Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第3章 扉は開いた(1)




 ジェレミーがアンソニー伯父一家の元で暮らすようになって、十ヶ月が過ぎた。十二月の初めにパトリックが退院してきてからは、また平穏で幸福な日課が続いていた。毎日カリキュラムが終わったあと、一、二時間ほど公園で運動をする習慣も変わっていないし、夕食後はパトリックの部屋で音楽やスポーツ談義をしたり、時にはマーティンも一緒にリビングでコーヒーを飲みながら、学科の話や将来のことを語り合ったりもした。

 冬が終わり、春が巡り、まもなく夏へと移り変わろうとする六月に、アンソニー・ローリングス一家は重大なイベントを、また迎えた。ヒルダとヘイゼルの結婚式である。
 ヒルダは通信局の二級プログラマー、アルバート・モリス・スタインバーグと、彼女の二二才の誕生日に結婚することが、かなり前から決まっていた。同じ頃、交際ネットワークプログラムで知り合った医師のエドガー・サンダース・ハーツと試しに会ったヘイゼルは、相手から望まれて交際を始め、三月に婚約した。ヘイゼルにとっては、サンパウロで別れたかつての恋人、ブルース・ターナーとの悲恋を思い切るための、賭けのようなものだったのかもしれない。黒い髪に浅黒い肌、背はあまり高くなくがっちりした体格で、物静かだがユーモアを解したブルース・ターナーと違い、エドガーは同じように静かなタイプではあるが、色白で濃いブロンド、鋭い青灰色の目と唇の薄い口元にどこか冷徹なものを感じさせる。笑ったり無駄口を利いたり、ということは、彼には無縁そうに見えた。
 アンソニーもメラニーも、多少の懸念を感じざるをえなかった。エドガーはたしかに一級エリートだが、彼が本当に娘を幸せに出来るだろうか? ブルース・ターナーと別れさせられた心の傷を、癒し得るだろうか――アンソニーはエドガーに兄ダニエルと同じ心を見、メラニーは娘の婿となる人に、温かみを見出すことが出来なかった。だがそれだけでは、相手から望まれた結婚を断る理由にはなり得ない。結婚は当事者同士の問題であるし、ヘイゼル自身がエドガー・ハーツと結婚するという意志を固めている以上、親がそんな理由で拒絶できるはずがなかった。結婚してみたら、二人の意志は通じ合うようになるかもしれない。幸福な家庭を築けるようになるかもしれない、そんな希望もあった。娘がメディックスと結婚するということによって、父母や兄たちを見返してやれる――明確には意識されなかったが、心の奥底にはそんなプライドもあった。
 エドガー・ハーツは男性の結婚限界年齢の、二八才だった。彼の誕生日は九月初めで、それまでに結婚しなければならない。そこで出席する親族たちのことも考え、どうせならヒルダと二組いっぺんに、彼女たちの二二回目の誕生日に式を挙げようということに決まった。エドガーも異議は唱えなかった。あまりぎりぎりに結婚するよりもその方がいいだろうと、彼も思ったようだ。

 ヒルダとアルバート・スタインバーグ、ヘイゼルとエドガー・ハーツの二組の結婚式は、六月下旬の晴れた日に行われた。もっともこの時代では、街は透明なドームに覆われているために、都市の外がどんな天気だろうと、雨にはならない。街の中に適度な湿り気を持たせ、街路樹や花壇の植物に水を与えるため、一日おきに二時間ほど、夜中の時間帯に人工的な雨が降るだけだ。しかし、この日は正真正銘の晴天だった。ドームの透明な天井を通して、一面真っ青な空が見える。降り注ぐ太陽の光がドームの強化アクリル樹脂を通して街にみなぎり、強い日差しを感じさせる金色の光の筋が、いくつかドームの屋根に反射して見えた。外気はおそらく摂氏二五度より高いのだろう。ドーム全体に空調が作動しているようだった。それによってもたらされるそよ風が穏やかに吹いている。
 アンソニー一家が住んでいる集合住宅には、そのクラスの住宅の規定例に漏れず、六棟に一つの割合で広場が設置されていた。広場には大きな集会所があり、結婚式はそこで行われる。慣例通りヒルダとヘイゼルは自宅で花嫁支度をしたあと、迎えに来た花婿に手を取られて、会場へ向かうことになっていた。
