Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第5章 転身(3)




 六ヶ月目からは、さらに単調な日々が待っていた。多少気難しくはあったが、最後には交流を持てたアイド・フェイトンという生身の人間に関わっていた間、午後からは少なくとも活気のある時間が持てていたジェレミーだったが、五ヶ月の見習い付き人期間が終わり、一日中レッスンという日課に変わると、毎日が耐え難く単調で空虚に思えた。
 レッスンには、期待していたようなものは何もなかった。新世界創立伝説の音楽理論ファイル、今もパトリックがレポートの合間に勉強しているだろうファイルの方が、よほど実践的で、音楽の本質に近い。付き人をやっている間は、レッスンは午前中だけだったので、まだ辛抱できたが、これが一日中、来る日も来る日も続くとなると、ジェレミーの憂鬱感は日増しに高まるばかりだった。おまけに気を紛らわせるものは、何もない。放送プログラムは退屈なだけだ。外部に通信してパトリックと話したいと、何度切望したことか。マーティンや伯父夫妻の声も聞きたい。だがそれは規則で出来ず、図書の閲覧も三か月目からやっと一部だけ許されるようになったが、たわいもない小説ばかりで、いわば外部から完全にシャットアウトされた状態では、つまらないレッスンでたまった精神的疲労を回復する手段は、何もなかった。なかなか夜寝つけなくなり、それでも朝は否応なしに起床時間に起こされるので寝不足気味で、体調も少しずつ崩れていった。
「寝不足は肌に悪いんだ。メイクののりが悪くなるから」
 日曜日の美容レッスンで、いつもそう言われるが、それも本末転倒のような気がして、嫌悪感さえ覚える。ある時、そのインストラクターが、白い錠剤がたくさん入ったビンを差し出して言った。
「夜、あまり眠れないようなら、一錠ずつこれを飲むといい。気持ちが落ち着いて、よく眠れるようになるから」
 ジェレミーはそのビン、その中身に見覚えがあった。アイド・フェイトンが常用していた薬だ。芸能局の歌手や俳優は、たいていその薬の世話になっていると、彼が話していた。
「だがな、俺から言うのもなんだが、あまりこれには世話にならない方がいいぞ」
 付き人としての最後の日に、ジェレミーはそう言われた。
「どうしてですか?」
「いや……余計なお節介だな。楽になりたいなら、使った方がいい」
 アイドはにやりと笑って、そう言ったものだ。
「これはな、飲むとたいていのことが、どうでもよくなるんだ。おまえが自分の理想に耐えられなくなったら、使うといい。きっと忘れられるだろう」
 その言葉を思い出しながら、ジェレミーはインストラクターからビンを受け取った。でも、飲む気には、まだなれなかった。これを飲んだら、理想を忘れられる――? だが、もし夢を捨ててしまったら、宇宙開発局を捨て、伯父の家を出てここに来たかいなど、まったくなくなってしまう。すべての希望が途絶えたら、これを飲もう。今はまだ早い。自分はまだ研修生だ。デビューもしていないうちから、すべてをあきらめるわけにはいかない。
 ジェレミーはビンをキャビネットの引き出しにしまい、そのままにしておいた。

 単調な日々が、ゆっくりと過ぎていった。七月に入ってまもなく、作法のレッスン中にジェレミーの担当監督官になるイーザン・ハワード氏が、半年ぶりにやってきた。
「やあ、レッスンは順調に進んでいるようだね」
 監督官はインストラクターに向かって言葉をかけると、ジェレミーに向き直った。
「君のデビューが決まった。八月一日だ。ビデオ撮りはその三日前に行う。当日は新人紹介プログラムに出演して、その日から君のビデオが番組にのることになる。それから一か月の間にもう二曲発表して、その後は八ヶ月ほど各都市を回って、プロモーション活動をしてもらうよ」
