Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第5章 転身(2)




「結局、ダメだったのか……」
 パトリックは経緯を聞かされて、思わずため息をついていた。
「僕に出来ることはしたんだけれどね」マーティンが肩をすくめる。
「ごめんね、二人とも。僕も本当は、出来るものなら満足を持って宇宙開発局へ戻りたいんだ。でも、どうしてもそうできないってわかったから。ここを出るのもつらいけれど、でも完全に帰って来れないわけじゃないし……僕が普通の道から外れても、まだ受け入れてくれるなら。やっぱり僕は、自分の気持ちに正直に生きたいんだ」
「わかる。わかるけど、ジェレミー……」
 パトリックはしばらく黙り、ついで立ち上がった。
「ああ……君を共同閲覧者にしたのは、僕の失敗だったかも知れない。でも、もうそれは仕方がないから……君にとって最良の道は、何なんだろう。宇宙開発局の職員になっても、君が幸せになれないのなら……そうだね。君が音楽を目指したい気持ちはわかるんだ。これほど君が思いきったことを考えてるなんて、意外だったけど……潔いと思うよ、本当に」
 そして再び考えるように黙った後、ジェレミーの肩に手をかけ、熱意のこもった口調で続けた。「僕には止める権利はないね。いろいろ大変だと思うけれど、くじけないで、がんばれ、ジェレミー。君の新しい道で幸せになれることを願っているよ」
「あ、ああ! ありがとう、パット!」
「結局、そうなっちゃったのか……」
 マーティンはあきらめ顔で肩をすくめる。
「ごめんね、マーティン。君に僕の気持ちを、なぜそう思うようになったか、その経緯を話すことが出来たら、きっとわかってくれると思うんだけれど。唐突で、びっくりしたと思うんだ。ごめんね。でも君には絶対、迷惑はかけないよ」
「わかってるよ、ジェレミー。やっぱり、君の人生だからね」マーティンはそう繰り返し、
「うん……」ジェレミーは顔を赤くして、頷くしかできなかった。

 翌日、ジェレミーは芸能局への入局希望申請書の書式に必要事項を書き込み、送信した。三十分後に返信があり、翌日通信で審査を行うとのことだった。夕食時にジェレミーは自らの決心を伯父夫妻に打ち明け、お世話になったお礼と、期待を裏切ってしまったお詫びを精一杯述べた。アンソニーとメラニーは仰天したようで、最初は翻意を迫ったが、ジェレミーは真剣に自分の気持ちを訴え、決意が固いことを知らせると、伯父夫妻もついに認めてくれたようだった。
「君自身それが最良と思うなら、がんばってみなさい」
「でも、あまり思い詰めないでね」
「案外、審査で落ちることも、あるかもしれないしね」
 マーティンは肩をすくめている。
「そうだな。宇宙開発局への適性が失われていないなら、審査は落ちるだろうし、通るようなら、逆に宇宙局には向いていなかったということになる。明日の結果次第だね」
 アンソニーは頷き、そして微かに肩をすくめながら、続けた。
「しかしまあ、驚いたね。君はたしかに芸能局向きのルックスではあるが、そういうことに興味があるとは思わなかった。パットが教育したせいかな」と。
「パットには、たしかにいろいろ教えてもらいました。本当に感謝してます。決して悪い意味に取らないで下さい。おかげで僕は、はるかに幸せな人間になれたのだから」
「あなたがよく考えた結果なら、わたしたちは何も言わないわ。驚いたのは確かだけれどね」メラニーは優しいまなざしを向け、アンソニーも頷いていた。

 その翌日、十四時から通信審査が行われた。最初にスクリーンに現れた芸能局の担当者は四十代半ばの、少し恰幅のいい人物だった。一見人あたりの良さそうな表情だが、その灰色の瞳は、明らかにこちらを値踏みするようなまなざしだ。そのあと、その上司らしい幹部と名乗る男が出てきたが、こちらはもっとあからさまに、射るような目でジェレミーを見た。そしてしばらくじっと凝視したあと、こう命じた。
「下がって、全身像を見せてくれ」
