Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第六章 曲がり角(2)




 翌日一日は、いつもより空気が重かった。その日、ヘイゼルからは何も連絡がなかった。ジェレミーは従姉の行方が非常に気になったが、自分にはその顛末を見届けることは出来ないだろうということが、二重に思いにのしかかっていた。その日の夕食を終えたら、彼は芸能局の寮に戻らなければならないのだ。今日で一週間の休暇、最終日なのだから。あとはホーム期間が終わり、プロモーション期間が始まる二週間ほど前にならなければ(つまり、七ヶ月ほど先ということになる)、次の休暇はこない。外部通信は禁じられているので、連絡も取れない。
 夕食の席で、ふとジェレミーは思い出した。芸能局の規則リストの中に、活動中の外部接触が出来る、唯一の手段があるということを。それは『後見人の面会』である。
 芸能局の登録者は普通の家庭出身者が選ばれることはまずないそうだが、規則として彼らには保護者代わりになる『後見人』が、いなければならない。正式な職員になるためには、その人の承認がいる。たとえばアイド・フェイトンの場合、後見人は彼が育った施設の職員の一人だったが、入局以来一度も面会には来ていないという。年二回が限度、時間は一回につき三十分、という条件ではあったが、面会者がほとんどいないのは、芸能局の所属者には、あまり近しい肉親がいないせいなのかもしれない。
 ジェレミーの後見人はアンソニーである。だが自分の芸能局入りは、自分を引き取り育ててくれた伯父夫妻に対する忘恩行為だという引け目のせいで、これ以上伯父にわずらわしいことを頼むわけにはいかないと、後見人面会権のことは誰にも言わずにおいていた。しかし、このヘイゼルの件があまりに気にかかり、それがどうなったかを半年以上もたってから知るのでは耐えられないと、ジェレミーは思った。そこで夕食の席で、ジェレミーは後見人面会権のことを話し、申し訳ないけれど、伯父の都合のいい時でかまわないので、ヘイゼルの事件が解決を見たら、ぜひその結果を教えて欲しいと頼んだのだ。
「ああ、わかった。君にも気になることだろうしね」アンソニーは頷いた。
「いつになるかはわからないが、問題が片付いたら、君のところに行くよ。面会申請は、どうすればいいんだい?」
「通信で芸能局に問い合わせればいいそうです。すみません、よろしくお願いします」
「わかった」
「何なら父さんの代わりに、僕が行こうか。父さんには仕事があるから」
 パトリックが、そこで身を乗り出した。
「君にも会いたいけれど、パット、面会に関しては、代理はダメらしいんだ。ごめんね」
 ジェレミーはすまなさと名残惜しさを取り混ぜて、従兄を見た。
「やっぱりそうか。残念だな」
「普通はそうだろ。常識を知りなよ、パット。いくらジェレミーに会いたいからって」
 マーティンは苦笑している。
「まあ、休みの時に行けばいいだろう。しかし、いつも思うんだが、芸能局というのは、ずいぶん閉鎖的なところなんだな。休暇中以外は外部通信が出来ないというのは、不便なものだ」と、アンソニーは首を振り、、
「あっ、僕もいつもそう思っているよ」パトリックが賛同の声を上げた。
「だから、芸能局は特殊だって言うんだろう」
 マーティンの口調は、いくぶん冷めたように響いた。ジェレミーはその言葉に、自責の念を感じずにはいられなかった。宇宙局を捨て、その特殊な世界に飛び込んでしまった自分を、従兄は決して責めているわけではないと、わかってはいたのだが。

