Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

序章(3)




 ジェレミー・ジェナイン・ラーセン・ローリングス――メラニーも、その名前だけは知っている。アンソニーの甥に当たる、十四才の少年。複雑な事情を持つ私生児だということは知っていたが、その子は言葉をしゃべらず、決して感情を表さず、自分だけの閉じた世界に生きている――さっきの会話で、マチルダがそう言っていた。でも、メラニーは実際に会ったことはない。シンシアの結婚式の時には子供は姿を現さなかったし、それ以来この家を訪れたこともないのだから。
 メラニーは再び小さなため息をつき、解れてきた一筋の褐色の髪を掻き上げた。後ろできゅっと一つに束ねられた髪の中に、ちらほらと白い筋が走っている。廊下に出ると、夫と義母の談笑の声は、もう聞こえてこない。
 メラニーがアンソニーと結婚したのは二四歳の時。彼はまだ二二歳だった。結婚適正は合ったものの、夫の一族からは大反対された。まだ若すぎる。あんな年上の、容貌もパッとしないうえに、生まれの卑しいものと結婚しなくとも、と。いや、もっと辛らつな言葉を、彼らはメラニーに投げつけた。アンソニーはそれでも意志強固で、彼女との結婚を押し通したのだが、夫の一族は誰一人参列しないという式になった。アンソニーがようやく父母の家を訪ねることを認めてもらうまでには、それから三年――ヒルダとヘイゼルの出生まで待たなくてはならなかった。
 アンソニーとメラニーが結婚してから四年後、アンソニーの双子の兄ダニエルが結婚した。その妻、エリザベスは医療局に勤めるエリートを父に持ち、規定出生で生まれている。その式にメラニーは小さな二人の娘を連れて夫とともに出席したが、自分たちの時とはあまりに違う華やかさ、会場にみなぎる祝福の空気に、ぼうっとすると同時に悔しさに似た寂しさも感じた。会場でも、彼女に声をかけるものは誰もいなかった。全員が無視した。派手な花嫁衣装に身を包んだ美しいエリザベスに、義父母は声をかけていた。『君を我が家の嫁として迎えることを誇りに思う』『あなたは素晴らしいわ。あなたのような娘を得ることができて、本当にうれしいわ』と。それは彼らが自分に投げつけた言葉とは、対極に位置するものだった。エリザベスもまた、誇らしげに笑い声をあげていた。新夫婦は式の列席者たちに一通り挨拶をするのが通例なのだが、ダニエル夫妻はちらっと弟夫婦に目をやるだけで、そばを通り過ぎた。『いやな思いをさせてすまない』式の後、アンソニーにそう言われた。それだけが救いだった。
 その一年前、アンソニーの妹エセルが結婚していたが、その時にはちょうど娘たちが生まれた頃でもあり、アンソニー一人だけが出席していた。だがもし夫婦で出ていたら、きっと同じようだったに違いない。そう思えた。末っ子シンシアの結婚式では、もう自分たちはサンパウロに住んでいたが、わざわざ遠方から来たのに、やはり一族からは完全に黙殺された。新夫婦からだけは、『遠くからありがとう』と、一言あったのが救いだったが。
 この家に来たのは、アンソニーが結婚報告に自分を連れてきた時以来だ。その時の屈辱的な扱いは、死ぬまで忘れられない。そして今日も、息子の顔を見て喜びの表情を浮かべた義母マチルダはその後ろの自分を見て、(あなたも来たの? 来なくてよかったのに)という表情をあからさまに浮かべていた。言葉に出しはしなかったが。
 メラニーはため息をついた。夫の一族にとって、自分は疫病神なのだろう。結婚して二十年以上たっても、その認識はいささかも変わってはいないようだ。平凡で特徴のない顔立ち、カウンセラーという職業にもかかわらず、普通の人相手には気の利いた話も出来ず、何より決定的な欠点は、その生まれの卑しさだ。それさえなければ、もう少しローリングス一族の態度も変わったかもしれないのに――。それゆえなのかもしれない。メラニーがこの少年に、妙に心を引かれるのも。