 言われるままにジェレミーは立ち上がり、椅子を傍らに押して、後ろへ下がった。
「OK、そのまま」そう言われて立ち止まり、「いいよ、席について」の声がかかってから、再び端末の前に座る。
「歌手志望、ということだから、何か歌ってみてくれないか」
 ジェレミーは一瞬考えた。まさか、彼らの曲を歌うわけにはいかない。門外不出なのだから。そんなことをすれば、パトリックにまで迷惑がかかる。でも他に知っている歌など――ああ、以前音楽番組でたくさん聴いたが、どれもすうっと素通りしていて、まともに覚えてなどいない。あの衝撃のあとでは余計に色あせてしまって、ほとんど印象には残っていなかった。それに現代の流行歌など、歌いたいとも思わない。しかし、今はそれしかない。
 ジェレミーは一息吸い込み、なんとか覚えていた一年前の流行歌の一節を歌った。だが、歌っていて高揚感も陶酔感も何も感じない。無味乾燥だ。
「OK、良いだろう」
 相手は頷くと、画面から退いた。そのあとしばらくして、最初の男が再び出てきた。
「申請があってから当局に問い合わせて、君の個人データはすべて見せてもらった。えーと、君は今十七才だね。身長と体重は?」
「一七三センチくらいです。体重はだいたい五七キロくらいです」
「ほう。わりと華奢だね。それに背もそう高くない、男の子にしては。まあでも、君の雰囲気には合っている」
「そう……ですか?」ジェレミーは曖昧な微笑を浮かべた。
「君は良い素材だと思う」
 相手は言った。そして少し横を向き(画面から退いた、幹部と名乗る男がそちらにいるらしい)何かを小声で問いかけ、しばらくのちに頷いて、再び正面を向き、言葉を続けた。
「我々としては、君を採用してもいい。ただ問題は、君が宇宙開発局の研修生だということだ。知っての通り、芸能局は他の局の研修生を、特にAクラスに属する部門の研修生と、他部門でも中級オペレータコース以上の者を、入局させることはできないんだ。君はIQが百七十近くあって理系方面に適性があり、思想的にも全く偏向していない白紙状態だ。それが三年前の七月、君が十四才の誕生日に受けた適性検査の結果だ。それゆえ君は宇宙開発局に振り分けられたわけだが、今年の誕生日の中間検査では思想に難あり、になったわけだね。宇宙開発局は知能や技量もさることながら、思想に偏向がないこと、それに従順さや熱意が重視される。宇宙開発局だけでなく、いわゆるエリートポストと呼ばれる職種は、みなそうだよ。だから、君は現在再研修中ということになったのだ。論文を提出するかわりに再度適性検査を受け直し、その結果適性なしということになれば問題はないのだが、それは宇宙開発局サイドで決定されることだ。そちらへは連絡しておこう。適性再検査を受けて、その結果次第だ。もし適性が否定されたなら、芸能局への入局を許可しよう。その時には君に改めて、契約書を送る」
「はい、わかりました。よろしくお願いします」
 ジェレミーはかすかに頬を紅潮させて、頷いた。

 次の日の午前中に宇宙開発局から通信が来て、ジェレミーは適性再検査を受けた。中間論文が二回不通過になった場合や、カリキュラムの成績が極端に不振だった場合に行われる検査だが、その結果適性が否定されるとコースから外されるため、一般には恐怖の的であるその再検査を、ジェレミーは自分から進んで受けたのだ。検査官の質問にも、自分の気持ちをとりつくろうことなく正直に答えた。夕方、結果が来た。
【職業適性の時には適性が認められたが、今度の検査の結果は否定的である。よって、ジェレミー・ジェナイン・ラーセン・ローリングスの宇宙開発局研修生資格を、剥奪する】
 この通知を受け取った時、ジェレミーは思わず軽い震えを感じた。望んではいたことだが、ついにここまで来てしまった、もう完全に戻れない、と。翌日、芸能局から契約書が送信されてきた。ジェレミーは必要事項を書き込み、送り返した。これで正式に芸能局の所属者となった。
