Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

序章(4)




 マチルダは息子夫婦の決定に、反対はしなかった。ジェレミーの部屋を出た後、リビングで待っている母にアンソニーがその提案を告げた時、彼女は声を上げたものだ。
「まあ、本当にそれで良いの、あなたたちは?」
 その言葉には、(あんな子をたとえしばらくでも引き取ろうと思うなんて、やっぱりあなたがたは変わり者だわね)という言外の含みが明らかに感じ取れたが、同時に、それ以上に(これで、しばらく厄介者が居なくなるだろう。うれしいことだ)と思っていることがはっきりとわかる。
『あなたのそんな態度が、ジェレミーを閉ざされた世界へ追いやったのだ』と、メラニーは抗議したかったが、アンソニーが何も抗弁しない以上、嫁の自分がそんなことを言ったら、ますます義父母の印象を悪くする。
「あの子は寂しい子なんです。人との交流を忘れてしまいましたが、本当はコミュニケーションに飢えています。うちへ来れば子供たちもいますし、あの子には良い刺激になると思うんです」
「そうそう。特にうちの息子たちとは、ほとんど同年輩だしね。パットもマーティも、あの子と上手くやって行けるだろうから」アンソニーがそう言い添えた。
「そうね。でも本当はあんまりあの子を、あなたたちの子供たちと仲良くさせたくはないんですけれどね。マーティンやパトリックに、害になるようなことはないかしら?」
 マチルダは少し心配そうに首をひねっている。
「大丈夫だよ。うちの子たちはそんなにやわじゃないからね」
「まあ、あなたたちがそう言うなら……しばらくお願いするわ。ただ、くれぐれも気をつけてね。ヒルダやヘイゼルに、変な負担をかけさせてはだめよ。二人とも、大変なことがあったのだしね。それに、マーティンとパトリックは、もうすぐ職業適性だし……ああ、そんな大事な時期にあの子なんかが行って、本当に大丈夫なの、アンソニー? あなたも親なら、人の子より自分の子供の方を、もっと心配した方が良いわよ。メラニーさんもね。職業意識に燃えるのもけっこうですし、ジェレミーはあなたには同類みたいなものだから、共感を覚える存在なんでしょうね。でも、つまらない同情よりも、まず自分の家庭というものを第一に考えてほしいものだわね」
 そんなマチルダの態度は、アンソニーにさえ、いくぶんの苛立ちを感じさせているようだった。わずかに表情が引き締まっている。しかし彼は、あえて正面切って事を荒立てる気はないのだろう。小さくため息をつき、肩をすくめながらこう言っただけだ。
「大丈夫だよ。僕らも自分の家族は大事だからね」
「そうよ。それだけは忘れないようにね」
 マチルダはいくぶん安心して、肩の荷をしばし降ろす気になったらしい。息子夫妻にそう念を押すと、ほっとしたような顔でカップを取り上げた。

「やっぱり、軽はずみに決めすぎたかしら……」
 ステーションで、我が家へ帰るシャトルの順番を待ちながら、メラニーは思わずそう呟いた。アンソニーはその言葉にちょっと驚いたように振り向き、少し考えるように沈黙してから、答える。
「ジェレミーをしばらく引き取るって話かい? まあ、その場で結論を出すのは早すぎたかもしれないが、あの子を治すのには、それが一番手っ取り早い方法だと、僕は思うよ。君も、そうは思わないかい?」
「ええ。たしかに、それはそうだけれど……」
「母さんに言われたことを、気にしているのかい?」アンソニーは肩をすくめた。
「やれやれ。母さんの一族意識が強いのも、正当なものを偏重するのも、心配性なのも、今に始まったことじゃないじゃないか。同じ孫でも彼女にとっては、ジェレミーよりマーティンやパトリックの方が大事なんだよ。良いじゃないか。それだけ僕らの子供のことを気にかけてもらえたら。だいたい、母さんの言うことをいちいち気にしてたら、君も神経がおかしくなってしまうぞ」
「あなたは自分の身内だから、そう言えるのよ」
「ほら、それも君の一族意識の現れさ。身内にこだわっているのは、君の方だよ」