 花嫁衣裳は市の結婚センターで貸し出されるが、サイズとデザインは豊富にあったので、好きな衣装を選択できた。二人の花嫁衣装は、ともに純白の人工シルクで出来ていたが、お互いの美点と特性を引き出すようにと、まったく違うデザインだ。
 ヒルダの衣装はパフスリープの五分袖で、スカートも膨らんでいる。少しだけ開いた胸元に、人工パールのネックレスを飾っていた。袖と裾にはレースをあしらい、腰にはリボン結びにした白いサッシュ。胸元にもリボン飾りがついている。ヘイゼルのドレスは清楚な感じを出すために、シンプルなデザインだった。長袖で、胸元もスタンドカラー、スカートや袖も、あまり膨らみはとっていない。ほとんど飾りはついていず、襟元と袖口だけレースがあしらってあったが、ヒルダのものより、ぐっと控えめな感じだ。ヘイゼルも洋服の上からパールのネックレスを飾っている。
 二人とも慣例に従って髪を結い上げているが、ヒルダは巻き毛を生かして少しふうわりと、ヘイゼルは直線的な髪なのできゅっと強くまとめて、シニヨンにしていた。二人のベールはまったく同じものだ。白いバラの花飾りが少しだけついた、柔らかいシフォン地のベールである。
 二人はそれぞれで美しかった。ヒルダの美は春の輝き、ヘイゼルのしとやかさは秋の落ち着きのように。迎えにやってきた二人の花婿は、それぞれの花嫁を見た。白いタキシードを着たアルバート・スタインバーグは誇らしげに顔を輝かせ、黒のタキシードに身を包んだエドガー・ハーツは満足そうに頷いていた。
 集合住宅の広場まで、二組の花嫁花婿は、初夏の日差しの中を歩いていった。その後ろを、花嫁の家族が続く。アンソニーとメラニー夫妻、その後ろはマーティンとパトリックだ。ジェレミーはその行列に加わる権利が自分にあると思っていなかったので、他の親戚たちのように広場で待っているつもりだった。しかし「君も今や、我が家族の一員だからね」とのアンソニーの言葉に、娘たちを含めた家族全員が頷き、ジェレミーも気恥ずかしさとうれしさに頬を紅潮させながら、一緒に歩いている。ただ他の親族たちや両花婿の家族に気兼ねして、二人の従兄たちの間に隠れるようにしての行進だ。
 花婿の家族と両方の親族たちは、広場で待っているのが通例だった。広場には丸いテーブルがいくつも置かれ、そのまわりの椅子に座って待っている。花嫁花婿の一行が到着するとみな立ち上がって迎え、全員で集会所へ行く。そこにやってきた市の行政官の元で宣誓をし、指輪を交換し、結婚証明書が発行される。そして集会所の端末から結婚の登録と手続きをし、その後広場のテーブルの上で食事が振る舞われ、二時間ほど親戚縁者の顔合わせパーティとなる。そして一週間の新婚旅行に出かける花嫁花婿を一同で見送って、パーティは終わる。
 新夫婦は旅行から帰ると、新居に直行だ。そこには基本の家財道具はすでに整っているが、インテリアなどの細かい調度を整えるのに三日が与えられ、改めて夫婦二人の生活が始まる。夫は従来通りの勤務を続け、妻の方は最初の一年間は短縮勤務、その後子供を作り育てるために在宅軽勤務となり、子供が三歳になるまでは休職する。そして末子が専門課程に入った後、現場に復帰。それが一般的だった。

 結婚式のパーティは花婿の家族親族が二組いたため、とりわけにぎやかだった。四親等までの親族の結婚式と葬式に出席することが、社会的な通例となっているこの時代では、その日が平日であっても、遠方でも、そのための休暇を取ることが認められていたので、ほぼ全員がそこに顔をそろえている。スタインバーク家やハーツ家の大勢の人々に挨拶をして回るだけで、アンソニーとメラニーは忙しくあわただしげだった。花婿の家族親族たちとは、お互いにほとんど初対面だ。それゆえ、気も使わなければならない。マーティンやパトリック、それにジェレミーにとっても、同じだった。メラニーの実家、バートン家の人々も、ジェレミーはまったく知らない。いや、ローリングス家の人々でさえ、祖父母や伯父伯母以外、ほとんど知らない有様だった。彼ら共通の親族たちについては、パトリックとマーティンが一人一人紹介した。と言っても、近づいて面と向かって話をしたわけではない。親戚たちの自分に対する評価を知っているジェレミーに、その勇気はなかった。遠くから眺めて、教えてもらっただけだ。