 それから三日後、ジェレミーは三年半年近くの年月を幸福に過ごした、伯父の家をあとにした。所持品は身の回りのものと、母の写真、それにアンソニー伯父一家の写真だけだった。家財や調度は芸能局側で用意されている。その日は三ヶ月前に女の子が生まれたばかりのヒルダも赤ん坊と一緒に帰ってきて、ジェレミーの旅立ちを見送ってくれた。パトリックとは感極まって、思わず抱き合ったりもした。彼らの暖かい励ましに見送られ、ジェレミーは芸能界という新たな場所に踏み出していったのだった。

 芸能局はニューヨーク市の、周辺部のブロックに位置していた。そこでジェレミーは面接で最初にスクリーン越しに対面した、イーザン・ハワード氏に出迎えられた。
「私が君の担当をすることになった」
 彼は手を差し出した。その口調は物柔らかではあるが、どこか突っ放したように機械的でもあった。ジェレミーは戸惑いながら、その手を握り返した。
「はい、よろしくお願いします」
 大きな、しかし冷たい手だ。まるでその手で心臓を鷲掴みにされたような感触に、ジェレミーは軽い戦慄を感じた。
「だが私が担当するのは、君の研修期間が終わって、番組にお目見えするようになってからだ。これから八ヶ月間は研修期間になる。来年の七月、君の十八才の誕生日ごろがデビューになるだろうが、それまでは歌と踊りのレッスン、それに一応演技の勉強も少ししておくと良いだろう。俳優部門から時々応援の要請がかかるからね。最初の五ヶ月間は、先輩歌手の付き人も努めてもらう。それも修行の一つだ。研修期間の担当は、私ではなく、この男だ」
 紹介された人と引き合わされた時、ジェレミーの不安はより大きくなった。相手は彼より十五センチほど長身で、身体もがっちりしている。浅黒い肌をした三十がらみの男だった。その頭は坊主といっていいほど短く刈り込まれ、耳には銀色のピアスをしている。
「エドワード・グレンデル・ジョンソンだ」彼は野太い声でそう名乗った。
「研修期間中の、新人担当をしている。来年の七月まで、おまえは俺の監督下に入るんだ。良いか、ジェレミー・ローリングス! この期間中、おまえが決して言ってはならない言葉が一つある。それはNOだ。おまえは思想が偏向していて、素直でなくなったからと宇宙局を追い出されたわけだが、芸能局でも、そんなものは歓迎しない。まずは人の言うとおり動くことを覚えろ。口答えは許さない。いいな!」
「は、はい……」ジェレミーはその口調に思わずたじろぎ、答えた。
「良い子だ」大男の研修官は、にやりと笑った。
「そうだ。ここでの返事は一つだけでいい。常にYESだ。では、ついてこい。おまえの部屋に案内しよう」

 寮内の新しい部屋はアンソニー伯父の家の自室よりいくぶん広かったが、かなり殺風景だった。部屋は縦に長く、手前にシャワー室、簡単なキッチン、奥のいくぶん広いスペースにはベッドと机、椅子がおいてある。机の上には端末が置かれていた。壁は白く、灰色の床に絨毯は敷かれていない。窓に掛かったカーテンも白く、ベッドは黒いスティール製、その上の寝具は灰色で机と椅子は黒――モノトーンの部屋だった。
「最初は色など必要ない。これがおまえの今の状態さ。これからおまえのカラーが出来上がっていく。それにふさわしく、インテリアも変えていくのさ。出世したら、もう少しはカラフルな部屋に住めるだろう」ジョンソン研修官はにやっと笑う。
「でも……」ジェレミーが口ごもるが早いか、研修官は鋭い口調で遮った。
「でも、も禁句だ。言ったはずだぞ。ここでの返事は、YESだけでいいとな」
「はい……」
「そうだ。では荷物をおいて、今日は休め。それから断っておくが、その端末は内部専用だ。外にはつながらないから、図書の閲覧も外部との通信もできない。放送だけは見られるがな。朝、その端末を通して一日のスケジュールを送る。朝は七時半起床だ」
「はい、ありがとうございました」
 ジェレミーは礼儀正しく研修官を送り出したが、一人になって部屋へ戻ると、我知らず大きなため息をつき、ベッドの上に座り込んだ。なんだか違う。想像していたものより、はるかに厳しそうだ。ましてや、自分の理想とはほど遠い。ここでは自分の意見を言えないのだろうか。絶対服従しかないのだろうか。それとも研修期間である八ヶ月だけの辛抱なのだろうか――。