 メラニーは思わず顔を赤らめた。夫の一族の言動に敏感に反応し過ぎるのは、自らのコンプレックスの裏返しなのだと、わかってはいる。しかし自覚はしていても、容易には乗り越えられそうにない壁だ。元カウンセラーが、しかも来年から現場に復職する予定なのに、自分の悩みをいまだに解決できていないなんて――。
 メラニーは自嘲の思いを感じながら肩をすくめ、やってきたシャトルに乗り込んだ。

 夫妻が自宅に帰りつくと、四人の子供たちが玄関に集まってきた。ヒルダとヘイゼルはエプロンを掛けている。アンドロイドのメイドは、彼らの家では依頼していないので、誰かが主婦役を勤めなければならない。メラニーが不在の時には、娘たちがその役目を引き受けていたのだ。
 ヒルダはブルーグレイのワンピースの上からピンクの花柄エプロンをつけ、ふさふさとした金色の巻き毛を、エプロンと共布のリボンで一つにまとめていた。彼女は父譲りの器量の良さを持っている。えくぼのあるピンク色の頬、大きな灰青色の瞳、小さな赤い口元。まるでぱっと花が咲いたように、彼女の明るい美しさは輝く。ヘイゼルはモスグリーンの服の上に、双子の姉と同じデザインの、薄緑色の花柄エプロンをつけていた。癖のない亜麻色のまっすぐな髪を、やっぱり共布のリボンで一つに結んでいる。青白い頬、細面で小作りな顔立ち、切れ長の灰色の目――母親似の彼女には、ヒルダのような人目に付く美しさも華やかさもないが、落ち着きを感じさせた。しかしその瞳には、今では消すことの出来ない悲しみの影が宿っている。ここに来る前、南米で恋人と引き裂かれてから。
 息子たちはそれぞれ部屋で勉強をしていたようで、自室から出てきた。二人とも背が高く、細身の体つきだが、姉たちと同じくお互いに似ていない。マーティンは濃い金髪を短く切り、灰色の目と色の白いすっきりした顔立ちの、落ち着いた少年だ。パトリックは肩まで伸びた栗色の巻き毛に緑の瞳、顔の造作も兄よりはっきりして、整っている。四人の子供たちのうち、ヒルダとパトリックは父の性格と容貌の美を受け継ぎ、ヘイゼルとマーティンは母の小作りな顔立ちと、穏やかで考え深い性質を受け継いでいた。姉たちは二一才、弟たちはもうすぐ十六才。だが成長してもなお、子供たちは父母の帰りを歓迎し、玄関へ迎えに出てくる。今では、多くの子供たちがそうでないが。
 
 夫妻は夕食の席で、子供たちにその日の出来事と決断を話した。
「ジェレミー・ローリングス君って……? ああ、シンシア叔母さんが結婚する前に産んだ赤ちゃん? まあ、あの子も、もう十四なの」
 ヒルダがちょっと驚いたように口火を切った。
「でも、そうよ。たしか、弟たちより二つ下だってきいたもの。そのくらいにはなるわ」
 ヘイゼルが落ち着いた様子で頷く。
「失語症なんて、気の毒ね。お祖父ちゃんたちの家で、ずっと部屋に閉じこもっているなんて」ヒルダはすっかり同情している口調だった。
「うちへ来るのは歓迎だよ!」パトリックが身を乗り出した。
「ひとりぼっちで育ったから言葉を忘れたんなら、僕らでどんどん話しかけて、思い出させれば良いんだ。僕はうれしいな。その子と友達になれたらさ」
「でも向こうに、僕らと仲良くなる意志があるのかな?」
 マーティンはちょっと疑わしげだ。
「まあ、人との交流に慣れていない子だからね。でも、おまえたちが普通に接していれば、きっと彼もそのうちに心を開いてくれると思うんだ」
 アンソニーは両手を組み合わせ、子供たちを見回した。
「しばらく家族の一員として生活してもらうわけだけれど、特におまえたちが構える必要はないよ。ただ、あの子を特別扱いしないで、普通に扱ってやって欲しいんだ。おまえたちの従弟の一人として」
「わかった」子供たちは一斉に頷いていた。

 三日後、アンソニーとメラニーは再び父母の家に赴き、ジェレミーを一緒に連れて帰ってきた。メラニーは子供たちが小さい時に使っていた電子白板(文字やスペルを覚えたり、絵を描いたりするための、手のひらよりふた周りほど大きいボードで、文字の打ち込み用のキーボードと、お絵かき用タッチペンがついている)を家から探し出し、ジェレミーに渡した。「自分の部屋の外でも、これがあれば話が出来るでしょう?」と。
