Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第六章 曲がり角(3)




 ジェレミーの周りで唯一の明るさは、アヴェリンの存在だった。何が起きたか、何が自分を悩ませているのか、そんな話は出来ないものの、この少女が自分のそばにいてくれ、その笑顔を見、たわいないおしゃべりを交わすことで、重く沈んだ心が少し軽くなっていくような気がした。彼女に自分の目指す夢を語った時も、目を輝かせ、「そんなに大きな夢があるなんて、すごいですね。ジェミーさんなら、できるかも……なんだかそう思えます。ええ、根拠はないんですが、きっと……わたしには何も出来ないですが、叶うことを祈っています」と、言ってくれた。そこには無邪気な素直さと信頼が感じられ、ジェレミーは従兄以外に自分の夢の理解者が出来たような思いで、胸の中が熱くなった。
「君はどういう理由で歌手志望になったの?」
 ある日、ジェレミーはそう聞いた。
「歌うことが好きだったからです」
 アヴェリンは無邪気な調子でそう答えた。
 歌うことが好きだから、か――あの人も、そう答えていたな。かつてジェナインが見せてくれた、風景の中で。『君は何のために歌う?』と、講師に問いかけられて。そして、『たしかに嫌いでは、歌手にはなれんな』と、言われていた。自分も、歌うことは好きだ。ただ、どんな曲でも、というわけではない。ジェレミーはそう思いながら、さらに問うた。
「つまらない曲でも?」
「わたし、曲がつまらないとは、あまり感じたことはないんです。好きか、あまりそうでないか、というのはありますが。でも、あまり好きではないと感じた曲でも、聞いたり歌ったりしているうちに、好きになるものもあるかもしれませんし」
 無邪気だが新鮮な視点かもしれない。ジェレミーはそう感じた。芸能局から与えられている曲でも、つまらないと決め付けないで、歌っているうちに良いと思えてくるのかもしれない、一瞬そう考えて、すぐにまた自嘲気味に思った。いや、やっぱりつまらないものはつまらない、と。しかし同時に、少女の柔軟なものの見方が少し羨ましくも感じた。
「少し歌ってみてくれない?」ジェレミーは戯れに言った。
「ええ……じゃあ、少し恥ずかしいけれど」
 アヴェリンは少しためらったのち、歌いだした。それはジェレミーが前回のホーム期間で記録した歌の一つだった。少女の声は可愛らしく、甘く澄んでいて、同時に軽かった。良い声だ。人をひきつける蜜のようだ。深みや歌唱力はあまりなさそうだが、この声は大きな武器になるかもしれない。少女らしい飾りのついた衣装を着せ、甘くて軽やかな曲を歌えば、この子は人気が出るかもしれない。それに今歌っている曲も、自分が歌うよりは、彼女の歌い方の方がはまっているかもしれない。
「なかなかいいよ」ジェレミーは手を叩いた。
「本当ですか、嬉しいです」アヴェリンは頬を紅潮させた。
「わたし、自分でもあまり歌は巧くないの知っていますが、でも本当に歌うことは好きなんです」
「いや、君の声は武器になるよ」
「わあ、嬉しい。お世辞でも嬉しいです」
「いや、お世辞じゃないってば」ジェレミーは笑った。
「それで、いつデビューの予定なの?」
「四月なんです。ジェミーさんの付き人研修が終わったら、三ヶ月半みっちりレッスンして、それからデビューの準備期間が、一か月弱らしいです」
「ああ……」
 そうだ、アヴェリンはいつまでも自分とともにいてくれるわけではない。彼女の付き人期間は、あと二週間で終わるのだ。ジェレミーは言葉に出来ない妙な寂しさと感じた。
「ねえ、アヴェリン。僕ら……付き人期間が終わっても、友達になれないかな」
 自分でも気づかないうちに、そんな言葉が飛び出てきた。
「えっ?」アヴェリンは眼を見開き、驚いたような表情を浮かべている。
「ああ、君には迷惑かな。ごめん。つい、君と一緒の時が楽しかったものだから、そんなことを言ってしまったよ。気にしないで、忘れて……」
「そんなこと……」アヴェリンは声を詰まらせ、首を振った。
「うれしいです、わたし。ジェミーさんは、セーラさんやノーマさんより……ああ、もちろんお二方とも、良い方ですが……素敵な方で、たくさんお話も出来て、本当に楽しかったんです。あと二週間でお別れするの、寂しいなって思っていたので……あの、でも、お友達になってもいいんですか? 芸能局の歌手同士って」