「はい」
 ジェレミーはその知らせを、歓びをもって聞いた。これで単調なレッスンから解放される。あの高圧的なジョンソン研修官からも逃れられる。休暇を取ったり外出したりすることも、もっと幅広い図書の閲覧も許可されるだろうか。しかしハワード監督官から詳しい説明を聞くにつれ、ジェレミーはだんだんと高揚した気持ちがしぼんでいくのを感じた。
 自分の芸名は、「ジェミー・キャレル」になるということ――芸名がつくのは覚悟していたし、そう変な名前ではないから良しとしなければならないのだが、なぜ本名のままではいられないのだろうか。ローリングス一族が不愉快になるというのは、わかるが。エイドリアン・ファーガスンがアイド・フェイトンになって、エイドリアンのころどんな人間だったか忘れてしまった、と本人が言っていた。自分もジェミー・キャレルという別人になったら、ジェレミー・ローリングスという本来の人格をいずれ忘れてしまいそうで、怖くもある。
 ステージ衣装だというデザイン画を見て、ますます戸惑いを覚えた。女の子が着るようなふわふわしたピンクのブラウスに、光沢のある白い膝までのズボン――こんな衣装を着るなんて、恥ずかしい。さらにデビュー曲だというものを実際に聞かされた時、ジェレミーは完全に失望した。なんというつまらない曲だろう。なんと意味のない、たわいない歌詞だろう。当然と言えば当然のことだが、それは現代、いやたぶん千年以上前からずっと放送プログラムにのって流されてきた幾千幾万の流行歌、泡のように現れては跡形もなく消えていく、無数のシャボン玉の一つでしかなかった。これを聞いても、聞き手は何の感慨も抱きはしないだろう。恋に恋する、未熟な少女の夢の助けにはなるかもしれない。もしくは妄想の。それだけでしかないだろう。アイドルに夢中になる少女たちは、現実に恋する男性が出来ると、アイドルを卒業していく。あとには甘い感慨の他に何も残さない。ジェレミーが目指しているのは、そんな次元のものではなかった。
 レッスンでそのつまらない曲を繰り返し歌わされ、さらに振りを付けて同じダンスを繰り返し踊らされるにつれて、現実の苦痛はますます増大していった。だが、これはまだ序の口だ。これからビデオ制作があり、プログラム撮影があり、音楽番組に出ることを三回繰り返し、そのあとはプロモーションで全国各地へ行き、見知らぬ人々に笑顔を振りまいて握手をしたり話したりし、この曲と、それに続く二曲、これもどうせ同じようにつまらないのだろう。それを歌わなければならないのだ。何百回と。ぞっとした。失望のあまり思わずキャビネットの奥にしまってあった薬ビンを取り出し、飲もうと思ったこともある。しかし二粒ほど手のひらに受け、口元にもって行きかけたところで、思いとどまった。こんなところで、始まったばかりで、あきらめて良いのか。ジェレミーは頭を振り、中身をビンに戻して再びキャビネットの奥にしまった。まだ薬に逃げたくはない。
 しかし激しい失望を自分一人で戦うのは、もう限界だと感じた。誰かに話して、相談したい。しかしロード期間が終わらなければ休暇は取れず、伯父の家にも帰れない。ここからは相変わらず外部通信は出来ないし、この芸能局内の寮では話せる人は、アイド・フェイトンだけだ。しかし彼は六月からプロモーション期間に入り、全国興業に出かけていたので、不在である。
 芸能局の歌手は、プロモーションとホームの二サイクルで活動する。プロモーションとは世界各地の町へ行って、集まってきた人々と握手をしたり話をしたり、一緒に写真を撮ったりし、ステージで歌も歌う。その期間は新人で七、八ヶ月、それ以降は半年前後である。ホームではそれぞれ所属の寮に留まり、プログラムに出たり新曲のビデオ撮りをしたり、演劇部門から要請があれば、ドラマや娯楽番組などにも出る。この期間はだいたい七ヶ月から九ヶ月くらいある。