 彼はそれを受け取り、嬉しそうに頷いていた。
 ステーションまでの道、そしてシャトルの中でも、少年は驚きと不安にみちた表情で、周りを見回している。夫妻はすぐに、その理由を思い至ったのだろう。
「ああ、君は外へ出るのは、初めてなんだね」
 アンソニーが少年の肩を叩いた。
「初めて外へ出た感想はいかが?」メラニーもにこやかに笑いかける。
 ジェレミーは二、三回瞬きをし、早速もらった電子ボードをバッグから取り出すと、電源を入れてキーを打った。すぐに文字が現れる。
【驚いています。外は広いんですね。それに、すごく人が多くて、圧倒されそうです。それに、ちょっと怖いです】
「人が多くても、君が圧倒される必要はないし、怖がることもないよ」
 アンソニーは再びポンと相手の背中を叩くと、微笑した。
「たしかに世界には、多くの人が居る。だが、みんな我々には無関心の群衆だ。僕たちのことも君のことも、誰も気にもとめていない。君に嫌悪の目を向ける人なんかいない。まあ、せいぜいたまに誰かが『あの子は可愛い男の子だな』と見るくらいなもんだ。そこには善意はないが、悪意もない。みんな自分たちそれぞれの生活を持ち、自分たちの興味で生きている。だから、君が人の目を気にすることはないんだ」
 ジェレミーは熱心な目で、なおも回りを見ていた。その瞳は青い輝きを帯び、大勢の人々の顔に注がれる。ほどなく彼は理解したようだった。
【たしかに、そうですね】
「でも、これから会うのはあなたにとって、無関心な群衆ではなくてよ」
 メラニーは少年に笑いかけた。
「家には、うちの子供たちが居るわ。あなたの従姉兄よ。娘たちは二一才でね、ヒルダとヘイゼルというの。ヒルダは資料局で、ヘイゼルは教育局で、オペレータとして働いているわ。二人とも、とても良い娘たちだわ。息子たちはもうすぐ十六で、来月職業適性を受けるの。マーティンとパトリックという名前よ。マーティンは真面目で几帳面な性格だけれど、根は優しい子よ。パトリックは明るい子で、あなたとお友達になりたがっているわ」
 ジェレミーは目を見開き、メラニーの顔をじっと見たあと、キーを打った。
【僕と友達になりたがっているの? 本当に?】
「ええ。この間あなたの話をしたら、あの子は言っていたの。あなたと友達になれたら、うれしいって」
 ジェレミーは不思議そうな顔で、しばらく考え込んでいるようだった。そして、ためらいがちにキーを打つ。
【なぜ、僕なんかと友達になれたらうれしいって、その子は言うのだろう。彼は僕と会ったこともないはずなのに。僕は面白い友達には、とてもなれそうもないのに】
「あなたは、お友達にはなりたくないの? パトリックやマーティンと」
 メラニーがそう問い返すと、ジェレミーは再び戸惑ったように考え込んでいた。
【そんなことはないです。僕は誰か友達が欲しいと、いつも思っていました。でも、無理だってあきらめていたんです。そんな機会もないだろうし、僕なんか、好きになってくれる人が、いるわけがないって】
「どうして?」
【だって、僕は……】
 いらない子だから――そう書きかけて、ジェレミーは指を止めた。でも伯父夫妻は、自分をそう思ってはいないようだ。だからこそ、家に招待してくれようとしているのだ――。
「君は自分を卑下しすぎだね」
 アンソニーはまるでジェレミーの書こうとした言葉をわかっているように苦笑を浮かべ、首を振った。
「僕らは少なくとも、君に好意を持っているよ。もっと自分に自信を持つべきだね。まあ、父さん母さんやダニエルやエセルには、君は彼らの理想とは言い難い、取るに足りないものなのかもしれない。しかし、あくまであの人たちの価値観では、ということに過ぎないさ。見てごらん。世の中にはこれだけ大勢の人たちがいる。みんな無関心な群衆に過ぎないけれど、みんなそれぞれの価値観を持っている。まあ、世間一般では、圧倒的に父さん母さん型が多いけれどね。僕らは少々変わり者なのかもしれない。でも変わり者なのは、僕らだけではないとも思うのさ。なにせ、世界中には七千万人の人間がいるんだからね。一般の理想と違うからって、恥じることはない。君の良さをわかってくれる人も、きっと居るさ。でも自分から心を閉ざし、誰も好きになってくれないなんて決めつけていては、自分からその可能性を閉め出すことになる。それではもったいないよ」