「上層部はあまり歓迎しないって、以前アイドさんから聞いたけれど……ああ、君はアイド・フェイトンさん知っているよね」
「ええ、有名な方ですから」
「僕は新人研修時代、あの人の付き人をして、友人になれたんだ。その時、彼が言っていたんだけれどね。でも僕らは三年間ずっと友人でいるし、通信しあったり、時々は部屋を訪ねたりしているんだよ。まあ、たしかに上層部には歓迎されていないようだけれど、表立っても止められていないし、規約にも書いてはいないから、あまり頻繁に会ったりしなければ、大丈夫だと思うんだ。僕もアイドさんのほかに、新しい友達が出来たら、とても嬉しいと思うよ」
「わたしもです。芸能局に入ったら、友達づきあいなんてしてはいけないのだと、思っていましたから。でもジェミーさんとは、本当に一緒にいて楽しいんです。あの……こんなことを言っては、大変失礼だとは思いますが……ごめんなさい」
「失礼なんかじゃないよ。謝らないで。僕も同じ気持ちなんだ」
 ジェレミーは手を差し伸べた。アヴェリンは握り返してきた。初めて二人が会った時のように。少女の細い指にきゅっと力が入り、同時に眼を伏せて頬をかすかに紅に染めるのを見て、ジェレミーは新たな戦慄が身体を駆け抜けるのを感じた。しかし、これは不愉快なものではなかった。温かく、熱く、そしてわきあがってくる愛しさの感情。
 もしかしたら、自分が彼女に感じている思いは、友情でなく、愛なのかもしれない――そう気づき、ジェレミーは慄然とした。自分が恋に落ちるなんて、考えてもみなかった。でも、この感情は明らかに、普通の友情とは違う――。
 アヴェリンも同時に気づいたのだろう。びくっと小さく震えたと思うと、手を振り放し、頬はおろか首まで真紅に染めた。
「あっ……」
 二人は遠慮がちに見つめあい、そして次の瞬間、眼をそらした。
「あの……」
「ああ……」
 ジェレミーは頷き、一呼吸置いて、ため息とともに続けた。
「友達……で、いなければね」
「ええ……そうですね。でなければ……」
 少女が言いかけたことは、ジェレミーにもわかった。もう会わないほうがいい。これ以上感情が進展しては、危険だ。芸能局は、友人づきあいの禁止は明文化していないが、恋愛は、はっきりと禁止している。アイド・フェイトンのように引退のめどが立ったものなら、上層部はとやかく言わないが、ジェレミーは人気の絶頂期にあり、引退などはまだ視野にない。アヴェリンは、まだデビュー前だ。お互いに、芽生えた感情をはぐくむ余地がないことは、明白だった。ならば、これ以上友人づきあいをして、苦しい思いをするよりは、忘れた方がいい。ジェレミーも、そう認めざるをえなかった。しかしそう決断するには、心が鈍りすぎていた。
「とりあえず、あと二週間は、今までどおり行きたいな」
「そうですね……」
 しばらく沈黙が降りた。
「今日はもう……いいよ。ありがとう」
「ええ……じゃあ、帰ります」
 アヴェリンの声は、隠しきれない涙で詰まっていた。
 ジェレミーも、胸がふさがれるような思いを感じた。彼女が部屋から出て行くと、大きくため息をつき、次いでシャワールームに入った。そして服を脱ぐと、温度を「冷」に切り替え、スイッチを入れた。
 シャワーは水が流れる前時代式のものでなく、皮膚には無害だが、汚れや老廃物を分解してくれる洗浄成分を含んだ、細かい霧が身体に吹き付けてくる。いつもは熱いその霧を冷たくし、その中にジェレミーは立ち尽くした。そして声を出した。いつもの発声練習でなく、闇雲に。そうすることでしか、この混乱した心を静められそうになかった。 

 それから二週間、ぎこちなくも楽しく切ない時間を過ごしたあと、アヴェリンはジェレミーの付き人でなくなった。
「お世話になりました。いろいろありがとうございました」
 研修官に付き添われ、付き人最後の日にそう挨拶した、その灰色の瞳に涙はなかった。声も震えてはいなかった。しかしその瞳は、声にはこめられない大きな感情を映していた。
「僕もね。いろいろありがとう。がんばってね」
