Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

第2章 望む道(1)




「ところで、アンソニー。あれから一ヶ月たったけれど、あの子の様子はどう?」
 ひとしきり世間話や一族の噂が尽きると、マチルダは珍しくそう切り出してきた。
 アンソニーは妻を伴って、同じ市内に住む両親のコンパートメントを訪ねていた。父親ジェフリーも在宅で、珍しくリビングに顔を出している。
「あの子って? ああ、ジェレミーのことかい?」
 アンソニーはチョコレートケーキを一つ頬張り、香りのいい紅茶をすすってから頷いた。
「元気にしているよ。パットがあの子にかかりきりでね。勉強が終わると音楽やらドラマの話を教え込んだり、マーティンとも一緒に三人で、外でスポーツをやったりしている。おかげでかなり血色も良くなったし、表情も明るくなったよ。相変わらずしゃべれないけれどね。でも筆談でも、今のところ十分コミュニケーションは取れているよ」
「まあ、そうなの。でも、パトリックももうすぐ適性テストなのに、のんびり人の世話なんかしていて、大丈夫なの?」
「適性テストなんて、普段の成績と本人の能力次第なんだから、今から必死で勉強したって、間に合わないよ」アンソニーは軽く肩をすくめた。
「まあ、それはそうなんでしょうけれどね……」
 マチルダは頷き、思案顔でしばらくお茶をすすっていたが、やがて小さなため息とともにカップを置き、傍らに座っている夫を見やった。
「ねえ、ジェフリー。あなたから、切り出して下さいよ……」
「ああ」ジェフリー・ローリングスは頷いたのち、ゆっくりとお茶を一口すすり、小さく咳払いをしてから、口を開いた。
「実はな、アンソニー。私たちは、ここを引っ越すことにしたんだ」
「おや、そうですか……」
「ダニエルの家の一件隣が空いたから、そこを買ったんだ」
「それで、ここは売りに出したのよ」
 マチルダがあとを引き取るように、そう説明している。
「ダニエルとエリザベスから、ちょうどあの子たちのコンパートメントの隣の隣が空いたから、来ないかっていう申し出があってね。できたら子供たちのそばに暮らしたいと、前から思っていたし。ここを売ったお金で、代金は払えるの。いくぶん差額も出るから、それはダニエルに渡そうと思って。あの子たちには、これから世話になるんですからね」
「ああ、それには僕は、別に何の異存もないですよ。良かったじゃないですか。兄さん一家は、お父さんお母さんの自慢ですからね」
 アンソニーはたいして皮肉を交えない口調で答え、軽く肩をすくめた。
「それで、だ……」
 ジェフリーはもう一度お茶を口に含み、しばらく黙ってから続けた。
「今おまえの所にいる、シンシアの子供だが……ダニエルのそばに行く以上、私たちと一緒に暮らすことはできんのだ。感心せんと言うのでな。子供たちにも悪い影響を与えるかもしれないと、ダニエルやエリザベスが気にするんだ」
「まあ、そんな……」メラニーが憤慨したように、小さな声を上げた。
 マチルダはその言葉に注意を払うそぶりは見せず、夫の言葉を引き取っている。
「かといって、シンシアに今さら引き取れなんて、言えるわけはないし。これ以上アンダーソンさんにご迷惑をかけるわけにはいかないのよ。それでなくとも、アンダーソンさんには、あの子の養育費を少し入れてもらっているんだから」
「つまり、僕たちに、このままあの子の面倒を見て欲しいって言うことだね」
 アンソニーは苦笑しながら、父母の言わんとしているところをひきとった。
「ええ、そうなの。あなたたちには本当に申し訳ないんだけれど、一時的にでもあの子を引き取ると言い出してくれたのだから、もしよかったらあなたのところに、ずっと置いてもらえないかしらと思っているのよ」マチルダは重々しい表情で、頷いていた。