【はい。そうですね。わかりました。ありがとうございます。うれしいです】
 ジェレミーはそうキーを打ち、深く頷いていた。

 ほどなく、目指す家についた。ニューヨーク市のかなり郊外にある、アンソニー・ローリングスの家は、集合住宅の三階にあった。規模としてはさほど大きくはなく、リビングやダイニングは祖父母の家の方が広い。しかし伯父の家は小さいながら、親しみを感じさせた。リビングのソファは明るいオレンジ、金褐色の毛足の短い絨毯、クリーム色にオレンジの花模様のカーテン。クロゼットの空き間にはバルコニーで栽培している赤いゼラニュウムの切り花が飾られ、壁は明るいベージュで、海の風景画と、家族を写した光学写真がかかっていた。隣接するダイニングルームの、陽気な赤白チェックのテーブルクロスがかかった食卓には、いつもより一人多い七人分の夕食が用意されている。
 初めて会う従兄姉たちも、親しみを込めてジェレミーを迎えてくれた。
「こんにちは、ジェレミー君、初めまして。わたしはヒルダよ。まあ、本当に大きくなったのねえ! と言っても、会うのは初めてだけれど。でもわたしには、なんだか赤ちゃんっていうイメージが強かったのよ」
 ヒルダは自分より背の高い少年を見上げながら、無邪気な口調で声を上げ、
「あら、十四才の立派な男の子を捕まえて、赤ちゃんはないわよ、ヒルダ」
 と、ヘイゼルは苦笑いをしたあと、微笑を浮かべて言葉を継いだ。
「こんにちは、ジェレミー君。わたしはヘイゼル。初めまして。どうか気楽にしてね」
「初めまして。よろしく。僕はマーティンというんだ」
 マーティンは礼儀正しく控えめにそう挨拶をする一方で、
「僕はパトリック。ほら、そんなところに立っていないで、こっちに入りなよ」と、パトリックはまるで旧知のように手を取って家の中へ引きこみ、ジェレミーの度肝を抜いた。
 四人四様の初対面ではあったが、どの言葉からも伝わってくる温かい歓迎の意だけは、ジェレミーも感じることが出来た。彼ははにかみながら微笑んだ。ああ、彼らに言えたらどんなに良かっただろう。はっきり言葉に出して、ありがとう、会えてうれしいと。しかししゃべることを忘れてしまった自分には、今意識的に努力しても、なお声は出てこない。
 彼は仕方なく電子ボードを取り出し、キーを打った。
【初めまして、みなさん。ありがとう。僕はみなさんに会えてうれしいです。これからも、どうぞよろしく】
 従姉兄たちはそばにより、「あ、これ懐かしい」「昔使ってたね」などと小さな声を上げながら画面をのぞき込み、文字を読んだ。
「こちらこそ、どうぞよろしくね!」
 ヒルダが明るくそう返して微笑み、ヘイゼルとマーティンも頷く。
「でもなぜ、ありがとうなのさ?」
 パトリックはちょっと首を傾げて、そう問いかけた。
【僕なんかを、みなさんは歓迎してくれたから】
「なぜさ。そんなこと、当たり前じゃないか」
 パトリックは苦笑して、ジェレミーの肩を軽く叩いた。
「でも、わかったよ。君はちょっと自信喪失気味なんだろ? お祖父ちゃんお祖母ちゃんの家で、結構ひどく扱われたんじゃないの? 僕もあまり受けは良くないみたいだけれど、それ以上だったんだろうね。でもさ、そんなこと気にするなよ。君はいい奴なんじゃないかい? 少なくとも、僕はそう思ったよ。だからさ、僕らは君を歓迎するよ、ジェレミー」
 暖かい親しみを込めて自分の名を呼ばれ、ジェレミーは一瞬びくっとして従兄を見た。パトリック・ローリングスは髪や目の色が違うだけで、外見もアンソニーに似ているが、性格的にもそっくりだと思いながら。年が近い分、伯父より自分との距離も近い。ひょっとしてこの従兄とは本当に、長い間夢見ていた友達になれるかもしれない。そんな予感に、ジェレミーは思わず軽い震えを感じた。

