Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第5章 転身(1)




 十一月の午後、ジェレミーはぼんやりと頬杖を尽きながら窓の外を眺めていた。気温は変わらないものの、晩秋の空はドームを通しても灰色に見える。昼食から三時間が過ぎた今も、端末のスクリーンはセッションを開いたまま変化していない。本来のカリキュラムが再スタートするまでには、最低でもまだ二ヶ月近くあった。
 パトリックと二人で、夢中になって読んだ新世界黎明期のファイル。だが衝撃的な創立先導者たちの音楽は、最初の四、五日間憑かれたように再生し、あっと言う間に再生限度回数に達して、前半部分に関しては聴けなくなってしまっていた。二人とも再生限度があるということを、まったく忘れていたため――導入ファイルに書いてあった【再生限度設定以外は手を加えるな】の一文は、完全に頭の中を素通りしていた――二一回目にリプレイしようとして、音楽のかわりに【この音源ファイルは、再生限度回数を超えましたので、あなたのIDからはもう再生不能です】というメッセージが出てきた時には、驚きと失望のあまり、言葉を失った。
「嘘だろう……?」パトリックはうめくように言い、
「信じられない……」と、ジェレミーは呟くのが精一杯だ。
 あれほど心に響く音楽、魂を虜にする音楽が、もう二度と聞けないなんて。あの歌詞も、メロディも、フレーズも、リズムも、あの歌声と楽器の音も、心の中に鮮やかに、なお息づいている。でももう、心の中で再生するしかできないなんて。彼らの音楽そのものに、もう触れることが出来ない――その喪失感が二人を圧倒し、打ちのめした。まるですべての聴覚を失ってしまったかのような感覚さえ覚えた。二人は残された後半の音源ファイルへ進むことも、躊躇した。一回聞いてしまったら、一気にまた再生限度まで、突っ走ってしまうに違いない。彼らの音楽には、それだけの力がある。そうしたら、もう永久に彼らの音楽との接点を失ってしまう。それが怖く、どうしてもそれ以上進めなかった。
 二人は仕方なく他のファイルを読んで気を紛らわせ、新たな興味を掻き立てようとした。なるほど、旧世界の文学も社会形態も過渡期の物語も、黎明期ごく初期の歴史も興味深いものだった。だが、やはりあれほどの衝撃はない。それから半月ほどの間に、黎明期関連のファイルも読み尽くした。だが心の底に絶えずうずく思い、渇望を満たすことは出来ない。新世界創立伝説は全文を暗記するほど何度も読んだが、読むほどに彼らの音楽を聞きたいという熱望が湧いてきて苦しくなるほどだったので、ついに閲覧をあきらめた。
 
 二人は予定よりかなり早く、共同閲覧を打ち切った。
「来年、君がカリキュラムに戻る前に、最後の音源ファイルを二人で聞こう、ジェレミー。そして映像ファイルもなんとか探して、見よう。それまでは、お互いの勉強に戻ろう」
 パトリックが意を決したように告げた時、
「うん……」と、ジェレミーも深く頷くしかなかった。
「ありがとう、パット。僕を誘ってくれて。この三週間、とても楽しかったよ」
「ああ、僕もさ」パトリックはにこっと笑い、ついでため息をついた。
「でも……本当にそれで、君のために良かったのかな。いつかマーティンが君に、僕とあまり親しくしていると、君の考えも影響されやしないかって言っていたけれど……考えてみれば、君自身興味はあっても、宇宙開発局の職員になる人に新世界創立伝説や黎明期の歴史なんて、必要なかったことだよね。余計なことをしたかなって、ちょっと気になるよ」
「そんなことはないよ、絶対。僕は本当に感謝しているんだ。本当に貴重な世界に触れることが出来たから」