 休暇が明け、翌日からホーム期間の仕事が始まった。まずは一週間で振りも含めて新曲をマスターし、データベースに音源だけのファイルと映像付きのもの、二種類を記録する。次の三週間は、その新曲をひっさげてテレビの放送プログラムに出演し、音楽日報(放送プログラムとは別に、分野別の情報や記事を集めた文献で、日報という名だが、発行は一週間に二回だ)のインタビューに答え、売り込む。もちろんインタビューの答えも、テレビのプログラムでの受け答えも、あらかじめ台本が決められていて、自分はその通りに言うだけだ。このサイクルが五、六回繰り返される。その間に、単発のドラマや娯楽番組のゲストに出ることも、しばしばある。その期間が終わると三日間の休暇がもらえ、その後は次のプロモーション期間に向けてのコンサート練習が一週間、そして全国興行が始まる。世界を巡り、前回のホーム期間での新曲を中心に、以前のヒット曲を交えたコンサートをし、サイン会を開く。これが六ヶ月。それが終わると、ホーム期間に戻って、プロモーション期間の総括としてのプログラム出演やインタビューが一週間。そして、一週間の休暇。ずっとこの繰り返しが続くのである。三十歳になるか、その前に人気が落ちて、引退勧告されるまでは。
 ホーム期間の時には、新人研修の一環として、芸能局に入局したばかりの歌手の卵たちが、付き添い人として派遣されてくることも多かった。かつてジェレミーが研修期間中、アイド・フェイトンの付き人を務めたように。ただ、ジェレミーの時にはずっとアイドの付き人だったが、二年ほど前にシステムが変わったらしく、新人研修者たちは、六週間単位で担当を変わっているようだった。そして付き人を務める時に以前は添付されていた、その新人研修者たちの個人データも、配布されないようになっていた。与えられる情報は、ただ名前と年齢だけだ。
 この新しい制度の下では、ジェレミーにとって、やっと慣れたと思ったらもう別の人、ということになり、落ち着かない気分だった。彼は決して付き人たちに意地悪はしなかった。できるだけ打ち解けようとした。しかし彼らの方に常に何かの障壁があるように、態度や言葉遣いも丁寧ではあるが控えめで、心理上の距離感がなかなか埋まらなかった。そしてやっと少しその距離が縮まりかけた頃には、もう次の担当者へと移ってしまう。もどかしい思いだったが、『馴れ合いを排除するため』という芸能局上層部の理由付けを聞いて、ジェレミーは悟った。芸能局上層部は歌手同士の交友をあまり好まないと、かつてアイドが言っていたが、その通りなのだろう。担当歌手と付き人が仲良くなることは、彼らにとって好ましからざることなのだ。
 研修制度が変わったのは、アイドと自分が仲良くなってしまったからだろうか、と思うこともあった。となると、あまり自分は上層部の受けは良くないのだろう。一回研修期間中に脱走もしているし、他の歌手と交流も持っている。彼らから見ると変な練習を毎日続けるという奇行もある。人気がなくなる兆候を見せたら、すぐに切られるかもしれない。そう思うと、交錯した気分に襲われる。キャリアの終わり。つまらない日常からの解放。そして希望の終焉。しかし、その間に果たして夢が叶う可能性は、一パーセントでもあるのだろうか。ありはしないのかもしれない――。
 ジェレミーは頭を振り、思いを断ち切った。考えまい、先のことは。今できる努力をすることだ。

 休暇が明け、ホームの新曲期間に入った最初の日、ジェレミーは新しい付き人――研修期間中の歌手の卵に引き合わされた。驚いたことに、今度の付き人は女の子だった。
「初めまして。よろしくお願いします」
 その娘はすみれ色がかった灰色の大きな瞳を――母を思わせるその色の瞳を輝かせて、そう挨拶した。小柄というほどではないが、さほど背は高くない。全体的に華奢な身体に、手足がすらりと伸びていた。鼻や口は小さめで、愛らしく整った顔立ち、ふっくらとばら色を帯びた頬、くるくると巻き毛になって肩に垂れた、明るい亜麻色の髪。その少女は、まだ十代後半くらいの年頃に見えた。
「アヴェリン・シンクレア・ローゼンスタイナーと言います。今、十八歳と二ヶ月です。三ヶ月前に入局して、今までセーラ・カーティアさんとノーマ・セイヤーさんの付き人を勤めさせていただきました。今日から六週間、ジェミーさんの付き人をさせていただくことになりました。よろしくお願いします」