 伯父の一家とともにする夕食も、新鮮な歓びだった。彼らは食事の合間に、楽しげに会話する。その日の出来事やニュース、興味あることや娯楽、思想についてさえ話す。だが、暗黙のルールもある。食べ物を口に入れたままでは、決してしゃべらない。誰か一人が話している時には、みんなでその人の話を聞き、終わるまで口を出さない。そういう気持ちのいいマナーが、しっかりと守られているようだ。
 愛情にあふれた会話を聞きながら、ジェレミーは生まれて初めて、幸福な気持ちを感じた。ミートローフ、サラダとスープ、それにパンというシンプルな献立だったが、祖父母の家の暗い部屋で食べる一人ぼっちの食事より、格段においしく感じる。
 ジェレミーの幸福感は頂点に達し、それは突然甘美な痛みへと転化した。堪えきれなくなった感情に圧倒され、彼は思わずフォークを取り落とし、ふいにあふれ出てきた涙を抑えようとした。しかし、堰を切ってあふれた感情は止まらない。男の子が泣くなんて――しかも十四才にもなって、なんて恥ずかしいことだろう。物心がついてから、めったに泣いたことなんてなかったのに。そう思っても涙は止まらず、あふれ出てきては、頬を濡らす。身体が震え、嗚咽を堪えきれない。
 一家は話を中断し、驚いたようにジェレミーを見つめていた。
「どうしたの? 何かイヤなことでもあったの?」
 ヒルダが気遣わしげに問いかけ、
「ひょっとして、わたしたちが好き勝手にしゃべっていたのが、気に障ったのかしら」
 と、ヘイゼルが心配げに呟いていた。
 ジェレミーはただ、激しく首を振った。
「違うの? じゃあ、どうしたのかしら。落ち着いて、言ってごらんなさい」
 メラニーが優しく背中を叩き、なだめるような口調で声をかけている。
 ジェレミーは激しく目をしばたたき、涙を押し戻そうとした。必死に気を落ちつかせようとしながら。彼らは自分を軽蔑しただろうか。せっかく歓迎してくれている伯父一家に対し、こんな情けない振る舞いをするなんて。ああ、母に去られた時の四歳の自分、行っちゃイヤだと泣きわめいた、あのだだっ子の子供に戻ってしまったようだ。恥ずかしかったが、とにかく今の気持ちを言葉にしなくては。彼らに誤解されたままでは困る。
 ジェレミーはキーを打とうとした。この気持ちは、どういう表現をすれば伝わるのだろう。指を止め、深呼吸をする。そして、彼はこうつづった。
【すみません。驚かせてしまって。自分でも恥ずかしいと思います。でも、僕はとてもうれしくなってしまって、我慢が出来なくなってしまったんです。うれしいのに泣くなんて、変ですよね。自分でもよくわからないんですが。僕はみなさんが好きです。ここに来られて、本当に良かったと思います。誰かと一緒に食事をしたことも、生まれて初めてだし、それがこれほどうれしいものだとは、思いもしませんでした】
 伯父夫婦も従兄姉たちも、その言葉に込められた心情をたちまち理解することが出来たにちがいない。そして、ジェレミーが今までおかれてきた環境の孤独さも。
「わたしたちの食事なんて、そんなに感激してもらうほどのものじゃなくてよ」
 ヒルダがいつもより低い、感情を抑えたトーンで彼に呼びかけた。
「でもね、あなたがそれほどうれしいと思ってくれるなら、わたしたちもうれしいわ」
「そうよ。わたしはまた、あなたには騒々しすぎるかと、ちょっと心配したけれど、こういうのが好きなら、わたしたちも気楽だわ」と、ヘイゼルは微笑んでいる。
「でも、びっくりしたなあ」
 パトリックは目を丸くして、ジェレミーの顔をのぞき込んでいた。
「ねえ、君はよっぽどひどい扱いを受けたんだね。だったらさ、もうお祖父ちゃんお祖母ちゃんの家に帰らないで、ずっと家にいなよ。しばらくじゃなくってさ。そうすれば、いつでも一緒に食事が出来るし、もっとみんなと仲良くなれるよ」