 少年の部屋のドア横には、小さな台が据え付けてあり、その上に昼食のトレーがのっていた。もう食べ終わった後のようで、空になった食器が伏せておかれている。メラニーは軽くドアをノックした。返事はない。しばらく待ってから、もう一度ノックする。再び待ってから、ドアを確かめた。キーロックはされていないようだ。開閉ボタンを押すと、ドアはすっと開いた。
 
 部屋の中は、決して狭くはないが、昼間だというのに薄暗かった。右側の壁にベッドが据え付けられ、その左側、奥の壁に沿うようにして、真ん中に端末をはめ込んだ作業デスクが置いてある。その上に小さな窓があるが、ぴったりとロールカーテンで覆われていて、ほとんど日は差し込まない。コンピュータのディスプレイから出る光が、薄暗い照明になって部屋を照らしていた。左側の壁に寄せて、奥に小ぶりのクロゼットが一つ、手前に小さなテーブルと椅子が一脚置いてある。ベッドの横、ドアよりには簡単な洗面台があり、その横のドアは、どうやら簡易トイレのようだ。それが、この部屋にあるすべてだった。壁には何の装飾も取り付けていず、床には毛足の短い、灰色の絨毯が敷いてある。
(なんだかこれでは、隔離されているようだわ)
 そんな思いが心を満たした。端末の前に座っている部屋の主は、この薄暗い部屋に、囚われの身になっているかのような印象だ。その子は訪問者の気配を感じているだろうか? ドアから背を向けた姿勢のまま、画面を見つめている。両手で頬杖を突いているようだった。画面は静止している。今、作業中というわけではなさそうだ。
 この子はずっと、こんな環境の中にいたのだろうか――メラニーの心に、そんな疑問が湧いてきた。だとしたら、ひどすぎる。これでは、子供の情緒は発達すまい。いや、この子は、頭は良いのだった。そう義母が言っていた。でも彼の情緒的な問題は、明らかにこの閉鎖的な環境が影響を及ぼしているのだろうと、メラニーはすぐに結論づけた。いつからこんな状況なのか。義父母も悪気はないのかもしれないが、いくらあまり積極的に関わりたくなかったとはいえ、孫をずっとこんな環境に一人で置いておくことが、問題だとは思わなかったのだろうか。食べ物をあてがい、ある程度の服を用意し、必要最小限身の回りの世話をし、教育を施す。それだけで子供が育つと、彼らは本気で思ったのだろうか。自分自身の子供を四人育てた義父母なのに、その愛情の半分でも、いや、十分の一でも、血を分けた孫に、かけてやれなかったのだろうか。そんな義憤のような思いが、湧いてくるのを感じた。
 メラニーは部屋の奥まで進み、軽く少年の肩に手を触れて、呼びかけた。
「ジェレミー君、こんにちは」
 手が触れた瞬間、少年はびくっとしたように身体をふるわせ、振り返った。メラニーは改めて、至近距離でこの部屋の主の容貌を眺めることができた。
――きれいな子だ。薄暗い照明でも、それだけははっきりと認められる。大きな灰色の瞳と黒く長いまつげ、気品を感じさせる通った鼻筋や唇の薄い、形のいい口元は明らかに母親似だ。頬から顎のすっきりしたラインもよく似ている。ただ、母シンシアは漆黒の巻き毛だが、この子は金髪だ。蜂蜜のような色合いの巻き毛が、肩に触れんばかりに垂れている。でも、なんて生気のない瞳なのだろう――そう思わずにも、いられなかった。灰色の目には光が感じられない。堅く引き締まった口元も、ゆるむことはないようだ。頬の青白さは、照明が暗いせいばかりでもないだろう。くすんだ緑色の上衣も、その血色の悪さと生気のなさを、ますます強めているようだった。
「急に入ってきて、ごめんなさいね。わたしはメラニー・ローリングス。あなたのお母さんのお兄さんである、アンソニー・ローリングスの妻よ。つまり、あなたには義理の伯母さんなの。会うのは初めてね。よろしく」
 メラニーは出来るだけ快活な調子で、そう話しかけた。
 少年はほとんど表情を動かさず、ゆっくりと瞬きをしながら、じっと見つめている。探るような瞳だった。メラニーは自分が測られているのを感じた。
「と、とにかくね……昼間から、こんな暗い部屋にいるのは、あまり感心しないわ」
 その場の気まずさから何とかきっかけを掴もうと、メラニーはついと立ち上がって、ロールカーテンを引っ張り上げた。入り込んできた光に少年はまぶしそうに目を細め、腕を上げて眉の上にかざす。メラニーはかまわずに言葉を続けた。
