Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第5章 転身(4)




 空の上から見ているような、不思議な視点だった。下には森が広がっている。所々野原が見える。その中に一軒の家が建っていた。ビルではない。集合住宅の集会場のような、小さな建物だ。赤い屋根に白い壁の、こぢんまりした家だった。
『ここはどこ?』ジェレミーは意識の中で問いかけた。
『カナダ地方の南にある、宿泊施設のようだね、旧世界の』相手は答えた。
『まずここへ来たのはね、君が今の芸能局のレッスンに、不満を持っていたからなんだ。彼らのレッスンを参考に見せてあげようと思って』
『彼らのレッスン? 彼らもレッスンを受けたの? ほとんど自分たちで何もかもやってきているって、ファイルには書いてあったけれど』
『ああ、だいたいはそのようだよ。ただ、一度だけ例外的な時期があってね。彼らはデビューして一年半後くらいに、技術向上のための集中訓練を受けたんだ。芸能局のレッスンなんか、比べものにならないくらい厳しいものを』
 カメラのアングルが切り替わるように、映像が変わっていく。ファイルで見た五人の青少年たちが、一人ずつ講師らしき大人についてレッスンを受けている光景が、次々に出てきた。
『一通り全部見ても良いんだけれど、三人に関しては、僕はほとんど見ていなかったようなんだ。あっ、でもほら、あれなんか……』
 建物の回りに広い円を描くようにして、二人の若者が走っていた。ドラムス奏者とベースギター奏者の兄弟らしい。彼らはお互いの足を片方ずつ縛りあい、三本足で走っている。
『あの人たち、何をやっているの?』ジェレミーは思わず問いかけた。
『お互いの呼吸を合わせるために、片足ずつ縛りあって、一緒に走っているようだね。リズム隊は同じ呼吸で演奏しないと、統一感がなくなるらしいから。端から見ると滑稽なことでも、意味はあるらしいよ。それに走ることで、体力をつけてもいるんだ。彼らは公演旅行に出れば、ほとんど連日二、三時間はステージで演奏する。体力なしには、やっていけないらしいよ』
『そう……』
 次の場面は、ローリングス一族の始祖でもあるギター奏者の青年が、スケール練習をしているところだった。
『あっ、あれはファイルにものっていた、パットも練習していた基本スケールだ。なぜ? あの人はまさか、初心者じゃないでしょう? 音楽ファイルを作った人に、いろいろ教えてくれたって言うし……』
『当然、この時点でも上手に弾ける人さ。でも、何事も基本が大事っていうことでね。だから、あえて初歩の初歩からやっているみたいなんだ。彼の能力は相当凄いよ。たとえば、こんなことができる』
 場面が変わって、彼は講師と曲に耳を傾けていた。曲が終わると、講師が「じゃ、やって」と言う。彼はギターを取り上げ、弾き始める。さっきの曲のギター部分だ。
『初めて聴く曲なんだよ』ジェナインがそう説明した。
『だけど、彼は一度聞いただけでも、ある程度はコピーできるんだ。あの曲を残したのは、この力が極限まで出たおかげでもあったしね。外からの働きかけもあったし』
『あの曲って?』
『ああ、君は音源ファイルの後半は、まだ聞いていないんだったね』
『うん。芸能局なら、そこに所属している限り、共同閲覧者として認められるらしいんだ。パットが確認して、僕にそう言っていたから、家を出る前に。それで期限がないなら、もう少しあとで聞こうっていうことになって……』
『そうだったね。じゃあ、その時になったらわかるよ。次に行こう』
 再び場面が変わり、彼がまたギターを弾いている。聴いたことのないメロディだが――。
『君はこれを聞いて、何を連想する?』ジェナインは問いかけてきた。