「あ……ああ、始めまして、アヴェリン。こちらこそよろしく」
 ジェレミーは内心戸惑いを覚えながらも、手を差し出した。少女は手を伸べ、遠慮がちに握り返してくる。小さな、細い指だった。ジェレミーは少なからず動揺していた。今まで何人もの新人研修生――付き人が来たが、みな男の子ばかりだった。同性の先輩の付き人になるというのが、芸能局の不文律だとばかり思っていたが――。
「少し規則を緩和して、付き人の性差にはこだわらないことにしたんです。それでも、問題はないはずですから」
 彼女に付き添っていた研修官が、口元に笑みを漂わせながら、そう説明していた。
「まあ、しっかり勤めてくれ。こっちは忙しいからな」
 ジェレミーの担当監督官であるイーザン・ハワード氏は、苦笑を浮かべているようだ。
「この子も、午後から来るのだな?」
「はい、午前中はレッスンがあるので、十四時からということになります」
 研修官は、やや卑屈な笑みを浮かべて答えている。

 付き人が少女であるということで、ジェレミーは初めのうちは動揺を感じたが、できるだけ気にしないように勤めた。相手が男の子であれ女の子であれ、同じように接すればいいのではないかと。ただ、やはり女性の前で着替えをする気にはなれず、そのたびに「もう良いと言うまで向こうを向いていて」と、いちいち断らなければならないのが、いささかわずらわしく、同時に恥ずかしくもあった。
 アヴェリン・ローゼンスタイナーは、ジェレミーが経験した付き人たちの中では、一番気が利いていて、快活だった。二、三日もすると、もうやるべきことを覚え、ジェレミーが指示を出す前から、望んでいたようにやってくれるようになった。着替えを用意する、必要な時に小物を差し出す、荷物を持つ、髪の手入れをする、服にブラシをかける、ランドリーボックスに出す、そういった、こまごまとした雑用を、いつも溢れるような笑顔を浮かべながら、楽しそうにやっていた。ジェレミーはいつの間にか、この少女が毎日十四時にやってくるのを待ち焦がれるようになった。アヴェリンの笑顔を見ると、いつも温かい、ほっとした気分になれ、ずっと彼女が自分の付き人をやってくれたらいいのに、とさえ時々思うようになっていた。いつもの耐え難く退屈な仕事も、彼女がそばにいてくれると、いくぶん救われるように感じた。

 三週間が過ぎたころ、一日の仕事を終えて部屋に帰ってきたジェレミーは、コンピュータをつけて明日の日程を確かめた。そして思わず「あっ」と小さな声を上げた。
「どうかしましたか、ジェミーさん」
 いつものように部屋に付き添ってきたアヴェリンが、そう声をかけた。
「いや……明日の九時から三十分間、後見人の面会が入っているんだ」
 ジェレミーは振り返って答えた。
「後見人さんの面会ですか」
「ああ」
「あの……差し出がましいことを聞いてしまったら、すみません。ジェミーさんの後見人さんって、どなたですか?」
「伯父なんだよ」
 ジェレミーは気にしていないことを知らせるために微笑みながら、答えた。
「君の後見人は誰?」
「母なんです」
「君のおかあさん?」
「ええ」
「そう……珍しいね」ジェレミーは思わずそう言葉に出していた。
「そうなんですか? 珍しいですか?」
「ああ。芸能局に来る人は、何らかの事情で両親とはかかわりあいが薄い、という人が多いって聞くから」
「そうなんですか。ああ、でも、わたし……」
「何?」
「ああ、いいえ、なんでもないです」
「どうしたの?」
「すみません。あの……わたし、ついいろいろなことを聞きたくなったり、話したくなったりしてしまうんですが、セーラさんもノーマさんも、わずらわしいからやめてくれって仰るし、研修官さんも、そのとおりだ、よけいなおしゃべりはするなって。なので……」