「ねっ、これでもっと良くあなたが見えるし、あなたもわたしのことがよく見えるでしょう。もっともわたしは薄暗い方が、シワが目立たなくて良いかもしれないけれど」
 少年の目も、少しずつ光に慣れてきたようだった。ゆっくりと腕を降ろし、再び目を開いて、こちらを見ている。光の中で金色の髪がきらきらと光り、その容貌の美はいっそうはっきり見える。彼は以前よりせわしなく二、三度瞬きをした。そして突然入ってきた訪問者の正体を見極めようとするように、再び視線を据えている。
「わたしはメラニー・バートン・ローリングス。あなたの義理の伯母よ。あなたの伯父の、アンソニー・ローリングスの妻」メラニーはゆっくりと、そう繰り返した。
「わたしは、以前カウンセラーをしていたことがあるの。それであなたのお祖母ちゃんに、あなたに会ってくれって頼まれたので、ここに来たの」
 少年は硬い表情になった。瞳の色が灰色から緑に変化する。
 メラニーは相手の変化の理由を悟った。普段、愛情をかけてはくれない祖母に頼まれてやってきたということは、何か事務的な用事で自分に会いに来たと思ったのだろう。失敗だった。どうすればいいだろう――。彼女はしばし考え込んだ。カウンセリングの基本は、相手の気持ちに寄り添うこと。最初に失敗したら、どうすれば――。
「お祖母ちゃんは、あなたを施設へやれるかどうか、会って見当をつけてくれって、わたしに言ったのよ」
 考えあぐねた末、口から出てきた言葉は、自分でも驚くほど率直なものだった。
「あなたが精神的な疾患を持っているのなら、専門の治療が必要だからって。でも、あなたは本当に精神障害なの、ジェレミー君? わたしには、とてもそうは思えないわ。あなたに必要な治療は精神障害者用の施設で隔離されて過ごすことではなく、もっと人と触れ合うことよ。もっと明るい部屋で暮らして、他の人たちと交流を持つことだわ」
 ジェレミーは一瞬驚いたように目を見開いたあと、再び硬い表情に戻った。冷たいなにかが、その眼に降りてきたように思えた。少年は緑色がかった瞳でじっとメラニーを見つめ、そして後ろを向いた。端末のキーボードに手をのせると、すばやく指を走らせる。スクリーンに文字が現れた。
【それは無理です。誰も僕と交流なんて、したがりませんから】
「どうして?」メラニーは問い返す。
【僕は、いらない子だから。厄介者だから】
「あなたは、そう言われてきたのね」
 メラニーは少年の背中に向かって、静かに語りかけた。
「いらない子なんて言われたら、悲しいわよね。わたしもそうだったから、わかるわ」
 ジェレミーは振りかえり、再び驚いたように目を見開いた。メラニーはにっこり相手に笑いかけながら、言葉を続けた。
「少し、わたしの話をしてもいいかしら。あなたには、興味がないかもしれないけれど、でもあなたとわたしは、よく似ていると思うのよ。わたしもね、母が結婚する前に産まれた子供なの。相手の人には奥さんと子供がいて、どうしようもなかったのよ。だから母が結婚する時、わたしのことがかなりハンデになってね。子供が一緒でもかまわないという人を捜したから、結局相手も子供がいる、生まれもたいしたことのない人と、結婚せざるを得なかったのよ。その時、祖父が言ったの。まったく、よけいもののせいで、ろくな結婚が出来なかった。いっそのこと、施設に行くような障害児か、さもなければ、死んでくれたらよかったのにって。わたしはその時五歳だったけれど、その時の気持ちを、いまだに忘れられないわ。わたしは、よけいものなの? わたしのせいで、お母さんは幸せになれないの? わたしは、いないほうがよかったの? そう思うのは、殴られたり蹴られたりするより、はるかに激しい痛みだったわ」
 ジェレミーもこっくりと頷いた。その痛みを、彼もきっとよくわかっているのだろう。瞳から緑の色彩が消え、元の深い灰色から、だんだんと少し紫がかってきている。メラニーはその眼を見ながらもう一度微笑み、話し続けた。