「まあ、君はあと二ヶ月もすれば、本来のカリキュラムが始まるからね。そうすれば、だんだん忘れていくよ」
 しかしジェレミーは、その展望をありがたいとは思えなかった。来年一月になり、論文を提出してそれが通過すれば、宇宙開発局の研修生としてのカリキュラムが、また再開する。宇宙そのものは相変わらず尽きぬ興味の対象ではあるが、中央の考える宇宙観と自分の理想とは、かけ離れたままだ。その中で――忘れられるだろうか、果たして。あの衝撃を。あの思いを。あの知識を――いや、現実の中に埋没し、忘れていくことなど耐えられない。そんな思いさえ感じた。
「パットは、これからどうするの?」
 ジェレミーは、そう聞かずにはいられなかった。
「二ヶ月に一回、レポートを出して……今回は『新世界初期の科学発展』について書くよ。二、三回くらいは、このテーマでやれそうだしね」
「えっ? 黎明期については何も書かないの? 社会と芸術との関係とかのテーマも?」
「書いたって、レポートとしては評点してくれないよ。僕はそういう点、現実主義者なんだ。第一、極秘ファイルについてレポートなんて出したら、それだけで違反になるじゃないか」パトリックは肩をすくめ、言葉を続けた。
「でも、レポートなんて、二週間くらいかかれば書ける。残った期間をどうするかは、僕の自由なんだ。元々学術研究なんて非生産部門なんだし、レポートさえ書いていれば、あとは何を見てもやっていても、文句は言われない。だから、残りの時間を思い切って趣味に使うよ。そう決めたんだ」
「へえ……何をする気なの?」
「音楽の勉強さ。あのファイルの音楽編に書いてあったことを、きちんと勉強しようと思って。音楽をマスターして、ギターをちゃんと弾けるようになって……それで、いつか弾いてみたい、自分で。彼らの曲を。それが僕の目標なんだ」
「えっ!」
「難しいだろうけれどね。あのレベルまで行くには、それこそ何年もかかるだろうし。それに、僕は芸能局所属じゃないんだし、そんなことが何の役に立つって言われれば、それまでだけれど、でももともと学術研究局なんて参考文献や資料を作る以外は、それこそ何の役に立つ? っていうような職業なんだし、いいじゃないかって開き直るよ。そうでもしないと、僕は心のもやもやが晴れない。思いのはけ口がない。だから僕はやるよ。出来たとしても、練習すら、イアフォンが必要で、絶対人には聴かせられないだろうけれどね」
「凄いね、パット……」
 ジェレミーは思わず感嘆を込めて、従兄を見た。
「そうだね。そうすれば確実に君の中で残るものね、彼らの音楽が。ああ、僕もそう出来たらいいな。でも、僕にはそんな時間はないし……」
「君は余計なことを考えない方がいいよ、ジェレミー」
「でも、僕だって同じ思いなんだよ、パット。心のもやもやが晴れないのは、僕だって同じなんだ。宇宙開発局の後半カリキュラムが始まったって、すっきりするとは思えない。かえって、カリキュラム自体がつまらなく思えそうなんだ」
「ああ、やっぱり良くなかったなあ……」
 パトリックはため息をつき、しばらく相手の顔を見ながら考え込んでいるようだったが、やがて何かを思いついたようだった。
「OK、じゃあ、こうしようよ、ジェレミー。僕が彼らの曲を弾けるようになったら、君が歌を歌ったらいい。他に誰も聞いていない時にね」
「ええっ!」
 突然言われてジェレミーは驚き、思わずうろたえた。
「無理だよ、僕には。絶対……あんな風には歌えないよ!」
「再現しろなんて言ってないよ。あの人は特別だ。たとえ君が歌の達人だったとしても、絶対あの域までは到達できない。それは僕だってわかるよ。ただ、ギターだけじゃ曲の進行がよくわからないから、ガイド役として、歌詞とメロディをなぞってくれればいい、それだけさ。それに僕だって、あのギターを完璧には再現できないだろうし」
