Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第3章 扉は開いた(2)




 その夜遅くなって、コーヒーを飲むためにリビングに集まってきた三人の男の子たちも、大きな変化をはっきりと感じていたようだ。
「本当に、姉さんたちがいないと静かだなあ」
 パトリックがしみじみとそう言い、マーティンも頷く。
「うん。なんだか本当に寂しいよ。姉さんたちと話せなくなるのが」
「そうだね。結構いろいろ言うから、うるさいな、と思ったことはあるけど、今となっては懐かしいよ」
「僕はあまり苦言を呈されなかったから、余計だよ」マーティンは笑う。
「ヒルダさんもヘイゼルさんも、今頃どうしているのかな?」
 ジェレミーが憧憬を込めて言うと、パトリックとマーティンは声を上げて笑い出した。
「姉さんたちが、今頃どうしてるって? 結婚式の夜にかい? ねえ、ジェレミー。そんな恥ずかしいことは、考えない方がいいよ!」
「え?」言われた方は、きょとんとしている。
「ジェレミーは子供だなあ。なんにもわかってないんだから」
「君たちだって、僕と二歳も違わないじゃないか。なんなの、いったい?」
「今度の日曜日に、図書館で『結婚の手引き書』でも読んでみなよ。君にもわかるから」
 パトリックはくすくすと笑っていた。
「うん……読んでみるけど……」ジェレミーは戸惑いながら頷く。
「でも、ヒルダ姉さんとアルバートさんはアツアツだから、きっと今頃二人で幸せ、なんだろうけど、ヘイゼル姉さんとエドガーさんは、どうかなあ」パトリックが首を傾げ、
「うん。エドガーさんってすごく真面目そうだし、きっとあの人って、家でも冗談なんか言わないんだろうな」マーティンも頷いている。
「あの人は、君より真面目そうだもんね、マーティ」
「それって、ほめているのかい、けなしているのかい、パット」
「ほめているんだよ、君に関してはね。でもエドガーさんは、ちょっと違うな」
「君はあまり彼を買っていないんだね、パット。確かに面白みはないかもしれないけれど、そんなに心配するほど、性格が悪いわけじゃないと思う。ただ、真面目なだけだよ」
「仕事一筋のメディックスだからかい。そういう点、将来の君にもたしかに似ていそうだね、マーティ。でもさ、君には優しさがあるけれど、あの人はどうだろう?」
「案外優しい人かも知れないじゃないか」
「まあ、そうかもしれないけれどね。ジェレミーはどう思う?」
 聞かれて、ジェレミーは少し戸惑った。
「エドガー・ハーツさん? そうだね……よくわからないけれど。あの人の印象は、なんとなくダニエル伯父さんやマルコムさんのような感じがして……」
「うん。たしかにそれはわかる。あの二人みたいな感じだよね」パトリックは頷いた。
「でも、ダニエル伯父さんだって、ちゃんとした家庭を持っているよ。心配しなくても良いんじゃないかなあ。ヘイゼル姉さんはおとなしくて優しくて、女らしい良い人だもの。きっとエドガーさんも、好きになってくれるよ。そうだからこそ、結婚したんだろうと思うし」マーティンはそう弁護する。
「うん、まあ、そうなんだろうね。それにしても、姉さんたち二人とも、二二の誕生日で結婚したんだから、早い方だね。リミットまで四年あるもの」
「二十代になったら、早く結婚した方がいいって言う人もいるけれどね。ローリングスのお祖母ちゃんなんて、二十歳で結婚しているし。女の人が男の人より限界年齢が二年早いのも、二十代が一番子供を作るにはいい条件――因子的にも環境的にも――だからみたいだし。でも僕はエドガーさんみたいに、限界まで仕事に打ち込んで、あと一年っていうところで、ネットワークかなにかでお相手を見つけるっていう方式がいいなあって思っているんだ。だって女の人に気を取られる時間がもったいない気がするもの」
「本当に宇宙局一筋だね、マーティは。でも、その一年でお相手が見つからなかったら、どうする? 政府が余り者同士、勝手にくっつけちゃうよ。変な人に当たったら、災難じゃないか」