 ダニエルの息子で、マーティンより半年以上早く宇宙開発局の専門コースに入ったマルコムは、その父にうり二つという印象だ。短く刈り込まれた黒い髪、薄茶色の瞳、白い肌。なるほど整った顔立ちだが、なんと酷薄そうな瞳だろう。双子の弟デイヴィッドの方が顔立ちは整っていないが、ずっと厳しさが和らいでいる。濃い茶色の巻き毛と同じ色の瞳の彼は、しかしどことなく茫洋として、不機嫌そうだった。兄よりも背が高くひょろっとしているが、なんとなくその長身を持て余しているようで、両手をポケットに突っ込み、誰とも話をせずにぶらぶらしているだけだ。彼らの妹で十二才のヘレンは、気位の高そうな美人という印象を受けた。艶やかな栗色の巻き毛をなでつけて、頭のてっぺんでリボンを止め、いつもつんと顎をあげている。茶色の瞳には人を見下したような、まるで小馬鹿にしたような光があった。
 エセルとバリーのハイマン夫妻には、モーリスの他にエレノアとブレットという双子の姉弟がいた。モーリスは、この場にいない。やはり、親戚の結婚式のような場には出たくないのだろう。そのことには、エセルもバリーも一言も触れなかった。アンソニーとメラニーに会った時も、マーティンとパトリックにちょっと挨拶をした時も、昨年の秋に息子がやったことに対する言及も詫びも、何もなかった。まるで、モーリスなど元から存在しないような印象すらあった。彼らの子供は、エレノアとブレットだけだというように。ただ、下の子供たちを作る時、性別を限定しないでおいて良かった。上手い具合に娘と息子が一人ずつ授かって、本当に幸いだ。ことに、ブレットが居てくれて良かった。もし、あのろくでなししか息子がいなかったら、本当にたまらないところだったと、ただ一言エセルが彼女の母マチルダに向かって、その存在を言及しただけだ。
 その伯母の子供たち、エレノアとブレットはジェレミーより二才年下だが、その年齢以上に、子供っぽい凡庸な印象が抜けなかった。エレノアはダークブロンドのまっすぐな髪に灰色の瞳、ブレットはそれよりちょっと濃い色合いのくせ毛で、目は茶色。お互いに顔立ちは似ていないが、二人とも特徴のない顔という点は同じだ。顔立ちはモーリスが一番整っていると言っても良いくらいだった。そして二人とも、揃って無気力で、無感動そうな瞳をしている。デイヴィッド・ローリングスのように不機嫌そうでもないが、つまらなそうな顔をし、所在なげにぶらぶらしながら、食べることだけに一生懸命だ。
 初めて見る五人の従兄姉たちを、ジェレミーは遠くから眺めていただけだった。パトリックやマーティンでさえ「あの連中は、ちょっと遠慮したいな」と、積極的には近づかない。ヒルダとヘイゼルは慣例上彼らに声をかけたが、その反応はちっとも熱心なものではなかった。今日の主役の花嫁たちに対してさえそうなのだから、その弟たちや、ましてや親戚中から疎まれているジェレミーに対しての反応など、押して知るべしだろう。

 だが、ローリングス家の親族の中には、忘れ得ぬ人――母がいた。夫とともに十年前、ヨーロッパへ移住したシンシア・アンダーソンもその家族とともに、姪たちの結婚式にやってきていたのだ。見知らぬ顔の波の中から、いつも心に残るその面影をかいま見た時、ジェレミーは激しい胸の高鳴りを感じた。
 十一年近い歳月も、シンシアの面影をあまり変化させてはいなかった。以前よりもいくぶんふっくらとし、女らしい穏やかさがつけ加わった以外は。彼女はローズピンクのワンピースを着て、艶やかな黒髪を三つ編みに編んでぐるっと頭に巻き付け、ピンクの花飾りのついた帽子をかぶっていた。腕には一歳くらいの、黒っぽい巻き毛の小さな男の子を抱いている。この子がたぶん去年の春に生まれた末っ子のジェームス、通称ジミー坊やと呼ばれる子なのだろう。母のそばに長身のアンダーソン氏が、寄り添うように立っていた。整った風貌だが、年月は彼にはシンシアほど親切ではなかったようだ。濃い茶色の髪には少し白いものが混じり、かなり恰幅も良くなっている。しかし彼が善良な夫であり良き父であることは、ジェレミーにも感じられた。