「でもね、母は結婚する時、わたしも連れていってくれたし、わたしにはお父さんと姉が出来て、三年後には弟も二人生まれて、それからは普通に暮らしていたの。でも血のつながらない姉は、わたしには結構コンプレックスのもとだったわね。彼女は前の奥さんの子供で、奥さんはもともと身体が弱かったせいか、若くして病気で亡くなったらしいの。だから、わたしのような私生児というハンデはなかったし、きれいな人で、頭も良かったの。彼女はあなたと同じ特Aコースで、医療技術局へ行って、そこの一級技師さんに見初められ――もっとも、結婚した時にはまだ二級だったけれど、充分エリートだったのよ――幸せな結婚をしたの。そのことが、わたしの祖父母も母も、内心おもしろくなかったようね。あの娘に比べて、あなたはなんてつまらない子だろう。少しもきれいでないし、頭もたいして良くはないし、性格的にも暗くて不器用で、本当にどうしようもないって、何度もののしられたわ。それで落ち込んで、ふさぎ込んでいたら、その当の姉が心配して、わたしをカウンセラーの先生の所へやってくれたの。その先生が言ってくれたことを、わたしは今でも覚えているわ。比較は意味のないことだ。人はみな、違うのだから。私にはきっと別の、得意なことがあるはずだ。それに心の痛みを知ることは、人間として貴重なことだと思う。それで他人の痛みを思いやれる優しい人間になれるならって。その言葉に励まされて、わたしはカウンセラーの道を志し、そこでアンソニーと出会ったのよ。彼は陽気で気さくな人だったけれど、やっぱり人知れないコンプレックスを抱えていたようなの。私は彼に、かつて先生に言われたことを繰り返したわ。人はそれぞれ個性がある。みんな違う。あなたはあなたの特性を生かすべきだって。彼はわたしの言葉に共鳴してくれて、『やっぱりそれで正しかったんだな!』って。わたしは一目で彼に惹かれたのだけれど、アンソニーは家柄も良いし、性格も良い、容姿もすてきな人だから、わたしなんか、とっても相手にしてもらえないと思っていたの。でも、彼はね、君は誰よりも自分を理解してくれる、個人的にもっともっと君と話がしたくなったって言ってくれて……あら、あら! そんなことまで言うなんて、わたしったら変ね。ごめんなさい。おのろけまで聞かせてしまって」
 ジェレミーも微笑しかけた。瞳が深い紫色に変化し、しばらくじっと見つめた後、再び後ろを向いてキーを打つ。
【僕もそんな出会いがあったらいいですけれど、きっと無理でしょうね】
 メラニーはしばらく返答を忘れた。そうだ。自分と違って、母親の新たな家族に、この子は参加を許されなかった。祖父母の家は、あまりに孤独で冷たい。もう少し大きくなって誰かと結婚しない限り、この子は自分の家族を持てないのだろう。それまで、こんな環境の中に一人置かれるのだろうか? それではあんまりだ。それにこのまま大きくなるということは、満足な交流のあり方も、暖かい家族というものも知らずに大人になるということだ。それで、どうして自分自身で築いていけるというのだろう。
 メラニーは自らの幸運を思った。疎まれながらでも、母の新しい家族の一員になれた自分を。そしてアンソニー・ローリングスという素晴らしい夫と結婚し、四人の愛情豊かな、かわいい子供たちに恵まれた自分を。そう、今の自分の家は間違いなく愛情深い家族だ。アンソニーにしても、ヒルダ、ヘイゼル、そしてマーティンとパトリックにしても、優しい夫であり、子供たちだ。
 メラニーの頭にある考えがひらめいた。そうだ。この子を自分の家族の一員に加えてやってはどうだろう。アンソニーの収入は決して多くはないが、娘たちも働いているし、メラニー自身も、来年から復職する予定だ。もう一人くらいなら、なんとか養えるだろう。ジェレミーとて、二十歳くらいになれば社会に出る資格を持つだろうし、そうなれば経済的な負担もなくなるだろう。
 それは突拍子もない考えかもしれない。いくら血縁ではあっても、ほとんど会ったこともないのに、いきなり家族に加えて、うまく行くだろうか? ジェレミーの第一の保護者は祖父母だ。しかし彼らは明らかに、この孫を疎ましく思っている。たぶんアンソニー夫妻が引き取ると言ったら、二つ返事で承諾するだろう。でも、肝心の夫がOKしてくれるだろうか? 子供たちは? たしかに良い子たちであると自分でも誇りに思っているが、いきなり一度も会ったことのない、しかも言葉をしゃべれない従弟を連れてきて、これからずっと家族としてつきあっていくと告げたら、やっぱり動揺しないだろうか。やってみる価値はあるかも知れないが、今軽はずみに口に出すわけにはいかない。少し慎重に考え、夫や子供たちとも相談してみなければ。