「そうはならないように、あと一年になったら、がんばるさ」
「まあ、宇宙開発局はエリートだしね。ルックスだって悪くないし、君ならきっと、その気になればお嫁さんのなり手は、たくさんあるんだろうなあ、マーティ。僕なんかそれこそ、必死でがんばらないと結婚できないかもね。学術です、なんて言ったんじゃ」
「君の場合、容姿も人柄も文句ないんだけれど、たしかにそれはネックだね」
「いやあ、人柄の方にもやっぱり問題ありかもね、僕の場合」
「そんなことないよ、パット!」
 ジェレミーは思わずそこで援護の声を上げた後、しばらく黙ったあと、続けた。
「でも……僕はちょっと不思議なんだ。僕はまだまだ女の子のことなんて何もわからないけれど、結婚というのは、お互いに愛し合ってするものでしょう? でも、一生のうちで本気で愛せる人って、そんなに何人もいるのかな? もしそれがたった一人しかいなくて、しかもその人とは適性が会わなくて結婚できなかったら、どうなるんだろう」
 その問いにパトリックとマーティンは首を傾げ、答えた。
「別の人を捜して、結婚するしかないんじゃないの。ヘイゼル姉さんみたいに」
「でも……でも、もしもだよ。その許されなかった恋人が、その人の一生で、ただ一人の愛せる人だったら? もう他の人を愛することが出来なかったら、どうやって他の人と結婚するんだろう? 限界年齢になって、政府に決められた人と、いやいや結婚するのかな? それって、なんだかひどいと思うんだ。だって結婚って、八十年近い生涯で、その三分の二を一緒に過ごすパートナーなんだよね。それなのに、愛せもしない人と一緒に、そんなに長い時を、暮らさなければならないとしたら……」
「ヘイゼル姉さんが、ブルース・ターナーさんとの結婚を認められなかった時、やっぱりそう言って泣いていたよ。彼の他には誰も愛せない。それなのに、なぜ別の人を捜せ、なんて言うのかって……」パトリックが首を傾げ、考えているような表情を浮かべた。
「でもその姉さんも、結局一年で他の人と結婚してしまったよ。そういうものなんじゃないのかな。一生でただ一人の恋人とか、永遠の愛とか、そういうのは小説やドラマだけだよ、きっと」現実主義者のマーティンは、そう主張している。
「そうなのかな……僕には、わからないけれど」ジェレミーは再び首をかしげた。
「うん。でもたしかに、そういうものなのかも知れないなあ。父さんも言っていたっけ。好き嫌いの感情は永久的なものじゃないから、そうあてにはならないかもしれないって。同じ相手をいつまでも好きでいられるかどうか、わからないし……それこそ五十年近くもね。逆に最初は好きでなくても、そのうちに好きになることもたくさんある。人間の感情が当てにならないとすれば、愛情も不変ではないのかもしれないって」
 パトリックは相変わらず考え込むように宙を睨んで、そんなことを言っている。
「愛は不変じゃない……そうなのかなあ」
 ジェレミーは今一つ納得がいかない気分だった。
「まあ夫婦なんて、五年も一緒にいればお互い慣れてしまって、もう空気みたいなものだ、なんていうのも聞いたことがあるしね」と、パトリックが肩をすくめ、
「うん。父さんと母さんだって、最初はローリングス一族の大反対を押し切っての、熱愛だったらしいけれど、今はあんなだもの」と、マーティンが頷く。
「結婚して二五年たって、もう娘が結婚しているのにアツアツだったら、かえって不気味だよ。それに母さんって良い人だけれど、あまり恋愛ドラマのヒロインって似合いそうじゃないなあ。シンシア叔母さんなら、はまりそうだけれど」
「パット! そこまで言ったら失礼だぞ。第一、ジェレミーに悪いじゃないか」
「ああ、そうだった。ごめん、ジェレミー。悪気はないんだ」
「うん。わかってるよ、パット。気にはしてないから」
 ジェレミーは微笑した。でも彼は、なお消えぬ疑問を感じた。そこで、しばし黙ってコーヒーを飲んだあと、再び従兄たちにこう切り出してみた。
「でもどうして、人は結婚しなければならないのかな?」と。