 九月からは自分もプロモーションのサイクルに入ってしまう。新人だから八ヶ月間――来年の五月まで。長く騒々しく、退屈で単調な日々が続くことだろう。このままそんな状態に入ってしまったら、確実に精神状態がおかしくなってしまう。その間に薬の常用者になり、与えられたものを受け入れるだけの無感動な人間になってしまうかもしれない。救いが求められるとしたら、今しかない。でも、どうやって――内部には話し相手などおらず、外部とは完全にシャットアウトされている今、どうすればいい――。
 
 伯父の家に帰りたい――ここへ来た時から感じていた切望が、今まで以上に激しく襲ってきた。帰って、みんなに会いたい。とりわけパトリックに。彼ならわかってくれる。以前のように会って話して、悩みを聞いてもらいたい。それだけで、少しは重荷も軽くなるかもしれない。だが、それは叶わない望みだった。
 でも、本当に叶わないことだろうか――そんな心の反駁をふと感じた。なるほど、正面突破では絶対だめだ。研修中の外出は、いっさい禁止なのだから、芸能局の玄関から出ることは出来ない。玄関に備え付けられたセンサーが自分のIDを読み取り、警報を鳴らすだろう。でも――ジェレミーは窓に歩み寄り、そっと鍵を開けた。開く――自分の部屋は三階だ。このまま下へは降りられない。だがバルコニーから一、二メートルくらい離れたところに、高い木の梢があった。あそこへ飛び移れたら、少し下に降りて太い枝をつたっていけば、塀まで二メートルくらいの距離だ。塀の外は芸能局の敷地外だ。うまく行けば、出られるかもしれない。無断で外へ出た罪で罰せられるだろうが、かまいはしない。もう就寝時間は過ぎている。見つからずに出られるかもしれない。
 それ以上考える余裕はなかった。ジェレミーは窓からバルコニーへと出、後ろ手に窓を閉めてから、バルコニーの縁に立った。危ういバランスで、下を見るとくらくらしそうだ。下を見てはダメだ――そう自らに言い聞かせ、縁を蹴って飛び出した。落ちながら手を前に出すと、手の先が木の幹に触れた。ばさばさっと音がし、生い茂った葉や木の皮で、手や頬に傷がついたような痛みが走ったが、ジェレミーはかまわず幹に抱きついた。ずるずると身体が滑り落ちる。足に枝が当たった。枝に足をかけて踏ん張り、体勢を立て直す。
 ここまでは来た。ジェレミーは慎重に木を降り始めた。塀と同じ高さまで降りると、今度は太い枝へ移動する。再びジャンプ――塀に手が届いた。大丈夫、ここは矯正寮ではないから、塀に電流など流れてはいない。ありったけの力を振り絞って、身体を上に――。
 ジェレミーは塀の上に立っていた。ここから飛び降りれば、下へ降りられる。しかし、高さが三メートル近くある。ケガをするかもしれない――恐怖心はあったが、飛ぶしかなかった。身をかがめ、ひざを折った形で着地すること――半ば本能的にそんな姿勢をとり、次の瞬間、ジェレミーの身体は地面に降りていた。着地のショックで、少し右の足首を痛めてしまったようだ。大丈夫。なんとか立てる。オートレーンの外側の歩道に、ジェレミーは立っていた。次の交差点までは、このまま歩いていくしかない。
 もう二三時近いので、ほとんど人影はなかった。歩道はおろか、動く歩道であるオートレーンの上にも人はいない。交差点の中央には、シャトルのステーションへ降りる階段がある。道路の下を走り、市内を結ぶシャトルは日付をまたいで午前一時までは運航しているが、自分のIDで乗れるだろうか? 芸能局に通報が行かないだろうか? シャトルには乗らず、オートレーンを使ったとしても、伯父の家までは、かなり遠い。三時間以上かかるだろう。途中、パトロールロボットに発見されないとも限らない――外に出たものの、不安が押し寄せてくる。しかしこのまま帰っては、罰せられるだけで救いがない。とにかく行かなければ。
