Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第六章 曲がり角(1)




 十一月下旬のその日、ジェレミーは約半年ぶりに芸能局の自室に帰ってきた。五月から始まったプロモーション期間中、全世界の各都市を回り、八四回のサイン会やコンサートをこなしてきたので、疲労感が全身を包み込んでいた。それは肉体的な疲労というより、ニコニコと笑顔を浮かべながら、際限なくやってくるファンたちと握手を交わし、会話をし、サインをすることや、何の高揚感も持てない、好きだという感慨すら沸いてこないような歌を、たわいもない振り付けを交えながら、繰り返し歌うことに対する、精神的な疲弊感の方が大きかったかもしれない。しかし、これから八ヶ月間はホーム期間だ。仕事は相変わらずあるだろうが、ここニューヨーク市の芸能局内に腰を落ち着けて、活動ができる。絶え間ない移動や喧騒からも、ある程度は自由になれる。もっとすばらしいことには、来週から一週間、休暇が取れるのだ。
 それを思うと、ジェレミーの心は羽が生えたように軽くなった。休暇中は、アンソニー伯父の家に帰れる。パトリックやマーティン、そして伯父夫妻とも会える。ヒルダも里帰りしてくるかもしれない。伯父の家の空気を、そこに溢れる温かい心地よさを、従兄と語り合った夜を思い、ジェレミーの胸は幾度ホームシックに焦がれたか知れない。前回の休暇は、プロモーション期間が始まる一ヶ月前の三日間だった。来週帰れば、七ヶ月ぶりの帰省ということになる。

 ジェレミーはフリルのついた白いブラウスと光る素材で出来た赤のズボンを脱ぎ、明るいブルーのシンプルな上着とチャコールグレイのズボンに着替えた。自室では、ジェミー・キャレルではいたくない。ジェレミーはふっとため息をつき、衣装をランドリーボックスに納めた。いわゆるステージ衣装は備え付けのランドリーボックスに入れると、芸能局のロボットが回収していって、翌日再びきちんと手入れされた状態で戻ってくるのだ。自分個人の服は、めいめいが部屋にあるウォッシュマシンで洗うことになっていた。
 デビューから、三年以上が過ぎていた。ジェレミー、こと、ジェミー・キャレルが若い女の子たちの人気を獲得するのに、長い時間はかからなかった。彼の歌う曲は放送プログラムのリクエストでは、常に上位にいた。デビューして一年が過ぎた時、ジェミー・キャレルは若手トップアイドルの一人となっていた。コンサートではつめかけた女の子たちが黄色い歓声を飛ばし、サイン会はいつも長蛇の列が出来た。しかし、ジェミー・キャレルとしての活動に満足を覚えたことは、この三年間、ただの一度もない。アイドル歌手ジェミー・キャレルとは、自分ではない誰か他の人間、さもなければ、ずっと演技してなり続けていかなければならないペルソナに他ならなかった。
 ジェレミーの部屋も、三年の間にかなり変わっていた。モノクロームの小さな部屋から、もう少し広い、パステルカラーの部屋に変わったのは、デビューから一年後だった。そして前回のホーム期間中に、今の部屋になった。この部屋はベッドルームとリビング、食堂が独立していて、洗面所やシャワールームも、かなり広い。ただ、いささか少女趣味とも言えるインテリアには、ジェレミーは少なからず閉口していた。浮き彫り模様がついたローズピンクのカーテン、同色のベッドカバー、それより少し濃い色合いの絨毯。家具はクリーム色を基調としている。まるで女の子の部屋だ。ジェレミーは自嘲気味に思った。ごくたまに尋ねてくるアイド・フェイトンも、来るたびにそんな感想を口にしている。
 ジェレミーはリビングのテーブルにのった端末のスイッチを入れ、明日のスケジュールを確認した。放送プログラムの収録が三本、芸能ニュースのインタビューが二本、仕事は十時スタートで、終わるのは二二時の予定――それだけ確認すると、スイッチを切った。相変わらず芸能局からは、外部通信も外部資料の参照も出来ない。放送プログラムに何の魅力も感じていないジェレミーには、スケジュールの確認のほかには、コンピュータにほとんど用はなかった。