 モノトーンの部屋の中、一人きりで座っていると、気分がめいってくるのを感じた。強烈なホームシックだ。アンソニー伯父の家に帰りたい。心からくつろげる自分の部屋に戻りたい。パトリックやマーティンと語り合ったり、ゲームをしたりしたい。ああ、居心地の良かった伯父の家――わざわざ自分からそれを捨てるなんて、なんてバカなことをしてしまったのだろう。早くもそんな後悔すら感じた。
 でも、自分にはもはや戻るところはない。宇宙局への道も閉ざされた。芸能局は一度入ってしまうと、出られない。引退後も職員となって拘束される。仮にやめられたとしても、行き着く先は労働局か雑務局だ。ジェレミーは他の人々のように労働局に偏見は持っていなかったし、恥ずべきことだとも考えてはいない。しかし単調な肉体労働や、キーを叩き続けるだけで人生を終わるのは、やはりいやだった。
「今さら後悔しても遅いんだ。自分で選んだ道なんだから」
 ジェレミーは自分に言い聞かせるようにそう呟き、ベッドに横になった。何とか眠ろうとつとめながら。

 翌朝から、まったく新しい生活が始まった。朝、起床時間になると端末からけたたましいアラームが鳴り、ジェレミーは否応なく起こされてしまった。起きあがって服を着、洗面をすませて戻ってくると、スクリーン上に今日のスケジュールが表示されている。八時から朝食。午前中は歌のレッスン。昼食後、午後からは付き人として、アイド・フェイトンに同行すること。
 アイド・フェイトン――かつて、パトリックのお気に入りだった歌手だ。ジェレミーも何度か番組で見たが、さほど心を引かれたというわけではなかった。黒髪の長身で、少し精悍さのある整った顔立ちの彼は、現在の年齢はたしか二五、六才で、まだ人気は保っているが、頂上はあきらかにもう過ぎている。その人の付き人として、身の回りの世話をこれからすることになるという。
 八時半過ぎにやってきたジョンソン研修官も、その通りだと答えた。
「午前中は自分のレッスンをして、午後からはフェイトンの付き人をする。これがおまえの、今日から五ヶ月間のスケジュールだ。レッスンに関しては、月曜日が歌、火曜日がダンス、水曜日は演劇、木曜日は作法、金曜日は立ち居振る舞い、土曜日が心構えで、日曜日は美容だ。研修中の休みは与えられない。外出は禁止、外部につながる端末を使うことも禁止だ」
「どうしてですか?」ジェレミーは思わず、そう質問せずにはいられなかった。
「休みのないのは、仕方がないと思います。まだ見習い中だから。でも、どうして外部と通信したり、図書の閲覧をしたりするのさえ、ダメなんですか?」
「言ったはずだぞ! ここでの返事は、はいだけでいいとな!」
 研修官は厳しい声ではねつけた。
「理由など聞いてなんになる。それがここの規則だからだ。もう二度と、なぜ、どうしてなどと聞くな! それは口答えと同じだ。そんなまねはゆるさんぞ!」
「はい……」ジェレミーは勢いに気圧され、頷くしかなかった。

 ジェレミーの新しい生活が始まった。午前中はレッスンを受け、午後からはアイド・フェイトンの付き人をする。しかし、そのレッスンは期待していたようなものではなく、木曜日からは、ほとんど直接関係なさそうなものばかりだ。どう考えるか、どう振る舞うべきか、どう話すべきか、どうすれば魅力的な表情が作れるか、どういうふうに笑うべきか――芸能局の上層部の考えでは、それが最も重要なことらしい。しかしジェレミーにとっては退屈を通り越して、苦痛でしかなかった。まともなレッスンといえる週の前半三科目についてもパターン化されたものばかりで、何ら気分は高揚しない。やはり退屈だった。自分はこんなことを学びに来たわけではないと心の中では反駁しつつも、ジョンソン研修官が恐ろしく、何も言えなかった。