「もちろん、今までアンダーソンさんからいただいてきた養育費は、あなたの所へ送るようにしてもらうわ。ええ、それはまったく、アンダーソンさんの好意なの。あの人は本当にいい人よ。面倒はみられないから、せめて金銭的な援助だけでもさせて下さいって。もっとも、それだけで足りはしないけれど、いくぶん足しになるでしょうから。それに政府からの未成年養育手当も、あなたのところに送るから、あなたにもそれほど負担にはならないと思うのよ、アンソニー」
「良いよ。うちでは元々それも考えていたからね」
 アンソニーは肩をすくめて頷いた。
「まあ、それは良かったわ」
 マチルダはほっとしたようにため息をつき、ジェフリーも明らかに安堵の表情を見せた。
「かまわないよ。血のつながった甥なんだし、あの子はいい子で、僕らはみんな、ジェレミーが気に入っているのだから。ヒルダやヘイゼルは新しい弟のように面倒を見ているし、パットとマーティにとっては良い友達なんだ。みんな、上手くやっているよ。僕らもあの子が居ることにすっかり慣れてしまったし、こうしてみると元からいて不思議はなかったんじゃないか、なんて気になるほどだよ」
 その言葉を聞くと、ジェフリーもマチルダも不審げにまゆをひそめていた。あんな子が気に入っているなんて、やはりこの子は変わっている。卑しい嫁のおかげで、ますますその傾向が強くなったようだ――その表情は、明らかにそう語っているようだ。アンソニーもメラニーも、そのことを即座に理解したようだった。そして息子はあきらめ気味に、嫁の方はいつものように気持ちを傷つけられた表情で顔を見合わせ、苦みを帯びた笑いを漏らしたのだった。
「まあ、とにかくお茶を、もう一杯いかが」
 マチルダがその場を取り繕うように、笑顔を浮かべてポットを持ち上げた。
「ああ、いただくよ。ニューヨークへ帰ってきて、やっとまともなお茶が飲めた。うちでは南米暮らしが長かったせいか、コーヒー党なんだけれどね」
「そう。うちの紅茶は自慢なのよ。あなたも昔は大好きだったわよね」
「今だって、好きだよ。この母さん特製のブラウニーもね」
 アンソニーはケーキをもう一切れ取り上げて、頬張った。
 特製といっても、完全な手作りではない。食材は『完成品』と、『調理用素材』とに分かれている。『完成品』は文字通り出来上がったもので、料理も嗜好品も、調理器に入れてあたためるか、食品によってはそのまま、食卓に出すことができる。『調理用素材』は、最後のひと手間を残した状態のものだ。鍋に入れて煮る必要のあるもの、たとえばシチューやスープの素材がパック詰めされたものや、調理器で焼く必要のあるもの――生で冷凍した状態のローストビーフやミートローフなどだ。マチルダはこのブラウニーを、『調理用素材』で買っていた。完成品もそうだが、材料の配合は好みで選べるので、そこに彼女独自のレシピを作ることができた。『調理用素材』なら、焼き加減も調整できる。コーヒーや紅茶の銘柄もいくつかあり、大衆的なものから少し値の張るものまで選べた。品物は一週間に二回、家庭の端末から注文するのが一般的で、翌日配送ロボットが届けてくれるのだ。
「たくさんお上がりなさいな。あなたが好きだから、張り切って作ったのよ、アンソニー」
 マチルダは笑顔で息子のカップにお茶を注いだ。変わり者かもしれないが、やはり彼女にとってアンソニーは、お気に入りの息子なのだろう。
「それで、引っ越しはいつだい?」
 アンソニーは如才ない調子で、そう聞いた。
「今月の末にね。引っ越したら、新しい連絡先を教えるわ。たまにはまた、遊びにいらっしゃい」
「ああ、ダニエル兄さん一家の目に留まらない時に、出来るだけそっと行くよ。兄さんは、あまり僕らがお好きじゃないようだからね」
「アンソニーったら、まあ。相変わらずダニエルとは気が合わないのね。あの子が出来すぎるから」マチルダは苦笑して、肩をすくめている。
「たしかに、僕は兄さんに劣等感のようなものを持ったこともがある。おかげでカウンセリングを受けてみようなんて気になって、メラニーと知り合ったんだから、悩むのも、良いところはあったけれどね。でも、それは僕だけじゃない。兄さんは僕を嫌いだからね」