「結婚しないと、子供が出来ないじゃないか」従兄たちは即座に答えた。
「自然出生があるんだから、別に結婚しなくても、子供は出来るんじゃないかな」
「自然出生はリスクが大きすぎるよ。君だってそれで、生まれた時少し障害があって、手術したって聞いたし、ジェレミー。社会的な立場がどうとか、道徳がどうとか言う以前に、それはやっぱり危険だよ」マーティンが頭を振って主張する。
「うん。それはわかるよ」
「それに、もしお互い好きな人が出来たら、その人といつも一緒にいたいと思うのが、自然な感情なんじゃないかな。僕には、実際の体験はないけどさ」
 恋愛ドラマを見慣れているパトリックは、そんな意見を述べた。
「うん。それもなんとなくわかる。でも……じゃあ、なぜ政府が結婚を拒否することがあるんだろう。愛し合っている二人なのに」
「さあ……適性の基準って、なんだろう? 不妊率や障害率が上がるリスクがある場合、ということは聞くけれど、具体的には僕にも、よくわからないなあ」
 首を傾げるマーティンに、パトリックが指を振って答えた。
「結婚適性で拒否されるのは、ある特殊な二つの因子があるかどうか、その組み合わせによって、ということらしいよ。その因子の片方をどっちかが持っていて、もう一方が持っていない場合で、なおかつ二人が一緒になった場合、不妊になるか、流産率が高くなる恐れが予期される場合なんだってさ」
「へえ、よく知っているね、パット」マーティンは意外な顔だ。
「僕の専門は歴史だからね。結婚適性が始まったのは三四世紀からで、そのころの記録にそう書いてあったんだ。それから基準が変わっていなければ、今もそうだと思うよ」
「そうだったんだ……」ジェレミーも感心した表情で頷き、そして聞いた。
「でも、その二つの特殊因子って、何?」と。
「そこまでは知らないよ。生理学の医学者でもなければね。記録にもなかったし」
「でも、君の勉強も時には役に立つね、パット」マーティンは笑っている。
「時には、かい? まあ、良いけど。少しでも認めてもらえたらね。自分でも時々、考えちゃうことがあるんだ。自分で望んだ道なんだから、全然後悔はしていないんだけれど、毎日毎日、いろんな文献を読みあさって、二ヶ月に一回、レポート書いて出して……それが、いったいどんな利益になるんだろうってさ。まあ、だから学術研究は非生産部門で、重きを置かれていない理由なんだろうなって」
「そう……君でも、そう思うことがあるんだ」
「ああ、僕でもやっぱり、そう思うさ」
 意外そうな表情のマーティンに、パトリックは苦笑して肩をすくめていた。
「だから学術研究員って、途中で無気力になったり、病気になったり、カウンセリングのやっかいになったりする人も結構いるんだって。今はまだ目新しくて、楽しい方が勝っているけど、それこそ五十年も続けるうちには、一度や二度は挫折しちゃいそうだし。そこから立ち直れないと、きっとそうなっちゃうんだろうな。それを考えると、ちょっと憂鬱だよ」
「そうか。じゃあやっぱり父さんみたいに、希望が蹴られて普通の仕事に就いていた方が、結果的には良かったのかな」
「とは言っても、一度決められた進路は変えられないし、僕も希望して叶った道なんだから、もう覚悟を決めるしかないけれどね」
 パトリックは頭を振り、そして言葉を継いだ。
「そう言えばね、学術員たちのネットワークというのが、あるんだって。そこへ一度メールを送ってみたら、四十才くらいの先輩が返信してきてくれたんだ。学術研究職の職員になるということは、人より旺盛な好奇心の証明なのだから、それを枯れさせないようにすれば、大丈夫だって。何か一つ大きな目標を定めて、それをライフワークに出来れば良いと、アドバイスしてくれたよ」
「それで、何か目標は見つかったの、パット?」ジェレミーは問いかける。
「とりあえず、一つは見つかったよ」
「それは何?」
「新世界の起源について、さ」
「新世界の起源?」
「そう。そもそもこの世界は、地球に生まれた最初の文明ではないっていうことは、みんなだって知っているよね。中等課程の一般教養で、少しは習うはずだから」