 ジェレミーは笑顔を浮かべ、そう言った。感情と裏腹の笑顔を浮かべることは、もう慣れている。しかし、声が裏返らないよう、ありったけの注意を払わなければならなかった。二人は最初の時のように、握手は交わさなかった。アヴェリンは頭を下げ、研修官と一緒に廊下を歩み去っていった。その後ろ姿をしばらく眺め、ジェレミーはきびすを返した。今は、胸の感情をあらわにすることは出来なかった。ハワード監督官がそばにおり、次の仕事も控えている今は。


 リビングは静まり返っていた。もう零時近い。里子となった幼い二人の子供はもちろん、父と母ももう寝ているのだろう。パトリックは小さくため息をつき、コーヒーのカートリッジの中身をカップに開けると、調理器で熱くした。そしてカップを手に持って、ソファに座り込んだ。
 この深夜の静寂を、以前の彼は楽しんでいた。しかし最近では、静寂は声にならない悲しみの音色のように感じられた。ヘイゼルの訃報以来、家からは笑いが消えてしまった。誰もが心に悲しみとやりきれなさを抱え、しかもその感情を決して表出させてはならないのだ。会話は途切れがちになり、合わせた視線はしばしば伏せられるようになり、リビングでくつろぐ時間も、めっきり減った。新たに加わった幼い家族たちも、悲しみと苦悩を伴う諸刃の剣のようにすら思われた。
 ヘイゼルの遺児トミーはここに来る前に、政府当局の手によって記憶消去が施されていた。まだ三歳半の彼が大きくなった時、母のことを覚えているかどうかは怪しいが、その可能性もないではない。それにこの子はあの運命の朝、母とその愛人が、血まみれで事切れた姿を見ているのだ。目覚めた時、眼に飛び込んできたその光景を。それが幼い心に与えた衝撃を思うと、これまでの記憶がすべて消されたのは、この子にとって幸いだったのかもしれない。
 トミーは短く切りそろえた栗色のまっすぐな髪と、父親エドガー譲りの灰色の目をしていた。しかし顔立ちは紛れもなく母親似だった。この子は生まれた時に二週間ほどこの家に滞在したきりで、その成長がどんな風だったかは知る由もなかったが、ここに来てからの彼は、その三才七ヶ月という年齢にふさわしい、無邪気な好奇心の発露や活動性を感じさせない子だった。言われたことはきちんとそのとおりにするが、自分からは何もしようとはしない。あたかも記憶だけでなく、感情すらも消されてしまったかのようだったが、この子に感情が存在しているのは感じられた。大きな不安と戸惑い――幼いトミーから感じられる思いは、今のところそれだけだった。そして彼のお行儀のよさは、たぶんこの子の父親であるエドガー・ハーツが『子供はきちんとしつけられなければならない』という方針だったために、ヘイゼルが懸命に息子をそのように育てた結果なのだろう。記憶は消されても、身についた習性はそのまま残っていると、この子の処置を担当した医師が説明していたから。「感情分野にも手はつけていません」と、その医師は言ってもいた。ならば、この幼さならば、まだいかようにも子供らしさや感情表現をはぐくむ余地はあるとメラニーは言い、復帰したカウンセラーの職を休職して(里子の場合も、養育期間中は実子と同じく、子供が三歳になるまで休職、その後は専門課程に入るまで、短縮在宅勤務が認められていた)、この孫と認めることの出来ない子供にかかりっきりになっていた。そしてもう一人の子供、ヘイゼルの恋人だったブルース・ターナーとその妻との間の子供、リチャード――今は母親の姓になって、リチャード・ジョーンズ・メイヤー、通称リッキーにも、できるだけ平等な愛情を注ごうと努めているようだった。
 リッキーは一歳半で、浅黒い肌と黒髪の巻き毛、そして黒っぽい眼をしていた。トミーよりもさらに幼いこの子にも、念のためにと、記憶消去は施されていた。それゆえ母を恋しがることもなかった。ただ、この子本来の気性なのか、それともそのように育てられたのかはわからないが、トミーと対照的にひどく落ち着きのない性格で、しばしばかんしゃくも爆発させた。なんでも手にとって吟味しようとするため、この子の手が届くところに物を出しっぱなしにしておくのは禁物だった。しかしこの年代なら、この行為は納得できること、もしこの子の性格が激しやすいものならば、これから少しずつコントロールを覚えるように教えていけばいいと、メラニーは言っていた。
