Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第3章 扉は開いた(3)




 そんな十月半ばのある日、昼食が終わってすぐに、パトリックがジェレミーの部屋にやってきた。お互い自分の作業に行き詰まりを感じていた頃だったので、日曜日ではないが気分転換に図書館へでも行ってみようと、誘いに来たのだ。ジェレミーもすぐに応じた。二人は自宅で勉強を続けるマーティンにその旨を告げ、夕方までに帰ると言い置いて出かけた。
 その日も晴れた日だった。ドームの透明な天井越しに、真っ青な空が見えた。平日の昼間なので、ほとんど人はいない。外出はジェレミーとパトリックにとって、たしかにちょっとした気分転換になった。家から歩いて五分ほどのシャトルの駅まで、オートレーンは使わず、たわいないおしゃべりをしながら歩いているうちに、お互いに気分が晴れたような思いを感じていた。
 二人は最寄り駅でシャトルを降りた。階段を上がって再び道路に出ると、しばらく歩いて公園を抜け、交差点を横切れば、その向こうが図書館だ。この公園はかつてモーリス・ハイマンや彼の悪い仲間たちとの、トラブルの舞台になったこともある。その結果パトリックは重傷を負い、ジェレミーは声を取り戻した。あれから三年が過ぎても、ここを通るたびに思い出さずにはいられなかったが、もうトラブルはない。黒服の愚連隊と偶然行き会う時には、出来るだけ接触しないように気を付けたせいもある。だがここ一、二年間不良グループの蛮行は、だんだんエスカレートしていくようだった。そして一般人を巻き込んだ傷害事件や盗難が増えてきたので、当局がついに撲滅に乗り出した、という噂もある。
 その時、突然、脇の茂みの中から誰かが飛び出してきて、二人の前に立ちふさがった。
「や、やい……い、いや、頼む! 上着を貸してくれ!」
「え?」
 パトリックとジェレミーはその場に立ちすくみ、相手を見た。上半身は裸だ。足には黒いズボンを付けている。その顔を見たとたん、二人はますます驚いた表情になった。
「モーリス! モーリス・ハイマン!」
「何?」
 相手も驚いた表情で見つめた。と、たちまち認識したようだった。
「おまえらは、あの時の……」
「そうだよ。よくもあの時はやってくれたな! おかげで僕は一ヶ月も入院しちゃったじゃないか」パトリックは一歩前に飛び出した。
「パット。またこの間みたいになったら、困るよ……」
 ジェレミーは戸惑いを感じながら、そうささやく。
「大丈夫だよ。今回は一人じゃないか。それに、チェーンも付けていないようだし。あの時の仲間は、どうしたんだよ」
「みんな、警察につかまっちまったよ」
 相手は心なしか青ざめているようだった。
「なにか悪いことでも、やったのかい? まあ、そうなんだろうなあ」
 パトリックの問いかけに、モーリスは意気消沈したような口調で答えていた。
「悪いことはやったさ。でも今度のは、そういうんじゃないんだ。おまえらも聞いたことないか? 警察が愚連隊の一掃に乗り出したという噂を」
「ああ、そう言えば、そんな噂を聞いたね。やっぱり本当だったのかい、それは」
「本当なんだよ。みんな勉強や仕事をさぼってるから、その義務怠慢の罪で、全員を捕まえろ。さらに一般人に対して悪さしているやつは、それに相当した罰を与えろってことらしいが……だがまあ、俺は正直言って、徒党を組んで暴れても、あまり面白くねえから、そろそろ抜け時かな、なんて思ってたんだが、連中の掟は厳しくて、なかなか抜けるのは大変なんだ。抜けるためには、儀式が必要なんだよ」
「儀式? どんな?」
「あの時の、おまえと同じさ」モーリスは決まり悪げな表情をした。
「動けないように押さえつけて、二本まとめたチェーンでぶったたく。一人三回で全員がな。終わった時にはズタボロになってて、たいていはおだぶつさ。警察は不良同士のもめ事には、ほとんど手は貸しちゃくれないからな。おまえも下手したら死んじまったかと思ったが、まあ、おまえは一般人だからな。警察や救護班が動いてくれて、助かったんだろう。だが、俺らの場合そうはいかないんだ」
「ああ、そう」パトリックはいくぶん冷ややかな表情になっている。
「まさか君たちの脱退の儀式を食ったとは、思いも寄らなかったよ。まあね、君に勇気がなかったのはわかる。自分が食らうのは、いやだろうからね。で、そうこうしているうちに警察が一掃に乗り出して、仲間があらかた捕まって……君は逃げたのかい? 黒いシャツを脱いで、ペイントを消せばわからないって? でも、真っ昼間に半分裸でうろうろしている方が、よっぽど目立つだろう? 家に帰って、着替えればいいじゃないか」
「うちになんか帰ったら、おふくろがたちまち通報しちまうよ。さもなければ、エレノアかブレットがな! 連中は俺を捕まえてほしくて、うずうずしてんだ」