 率直な言葉に、ジェフリーとマチルダは当惑したように顔を見合わせていた。
 ダニエルとアンソニーは、たしかに小さな子供の頃から気質が合わなかった。お互いの性向や考え方が、まったく違うためだろう。一緒に遊ぼうとすると、必ず喧嘩になった。それゆえ初等課程に入る頃には、お互いにほとんど交わりを持たなくなった。ダニエルは弟を頭が悪くて、だらしがない変わり者だと軽蔑していたようで、アンソニーは兄を生真面目で融通の利かない、自己中心的で冷徹な人間だと嫌悪した。ダニエルは成績優秀なエリートで、父のお気に入り。アンソニーは成績の方はぱっとしないが、妹たちからは慕われていて、母のお気に入りでもあった。そしてこの兄弟は、お互いに嫌いあいながらも、お互いのコンプレックスの元でもあったようだった。ダニエルの方も、弟の人を引きつける才覚を羨んでいるようなことを、ただ一度だけ漏らしたことがあったからである。
「でもまあ、とにかく仲良くやってちょうだいよ。あなたたちだって、もう良い大人なのですからね。それに、ダニエルはローリングス家の総領なのだから」
 マチルダは苦笑してそう諫め、アンソニーは肩をすくめて答えた。
「わかっているよ。僕だってもうそろそろ娘を結婚させようという、いい年の大人なんだからね。一族仲良くやろうという気も分別も、持っているよ」
「そうよね。脅かさないでちょうだいよ、アンソニー。あなたは冗談が好きなんだから。年寄りにはこたえますよ」
 マチルダはほっとしたような顔で、再びカップを取り上げていた。

「だが、ここが人手に渡るのか。そう考えると、ちょっと寂しいな」
 アンソニーは両親の家をあとにする時、振り返ってそう漏らした。
「あなたの生まれ育った家ですものね。でもお義父さんも七二歳ですもの。少し身体を悪くしてらっしゃるようだし、少し心細くなられたんじゃないかしら。ちょうどダニエル義兄さんの近くの家が空いたのが、良い機会だったんだわ」
 メラニーはその手をかけて、少し同情しているように頷いた。
「まあね。兄さんはなんといっても総領だし、父さん母さんの自慢の息子だ」
「あなたはまだ、ダニエル義兄さんに感情的なしこりを持っているの?」
「いや。もう昔のことだ。今は別に何とも思っていやしないよ。兄さんはたしかに頭はいいし、社会的に成功している。でもそれで偉いとは、僕には思えない。それだけだ。僕は兄さんを好きじゃない。なまじエリートで挫折なしに育ってきたせいか、ただ一つの規範しか認めないし、人の心の痛みなんて気にもとめない。冷たい人だよ。でもまあそんな人でも自分の兄には違いないんだから、憎みはしない。それだけさ」
「ただ一つの規範しか認めず、人の心の痛みを気にしない……そうね。言っては悪いけれど、たしかにそうかもしれないわ、ダニエル義兄さんは。それにお義父さんもお義母さんも、エリザベスさんやエセルさんもそうじゃないこと?」
「まあ、そうだね。ただ母さんやエセルは、もともとそうだったわけではなかった。父さんや兄さんに影響された部分が大きいんだろう。母さんは今でこそああだけれど、娘の頃は朗らかで、今よりは心の広い人だったらしい。エセルも昔はいい子だったんだ、優しくて、面倒見が良かった」
「まあ、そうなの……」
「君には意外だろうね、メラニー。君には、みんなきつい面しか向けないからね。シンシアでさえ、最初の頃は君に心を開かなかったようだったし。でも、あの娘は別に偏見を持っていたわけではないんだよ。ただ、家族の結婚という事実が、ショックだっただけさ」
「そうね。エセルさんもシンシアさんも、ずいぶんあなたを慕っていたものね。わたしのような冴えない女に取られたのが、悔しかったのでしょう。ええ、エセルさんには昔、はっきりそう言われたわ。『あなたなんて、兄さんにはふさわしくない』って」
「そんな過ぎ去った昔のことなんて、忘れるさ。君はうちの一族から言われたことを本気に取りすぎているし、いつまでも覚えすぎているようだね、メラニー」
「そんなつもりでは、ないのよ」
 メラニーは少しきまり悪そうに、顔を赤らめていた。