 ジェレミーはしばらく聞いていた。そして浮かんだイメージをそのまま伝える。
『お祭りの踊り』
『正解だよ』相手は悪戯っぽく笑う。
『これはイメージ演奏訓練。課題を与えられて、そのイメージを喚起するような演奏をするんだ。この時の課題は『カーニバル』なんだ。でもまあ、君はギター奏者じゃないし、パトリックなら参考になるかもしれないけれど、この人は、このくらいでいいかな』
『あっ、うん……』
 ジェレミーが頷くと、再び場面が変わった。今度は楽団のシンガー、後のガーディアンが登場してくる。まだ少年と言っていい年頃だ。背中まで伸びた淡い金髪を後ろで緩く束ね、伸びる素材の、少し大きめの水色の半袖シャツと、足にぴったりとした紺色の半ズボン、同色のベストをはおったスタイルは、不思議なことに今の芸能局のレッスン着とよく似ている。さっきのギター奏者は、普通のシャツと比較的厚手の長ズボンをはいていたが。
『この時の彼は、十六才になるかならないかという年頃だよ。まだ覚醒前だから、普通に上手な歌手だ、というくらいのレベルだ。彼が音源ファイルで聞かれるような、人間を超えたパワーを発揮するようになるのは、覚醒後なんだ。このあと、もうすぐだけれどね。でもこのころの彼はまだそうでないから、逆に君には参考になるかもしれない』
『覚醒って?』
『彼が本来の自分に目覚めること、なんだけれど、それ以上は僕もわからない。でもそれは君には真似の出来ないことだから、気にしない方がいいよ。ともかく、このレッスンでは本当のプロ歌手の基本技術が教えられている。君には大いに参考になるはずだよ』
『うん……』
 講師は五十才くらいで、黒髪に半分くらい白いものの混じった、昔はかなり好男子だっただろうと思える人だった。白いシャツの襟もとに赤い幅広の紐のような飾りをたらし、グレーに白いストライプのズボンをはいている。
「君は、基礎は出来ている。腹式呼吸も、Chest Voiceも、息をすべて声にすることも、絶対音感も。そして……君は何のために歌う?」
 講師の男性は椅子に座った姿勢で、そう問いかけていた。
 少年は首をかしげ、少し考え込むように沈黙したあと、答えている。
「うん……ひとつには、楽しいから。歌うことが好きだから」
「まあ、嫌いでは歌手にはなれんな。それはベーシックすぎる理由だな。ほかは?」
「えーと……あんまりその辺、深く考えたことなかったけど……歌うことって、自分を解放することなのかなって。思っていることを、人に伝える。話すよりも効率的に……コミュニケーション。僕はこう思うけど、あなたはどう思う? みたいな。だから僕は、自分で共感できない詞って、あまりうまく歌える気がしないんです。自分の想いじゃないものは……そこは演技でカバーできる人もいるんだろうけど。テクニックとかそういうのも、あまりマスターしようって気にならないし」
「演技で成り切れれば、そうだな。君のお祖父さんのように」
 講師は微かに笑っていた。「君はたしかにあまりテクニカルなシンガーではないが、私は君にテクニックを教えようとは思わない。テクニックは、演技だ。ミュージカルの歌などは、その延長だろうが、私は君に技巧派になってほしいとは思わない。それはきっと、君の個性を殺すだろう。本当に思いがついてくれば、自然と表現力も出来てくる。そういう点では、君は今の君のままでいいだろう」
「それでいいんですか?」