「じゃあ君はこれから、どうする気なの? 家にも帰れなくて、服もろくにないなんて」
 ジェレミーは同情を感じながら、そう聞いた。
「おまけに、金も食べ物もないさ」相手は絶望的な様子で、ため息をつく。
「それじゃ、しょうがないんじゃないか。逃げてたって、いずれ捕まるぞ」
 パトリックは強い口調で言い、首を振った。
「第一、人から洋服を取ろうなんて、それじゃ、まるで追い剥ぎだよ。相手が僕らだったから良いようなものの、普通だったら、たちまち警察に通報されて、捕まってしまうよ。自分から罪を作っているようなものじゃないか」
「ああ……そうだな。本当に俺はバカだよ」
 モーリスは端から見ても気の毒なほどしょげ返り、力無くうなだれていた。
「俺はバカだな……」そう繰り返す。
「そうさ、本当に君はバカだ」
 パトリックはきっぱりとした口調で、そう言った。
「なんだって、愚連隊なんかに入ったんだよ。君はそれで楽しかったのかい? いつかはこんな風になるかもしれないってこと、考えなかったのかい?」
「いいや……」モーリスは首を振った。
「その答えは、両方ノーだな。だが、俺はむしゃくしゃして、たまらなかったんだ。世の中のすべてが憎らしくて、みんなぶっこわしてやりたくて、暴れたくて、たまらなかった。おまえらには、わからないだろう。親兄弟からは蔑まれ、親戚連中からはつまはじきにされ、バカだの出来損ないだの大恥だのと言われ続けてりゃ、頭に来て暴れたくもなるさ」
「うん……僕には、なんとなくわかるよ」
 ジェレミーは紫に変化した瞳で相手をまっすぐに見つめ、静かに頷いた。
「僕もそうだったから。僕もローリングス一族の異端児なんだ。アンソニー伯父さんの一家と母さんの他は、誰も僕のことを気にかけてはくれなかった。一族の恥だって、軽蔑されてた。たぶん、今もそうなんだろうね」
「おまえが……?」
 相手は驚いたようにジェレミーを見つめた。
「おまえは……あの時、俺にぶつかった奴だよな。話せないとか、言っていた。だが、最後には声を出していたっけ」
「あの時、僕は声をなくしていたんだ。長いこと内にこもってしまったから、コミュニケーションを忘れて、しゃべれなくなっていて。でも、あの時の衝撃で声が出たんだよ」
「おまえは……いったい誰だ? なぜ、一家の異端児なんだ?」
「僕はジェレミー・ローリングス。君のお母さんの妹にあたるシンシア・ローリングス・アンダーソンが、十九才の時に生んだ、父親知れずの私生児だよ。一族じゃ、僕はそういう認識なんだ」
「ほう、そうなのか? だが、俺はおまえのことなんか、聞いたこともないぞ」
「エセル伯母さんが、僕のことは話さないんじゃないかな。話す価値もないと思っているんだろうね。お祖母ちゃんだって、そうだよ」
「そうか。まあ、もっとも、俺はおふくろや婆さんとも、ろくに話したこともないしな」
「そう。じゃあ、まったく知らなくても不思議じゃないね。僕は母さんが結婚したから、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに引き取られて、三年前まではそこで暮らしていたんだ。ずっと部屋にこもって、一人きりで。それで、しゃべることを忘れてしまったんだよ。でも、三年前に、アンソニー伯父さんとメラニー伯母さんが、僕を引き取ってくれたんだ。パットはその家の息子で、僕に全然偏見を持たずに、友達として接してくれた。マーティンもね。ヒルダさんとヘイゼルさんも。だから、僕は恵まれていたんだと思う。でも君は、そういう人がいなかったんだね。だから不幸なことに、悪い仲間を求めてしまったんだ。それに回りからいろいろ言われて、僕は内に閉じこもっちゃったけれど、君は逆に外に攻撃に出てしまったんだね。だから……」
 ジェレミーの言葉を聞いているうちに、奇妙な熱情が相手の顔をよぎっていった。
「おまえは……俺を軽蔑しねえのか? 俺は頭も悪くて、粗忽で、暴れもんだ。なのに、俺のことをわかってくれると言うのか?」
「わかるよ。僕に君のことを軽蔑する資格なんてないし。昔、お祖母ちゃんが言っていたらしいよ。君と僕は一族の異端児で、厄介者だって。いわば、同類だもの」
「そういう惨めったらしい認識は捨てろよ、ジェレミー! 前から思ってたことだけどさ」
 パトリックが強い調子で口を出した。
「まったく、二人で傷を舐めあってたって、しょうがないだろ。第一、なぜ君たちが一族の異端児なんだよ。ジェレミーは出生に問題があっただけだし、モーリスは人よりちょっと頭が良くなかっただけだろう? そんなの君たちのせいでも、なんでもないじゃないか。生まれが正しくて、障害もなくて、頭が良ければ、それで正統なのか? それがそんなに偉いことなのか? 僕にはそうは思えないよ。人間の価値って、それだけじゃないはずだ」