 憑かれたように、ジェレミーは歩道の上を歩き出した。塀から飛び降りた時にくじいた足がずきずき痛かったし、両手もひりひりした。たまらなく惨めな気持ちを感じた。自分はいったい何をやっているのだろう。少しでも夢に近づきたくてここに来たのに、現実はあまりに冷酷だった。仮にこうして逃げたところで、何も変わりはしないのに――自分に帰る場所などもはやなく、飛び込んでしまった牢獄で無事につとめを果たして出てくるしか、ないかもしれないと言うのに――。

 ようやく次の交差点まで歩いたところで、ジェレミーは足を止めた。向かいの歩道の角に、誰かがいる。街灯の下に佇んで、斜め向かいに見える芸能局の建物を見上げていた。まだ若そうな男のようだが、誰だろう――訝りながら、ジェレミーは用心して相手を見極めようとした。もし芸能局の関係者だったらまずい。
 交差点を慎重に半分ほど横切って、相手が誰だかわかった時、ジェレミーは驚いて叫びそうになった。まさか、そんな――。
「パット!」ジェレミーは思わず声を上げて飛び出した。
 パトリックの方も驚きの表情で見つめていた。まるで幻影でも見ているかのように。
「ジェレミー! 本当に君かい?」
「僕の方こそ! 本当に君なの?」
 次の瞬間、二人は同時に聞いた。
「「なぜ、君がここにいるんだい?」」
「僕は思わず逃げて来ちゃったんだ……」
 ジェレミーがため息とともに、最初に答えた。そして、堰を切ったように話し出した。去年の十二月に芸能局へ入ってから今までのことを。自分の苦悩や失望感を。来月、デビューが決まったことも伝えた。
「ジェミー・キャレルか。女の子のような服を着た、中性的なアイドル、ね。なんだかそんなことになるんじゃないかなって言う、悪い予感はしたけどね……」
 パトリックは黙って話を聞いた後、苦笑をかみ殺したような表情を浮かべた。
「そう……?」
「そうだよ。だって芸能局のやりそうなことじゃないか。今までのスターたちを見てごらんよ。君はここに入った時自分がどうなりそうか、考えたことはなかったのかい?」
「うん……」
「そこまで考えて、現実の厳しさを知った上で、それでもやりたいのかと、僕は思ったよ。ジェレミー、君も言ったんじゃないかい? 今と彼らの時代とでは違うことはわかっているけれど、少しでも音楽という同じ接点を持っていたいからって」
「あ、ああ……そうだね」
「でも、君の気持ちはわかるよ。覚悟するのと現実は違うからね。僕だって実際中に入って体験してみなければ、君に偉そうなことは言えないだろうし。君が芸能局へ行ってから、ずっと気になっていたんだけれど、通信もできないから、どうしているのかわからない。でも、君はくじけそうになっているかもしれないなって、そんな気がしたんだ」
 パトリックは首を振り、髪に手をやりながら、言葉を継いだ。
「昨日、君の夢を見たんだ、ジェレミー。夜中に君が訪ねてくる夢を。家中寝静まっている中、チャイムの音が響いて、ドアを開けたら君がいた。『ここに帰りたいよ』って、君が言っていたんだ。『助けて、パット』ともね。僕は思わず、『ジェレミー、どうしたんだい?』って、声に出したところで、目が覚めてはっとしたんだ。夢だったんだって。でも、本当になんだか君が僕を呼んでいるような気がして、君がつらい目にあっているんじゃないかって気になって、昼間行ってみたけれど、やっぱり面会は出来なかった。君は元気にしているから、ご心配なくって言うだけで。でも、やっぱりなんだか気になってね。みんなが寝てからこっそり家を抜けて、ここまで来てみたんだ。まさか本当に会えるとは、期待していなかったけれど……」