 その言葉を聞いた時、ジェレミーの顔に浮かんだ飢えた熱情を、一家は見たのだろう。一瞬の沈黙の後、アンソニーは頷いて言った。
「ああ、別にうちはかまわないよ、君がいたいならね」
【でも、それでは、みなさんに迷惑ではありませんか?】
「まあ、なんとかなるでしょう」メラニーは微笑していた。
「元々わたしは、半分はそのつもりだったし、あなただってもう専門課程に入ったのでしょう。それが終われば、社会人ですものね」
「ええ、もう専門課程なの? だって、君はまだ十四だろ?」
 マーティンが驚いたような声を上げた。
【はい。十四才の誕生日から、専門課程に入っています。僕はしゃべれなくて、通常面接が出来ないので、家で審査してもらったのですが】
「へえ、でも普通は十六なのに……君って、特別コースだったんだ」
 パトリックが感嘆の声を上げた。
「それで、コースは何なの?」
【Aー2です。宇宙開発】
「ええ! 宇宙開発局かい!」
 マーティンは再び驚いたように声を上げていた。
「ずっと君が行きたがっていた所じゃないか、マーティ」
 パトリックは苦笑して兄を見る。
「ああ、そうだよ。驚いたなあ!」
 マーティンはまだ驚きが覚めないようだ。
「じゃあ、落ち着いたところで、デザートのプラムプディングはいかが? あまりプラムは入っていないけれどね」メラニーが笑って、そう勧めた。
【ありがとうございます】
 ジェレミーは再び涙が出そうになるのを必死で堪えながら、そう書いて頷いた。

 夕食後、ジェレミーは自分の部屋に案内された。そこには、祖父母の家から送られたベッドとクロゼット、机とコンピュータ端末が据え付けられている。かなり小さな部屋なので、ほとんど家具の配置はいっぱいいっぱいだ
「ごめんなさいね。空いている部屋がここしかなくて。それに、ほとんどあなたが使っていたものばかりね。スツールも予備のものだし」と、メラニーが申し訳なさそうに言った。
【いいえ、これで十分です。すてきです。とても明るい部屋ですね】
 ジェレミーは微笑んで、そうキーを打った。なるほど、道具は使い慣れたものだが、祖父母の家の薄暗い自室に比べて、印象は一変していた。ベッドの横の窓からは、外の景色が見える。今は日が暮れているが、日中は光が良く入るだろう。窓にかけられた青いギンガムチェックのカーテンが、風に揺れている。壁際にクリーム色のスツールが置かれ、青灰色のカーペット、カーテンと同じ生地で作られたベッドカバー。クロゼットの上にはアイボリーのさらさ布がかけられていた。その上に、母の光学写真が飾ってある。
「これは余計なことかと思ったのだけれど、とりあえず飾ってみたのよ。イヤなら、またアルバムに戻しておくわ」
 メラニーの言葉に、ジェレミーは首を振った。
【いいえ、このままにして置いて下さい。僕は母さんの写真を持っていないから。本当にありがとうございます】
 光学写真のシンシアは、記憶に残る結婚式当時より、三、四年がたったころのものだった。しかし、印象はほとんど変わっていない。豊かな黒髪の巻き毛、透き通るような肌の色、大きなすみれ色の瞳。口元に優しい微笑を浮かべて、一才くらいの小さな黒髪の男の子を膝に抱いている。
「この子はテレンスといって、アンダーソンさんとの最初の子供よ。今八才くらいかしら。あなたの弟ね」
『弟……僕の……』
 ジェレミーは声に出さずにそう反復し、食い入るように写真を眺めた。
「この子のほかにも、子供たちがいるはずよ。今四歳くらいの双子の女の子と、今年の春に生まれたばかりの、ジミーっていう男の子と。三年前のクリスマスに来た写真があるわ。まだ赤ちゃんの写真はないけれど、見てみる?」
 ジェレミーは考え込んでから、首を振った。
【やめておきます。僕の弟妹たちを見てみたいけれど、なんとなく母さんの新しい家族を、穏やかな気持ちでは見られない気がするから】
 その言葉を読んだメラニーは、しばし考え込むように首をかしげていた。
「じゃあ、やっぱりこれも、しまっておいた方がいいかしら」
【いいえ、これだけは、ここに置いて下さい。見ていたいんです】
「わかったわ」メラニーは頷き、笑顔で言い足した。