「パット……」ジェレミーははっとして目を見開き、相手を見た。
「おまえ……」モーリスも度肝を抜かれたような表情だ。
「おまえ……なぜ、そんなふうに考えられるんだ? おまえは別に何も、すねに傷をもってやしないだろうに……」
「ああ。でも僕は考え方が、ちょっと変わってるのかもしれないよ。なんたって、学術研究局なんだからね。だから僕だって、ローリングス一族の受けは、あまり良い方じゃないさ。でも、気にはしてないよ。僕は僕だし、間違っているとは思っていないから。ところで、モーリス……そんな格好じゃ、本当にしょうがないな。かと言って、僕らの服は貸せないよ。君には小さすぎるだろうからね。君、本当にお金は持ってないの?」
「ああ」
「じゃ、しょうがないなあ。ちょっとショップで服を買ってくるから、あとで代金を返してくれよ。いつでもいいから」
「何?」モーリスはすっかり驚きの表情だ。
「じゃあ、君はパットが帰ってくるまで、そこの茂みにいた方が良いよ。僕もいるから」
 ジェレミーも相手の腕を取り、そう促した。
「ああ……」
 モーリスは半信半疑と言った表情で、再び茂みに隠れる。そして、しばらく黙っていたが、こう問いかけた。
「なあ……あいつ、おれのことを通報に行ったんじゃ……ないだろうなあ」
「どうして?」ジェレミーは軽い驚きを感じて、そう問い返した。
「パットが信用できないかい? 誓って、そんなことはしないよ」
「だが……俺は昔、あいつをひどい目に遭わせちまったし……恨んでねえかなあ」
「恨んではいないよ、きっと。入院先で会った時に、言っていたもの。君はきっと、あまりやりたくなかったんだろうけど、やらなきゃならなくなって、自棄を起こしたんだろうって。だから、訴えることもしなかったんだ」
「そうか……ああ、でも、本当にそうなんだよ」モーリスは頭を抱えた。
「俺はあいつと、ちゃんと一対一でけりを付けたかった。あいつらが割って入って、すっかりぶちこわしちまったが……あの場では、やらねえわけにはいかなかったんだ。そのうちにすっかりキレちまって、なにもかもが憎たらしくて……俺はあいつじゃなくて、俺を蔑んだ親戚の奴らみんなを、ぶっ殺してやりたかった。だが逃げたあと、ひどい気分だったよ。しばらく手が震えて止まらなかったし、何度も夢に見てうなされた。悪かったと思ってんだよ。面と向かって謝る勇気は出なかったけどな……」
「パットもわかっていると思うよ。それにね、僕は知っているんだ。アンソニー伯父さんの一家は、他の親戚の人たちとは違う。その人にはどうしようもないことを取り上げて、あざけったり蔑んだりは、決してしない人たちだよ。さっきパットが言ったとおりなんだ。出生の傷や障害や持って生まれた知能なんて、本人にはどうしようもないことなんだものね。それをわかってくれる人はほとんどいないけれど、伯父さんたちは違うんだ」
「そういう連中が、本当にいるなんてな……」
 モーリスは考え込んでいるようだった。
「アンソニーっていうのは……『南アメリカの伯父さん』だな。そうか、思い出した。だが、会ったことはなかったな、覚えてる限りじゃ」
「伯父さんたちは十七年半前から十三年以上、南アメリカ地区のサンパウロに移住していたから、ほとんどこっちへは帰ってこなかったらしいんだ」
「そうか……惜しかったな。こんなにワルになる前でなく、もう少しガキの頃に会えてりゃ、俺もまだましだったかもしれないが……」
「でも、今からでも遅くないよ」
 ジェレミーは軽く頭を振って、相手を見上げた。
「もう愚連隊はなくなったんだから、君は自由になったんだ。やり直せば良いんだよ」
「自由だって? 俺は警察に追われてるんだぞ。愚連隊グループCのメンバーとして。捕まったら、カウンセリングにかけられるんだ。もう終わりだよ」
「どうして? カウンセリングなら、メラニー伯母さんだってやっているけれど、そんなに怖いものじゃないよ。悩みを聞いて、相談に乗ってもらえば……」
「そういう普通のカウンセリングじゃねえ!」モーリスは絶望的な声を上げた。
「俺たちのカウンセリングってのは、機械カウンセリングだ。知ってるか? 心も感情も殺されちまうんだ。ただのロボットにされるんだよ!」
「ええ?!」