「あなたの力になって上げたいわ」メラニーはそれだけを口にした。
「こんな環境のままでいるのは、あなたにとって良くないと思うの。だからあなたが少しでも人との交流を持てるように、なんとかしてあげたい。でも、どうすれば一番あなたのためになるのか、もう少し考えたいの。二、三日たったら、また会いに来るわね」
 その言葉にこもった暖かい同情と熱意を、ジェレミーも感じ取ることが出来たのだろう。彼は最初驚きと戸惑いの表情を見せたが、やがてゆっくりと微笑んだ。十年前に母シンシアが嫁ぐ時、初めて見せた微笑。それからずっと凍り付いたまま封印されていた笑みが、今再び上ってくる。それは昔と変わらず無垢な、美しい微笑だった。ジェレミーは母以外に、初めて自分を理解してくれ、共感してくれる人を見つけた――彼女はそう認められ、その喜びが彼を再び微笑ませたのだろう。
 メラニーにもまた感動的な思いで、その笑みを受け止めた。
「わたしたちは、お友達になれそうね」
 少年は、その言葉に驚いたように目を見張った。声無き言葉を形作って、唇が動く。
『友達?』
 メラニーはたちまちそれと察した。彼女は再び微笑し、肩をすくめた。
「あらあら、わたしのようなおばさんとあなたとでは、ちょっと友達という言い方は変ね。じゃあ、言い方を変えれば、わたしたちは仲良しになれそうね。あなたがわたしを受け入れてくれるならば」
 ジェレミーはなおも目を見張っていたが、やがてこくりと頷き、再び微笑した。
「じゃあ、握手をしましょう」
 メラニーは手を差し出す。ジェレミーは少しためらっているようだったが、やがて手を差し伸べて、握り返してきた。メラニーの手は堅く引き締まり、少年の手はきゃしゃで柔らかい。彼はおそらくキーを叩く以外、手を使ったことも、身体を動かしたこともないのだろう。メラニーはそう悟った。もう少しこの年頃の男の子にふさわしく、運動をさせなければ。マーティンやパトリックは、子供の頃から外遊びを良くした。幼い彼らを公園に連れていって遊ばせたこともしばしばあったし、今でもしょっちゅう外へ運動に出かけている。この子も身体を動かすことを覚えれば、頬にもっと赤みが差すだろうし、体つきもしっかりしてくるにちがいない。彼女の息子たちのように。

 メラニーが少年の部屋を出ようとした時、軽いノックの音が聞こえ、ついでドアが開いた。そして金髪に長身の男が、大股に部屋の中に入ってきた。
「こんにちは、ジェレミー君。やあ、初めてお目にかかるね。メラニーのカウンセリングの邪魔かとは思ったが、僕も一度自分の甥に会いたくなって、来てしまったよ」
「あら、アンソニー。いらしたの?」メラニーは驚いて声を上げた。
 アンソニー・ローリングスはつかつかと少年のそばに歩み寄り、相手と同じ目線までかがみ込んで、微笑した。
「やあ、初めまして。君がジェレミーくんだね。なるほど……シンシアによく似ているよ。でもシンシアよりも、なお少し美形だね。女の子だったら、さぞかし素晴らしい美人になっただろうが、でもまあ、あまり美人じゃない方が、女の子には幸いだ。君は男の子だから、きっと女の子にもてる以外、大した副作用はもたらさないだろうがね」
 気さくに言った言葉に含まれた一抹の苦さは、ジェレミーには感じ取れなかっただろうが、メラニーには理解できた。夫は娘、ヒルダのことを考えていたのだろう。ヒルダは美人だ。ぱっと目につくような華やかさがある娘だ。でも、それがよこしまな心を抱いた若者に刺激を与え、不幸な結果を招いた。娘は今ほとんど立ち直っているが、その忌まわしい事件とその後のいきさつが、彼女にどれほどの苦しみと悲しみを与えたか、アンソニーもメラニーも、そして他の子供たちも良く知っていた。