 夫妻を囲むように、三人の子供たちがいた。九才くらいの黒髪の男の子と、四、五才の二人の女の子。女の子たちはお互いに似てはいないが、二人とも器量よしだった。金褐色のまっすぐな髪の姉娘レイチェルは母シンシアによく似た美人系の顔立ちで、黒に近いこげ茶色巻き毛の妹娘ルースは、あどけなく可愛いい感じだ。二人とも髪を長くし、片側の髪を少し結んで、色違いのリボンを飾っていた。レイチェルはクリーム色、ルースはオレンジ。二人が着ているフリルのたくさんついたワンピースも、同じ型だが、色はリボンと同じにしていた。年長のテレンスは母に生き写しで、将来のハンサムボーイをありありと予感させる顔立ちだ。黒髪の巻き毛、濃い灰色の瞳、白い肌にくっきりと整った目鼻立ち。彼は幼い妹たちの面倒をよく見、遊ばせてやったり、料理を取ってやったりしていた。妹たちも兄を無邪気に慕っているようで、いつもくっついて歩いている。
 母の子供たち――自分の異父弟妹に当たる幼い子供たちが、他の従兄姉たちのように冷たくなく、無気力でも不機嫌でもなく、子供らしい元気にあふれ、かわいらしい様子であるのを、ジェレミーはなんとなく嬉しく感じた。会って、話が出来たらいいだろうに――そんな切望も感じた。だが、その勇気は出なかった。
『あなたは、いない方が良かったの』
『あなたがいては、ママは幸せになれない』
 母が嫁ぐ時、伯母と祖母に言われた言葉が、今なお心に響いている。しかも、まわりにはアンダーソン氏だけでなく、当の祖父母や伯母夫妻、さらにダニエル伯父の一家もいる。自分がそんな出過ぎた振る舞いをしたら、彼らからどんな叱責を受けるかわからないし、間違いなく母に余計な心労と気遣いを強要してしまうだろう。
 伯母や祖母の言うとおりかもしれない。自分の存在は、母にとっては邪魔なのだ。自分がいては、母は幸せになれないのだ。その苦い思いが、母と弟妹に会って話をしたいというジェレミーの当然な、強い願望を打ち負かした。ことに幼い弟妹たちにとって、自分のような父親知れずの兄の存在を知らせることは、強いショックを与えてしまうだろう。行くべきではない、と。
 彼は頭を振り、ただ遠くから飢えたように母の横顔を見つめ続けた。その母がふと振り返り、自分を見つけそうになった時には、あわてて従兄たちの後ろに隠れた。
「どうして隠れるのさ。せっかく会えたんだから、行って話してくればいいのに」
 パトリックに怪訝そうに言われた時にも、ジェレミーは強く頭を振った。
「いいや、僕は行けない。行かない方がいいと思うんだ」
「どうしてさ? 本当の親子なのに」
 首を傾げるパトリックに、マーティンが言う。
「ジェレミーはきっと、アンダーソンさんに遠慮しているんだよ」
「ああ、そうか。でもアンダーソンさんだって、ジェレミーの存在を知っているんだろう?」
「そうだろうけれど、やっぱり実際に面と向かって会うのは、ためらわれるんじゃないかな。アンダーソンさんにその気があれば、向こうから会いに来ているよ」
「そうだよね……」ジェレミーはうなだれた。
「でもまあ、焦らなくても、そのうち機会は来るかもしれないよ」
 パトリックが励ますように背中を叩いた。
「シンシア叔母さんの方に君に会いたい気があれば、なんとか来てくれるかもしれないし、かりにそうでなくたって、がっかりしすぎない方がいいよ。いずれ、チャンスが来るかもしれないからね。今じゃなくてもさ」

 宴はお開きに近づいてきた。パトリックとマーティンがバートン家の従兄たちに呼ばれて行ったので、しばし一人になったジェレミーはそっと広場を抜け出し、集会場の裏庭へと出た。にぎやかなパーティのさざめきが聞こえては来るが、このあたりは会場ではないので、人はいない。ジェレミーは気疲れを感じていた。それに従兄たちがいなくなると、身の置き所がないような気分を感じる。エセル伯母が自分を射るように見、ふいっと顔を背けた。ダニエル伯父はちらっと軽蔑に満ちた一瞥を投げ、すぐにそっぽを向いた。祖父母は完全に無視した。そんな中にいるよりは誰もいない静かな場所で、従兄たちが戻ってくるまで、疲れた神経を休めたい。