「俺は実際に見たんだ。グループの仲間だったクライドが――あの時一緒にいた三人のうちの一人だよ。一年前、十五才の女の子をレイプしちまって、おまけに抵抗する相手を殴った時に、その娘の歯と頬骨を折ったらしい。俺たちはよせって止めたんだぜ。一般人相手にそこまでやったら、さすがにやばいだろうって。でも奴はきかなかった。すっかりクスリとドリンクで、ハイになっちまってな。臆病風に拭かれたんだろう、なんて笑ってやがって……でもそんなことをやって、ただで済まされるわけはねえ。奴はあっという間に警察に捕まっちまって、その次の機械カウンセリング者リストに、奴の名前があった。あーあ、やっちまったな、と俺は思ったさ。あの時関わらなくてよかったとな。あまり気持ちの良い見ものでもなかったから、他の仲間と一緒に、さっさと逃げたんだよ。それから三ヶ月くらいあとに、偶然奴に行き会ったんだ。あいつはスイーパーに乗って、道路を掃除していた。俺たちは思わず、声をかけたよ。『よお、クライド。なに真面目に働いてんだよ? カウンセリングにかかって、おまえもおとなしくなったのか?』って。奴は、俺たちを見た。奴の顔を見たとたん、ぞおっとなったよ。完全に目が死んでやがる。表情一つ動かさねえ、ふぬけた面だった。ロボットと同じだ。あいつは何も言わず、ただ間抜けた笑みを浮かべて、俺たちに頭を下げた。そしてなにごともなかったかのように、仕事を続けていた。あれはもう、俺たちの知っているクライドじゃねえ。人間ですらねえ。捕まってカウンセリングにかけられたら、あんな風になっちまうのかと思うと、俺は怖くてたまらねえんだよ」
 モーリスは青ざめ、ぶるぶると震えていた。ジェレミーも言葉を失い、震えることしかできなかった。
 カウンセリングには人間が行うものと機械による矯正の、二種類がある。人間のカウンセラーによる前者には、一般相談の窓口と、警察によって検挙されてきた軽犯罪者たちの更生があった。一般相談の場合はメラニーがやっているように、心の悩みを聞き、相談に乗るだけだ。更生の場合はもう少しベテランのカウンセラーが当たり、自らの逸脱や罪を認めさせ、後悔させて、もう二度と問題を起こさないように誓わせる。それが本心なのか、それとも単に罪のがれのごまかしかは、カウンセラーの技量と併せて、嘘発見器などの機械や心理テストでも判定される。完全に更生したとなれば、カウンセリングは終了だ。
 だが、機械カウンセリング――これは文字通り機械による精神矯正だ。重度の犯罪者で、破壊衝動や危険度の強いもの、普通のカウンセリングでは更生できないものに使われる。脳の内部から変革するので、一度施されるとその効果は恒久的に続くが、その実態は同時にそれまでの人格も感情も破壊されてしまうと言う、恐るべきものらしい──。
 ジェレミーは追いつめられたモーリスに対し、深い同情を感じた。彼がなぜ悪の道へ踏み込んだのか、その心が渇きすさんでしまった理由は、理解することが出来る。だがモーリス・ハイマン自身は、決して悪い人間ではない。ジェレミーは、はっきりとそう感じた。いくぶん単純で短気だし、思慮の足りないところはあるかもしれない。少し粗暴な点も認める。しかし、彼がたとえばアンソニー伯父一家のような家で育っていれば――頭があまり良くなかったゆえに劣等コースに振り分けられた我が子を恥と思わず、蔑んだり辱めたりせず、励まして見守ってやれたなら、モーリスはきっと気のいい若者に育ったに違いないのだ。なのに周囲に絶望して道を踏み外し、その結果カウンセリングにかけられて人格を破壊されてしまったら、救いがなさ過ぎる。
 なんとか助けてやれないだろうか――そんな強い熱望がジェレミーの心に湧き上がってきた。だが、いったい自分に何が出来るのだろう。パトリックの帰りも遅いようだが、彼にはなにか考えがあるだろうか――。
 
 二十分ほどたって、やっとパトリックが戻ってきた。走ると目立つと思ったのだろう。ことさら普通に歩いている。彼は右手に包みを持っていた。
「ほら、シャツを買ってきたよ」
 パトリックはその包みをポンとモーリスの膝に投げた。
「安物だけれどね。僕もまだ研修生だから、お給料は入らないし、そんなにお金が残ってないんだ。だから、それで我慢してくれよ。君の趣味はわからないから、僕の好みで選んだし。でもまあ、とりあえず着たら」
「ああ……悪いな」
 モーリスは買ってきてもらったシャツを身につけた。長袖で胸にワンポイントのついた、クリーム色のシンプルなシャツだ。だがあの黒いシャツに比べて、少なからず雰囲気が柔らかくなった。
「八ドルだよ。あとで返してくれよ。余裕が出来たらでいいからさ」
 パトリックは肩をすくめた。そして大きめのホットドッグを一本差し出す。
「それから……ほら、これは返さなくて良いよ。差し入れだから。まだ、お昼食べていないんだろ。そこの販売機で買ってきたんだ」
「おお……」
 モーリスはためらいがちに受けとり、すぐにむしゃぶりつくように食べた。
「お腹空いていたんだね」ジェレミーも微笑を浮かべた。
「ああ。昼はおろか、朝もろくに食べてねえしな。助かったぜ」
「悪いね、一本しか買ってこれなくて」
 パトリックは苦笑して首を振ったあと、現実的な問題を切り出してきた。
「それで、モーリス。君はいったい、これからどうする気だい? ずっとそうやって、逃げ回っているのかい?」
「ああ?」相手は驚いたような顔で、見返す。