「パット、僕は本当に……」
  ジェレミーは言いかけて、言葉に詰まった。言いたい思いはたくさんある。相手もきっとわかってくれる。でも思うように言葉が出てこない。
 パトリックはそんなジェレミーの肩をぽんぽんと叩き、口調を変えた。
「ところで、ジェレミー、明日は何の日か覚えているかい?」
「えっ?」
「明日は君の誕生日だろ? 十八才の。だから、ささやかながら僕からのお祝いを持って来たんだ。君に直接会って手渡せたらと思ったんだけれど、ダメなら明日もう一度ここに来て、芸能局の人に頼んで、渡してもらおうと思っていたんだ。ここで君に会えて、本当に良かったよ。これ、一日早いけれど、誕生日おめでとう」
「え……あ、ありがとう……」
 ジェレミーは手渡された薄い水色の小さな包みを開けてみた。それは木片を彫って作った、小さなギター。パトリックの持っているギターの、ミニチュア模型だった。赤いペインティングもしてあり、ホルダーとして使えるように短いチェーンもついている。
「僕が作ったんだよ。だから、ちょっと不格好だけれどね」
「あ、ああ……ありがとう、パット!」
 ジェレミーはその贈り物を両手に包み込むように乗せ、じっと見つめた。ひっくりかえすと、裏になにか字が書いてある。
【未来を信じて、前へ進め、ジェレミー】と。
 その言葉を読んだとたん、ジェレミーは胸がいっぱいになって、思わずその小さなホルダーをぎゅっと握りしめ、胸に抱いた。この言葉は覚えがある。新世界創立伝説のファイルで見た、新世界過渡期のモットー。新世界のガーディアン(守護神)となった人の残した言葉の一部だ。その言葉を再びここに刻んだパトリックの気持ちも、ジェレミーははっきりと感じ取ることが出来た。今の状況はつらい。希望を失いかけることすらある。しかし、もうあとには戻れないのだから、夢をあきらめずにがんばって欲しい、最初の衝撃と思いを忘れないで欲しいという、従兄からの精一杯のエールなのだと。
「ありがとう、パット……本当に」
 ジェレミーは我知らずあふれてきた涙を拭いながら、声を詰まらせた。
「僕……がんばるよ。どんなに現実が厳しくても……夢をあきらめない。本当に、ありがとう……」
「うん……しっかりね」
 パトリックはジェレミーの肩に両手を置き、それだけ言った。そしてしばしの沈黙のあと、ちょっと首を振り、相手の肩をぽんと叩いた。
「じゃあ、いくらか勇気が戻ったら、帰った方がいいよ、ジェレミー。パトロールに見つかる前に。僕が協力するから、もう一度塀を越えるかい?」
「いや、玄関から戻るよ。君を共犯者にはできないからね、パット」
 ジェレミーは頭を上げ、きっぱりと答えた。
「僕はもう逃げないよ。これからは、僕の戦いだ。現実という敵に、負けたくないんだ。だから、まず堂々と玄関から戻りたい。罰は受けるだろうけれどね」
「どんな罰だい?」
「無断外出は、三日から一週間くらいの謹慎、かな?」
「じゃあ、そんなにひどい罰じゃないんだね、良かったよ」
「うん。大丈夫だよ。心配してくれてありがとう、パット」
「ああ、じゃあ元気でね、ジェレミー。がんばれ!」
「うん。本当にありがとう! これ、大事にするよ。僕のお守りにするから」
 ジェレミーはミニチュアギターのホルダーを、そっと上衣の胸ポケットにしまい込んだ。
「いつか休暇が取れたら、ちゃんと会いに行くね」
「ああ、待ってるよ!」