「僕はかまわないよ。どちらかと言えば、用件だけじゃなくて、たわいない話もしたいほうだし。君がいやじゃなければ」
「いいんですか?」アヴェリンの表情が明るくなった。
「いいよ。それで、何を言いかけたの?」
「わたしは、母とは一緒に住んでいたんですが、父はいないんです」
「そうなんだ……亡くなったの?」
「いえ、健在です。都市設計局のオペレータで、今ヨーロッパ地区のパリス市に住んでいます。兄もわたしも、その人の子供なんですが、その人には奥さんとお子さんたちがいるんです。母はわたしが生まれてすぐに、その人と強制的に別れさせられて、シカゴ市に移住させられて、母はそこで、わたしたちを育てたんです」
「そう」
「すみません。わたしのプライベートなことなんて、ジェミーさんにはご興味ありませんよね」
「いや、そんなことはないよ。本当に。君のことをいろいろ知るのは、僕は嬉しいな」
「本当ですか?」再び、その表情がぱっと輝いた。
「本当だよ。じゃあ、君も自然出生?」
「ええ。それに、兄もそうです」
「君のご家族はシカゴ市に?」
「ええ。わたしの家族は、そこに住んでいます」
「お兄さんやお母さんは、お仕事に?」
「母はまだ育児期間中だから在宅仕事なんですが、もともと学術局員だから、ほとんど変わらないですね」
「へえ、パットと同じだ。あっ、パトリックは僕の従兄で、その伯父さんの子供なんだけれど、僕の親友でもあるんだ。彼も学術局員なんだよ」
「あら、珍しいですね。ああ、失礼なこと言ってしまって、すみませんでした」
「いいよ、大丈夫。だから、そんなに謝ってばかりいないで」ジェレミーは苦笑した。
「ごめんなさい」言ってしまってから、アヴェリンは気づいたのか、(また言っちゃった)というような表情で、笑った。ジェレミーも思わず、つられて笑った。
「それで、君のお兄さんは?」
「兄も学術局員なんです」
「へえ、じゃあ、親子二代で」
「ええ。それでわたしは芸能局で。うちは変わり者ぞろいらしいです。それでローゼンスタイナーの家からは、いないことにされているっていうか、祖父母も親戚もパリス市にいるので、完全に没交渉ですが」
「そう」
 ジェレミーは頷きながら、思った。ローゼンスタイナーといえば、新世界初代大統領の、そしてジェレミーが目指す守護神と言われる人の家系なのだな、と。アヴェリンも、あの人の血を引く末裔なのだろうか。しかも、シンクレア・ローゼンスタイナーだ。あの初代大統領と同じ――もっとも、初代大統領に子供はいなかったそうだが。そしてローリングス姓の自分は、あのギター奏者の――いや、二千年もたつ間には、かなり血は拡散し、交じり合っていることだろう。現に祖母の母はローゼンスタイナー家の出だと、パトリックも言っていたし。
「僕はね……ああ、君は僕の話には興味ないかもしれないけれど……」
「そんなことないですよ!」
 アヴェリンはほとんど間髪をいれずに、そう声を上げていた。
「じゃあ……僕も私生児なんだけれど、父親は誰だかわからなくて、母が結婚して、僕は祖父母の家で育てられたんだ。そして十四の時、伯父一家が引き取ってくれて」
 ジェレミーは芸能局に入るまでの半生を簡単に語った。アヴェリンは時折目を潤ませながら頷いていたが、聞き終わると、ほっと小さなため息をついた。
「うまく言えないんですが……伯父さんのご家族が良い方たちで、本当に良かったです」
 その声に込められた共鳴と同情に、ジェレミーは心の中に温かい思いが湧き上がってくるのを感じていた。
「うん。アンソニー伯父さんたちは、僕の恩人なんだ……」
 頷きながら、ジェレミーはもう一度画面に目をやった。
【九時から九時三十分:後見人面会(一回目)】
 その後も予定は二二時までずっと入っていたが、ジェレミーは冒頭のラインしか見ていなかった。アンソニー伯父が面会に来る。ということは、ヘイゼルの件が何らかの決着を見たのだろう。あれから三週間が過ぎているが、彼女は無事に夫の元へと戻ったのだろうか――。