「でも、いつまでも逃げてはいられないよ。家に帰れないなら、公園の影に寝るつもりかい? 食べ物だって、お金を持っていないなら、困るだろう? また人から取ったりしたら、それこそもう救いようがないよ。でも、今ならまだ、間に合うかもしれないんだ」
「それは……どういう意味だ?」
「さっき、君のことを母さんに相談したんだよ。おっと、誤解するなよ。別に、警察に通報したわけじゃないから。プライベートな問題として、母さんに相談しただけさ。彼女はカウンセラーだからね。母さんも君が動くまで、上司や警察には何も言わないと約束してくれたよ」
「そう……か」モーリスは頷いたが、疑いと当惑が相半ばしたような表情だ。
「信用してないな。でも、今はなんだかんだ疑っている時じゃないだろ。機械カウンセリングにかけられたくなかったら、もっと僕らを信用しろ!」
 そう強い口調で言われて、モーリスもひるんだようだった。
「ああ……だが、おまえ……俺を恨んでいないのか? 俺はおまえに、ひどい仕打ちをしたんだ。普通だったら、俺を陥れてやろうって思うんじゃないのか……」
「僕は、そんな卑しい人間じゃないつもりだ!」
 パトリックは気分を害したらしく、頬を紅潮させていた。
「なんだよ! なんとかならないかって、さんざん気を揉んでたのに、そんなことを思っていたなんて、情けないじゃないか。もう良い! 勝手にしろよ!」
「わ……悪かったよ。そんなに怒るなよ」モーリスは顔を赤らめ、頭を掻いた。
「ただ……俺は信じられなかったんだ。おまえらみたいな奴に会ったのは、初めてだから」
「それで、パット。メラニー伯母さんは何と言っていたの?」
 ジェレミーも苦笑しながら、先を促した。
「愚連隊の一掃命令が出ているのは、本当だってさ」
 パトリックは気を取り直したようにちょっと頭を振り、そう言った。
「ただ、やみくもに全員を機械に送り込んでいるわけじゃないらしいんだ。前科があったら厳しいけれど、そうでないならテストを受けて、その結果が大丈夫なら、さぼっていた勉強や労働をやらせるために、矯正寮に入れるらしい。ところで君の前科は、モーリス?」
「俺は幸い、前科はないんだ。不良相手にしかケンカはしなかったし……まあ、一般人も二回ほどやっちまったが、一回は親父とお袋が金でもみ消したし、もう一回はおまえなんだが、結果的に訴えなかったしな」
「訴えていなくて良かったね、パット」ジェレミーはほっとしてそう声を上げ、
「ああ。じゃあ、なんとか大丈夫かな」パトリックも苦笑して頷く。
「で、そのテストってのは何だ?」モーリスがそう聞いてきた。
「破壊衝動テスト、凶悪度テスト……まあ、そんなものらしいけれど、カウンセラーの立ち会いで、コンピュータを使って行われるらしい。でも今の君なら、大丈夫そうな気がするんだ。母さんが出来るだけ中立に判定してくれるカウンセラーの先生を何人か教えてくれたから……まあ、その先生に当たる保証はないけれど、今から警察に行って、テストを受けてこようよ。僕らも一緒に行くから。自発的に行けば、逃げ回って捕まるより、テストには有利なんだって」
「うん……それが一番良いよ」
 一瞬の間をおいて、ジェレミーも頷いた。
「このまま逃げ回るより、その方が良いと思うよ。逃げているうちにどんどん不利になってしまうし、せっぱ詰まって悪いことをやってしまったら、もう救いようがないもの」
「そうだな……やっぱり、それしかないのか。仕方がない。おまえらを信用しよう」
 モーリスは観念したらしく、ため息混じりに立ち上がった。

 警察署までの道のりを、三人はほとんど話をせずにたどった。そして警察署の門の前で、モーリスは二人を振り返った。
「おまえらは、もうここでいいぜ。これ以上俺に関わって、一緒に警察へなんぞ行ったりしたら、おまえらまで変な目で見られちまう。あとは俺一人で大丈夫だ」
「でも、本当に大丈夫……?」心配げにそう問いかける二人に、
「いいから、帰れってんだ!」と、モーリスは強い口調でそう怒鳴った。
「これ以上、おまえらに迷惑をかけたくねえんだよ! おまえらは俺を助けてくれた。本当に良い奴らだ。それは認めるよ。本当にありがとよ。だからこそ、もうこれ以上おまえらを巻き込みたくねえんだ。だから、頼む……帰ってくれよ! 今さら逃げやしねえよ。心配するな。だから、もうここで帰ってくれ!」
「わかったよ」パトリックは頷き、ジェレミーも従った。
「モーリス。大丈夫だよ、きっとやり直せるよ」
 ジェレミーは手を振り、そう声を上げた。
「また、出てきたら会おうな!」パトリックも片手を上げて、ちょっと笑う。
「ああ……」モーリスの目は潤んでいた。
「ありがとよ。俺は、もう五年早く、おまえらに会いたかったぜ。そうしたら、こんなざまにはならなかっただろうな。あばよ。おまえらの親切は忘れねえぜ。もし無事に出て来れたら、シャツ代は忘れずに返すよ、パトリック。いつかおまえとジェレミーと俺で、どこかの簡易食堂ででも、一緒に飯を食って語り合おうぜ。な!」
