのだ。
 そしてアイド・フェイトンもまた、死に追いやられた。残された彼の恋人は、今頃悲嘆にくれているのだろう。彼女はあと一年半を待つことが、許されなかった。社会には結婚限界年齢と言うものがあり、芸能局所属者以外、それを越えて未婚でいることは許されないのだ。
 なぜなのだろう――ジェレミーは再び自問した。できるだけ健康な子供を生むため。生殖機能の盛んな年齢に、子孫を残させるため。それが、政府が結婚限界年齢を設ける理由だった。子孫、子孫――健康で優秀な子孫を数多く得ること、それが政府の掲げる人口政策の中心理念だ。発展のために、人がほしい。それも社会の発展に寄与できるような、優秀な人材が。政府のその方針は理解できる。わずか三千人から出発したこの世界は、誕生してからの二千年近くの歳月を、ずっとその思いの下に、成長してきたように思える。それゆえに、誕生する命一つ一つが貴重なのだ。生まれる命はどれも、どんな条件の元でも、生かされることが保障される。それゆえ自分のような生まれつきの重度障害でも、手術によって助けられたのだ。そのために双子の兄弟であったジェナインは犠牲になったのだが。
 だが、生まれた人が貴重な存在であるのは、彼、もしくは彼女が、何がしかの社会の役に立つという前提が満たされている場合のみだ。仕事を通じて、円滑な社会機能を助ける。そして同時に、優秀な次の世代を数多く生み出す。これが今の時代の人々に課せられた命題であるのだ。芸能局の所属者は、その規範から、特に後の方のものからは外れた人々なのだろうか。だから人間と認められないと、上層部は言うのだろうか。
 いや、それでも、僕らは人間だ。誰がなんと言おうと。僕らは心のある人間なのだ。感情回路がほとんどない、ロボットじゃない。ジェレミーの瞳は憤りの炎で、緑に染まった。
「心を持っちゃいけないって、あの人は言ったけれど……何も感じられなくなったら、きっと楽だと思うわ。本当に、心なんてなくなれば」
 アヴェリンは膝の上で手を組み合わせ、さらに視線を落としていた。
「何も感じられなければ……そうだね。そのために薬を飲むか……だからきっと芸能局の所属者たちには、あの薬が不可欠なんだろうね。君は飲んだことがある、アヴェリン?」
「何度かは、飲んだわ。あの、あなたの付き人期間が終わった後の何日かで……とても寂しくて、悲しかったから」
「そう……僕もそうだったよ。薬は飲んだことがないけれど」
 ジェレミーは手を伸ばしたい衝動に駆られたが、かろうじて踏みとどまった。
 アヴェリンは顔を上げ、首を振った。
「わたしも、一週間くらいでやめました。だって、やっぱり薬の助けを借りても、楽にはならないし、悲しくても、いろいろと楽しかった頃のことを覚えていられる方が、気分的には救われたから。でも、今日のことで、わたし……芸能局って、こういうところなの? 恋愛禁止なだけでなく、あんなことまでしなければならないの? 人間扱いされないというのは聞いていたけれど、ここまでとは、わたしも思わなかった。甘かったのね……」
「そんなこと、本当は許されちゃならないことだと思う」
 ジェレミーは頬を燃え立たせ、強く首を振った。
「僕に君を守る力があったら……もどかしいよ。君にそんなことは絶対にさせたくない」
「ジェレミーさん……」アヴェリンは頬を深紅に染めて、うつむいた。
「そう言ってくれただけで、わたしは嬉しいわ……」
「でも、言うだけじゃ、何一つ解決できないんだ。君はきっとそいつを拒否したことで、かなり厳しい罰を受けなくてはならないだろう。でも、相手が怪我をしてしまったらわからないけれど、そうでないなら、いきなり機械はないと思いたいな。芸能局の体質からすれば、安心は出来ないけれど。もし仮にそれを逃れても、かなり長い間懲罰室に入れられてしまうだろうし、その後また同じことにならないという保証はない。二度目も拒絶したら、君は機械カウンセリングにかかる確率が高くなってしまうだろうし、かといって受け入れるなんて……ああ!」
 ジェレミーは己の無力感に打ちのめされ、髪をかきむしった。本当に自分にできることは、何一つありはしないのだ。ヘイゼルにもアイドにも、何も出来なかった。そしてアヴェリンにも――ただ彼らの苦悩を見ているしか出来ないなんて。
「きっと、そうなっちゃうのね……」
 アヴェリンは深くうつむき、両手を胸の前に組み合わせた。
「そう……たぶん、それが一番ありえることね。わたし……どうしたらいいか、わからない。機械にかけられるのもいやだけれど、あんな人に、っていうのもいや。でも逃げるわけにもいかないし、いまさら芸能局を辞めるわけにもいかないのよね。どうしたらいいのかしら……」
 アヴェリンは深くうなだれた。ジェレミーはそっと手を伸ばし、その肩に触れた。彼女は小刻みに震えていた。今にもわっと泣き出しそうだが、懸命にこらえているようだ。
 強い衝動が湧きあがってきた。考えたり躊躇したりする余裕もなく、その衝動の命ずるまま、ジェレミーはアヴェリンを抱きしめ、唇を合わせていた。アヴェリンも一瞬驚いたようだったが、逆らうことはせず、きつくしがみついて来た。
 時が止まってしまったような時間が流れた。
「お願い、ジェレミー……」
 アヴェリンはため息をつき、その胸にもたれかかりながら囁いた。
「わたしを抱いて……わたし……わたしの初めては、せめて大好きな人に捧げたいの。そうすれば、このあと何があっても、耐えられるような気がするから……」
 ジェレミーは拒まなかった。自制や芸能局の規則など、この時は完全に頭から飛んでいた。ただ身体の内側から突き上げてくる衝動、彼女を守りたい、ひとつになりたいという強烈な欲望の前に、すべてが吹き飛ばされたようだった。
 夜も更けた一時過ぎに、アヴェリンは自室に帰っていった。この部屋で一緒に過ごすわけにはいかない。朝になれば、彼女には処罰が待っているのだろう。芸能局幹部の意向に逆らったという罪で。それは、どのくらい重罪になるのだろうか。まさかいきなり機械カウンセリングにはならないとは思うが、可能性を完全に否定することも出来ない。彼女の罪は反逆扱いであり、自分の脱走より処罰はかなり重くなるだろう。だが、意に染まぬ関係を強制され、それを拒絶したことが罰になるなんて、おかしい。理不尽だ――でも、本当に、自分にはどうしてやりようもない。
 一人になったベッドの中で、ジェレミーは胸をかきむしられるような思いの中、枕に顔をうずめた。我知らず、熱い涙が溢れてきた。