 アイド・フェイトンの付き人も、決して楽な仕事ではなかった。最初紹介された時も、ジェレミーをちらっと見て、「ああ、新しい見習いさんか。またしばらくは不自由な思いをさせられるんだな、俺も」と不機嫌な表情で言ったきりだ。彼はファンの集いや放送プログラムなどに出演する時には愛想の良さも垣間見せるのだが、普段は無愛想で、時おり理由もなくかんしゃくを起こし、ものを投げつけたりする。精神安定剤を常用しており、その副作用も多少あるのだと、ジェレミーはあとで知った。服や小物類を持ってこさせる時も、時折わざと違う指示を出し、間違っていると怒り出したり、食事中スープが熱すぎると言って、ジェレミーにスプーンを投げつけたりしたこともあった。
 だいたいにおいてこの先輩歌手は気むずかしく意地悪で、扱い難かった。しかしジェレミーは不思議と、ジョンソン研修官に対して覚えたような恐怖感や反発心は感じなかった。アイド・フェイトンがそのように振る舞うには、こんな人になったのは、この芸能界の体質のせいなのだろう――そんな気がしていた。
 彼は保護者のいない子供たちを養育する施設の出身であり、入局したのは自分と同じ十七才の時で、本名はエイドリアン・ダグラス・ファーガスンだということを、付き人になって二ヶ月くらいたった頃知った。芸能局の歌手はデビューと同時に芸名を持ち、引退するまで、本名は使われなくなる。ことに姓をそのまま使うのは同族に迷惑がかかったりするので、ほとんどないらしい。自分もデビューしたら、ジェレミー・ローリングスではなくなるのだろうか――そう思うと、不思議な感じがした。
 エイドリアン・ファーガスンだった頃、この人はどういう人だったのだろう。この人も以前は自分と同じような研修生で、ジョンソンさんのように高圧的な研修官から教育されたに違いない。彼がどの人の付き人になったのかはわからないが、たぶん自分と同じような思いをしたのだろう。彼が以前どんな人だったのかは、わからない。しかし、少なくとも今と同じではなかったはずだ。きっと悪い人ではない――そんな思いが、ジェレミーをつらい日々から救った。それがアイド・フェイトンにも通じたのだろう。春になる頃には、ジェレミーに当たり散らしたり、理不尽な命令や意地悪をしたりすることが少なくなっていった。
 
 付き人としての任期もあと一週間で終わるという五月初めのある日、彼はジェレミーにぽつりと漏らした。
「おまえは、不思議な奴だな。俺は、わざとおまえにつらく当たった。でもおまえは、俺を怖がったり、嫌がったりしない。他の奴らはそうだったが」
 彼らは一日の仕事が終わり、部屋に帰ってきていた。アイド・フェイトンの部屋はジェレミーのものよりかなり広く、調度も豪華だ。部屋のトーンは銀色、黒、紺でまとめられ、赤い小物がアクセントを添えている。アイドはシャワーを浴びに行き、ジェレミーはいつものように着替えを用意した。たいてい「これじゃない!」と怒られるのだが、今夜は何も言わずに袖を通している。そしていつものように鏡の前で、ジェレミーは先輩の黒い髪を整えた。これも普段は、ちょっとでも髪が引っかかると、「痛いぞ! 何をやってるんだ!」と怒鳴られるのだが、今回は黙っている。
「あなたがわざと僕につらく当たっていることは、わかっていました」
 ジェレミーは調髪器を注意深く鏡台の傍らに置きながら、微笑した。
「そうやって、僕に思いとどまらせたかったんですか?」
「何をだ?」相手は少し怪訝な顔をした。
「芸能界に入ることを」
「バカか。もう遅いだろう」アイド・フェイトンは、かすかに頭を振った。
「おまえはどういう理由で志願したのか知らないが、どんな理由であれ、ここへ来る奴はたいてい、来たその日に後悔することになる。おまえもバカなことをしたな」
「そう……かもしれません」ジェレミーはため息とともに認めた。
 この日のアイド・フェイトンは珍しく饒舌だった。ジェレミーに栄養ドリンクを二つ取ってくるように言うと、一方を自分で飲み、「おまえも飲め」と、もう一方を差し出す。そしてソファに深々と座ると、ジェレミーを斜め向かいのスツールに座らせて、こう聞いた。