「ああ……うん、それならね」ジェレミーは頷く。
「歌、覚えているかい?」
「忘れるはずないじゃないか。十二曲全部覚えているよ。歌詞も全部……」
「そうだろうね。僕もそうだ。でも、僕は自分でわかってるんだ。歌はあまり上手くないって。君はどう?」
「わからない。だって二年前までは、声さえ出なかったくらいだから」
「そうだね。でも、君の声はかなり素敵だと思うよ。良い響きだ。試しにちょっと歌ってごらんよ。おっと、待って。大丈夫……誰にも聴かれてないね。マーティは今勉強中だし、彼の部屋まで漏れたりはしない。仮にかすかに漏れたとしても、勉強中はヘッドセットをつけているから、聞こえないしね。父さん母さんは仕事に行っているし。いいよ、歌って」
「いいよって言われても、困るなあ……」
 ジェレミーは苦笑し、しばらく躊躇したあと、ふっと浮かんできた一節を歌い始めた。あのファイルの二曲目、「Beyond the Night」
「何のために走るの?/自分の思いを知るために/どこへ目指しているの?/光の領域の向こう側へ/そこには何が待つのか/何があるのかわからない/だからこそ、向かっていきたい/限界を超えて/声が聞こえる/一陣のつむじ風のように/あなたは行ってしまった/夜を越えて/光の彼方へ――/そこで見つけたものは何?/そこには何があるの?/駆り立てられる情熱の、その答えは/教えて、それともいつかわかるだろうか/僕が光を超えられた時に」
 起伏が多く、音域もかなり高く、音程の取り方も決して易しいとは言えないこの曲を、ジェレミーは歌いこなしていた。その声は透明感があり、美しい。歌いながら、いつしかジェレミーはこの曲を聴いた時の思いに自らを重ね合わせ、甘美な陶酔感に酔っていた。
「ジェレミー! やっぱり君、歌の才能があるよ!」
 パトリックがぱちんと指を鳴らして、声を上げた。
「本当かな? ああ、でもパット。なんだか嬉しいよ。本当だね。再現は無理でも、自分でやることが出来れば、もやもやは軽くなるんだ」
「そうだろう? それに君の場合、練習をしなくても良いんだ。でも、僕の場合は練習がいる。だから待っていてよ。忘れないように。それだけさ」
「ああ……うん。待ってるよ。いつか、二人でやろうね!」
 ジェレミーは瞳を紫に輝かせながら、強く頷いた。

 そうして二人はその午後から共同閲覧をやめ、ジェレミーは久しぶりに自室の端末でセッションを開いていた。しかし――何を見ればいい? 宇宙開発局のカリキュラムは、二ヶ月後に論文を提出し、再評価されなければ、再開しない。今は自由リーディングの期間だ。しかし、新世界黎明期のファイルは、パトリックの端末からしか開かない。ジェレミーはあくまで共同閲覧者として、一緒に見ることを許されただけで、自分からファイルにアクセスする権利は、初めからないのだ。
 だが今の彼に、他に興味あるものなど何もなかった。しばらくは、あちこち文献にアクセスし、拾い読みした。パトリックもこうやって様々な資料にアクセスしているうちに、幸運にも旧世界文学のファイルに紐付けされている文献に行き着いたという。ならば学術IDを持たない自分でも、運が良ければ関連ファイルに行き当たるかもしれない――もちろんその可能性はほとんどゼロであることもわかっていたが、もしかしたらという期待も捨てきれず、それから三日ほどはそうして過ごしていた。
 しかし、やはりそれは無駄な期待というものかもしれない――次第にジェレミーはそんなあきらめを感じ始めた。パトリックだって、封印ファイルを引き当てるまでに、二年半もかかったではないか。それに学術研究生の彼と違い、自分は一般閲覧しかできない。封印ファイルに紐付けされているファイルは学術専用文献のみというのは、本当なのだろう。それなら、自分が同じようにしても、そこへ行きつける可能性などゼロだ。そう気づいたせいもある。