「たしかに昔は、いろいろあったさ。でももう僕らはみんな、すっかり中年の域だ。それぞれの家族を持って、みんな自分の家族の心配で、精一杯なんだ。僕らもそうさ。今のところ、娘たちの結婚問題と息子たちの適性検査、それで頭が一杯なんだろう?」
「ええ、そうよね」メラニーは頬に手を当てて、考えるように少し黙った。
「わたしが一番望むことは、息子たちがそれぞれ望む適性に合格すること。それにヒルダとヘイゼルに、すてきな結婚相手が見つかることよ。ことに娘たちは、二人ともつらい目にあってきているんですものね」
 彼女は思い出しているようだった。それは、アンソニーも同じだろう。忌まわしい記憶――それは一年以上前、まだ二十歳前だったヒルダを見舞った災厄。口実を作って呼び出され、出かけていった彼女が数時間後、血を流し、よろめくように家に帰ってきた時、アンソニーとメラニーは何が起きたのかを、すぐに悟った。その後ヒルダはしばらく部屋に閉じこもっていたが、やっと立ち直り、元通りの明るい娘に戻った。そのとたん、新たな災厄がふりかかってきたことを悟る。妊娠したことがわかった時、彼女は戸惑いながらも、『赤ちゃんに罪はないんだから、産んで育てたいわ』と、気丈に言い切った。その子供がついにこの世に生を受けることなく消えた時、娘は三日間泣き通した。死んでしまった我が子を慈しんで。だが長い目で見れば、これは幸運な結末と言えるのだろう。彼女の将来に、重荷はなくなったのだから。ちょっと思慮の足りないところはあるにせよ、若く美しく、明るく優しい娘には、心から愛してくれる若者がきっと現れるに違いない。実際、最近ヒルダには同じ男性からの通信が頻繁に届くようになり、休日におしゃれをして出かけるようにもなっている。『そのうちに、お父さんやお母さんにも紹介するわね』とさえ、言っていた。もしもこの若者との愛が順調に育まれ、結婚を考えるようになったら――適性さえ合えば、何も問題はないだろう。ヘイゼルのように、拒否されることがなかったら――。
 もう一人の娘、ヘイゼルはサンパウロで恋に落ちた。穏やかで物静かな娘が本気で一人の若者を恋し、彼の方も娘のうちに秘めた魅力に強く惹かれ、二人は真剣に愛し合うようになった。相手の若者は何度も家を訪れ、アンソニーとメラニーも彼を好青年と認めた。娘の夫たるにふさわしい人物だと。愛し合う若い二人は結婚の約束をし、許可を取るために政府に申請した。許可が下りれば、一年後に二人は新家庭を築く予定だった。
 だが申請を出して三日後、政府から返信が届いた。コンピュータ画面に広がった、赤枠で縁取られた文字。【申請却下】と赤で書かれた文字を、ヘイゼルも他の家族も、ただ呆然と見つめていたものだ。その下に、こんなことが書いてあった。
【ジョセフ・シンクレア・ターナーとアンジェラ・バーネット・ターナーの長男、ブルース・バーネット・ターナー、二三才、および、アンソニー・ラーセン・ローリングスとメラニー・バートン・ローリングスの次女、ヘイゼル・バートン・ローリングス、二十才から提出された結婚申請は、残念ながらお二人の遺伝適性が合わないため、許可できませんでした。それぞれ別のパートナーを選択し、再度申請して下さい】
「別の人を捜せですって!」
 今まで感情を爆発させたことのなかったヘイゼルが、生まれて初めて取り乱していた。
「そんなこと、あり得ないわ。無理よ! なぜなの! ああ、なぜなの! わたしたちは、愛し合っているのに! わたしは他の人なんて、だれも愛せやしないわ!」
 ヘイゼルはそう叫ぶと、床にくずおれて泣いた。誰も、何も言えなかった。慰めの言葉も励ましの言葉もない。すべてが無意味であることを、家族も悟っていた。画面に現れた二、三行の言葉が――冷たい無機質な言葉が、娘の幸せも愛も一瞬にして打ち砕いた理不尽さ。それに対し何もできない、己の無力さも。傷ついたこの娘に再び愛が訪れることを、夫妻は願うしかなかった。一本気な性格のヘイゼルには、難しいことかもしれない。無情な判定に引き離され、別れを余儀なくされてから半年近くになる今になっても、なお彼女はかつての恋人、ブルース・ターナーを愛している。夫妻も、それは感じていた。早くあきらめ、思い切って、他の人に目を向けるよう忠告はした。そのためには環境を変えた方がいいと、ここニューヨークに戻っても来た。でもブルース・ターナーを忘れることは、ヘイゼルの性格ではなかなか難しいだろうとも感じている。彼女が完全に立ち直るには、まだまだ時間がかかるのだろうと。