 二人は握手をして別れた。ジェレミーが芸能局の門に着いて振り返ると、パトリックはまだそこに立っていた。自分に向かって、ちょっと手を上げ、小さく振っている。ジェレミーも従兄に向かって、小さく手を振った。そして門の中に入り、もう一度振り返ると、パトリックはシャトルのステーションへ降りる階段に向かっていた。その姿に感謝の眼差しを投げると、ジェレミーは大きく息をついた。そして玄関にIDリングを触れさせると、もう一度建物の中へと入っていったのだった。

 ジェレミーは無断外出の罪で、懲罰室に三日間謹慎という処分を受けた。ジョンソン研修官からはこづかれ、ひどく叱責された。ハワード監督官は苦り切った顔で言った。
「デビュー前の大事な時だというのに、君は何を考えているんだ。おかげで予定が狂ってしまった。君のデビューは五日遅れだ! まったく、余計な仕事を増やしてくれたな」
「ごめんなさい。僕はどうかしていたんです。もう二度とこんなことはしませんから、許して下さい!」
 ジェレミーは弁解も反抗もせず、ひたすら謝った。罰への恐怖心からではなく、今この場で反抗するのは、自分の夢を叶える道が、ますます遠ざかると悟ったためだ。今は自尊心を飲み下し、ただ耐える時なのだと。
「デビューを前に控えて、少し精神的に動揺したのだろう。良くあることだ」
 芸能局の上層部はそう解釈したようだ。反省してもいることだし、軽いペナルティでよいだろういうことで、謹慎三日間の処分が決定した。

 懲罰室は三メートル四方ほどの窓のない部屋で、粗末なベッドと椅子とテーブルがおいてあるだけだ。ベッドのマットレスは固く、同じく固い枕と、擦り切れた毛布がのっている。奥にはカーテンで仕切られた洗面所とトイレがついているが、シャワーは浴びられない。差し入れられる食事も一日三回、パンとスープだけ。扉は内側からは決して開かず、テーブルの上に端末もない。プラスティック樹脂でできた紙が何枚かと、インクペンシルが置いてあるだけだ。その道具を使って、毎日手書きで反省文を書く。課せられる課題はそれだけだった。かつて宇宙局に提出しようとした論文のように、ジェレミーは自分の心を偽った反省文を書きつづった。ここで生きるためには仕方がないのだと割り切り、屈辱感はあまり感じなかった。
 一時間もあれば、反省文は書き終わる。それ以外何もすることがないので、一日のほとんどを、ベッドに寝ころんで過ごした。苦痛ではなかった。一日中つまらないレッスンに明け暮れているより、穏やかな静寂はむしろありがたかった。ジェレミーは疲れた神経を休め、まどろみ、目が覚めている時には、新世界創立伝説のことを考えた。彼らの曲を、心の中で何度も再生してみた。時々パトリックからもらったホルダーを取り出して、じっと眺めた。そうして二日が過ぎた。

 懲罰室での二日目の夜、ジェレミーは夢を見た。
 まわりは真っ暗な空間だ。暖かい静寂と闇の中、不思議な安らぎを感じて浮かんでいた。その静寂の彼方から、声がする。
『ジェレミー……』その声は呼んでいる。
『ジェレミー、ジェレミー……』と、繰り返す。
「誰……僕を呼ぶのは?」
 問い返しながら、ふと気づいた。ああ、この声――聞き覚えがある。去年の秋、まどろみの中で聞いた声。迷いを解き明かしてくれた、あの不思議な声だ。
「君はいったい誰なの……?」ジェレミーは問いかけた。
『僕はもう一人の君だよ』声は答える。
 暗闇の空間に、ぼんやりとした影が現れた。見る間に人の姿になっていく。
「あれは……?」
 ジェレミーは驚きながら目を凝らした。現れたのは彼と同じような年頃の少年。顔立ちは良く似ているが、髪の色はダークブロンドで、目は緑色――パトリックの目のような、エメラルドの緑だ。そして今の自分と同じ服を身に着けている。
「君は誰なの……?」ジェレミーは再び同じ問いを繰り返した。