 ジェレミーは時計を見た。二二時二三分。今日ニューヨーク市で行ったコンサートとサイン会で、募る疲労を感じていたが、立ち上がり、シャワールームへ入った。シャワーを浴びるためではない。ここなら外に音が漏れず、発声練習が出来るのだ。シャワールームのドアを閉めると、ジェレミーはまっすぐ立ち、声を出した。夢の中で見た講師が言っていたこと――身体の中を通る一本の道を意識して、喉に頼ることなく、力を解放するように、息をすべて声に変えて――このコツをつかむのに、半年間の試行錯誤を必要とした。しかし、今は身につけられたと信じている。低い音程からはじめて、順々に高い音程へと、長く伸ばして――澄んだ声が響いていく。その声はシャワールームの壁に反響し、無数のこだまが重なり合って聞こえた。その自分の声を聞きながら、ジェレミーは声を出し続けた。
 耐久力をつけるためには、創立先導者のレッスンのように、長時間の発声練習が望ましいのだろうが、しかし今の自分には、それほど時間がない。ある程度の睡眠時間は確保しなければならないので、発声練習に費やせる時間は、いいところ三十分だ。それゆえセルフタイマーをその時間にセットし、その音とともに練習を終える。その後は再びタイマーを三十分にセットして、その場で駆け足をする。他には体力を鍛える運動手段がなかったのだ。ここで走るしか。汗まみれになったところで、シャワーを浴びて、部屋の中に戻った時には、もう二三時三十分になっていた。ジェレミーはベッドの上で腹筋とストレッチ体操を始めた。
 トータルで一時間二十分以上かかる、この一連のトレーニングは、ここ三年以上の間、できる限り毎日、欠かさないように続けてきたものだった。ホーム期間はもちろんプロモーション期間中にも、時間を割いてやり続けてきた。アイドル歌手ジェミー・キャレルには必要のないものだが、ジェレミーをこの世界に飛び込ませた最初の情熱、本物の音楽への夢に近づくためにできることは、これしかなかったのだ。芸能局の担当者であるハワード監督官は、ジェレミーの毎日の『奇行』に気づいているようだったが、あからさまな規則違反ではないせいか、練習は悪いことではあるまいと思ったのか、何も言わなかった。
               
 ベッドの上でストレッチ体操をしていた時、リビングのテーブルに置かれたコンピュータが、音を立てた。通信の呼び出し音だ。ジェレミーは体操を中断して、端末に駆け寄った。キーを叩くと、画面にアイド・フェイトンの姿が浮かび出ている。
「よう、ジェミー」
 アイドはそう呼びかけてきた。相変わらず甘くハスキーな声だが、少し疲れを帯びたようなトーンだった。
「ああ、今晩は、アイドさん」ジェレミーは目を輝かせて返答した。
「やっとプロモーションから帰ってきたようだな」
「ええ。ええと、僕がプロモーションに出る時、アイドさんは二ヶ月前からそうだったから……二月以来ですね」
「ああ、九ヶ月ぶりだな」アイドはかすかに笑った。
「今からそっちへ行ってもいいか。だいぶ時間も遅いが、少し話したいことがあるんだ」
「ええ。いいですよ。嬉しいです」

 数分後、アイド・フェイトンがジェレミーの部屋を訪ねてきた。まだ髪は黒く長く、端整な顔立ちと引き締まった身体はそのままだったが、普段着ているような胸の開いたシャツやぴったりとしたズボンでなく、飾りのない赤の上着とグレーのズボン姿だ。
「俺も部屋にいる時には、普通のカッコをしたいと思ってね」と以前言っていたことを、ジェレミーは思い出した。
「相変わらず、女みたいな部屋だな」
 アイドはクリーム色のソファに勢いをつけて座りながら、苦笑を浮かべた。