「さっきも言ったように、基礎は出来ているからな、君は。声の出し方も、音程の取り方も。そして感情移入もかなり出来ているようだ。だが、一つ君には重大な課題がある。体力と耐久力だ。週三、四回で一回一時間というような、ぬるいスケジュールならなんとかなるが、三時間のショウを、七日連続で出来るか。そのすべての公演に、同じクオリティを保てるか。ショウのラストでパワーバラードを、中盤と変わらぬ声量で歌えるか。そのあたりが出来れば、文句はない。ということで、今から練習だな」
 講師はパンと両手を叩いた。
「まずは発声からはじめよう。姿勢は、君は良いようだが、一応確認しておく。気をつけることは何だ?」
「背筋を伸ばす。胸やお腹を圧迫しないようにして、声の道を作る」
「そう。身体に一本道を通す。まっすぐな道を。臍の下辺りから、頭に抜ける道、それを意識するといい。では、真ん中のA音、一分ロングトーンしてみろ」
 少年は手を軽く後ろに組み、発声した。そのトーンは澄んでいて、清浄な響き――そして舞い上がるような飛翔感と、浮遊感、同時に力もある。
『本当に、きれいな声だね。独特で透明で……無垢で、伸びやかだ』
 ジェレミーは思わずそう呟いた。
『声のトーンは人によって違うから、君には出せないけれど、でも君も悪くない声だと思うよ』ジェナインがちょっと笑うように言う。
「それは君にとって、どのくらいの音量だ? 軽くが一で、フルが十として」
 規定の一分が終わり、生徒が声を止めると、講師はそう問いかけた。
「七と八の中間くらいです」
「では、フルで一分だ。君はライヴで、七分か八分の力で歌うのか? 違うだろう? まあ、強弱はあるだろうが、フルヴォイスでなければ、耐久力はつかない」
「はい」
「ではこれから、私の言う音を一分ロングトーンする。減衰させず、揺らさずに。それをこれから毎日四時間やる」
「四時間! きつっ!」思わず声を上げる生徒に、講師は言う。
「最初は厳しいだろう。だが、そのくらいの余力を残さないと、二時間、三時間をフルヴォイスで歌いきることは難しいだろう。では行こう。次はオクターヴ上のDだ」
『AとかDって、音を鳴らさなくても取れるんだね、彼は』
 ジェレミーが感嘆したように言った。
『彼の場合は絶対音感もあるだろうけれど、音の記憶のせいだろうね。一度聞いた音程は、忘れないから』ジェナインがそう説明している。
『一度聞いた音程は、忘れない……?』
『彼の記憶は消えないんだ。薄れもしない。写実的記憶力の持ち主だから』
 ジェナインは言い、ついで続けた。
『まあ、これを延々四時間は大変だから、二時間くらい飛ばすよ』
 一瞬のホワイトアウト、そしてまた同じ風景が出てくる。相変わらず彼は、講師の言う音を発声している。
「こら! 誰がヴィヴラートをかけろと言った?」
 突然、講師が手にした長い棒で床を叩き、強い口調で言った。ほんのかすかな声の揺れを聞きのがさなかったのだ。
「初日とはいえ、たった二時間でそれでは、情けないぞ。まだ半分だ」
『二時間も発声してたら、声揺れると思うけど。むしろ、持っているほうだよね』
 ジェレミーは意識の中で肩をすくめた。
『まあ、そうなんだけどね。さらに二時間近く、飛ばすよ』ジェナインは続ける。
 場面は相変わらず同じだ。講師が音を指定し、その音程で、彼はロングトーンを繰り返す。最初より、声は掠れている。と、途中まで来て、急にむせたように咳き込んだ。あわてて手をあてがうと同時に、ぱっと血が飛び散る。講師は首を振った。
「三時間十分で、声が掠れ出した。そして今、喉が切れたか。まだどこか、喉に負担をかけている証拠だな。喉声は風邪などの体調変化に弱くなる。完全に正しい発声方法を身につけろ。まだ三時間四五分だが、今日の発声はこれで終わろう。次はカーディオをやるから、地下へ移動するぞ」
 少年はふっとため息をつくと、頭を振って言った。
「その前に、洗面所へ行って来て、いいですか……」