 彼も片手を上げると、警察署の中に入っていった。
 パトリックとジェレミーはその後ろ姿を見送ったあと、中には入らずに去った。結果は気になるし、出来れば一緒についていってモーリスの弁護をしてやりたかった。しかし彼の心情を尊重するなら、また本当に一人で切り抜けられるなら、それこそが真の更生になり得るだろう。ジェレミーはそう感じた。パトリックは持ってきた携帯通信機で、メラニーに連絡を入れていた。その口調から、従兄もまた同じように思い、そしてモーリスの無事を祈っていることが感じ取れた。二人はそのまま、図書館には寄らずに家に帰った。
 
 メラニーの帰宅は遅かった。彼女は末端のカウンセラーなので、犯罪者や思想偏向者、犯罪予備軍と言った案件のカウンセリングは回ってこない。しかし彼女の上司に、不名誉だが彼女の義理の甥が愚連隊のカウンセリングを受けている。その結果が知りたいと頼み、その上司はメラニーのことを比較的評価してくれていたので、結果を知らせてくれた。それを待ってから帰宅したので、家についたのは二十時近かった。そして、心配そうに玄関に出てきたジェレミーとパトリックに、彼女は笑顔でこう報告した。
「大丈夫よ。モーリス君は機械カウンセリングを逃れたらしいわ。スティーヴンスさんが、きちんと判定してくれたみたい。この青年には、もはやあまり破壊衝動は見あたりません。後悔しているようですので、機械矯正までは必要ないでしょうって。それで、矯正寮で二年の労働という処分に落ち着いたんですって」
「そう。よかったなあ……」
 二人はその報告を聞くと、深い安堵のため息をついた。
 
 夕食後、久しぶりに三人でリビングに集まりコーヒーを飲みながら話している時、マーティンが苦笑しながら口を開いた。
「でも、君たちらしいね。モーリス・ハイマンのことで、そんなに一生懸命になるなんて」
 そして肩をすくめて、こう付け加えていた。
「それが、君たちの美点なんだろうけれど」と。
「お節介と言った方が、良いんじゃないかな」パトリックも肩をすくめて苦笑した。
「それもあるな」マーティンは笑っている。
「でも警察まで付き添って行かなくて、正解だよ。モーリスもそういう分別はあるようだね。従兄が元愚連隊っていうのも結構不名誉だけれど、彼に付き添って警察まで行ったりしたら、君たちまでその一派だと思われかねないからね」
「まあ、僕なんかは、多少の逸脱はかまわないけれどね」
 パトリックは再び肩をすくめ、そして言葉を継いだ。
「でも、エリートコースは困るだろうな。君には思いも及ばないだろうし、マーティ。それにジェレミーだって、将来のエリートなんだから。せっかくキャリアで見返してやれるチャンスなんだから、関わらない方が良かったのかもしれないな」
「そうだよ。ジェレミーもあまりパットと仲良くしすぎて、考え方が影響されたりすると、困らないかい? 来年になるまでに、論文を再提出しなければならないんだし」
「忠告ありがとう、マーティ」
 ジェレミーは苦笑し、従兄たちを見て、言いたした。
「でもやっぱり、僕にとってパットは人生最良の友だと思っているから、今のままで良いよ。論文は絶対に、今度は通してみせるから」
「たぶん君は、そう言うと思ったよ。でも僕からもう一つ余計なお節介を言えば、論文を通すためには、宇宙開発局白書という資料を読んで、トップの考え方をよく知って研究するべきだよ。それに沿った論文を書けば、絶対に大丈夫だって。昨日、専門学生のネットワークで、そんな情報を掴んだんだ」
「そう。ありがとう。助かったよ、マーティ」
「幸運を祈るよ、ジェレミー」マーティンは頷いていた。

 翌日、ジェレミーはマーティンのアドバイスに従って「宇宙開発局白書」を閲覧し、熟読した。そして宇宙開発局上層部の考え方とは、計り知れない宇宙の神秘の解明ではなく、やはり実践的な宇宙――それも光子ロケットでたどり着ける範囲の近隣宇宙の、利用価値を探るのが主な目的なのだと、改めて理解した。惑星の鉱物資源を利用すること。さらに生態系が発生している惑星を見つけた場合、動植物は利用できるか、将来的に移住に適しているかを調べる。その調査を含め、せいぜい半径数百光年の狭い近隣宇宙のマップを取ること、それが最大の目標だ。なるほど、実践的に考えるなら、それこそが宇宙開発の意義なのだろう。しかし、それでは結局、地質学的なものと何ら変わりはない。宇宙の壮大さ、神秘さは感じられない。
 ジェレミーはなんとなく幻滅を感じた。自分が宇宙に惹かれる理由とは、そういう実践的な意味ではない。でもとりあえず論文を通さねば、社会人になるのが遅れてしまう。