「自分でもそう思いますよ」
 ジェレミーも苦笑いしながら答えた。
「ドリンクでも、持ってきますか?」
「グリーンの奴がいいな」
 ジェレミーは言われたものを冷蔵庫から取り出し、自分はもう少し甘い味のブルーの飲料を取り出して、緑のボトルをアイドに渡したあと、ソファの傍らのスツールに座った。
「ロードはどうだった?」
「盛況でした。でも、疲れました」
「だろうな。おまえさんは売れっ子だから。俺も昔はそうだったが」
 アイドは飲料の蓋を開け、中身を一気に飲み干してから、テーブルに容器を置いた。
「来週は休暇かい?」
「ええ」
「また、伯父さんの家に帰るのか」
「ええ」
「帰る所のある奴はいいな」
 アイドはかすかに笑みを浮かべた。アイド・フェイトン、ことエイドリアン・ファーガスンの母親は息子をいないものとし、親戚も同様で、彼はずっと施設で育ったのだ。そのことを思うと、ジェレミーの心は痛んだが、自分にできることは何もない。
「別に気にしなくて良いさ」アイドは再び笑みを浮かべた。
「わかってるよ。おまえが俺に気を使っていることは。家に帰れるのは、嬉しくてたまらない、そんな顔だが、俺の前では、それを口に出したことはないからな」
「僕は……なんて言ったらいいか……」
「ああ、気にすんなって。変なことを言った俺が悪いんだ。せいぜい休暇を楽しんでこいよ。皮肉は抜きにして、これは俺の本心だ。ジェミー。休暇が明けたら、新曲期間だからな。それなりに忙しいだろう。特におまえのような売れっ子はな」
 新曲期間というのは、ホーム期間の別の呼び名で、その間にその歌手のレパートリーとして、五、六曲の新しい曲が、それぞれ四週間の間隔で、放送プログラムに公開される。その期間は曲と振り付けをマスターし、放送用に録音、録画するほかに、音楽番組の出演やインタビューなどの顔見世も増えるのだ。
 アイド・フェイトンも新曲期間に入っているはずで、この期間の二曲目が先々週放送プログラムに公開されていた。しかし、最初の曲も二曲目も、放送リクエストの順位はあまり芳しくなく、彼の全盛時には比べるべくもなかった。長年にわたって人気を獲得してきたアイド・フェイトンの容姿や退廃的でセクシーな雰囲気というものが、大衆に飽きられてきたのか、それとも二年前にデビューした、似た路線の若い歌手に人気を取られたのか、もしくはその両方かもしれないが、この三年間に、彼の人気はゆっくりと下降状態にあったのだ。
「俺はどうやら、先が見えてきたな」
 アイド・フェイトンはカートリッジ式の煙草をくわえながら、そう言葉を継いだ。
「この新曲期間中、たいしたヒットが出せないようなら、次はなしだと言われているんだ。このあとのプロモーション期間で派手に引退興行を打って、それで終わりだとさ」
「ええ?」
「まあ、やっと俺も解放されるってことさ。むしろ、ほっとしてるくらいだ。俺ももう二八だからな。プロモーション期間が終わるころでも、二九前だ。それくらいで解放されれば、まだ社会的にも何とかなるだろう」
「そう……考えようによっては、そうですね。解放されるって言うの、わかります」
 ジェレミーは頷いた。そしてふと、思いをはせた。自分はどうなるのだろう、と。七、八年後、いやそれよりも前に、きっと自分も大衆に飽きられるだろう。若い勢力に取って代わられる可能性も、大いにある。それまでに、夢は叶えられるのだろうか。それとも見果てぬ夢のまま、引退を迎えるのだろうか――このつまらない日常から解放されるのはありがたいが、それは同時に希望の終焉でもあるのだ。
「引退されたら、アイドさんは何になられるのですか?」
「職員になるんだろうさ。最初の何年かは研修官で、そのあとは監督官だ。それとも、事務の方かもしれないが、まあ、そんなところだろう。それも悪くはないだろうさ」