 アンソニーとメラニーはお互いに顔を見合わせ、ほろ苦い微笑を交わした。家族の幸せ、それが二人に共通の、たった一つの願いだ。娘たちが幸せな家庭を持つこと。息子たちが望む職業に就き、恋愛問題も成功させて、やはり幸せな家庭を持つこと。新しく増えた家族についても――ジェレミーを自分たちの家に引き取ったことは、明らかに彼に良い影響を及ぼしている。孤独な少年に家庭の暖かさや友情を与えることが出来た。あとは普通の人のように話せるようになったら、そしてこの子が普通の社会人として独立できたら、彼らのセラピーは完全に成功したと言えるだろう。この甥を恒久的に自分たちの保護下に入れることについては、もうとっくに決めていたことだ。結果的には、ジェフリーとマチルダにジェレミーを手放さざる得ない状況が出来たため、同じことだっただろうが。

 夫妻は家に帰り、訪問の結果を子供たちに報告した。
「それは良かった」と、彼らは口々に言った。その時ジェレミーの顔に浮かんだ、言いしれぬ安堵の表情が、夫妻の心を熱くした。アンソニーは暖かい笑顔で、甥に告げた。
「君を我が家の三人目の息子として迎えよう、ジェレミー」と。
 その言葉にヒルダとヘイゼル、マーティンはにっこり笑い、パトリックは小躍りした。ジェレミーは泣き出しそうな表情になり、慌てた様子で目を瞬いて、うつむいていた。
 
 アンソニーの家に引き取られてから一ヶ月の間に、ジェレミーの生活は一変していた。今までは朝、起床時間にセットしたアラームで目が覚めると、薄暗い部屋で起きあがり、朝食がドアの外に運ばれてくるまでの間に、身支度をすませる。食事がすむとトレーを外の台に返し、コンピュータの電源を入れて、その日のカリキュラムをこなす。途中、昼食が運ばれてくる。午後になってカリキュラムが終わると、あとはやることがない。ただコンピュータに付属している簡単なゲームを繰り返し遊び、飽きるとただ頬杖をついて、ぼんやりしているだけ。時間はのろのろとたっていき、自分に声をかける人は誰もいない。ようやく夕食の時間となり、それがすむと、早々とベッドに行く。しかし、なかなか眠れない。三日に一度、夜中にシャワーを浴びに行く。祖父母の家では、ずっとそんな生活だった。
 今は違う。朝はいつも窓から射し込む日の光で目が覚めた。服を着替え、洗面所に顔を洗いに行くと、すれ違う家族から、「おはよう!」と明るく声をかけられる。そして、みんなで一緒に朝食。パンとコーヒー、それに卵料理とジュースという簡単な献立だが、軽やかに交わされる会話や、朝のニュースを聞きながら、食事は楽しく進行する。やがてアンソニーと二人の娘は出勤し、二人の男の子たちとジェレミーはカリキュラムをこなすために自室に行く。十二時になると、メラニーが昼食の鐘を鳴らす。お昼は四人だけだから普段の食事より静かだけれど、楽しい点では変わらない。
 十六時ごろカリキュラムが終わると、決まってパトリックがジェレミーの部屋を訪れ、「外へ出て、少し運動しようよ!」と誘いかける。マーティンも自室から出てきて、三人は集合住宅のそばにある小公園に行き、キャッチボールやボール蹴り、バドミントンや的当て、時にはローラースケートもする。