 それから何日か過ぎたが、ジェレミーにはアヴェリンの処分がどうなったのか、知る由がなかった。確実なのはハワード監督官に聞いてみることだが、それでは自分が彼女に関心があるということを、芸能局の管理側に、自ら告白するようなものだ。そんなリスクは、犯すわけにはいかなかった。それにアヴェリンの、上層部が言うところの『不始末』は、本来ジェレミーは知らないはずのことなのだ。あの夜彼女が部屋に来たことは、知られていないはずだった。ハワード監督官が何も警告を発しないことからしても、そうなのだろう。ならば、自分から相手に悟られるような危険は犯せない。言いようもなく気がかりでもどかしい思いだったが、自分からはどうにも出来なかった。
 だが一週間後、思いがけず情報が得られた。仕事場への移動中にハワード監督官が、何気ない調子でジェレミーに言ったのだ。
「そう言えば、前におまえの付き人になっていた、新人の女の子がいただろう。その娘は一週間前に不始末をしでかして、一ヶ月の懲罰室送りになったそうだ。デビューも一ヶ月半ほど伸びたらしい」
「そうなんですか……」
 ジェレミーは内心の激しい動揺を押し隠そうとしながら、頷いた。しかし、頬が紅潮するのは、止められなかった。ハワード氏は気づいただろうか――チラッと傍らの監督官を見たが、彼は自分を見ていないようだった。かすかに安堵のため息をつき、声が震えたりしないよう精一杯気をつけながら、できる限り何気ない調子で尋ねた。
「そうなんですか。あの子は良い子のようでしたが。何をしたんですか?」
 白々しい質問なのはわかっていた。しかしこう言わなければ、不自然に思われるだろう。
「そんなことは、おまえが知る必要のないことだ」
 監督官の答えは、にべもなかった。
「だが、おまえもデビュー前に一度、懲罰室送りになっているだろう。気をつけるんだな」
「はい」
 監督官はどういう意味でそんなことを言うのだろうと、かすかな不審も感じながら、ジェレミーは頷いた。それにアヴェリンの処遇についても、どうしてわざわざ言うのだろう。たしかに彼女は一時期付き人についていたから、ハワード氏にとっても、まったく知らない新人ではない。だから言及しただけなのだろうか。それとも、まさか彼女と自分との関係を知っているのか――。
 疑心暗鬼になるのは止めよう。ジェレミーは心の中で、自分にそう言い聞かせた。監督官がどういう意図でアヴェリンの消息を知らせたのかは、自分にはわからないことなのだから、これ以上考えてもせんのないことだ。ありがたいことに、彼女の情報が得られた。そう考えるだけに留め置こう。
 ジェレミーは、ハワード氏が言ったことを改めて考えた。懲罰室一ヶ月。機械カウンセリングでなくて心から安堵したが、ずいぶん長い期間だ。上層部に逆らったということを考えれば、仕方がないのかもしれないが。あの何もない四角い白い部屋の中で、アヴェリンは何を思っているのだろう。彼女のことを考えると、身体の中を熱い炎が駆け巡るようだった。そして懲罰室を出た後、彼女に待ち受けるだろう運命を思うと、ジェレミーの心は重く沈んでいった。

 毎日が、ゆっくりと過ぎていった。相変わらず苦痛な思いしか感じない仕事が続く日々だったが、それ以上にアヴェリンのことが、ジェレミーの心に重くまとわりつき、離れなかった。この日々の間、自分が彼女のことをどれほど愛しているかを、改めて知った。愛、つい二、三ヶ月前までは、自分には無縁な感情だと思っていたもの。そしてヘイゼルやアイド・フェイトンがその愛ゆえに運命に翻弄され、苦悩し、果てには命を落としていったもの。少なくとも、芸能局の歌手でいる間は、愛は禁じられたものであり、苦しみでしかない。ジェレミーにも、それはわかっていた。それはどんなものか知ってみたいという思いもなかったわけではないが、知らないならその方が良いと、圧倒的に思っていたものでもあった。しかしその愛が、彼にも突然訪れたのだ。そしてやはりその愛は、ジェレミーにとって悲しみでしかないものだった。おそらくアヴェリンにとっても、そうなのだろう。彼女は今どうしているのか、懲罰期間が明けたらどうなるのだろうか――。
 その思いに苛まれ続け、日々はもどかしいほどゆっくりと過ぎていった。




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