「そうですね。アイドさんはきっと、ジョンソン研修官とは違って、優しい研修官になると思いますよ」
「おいおい、それは買いかぶりだ、ジェミー」アイドは苦笑していた。
「だが、後の仕事はどうでもいいんだ。これで結婚できる、この方が俺には大きいな」
「そうですね。お相手は?」これから探す、という返答を予想してそう言ったが、アイドはしばらくの沈黙の後、答えていた。
「好きな娘がいるんだ、実は。彼女も俺に惚れていると言ってくれた。……仮申請は済ませたんだ。この間の休暇に。適正は合うらしい」
 仮申請とは、芸能局所属者が三十歳、または引退間近になり、結婚を視野に入れる時、もし相手がいる場合、相性適性を見るために出すものだ。芸能局所属者は不適正になる場合が一般の場合より多く、またできるだけ速やかに引退から結婚に移行できるよう設けられた、独特のルールである。
「ええ、そうなんですか!!」
 ジェレミーは思わず飛び上がって手を叩いた。自分のことのように、歓喜の感情が身体からわきあがってきた。「それはおめでとうございます!」
「ありがとうよ。まだちょっと、早いけれどな」
 アイドは照れたような笑みを浮かべた。
「無事にこの仕事からおさらばできたら、本当におめでとうだ」
「そうですね。そうなることを心から願っています。そのためにあの……ヒットが出ないことを祈るなんて、変ですが」
「ヒットなんて、くそくらえさ」アイドは笑った。
「もう俺は落ち目だから、間違ってもヒットなんか出ないだろうよ。ありがたいことだ。今度の曲もクソつまらないしな」
「ねえ、アイドさん」ジェレミーは思い切って聞いてみた。
「アイドさんは、かなり持ち歌がありますよね。デビューから今まで。その中で、つまらなくない曲って、ありましたか? 好きな曲は?」
「ないな」アイドはしばらく考えるように沈黙したあと、首を振った。
「忘れちまったものも、かなりある。どうでもいいようなのばっかりだ。持ち歌で好きなもの? これっぽっちも記憶にないな」
「そうですか」
「おまえは、ジェミー?」
「ないです」聞き返されて、ジェレミーはきっぱり首を振った。
「僕は自分の持ち歌、どれも嫌いです」
「芸能局の上層部には聞かれたくない台詞だな」アイドは肩をすくめた。
「この部屋がモニターされていないことを祈ろう。まあ、いくらなんでも、それはないだろうが。じゃあ、俺は帰るよ。もう遅いしな。眠くなってきた」
「そうですね。僕もです。今日は遊びに来てくださって、ありがとうございました」
「ああ」アイドは片手をあげ、ドアを開けて出て行った。ジェレミーは芸能局で唯一の友人と語りあえた喜びに高揚しながら、中断した運動の続きにかかった。

 それから一週間が過ぎ、十二月に入る頃、ジェレミーは再びアンソニー伯父の一家とともに、夕食のテーブルに座っていた。七ヶ月ぶりの帰省だ。アンソニーはこの三年間の間に少しずつ体格が良くなり、金髪も少し量が少なくなっていた。メラニーの褐色の髪も、いまや半白に近くなっている。
 マーティンは専門教育課程の最終選定を終わり、この九月から正式な宇宙開発局の職員として、二級技師となっていた。「仕事が毎日楽しくて仕方がない」と言い、「夢がかなって幸せだ」と目を輝かせる従兄に、ジェレミーは祝福の気持ちと、果たして自分の夢は叶うのだろうかという不安から来る少しの羨望、そしてかつて自分が捨ててしまったもう一つの可能性への、かすかな後悔を感じた。もしかしたら、彼と一緒に仕事をする道もあったかも知れず、従兄も強くそれを望んでいただけに。しかし、二人の道は四年近く前に分かたれてしまったのだ。
 パトリックは学術研究局員として研修期間を終え、二年前から正式な職員となっていた。とはいえ学術局員は在宅での仕事なので、他の局員とはコンピュータを通した、又は直接集うミーティング以外、接触する機会がないのだが、それでも多くの友人を作り、いくつかの歴史に関する文献を書き、定期的にレポートを提出しているようだった。それと同時に、パトリックは楽器の練習も続けていた。ジェレミーが帰省するたびに二人は部屋で、お互いの成果を披露しあっていたのだ。