『僕はね、君の双子の兄弟なんだ』相手は静かに答える。
「えっ?」
『聞いたことがなかったかい? 君は生まれた時、双子だったということを』
「い、いいや……ただ、重い障害があって生まれて、手術をして、やっと普通になったって聞いたけれど、双子だったなんて知らなかった。君は今、どこにいるの?」
『僕は、この世にはいないよ。生まれて三日目に死んだから』
「えっ?」
『君と僕は双子だったんだ。重度のシャム双生児だった。ほら……これが、僕の本来の姿』
 相手の姿が霧のように一瞬たなびき、また形を取った。ジェレミーは思わず息をのんだ。頭から胸まで――それだけしかない。そこから下は失われていた。腕の片方は普通だが、もう一方は肘のところで丸くなっている。右の頭頂部も、少し欠けていた。
『この腕は、今の君の左腕だよ』
 相手はふふっと笑い、正常な手を軽く振った。と、その腕も消える――。
 ジェレミーは思わず目をそらせた。自分の誕生の経緯を――母や祖母が教えてくれなかった生命の選択を悟りながら。自分がもう一方の子供の命を犠牲にして、五体満足な身体を得たことを。今の命を授かったことを。そして今、知らずに犠牲にしてしまった相手と、自分は向き合っている。死んだはずの相手が現れたことに、恐怖は感じない。相手にすまないという思いだけだ。
『そんなに、気にしなくても良いよ』
 言葉に出さずとも、その思いは即座に伝わったようだ。相手は軽く笑った。その姿が一瞬たなびいたあと、再び五体満足な姿をとる。
『やっぱり向き合って話すには、この方がいいよね』
「君は……幽霊なの?」
『いや、違うよ』相手は悪戯っぽく笑った。
『僕の身体は死んだけれど、精神は死ななかったみたいなんだ。脳を一部共有していたせいかな? 君の身体の中で、僕はまだ生きているよ。いや、正確には君の頭の中にかな。僕はまだ生きている。でも普段は、表には出ないんだ。君の意識の邪魔をしないように、君を見守って、君の五感からの刺激を受け取っているよ。君の感情の動きも感じている。最初の十四年は、かなり退屈だったけれどね』
「ああ。僕も退屈だったよ。しかも退屈がどういうものかさえ知らなかった。パットに『退屈しない?』って聞かれて、『それは何?』って、逆に質問したくらいなんだ」
『うん。それは知ってる。面白かったよ』
 相手はちょっと肩をすくめて笑った。
「最近も、退屈しているんじゃないかい?」
 ジェレミーは率直に聞いた。
『うん。まあ、ちょっとね。でも仕方がないね。それが現実なんだから』
 相手は再び肩をすくめ、そう答えた。
 ジェレミーはさらに問いかけた。もう一人の自分に対して。
「うん……君はどう思う? やっぱり芸能局に入ったのは、間違いだったんだろうか?」
『僕にもわからない。でも仮に間違いだったとしても、過去はやり直せないからね』
「そうだね。後ろを振り返っちゃいけないんだ」
『あのモットーだね』
「うん。これからは僕のモットーにもすることに決めたんだ」
『そう。まあ、あれはたしかに真実だと僕も思うよ。ただわかっちゃいるけれど、なかなか思い切るのは大変だろうね、現実には』
「そうかもしれないね。僕は時々現実って、巨大な壁だって思えてしまうんだ」
『わかるよ。望みを阻む壁だね』
「うん。でも、それでも……望みって、あるんだろうか? 希望を捨てずに未来を信じて進めば、道は開けるだろうか?」
『僕には、未来まではわからないよ』
 相手はかすかに笑って肩をすくめた。
『でも、一つだけは言えると思うんだ。希望は捨てちゃったらその時点で終わりだけれど、持ち続けていれば叶う可能性は、いくぶんかは残っているだろうって』
「ああ、そうだね!」ジェレミーは強く頷いた。