「ああ、それは僕も知っているよ。新世界の前には、旧世界があった。その前にはさらに古代文明があって、もっとさかのぼれば、人類が発生したのは約百万年あまり前だ、というんだろ?」
「そうそう、さすがマーティ、優等生だね」
「一般教養もスコアに入るから、少しは勉強したよ。ちょっと驚いたことは確かだしね。それに結局その分野は、宇宙の専門史の中にも入ってくることでもあるしね。原始惑星が誕生してから、生命の誕生を見るまでには、十一億年かかったとか……」
「ああ、『惑星の歴史』だね」ジェレミーも頷き、続けた。
「でも考えてみれば、無から命が誕生するんだから、そのくらいの年月がかかったとしても、不思議はないと思うんだ。むしろそんなに時がかかったとしても、命そのものが生まれたのは奇跡じゃないかって」
「まあね。無からの誕生だとすれば」パトリックも頷く。
「それで、その原始的生命から人間に進化するまでに、約三五億年かかっているわけなんだよ」マーティンが言葉を続けた。
「まさに、天文学的数字だね」
 パトリックが肩をすくめて、そんな感想を述べた。
「宇宙学の勉強は、本当に扱う数字が巨大だからね。この宇宙が誕生してから約百三十億年、太陽系は四七億年くらいで、太陽の寿命は約百億年。この銀河の直径は十万光年で、その中にある星は約千億個、さらにこの銀河と同じような銀河が、宇宙には一千億近くあるらしい。宇宙の果ては、今だわからず……そんな具合にさ」
「そんな巨大な数字を並べないでくれよ、マーティ。なんだか僕は頭がくらくらしそうだ」
 パトリックは頭を振り、そう抗議した。
「でも、そんなに広大な宇宙も、僕らが到達し得る範囲は、せいぜい太陽系の近辺しかないんだよね、今は」ジェレミーは小さくため息をつくと、言葉を継いだ。
「宇宙って、ちょっと人間の手には負えないほど、広すぎる気がするんだ。勉強すればするほど、そう思ってしまうよ。僕らにわかっていることは、ほんの一部に過ぎないんだ。多くのことが、まだまだ解明されていない。宇宙の誕生直後は、どんな様子だったのか。宇宙の赤ちゃんの中に、どうしてすべての物質が詰め込まれていたのか。宇宙の膨張に果てはあるのか。広さはどのくらいなのか、有限か無限か。宇宙の終焉はあるのか。ビックバンがあったように、ビッククランチも本当にあるのか。ブラックホールの内部は正確にどうなっているのか。ホワイトホールやワームホールは本当に存在するのか。ダークマターとは何か? 宇宙を支配する四つの力は、果たしてコントロールされているのか」
「ジェレミー、そんなに次から次へと並べられても、僕にはさっぱりわからないよ」
 パトリックが苦笑して、両手を上げた。
「ああ、ごめんね。専門的すぎちゃったね。でもこれって、宇宙の謎の一部にしかすぎないんだ。それに現在の研究じゃ、きっとそういった謎は解明されないね。宇宙開発局がやっていることは、宇宙船やステーションの建設と改良、太陽系の惑星の探索、それに無重力の実験なんかが主だもの」
「そうだね。実践重視だから。でも僕は、それでも良いと思っているんだ。そういう一つ一つの小さな成果を積み上げれば、宇宙に手が届く。たとえ全体からすれば、ほんの一部ではあってもね。それを通して、謎の解明にも役立つかも知れないじゃないか」
 マーティンが頷きながら、そう主張した。
「うん。まあ、そうだけれど……」
 ジェレミーは頷き、しばし黙った後、ちょっと笑った。
「あれ? でも僕たちは今、宇宙談義をしていたんじゃないよね。もともとは、パットの研究テーマじゃなかった? 新世界の起源っていう」
「そうだった! すっかり話がそれたよ」マーティンも笑っている。
「宇宙の壮大さから比べたら、新世界も形無しだよ」
 パトリックは苦笑し、そして言葉を継いだ。
「でもさ、僕らはこの世界に生きているわけだから、一応起源を知っても良いと思うんだ。ねえ、君たちは旧世界が滅びた理由を知っている?」