「いいだろう。ただし五分以内に戻って来るように」
 講師が厳しい顔を崩さないまま、答える。
 洗面所へ行くと、顔を洗ってうがいをし、吐き出した真っ赤な水をしばらく見たあと、彼はコップを壁に投げつけた。カーンという甲高い音と同時に、掠れた声で、短く叫ぶ。
「ああ、もう! 畜生!」
 きれいな顔に似合わない、後世のガーディアンにもふさわしくない啖呵だが、ジェレミーはなんとなくほっとした思いを感じた。半ば神格化されている人にも、こういう人間的な部分があるのだな、と。もっとも、彼は講師に向かって怒っていたわけではない。自分自身へのもどかしさから、そんな言葉を吐いたのだと、ジェレミーにも感じられた。
 少年はコップを拾い上げて洗い、水を切って元の位置に戻すと、次のレッスンに向かう。
『これがレッスン初日。これがずっと毎日、四週間続くんだよ。彼は十日目くらいで声が出なくなった。でも二、三日あとには戻って来るんだ。一回つぶれたあとに出来た声は、本当に衰えることのないプロの声なんだよ』
 ジェナインの説明に、ジェレミーは『そう、大変なんだ……』と、思わず呟く。
 発声練習の他にも、レッスンメニューはかなり多岐に渡っていた。心肺機能の強化、筋肉トレーニング、ランニング、シャトルラン――これらは、体力アップのための訓練なのだろう。倒れて、もう動けなくなるまで繰り返される。そして水泳とダンス。さらに言葉を明瞭に発音すること、情感を込めての朗読、などもメニューに含まれる。リズム隊の二人のように、一見おかしな訓練もあった。百個の風船をそれぞれ一息で、一定の大きさまで膨らませるというのがそれだ。肺活量強化の訓練らしい。
 さまざまな光景を、ジェレミーは食い入るように見つめていた。
『全部は見せられないけれど、一ヶ月以上ほとんど休みなしで、朝から晩までこのペースだから、相当厳しいよ。特に体力訓練なんて、毎回倒れているし。でも限界を超えないと、それ以上伸ばすことは出来ないんだ』
『うん……わかるよ……』
 ジェレミーは固唾をのみながら頷いた。いつか――そう、自由時間はあるだろうから、その時に少しずつ、自分も練習してみようと思いながら。そのために、しっかり見ておかなければ。自分には、指導してくれる講師はいないのだから。

『トレーニング編は、もうこのあたりで終わろう。次は実践編に行くよ』
 回りがホワイトアウトした。いっさいが消えたあと、再び霧が晴れ、新しい風景が現れた。大きな建物に人がぎっしりと詰めかけている。屋根は灰色のドームのようなもので覆われ、天井からたくさんのライトが下がっていた。人々は興奮冷めやらぬ表情で、ざわめきながらステージを見つめている。
『ああ……これは演奏会だね』ジェレミーは悟った。
『そう。さっきから五年、時を飛ばしたんだ。彼らはもう時代の超スーパースターで、この会場も定員いっぱいの、五万人以上の観客たちが来ている。彼らは一つのシリーズで百数十回も、世界各地をこうやって回って、全部の会場が満員なんだ。それでもチケットが取れなかった人が、たくさんいるんだよ』
『凄い人気だったんだね』
『ただ、最初から見ると長くなるし、僕の力もそこまで持たないから、途中からなんだ。この頃の彼らのコンサートは、途中休憩を挟んで二部に分かれている。そして今、一部が終わって二十分の休憩中なんだ。でも、ほとんど誰もその場を動かない。十分くらいたって、トイレが我慢できない人が、席を外すくらいだ。お客さんたちの表情を見てごらん』