『出生に問題ありでも、キャリアで見返せるチャンスじゃないか』と、パトリックも言っていたっけ。宇宙局の技師になれれば――それほど出世は出来ないだろうが、卑しい生まれを少しはカバーできるかもしれない。伯父たちにも恩返しが出来る。今は理想論にこだわっている時ではない。
 ジェレミーはため息をつき、ついで頭を振った。そして翌日から三日かけて、論文をまとめ上げた。それは白書の意向に添った、整然とした論文だった。
 これなら大丈夫だろうか――大丈夫なはずだ。だが、これは自分の言葉ではない。自分の思想でも宇宙観でもなかった。ただ白書の論旨に添って、さらにその方針に賞賛と熱意を感じられるように、偽りの言葉と概念で構築したレポートだ。
 出来上がりを読み返し、ジェレミーはなんとなく嫌悪を覚えた。思わず頭に手を突っ込み、髪をくしゃくしゃとかき回して、再びため息をつく。でも仕方がない。このまま草案としてファイルに残し、三ヶ月後に推敲して、提出しよう。
 再びため息が漏れた。もうかなり夜も遅い。今日はパトリックも誘いに来なかったし、ずっと朝から端末に向かっていたので、少し頭がぼうっとしていた。ジェレミーはファイルをプライベートディスクに保存したあとセッションを切り、シャワーには行かずに、ベッドに潜り込んだ。

 ジェレミーが再提出する論文の草案を書きあげた夜、パトリックは自室の端末でいつもの作業――学術IDからアクセスできる専門文書をすべて当たっていくことで、封印ファイルに紐付けされている文献を探していた。歴史の文献には多少の退屈を感じ始めていた頃だったので、この日は少し気分を変えるため、半ばお遊びのつもりで「文学」へ枝を伸ばしていた。
 ただ、文学に関しては隆盛期やパックス・エスペランタ期の作品を含め、ほとんどが一般図書で十分閲覧が可能だ。学術研究局のIDからしかアクセスできない文献は、隆盛期初期の、まるで試作のような、あまり文学的には面白いと思えないような作品しかなかった。これはたぶん、一般レベルではあまり面白くないとされたもののようだ。元々文学作品は、暇つぶしには良いが、それ以上のものではない、そういう印象があるだけなのだが、さらにそのレベルからも落とされた文献は、読んでみようという気すら起きない。チラッと一、二ページを読んで、肩をすくめて閉じる。その繰り返しで、十冊も行かないうちにパトリックはうんざりし始めた。しかし、これも学術IDからしか開かない文献には違いないのだし一応当たってみようと、半ば苦行のように作業を続けていた。
 たぶん百冊くらいかそれを超えたくらいのころ、本を開き、いつものように数ページ眺めて閉じた瞬間、まったく新しい画面が出てきた。それは見慣れたフォーマットではなく、反転表示のインデックスだ。見慣れない名前と、タイトルが続いている。

 中世期のイギリス文学
 シェイクスピア:
  真夏の夜の夢;ロミオとジュリエット;テンペスト;リア王;オセロ;
 ベニスの商人
ミルトン:失楽園
チョーサー:カンタベリー物語

「なんだ、これ?」
 パトリックは思わず声を上げた。どうやら文学作品のリストらしいが、名前もタイトルもまったく知らない。とりあえず一番著作の多そうなシェイクスピアという人の、最初のタイトルを選んでみる。
【真夏の夜の夢】
 選択すると、別の画面が出てきた。
【あなたの氏名をフルネームで入力してください】
 訝りながらもそれを入力すると、本文が出てきた。ゆっくりと流れていく文章を読み始めたパトリックは、たちまちにしてわけがわからなくなった。小妖精だの魔法だの妖精の国の女王など、彼の概念ではまったく理解不可能な物語だ。その他にも、意味不明の見たことがないような単語が、結構出てくる。
「何なんだ、この話は……?」
 パトリックは目を丸くして絶句するしかない。これもまた、一般レベルから落とされた没作品だろうか。それにしても、今までのものとは違いすぎる。
 他の作品もざっと目を通してみたが、ますます首を傾げるばかりだった。仲の悪い家同士の男女の悲恋、という話はなんとか理解できる。貴族という言葉はわからないが。しかしここまで大仰で意味不明な台詞回しや、心中などという結末は、新世界文学では絶対に使わない。特にここ数百年間は、自殺は絶対のタブーで、過去の書籍さえ、その表現は書き換えられていると聞く。それだけでなく、言葉も不可解だ。屋敷だの城だのと言うものも理解できないし、他の物語に出てくる王とか将軍とか戦争とか、そういうものもなんであるのか、全く見当もつかなかった。単語のスペルも、知っているものと違うものがかなりある。何度も繰り返されるから、間違っているわけではなさそうだが……。
 唖然としながら読み進んでいくうちに、パトリックはふいに気づいた。これはみんな、自分たちの知っている世界とは、まったく異なる世界を舞台にした物語なのだと。自分の知っている世界でない異なる世界とは、それは旧世界なのではないか! 