「あきらめないことが肝心なんだ。どんなに現実の壁が厳しくても、やっぱりがんばるしかないんだ」
『そう思って、君はここに戻ってきたんだろう?』
「うん、そうだよ」
『時間はかかるかもしれないよ。君のキャリアの大半を空費することになるかもしれない。これからも単調でつまらない日々が待っているだろう。でも、くじけないでがんばれるかい? 夢を捨てずに、持ち続けられるかい?』
「うん。何年かかるかわからないけれど、出来るだけがんばってみたいよ」
『わかった。じゃあ、パトリックが君にエールを送ったように、僕からも君に送ろう。君の夢、理想とあこがれを、少しだけ見せてあげるよ』
「えっ?」
『僕は精神体だけで生きてきた。だから、普通の人間とは、少し違うんだ。過去の意識をさかのぼることが出来る。僕が僕になる以前のころまでね。知っているかい、ジェレミー。人間はみんな、連綿とつながる魂を持っている。今の人生の前にも、違う人生がいくつもあった。これからもそうであるように。でも普通は自分の人生だけがすべてで、それ以外の記憶はないんだ。でも僕は違うらしい。僕は覚えているんだ。遠い過去、今から二千年くらい前に、僕は彼らを知っていた。ずっと見ていた。昔も僕は観察者だったらしいね』
「えっ、どういうこと?」
『僕の意識を通して、彼らに会わせてあげるよ。もっとも、本当に会えはしないけれどね。僕と同じで、遠くから見ているだけだ。でも、ここのファイルには記録されなかった彼らの生の姿を、見ることが出来るよ』
「彼ら……彼らって、創立先導者たち?」
『そうだよ』
「ええ! そんなことが可能なの? だって二千年も前の……」
『さっき言ったことを、聞いていなかったのかい? 昔、僕は彼らを見ていた。だから、まだ意識が残っているんだ。普通は肉体に魂が宿った時に忘れてしまう、以前の意識が、不完全ながら、僕にはまだ残っているようなんだ。僕には、肉体がないせいなのかもしれないね。はっきりしたことは、何もわからないけれど。僕は以前誰だったのか、なぜ遠くからずっと彼らを見ていたのか、そんなことは何も覚えていない。でも彼らを見ていた記憶だけは残っているから、その記憶の一部を取り出して、見せることはできるよ』
 相手は微笑し、手を差し出した。
『さあ、ジェレミー、こっちへおいでよ。僕と一緒になろう。そうすれば、僕の記憶を君に分けてあげられる』
「うん……」
 ジェレミーは戸惑いながら手を伸ばし、相手の名を呼ぼうとした。そして気づいた。
「ねえ、君の名前は何ていうの? 生まれてすぐに死んでしまったから、名前はないのかい?」
『そうだね。でも僕はきっと、ジェナインだ。君のミドルネーム。僕らは父親がわからないから、姓は母さんの旧姓そのままだけれど、名前をつけてくれたお医者さんが……母さんにはつけられないからと、頼まれたみたいだね。元は双子だったのだからと、名前も二つつけてくれた。だからフルネームが、新世界の黎明期のように、四つになったんだね。それであとのほうが、僕の名前なんだ』
「ああ、そうだったんだね。僕らは二人分の命を一人にして生きたから、名前も二つなんだ。僕はジェレミーで、君はジェナイン……」
 ジェレミーは頷きながら、相手の手を取った。ジェナインもにっこり笑い、頷き返した。彼の影が近づき、ジェレミーに触れる。と同時に、二人の身体は一つになった。
 回りの世界がねじれるのを感じた。意識が遠くなり、再びつながる。ジェレミーは相手と完全に意識を共有していることを感じた。ジェナインの過去の意識は何を見ている――今はまだ白い霧だけだ。やがて、その霧が徐々に晴れた。




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