「そうそう、クロゼットの中に新しい洋服を、二着ばかり入れておいたわ。あなたの服は地味なものばかりだから、あまりあなたには、似合わないと思うの。よけい青白く見えてしまうわ。特に緑はね。顔色の良くない人に緑はダメよ。パットに緑は似合っても、マーティには似合わない、それと同じ理屈ね」
 ジェレミーは引き出しを開けてみた。今までの洋服の上に、新しい上衣が二着入っていた。一枚は青と白の明るいチェック、もう一つは白地にチェリーレッドのストライプが入っている。
「ちょっと派手かもしれないけれど、あなたにはそのくらい明るい色が似合うと思うわ。それにズボンがグレーだから、そのくらいでちょうど良いわよ」
 ジェレミーは二枚の新しい服を、しばらくじっと眺めていた。伯母の心遣いがうれしく、不覚にもまた涙腺が弛みそうになる。彼はあわてて目をしばたたき、うつむいて上衣をぎゅっと胸に抱いた。再びクロゼットの中に丁寧にしまうと、キーを叩く。
【本当に、ありがとうございます】
「気に入ったら、明日から着てちょうだいね」メラニーは微笑して頷いた。
「ああ、それからシャワーは廊下の突き当たりよ。赤いランプがついている時は使用中だから、必ず確認して、青の時に入ってね。使用中は非常開閉ボタンを押さない限り、ドアは開かないから、間違えないとは思うけれど。わたしたちはだいたい二十時ごろに使うし、娘たちはたいてい二一時から、息子たちは夕食前が多いわね。あとでパトリックにでも、案内してもらうと良いわ」
【ええ、ありがとうございます】
 ジェレミーは黙礼しながら、再びそう打った。

 メラニーが出て行ってから、ジェレミーは再び新しい部屋を見回した。祖父母の家の部屋より一回りは狭いが、自分を閉じこめる牢獄ではなく、自分が主人となってくつろげる部屋を持つことが出来て、なんと幸せなのだろうと思いながら。壁のキャビネットからは、母も見守ってくれている。
 その時、ドアが再びノックされた。返事をすることが出来ないので、ジェレミーは立ち上がってドアを開けた。
「ハーイ、ジェレミー。君の新しい部屋はどうだい?」
 パトリックがにこやかに笑って、顔を出した。
『やあ……』声には出なかったが、ジェレミーは笑顔になり、そう挨拶を返す。
「ちょっと狭くて悪いけどね。でも、僕らの部屋もさほど広くはないんだよ。シャワー室に行く前に、ちょっと僕の部屋に遊びにおいで。この隣なんだ」
 ジェレミーはこっくりと頷き、あとについて隣の部屋に行った。
 パトリックの居室もたしかに、ジェレミーのものより少し広いだけだった。しかも、いろいろなものが置いてあるので、かなり狭く感じる。ベッドにクロゼット、キャビネットにパソコン端末、それはジェレミーのものと同じだ。緑色にオレンジと黄色の小さな星の模様を散らしたカーテン、ミントグリーンの絨毯、カーテンと共布のベッドカバー、ひときわ鮮やかなオレンジ色のスツール。キャビネットには映像本の専用カートリッジがたくさん入っていて、壁には見知らぬ男女の光学ポスターが四枚も貼ってある。サッカーのボールやクリケットのバットなどが入った箱、そのそばに立てかけてある、見知らぬオブジェ。これは、いったいなんだろう。ジェレミーは興味を覚えて見た。それは赤く塗られていたが、木で出来ているようだった。奇妙な曲線のシェイプ、そこから細く平らな棒のようなものが長く突き出ている。その上に六つの糸巻きがついていて、そこから六本の針金がまっすぐ下に向かって伸びている。ボディにはさまざまな装置やつまみがついていた。
【これは何?】
 ジェレミーは電子ボードの筆談で、そう聞いてみた。
「僕の宝物さ」
 パトリックは右手でそのオブジェを抱きかかえ、ウインクをする。
「そのうち、ゆっくり説明するよ。でも、この部屋を見てわかるかな。僕は音楽が大好きなんだ。サンパウロではマーティンと一緒の部屋だったんだよ。姉さんたちは今でもそうだけど、真ん中に二段ベッドを置いて、その両サイドをお互いの個室感覚で使うみたいな。でも、マーティに文句を言われちゃって。僕の趣味って結構うるさいからね。マーティは音楽がそれほど好きじゃないから。それでここに来る時、部屋を分けてもらったんだ」