 会場に詰めかけた観客たちは男性が三割強であとは女性、八割近くが十代二十代の、若い人たちだ。バンドのシンボルマークが入ったシャツを着ている人、熱烈なメッセージを書いた大きなボードを掲げている人、紙で出来た薄い本のようなものを持っている人、さまざまな人がいるが、みな一様に陶酔と興奮がさめやらぬ表情をしていた。そして熱に浮かされたような目で、無人のステージをじっと見つめている。
 会場に流されている音楽はどうやら他楽団のもののようだが、曲が変わったとたん、会場が爆発したように、ウオーッともキャーともつかぬ叫び声が起きた。
『何?! どうしたの?』
 ジェレミーは驚いて問いかけた。この曲も彼らのものではなさそうなのに、なぜ観客がこれほど激しく反応するのかわからなかったのだ。
『これはね、もうすぐ休憩時間が終わって、第二部が始まりますよ、という合図の曲なんだ。トイレや飲み物を買いに外へ出ている人たちに、戻ってくるように促す意味があるんだけれど、ここではそういう人たちはあまりいないから、コンサートが再開しますよ、という意味合いだけだね。観客たちはそれを知っているんだ』
 観客たちの叫び声は、バンド名の大合唱に変わった。五万人の観客たちが声を揃えて、彼らの集団名を連呼している。圧倒的な響きに、ジェレミーは思わず身震いを感じた。
 ジェナインが言ったとおり、その曲が終わったとたん会場のライトが消され、暗くなった。観客たちの叫びが、ひときわ高くなる。ステージ背後と、会場に何枚か設置されたスクリーンに、映像が浮かび上がる。様々な風景とアニメタッチの絵、そして抽象的な映像――それが終わると、二、三十秒の静寂。
 大歓声を切り裂くように、ぎゅーんと音響が響いた。ギターの音だ。スポットライトがステージの上に落ちる。その中に、ギター奏者の青年が立っていた。緑色のブラウス、少し光沢のある素材で出来た黒いズボン、白くペイントしたギターを抱え、長い金褐色の巻き毛を揺らしながら、彼は音の洪水を奏でる。混乱と調和がせめぎあうそのサウンドがクライマックスに達した時、ステージ上のライトが一斉にぱっとついた。赤、緑、黄色、青、ピンク、紫、白――七色のライトが入り乱れるステージに、四人がいる。ギター奏者、太鼓群に囲まれたドラムス奏者、何台かのシンセサイザーの向こうのキーボード奏者、そばに隠れるようにして立っているベースギター奏者。彼らは一団となって、来るべき曲の前奏を奏でている。観客たちの叫び声はさらにひときわ高くなり、会場が爆発せんばかりの勢いだ。
 最後の一人が来た。ステージの左サイドから、歌手が走り出てきた。ふわりとした白い半袖のオーバーシャツに、たぶんギター奏者のものと同じ素材だろう、光沢のある青いズボン、長い光色の髪をなびかせて。その中にひと筋、青い髪の流れがある。さっきの練習風景の時にはなかったものだが――。彼がステージに現れた時、観客の歓声は最高潮に達したようだった。五万人が一斉に椅子から立ち上がる。彼はステージ中央まで走っていき、さっと身をかがめて下に置いてあったマイクを拾い、体勢を戻して歌い始めた。

  誰か教えて、どうして僕がここにいるのか?
  教えて、僕らはどこに行くのか?
  くりかえされる問いに、決して答えは返らない。
  教えて、何が正しいことなのか?
  何が良くて、何が悪いことなのか?
  何が正義で、何が罪なのか?
  何が価値あるもので、何が無駄なのか?
  何が偉大なことで、何が卑小なのか?
  大人たちは言う。
  答えは出ているはずだと。
  おまえが子供の頃に、教わったはずだと。
  でも、それはあなたたちが決めたことだ。
  社会や道徳で測られたスケール
  でも僕は、もっと絶対的な基準が欲しい
  僕たちは何のために生きるのか?
  どうしてここにいるのか?
  何に価値を求めたらいいのか?
  寄りかかるべき真実は、一体何なのか?