「いいや、詳しくは習わなかったよ。恐竜が滅びた、その前にも生物の大絶滅は何度かあった……それと同じようなレベルでしか、知らないな」
 マーティンが首を振り、ジェレミーも同意した。
「じゃ、新世界がどこから始まったか、知っているかい?」
「オタワ……だっけ? そう習った記憶があるけれど……」
 ジェレミーが思い出すように首をかしげ、そう答えた。
「うん。僕もそう教わったよ」マーティンも頷く。
「ああ、新世界で最初の政府が発足したのはオタワだよね。初代の大統領が就任して。それで、現在の大統領で一四一代目だっていうことは、知っていた? 初代から換算しての数字なんだ。でもさ、歴代大統領のファイルは、第二八代までしかさかのぼれないんだ。その前のファイルはないんだよ」
「そう。でもさ、大統領のファイルを百四十一人分見たって、あまりおもしろそうじゃないな」マーティンが苦笑して、そんなことを言う。
「まあね、僕も面白くはなかったよ。見たのは百十人ちょっとだったけど」
 パトリックは肩をすくめた。
「たださ、大統領のファイルだけじゃなしに、二六世紀以前のことは、どんな文献も残っていないんだ。いや、正確にはデータにアクセスできないんだよ。なぜなんだろうね。なぜ、それ以前の歴史を封印してしまうのか、僕にはよくわからないんだ。そこに、神秘を感じてしまうんだよ。学術研究生として専門課程を始めた頃、僕は真っ先にそこに惹かれたんだ。封印された黎明期の歴史を解き明かしてみたい。それが僕の課題かな。でもなかなか難しいんで、とりあえず隆盛期をテーマにして、レポートを書いているんだ。でも、そのあたりはどうも盛り上がりに欠けるから、あまり興味を引かれないんだ。だから、おざなりのレポートしかできなくて、僕自身はあまり満足してないよ」
「でも、封印されて見ることの出来ないデータなんて、どうやって調べるんだい? それはどうやっても、不可能なんじゃないかなあ」
 マーティンは首を傾げ、そうきいていた。
「ところが、完全封印されたわけじゃ、なさそうなんだ。その学術局職員たちのネットワークで、そんな議論がされていたのを見たら、どうも学術研究局所属者の――研修生も含めて――そのIDからしかアクセスできない専門文献のどれかに、その封印ファイルは紐付けされているらしいんだ。三つか四つくらい、ばらばらに。だからその紐付けされた文献を引き当てると、それを閉じた時に封印ファイルが現れるらしい」
「へえ。でも、どれに紐付けされているのかは、わからないのかい?」
「ああ。それに一回それを引き当てると、その紐付けは解けて、自動的に別の文献に紐付けされるらしい。それは完全にランダムだから、運よく引き当てた人に、どの文献かを聞くこともできないんだ。つまり、探すためには、学術IDからアクセスできるすべての専門文献に、かたっぱしからアクセスしていく必要があるんだ。それで、運が良ければ行き当たる。ただしその中を読むにはさらにパスワードがいる、そういうことらしいんだ」
「学術局IDからしかアクセスできない専門文献って、どのくらいあるの?」
 ジェレミーはそう問いかけた。
「わからない。でもたぶん、十万件くらいかな……」
「結構大変だね、それは」
 ジェレミーとマーティンは同時に声を上げた。
「ああ、まあ、君たちの宇宙研究ほどには、天文学的広大さはないけどね」
 パトリックは苦笑し、肩をすくめた。
「でも、それだけあれば、間が持てそうだなって気がしてるんだ。リンクをたどってアクセスしていって、途中で面白そうな文献に行き当たれば、読んでいるし。結構楽しいよ。本当に時間はかかりそうだけれどね。でもまあ、僕は学術局研究生だから」
「まあ、言ってみれば、それが君の仕事だからね」
 マーティンも笑って頷き、弟の腕をぽんと叩いた。
「君の興味がなんとか持続できればいいね、パット。僕も君が病気になったり、カウンセリングにかかったりして欲しくないし。まあ、がんばりなよ」
「うん。僕もそう思うよ。それに、なんだか面白そうだね」ジェレミーも頷く。
「ありがとう、マーティ、ジェレミー!」