「ところで、ヒルダさんはどうしてますか? 今回も、会いたかったですが」
 夕食の席で、ジェレミーは伯父伯母夫婦に問いかけた。
「ああ、ヒルダね」メラニーは微笑を浮かべた。
「あの娘はこの九月に、ロスアンジェルス市へ引っ越したのよ。アルバートに、条件のいいポストが回ってきて、それを受けたのですって」
「ロスアンジェルス市? それじゃ、少し遠いですね」
「そうなのよ。だから、なかなか帰ってこられなくて。でもこの週末に来るって言っていたわ。向こうへ行ってから、初めての里帰りよ。だから、わたしたちも楽しみにしているの。特にジョスリンに会うのが」
「ジョスリンちゃんも、もうすぐ四歳ですよね。かわいいですよね」
「ええ。本当にかわいいわよ。ヒルダそっくりで。それにね、来年にはもう二人生まれるの。男の子の双子らしいわよ」
「そうなんですか。おめでとうございます。週末に会えるのなら、楽しみです」
「そうそう、ヒルダ姉さんが先月、通信で言ってきたよ。君のサイン会に行ってみたって」
 パトリックがいたずらっぽい調子で言った。
「ええ! でも、会わなかったよ、ヒルダさん」
「あんまり人が多かったから、子連れで身重でもあるし、押されて転んだら困ると、恐れをなして帰っちゃったらしい。君の人気に驚いたって、言ってたよ」
「そう……会いたかったな、ヒルダさんに。でもたしかにあの場にいたら、妊婦さんなら危なかったかもしれない」
「そうなんだよ。まあ、この週末には来るよ」
「そうだね。それと……ヘイゼルさんは……?」
「ヘイゼルはねぇ、どうしているのかしら」
 メラニーの顔が、少し心配げに曇り、アンソニーと顔を見合わせていた。
 六年前にエドガー・ハーツと結婚したヘイゼルは、三年半前、トーマス、通称トミー坊やが生まれた時に、二週間父母の元に滞在しただけで、あとは帰ってくることはなかった。ヒルダの話によると、どうやらエドガーは妻が実家に帰ることを、なんらかの理由で嫌っているらしかった。ヘイゼルは家には短い表面的な通信しかしてこないが、双子の姉とは、時折長い通信をしているらしい。しかしそれもヒルダからかけた場合で、なおかつ夫が仕事で不在中の時に限られていた。
「ヘイゼルのことはともかく、おまえもジェレミーに報告することがあるんじゃないかな、パトリック」アンソニーが話題を変えようとするかのように、促していた。
「え、何を」
「彼女のことじゃないかい」マーティンがからかうように言う。
「え? 彼女? パトリックにガールフレンドが出来たの?」
 ジェレミーは身を乗り出してきいた。
「まだ彼女というには、早いよ。友達だよ」
 パトリックは頬を赤くしながら、手を振った。
「でも君は、彼女のことが好きなんだろ?」
 マーティンがさらに畳みかける。
「好きだよ。好きは好きだ。ただ、まだ結婚とか考えるには、ちょっと早いような気がするけれど……ああ、もう、わかったよ! 正直に言えば、このままいったら、結婚してもいいかな、と思っているよ」
「ええ、凄い、パット。おめでとう!」
 ジェレミーはアイド・フェイトンから『好きな子がいる』と言われた時のことを思い出した。そして今、最大の理解者であり親友である従兄にも、好きな子が出来たという。それは、わがことのように嬉しいという思いとともに、未知の分野に踏み入れた近しい人たちへの、まぶしいような羨望をも感じさせた。
「どんな子なの、彼女って」
「マーガレットっていうんだ。マーガレット・オニール・コールダー。今二二歳で、茶色の巻き毛で、小柄で、まるで子供みたいにかわいい子なんだ。教育局の初等コース担当のオペレータをしているんだよ」