「おまえはなぜ、ここへ来たんだ?」
「歌を歌いたかったからです」
「歌うのが好きなのか?」
「それもありますが……」
 ジェレミーは勧められたドリンクを感謝して飲むと、言葉を継いだ。
「僕には一つの理想があるんです。単なる娯楽としての音楽でなく、もっと人の心に訴えられる歌を歌いたいと。聞いている人を勇気づけたり、優しい気持ちにしたりするような」
「本気で……か。つまり、ミーハーな女どもをうっとりさせたり、つまらない妄想を与えたりするのでなしに、もっと深いところを動かしたい、と」
「ええ、そうです」
「は! それは、本当にたいそうな理想だな。しかし、おまえにそれだけの才能があるかどうかの問題以前に、ここでは無理だよ」
「そう……ですか? なぜ?」
「なぜ? おまえもわかってるだろう。おまえの研修官が言わなかったか? ここでは返事はYESしか許さない。上の方針に従え、とな。上の方針とは、俺たち職業歌手の存在意義というのは、バカな一般大衆に疑似恋愛ごっこをさせてやることだ。さもなければ、かっこいいんだという幻想を見せてやること、それだけさ。深い音楽なんて、誰も求めちゃいない。おまえの理想なんて、木っ端微塵に吹っ飛んでしまうだろうよ」
「そうかもしれませんね……」
 ジェレミーもうなだれて、そう認めずにはいられなかった。
「アイドさんは、どうして歌手になられたんですか?」
 余計なお世話だと怒鳴られるのを覚悟の上だったが、相手はそうしなかった。
「俺は人並みに生きる、いわゆる真っ当な人生って奴がいやだったんだ。いや、というより、無理だったんだよ」
 アイドはしばらく黙ってから、遠くを見るような目でそう答えた。
「俺は私生児なんだ。母親は十八の時、名前も知らない男にレイプされて、運悪く俺を身ごもった。そういう不幸な事情なら、手元で育てたくないのも、もっともだというんで、生まれるとすぐに、俺は行政の計らいで施設に入れられて育ったんだ。俺が自分の出生の秘密を知ったのは、十四の時だったが、あの時の絶望は今も忘れられない。俺のような生まれ方をした奴に、真っ当な人生なんぞ、価値はないさ。俺は取り立てて頭が良いわけじゃない。労働局へ行くほどでもないが、まあ、いいとこ雑務局か、他へ行けても三級四級の下級オペレータにしかなれない。実際、職業適性もそんなものだったしな。だが大した取り柄もない上に、俺のような最悪の私生児に、社会的な出世が望めるか? 祝福された結婚が期待できるか? どうせ上にあがることはない。結婚相手も同じように底辺な奴しか来ない。子供だって、きっとそうだろうよ。どうせ望みのない人生なら、何かぱっとしたことをやりたかった。だから、芸能局の歌手を志願したんだよ。俺はまあ、見た目だけは、ましだと思っていたからな。歌が上手いかどうかってのは自信がなかったが、まあ芸能局の歌手なんか、音痴でなければなれるものさ。ルックスが良くて、なにがしかのアピールがあると認められればな。それで俺はおまえと同じ、十七の時に志願して、十八でデビューした。もう八年近くも前のことさ」
「そうだったんですか……」
「おまえも私生児だそうだな。おまえの経歴カードにそう書いてあった。父親不明と。いわばおまえと俺は、同類だな」
 相手は二本目のドリンクを自分で取り出しながら、言葉を継いだ。
「まあ、芸能局の、特に歌手と俳優部門に来る奴なんぞ、まともな生まれの奴はいないからな。真っ当な家族の出なら、わざわざこんな所へ来ようなんて気は起こさないだろうし、上層部もとりたがらないさ。ここでの非人間的な扱いを知れば、親だの親戚だのが黙っていないだろうからな。お偉いさんたちも、そういう面倒は起こしたくはないのさ」
「そうなんですか? じゃあ、僕らが私生児だから、まともな生まれじゃないから、答えはYESしか許されない、なんて研修官が言うんですか?」