 ジェレミーは深くため息をついた。集会所の裏手に一本、大きな木が生えている。その木陰は陽が当たらず、少し涼しく感じた。木陰に立って上を見上げると、緑の葉の間から光がこぼれ、青い空が見える。ジェレミーは思わずその美しさに見とれた。
 
「ジェレミー」
 突然、背後から自分を呼ぶ声がした。柔らかく低く、心地よい響き。十年以上前に聞いたきりだったが、決して忘れ得ぬ声だ。ジェレミーは振り返り、相手の姿を認めた。驚きと歓びに、思わず頬が紅潮する。
「母さん!」
「覚えていてくれたのね、わたしを」
「当たり前だよ。忘れられるはずはない」
「わたしも忘れてはいなかったわ、あなたを……」
 シンシアは末っ子を腕に抱いたまま、十一年ぶりに見る最初の子供を、じっと見つめていた。別れた時には四才の子供だったジェレミーは、もう来月、十五才だ。彼は母を追い越すほどに背が伸びていた。均整の取れた、すらっとした身体を新調の白いシャツと紺色のズボンに包み、美しく整った顔立ちを縁取る金髪の巻き毛の先端が、肩に触れそうだった。その表情は見違えるように明るく、生気に満ちていた。
「大きくなったのね、ジェレミー」
 シンシアは感嘆を込めたような口調で言った。その目が少し潤んだ。
「うん……でも母さんは、あまり変わっていないね。僕が覚えている頃と」
 ジェレミーは軽く頷いて、母を見つめ返した。
「そう? わたしも歳はとったわよ」
 シンシアは、かすかに微笑した。
「十一年近くたったのね、あれから。元気にしている?」
「うん。元気だよ。それに去年の九月にアンソニー伯父さんに引き取ってもらってからは、毎日楽しいし、幸せなんだ」
「そう……本当によかったわ。兄さんたちには感謝しなければね」
「母さんは元気なの? 今は幸せ?」
「ええ……まあね。元気よ。幸せとも、言えると思うわ。ジョンと結婚してから、四人の子供が産まれたの。あなたも知っているかもしれないけれど。この子が末っ子のジミー。先月、一才になったばかりよ。今は眠っているけれど」
「本当だ……かわいいね」
 ジェレミーも、赤い頬をしてぐっすり眠っている幼子をのぞき込んだ。
「このくらいの子供って、ものすごく手がかかって大変なのよ。テレンスもレイチェルもルースもそうだったわ。ジミーもね」
 シンシアはかすかな笑みを浮かべたまま、腕の中の子供を揺すった。
「でもね、ジェレミー……ひどい話だけれど、わたしはあなたがこのくらいの時を、覚えていないの。あなたもこの子たちのように、きっとわたしを求めて泣いていたはずなのに、わたしはあなたのことを、まったくかまい付けなかったのよ。それこそ機械的に、あなたを世話しただけだったわ。時間が来たらおむつを替えて、ミルクを飲ませる。言葉をかけることも抱くこともしないで、ただ寝かせておいたの。あなたにミルクをあげる時さえ、わたしはあなたを寝かせたまま哺乳瓶をくわえさせて、本を読んでいたのよ。動き始めるようになったら、サークルの中に入れて、放っておいて、あなたの部屋に様子を見に行くことすら、まったくといっていいほど、しなかったわ。ああ、わたしはなんてひどいことをしていたのかしらって、結婚してテレンスを自分の手で育ててみた時に、初めてそう実感したのよ。赤ん坊は、こんなに多くを求める。こんなに手をかけてやらなければならない存在なんだ。なのにあなたに対しては、まったくそれをしなかった。親として、義務の怠慢以上の罪だって。それにわたしは結婚する時、泣いて追いかけるあなたを捨てて、ジョンと行ってしまったわ。あなたの呼び声ははっきり聞こえたのに、振り向くことは怖かったのよ。いつかあなたにまた会えたら、真っ先にそのことを謝りたいと思っていたの。本当にごめんなさいね。謝って済むことではないけれど……」
「母さん……」
「いいえ、あなたにお母さんって呼ばれる資格は、わたしにはないわ」
 シンシアは悲しげな微笑を浮かべ、首を振った。