「おっと、僕も自己紹介しないとね。僕はアンソニー・ラーセン・ローリングス。シンシアの兄、だから、君にとっては伯父だ。よろしく!」
 アンソニーは彼一流の人を逸らさぬ笑顔を浮かべて、手を差し出した。
 ジェレミーは最初、戸惑いを感じているようだった。いきなり見知らぬ男に入ってこられ、それもすぐに至近距離まで寄ってきて、単刀直入に言葉をかけられたので、面食らったのだろう。彼はしばらく無言で伯父の顔を見た後、控えめな笑みを浮かべた。そしておずおずとした動作で手を伸ばし、差し出された手を握った。
「ずいぶんと柔らかい手だな。まるで女の子のようだ。それに……」
 アンソニーは率直な調子で言い、ついで手を離して、少年の両肩に触れた。
「男の子がこんなに華奢な骨格では、いざという時、彼女の一人も守れないぞ。君の身体に筋肉はないのかい? 僕は精神面のカウンセリングはわからんが、一つだけは忠告できるぞ。もっと外に出て、運動したまえ」
「あっ、わたしも、そう思ったわ」メラニーが微笑して頷いた。
「それに精神面でもね。わたしのカウンセリング結果はこうよ。この子の最大のセラピーは、コミュニケーション。人との交流を知ること。それに尽きるの」
「コミュニケーションか。まあ、たしかにこの部屋に、ずっと閉じこもりきりではね」
 アンソニーは頷いて、しばらく何事か考え込んでいるようだった。
「だが母さんは、あまりこの子と関わりたくないようだから、もっとコミュニケーションを保てと言っても、無理だろうな。父さんに至っては、まったく論外だし……」
「ええ」
「ひとつ君に聞くが、メラニー、精神障害者の施設というのは、十分なコミュニケーションが保てるのかい?」
「いいえ。自閉症児や知的障害の子供たちは、今この子が居るような環境と、ほとんど同じ状態に置かれるわ。何も治療など出来はしないの。ただ単純作業ができるように、強制的に仕込まれるほかはね。とても愛情なんて、かけてはもらえないわよ」
「そうか……」
 頷いて、アンソニーは再び考え込んでいるようだった。ひょっとして夫は自分と同じことを考えているのでは――メラニーがそう思い至るまもなく、夫は妻を振り向いた。
「家へ連れていってはどうかな、しばらく」
「ええ。わたしも、それは考えていたのよ」
 やはりと思うと同時に、いかにも夫らしい考え方だと、愛情に満ちた安堵を感じながら、メラニーも即座に頷いた。「この子を家へ連れていって、子供たちと一緒にさせてやれば、人との交流を取り戻せるかもしれないと。特にマーティンやパトリックとは、ジェレミー君は年も近いし、きっと良い刺激になるわ。パットはあなたに似て開放的で親切だから、ジェレミー君ともすぐに仲良くなってくれると思うし、マーティにしても、控えめだけれど決して不親切ではないから、大丈夫じゃないかしら、と。でもあなたの意見を伺ってからでないとと、思っていたところだったの」
「ああ、うちの子たちは、みないい子ばかりだからね。その点は、大丈夫さ」
 アンソニーは笑って請け合った。

 ジェレミーは二人の会話の意味がわかると、驚きを押さえきれなかった。この二人はいったい、どういう人たちなのだろう。閉ざされた自分の心の中へ入ってきて、理解してくれただけではなく、この自分を彼らの家族に加えてくれると言うのか? しばらく預かっては、との言葉から察するに、恒久的に引き取ってもらえるわけではないかもしれないが、このひとりぼっちの閉ざされた世界を、たとえしばらくでも出ていけるなら――驚きの後に感じたのは、そんな期待の感情だった。だが、不安もすぐにやってきた。彼らの家には、四人の子供たちがいるらしい。まだ見ぬ従姉兄たちは、自分のことをどう思うだろう。蔑んだり、嫌ったりはしないだろうか――。
『あなたは、いない方が良かったの』