 芸能局の面会室は正面玄関のすぐ脇にある、小さな部屋だった。窓はなく、壁は真っ白で、床には濃いブルーの絨毯が敷いてあり、丸いテーブルを挟んで、青い布製の椅子が二客置いてあるだけの部屋だ。ジェレミーがハワード監督官と一緒に部屋に入ると、アンソニーはすでに椅子に腰かけて待っていた。
「それでは三十分までですので、ローリングスさん。時間が来ましたら、また参ります」
 ハワード監督官はそう告げると、ジェレミーを部屋に残して出て行った。
「三十分か……」
 アンソニーは何かを探すように部屋を見回し、そしてジェレミーを見た。
「そうすると、あまり無駄話をしている暇はなさそうだな」
 ジェレミーは伯父の顔を見た。そして以前会った時から、わずか三週間しかたっていないにもかかわらず、まるでいっぺんに二十歳ほど歳をとってしまったかのように、伯父の髪はさらに薄くなり、顔には深い皺と憔悴の色が刻まれているのを見て、衝撃に見舞われた。悪い予感に、戦慄が背中を駆け抜け、口の中が乾くのを感じた。
「約束どおり、ヘイゼルのことを報告しにきたんだ」
 アンソニーはテーブルに視線を落とした。
「最初から話していこう。ヘイゼルは二日たっても帰ってこなかったので、エドガーは警察に捜索を依頼した。そして各都市の記録やインターシティ・シャトルの乗車記録などから、ヘイゼルは家を出たその日に、サンパウロ市に行ったことがわかったんだ」
「サンパウロ市に? 伯父さんたちが以前、住んでいた……?」
「そうだ。そしてヘイゼルは市内の旅行者用宿泊施設に泊まり、その通信端末からブルース・ターナーの職場に連絡をしたという」
「え?」
 ブルース・ターナーはヘイゼルの以前の恋人だった。しかし二人は結婚適正があわないために申請を拒否され、八年前に別れていたはずだ。
「なぜそんなことをしたのか、ヘイゼル自身にもよくわからなかったそうだ。ただとても疲れてしまって、サンパウロに帰りたくなった。そしてまるで熱に浮かされるように、ブルースに連絡を入れてしまった、と。その時には、バカなことをした。もう彼も結婚して、家庭があるはずだ。第一、前と同じ職場にいるかどうかも、わからない。もし変わっているなら、その時には諦めよう。そう思ったそうだが、ブルースの職場は変わっていなかったので、通信がつながった。しかも、その通信を取ったのは、ブルース本人だったそうだ。そして二人は短い会話を交わし、その夕方、仕事が終わってから、ブルースがヘイゼルの泊まっている宿泊所に訪ねてきたそうだ」
「それで……?」
「二人はその夜、トミーも一緒にだが、最終便のシャトルのチケットを買って、シドニー市へ向かった」
「ええ?」
 オーストラリア地区の? なんて遠いところへ――ニューヨーク市とサンパウロ市も遠いが、それ以上に。二人で。いや、トミーも連れて三人で――。
「二人の愛は、消えていなかったということだな」
 アンソニーは暗い表情で、ため息をついた。
「お互いに違う伴侶を見つけ、別の人生を歩もうとしていたが、心ではお互いを呼び合い、惹かれあい続けていたということだ」
「……」
「だが、社会的に、そんなことが許されるはずがない」
 アンソニーは両手を膝の上に組み、天井を仰いだ。そして視線をジェレミーに戻すと、話を続けている。
「シドニー市の警察は、二人にそれぞれの家に戻るよう勧告した。しかし、二人は拒否した。それで当局は三日の猶予を与えるので、その間に自発的に当局に出頭するように、さもなければ、強制的に連行して機械カウンセリングにかける、と二人に通知したそうだ」
「そんな……」
 ジェレミーは思わず息をのんだ。機械カウンセリング? 感情を殺すという、その処置を受けたら、残りの人生を空虚なロボットのように過ごすだけになってしまうという――ヘイゼルもブルースも、そんなことに――?