「わたしはあなたに、何もしてあげられなかった。ただ、生んだだけよ。嫁ぐ前だって、ほとんど手をかけてあげられなかったし、それからは、なおさらだわ。いつの間にかあなたは、もうこんなに大きくなっている。でもわたしはあなたの成長に、何一つ関わっていないのよ。だから……」
「でも僕にとって、やっぱり母さんは母さんだよ」
 ジェレミーはきっぱりと、そう遮った。
「迷惑だったら、母さんはそう思わなくても良いけれど、僕にとってあなたは、世界でたった一人の母だから。いつまでも……」
「ジェレミー……」
 シンシアの目はさらに潤み、涙がひと筋零れ落ちていた。
「ごめんさないね。でも、嬉しいわ。こんな、母親らしいことは何一つしてあげられない名ばかりの親でも、あなたが認めてくれるのなら……それが迷惑ですって? とんでもない。わたしにとっても、あなたはいつまでも息子よ。何もしてあげられないのがもどかしいけれど、それでも愛しい我が子には変わりないわ」
「ありがとう、母さん。そう言ってくれるだけで、本当に嬉しいよ」
 ジェレミーは手を伸ばして、母の腕に軽く手を触れた。
「僕は、母さんに会えてうれしかった。話したいなって思ったけれど、迷惑になるんじゃないかなって思えて、行けなかったんだ。でもここで話せて、本当に嬉しいよ。母さん、わざわざ来てくれたんだね……母さんが僕を思ってくれている。もうそれだけでじゅうぶんだよ。それ以上は望まない。だって母さんには、大事な家族がいるものね。旦那さまと、四人のかわいい小さな子供たちが。僕はもうある程度大きくなったし、母さんの他にも大好きな人たちが出来て、今は幸せなんだ。だから母さんも今の幸せを大事にしてね、いつまでも」
「ジェレミー……ありがとう」
 シンシアは末っ子を抱いたまま、うつむいた。その頬を、涙が濡らす。
 遠くから、かすかに母を呼ぶ声が聞こえた。アンダーソン氏らしい。ジェレミーは母にハンカチを渡し、そして言った。
「行った方がいいよ、母さん。僕も、もう少ししたら戻るから。もうじきパーティも終わりみたいだし。母さんたちは、いつまでニューヨークに滞在予定?」
「今、ジョンの仕事が忙しいから、それほどのんびりとはしていられないの。今日は父さん母さんの家に泊めてもらって、明日の朝マリンライナーで帰るわ」
 シンシアは片手に持ったハンカチで涙を拭いながら、そう答えた。
「そう……じゃあ、ここでお別れだね。僕は見送りに行けないから」
「ええ。そうね……元気でね、ジェレミー」
「うん。母さんもね……」
「これ、返さなくても良いかしら。持っていたいの」
 シンシアはハンカチを握り締め、息子の顔を見る。
「うん。大丈夫だよ」
「ありがとう」シンシアは頷くと、それをワンピースのポケットに入れた。そしてその手を、ジェレミーに差し伸べた。ジェレミーも手を伸ばし、母の手に触れた。
「それじゃあね……」
 シンシアは微かな笑みを浮かべると、踵を返して、歩み去っていった。
「うん……」ジェレミーは頷き、母の後姿を見送った。微かな寂しさは消せないが、十一年前とは違い、その気持ちは穏やかだった。

 パーティが終わると、花嫁たちは旅行服に着替えるために、いったん自宅へ戻った。ヒルダはローズピンク、ヘイゼルは薄緑色の新調の旅行服は、それぞれでよく似合った。花婿たちは集会所の控え室で着替え、再び花嫁たちを迎えにいく。そしてスタインバーク夫妻はオーストラリアへ、ハーツ夫妻はヨーロッパへと、一週間の予定で新婚旅行に向かう二組の新しい夫婦を、親族たちは祝福を込めて見送った。その後、アンソニーとメラニーは出席者全員に簡単に挨拶をし、祝ってくれた感謝のしるしに、お茶の葉とお菓子を配る。結婚パーティの主催は花嫁側という慣例のためだ。
 
 結婚式のセレモニーが終わり、お客様たちを見送ると、会場の片づけは臨時に雇い入れたロボットメイドに任せて、夫妻は息子たちとともに家に帰った。
「今日の夕食は、簡単にすませましょう。すっかり疲れてしまったわ」
 メラニーがため息をつきながら、物憂げに首を振った。
「ああ、残り物のサンドイッチとお茶で十分だよ」
 アンソニーも少し疲れたような笑みを浮かべていた。