『音楽?』
 ジェレミーは声なき反復をしたが、パトリックはその言葉を読みとったようだった。
「ああ、君は音楽が好き?」と、聞いてくる。
 ジェレミーは首を振った。
「嫌いなの?」
 ジェレミーは再び強く首を振り、キーを打った。
【いや、好きとか嫌いとかでなく、僕は音楽そのものを知らないんだ】
「へえ……」パトリックはその返答を見て、ちょっと目を丸くしていた。
「じゃあ、勉強をしていない時には、何をしていたの? どんなものに興味があるの?」
【何もしていない。ただ、ぼんやりしていただけだった】
「何もだって?! それじゃ、退屈しないかい?」
 パトリックは心から驚いたようだった。そしてジェレミーの返答を見て、ますます当惑したように、じっと見つめてきた。それは、こんなものだったからだ。
【退屈というのが、僕にはわからないんだ。それは何?】
「おどろいたなあ……」
 パトリックは大きくため息をつき、栗色の巻き毛をくしゃくしゃとかき乱した。
「ずいぶん不健康な生活をしていたんだね、君って。ずっと部屋から出たことがないって母さんから聞いたけれど、まさかそこまで極端だとは思わなかったよ」
【君は僕を軽蔑する?】
 従兄の反応にやや戸惑いを覚えたジェレミーは、悲しみを込めてそう問うた。
「いいや! そんなわけはないじゃないか。ただ、びっくりしているだけだよ。それに、それじゃいけないなって思うんだ。ここで暮らすなら、ちょうどいい。ぼーっとするのはやめにして、明日から勉強が終わったら、僕の部屋に遊びにおいでよ。いろいろ教えてあげるからさ」
【うん。でも、迷惑じゃないかな?】
「とんでもない。僕だって楽しいと思うよ! 君がイヤじゃなかったら、おいで」
 パトリックはジェレミーの背中をぽんと叩き、ちょっと笑った。
【いやだなんて、とんでもない。本当によろしく】
「じゃ、これからシャワー室へ案内するよ。たぶん今はヒルダ姉さんかヘイゼル姉さんが入っているから、場所しか案内できないからね。非常開閉ボタンを押して、中を見ようなんて、とんでもない了見はおこさないほうが身のためだよ」
 彼は肩をすくめながら笑う。そして、二人で連れ立って部屋を出た。

 その夜、伯父の家でジェレミーは眠った。新しいカバーをかけた寝具は、誰かが乾燥機を当ててくれたらしく、ほわっと良い匂いがした。初めて祖父母の家を出、短い距離ではあるがシャトルで移動したので、くたびれていた。窓のカーテンを閉めずにおいたので、ビル群の向こうに、夜空と月が見える。
(夢……みたいだ。ここに来られて。ああ、ずっとここにいられたらな……)
 ジェレミーは切に、そう願った。自分を受け入れてくれる人たちに、愛情を示してくれる人たちに、初めて出会った。ここで、ずっと一緒にいたい、と。でも、伯父の一家にこんなに一方的に恩恵を受けるばかりで良いのだろうか。そう考えると、心苦しい。出発する時、祖母が伯父たちにかけた言葉から察するに、伯父は決して経済的に裕福ではないらしい。従姉たちは社会人になっているが、なおマーティンとパトリックという、独立していない二人の子供がいる。その上、自分までやっかいになったら――でもそのために、やっと手に入れた至福を手放したくはなかった。もう少し――もう少しだけ。あまりに自分が伯父の一家に負担をかけていると明白にわかったら、悲しいことだが祖父母の家に帰らなければならない。でも、もしそうでなければ――自分はここにいても、かまわないだろうか。今はただ与えられるだけだが、あと五年で専門課程が終われば、自分も社会人になれる。そうすれば、伯父の一家に恩返しが出来る。ああ、その時が来れば、ただ親切を施されるだけの人間から、誰かに必要とされる人に変わることが出来るだろうか。
 ジェレミーは深くため息をつき、やがて眠りに落ちていった。




BACK    NEXT    Index    Novel Top