 しかし、この二人の存在は、絶えず家族にヘイゼルの事を思い起こさせずにはいられないようだった。それは慰めであると同時に、悲しみの元でもあった。しかし、小さな二人が施設送りになるのを見るに忍びず、覚悟の元に引き取ったのだから、それもまた引き受けるべき代償なのだ。そして二人の子供は、たしかに家族の慰めにもなっているようだった。彼らに手がかかる分、物思いにふけったり自責の念にかられたりする時間を、少なくしてくれているようなのだから。

 コーヒーを半分ほど飲み終わった頃、キッチンに物音がした。眼を上げると、マーティンがカップを手にして、やってくるところだった。誰もいないと思っていたのだろうか、弟の姿を見ると、マーティンは少し驚いたような表情をしたが、すぐにカップをテーブルの上に置き、そばに腰を下した。
「珍しいね、マーティ。君がここに出てくるなんて」
「そうかい?」
「ああ。昔はともかく、最近はあまりなかったんじゃないかい。宇宙開発局の職員になってからは、特にさ」
「そうか。そうかもしれないな」
 二人はしばらく黙って、コーヒーを飲んでいた。先に来ていたパトリックが自分の分を飲み終わり、カップをキッチンの洗浄機に入れて、再びリビングに出てきた。マーティンは飲みかけのカップを持ったまま、顔を上げた。
「部屋へ帰るのかい、パット?」
「ああ……うん、でも……」
「何?」
「いや……」パトリックは首を振り、寂しさの入り混じった笑いを浮かべた。
「なんとなく、昔を思い出したんだ。僕らは時々、父さん母さんが寝てから二人でここに来て、ココアやコーヒーを作って、よく話していたなって。ジェレミーが来てからは、三人でさ。あの時も……」
「ああ……」
 マーティンにも、わかったのだろう。ヒルダとヘイゼルが結婚した晩に、三人で語り合ったことを。そしてその後、ヘイゼルが失踪した時にも。マーティンは頷いたのち、無言でカップに視線を落とした。
「……止めた方がいいね。変なことを言っちゃった、ごめん」
 パトリックは首を振った。
「パット……でも僕は、もう我慢できそうにないんだ」
 マーティンはカップを置き、弟を見上げた。二人はしばらく無言で互いを見た。
「マーティ、ここはまずいだろう。万が一父さん母さんや、チビたちが起きてきたら困るから。僕の部屋か君の部屋へでも行って、話そうか。そこでなら、外には聞こえないよ」
「そうだな……」
 マーティンは頷くと、カップの中身を飲み干して立ち上がった。
「ちょっと待っててくれ。これを片付けてくるよ。君の部屋へ行っていいかな」
「ああ。じゃ、行こう」

「あれから二ヶ月たったんだな」
 パトリックの部屋のスツールに座ると、マーティンは顔を上げ、そう切り出した。
「ああ」パトリックは頷く。それは一家にとって、長い二ヶ月だった。
「君は慣れているかい、今の状態に?」
 マーティンに問いかけられ、パトリックは首を振った。
「とても慣れることなんて、出来ないんじゃないかな。でも、僕らに他に何が出来る?」
「できやしないさ。トミーやリッキーのように、僕らの記憶も消去してくれたらいいとすら思うよ」マーティンはため息をついた。
「そりゃ、無理だろう。あの子たちは記憶を丸ごと消すから処理できたけれど、部分的な記憶だけを限定して消すのは、医学では出来ないんだから。丸ごと記憶を消されたら、いろいろ不都合じゃないか、僕らは」
「まあ、そうだろうな」
「君が宇宙開発局で今の仕事をするための知識も、全部飛んでしまうしね。それは困るだろう」
「そうだろうね。でも記憶を消したら、僕が宇宙開発局の技師だったことも、それが小さい頃からの憧れだったことも、すべて消えてしまうわけだろう? 今感じている葛藤も、何も感じなくなる。だったら、その方が幸せかもしれない、そんなことさえ考えてしまうんだ」
「マーティ」パトリックはしばらく沈黙し、言葉を捜した。
「そんなふうに思っていたのかい? でもそれじゃ……死にたいって言うことと、あまり変わりはないじゃないか」
 その言葉に驚いたように、マーティンは眼を見開き、首を振った。
「いや、違う。死にたいんじゃない。死んだら、そこですべてが終わるわけだろう。記憶が消えても、人生はまだ続いていくじゃないか。まっさらの状態で」
「よく考えてみなよ、マーティ。トミーやリッキーのような小さな子とは、わけが違うんだ。君は二三歳だ。ここまでの知識を全部消されたら、今から再教育なんて、この年齢じゃできないんだよ。雑務局ならまだましな方で、労働局へ行くしかなくなってしまうかもしれない。それでもいいのかい?」