 ジェレミーは深くため息をつき、天井を見上げた。そして思わず激しく頭を振り、テーブルをどんと叩いた。ああ、このもやもやした気持ちは、いったい何なのだろう。心の底から突き上げ、揺り動かすような、この渇望は。あの音源ファイルに触れた夜から激しく胸を焼き続ける、この気持ちは――この思いの正体がわからない限り、それが解消されない限り、他に興味を向けることも、宇宙開発局の研修カリキュラムに身を入れることも、きっと出来はしない。はっきりとそう感じた。でも、どうすればいいのだろう――。
 ジェレミーは端末の画面に視線を戻した。
【セッションへようこそ。望みのジャンルを示して下さい】
 その文字が表示されたままになっているスクリーンを、じっと見つめる。
「僕がどうしたらいいか、教えて……」
 ジェレミーは思わず小さな声で、そう呟いていた。
「あと二ヶ月、どうしたらいいか教えて。出来たら、その先も……」

 暗闇の中から誰かの声がする。自分の名を呼んでいる。
『ジェレミー、ジェレミー』と。
 でも、その声に聞き覚えはない。
 いや――自分自身の声のような気もするし、そうでない気もする。
「誰……? 僕を呼ぶのは」
 ジェレミーは思わずそう問い返していた。
『僕は、もう一人の君だよ』声は答えた。
「えっ……?」
『君は今、悩んでいるね』声はそう続ける。
「えっ、あ、う、うん……」
『君は元から疑問を持っていたんだ。自分の考えを曲げ、首脳部の方針に迎合して、宇宙開発局のスタッフになる道に』
「うん……そうだ……」
『でも、そうしなければならないと思っていた。アンソニー伯父さんたちに負担をかけないためにも、自分の出生の傷を少しでもカバーするためにもね。だから、あえて自分の心に逆らった、嘘の論文も書いたんだ』
「うん……その通りだよ」
『君はそのつもりでいた。不本意だけれど、社会的に最良と思う道を歩こうと。でもあの音楽の一撃を受けて、その気持ちが動揺したんだね。自分の心に嘘をついて生きることが、果たして幸せなことなのかって』
「あっ、ああ……」
 ジェレミーは激しい衝撃を感じた。自分を今まで悩ませてきたもやもやの正体が、この不思議な声によって明かされようとしている。
『君は音楽そのものにも魅力を感じた。正直にその道を進んでいこうとするパトリックに羨望を抱いた。彼にはそれが出来る。でも自分には出来ない。宇宙開発局のエリートという枷が、君にはしっかりはまっているからね。彼が曲をギターで弾けるレベルに達する何年か先に、彼の演奏に乗ってささやかに歌うくらいしかできない。それまでの年月、君はどうすればいいのか。それが一番の問題なわけだ。何年も宇宙開発局の研修生として、さらに職員として過ごせば、今の思いは薄れてしまうかもしれない。君にはそれも耐えられないんだ。君は今の自分の気持ちに正直に、生きていたいと思っている。でも、そうすれば宇宙局のエリートの道を、捨てなければならない。だから迷っているんだ』
「うん……うん、本当にその通りだよ!」
 ジェレミーは強く頷いた。まさに自分を悩ませていた問題は、これだったのだと。
「それで、僕はどうしたらいいんだろう。教えて……」
『それは君が考えて決めることだよ。君の人生だ』
 声はそう答えるだけだった。
『君がもっとも大事にしたいことは、何なのか。それだけさ』

 ジェレミーは、はっとして頭を上げた。いつの間にか両腕に顔を埋めて、眠ってしまったらしい。あれは夢だったのだろうか? 夢の中で不思議な声が、自分にアドバイスをしてくれたのだろうか。あれはいったい、誰なのだろう――?