「まあ、そうだな。もっとも研修官ってのは、下っ端に過ぎない。とどのつまり上層部の意向通りに動いているだけさ。だがまあ、研修生相手には威張りくされるから、それが楽しみだって奴は多いがな。デビューすれば、かわって監督官が威張りくさる。研修官だの監督官っていうのは、たいてい元俳優か歌手か、さもなければ志願したがなれなかった奴だから、だいたいにおいて現役の連中に良い感情は持っていない。だから頭に来ることは多いが、俺の経験からすれば、連中の言うことには逆らわない方が絶対にいい。逆らえば、連中はここぞとばかりに徹底的にいたぶってくる。俺の意地悪どころじゃないぞ。それでも屈さなければ、最悪は機械カウンセリングだ。ここでは機械カウンセリングのハードルは低い。何回か違反を犯して、業務に不都合だと判定されると、すぐに機械送りだ」
「えっ!」
「ところで歌手志望の研修生を、上層部は三つのタイプに分ける。それは知っているか?」
 アイド・フェイトンは煙草を取り出し、スイッチを入れた。この嗜好品は旧世界からの伝承らしく、不健康だと言われながらも、今でも一部で人気がある。格好やサイズは以前からの紙巻き煙草と同じであるが、火を付けず、スイッチを入れると中に入った液が少しずつ蒸散される仕組みになっている。本体は耐久使用で、液だけを補充する。当然、煙も出ない。歌手には喉を痛めることがあるのであまり認められないが、アイド・フェイトンは低音のハスキーボイスが売り物のため、使用を認められていた。
「三つのタイプってなんですか?」ジェレミーは問い返した。
「まあ、おおざっぱな分類だがな。男の場合だと、男っぽさ、つまりセックスアピールが売りの奴、庶民的な親しみやすさが売りの奴、それからかわいこちゃんアイドルだ。女もまあ、似たようなもんだが。俺の場合、見てわかるだろうが、最初の奴だ。まあ、真ん中のやつに分類されるのも、性格が合わないと苦しいだろうが、比較的楽な部類だな。俺なんか、セックスアピールを磨け、とかで研修期間の後半から新人の頃は、毎日のようにとっかえひっかえ、好きでもない女を抱かされた。女好きの奴には嬉しいだろうが、俺は苦痛だったな」
「そ、そうですか……」
「だが、おまえの場合、そうはならないだろうよ」アイドはにやっと笑う。
「おまえは、いわゆるかわいこちゃんアイドルタイプだ。絶対そうだろうよ。そうなると、別の意味でやっかいだ。アイドルは無垢でいなければならないんだ。愛情はある。誠実で清らかな愛が。しかし、まだその対象が現れていない。恋を知らぬ、または恋に恋する少年でなければならない。恋愛は絶対御法度だし、ファン連中と接する以外、女の子と近づくことも許されないはずだ。年を食って、永遠の少年とも言っていられなくなるまではな。女の子には優しくにっこりと笑いかけるが、なかなか手を握る以上に勇気が出ない。それすら、少し恥ずかし気にやる。そんなふりをしなければならない。ところでおまえ、彼女はいるのか?」
「い、いいえ、いません!」
 ジェレミーは思わず頬を赤らめ、頭を振った。
「ハハハ、おまえは今のところ、演技はいらなさそうだ!」
 アイド・フェイトンは頭をのけぞらせて笑った。五ヶ月近く一緒にいて、こんな風に笑ったのは初めてだった。
「だがまあ、本当に恋をした時はやっかいだ。必ず、自分の置かれた立場を呪うことになるだろう。出来るだけ今のままでいろよ」
「はい」ジェレミーは頷いた。そして今の正直な気持ちが、思わず言葉に出てきた。
「アイドさん、ありがとうございます。僕のことをいろいろ心配して下さって。それに、あなたが本当はどういう人なのかも、よくわかりました。僕、あなたが好きです」
「おいおい、男相手にそんなことを言うと、正気を疑われるぞ」
 相手は苦笑している。この時代では、同性愛は『不毛な愛』とされ、社会的なタブーだった。自殺同様、小説やドラマなどすべての娯楽や報道で触れられることは決してなく、ひそかに発見された場合は精神異常とされ、カウンセリングが必要とされたのだ。
「ち、違います! そういう意味じゃないですよ。あなたが好きだというのは、先輩として、人間として、あなたを尊敬しているということです。僕は今まで、アイドさんの虚像しか知らなかったけれど、本当はとても暖かくて、いい人だってわかったから……」