「……そうか」マーティンは、はっとしたようだった。
「労働局か、それはいやだな。でも記憶がなくなってしまえば、きっとそれが当たり前と思うんだろうな……」
「たぶんね。でもきっと、世間からはさげすまれてしまうよ。モーリスのように。彼は良い奴だと僕は思う。でも、親戚の評価は君も知ってのとおりさ」
「ああ……」
「それに記憶は消えても、君の性格は残るんだよ、マーティ。君がそんな境遇に耐えられると思うかい?」
「そうだな……」マーティンは顔を覆った。
「それくらいだったら、いっそ何もかも消してくれたら良いかもしれない。機械カウンセリングのように、感情も性格も」
「それこそ、死にたいって言うのと同じだよ」
「そうだろうか……」
「そうさ、君のままで存在しえなくなる。それは死と同じさ。君がなくなるんだから」
「いや、僕は死にたいなんて罰当たりなことは、これっぽっちも考えたことはないんだ。ただ、消えてしまえば良いと思っているだけだよ」
「だから、それは同じことだよ、マーティ」パトリックはため息をついた。
「この社会で、自分から死ぬことなんて、決して許されることじゃない。社会に貢献するのを、自分で拒否するなんてね。それじゃ、何のために生まれたのかってことになる。だから、いなかったことにされる。世間では、こういうこともできるんだって知ってしまうと困るから、その存在は決して報道もされない。だから普通の人は、死ぬことなんて考えない。だけどさ、もし深い絶望を感じたら、人はどうするのだろう。折り合いをつけて生きていくしかないのだけれど、それも限界だって感じたら。機械カウンセリングを受けて、今までの自分を消してしまうか、さもなければ自分の人生を自分で終わりにする。普通の人は、この道は選ばないだろうけれどね。ことにヘイゼル姉さんのように、多くの人を巻き込んでいる場合、一番平穏な解決方法は、機械カウンセリングを受けることだったろうと思う。姉さんの心は死んでしまうけれど、物理的に死んでしまったら、結果的にはなんら変わりはないと思うから」
「そうだよ!」マーティンが声をあげ、拳で膝を叩いた。
「なぜ、そうしてくれなかったんだろう。こんな道をとるより、よっぽどみんな、救われたのに。トミーだってリッキーだって、親の元で暮らせたわけだし、僕らだって……いや、機械カウンセリング者が身内から出たっていうのは、相当恥には違いないけれど、自殺なんて……公にはされないけれど、もっと恥だ。僕は上司から……その人は僕のことをずいぶん眼をかけてくれたんだ。その人が一ヶ月前、ここだけの話だけれど、一回しか言えないけれど、自分はとても残念に思うって前置きして、言ったんだよ。僕はもう上のポジションに行ける見込みは、ほとんどないだろうって」
「なんだって……」パトリックは絶句した。
「そんな……姉さんがそうなったからって、君には関係のないことなのに? それに第一、姉さんのことは公には、何も処理されないはずなのに」
「だから、公には何も処理されないだろう。自殺者の弟だからって、僕に処罰があるわけでもない。でも社会的には、眼に見えない大きな汚点になってしまうんだよ。昇進のチャンスがあった場合、僕は一番後回しにされる、それだけのことだけれど」
「それだけって……じゃあ、みんなそうなのかい?」
「たぶんね。まあ、父さんはもうすぐ五三歳だし、これ以上昇進もないから良いだろう。アルバートさんは血族じゃないから、それほど影響はないらしいけれど、ヒルダ姉さんはやっぱりだめだろうな。君にも問題は出るだろうけれど、パット、君は学術だし、高位の学術員を目指しているのでなければ、それほど影響はないんだろうね」
「ああ、まあ、僕の場合はそうだろうね」
「でもある意味、今度のことで一番打撃が大きかったのは、エドガーさんかもしれないけれどね。僕の職場の友人に医学局幹部の息子がいるんだけれど、彼がこっそり僕にあの人のことを教えてくれたんだ。あの人も見事にエリートコースから外れたらしい。そしてブルースの奥さんと結婚させられたそうだよ」
「ええ?」
「エドガーさんも、三十過ぎているからね。とっくに限界年齢越えだから、良い条件の結婚相手なんて見つからないのさ。だから政府が、余ったもの同士でくっつけてしまったらしいよ」
「でも、二人とも初対面だろう?」