 パトリックは二人を見、少し黙った後、時計に目をやった。
「さてと……もう零時だな。寝ないと、明日の勉強中に居眠りしそうだから、そろそろ行こうよ。姉さんたちだって、いくらなんでももう寝ているだろうしね」
「そうだなあ」
 マーティンとジェレミーも笑って頷き、彼らはそれぞれの自室へと帰っていった。



 それから二年あまりの月日が、穏やかに流れすぎていった。二年半以上前から、メラニーはカウンセラーとして現場に復帰していたので、三人の男の子たちは勉強の合間に、自分たちで昼食を整えるのが日課だった。たいていサンドイッチかホットドッグやハンバーガーにコーヒーという簡単なものだが、いつも彼らは『調理用素材』で買って、好きな具材の組み合わせを楽しんでいた。それにその方が『完成品』より、少し安いし、ちょうどいい気分転換にもなる。彼らはお互いに親密さを保ち、深めながら、おのおのの道の探求を深めていった。
 宇宙開発局コースの専門課程は通常よりかなり長い六年間で、ジェレミーとマーティンは今、三年が過ぎたところだ。専門課程に入ってちょうど三年後の、ジェレミーは十七才の、マーティンは十九才の誕生日に、二人には中間選別テストが待っていた。知識を測る一般テストと、自らの宇宙観をテーマにまとめる論文だ。
 二ヶ月早くテストを受けたジェレミーは、一般知識は優秀だが論文に難あり、とみなされて再提出となった。どうやら彼が書いた自らの宇宙観が、宇宙開発局の幹部たちの方針にそぐわなかったらしい。半年の猶予を与える。その間、カリキュラムの勉強はしなくて良い。自由研究期間とし、いろいろな文献を読んで自らの概念を再構築せよ。そして半年後に、もう一度論文を提出せよ。それの出来によって、カリキュラムを進めるか再度保留になるかが、決定されるというものだった。
 この通知を受け取った時、ジェレミーは言いようもなくがっかりした。社会人として独立するのが、少なくとも半年延びてしまった。また伯父の一家に、さらには自分の養育料をいくらか支払っているアンダーソン氏にも、余計な負担をかけてしまう。そんな心苦しさが、激しい落胆の原因だ。さらに再研修後の論文がまた試験官の意にそぐわなかったら、もっと卒業が遅れてしまうし、三回目に通らなかったら適正再検査となってしまって、コースから外れる危機さえ孕む。しかしどう書けば認められるのか、彼には見当がつかなかった。
「今の宇宙開発局の方針に添った形で書けば、良いんじゃないかな」
 マーティンがそうアドバイスしてくれたが、ジェレミーとしては自分の考えを曲げてまで、迎合する気にはなれなかった。でも、そうしなければ社会人になれないのなら、そうするしかないのだろうか。半年間いろいろな文献を読んで勉強し、自分の概念を再構築しろということは、つまり考え方を変えろということだ。その無言の圧力のもとで、ジェレミーは悩んだ。戸惑いながら彼はカリキュラムを中断し、参考文献の読書に一日の大半を費やした。最初は宇宙関係の本ばかりを読んでいたが、いくら読んだところで自らの概念を変えるものではなく、二ヶ月が過ぎてマーティンが中間選別テストを受ける頃には、ジェレミーはすっかり読書への意欲も失いかけていた。

 マーティンは、中間選別テストを無事にパスした。彼は元々ジェレミーほど現在の宇宙開発局の方針と違う考えは持っていなかったし、日頃から熱心に勉強したせいもあって、二級技術者Bのコースへと選別された。技術者とプログラマーは、かなりのエリートだ。特に宇宙開発局となれば、たとえ二級のBであっても、まさにあこがれの超エリートコースだった。息子の結果を知った時、アンソニーとメラニーは歓びと誇らしさのあまり、すぐには祝福の言葉が出なかったほどであった。メラニーは感極まって涙を流した。マーティンは両親の祝福と歓びをはっきり感じ、彼もまた誇らしく喜んだ。ローリングス一族の反応も大変なものだった。マチルダはおろかジェフリーまでもがわざわざ出向いて祝福を述べ、おまえは我が一族の誇りだとの言葉とともに、かなり多額のお小遣いをご褒美にもらった。息子のマルコムよりも高位のコースに選別されたことで、プライドを傷つけられたらしいダニエルとエリザベスはとうとう一言も言って来なかったが、アンソニーは自分の勝利の証と受け止め、まったく気にはしなかった。エセルの一家からは冷ややかで儀礼的な『おめでとう』が来た。しかし彼女からも多くは期待していない。シンシアとその夫からは、心のこもった祝辞が届いた。