「三日たっても、二人は投降しなかった。それで、警察当局が泊まっている宿泊施設の部屋に踏み込んだ。そこで二人は……死んでいたんだ」
「!!」ジェレミーは驚きのあまり、言葉をなくした。でも、なぜ、どうして――。
「二人は途中で買ってきたという、調理用ナイフで首の頚動脈を切って死んでいた。警察が踏み込んだ時、部屋中真っ赤だったそうだ。おそらくその日の朝、実行したのだろうということだった」
 アンソニーは耐え切れなくなったのか、顔を覆って、テーブルに肘をついた。ジェレミーは言葉をなくしたまま、ただ震えるだけだった。
「トミー……トミーは?」
 ようやく、それだけ聞けた。三歳半の幼子は、どうなったのだろうと――。
「トミーは、生きていた。幸いにも……」アンソニーはうめくように答えた。
「二人は部屋に備え付けられたコンピュータにメッセージを残していた。ヘイゼルが家を出てからここに来るまでの経緯と、この世に生きていても、何の喜びもない。お互いがいなければ、生きている価値はない。だから死を選ぶ。そんなことが書いてあった。繰り返し、『許してください』とも。メラニーと僕、それにブルースの両親が駆けつけるまで、シドニー警察はそのメッセージを残していてくれたから、読むことが出来たんだが――ヘイゼルはトミーのことも、ひどく気にかけていたようだ。自分がこんな末路を迎えたら、トミーの一生も破滅するだろう。そのくらいなら、この子も連れて行こうと思った。でも、どうしても殺せなかった。そうも書いてあった。そうだろう。ヘイゼルのような優しい子が、いくらその子の将来を憂いたからとはいえ、三歳のかわいい盛りの我が子を手にかけられるものか。ブルースがかわりに手にかけることすら、耐えられなかっただろう。それで、本当に良かったと思っているよ。いくら先が心配だからとはいえ、まだ三歳半で、親の都合で命を絶たれてしまったりしたら、あまりにかわいそうだ」
「そう……ですね、本当に……」
 ジェレミーは、暗澹とした気持ちで頷くしかなかった。
「自殺は……大罪だ。社会的には、決して許されない。一族の恥どころではない。社会からは、いなかったことにされるんだ。戸籍から抹消され、一切の記録も消えてなくなる。もちろん、葬式も出せない。ヘイゼルとブルースはシドニー市の外の原野に埋められ、その墓標もない墓がどこにあるのか、僕たちにすら知らされないんだ。エドガーの結婚記録も、ブルースの妻である人の結婚記録もなくなる。彼らは結婚していなかったことになり、政府が数ヶ月以内に、新しい伴侶を紹介することになるそうだ」
 伯父の言葉に、ジェレミーは再び絶句した。
 アンソニーは両手で頭を抱えたまま、いまや熱に浮かされたように話している。
「わかるかい? ヘイゼル・ローリングス・ハーツ、旧姓ヘイゼル・バートン・ローリングスは、初めからこの世に存在しなかったことになるんだ。僕らの子供は三人だけ、ヒルダ、マーティン、パトリック。それだけなんだ、これからは。十日前に警察がうちに来て、家にあったあの娘の所有物を、すべて持ち去っていった。うちにある写真も全部。三日後に返されてきた写真には、ヘイゼルの姿だけが消えていた。警察はロスアンジェルス市のヒルダの家にも行って、アルバムを持ち去り、ヘイゼルの写真を消して、返してよこしたそうだ。ヒルダはショックのあまり、早産してしまった」
「ええ?」
「幸いにも、赤ん坊たちは無事だったがね。ただ未熟児で小さいので、二ヶ月ほど入院していなくてはならないらしい」
「そうですか……でも、良かったです。ヒルダさんの赤ちゃんたちが無事で」
「ああ」アンソニーは顔を上げ、ため息とともに頷いていた。
「でも……」ジェレミーは心に浮かんできた恐ろしい疑問を、口にした。
「ヘイゼルさんが……いなかったことになってしまったのなら……あの……トミー坊やは」