 それまでまったく運動をしたことがなかったため、最初の頃ジェレミーはひどく下手だった。ボールを投げればすぐに力無く落ち、パトリックに「へなへな球」だと、からかわれる。蹴ろうとすれば、しばしば空振り。ラケットにもめったに玉が当たらない。スケートをすれば転んでばかりだ。おまけにすぐ息が切れた。だが、ジェレミーはスポーツを心から楽しんでいた。外で汗をかいて身体を動かすこと、それは初めての経験だったが、これほど快いものだと初めて知った。彼は時おり声を上げて笑い、従兄たちをびっくりさせた。そして最初はまったく下手だったジェレミーも、だんだん慣れるにつれてコツを覚え、上達していった。さほども苦しくならずに、運動を続けられるようにもなった。一ヶ月がたつ頃には、マーティンとならなんとか勝負になるくらいのレベルにまでなり、スケートも少し滑れるようになった。
 遊び疲れると三人でベンチに座り、話をした。パトリックとマーティンは、いろいろなことを話した。将来の夢、それぞれの趣味のこと、家族や親戚の話など。今は間近に迫った職業適性試験が、二人の主な関心事だった。マーティンは宇宙開発局へ行きたがっていた。現在政府がもっとも力を入れている事業、宇宙開発は科学系エリートの頂点であり、若者たちのあこがれの的だった。ダニエルの長男マルコムも宇宙開発局の職員として職業登録したばかりだし、ジェレミーの属する専門課程、科学A‐2コースというのも、終了後そこへ登録されることになる。専門課程での成績次第で、現場の最先端を行く技師、各種プログラマーから末端オペレータ、作業員までランクはいろいろあるが、まずはコースに乗らなければ、話にならない。このコースは、若者たちのあこがれの職種であるために希望者が多く、またその職務の性格上、高い能力が必要とされるので、選別は非常に狭き門だった。
「それを考えると、不安でたまらないよ」と、マーティンはしばしば訴えた。
「宇宙開発局は、僕の子供の頃からの夢なんだ。そのために、ずっと一生懸命勉強してきたんだよ。ああ、勉強は嫌いじゃないさ、楽しかったよ。将来宇宙開発局で働く自分を想像しながら、好きなことを勉強しているんだから。でも、もうそれも終わりになるかもしれない。なぜ僕らは、もうすぐ十六になってしまうんだろう。もし適性が違うなんていうことになって、好きでもない勉強を何年もさせられて、しかもその仕事を一生していかなければならない、なんていうことになったら、どうしよう」
「どうしようったって、結局やるしかないんじゃないの? それが世の中なんだもの」
 パトリックの答えは落ち着いたものだ。「今さらじたばたしたって、はじまらないよ。どんな結果が出たって、それに従うしかないんだから」
「君は良く落ち着いていられるな、パット」
 マーティンはいくぶん苛立ち気味に言う。
「子供の頃からの夢が実現できるかどうかの瀬戸際だっていうのに。君は心配じゃないのかい、本当に? 君の好きな勉強が出来なくなっても、いいのかい?」
「良くはないさ。でも、僕は半ばあきらめているんだ、自分の夢に関しては」
 パトリックは肩をすくめていた。「良いんだよ、趣味として続ければ。君だって、もし宇宙局以外の適性になったら、趣味の勉強として続ければいいんだ。本を読んだりして。そのくらいは、余暇時間で出来るんじゃないかい?」
「君はそうだろう。音楽や歴史なんて、元々趣味の範疇なんだからね。けれど、僕は出来ないよ。将来行ける希望もないのに、勉強したって空しいだけだ」
「そんなものかなあ」
「そうだよ」
 そんな従兄たちの会話を聞きながら、ジェレミーは思っていた。マーティンの夢を叶えてあげられたらと。そしてパトリックも。ああは言っているものの、彼の音楽や歴史にかける情熱は、双子の兄の宇宙開発へのそれと同じくらい、熱心でひたむきであることを、ジェレミーは感じていた。だが、二人の希望は大きなハードルを乗り越えなければならない。もうすぐ控える職業適性試験という、社会の巨大な壁を。