 その認識が明確に心に落ちてきた時、パトリックは思わず「あっ!」と小さな叫びを漏らした。封印ファイルがばらばらに紐付けされているということは、もしかしたらこういうことなのか。ホームインデックスファイルに行くのではなく、つながっているのは、かなり末端の枝ファイルなのでは――。 
 ぶるっと武者震いを感じた。最初のインデックス画面に戻すと、注意深く画面全体を検索する。あった――これの親ファイル、【ホーム】へのリンクが。胸の高鳴りと軽い震えを感じながら、パトリックはキーを操作した。
【ホームファイルへのリンク】
 画面が変化した。やっぱりそうだ。インデックス全体の見出しには、はっきりとこう書かれていた。
【旧世界の伝承文学】
「わぁ! やった!」
 パトリックは思わず小さく歓声を上げると、さらにその親ファイルを探ろうとした。まだある――【ホームファイルへのリンク】が。
 ますます胸が高鳴るのを感じながら、彼はその道を探った。と、ピーッと警告音が鳴り響いた。画面がまた消え、こんなメッセージが浮かび上がってくる。
【あなたのIDと姓を入力して下さい】
「えっ?」
 IDは自分の認識コードなのだから、わざわざ姓を入れなくともわかるはずだが――再びそう訝りながら、パトリックは自分のIDコードと、母の姓Barton、父の姓Rollingsを入力した。五、六秒後に、レスポンスが返ってきた。
【新世界黎明期、及び旧世界関連のファイルの閲覧を許可します。このリンケージを登録すれば、明日からファイルアクセスが可能です。リンケージを登録しますか?】
「もちろん、YESさ!」
 パトリックは飛び上がらんばかりにして言った。その音声をコンピュータでも認識したようだ。キーを操作するまでもなく、画面のメッセージは変化している。
【リンケージを登録しました】
「やったあ!」パトリックは思わず歓声を上げた。
 画面にはメッセージが続いている。
【ただし、第三者には、このファイルを閲覧させないで下さい。その資料の内容を他の人に話すことも禁止します。違反が発覚した場合、あなたは学術研究局研修生の資格を剥奪されますので、くれぐれもこの規則は守って下さい。ですが学術研究局所属者の特権として、共同閲覧者登録の許可が与えられます。もし共同閲覧を希望するのでしたら、その人のIDと姓をお知らせ下さい。希望しない場合は、そのままリターンして下さい】
「誰かに見せる、か。そうだなあ……」
 パトリックは考え込んだ。他言無用となると、誰かに話したいという衝動を抑えるのに、苦労するだろう。もし一緒に見てくれる誰かがいて、その人と一緒に秘密を共有できるなら、知識の重荷は軽くなる。だがマーティンは自分の勉強が最大関心事で、元から歴史には興味があまりない方だったから、たぶんのっては来まい。父は昔興味があったらしいから良いだろうけれど、仕事がある。昼間は忙しい。ジェレミーは――? 
 そこまで思い至った時、ジェレミーならば理解してくれるかもしれないと、確信にも似た思いを感じた。申請するだけはしておこうか。従弟は今再研修中で宇宙局のカリキュラムはないのだし、論文を書くのも行き詰っているようだから、いい気分転換になるかもしれない。ジェレミーのIDは、何番だっけ――? しばらく考えた末、思い出した。
 両方を入力すると、また五、六秒の沈黙がある。
【その人の共同閲覧を許可します。ただし研修期間が明けるまでと、期限をもうけます】
「やっぱりなあ……」
 パトリックは苦笑した。普通の専門学生や社会人には、やはり学術資料の共同閲覧は許可されないのだろう。ジェレミーは再研修中で通常のカリキュラムからはずれ、現在は一時的にではあるが、いわばパトリックと同じ学術研究生的な立場にある。だからこそ、その期間だけは共同閲覧が許可されたのだろう。
「でも、とにかく……扉が開いたんだ、とうとう……」
 セッションを切ったあと、パトリックは歓喜のあまり机に身をもたせかけ、そう呟いた。三年の探索は長かったとも思えたが、考えてみれば五十年以上に渡るだろう研究人生の中で、こんなに早く夢を実現させ得るとは、思ってもみなかったことだ。明日が待ち遠しい。もう一度セッションを開いて――ああ、でも本当にリンケージは登録されたのだろうか? 通常の操作で行けるのだろうか? そんな不安も感じる。ともかく明日になったら、早速セッションを開いてみよう。朝食が済んだら、すぐに。その時ジェレミーにも話をして、一緒に見るかどうか聞いてみよう。彼にその気がないなら、自分一人だってしかたがない。やっと神秘の扉の鍵を開けたのだから――。
 そんな思いを抱いて、パトリックも眠りについた。ちょうどジェレミーが割り切れない思いを抱えながら、眠りについた頃だった。




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