「どこで知り合ったの?」
「図書館でね。今年の二月だよ。時々見かけるなって思って声をかけてみたら、向こうも僕のことを気付いていたらしくて、話があっちゃって。図書館を出たあと、公園で二時間くらいしゃべってた。それから時々会うようになったんだ」
「君はお見合い決まりだなんて言っていたけれど、僕よりも結婚が早そうだね」
 マーティンは少し肩をすくめ、笑っている。
「君は出会いを生かさないからだよ。というより、出会う機会そのものがないんだな。宇宙開発局に女性職員はそういないし」パトリックは言い返していた。
「まあ、別にかまわないよ、僕は。当分仕事が恋人さ」
 マーティンは再び肩をすくめた。
「君らしいね」と、パトリックも肩を笑っている。
 
 親しい人とともに囲む食卓、交わされる楽しげな会話。明るいチェックのクロスを、いけられた花を、穏やかな光を投げる灯りを、どれだけ恋焦がれてきただろう。芸能局の宿舎から伯父の家に帰るたびに、ジェレミーは思い出していた。祖父母の家から初めて伯父の家に行った時の、夕食の光景を。初めて触れた人の温かさに、思わず泣き出してしまった十四歳の自分を。その時と同じ気持ちが、ここに来るたびによみがえってくる。帰る家がある自分は、本当に幸せなのだという思いとともに。
 ふと、ジェレミーは思いをはせた。遠くロスアンジェルス市にいるヒルダの家庭を。きっと彼女も小さな娘と夫とともに、こんな食卓の光景の中にいるのだろうと。そしてきっとパトリックも、将来そのマーガレットという娘と結婚し、家庭を築いたなら、やはり同じ風景にいるのだろう。マーティンも、きっとそうだろう。彼らが育ってきた家庭を、同じように作ろうとするに違いない。ヘイゼルも――そうであることを願いたい。
 ジェレミーはさらに、母の家庭を思った。四人の子供に囲まれて、忙しくも幸福であろう母の姿を。母の家族を思う時、もはや痛みは感じなくなっていた。ただ、その幸福を願う気持ちだけだ。そして『好きな子がいる。もうすぐ引退したら、その娘と結婚するつもりだ』と言った、アイド・フェイトンを思った。彼は家庭というものを持たずに育っている。でも結婚すれば、彼にもやっと家庭が出来るのだ、と。そう思うと、帰る家のある自分が感じてきた、一種の罪悪感のようなものが、いくぶん軽くなるような気がした。
 この瞬間、ジェレミーはすべての人の幸福を願っていた。

 伯父の家での、幸福な、充実した六日間が過ぎた。休暇の三日目にはヒルダが、夫アルバートと娘ジョスリンとともにやってきて、六日目の夕方帰っていった。
 スタインバーグ一家をロスアンジェルス市行き長距離シャトルのステーションまで送っていき、五人で夕食をとり、コーヒーを飲んでいる時だった。端末の通信ランプがつき、コール音が鳴り響いた。
「あら、ヒルダかしら……ああ、いくらなんでも、まだ着かないわよね」
 メラニーが立ち上がり、チラッと時計に目を走らせていた。
 通信画面に向かって数分後、メラニーは緊迫した声で夫を呼んだ。アンソニーが駆け寄り、二人で頭を寄せ合うように画面を見つめている。端末からは声が流れていた。怒っているようなトーンだが、何を言っているかは、テーブルにいるジェレミーたちのところまでは聞き取れない。アンソニーが時折何か言っているが、それも良くは聞き取れない。
 数分後、アンソニーとメラニーが憔悴の色を浮かべて通信端末から離れ、テーブルにやってきた。
「誰からだったんだい? どういう話?」パトリックが問いかけた。
「エドガーからだ」アンソニーが肩を落とすように答えた。
「エドガー・ハーツさん?」マーティンが声を上げた。
「今まであの人が家にかけてきたことなんて、なかったのに。何だったの?」
「ヘイゼルがいなくなったそうだ」
「ええ!!」マーティンとジェレミーが同時にそう声を上げ、
「どういうことだい? 詳しく説明して」と、パトリックが身を乗り出す。