「やれやれ、やっと終わったか……しかし、ほっとしたと同時に、寂しいものだな」
「ええ、そうですね……」メラニーも頷く。
 それは、マーティンやパトリックも同じだったようだ。そしてジェレミーも。夕食を取るためにダイニングテーブルについた時、いつも座っていたヒルダとヘイゼルの席に空いた空間を、心の中にも感じた。彼女たちには、これからそれぞれの家庭がある。ここに戻ってくることは、もはや数えるほどしかないだろう。娘たちの華やかな声が消えた今、一家は改めて、彼女たちの存在の大きさを思った。
「幸せになって欲しいわ。ヒルダもヘイゼルも……」
 メラニーが空いた座席に目をやりながら、熱情のこもったような声で呟いていた。
「あの娘たちは、これまでに大きな悲しみを味わっているから。だからなおさら、幸せになって欲しいのよ。これまでの分も」
「そうだな……」アンソニーも深く頷いている。
「アルバートさんは良い人だと思うよ。話も面白いし、よくわかってくれるみたいで」
 パトリックのその意見に、アンソニーも同意しているようだった。
「ああ、彼は好人物だよ。僕もそう思った。彼ならきっとヒルダを愛して、幸せにしてくれるだろう。あの娘の過去のことも、なにもかも知った上で、それでも受け入れてくれたんだ。僕の妻になる人はヒルダしかいない、とまで言い切ってくれたしね」
「ええ、あの人はヒルダのことを心から愛していると思うわ。でもね……」
 メラニーはためらうように言葉を止めた。しかし、夫や息子たちも彼女の言わんとしていることはわかったようだ。
「エドガーさんは……まあ、真面目なエリートだね」と、パトリックが肩をすくめ、
「社会的な立場は最高だよ。メディックスなんだから。それに真面目な人だから、夫としては良いタイプなんじゃないかな」と、マーティンは弁護する。
「それはたしかだな」アンソニーは頷いた。
「ただ問題は、ヘイゼルの気持ちの方だ。あの娘がいまだに昔の傷を引きずっていなければいいが……」
「結婚生活がうまく行って幸せならば、きっと乗り越えられるわ。ただ、あの人で大丈夫かしら。それが、なんとなく心配なのよ」メラニーは不安げな口調だ。
「まあでも、ヘイゼルとエドガーはお互い物静かで真面目な点は似ているから、案外相性はいいかもしれない。今から心配したって仕方がないな」アンソニーは首を振った。
「二人には、本当に幸せになってもらいたいです」
 ジェレミーには、それしか言葉がなかった。それが彼のすべての思いだった。
「ヒルダさんもヘイゼルさんも、本当に親切にしてくれて、まるで本当の姉さんのような感じがしていたから。本当に二人とも、幸せになってほしいなって……」
「僕らもみんな、そう願っているよ。自分だけでなく、愛する人たちには、幸せになってもらいたい、とね。しかし、ヒルダとヘイゼルの場合、彼女たちを幸福に出来るのは、僕らではない。旦那さまたちだよ。それは娘たちが旦那さまたちを、いかに幸福に出来るか、ということでもあるんだ。親兄弟には、タッチできない問題だよ」
 アンソニーはやんわりと肩をすくめ、言葉を継いだ。
「しかしそれでも、娘たちの幸福を願っている。僕たちみんなはね。自分たちが無力でも、その決定を、誰か他の人の手にゆだねざる得なくとも、願うことはやめられないんだ」
 この言葉は前にも聞いた。マーティンとパトリックの適性試験の日にメラニーが言っていたことだ。それこそがまさしく伯父一家を優しく輝かせている心情であることを、ジェレミーは感激のうちに知ったのだった。

 夕食が終わり、三人の男の子たちが自室へ引き取ったあと、アンソニーとメラニーはリビングでお茶を飲みながら、しばし語らった。いつもの家が、いやに広く感じられた。子供が巣立っていくことは喜ばしいことなのだが寂しくもあると、二人とも改めてそう思っていた。遅くともあと十年もすれば、息子たちも結婚して、巣立っていってしまうだろう。さらにはジェレミーも。あとには自分たちだけが残される。それが家族の宿命なのだと。




BACK    NEXT    Index    Novel Top