 ジェレミー自身は何の希望も夢も持たずに、適性試験を受けた。勉強とは与えられたものを読んで理解し、課題をこなすだけ。それ以上のなにものでもなかったし、そこからかいま見る将来の展望など、かつてのジェレミーには、何の意味も持たないものだった。科学A‐2、将来の宇宙開発局コースと結果を通知された時も、何の感慨も持たなかった。若者たちのあこがれの部署であることも知らなかったし、宇宙自体さほど興味を引く存在だとも思えなかった。なるほど、たしかに宇宙は広い。無限とも言える広大さだ。数々の神秘に満ち、想像もできないほど多くの星がある。だが、人類の科学や知恵で知ることの出来るのは、ほんの、ほんの一隅だけ。どんなにがんばってみたところで、この銀河を離れることは、とうてい無理だろう。一千億の銀河のただ一つ、それさえも完全には把握できない不完全な存在、それが人間の科学なのだ。
 だがそれ以上に、かつてのジェレミーはすべてに対し、興味を失っていた。宇宙というのも漠然とした、自分とは関係のないオブジェクトでしかなかった。しかし今は、すべてのものが興味深く見える。それまで漠然と勉強してきたことも、生き生きとした実体になった。それはすべてアンソニー一家のおかげだ。だが、彼らの望みに何もできない自分がもどかしい。現に将来を真剣に語り合っているマーティンとパトリックに、気の利いた一言すら言えないのだ。携帯電子ボードで筆談するのは、彼らに間の抜けた沈黙を強要するだけだ。何か話したい。彼らの会話に加わりたい――その望みは伯父の家に来てから、日増しに高まっていった。でも今、自分が話せるとしたら、何と言えるだろう。
【二人の望みが叶うと良いね】
 それだけだ。ああ、なんと陳腐なことしか言えないのだろう。これではキーを打っても、何ら変わりはない。ジェレミーは思わず深くため息をついた。

 午後の運動が終わると、シャワーを浴びて夕食になる。アンソニーと娘たちも仕事から帰り、にぎやかな食事がすむと、夕食の後片付けは息子たちの担当だ。ジェレミーも一緒に加わって、食べ終わった食器の汚れを専用クロスで軽く拭き取ってから、ウォッシャーに入れ、テーブルを拭く。それが日課だった。
 夕食後、マーティンは自室で勉強していることが多いが、パトリックは再びジェレミーを誘いに来るのが常だ。彼の部屋でスポーツ中継やドラマを見たり、歴史の文献を読んだり、音楽を聴く。ジェレミーにとっては、まったく新しい世界だった。ロボットたちによるフットボールゲームも面白かったし、各局で催される職員たちの運動会も、その素人らしさが微笑ましかった。歴史はあまり面白いとは思えなかったが、ドラマや音楽は退屈しのぎには、もってこいだと思えた。
「自分のお気に入りを持つと、もうちょっと熱心になれるよ」
 パトリックは、よくそう言った。フットボールチームは、もちろんニューヨーク市所属が彼のお気に入り。ドラマにもお気に入りの女優がいて、リンゼイ・プリンストンという。彼女は二十歳で、ブロンドの髪に青い瞳のちょっとコケティッシュな美女で、今一番人気なのだという。ジェレミーも彼女の主演ドラマを見たが、さほど引きつけられたというわけではなかった。
「まあ、好みは人それぞれだからね」
 パトリックは苦笑して、肩をすくめたものだ。
「でも、リンゼイがタイプじゃないとすると、君はどんな子が好みなの?」
 そう聞かれて、ジェレミーは思わず赤くなった。
【僕は今まで、女の子を好きになったことはないんだ。そういう風な対象で見たこともないし。だから、わからない】
 パトリックはその答えを読むと、声を上げて笑った。
「現実の恋愛対象として、女優を見る人なんかいないよ。いわば、疑似恋人として、だよ。君は、そういう想像もしたことがないんだね。でもさ、今まで見たドラマとか歌手で、君が、あっ、この子かわいいな、とか、すてきだな、と思う女の子はいないかい?」
 ジェレミーはしばらく考え込み、キーを打った。
【そう言えば、さっきのドラマで、そのリンゼイ・プリンストンの妹役をやった女の子の方が、僕は良いと思ったよ】
「ああ、そうか!」パトリックは両手をポンと叩く。
「あれは、ブレンダ・ハーディランだよ。去年デビューした子だ。へえ、君は彼女のようなのが好みなんだ」
【そういうわけじゃないけれど】
 ジェレミーは少し赤くなった。