「そうだろうね。でも他に選択の余地はなかったんだろう。噂では、半ば強制命令に近かったようだよ。自殺者の配偶者としての、ペナルティなんだろうね」
 マーティンは肩をすくめた。
「そうか……」パトリックはしばし黙って、考え込んだ。
「でも、僕はあの人にはあまり同情を感じないな。姉さんをここまで精神的に追い込んだ一端は、あの人にあると思っているから」
「厳しいね、パット」マーティンは苦笑をもらした。
「僕はあの人に、少しは同情しているよ。今度の事件は、まったく青天の霹靂だっただろうからね。姉さんはブルースのことを、エドガーさんには何も話していなかったらしいし、ただ良い奥さんだと思って満足していたら、急に裏切られたわけだ。彼から見れば」
「まあ、それはそうかもね。あの人から見れば……」
「あの人は姉さんの気持ちに無頓着だったかもしれないけれど、それが自分の一生を台無しにしてしまうような、ひどい罪だったのだろうか、そうも思えてしまうんだ」
「そうだね。そう思うと、たしかにあの人も、気の毒だったかもしれない」
「姉さんは、勝手だよ」マーティンは押し殺すようにうめいた。
「あとに残された人の気持ちも、その人たちがどうなるのかも、何も考えちゃいないで、あんなことを……」
「考えなかったわけじゃないと思うよ」
「同じことさ。でも……」マーティンは頭を抱えた。
「そう思ってしまう自分も、いやなんだ。ヘイゼル姉さんはいつも、僕らに優しかった。覚えている限りいつも……ヒルダ姉さんも優しかったけれど、違う種類の、穏やかな愛情を、いつも感じさせてくれたんだ。僕も物心ついた頃から、姉さんたちが好きだった。でも今、姉さんに恨みにも似た気持ちを、感じてしまうなんて。勝手だと思って、責めているその理由は、自分が宇宙開発局での出世を断たれたから、そんな利己的なことで姉さんを非難しているなんて、なんだか自分がとても薄情な人間に思えてしまうんだよ」
「マーティ」
 パトリックはしばらくの沈黙ののち、兄の肩に手を伸ばした。
「そう思えるうちは、君は薄情な人間なんかじゃないよ。仕方がない感情なんじゃないかな。君からすれば。エドガーさんなんて、内心それこそ怒り狂っているだろうけれど、あの人は決して自分を責めたりはしないだろうね」
「そうかもしれないね……」
 マーティンは顔を上げ、弱々しい笑みを浮かべた。
「君はあれだけ宇宙開発局での仕事に情熱を燃やしてきたんだから、昇進できなくなるっていうのはショックに違いないし、それが自分のせいでもなんでもない理由なら、怒りたくなるのは当たり前だと思うよ。だから、君も自分を責める必要はないと思う、マーティ」
「そうかな……」
「そうだよ。僕だって姉さんに怒っているところはあるんだから。どんな理由であれ、自殺なんてすべきじゃなかったと思う。あとに残された人たちのことを考えたら……そもそも姉さんはブルースのところへなんて、行ってはいけなかったんだ」
「八年近くも離れていて、それでも忘れられない愛情って、なんなんだろうね……そんなものがあるとは、僕も思わなかったよ」
「ああ、僕もさ。実際に恋人が出来て、愛情についてはわかるつもりでいるけれど、でもヘイゼル姉さんの思いは、僕には想像が出来ない。それほど深い愛だったのか……姉さんが結婚した晩に、ジェレミーが言っていたっけ。もし生涯に愛せる人が、その人ただひとりしかいなかったとしたら、でもその人とはどうしても結ばれないとしたら、どうするのだろうって。ヘイゼル姉さんとブルースは、生涯たったひとつの愛だったのかもしれない。それを二人は貫こうとしたんだ。社会に逆らって、何もかも捨てて……そこまで強い愛が、なぜこんな悲劇になってしまったんだろう。結婚適正があわなかった。ただそれだけで」
「生涯の愛か。何もかも犠牲にしてまで貫きたい愛なんて、僕にはとても自分勝手にすら思えてしまうよ。それに二人で自殺なんていう結末が、とても愛を貫いたなんて言えやしないと思う。だってそこから先には、何もありはしないんだから」
「死んだら、一切の終わりだからね。二人で暮らせる場所に行けるわけじゃない。結果的には機械カウンセリングを受けたのと、何も変わりはしないんだ。なのにどうして……やっぱり、僕にもわからないよ」
 パトリックも天井を仰ぎ、ため息を漏らした後、首を振った。