「エドガーが言うには、今日仕事を終えて家に帰ってみたら、ヘイゼルとトミーがいなくなっていたそうだ。テーブルには一人前の食事が用意され、コンピュータにヘイゼルのメッセージが残されていたという」
「メッセージ? どんな?」
「ごめんなさい。出来るだけ努力はしたのですが、私はもうこれ以上、あなたの良き妻にはなれそうもありません。本当にごめんなさい、と」
「それって……家出?」パトリックが息を飲むようにして聞いた。
「そうなんだろう……」アンソニーは固い表情で頷いていた。
 一同はそのまま、凍りついたようにその場に立ち竦み、お互いに顔を見合わせた。
 ヘイゼルとエドガー・ハーツの家庭の断片は、昨日ヒルダが話していた。ヘイゼルは唯一、この双子の姉だけには打ち明けていたらしい。彼女の満たされない結婚生活を。エドガーは良き妻を求めていたらしい。家を常に整然とした状態に保ち、栄養バランスの取れた、なおかつ自分好みの食事を提供し、自分の身に着けるものや寝具は、常に清潔にしわ一つない状態に整えられ、子供は行儀よく躾けられ、仕事上付き合いのある仲間たちを呼んでの接待も、完璧にこなす伴侶を。ヘイゼルはそんな夫の要求を満たそうと、この五年半の間、懸命に努力したらしい。そしてエドガーも妻の努力の結果を、満足を持って認めてはいたという。
 二ヶ月前、ヘイゼルはトミーの次に計画していた子を、妊娠三ヶ月で流産したらしい。その時エドガーは、規定出生なのだから、受精卵の不備はありえないはずだ、流産はヘイゼルの不摂生と不注意のせいだと責めたという。
 話を聞いて、家族は一様に心を痛めていた。そこに浮かび上がってくるのは、夫婦とは名ばかりの、乾いた関係でしかなかったからだ。ヒルダもヘイゼルの状況をひどく気にかけているようで、「これじゃ、とっても幸せとは言えないんじゃないかしら。あたしばかり幸せで、気が引けるくらいよ。何とかしてあげたいんだけれど、なにもできなくて」と、頭を振りながら表情を曇らせていた。メラニーが「あなたに話すことで、ヘイゼルもいくぶん気が軽くなっているのでしょうから、これからもあの娘の話し相手になって、励ましてあげてちょうだい」と、娘に頼んでいたりもした。
 ヘイゼルはついに耐えられなくなったのだろうか。たぶん愛はないであろう、夫との結婚生活に。夫の要求にこたえるため、家事や育児に忙殺されることで、昔の恋愛の記憶を封じることは出来たのかもしれない。しかし、彼女の心の空獏を埋めることはできなかったのでは――今、彼女の身近で愛するただ一人の者は、息子のトミーだけ。心を許して話せる相手は、遠く離れた双子の姉妹だけ。流産で受けたであろう心の傷を癒してくれるどころかかえって広げ、要求するばかりで、安定した生活基盤のほかは(もっとも、それもかなり貴重なものには違いないが)何一つ与えてくれない夫との生活に、疲れ果ててしまったのかもしれない。
「ヒルダと連絡がついたら、あの娘にも話さないと」
 アンソニーは端末に向かいかけたが、メラニーは首を振った。
「止めておいた方がいいわ。ヒルダはそれでなくても、長旅で疲れているはずよ。その上にこんな心配をさせてしまったら、おなかの赤ちゃんに障るかもしれないわ」
「そうだな。ヒルダに知らせるのは、もう少し待とう」
「ここへも来てないとなると、どこへ行ったんだろう、ヘイゼル姉さん」
 パトリックが心配げな口調で、窓の外に目をやった。
「うん。ヒルダ姉さんの話だと、ヘイゼル姉さんには親しく付き合えるような友達は、いなかったそうだし、うち以外に他に行けるところといえば、ヒルダ姉さんのところくらいだと思うんだけれど……」マーティンは考え込むように言う。
「でも、さっきまでヒルダ姉さんはうちへ来ていたんだから、仮にヘイゼル姉さんが行っていたとしても、留守だったんじゃないかな」