  繰り返される質問に、決して答えは返らない

 ジェレミーの知らない曲だった。ファイルに収録されない曲の方が多いのだから当然だろうし、後半部分の音源ファイルは、まだ聞いてもいない。でもジェナインの知識によると、この公演が行われた時点では、彼らは前半の音源ファイルの入っていた三枚のアルバムまでしか発表していないと言う。だが、この曲がファイルに入らなかったわけは、理解できた。おそらく「思想に問題あり」とされたのだろう。
 異様な衝撃にジェレミーは心の底から揺り動かされ、震え上がった。曲が終了した。一瞬の静寂――すぐにそれは会場が吹っ飛びそうなほどの大歓声に取ってかわる。
 コンサートは進行していった。音源ファイルで聞く以上の、想像を絶するパワーと衝撃に、ジェレミーはただ立ちすくんだ。激流に翻弄されているような気分だ。それも単なる巻き込みや翻弄ではない。感情のコミュニケーションだ。彼らのメッセージが観客の心に飛び込み、激しく揺り動かす。観客たちはリアクションを返す。それがまた、彼らに届く――その中心である歌い手は、五万人あまりの観客たちのコンダクターであり、導師であり、コミュニケイターのようだ。時々湧き起こるバンド名とは似て非なるコールも、それを証明している。彼は時に激しく、時に穏やかに、時には観客たちをあおり立て、時には静寂の涙の中に突き落とす。
 その一挙手一投足を、ジェレミーも魅入られたように、じっと見つめていた。彼の動きは、芸能局の歌手たちのような、パターン化されたダンスや振り付けではない。その時の感情にまかせて動いているような印象だが、回転、ダンス、ジャンプ、マイクスタンドさばき、そして手の動きだけで静止している時も、何一つ無駄な動きがなく、作られた大仰さなども微塵も感じられない。すべてが自然で美しく、観客たちの視線を一心に捕らえて離さない魅力に満ちている。ステージの上で動いているのは他にはギター奏者だけだが、この二人の動きのからみ方や間の取り方も非常に素晴らしく、ステージの躍動感を最大限に出していた。だが彼らは、意識してやっているわけではないのだ。
 七色のライトの群舞、時折爆発するマグネシウムの閃光、ドライアイスを使った白煙、飛び交うレーザー。舞台の後ろに設置されたスクリーンの映像。そういう舞台装置も、ステージをもり立てるのに一役買ってはいる。しかし彼らの場合、たとえそういうものが何もなくとも、感動の質は変わらないだろう。ステージ衣装もさほど派手ではないが、仮にまったくの普段着だったとしても、その輝きは、損なわれはしないだろう。
 演奏される曲はどれも、聞き覚えのない曲ばかりだったが、そんなことはまったく問題にならない。三曲目と四曲目の間に歌手が入れた挨拶の言葉から、どうやら最新作を一気に全部、アルバムという作品のかたまりに即して演奏するらしいことはわかったが――そうすると、今演奏されている曲たちは、あの音源ファイルにはほとんど残されなかった、『思想に問題あり』とされた、五枚目の作品ということになる。なるほど、最初の曲などはその際たるものだが――。
 五万人あまりの観衆の熱狂は、遠くから見ているジェレミーにも圧倒的な勢いで伝わってきた。そして彼らは一斉に、みな同じ動きをしている。踊り、歌い、叫び。そのステージと客席との間に交わされる感情のエネルギーは、何ものをも凌駕するほど膨大で、圧倒的だった。
 ふっとジェレミーの頭の中に、別の映像が浮かんできた。ステージとシンクロするように。おびただしい人たちの行きかう、見知らぬ大都会――新世界のような整然とした調和はなく、さまざまな建物と、その間を縫うように走る道路、空中ではなく、地上を走っているたくさんの車。混沌としているが、にぎやかな活気に満ちた世界。小さな機械を手に持ち、見入っている人たち。端末のようなコンピュータ画面に向かい、ゲームに熱中する人々。映像機で新しい製品のコマーシャルを見ている人たち、カラフルな商品が大きな窓の中に並べられた建物、壇の上から演説をしている人たち――背広に身を包んだ、どことなく尊大な印象の中年男性と、そして長い奇妙な衣装に身を包んだ、同じく中年の男。後ろにかかる二本の棒が交差したものに貼り付けられた男性の彫像――。
 おびただしい無数の映像が、まるで激しく点滅するフラッシュのように、頭の中に浮かんでは消える。それに付随する、膨大な感情を伴って。その洪水の中に、ジェレミーは溺れそうな気分を感じた。
(さすがは、アクウィーティアの『幻の歌姫』を源に持つ起源子。エルファスも魂を震わせる踊り手でしたが、アルフィアさまは十三人の中で、最大の力を持つお方……)
 別のところから、そんな思いが湧いてくるのを感じる。それは自分ではなく、ジェナインの思いのようだが、彼もまた聞きなれない名前と、その奇妙な感慨に、いぶかっているようでもあった。
 そしてジェレミーは気づいた。頭に浮かんでは消える無数の世界観――これは、旧世界のイメージなのだと。おそらくそれが次々に演奏されていく曲の主題たち――イメージと感情なのだ。それは観客たちの思いを受け止めて増幅されている分、音源ファイルで聞くより遥かに鮮烈な衝撃となって、心に飛び込んでくる。
 最初から数えて十曲目に演奏された曲は、その旧世界のおびただしい幻を、一瞬にして粉砕した。
 
  永遠に続くはずの未来は、突然途切れた。
  平和の終焉。
  嵐は突然訪れた。
  そして世界は地獄になった。
  君には見えないかい?