「まあ、いいさ。君はブロンドより、ブルネットの方が好みなんだね。そうか、君がブロンドだからかな? それもグラマラスなタイプより、小柄で華奢な女の子が好きなんだ。うん。僕も嫌いじゃないけれど……あどけない感じの、かわいい子がいいんだね」
 そう言われてジェレミーはますます赤くなり、首を振る。
【いや、僕は女の子のことはわからないよ】
 パトリックはその返事を見て、再び笑った。
「純情だなあ、君は。そんなに必死にならなくても良いのに。相手は女優なんだから」
 音楽に関しては、パトリックのお気に入りは女性ではなかった。アイド・フェイトンという二二才の歌手だ。黒い髪を背中まで伸ばし、すらっとした長身の身体を光る素材の黒い衣装で包んだ光学ポスターが、パトリックの部屋に飾ってある。青い目は覚めた虚無的な光を放ち、低く甘い声でけだるそうに歌う彼は、若い女の子たちにかなり人気があった。だが、パトリックが彼をお気に入りとしている理由は、女の子たちのように好みの異性として見ているわけでは当然なく、その姿が『かっこいいから』なのだという。
 アイド・フェイトンが『かっこいい』という理由は、ジェレミーにもなんとなく理解できた。ただ、リンゼイ・プリンストン同様、さほど引きつけられたわけでもない。
「結構良いと思うけれどな。君はやっぱり、女の子が好きなの?」
 ジェレミーが自分の感想を正直に書くと、パトリックはそう聞いた。
【いいや。女の子でも、そんなに良いなと思う人はいなかった。みんな悪くはない曲だし、さほど下手でもないんだけれど】
 ジェレミーは首を振った。
「僕も曲そのものは、さほど愛聴しているわけじゃないよ。良いなとは思うけれど。音楽番組って、結局そんなものじゃない? でも、この音はすてきだろ?」
 パトリックは部屋に立てかけてあった奇妙なオブジェを取り上げ、スイッチを入れて、針金をいっぺんに弾いた。不思議な音が響く。なんと形容すればいいだろう。金属が鳴動する響き――鐘の音とは少し違う。エアロカーやロケットの飛ぶ音とも違う。衝撃的な音。いつかアイド・フェイトンが音楽プログラムの中で、このオブジェを持って歌の合間に鳴らしたことがある。その時にもジェレミーは衝撃でびくっとしたが、従兄の部屋で、生でそれを聞くと、その衝撃が増幅されて感じられる。
「僕は、この音に魅せられちゃったんだ」
 パトリックはもう一度弾いて、続けた。
「これは、ギターっていう楽器らしいんだ。一年半くらい前かな。アイド・フェイトンが初めて番組でこれを鳴らした時、僕はすっかり虜になっちゃんたんだよ。あれが欲しい!って。あっちこっち販売ネットで探して、やっと見つけたんだ。おかげで、三年分のお小遣いがすっ飛んじゃったよ。でも、僕は大満足なんだ」
【僕もすてきな音だと思うよ】
 ジェレミーがそう書くと、パトリックは従弟に抱きつかんばかりにして喜んでいた。
「ありがとう、わかってくれて! マーティは、うるさいって言うんだ。でも、君とは気が合いそうだなあ、本当だよ」
【僕は君の趣味が好きだよ。教えてくれてありがとう。こんなに面白い世界があるなんて、今まで知らなくて損をしたと思ったよ】
 ジェレミーはそう打ち、心からにっこりと笑って頷いた。
 その後部屋に戻って、ベッドに入る。昼間身体を動かしたこともあり、時間もたいてい二三時近くになることもあって、枕に頭をつけると、すぐに眠りが訪れてきた。この枕は祖父母の家で使っていたのと同じもので、睡眠導入装置は入っていないのだが。眠りは深く、健やかで、それは朝のさわやかな目覚めをいつも連れてきた。
 そうして日々は過ぎていった。ジェレミーの青白かった頬はすっかりピンク色になり、いくらか筋肉と体重も増えた。目には楽しげな光と活気が宿り、アンソニーとメラニーも、これが一ヶ月前、日の射さぬ部屋に閉じこもっていたあの青白く生気のない少年かと疑うほどに変わっていた。その変化の理由は、彼らにも容易に理解できたことだろう。




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