「でも、今はそれよりも……」
 ジェレミーは思わず声に出して言い、椅子から立ち上がって歩き始めた。もやもやの正体が明かされ、心は澄みきっている。彼は自分が何をしたかったのかを、はっきりと悟った。自分も音楽をやってみたいのだと。ただパトリックの場合と違い、趣味でやることは出来ない。パトリックなら、いつでも封印ファイルを見ることが出来る。音源ファイルは再生限度がついているが、他はそうではないようだし、好きな時にセッションを開き、音楽理論のファイルを閲覧して、練習することが出来る。楽器の出力をイヤフォン・オンリーにしておけば、外へ漏れる心配もない。彼は自分で言うように、二ヶ月に一回のレポート提出さえこなせば、あとは趣味に費やしても許されるのだ。それが学術研究生の特権でもある。
 でも、ジェレミーには手段も時間もない。あのファイルをパトリックと一緒に見ることが許されているのは、再研修の間だけ。自分は本来、宇宙開発局の研修生なのだから、音楽を趣味として極めることは出来ない。どうしてもその道を取りたいのなら、宇宙開発局の研修生というステイタスを放棄し、芸能局の選抜試験を受けるしかないのだ。もし合格できれば、職業歌手になれる。音楽を生業とし、その道を彼なりに極めることが出来る。楽器演奏はシンセサイザー奏者としてでないと無理だし、やはり自分は歌を歌いたい。彼らの曲を自分で歌ってみた時の、心を震わせるような陶酔感が忘れがたい。
 しかし芸能局というのは、社会的な立場は、労働局よりはかなりましだが、事務系職業の最底辺と言われる雑務局のオペレータより少しはいいだろう、というくらいである。もともと芸能局所属者は労働局、および下級オペレータクラスか、もしくはいったん別の職種に振り分けられたが、落ちこぼれたものしか行かないというのが常識だから、社会的な立場は低い。おまけにそこに所属するものは、男性の場合三十才になるまで、結婚することが出来ない。彼らは大衆に夢を売る職業なのだから、生活じみてはいけないということらしい。しかし三十才になって結婚するということは、子供を作るチャンスがそれだけ狭くなるということで、子孫繁栄を持って良しとする今の社会には、不利だ。それも芸能局所属者のステイタスが低い一因だった。
 ジェレミーが志そうとする歌手の場合、結婚制限は流動的で、人気がなくなれば終わりである。引退させられ、芸能局職員に転職する。そこで晴れて結婚できるわけだ。たいていは二十七、八歳、早いものでは二十代半ばだが、幸か不幸かずっと人気を維持した場合は三十歳ぎりぎりまで引退できず、結婚もできない。芸能局の職種の中で、歌手のステイタスはもっとも不安定だと言えよう。
 宇宙開発局のスタッフと芸能局の歌手とでは、社会的地位は雲泥の差がある。芸能界、音楽界という特殊職業が色眼鏡で見られず、社会的に蔑まれず、多くの若者たちに崇拝されていた先導者たちの時代と、今は違うのだ。もし自分がその道を取るならば、元々自分を一族の恥と見なしていた親戚の人たちを見返すチャンスは永遠に失われ、「それ見たことか」とせせら笑われ、蔑まれるだろう。しかし、それはまだ耐えられる。元々、親戚の賞賛を得たいと熱望しているわけではない。だがアンソニー伯父たちは、きっとがっかりするだろう。それに母は――息子がそんな道に進んでしまったら、失望しないだろうか。幼い弟たちや妹たちが、恥ずかしく思わないだろうか。黙っていれば、わからないことかもしれないが――。
 ジェレミーはもう一度椅子に腰を下ろすと、頭を抱え、深く考え込んだ。あの声は何と言っていたか。
『進路を決めるのは、君自身だ。何が一番大切なのか、それによって決まる』