  街は紅蓮の炎に崩れていく。
  雨は火となって燃え、
  大地には血の川が流れる。
  窓の外に見える風景は
  ガラスの向こうで赤くゆがむ。
  何が起こったのかさえわからないまま
  文明は一瞬にして壊れていく
  人々は逃げまどいながら、
  決してこない救いを求めて叫ぶ
  そして、世界はゼロに戻っていく

 ジェレミーは思わず恐怖にすくみ上がった。彼らは世界の終わりを知らされた。しかし、それを告げることは出来ない。その思いは、いかばかりだったのだろうか? 成功も幸福も長くは続かないこと、自らの栄光のゴールはこの地獄であることを、彼らは知っていた。そんなはずはない、あれは夢だと無理に否定することは出来る。しかし意識の一方では、未来の真実なのだと理解している。その葛藤は、苦しくはなかっただろうか。この曲に込められた激しい絶望感と悲しみは、彼らの思いをそのまま反映しているようだ。それでもあえてその恐怖を曲にし、自らの思いを逃げることなく、真っ正面から向き合っている。曲は最後のパートに向かう。

  世界はゼロになった。
  見渡す限りの廃墟、無人の荒野
  これまでのすべてが無になった
  でも、これがすべての終わりなんかじゃない。
  未来をつなごう。
  もしそれが可能ならば
  最初からもう一度始めよう
  瓦礫に埋もれた廃墟にも
  新たな命は芽生える
  もう一度立ち上がろう
  ひとかけらでも、希望を探して

 最後のフレーズと同時に、ばんっとすべての楽器が叩きつけるようなビートを奏で、いきなり曲は終わった。衝撃に、ジェレミーも意識の中で思わずびくっと震えた。
 風景が消えていく。霧の中に解けていく――。
『ごめんね。最後まで聞くとマジックが発動しちゃうから、ここでやめるよ。この後の二曲は、音源ファイルにあるしね』そんなジェナインの声がした。
『え……?』
 まだ興奮と陶酔の覚めやらないまま、ジェレミーは問い返す。
『今それが発動してしまうと、まずいと思う。ますます君に現状のフラストレーションを感じさせそうだから』
『マジックって……なに?』
『この作品は最初から最後まで通して聞くと、ある大きな感情がわきあがってくるように出来ているんだ。今の自分はこのままでいいのか。本当の真実とは何なのか。社会のルールや規範は、それほど絶対的なものなのか。それを、自分で考え出してしまうんだ』
『えっ……そんなことが、可能なの?』
『普通の人には不可能だけれど。でも、あの人なら出来る。だからこそあの人は、ここまで求心的なリーダーになりえたんだ。そしてだからこそ、後世の人たちさえもすくみあがらせるほどの力を、音楽に与えた。この作品が音源ファイルにほとんど残されなかった本当の理由も、それなんだ』
『そう……なんだ』ジェレミーは感嘆に打たれながら、頷いた。
『他の誰にも、真似の出来ない技だけれどね。でも……そう、彼らのやっている音楽、ロックは、もともと反体制から生まれたものだし、ある意味、今の芸能局の対極にあると言っていいと思う。ただそれでも、彼らはその力を決して負の方面には持っていかない。常にポジティヴで建設的だ』
『うん。それは、わかるよ。はっきりと』
『いつか君も……あの域は無理にしても……君自身の観客と、あのシーンを持てたらいいね。僕も応援しているよ』
『ありがとう、ジェナイン……』