「母親はいなかったことにされるな。エドガーも親権を拒否しているから……再婚には、いや、記録的には最初の結婚になるが、トミーの存在は邪魔なんだろう。父母の記載は『不明』となり、僕たちの孫でもなくなってしまう。ただ姓だけは、父親のものを継ぐらしい。トーマス・ローリングス・ハーツから、サンダース・ハーツになるという。そして、施設に送られることになるんだ。サンパウロ市にいるブルースの子供も同様だ。まだ一歳半なんだが」
「そんな……」
「だが、僕は……僕とメラニーは……僕たち家族は、納得できなかった。いや、ヘイゼルが存在しなかったことにされるのも、とても納得できることじゃないが、それは規則なのだから、たとえそのことでどれほど胸が引き裂かれるような思いをしようとも、認めざるをえない。ヘイゼルも覚悟の上のことだっただろう。トミーのことも、そうなんだろう。この子の人生は苦難の道になるだろう、そう思ったから、ヘイゼルも一時はトミーを道連れに、と考えたにちがいない。だけど、あの娘は思いとどまった。それを無駄にはしたくないんだ。トミーは、たとえ戸籍が消されようとも、僕たちの孫に変わりはない。出来ることなら、少しでもあの子の人生を、平らかなものにしてやりたいんだ。だから僕らは、トミーを引き取ることは出来ないかと、当局に交渉してみた。そうしたら、里子としてなら可能だと言われた。実の祖父母であることは、決して言ってはならない。赤の他人のもらい子として育てるならば、成人するまでの間、養育を許可するということだった。もちろん承知した。そしてブルースの遺児も、同じように里子として引き取ることにしたんだ。だから、メラニーは今、第二の子育てで忙しいよ」
 アンソニーの顔に、かすかに寂しげな笑みが浮かんだ。
「じゃあ、今度帰った時には、僕もその子たちに会えますね」
 ジェレミーもかすかに笑みを浮かべた。養育者のいない子供たちを施設ではなく、個人の家庭で引き取り育てることは、政府からも奨励されていた。特に子供のいない家庭や、子育ての終わった家庭では。アンソニーとメラニーはその制度を利用して、孫を手元に引き取ることに成功したのだ。孫と認めることは許されないが。それは真っ暗闇にさした、一条の光のようにも思えた。伯父もきっと、同様の思いに違いない。
「ヘイゼルのことを話すのは、これが最後だ」
 アンソニーは両手をテーブルの上に組み、憔悴しきった目でジェレミーを見た。
「君には事の顛末を報告すると約束したので、最後に話させれてくれと当局に頼んで、許可されたんだ。もう家の外で、あの娘の話は出来ない。もともと存在しないことにされたのだから。家の中でも、出来ないだろう。トミーとリッキーが……ブルースの子供だよ……いるからな。忘れることは、決してないだろうが……」
 アンソニーは身体の底から湧き出てきたようなため息をつくと、立ち上がった。
「残念な報告になってしまって、すまない、ジェレミー。そういうことなので、君もヘイゼルの事は、これ以上誰にも話さないでくれ」
「わかりました……わざわざ来てもらって、話してくださって、本当にありがとうございました、アンソニー伯父さん」
 ジェレミーも悄然と立ち上がり、伯父と握手を交わした。そして伯父の青い目の中に宿る底知れないほど深い喪失の色に、改めて衝撃を受けたのだった。

 その後に続いた仕事に、ジェレミーは今まで以上に、身を入れることが出来なかった。心はともすれば物思いに沈み、音楽プログラムに出演すれば、振りと歌詞を間違え、インタビューを受けても、台本にない頓珍漢な答えをしてしまう。
 夕食前に、ついに業を煮やしたハワード監督官に、「何をやっとるんだ! 面会が仕事に響くようなら、もう許可しないぞ!」と怒鳴りつけられた。これ以上間違えば、伯父に迷惑がかかる。ジェレミーはそれからできるだけ仕事に集中しようと勤め、なんとかその日を終えたのだった。
 