 それは社会的なステイタスか心の充足感か、その二者択一だった。ジェレミーは端末のキーボードに手を伸ばし、再度宇宙白書を呼び出して読んだ。ついで二ヶ月後に提出するつもりだった自分の論文を呼び出し、読み返した。さらにもう一度読み直す。そして深くため息をつき、しばらくその論文が表示されたままの端末画面を、じっと見つめていた。
 ジェレミーは、しばし躊躇した。だが、自分の心の声は、驚くほどはっきりしている。自分にとってどちらがより大事か、答えは明白だった。手がかすかに震えるのを感じた。一息吸い込み、唇をきっと噛むと、キーを押した。
【ファイル消去】
 一瞬の沈黙のあと、画面は空白になった。ジェレミーは長く息を吐き出した。しばらくじっと空白のスクリーンを見つめる。
「ごめんなさい。母さん。アンソニー伯父さん……」
 思わずそんな呟きが漏れた。ついで頭を振り、端末を操作する。そこへたどり着くには長い道だったが、ついに引き出した。
【芸能局入局希望申請書】
 ジェレミーは再び大きく息をつき、画面に現れたその書式を見つめた。そのとたん、ぞくっと寒気に似た震えを感じた。早急過ぎはしないか。一足飛びにこの結論を引き出すのは、あまりに無謀すぎやしないか。自分はただ一時の熱情に浮かされているだけで、きっと後悔することになるのではないか――そんな迷いが再び襲ってきた。今からでも遅くはない。このフォームに入力して送信するなど、ばかげたことはやめにして、もう一度論文を書き直せ。心の片隅で、そう言い続ける理性の声がある。その声はまた、こうも主張している。
(今は時代が違う。おまえの理想など通用するはずがない)と。
(そうかもしれない。でも……)ジェレミーの感情は反論する。
(でも、このまま宇宙開発局の職員としての道を進むことが、真の幸せだとは思えない。宇宙局は、僕の理想とは違った。ただ社会的ステイタスが高いから、そんな理由で自分の思いを押し殺して、生き続けることは出来ない。僕は音楽がやりたいんだ。どんな手段でも良いから、関わっていたい。だから……)
(今はそう思っているだろうが、それはまだあの音楽の影響が生々しいからだ。一ヶ月もたつころには、いくぶん考えが変わっているかもしれないではないか。とりあえず、その書式に記入するのは、一ヶ月待て。その間宇宙局関連の文献だけを読んで、もう一度当初の好奇心を取り戻せ。パトリックの部屋に行って、新世界黎明期関連のファイルを見たり聞いたり、音楽の勉強の進み具合を聞いたりは、決してするな。むしろマーティンとより近づきになり、いろいろと話をしてみろ。そうしてひと月過ごしたあと、それでもまだ今と同じ気持ちならば、その時は気の済むようにしたらいい)
 ジェレミーは考えた末、その理性の声を受け入れた。猶予は二ヶ月ある。一ヶ月だけは試してみようと。
 
 その夜、彼はパトリックの部屋へ赴き、自らの思いと決心を打ち明けた。向こう一ヶ月はここに来ないつもりだけれど、気を悪くしないで欲しいともわびた。
「そんなこと、僕はかまわないさ」
 パトリックは頭を振って即座に答え、ため息混じりにこう付け加えた。
「君がそこまで思い詰めていたとは知らなかったよ、ジェレミー。でも、本当に早まらなくて良かったなあ」
「やっぱり君も無謀なことだと思う、パット?」
「ああ。父さんや母さん、それにマーティはひっくり返るだろうなあ。姉さんたちも。シンシア叔母さんだってね」
「やっぱり……そうだよね」
「でも、僕は君の気持ちもわかるよ、ジェレミー。もし君と僕の立場が逆だったら、僕だって同じように考えたかもしれない。でもさ、きっとそれは君の思う以上に、大変なことだよ。宇宙局は君の理想と違うって言うけれど、芸能局だって、きっとそうだからね。彼らの時代と今は違う。それを考えなきゃ」
「うん。それは考えたよ。でもやっぱり、僕の立場で音楽に関われるとしたら、そうするしかないもの。でもそれが本当の決心なのか、一時の情熱なのか、少しだけ猶予をもらって試してみたいんだ。だから……」