「そうだね。行き違いになった可能性が高いか……」
 二人は顔を見合わせ、次いで両親とも目を合わせた。
「これから、うちへ来るかもしれないよ、姉さん。気持ちが落ち着いたら、自分の家に戻ってくるかもしれないしね」マーティンが頭を振り、。
「それもありえる……でも、エドガーさん、きっと怒ってひどいことを言うんだろうなぁ、姉さんが帰ってきたら」
 パトリックは同情に耐えないという顔だった。
「帰ってくるのなら、それも覚悟の上なのだろう」
 アンソニーは端末に向き直り、通信セッションを開いた。
「どこへかけるの、あなた?」メラニーが問いかけた。
「エドガーのところだ。帰ってくる可能性があるのなら、ヘイゼルのために、警察に捜索願を出すのは出来るだけ待ってもらうよう、頼んでみるつもりだ」
 再びエドガー・ハーツとの、十分近くに及ぶ通話を終えると、アンソニーは家族に向き直った。
「なんとかあと二日待ってくれるよう、説得した。ヘイゼルが戻ってくるまでは、アンドロイドメイドを派遣してもらうことしたよ。費用は僕が負担しろ、ということだ。おまけに彼の食事は自分で完成品を頼まなければならないと、相当に文句を言われた」
 アンソニーはそこで言葉を止め、少し肩をすくめた。
「まあ、仕方がないだろう。ヘイゼルには少し休養が必要だったのかもしれない。少しでも旦那から離れて、気が落ち着いたら、またがんばる力を取り戻してくれるように祈ろう」

 その夜、マーティン、パトリックとともにリビングでコーヒーを飲みながら、ジェレミーはヘイゼルのことを考え、思ったことが口をついて出てきた。
「でも、もしヘイゼルさんがエドガーさんのところへ戻ってきたとしても、それはヘイゼルさんにとって、幸せなんだろうか?」と。
「姉さんが家出したことで、エドガーさんがいくらか反省してれば、事態は姉さんにとって改善されるだろうけどね。でもあの人じゃ、無理だよ」
 パトリックが頭を振り、半ば吐き捨てるような口調で言った。
「父さん母さんの前じゃ言えないけれど、僕はああいうタイプの男は大嫌いだ。ヒルダ姉さんから話を聞いた時、僕は完全に頭にきてたよ。妻を何だと思ってるんだって。無償のアンドロイドメイドか何かと、勘違いしてるんじゃないかってさ。そう、妻がいるなら必要ないって、あの人はメイドさんの派遣も頼んでいないんだよね。ヒルダ姉さんがそう言っていたから。うちと違って、雇えるお金はいくらでもあるのに。ヘイゼル姉さんだってトミーが三歳になったのだから、仕事も多少しなければならないっていうのに――いくらメディックスで、社会的な地位は良くたって、人間としちゃ下だよ。そうとしか思えない」
「過激な意見だなぁ、パット。君は昔から、あの人を買っていなかったけれどね」
 マーティンは肩をすくめていた。
「君はあの人を是認するのかい、マーティ?」
「いや。あの人はちょっと極端すぎると、僕も思う」
「そうだろ。君は、ジェレミー?」
「僕も君と同じことを思ったよ、パット」
「そうだろ」パトリックは強く頷いた。
「ヘイゼル姉さんは、あんな奴と結婚すべきじゃなかったんだ!」
「いまさらそれを言ったって、仕方がないんじゃないか」
 マーティンが首を振った。
「まあ、それはそうだけれどさ……」
 パトリックは少し決まり悪げに黙り、コーヒーを飲んだ。
 ヘイゼルのことは重大な気がかりであったが、自分たちが直接彼女のために出来ることは、ほとんど何もないのだろう――そんなもどかしさをジェレミーは感じていた。そしてその思いはパトリックやマーティン、さらにアンソニーやメラニーも同じ、いや、彼らには肉親であるだけに、たぶんその思いは自分より、さらに強いのだろうとも。やりきれない――しかし、できるのは、待つことだけなのだ。




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