 部屋に帰ってきた時、アヴェリンが心配そうに聞いてきた。
「ジェミーさん、今日はどうしちゃたんですか……?」
 そして振り返った彼の眼に浮かんだ表情に、なにかを感じたのだろう。彼女はあわてた様子でこう付け加えていた。
「ああ、すみません。ごめんなさい。差し出がましいこと聞いてしまって」
「いや、大丈夫だよ」ジェレミーはかすかに笑ってみせた。
「ただね、ちょっと悲しい知らせがあったんだ」
「悲しいお知らせ……そうなんですか」
 アヴェリンはそれだけ言って、黙った。それ以上詳しく聞こうとするのは不躾なようでためらわれるので、こちらの言葉を待っているような感じだ。ただそれは、好奇心からではなく、同情からであることは、ジェレミーにも感じられた。しかし、ジェレミーはそれ以上詳しく話すことは出来なかった。ヘイゼルは自殺したのだ。自殺者は、社会から抹殺され、初めから存在しなかったことにされるのだ。
「ごめん。詳しいことは話せないんだ……」ジェレミーは首を振った。
「今日はもう帰っていいよ、アヴェリン。僕ももう休むから。ごくろうさま」
「あ、はい。お疲れさまでした……」
 アヴェリンは当惑の色を浮かべながらも、頭を下げ、部屋から出ていった。
 一人になると、ジェレミーはシャワーも浴びず、服を着替えることもせずに、そのままベッドに倒れこんだ。今日はいつもの練習をする気力も起こらなかった。枕に顔を埋め、考える。
 ヘイゼル――彼女の優しい言葉が、穏やかながらも、どこか寂しげだった笑顔が浮かんでくる。生涯の愛を貫くため、彼女は死を選んだ。社会はそれを許さず、彼女の存在そのものを、この世に生きた痕跡をすべて抹殺した。たしかに自殺は、許されない罪なのだろう。自分で命を絶ってしまうなんて。社会に奉仕する勤めを自ら放棄してしまうなんて。だから――? ヘイゼルと暮らしたのは、彼女が結婚するまでの一年弱。その自分ですら感じるこの心の痛みと悲しみ、やりきれなさは、二十年以上の年月を彼女とともに家族として暮らしてきた伯父一家には、どれほど重くのしかかっているのだろう――。
 我知らず、涙が溢れてきた。その底に、やり場のない憤りを抱えた悲しみがこみ上げてくる。その憤りの感情に気づいた時、ジェレミーはかすかな衝撃を受けた。誰に対して、自分は憤っているのだろう。ヘイゼルやブルースにでは、もちろんない。エドガー・ハーツ? あの人に対する憤りも多少はあるだろう。でも、それだけではない――。
 しかしジェレミーはそれ以上、自分の感情を分析することは出来なかった。

 心に悲しみがある時、笑顔を浮かべなければならないのは辛かった。自らの思いに毛ほども同調しない、むしろ逆なでするばかりの歌を歌うのは、いつも以上に耐えがたかった。しかしその思いを吐き出すすべはない。鉛のような心を抱えながらも、ジェレミーに出来ることは、アイドル歌手ジェミー・キャレルを、来る日も来る日も演じ続けることしかなかった。ここを出て、伯父一家の家に行き――悲しみに沈む伯父夫妻の慰めになることは、ほとんど無理だろうが、従兄たちと胸のうちを打ち明けあいたい。伯父夫妻が引き取った二人の子供たちが聞く機会のない時――夜にでも――亡き人の思い出を語り、その理不尽さに憤ることができたら、この胸のつかえも少しは軽くなるかもしれないのに。それすら出来ない芸能局が、ますます牢獄のように思えた。いや、本当にここは牢獄なのかもしれない。ほとんど、刑務所や矯正寮と変わらないところなのかもしれないのだ。この隔絶された場所は。




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