「うん。わかった。僕も協力するよ。これから一ヶ月、僕は君を誘わないからね。君とマーティが仲良くしていても、やきもちは焼かないよ」
 パトリックは肩をすくめて笑った。
「ありがとう、パット。でもきっと、僕はつらいだろうね。ここへ来てから三年間、ほとんど毎日君の部屋に来たり、リビングに集まったりして、こうやって話してきたんだもの。それが、どんなに楽しみだったかわからないよ」
「僕だってさ。でも、それが君のためだから我慢するよ、ジェレミー。それに、君がもし芸能局へ行ってしまうようなことになったら、たぶんもうほとんど会えなくなるだろうからね。それよりはましさ」
「ああ、そうだね……」
 ジェレミーは言われて気づいた。現在では芸能局はロンドンの他に、ここニューヨークにも支部が出来ている。南北アメリカと、東アジアとオセアニア地域の出身者は、ニューヨーク支部所属となる。それゆえ、同じ街にはいられるが、芸能局は全寮制なのだ。そこに所属するものは専用の住居があてがわれ、家族から切り離される。帰省はせいぜい三ヶ月に一回くらいしか許可されないらしい。入局申請書とともに、必ず読むようにと添付されていた規約に、そう書いてあった。ということは、自分は心地よいこの家から出ていかなければならないのだ。自分が出ていけば、伯父夫婦にもう負担はかからない。それは喜ばしいことだが、この暖かな巣をすぐに出ていかなければならないのは、つらい。伯父たちに三年間育ててもらったお礼をすることもできない。芸能局の給与は宇宙開発局に比べればかなり少ないだろうが、仕送りぐらいは出来る。しかし名誉どころか恥になってしまうのでは、お金を送られても伯父たちは、歓びはしないだろう。
 やはりこの道は、出来ることなら思いとどまった方がいいのかもしれない。ジェレミーは改めてそう思った。一ヶ月の猶予で、胸の中の反逆感情を宥められることを祈るだけだ。

 それから一ヶ月、ジェレミーは決心したとおり、宇宙関係の文献を読みあさった。夜はマーティンの部屋を訪ねて、彼の勉強の邪魔にならない限り、ともに語り合った。宇宙のこと、将来の展望などを。パトリックからあらかじめ話を聞いていたらしいマーティンは、協力的だった。彼は従弟を自分の同志にしたいと、心から思ってくれていたのだろう。そのジェレミーが道にはずれていきそうな今、引き戻すためならと、夜の一、二時間をともに語り合うことを、積極的に引き受けてくれたようだ。
 マーティンは熱心に話し、ジェレミーも従兄が真剣に自分を案じてくれていることを、ありがたく思った。マーティンの宇宙にかける熱意は本物だ。彼はきっと将来有能な技師になるだろうし、その道で幸福にやって行けるだろうとも確信した。
 しかし、自分はどうだろう。来る夜も来る夜も語り合っていくうちに、ジェレミーは思い始めざるをえなかった。マーティンは良い人間だ。それは本当に確かだ。自分は選ばれた人間なのだという、特権階級にありがちな傲慢さも自己中心性もない。真剣にジェレミーのことを心配し、何とかしてやりたいと、こうして時間を費やしてくれてもいる。でも、彼は決して自分と同じ種類の人間ではない、と。パトリックは明らかにジェレミーと同じ人種で、同じ考えを持ち、同じ言葉を話した。彼となら、言葉以上に通じる気持ちの交流がある。でも、マーティンとは基本的に考え方や価値観が違う。彼の理想は決して自分の理想にはなり得ない、と。
 その思いはマーティンにも伝わったのだろう。三週間あまりが過ぎたある夜、彼は率直にこう聞いてきた。
「ジェレミー、君はやっぱり宇宙に魅力を、音楽以上には感じられないかい?」と。
 ジェレミーははっとして従兄を見つめた。
「どうして……やっぱり、そう感じられてしまうかい、マーティン?」