 マーティンは誇らしく意欲を持ってカリキュラムに戻り、ますますその世界に没頭するようになった。宇宙開発局の専門学生たちのネットワークにも登録し、その仲間たちとつき合うようにもなった。日曜日の図書館通いも、ネットワークの会合や自宅での勉強のため、ほとんど同行しなくなったし、夜の語り合いにも、二、三晩に一晩くらいしかつき合わなくなった。とは言っても、マーティンの性格自体が、さほど変わったわけではない。優越感や傲慢さ、自己中心性といったありがたくない特性は、まだ彼には無縁だった。しかし彼は明らかに双子の弟とは違う世界の人間になりつつあり、またそうならなければいけないと思い始めたようでもあった。
 パトリックとジェレミーは、そんなマーティンの変化を受け入れ、寂しくはあったが、当然のことだろうと認めてもいた。

 パトリックは「気楽な学術研究局研修生」として、アクセスできる限りの参考文献を流し読みしながら、二ヶ月に一回のレポートを提出し続けていた。二六世紀から二九世紀までの「隆盛期の歴史概要」について五回、文明の隆盛期が終わり、世界が安定してもっとも平和な時代だと言われた、三十世紀代の平和と繁栄の時代、「パックス・エスペランタ」についても、都合七回のレポートを出している。さらに「人口増加政策」について三回、「科学の発達」をテーマにして三回と、三年間で十八回のレポートを提出した。最初の頃はまだ要領がつかめなかったために、あまり評価は受けられなかったが、最近のものについては、要点を落とさず、簡潔にわかりやすくまとめるという彼のレポート方式も板に付いてきて、高位の学術員から、「中等過程の参考文献に使えそうだね」とまで言われた。
 ただレポートの評点は高くなっても、パトリック自身はあまり満足してはいなかった。隆盛期もパックス・エスペランタも、たしかに意義のある時代ではあるが、それを簡潔にまとめるだけなら、単に教科カリキュラムの参考文献や資料書を、作っているだけにすぎない。学術研究局の所属者が実際に成し遂げることのできる形ある仕事と言えば、ほとんどそれしかないのだが、それだけでは物足りない。彼が子供の頃から抱いていた歴史への情熱とは、未知の国への探求の旅であったはずだ。誰もが知っている歴史の細部を読み、わかりやすくまとめるだけのものではない。
 学術局研修生となって三年が過ぎる頃には、パトリックはかなりはっきりとしたフラストレーションを感じるようになってきていた。いくら資料を当たってみても、黎明期への文献は見つからない。元々時間はかかるだろうと覚悟はしていたが、未知の国への探求は、あまりに困難だった。定期的にレポートを出さなければならないために、なんとか他の課題を見つけ、二週間ぐらいで資料を読んで書き上げてしまうのが常だが、残りの一ヵ月半あまりの探索期間は、彼をして徐々に苛立ちと退屈を感じさせるようになっていた。だが探すのを放棄することは、自分が求めていた道を選ばせた情熱を、捨てることでもあった。わかりきったことをまとめる文献の作成だけで、一生を終わりたくない――そんな思いの中で、彼は来る日も来る日も、データベースにアクセスし続けていた。
 
 ジェレミーもまた苛立ちを感じていた。あと三ヶ月で論文を再提出しなければならない。しかし彼の宇宙観は明らかに変わっていない。それではまた不可になってしまうのではないか。そうならないためには、どうすればいいのか――道は見えてこず、彼は深い混迷の中にいた。




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