 十年前、まだ幼かったジェレミーに投げつけられたエセル伯母の言葉は、いまだに少年の心に響き続けていた。自分はいらない子なのだ。自分がいるだけで、人は不愉快になるのだ――物心ついて以来、彼をとりまく周りの感情は、あまりにも否定的であり過ぎた。泣いても呼んでも応えてくれる人は、誰もいなかった。母は視線を合わせることもせず、いつも無言だった。結婚して家を出る、あの瞬間以外は。最後に彼女は愛情を示してくれたが、すぐにいなくなってしまった。祖母も視線を向けることはめったになく、同じように無言で、時おりかける言葉は、いつも同じだった。――『うるさいわねえ!』祖父は存在しないも同然だった。一度だけ、ジェレミーが三歳のころ、母が自分をシャワー室に連れていく時、祖父と廊下ですれ違ったことがある。その時、祖父は怒鳴った。『そいつをわしの目に触れさせるな!』――そんな生活の中で、ジェレミーは感情を殺すことを覚えた。自分の存在を消すことを覚えた。部屋から出ず、シャワーも夜中に浴びて、祖父や祖母と顔を合わせないようにすれば、彼らも自分もいやな思いをせずにすむ。食事も自分でドアを開けられるほど大きくなってからは、廊下側のドア横に置いた台を通じて、やり取りをした。持ってきた合図はノックを一回。数分たってから、ドアを開けて部屋に持っていき、食べ終わったら台の上に返す。そうすれば、お互いに顔を見ることもない。明らかに祖母はそれを歓迎しているようでもあった。その中で、彼の疎外感はますます増していった。自分はいらない子、厄介者――今までに接してきた人々からのその思いは、やがてジェレミー自身の思いともなって、彼の心を縛り付けていた。
 しかし、メラニーやアンソニーから受けとった感情は、まったく違うものだった。彼らは肯定的な視線で、ジェレミーをまっすぐに見てきた。
(この子を、こんな環境に置いてはいけない。自分たちが力になれるなら、助けてやりたい)彼らのまなざしは、そう語りかけているようだった。
 アンソニー伯父夫妻は暖かく、同情に満ちていた。それをはっきり認識した時、ジェレミーは深い感動を覚えた。母が最後に自分に愛情を示してくれた、あの時以来の思いだった。伯父夫妻はもしかしたら、母以外の、唯一の味方かもしれない。母は遠く離れ、会うことはかなわないが、彼らは――彼らは自分を厄介者だとは、思っていない。それが何よりも信じられないことだが、本当のことなのだ。それなら彼らなら、自分が普通に存在していても、邪魔にはしないのだろうか。現にこうして部屋を訪ねてきて、話しかけてくれる伯父夫妻なら。その子供たちのことまでは、ジェレミーは知らない。もしかしたら、他の人と同じように、自分を厄介者と思うかもしれない。でも――でも従姉兄たちはアンソニーとメラニーの子供たちだから、もしかしたら、その父母と同じ考えを持ってくれる可能性もある――。
 怖れとためらい、そして熱望が、激しく心の中で交錯するのを感じた。ジェレミーは文字を打った。
【伯父さんたちは僕がいても、いやではないですか?】
「そんなことはないさ」アンソニーは即座に首を振り、
「そうよ。心配しなくても大丈夫よ」メラニーも優しく微笑む。
 ジェレミーは心の底から安どのため息をつき、そして思い切って打った。
【僕は、あなたたちと少しでも一緒にいたい。連れていって下さい、お願いです】
 その言葉を目にして、アンソニーもメラニーもかすかな笑みを浮かべた。
「連れていってあげるよ、もちろん」
 アンソニーは少年の肩をぽんと叩いた。
「だからもっと、君の意志をそうやって言葉にしてごらん。君の思いや、感じたことを。たとえ声は出なくても、そうすれば人と交流することが出来る。傷つくことを怖がらないで、接してごらん。それが、君の一番の治療法だ」
「アンソニーったら、わたしの言いたいことを、すっかり言ってしまったわね」
 メラニーは微笑んで夫を見る。
「そうかい? 君の分野を侵犯して、悪かったかな?」
 アンソニーは笑ったあと、言葉を継いでいた。
「まず、母さんに話をしなければね。反対はしないだろうが。それから君の準備もあるだろうし、うちの子供たちにも話さなければならない。だから……そうだな、三日後くらいに迎えに来るよ。それで良いかい?」
 その言葉に、ジェレミーはぱっと顔を輝かせて頷いた。指が踊り、文字が現れる。
【本当に、本当に、来てくれますか?】
「ああ、約束するよ」アンソニーは力強い口調で、そう請け負ってくれた。




BACK    NEXT    Index    Novel Top