「ああ、なんて言うかな……君に話すのは、パットに宇宙の話をするのと、同じような気がしてしまうんだ。彼の興味はあまりこちらにはないことをわかっていて、僕も彼の興味にたいして気がないことを、彼も知っていて、それでもお互いの興味にある程度敬意を払って、聞いている。元々そういう関係なんだよね、僕たちは。双子といっても違う人間なんだから、違う興味を持っていても、大事にするものが違っていても、あたりまえだ。でも相手のことも理解できるし、お互いに好きだから、けなしあって気を悪くするようなことはしたくない。それが僕らの暗黙の了解だった。君に対してもそうだよ。いや……君は僕の側に近いのかなって気もしていたんだ、最初のころは。同じ宇宙開発局の研修生だしね。でも、だんだんわかってきたよ。君はパットのサイドの人間なんだって。父さんもそうだけれど、君たち三人の考え方や興味の持ち方なんか、すごく似ている。君とパットの間では、おそらく僕以上にすらすらと話が出てくるだろうね。いや、やきもちを焼いているわけじゃないんだ。同じ種類の人間なんだから、それは当然のことだろうと思うしね」
「あ……ああ、そうなのかもしれない、僕はたしかに……」
「でもね、僕は君に何とかして、真っ当なコースを歩いて欲しいと思っている。君のためにね。芸能局の歌手なんて、僕から見ればナンセンス以外のなにものでもない。なぜそんな気になったのか、パットも君も規定で秘密を守らないとならないから、僕にはわからないけれど。でもどんな理由にせよ、やっぱりナンセンスだ。君にドロップアウトさせるわけには行かないと思っているよ。ジェレミー、戻ってきなよ。その方が、絶対君にとって良いことなんだから」
「ありがとう、マーティン」
 ジェレミーは紫色がかった瞳で、従兄をじっと見つめた。
「君が僕のことを心配してくれていることは、痛いくらい感じるよ。本当にありがたいと思っている。でも君にそう言われて、はっきりわかったんだ。僕はたぶん、元から君のようにエリートコースを進める人間ではなかったんだって。僕が宇宙開発局に振り分けられた時は、まだここに来る前だった。心が死んでいる、いや、眠っている状態だったんだ。IQだけは高かったけれど、与えられたことをそのまま鵜呑みにするだけで、心が動き出していなかった。でもここへ来て、僕本来の人間が目覚めたから……そう、今ならはっきりわかるよ。僕は、もし本来の僕が目覚めてから適性を受けたとしたら、宇宙開発局にはならなかったと思うんだ。エリートに反逆者はいらないから。僕も戻れたらって思う部分もあるけれど、でももう戻れないんだ。元々自分の本意じゃなかったんだから。かえってこの冷却期間をおいたことで、ますますはっきりわかったよ」
 マーティンはしばらく返事をせず、額にかかった金髪を後ろへ掻き上げながら、ふうっとため息をつき、従弟の顔をしばし当惑気味に眺めていた。思いのほかジェレミーが意志強固なのに戸惑っているようでもあり、一方では相手の言うことももっともだと思っているようでもあった。
「結局僕は、かえって君をコースから外す手助けをしてしまったのかも知れないね……」
 マーティンは静かに言った。その声にあきらめとかすかな苦さを感じて、ジェレミーはすまなさのあまり真っ赤になった。
「ごめんね、マーティン。せっかく君が僕のためにやってくれたことなのに、かえって裏切るようなことをしてしまって」
「いいさ、仕方がないよ。結局は君の人生だもの」
 マーティンは頭を振り、立ち上がった。
「これからパットの部屋へ行こう、ジェレミー。一度三人で徹底的に話し合ってみないとね。それでも君の決心が変わらなかったら、僕はもう止めないよ。止めても仕方のないことだからね」
「あ……あ、ありがとう。ごめんね、マーティン」ジェレミーも立ち上った。




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