 ジェレミーは熱い塊を飲み下し、頷いた。そして感じた。相手がゆっくりと離れていくのを。『ジェナイン……どこへ行くの? ……大丈夫?』
『大丈夫だよ。僕はどこへも行きはしない。君の中へ帰るだけさ』
 そう答えがあった。エコーをひくように、ゆっくりと小さくなって。
『そう。よかった。今日はありがとう、ジェナイン。本当に貴重な体験をさせてくれて』
 ジェレミーは心の中で手をさしのべた。
『ねえ、ジェナイン……また会えるよね?』
『うん。いつか、ね……』そんな声が、小さく消えていった。
 安らぎの中、ジェレミーは再び暗闇の空間に浮かんでいる。そして目覚めた。部屋の中は夢の続きのように暗い。ジェレミーは手探りで起きあがり、枕元の常夜灯をつけた。八時近くになっている。窓のないこの部屋ではわからないが、もう朝になっていたのだ。ジェレミーはベッドに寝ころんだまま手を伸ばして、ライトのスイッチを入れた。
 
 あれは夢だったのだろうか? いや、真実だ。はっきりとそう感じた。左腕を伸ばし、開いて、閉じる。この腕も自分の意のままに動くが、肩に近いところに、ほとんど目立たないが、ぐるりと細く白い筋が残っている。たぶん双子の兄弟から移植された時の、縫合のあとなのだろう。ジェレミーはベッドの上に半ば起きあがり、鏡を取り出して見た。手を伸ばし、左の頭頂部をそっと撫でた。このあたりの髪は、他と比べてひときわ色が濃い。蜂蜜色の髪が、この部分だけダークブロンドのような色合いになっている。これもきっと双子の兄弟、ジェナインの名残なのだろう。
「ごめんね、僕のために。でも、ありがとう、ジェナイン……」
 ジェレミーは目を閉じ、そっと呼びかけた。きっとその思いが届いていると感じながら。
(それに、ゆうべは貴重な贈り物をありがとう。なにものにもかえがたいプレゼントだったよ。おかげで究極の夢が見られた。それに少しでも近づくための手段も、知ることもできた。僕はあきらめない。がんばるよ。そうさ。僕の人生は、君の人生でもあるんだから。負けられないよ)
 ジェレミーは目を開き、じっと天井を見つめた。明日ここから出たら、いよいよ芸能局の歌手、ジェミー・キャレルとしてのキャリアが始まる。空虚で退屈で、忙しい日々だろう。でも、どんなに困難に思えても、僕は自分の理想を決して捨てまい。その中で自分に出来ることを探し、少しでも夢に近づけるように日々を過ごそう。
 その決心のもとにジェレミーは再び目を閉じ、ベッドに横になった。眠るためではなく、昨夜の夢を追想するために。自分は決して、あの領域までは行けない。だが音楽の歓び、観客たちとのコミュニケーション――それは、手が届く夢かもしれない。現実には負けまい。
 イメージの中で、ジェレミーはいつしか自分自身の姿をそこに投影していた。ステージの上で、まだ見ぬ仲間たちと一緒に歌っている自分。歓声を返す観客たちを。彼らと心が通い会う歓びに、魂が震えるように有頂天な思いを感じている自分を。単なる夢ではなく、未来の姿だと信じたい。あきらめてしまえば、夢はそこで終わる。でもあきらめなければ、叶う可能性は少しでも残っている――ジェナインはそう言った。パトリックも同じようなことを。ジェレミー自身も、それは真実だと確信していた。




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