「俺の本当の人間性、か。それはおまえの買いかぶりだろう。俺自身、もとはどんなのだったか、忘れたくらいだ。薬の飲み過ぎかもな」
 相手は少し照れくさそうな表情で、首を振った。
「だがな、おまえといると、あまり薬のやっかいにならなくとも、なんとなく穏やかな気分になれることはたしかだ。来週おまえが行ってしまったら、俺は少し寂しいだろうな」
「僕たち、これから……先輩後輩として、つき合えませんか。あなたとはお友達になれそうな気が、とてもして……ああ、いえ、友達なんて、失礼かもしれませんが」
 相手の率直な言葉に、ジェレミーは再び、気持ちをそのまま口にしていた。
「失礼、か。まあ、それは今のうちだけだろうな。おまえは二、三年もすりゃ、俺の人気なんぞ追い越してしまうだろうから。だが、上層部は芸能人、しかも同じ職種同士の交流を喜ばない。だから、あまり親しいオトモダチにはなれそうもないな」
「じゃあ、上層部が許してくれる範囲で」
「俺はかまわないが」
「よかった。嬉しいです」ジェレミーは思わず頬を上気させた。
「僕の従兄で親友が、昔あなたのことを大好きだったんです。お友達になれた、なんて聞いたら、きっとびっくりしますよ」
「昔、好きだった、か……まあ、俺も落ち目になりかけてるからな」
「ごめんなさい! そんな意味で言ったんじゃないんです。どうか気を悪くしないで下さい! パットの場合はしょうがなかったんですよ。あなたじゃなく、他の誰であっても、あの時点で彼の崇拝が他へ行ってしまったのは、避けられなかったと思います。僕だって……あの、詳しい話は出来ないんですが……」
「おまえには、誰かお気に入りがいたのか?」
 アイドはしばらく黙ったあと、そう問いかけてきた。
「僕には、決まったお気に入りはいませんでした」
「今でもか? 特に決まったお気に入りもあこがれも持たずに、単に歌が好きだから、ここに入ってきたのか? それなのに、あんなたいそうな理想を持っているのか?」
「いいえ、今ではいます。あこがれというにはあまりに遠いけれど、あんな風には絶対なれないけれど、少しでも近づいてみたいと思う人が、一人だけ」
「誰だ、それは?」
「言えないんです。それに言ったとしても、あなたは知らない人です。遠い昔の人だから」
「そうか……」アイドはしばらく黙って煙草を吸ったあと、再び問うた。
「昔って、いつごろの奴だ?」
「二千年前くらいの……二一世紀初めの頃の人です」
「ああ?」相手は口からシガレットのカートリッジを取り落とした。
「なんだ、それは? そんな大昔じゃ、まだこの世界だってないだろう。そのくらい、俺にだってわかるぞ。からかっているのか、おまえ?」
「いいえ! ただ、それ以上は説明できないんです。そういう決まりで」
「そうか」
 アイドは取り落とした煙草を拾い上げ、少し拭ってから、再び口にくわえた。
「まあ、詳しい事情は知らないが……もしおまえの話が本当だとしたら、バカな話だ。そんな昔のことは俺も良く知らないが、世の中今とは全然違うだろう」
「それは、わかっていたんですが」
「わかっていながらわざわざ志願するとは、本当にバカな奴だな、おまえは。おとなしく宇宙局の職員になっていれば、もう少しましな人生が送れただろうに」
「ええ……」
 ジェレミーは弱々しく微笑んで答えた。以前なら、『そうかもしれないけれど、やっぱり僕は今の道を取りたいと思ったんです。そのことに後悔はしていません』と言えただろう。しかし五ヶ月の研修期間は、彼を打ちのめし始めていた。勇んできた世界の現実は、あまりに理想とかけ離れたものだった。それくらいなら、まだ宇宙局の方が良かったと、しばしば思えた。もう引き返せない道に、あとにしてきた家に、何度切ない思いを感じ、ため息をついたことだろう。だが、もうすべては遅いのだ。




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