「だけどさ、マーティ。僕らに出来ることは、忘れるしかないんだろうな。いや、忘れることなんて出来ないけれど、僕らは僕らで生きていくしかないんだ。君だって、昇進が閉ざされるのは辛いだろうけれど、君はそもそも出世がどうとかじゃなくて、宇宙局の仕事そのものが好きだったんじゃないかい? ならば、それを続けていくしかないんじゃないのかな」
「ああ、僕もそうは思っていたんだ。いや、そう思おうとした、というべきかな。だって、実際問題としては、それしか出来やしないからね」
 マーティンは立ち上がった。「ありがとう、パット。いろいろ思っていることを話せたら、なんだか少しだけ気分が軽くなったよ」
「僕もさ。こっちこそありがとう、マーティ。今まで話せなかったからね、姉さんのことや、事件のことなんて。僕も少し気が晴れたよ」
「それならよかった」マーティンは少し照れたような笑みを浮かべた。
「仕事にかまけて、忘れていたよ。君やジェレミーと語り合っていた夜が、どんなに楽しかったか。君がいてくれて、本当に良かったと思う、パット」
「兄弟じゃないか。そのためにいるようなものだろ。僕も君がいてくれてよかったと思うよ、マーティ」パトリックも若干の照れを感じながら笑みを浮かべ、肩をすくめた。
 
 マーティンが部屋から出て行ったあと、パトリックは机の前に座り、両手をぎゅっと頭に押しつけた。
(言うことは簡単だよ。僕だって、偉そうなことはいくらでも言えるさ。でも、実行することは、大変なんだよな。それでも、実行できなきゃ、いくら言葉で空論を並べても、同じことなんだ。がんばれ、マーティ。それから僕も……)
 パトリックはぽんと両手で自分の頭を叩き、大きくため息をついた。そして、コンピュータ端末のスイッチを入れた。ジェレミーの出ている番組をチェックするために。めったに会えない従弟の動向を見守ることは、ジェレミーがデビューしてからの三年間、パトリックの日課のようになっていた。もっとも従弟が音楽プログラムに出るのは、一年のうち半年だけなのだが。今はちょうどその期間だ。
 カラフルで甘いムードを漂わせる衣装に身を包んだジェレミーの姿を見るのは、いつもパトリックにとって、奇妙な違和感を覚えさせた。夢に向かって賭けてみたいと言ったジェレミーだが、今の姿はあまりにも遠いように思えた。しかし、それでも彼はまだ、夢を諦めてはいないのだ。そのことはディスプレイ越しの映像から、その歌声から、十分感じられた。
(ジェレミーも、本当にタフな道を選んだもんだな。僕がそそのかしたも同然なんだろうけれど……でも、えらいよ、本当。僕には、がんばれとしか言えないな)
 パトリックは頬杖をつき、小さなディスプレイの中のジェレミーを見ていた。それはその週の全リクエスト集計を競う、カウントダウン形式のプログラムだった。ジェレミーの曲は前週の二位から落ちて四位だが、ベスト10にランクインしてすでに三週が経過し、来週には新しい曲が出るので、このランクダウンは順当なものともいえた。
 そしてジェレミーに続き三位の歌手名が出た時、パトリックは軽い驚きを感じ、思わず小さな声を漏らした。
「アイド・フェイトン……へえ! 久しぶりだな。先週の十二位から大ランクアップか。あの人の曲がベストテンに入ったのって、二年ぶりくらいじゃないのかな」


 ジェレミーもその少し前に、部屋の端末でアイドのことを知った。この手の音楽番組は出演歌手ごとに単発で録画されるので、全体の順位表はその時点ではわからない。しかし、毎週のリクエスト集計ランク表は必ずチェックするように、監督官から言われているので、順位自体に全く興味はないものの、金曜日の夜に集計表を見るのは、芸能局に入って以来の習慣だったのだ。
 上位十位までの順位表の中にアイド・フェイトンが入ってきたのは、一年と十一ヶ月、ほぼ二年前だった。それ以来ずっと十位に届かず、もしこのホーム期間でヒット(芸能局歌手部門においては、ベストテン内五週以上、もしくは最高位三位以上をヒットとみなす)が出なければ、次のプロモーション期間が引退興行になると言われていたはずだ。それゆえ、この曲が今までどおりベストテン内に入ってこなければ、もしくは入っても四位以下で、すぐ圏外になるならば、これが彼の最後の曲になるはずであったが。
 先輩であり、芸能局唯一の友人であるアイドが再びヒットを飛ばしたことを、しかしジェレミーは喜べなかった。順位表を見た時、ジェレミーが感じたのは驚きと、深い懸念でしかなかった。誰よりもきっとアイド自身が、そう感じているであろうとも思えた。彼は引退したがっていた。そして芸能局の職員となり、好きな娘と結婚すると、ほんの三ヶ月ほど前、嬉しそうに語っていたが、ここに来てヒットが生まれてしまうとは、皮肉以外のなにものでもないだろう。果たしてアイドは無事に引退させてもらえるのだろうか――。
 通信してみようとしたが、アイドは不在のようだった。ジェレミーはディスプレイのスイッチを切り、日課をこなしにシャワールームへと向かった。重い心を抱いて。

 アイド・フェイトンからの私信が入ったのは三日後だった。
「ジェミーか?」
 端末のスピーカーから聞こえてくる声は、憔悴しきっていた。画面はオフにしてあるらしく、姿は見えない。
「俺はもうダメだ」その声はそう続けた。
「アイドさん!」ジェレミーは夢中で呼びかけた。
「大丈夫ですか? ねえ、どうなったんです?」
「引退は撤回になった」
「ええ?!」
「もう一サイクルやるんだとさ」
「ああ、それは……残念です……ね。あと半年のはずが、一年半に延びてしまって……」
 ジェレミーは言葉を捜した。「……僕は……その、なんて言ったらいいか……でもきっと、相手の方は待ってくださいますよ」
「待てないんだよ!」その声は、叩きつけるように響いた。
「一年半も待ったら、彼女は限界年齢を超えてしまう。今から十ヶ月以内に俺が引退できなきゃ、彼女は他の誰かと結婚しなければならないのさ」
「そんな……」
「くそったれ! なんでこんな最後の最後でヒットなんか……くそっ! 芸能局の連中が俺に嫌がらせしてるんじゃないのか!!」
「あの曲は……僕も聞いたんですが、アイドさんに合っていたのかと、そんな気がしました。ムードやキャラクターに」
「そんなことはどうでもいいさ。なんでそんなものを、今になってよこすんだ」
「アイドさん……僕はなんて言っていいか……」
 言葉を探せない自分が、もどかしかった。慰めの言葉も、励ましの言葉も見つからない。相手の声から伝わる絶望と怒りの感情を前にして、いったい自分に何が言えるのだろう。その痛みを、絶望を和らげる何かが、そんな力が自分にあるのだろうか――。
「すまなかったな。ジェミー」
 相手の声が、少しだけ明るくなった。ほんの少しだけだが。
「おまえに言っても、しょうがないことだった。だが誰かに言わなければ、耐えられそうになかったんだ。メリルはなんて思うだろう。今度の休暇に会う約束なんだが……」
「メリルさんっていうんですか。アイドさんの恋人は」
「ああ、メリル・リンドバークっていうんだ」
「どこでお知り合いになったんですか?」
「彼女は昔から、俺のファンだったらしい。二年前の休暇で出会って、それからずっと休暇になると、会って来たんだ」
「そうなんですか……」
「だが、今のままだと結婚は出来ない……」
 再びその声が、絶望に曇った。
「アイドさん……」
「ああ、すまん。きりがないな」
 再び相手は少し気を取り直したようだった。
「じゃあな、ジェミー」
「あっ、アイドさん!」ジェレミーは思わず、小さく叫んだ
「あの……あの、どうか気を落とさないで、なんて言うのは、本当にとっても白々しいんですが、僕にはそれだけしか言えそうにありません。ひどいと思います。アイドさんの気持ち、完全にわかるといったら嘘になるかもしれないけれど、ある程度はわかると思います。でも、どうか……どうか、負けないでください」
 長い沈黙が流れた。そして、相手はぽつりと言った。
「ありがとうよ、ジェミー」
 そして、通信は切れた。最初のスタンバイ画面に戻ったスクリーンを、ジェレミーはしばらく無言で見つめていた。そして端末のスイッチを切り、テーブルに手をついて、じっと見下ろした。我知らず、言葉が漏れる。
「お願いだよ、アイドさん……お願い、負けないで……ください」
 それにしても、どうしてこんなことになってしまうのだろう。ヘイゼルのこと、アイドのこと、そして自分自身の思いも、巨大な何かに当たって跳ね返されてしまうような――再び、強い憤りを感じた。自分に出来ることなど何もないのだという思いが、その憤りに拍車をかけ、さらに行き場をなくして膨れ上がってくるようだった。




BACK    NEXT    Index    Novel Top