Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

序章(2)




 それから四年の歳月が流れてゆき、シンシアは今、花嫁の装いをして、鏡の前に佇んでいた。二三歳になった彼女は、家を出て、新しい家庭を作る。その儀式が今日だ。彼女は純白のドレスの襞をそっとつまみ上げ、紗のベールをかぶった自分の姿を、長い間見つめていた。すみれ色がかった濃い灰色の大きな瞳に、満足とあきらめが入り交じった表情をうかべて。
「シンシア、用意はできた?」
 マチルダがドアを開けて入ってきた。
「ええ」シンシアは静かに頷き、母を振り返る。
「幸せになりなさいね、シンシア。アンダーソンさんは、おまえには申し分のない良い旦那様よ。昔のことはきれいさっぱりと忘れて、あの人のために、良い奥さんにおなりなさい。そうすればおまえは、幸せになれるわ」
「そうね……」シンシアは床に視線を落としながら、静かに頷いた。
「ええ、ジョンはいい人だわ。こんなわたしを、とても愛してくれる。政府の許可も下りたし……」
「いいわね、ジョン・アンダーソンさんはエリート職員なんでしょう、政府の教育局の。一級プログラマーですものね。しかも、あなたみたいな過去のある人にね。なかなか出来ることじゃないわよ。本当についているわね。でもシンシアは美人だし、男の人の気を引くのは、お得意ですものね」
 姉の声がした。六歳年上の姉エセルは八年前に結婚し、家を出ていたので、本来は婚礼が始まるまで、広場の集会室で待っているはずだ。が、妹の様子を見に、ちょっと家まで来たのだろう。
 シンシアは小さくぴくりと身を震わせたが、いつものように微かな痛みを感じながら、聞き流そうとした。エセルは鏡の中の妹に向かって、一瞬鋭いまなざしを投げかけた。妬みというより、憎しみに近い視線だ。彼女はあれから、ほんのちらっとしか妹を見なくなった。エセルはすぐにシンシアから目をそらせると、相変わらず鋭い口調で言葉を続ける。
「ジェレミーは置いて行くんでしょ? 当然よね。アンダーソンさんにしたって、わざわざ素性のしれない私生児を、引き取りはしないでしょうから。親兄弟や親戚からも、反対されるに決まっているでしょうし。あの子って、今どうなってるの? 生まれてから全然見たことがないけれど――まあ、見たくもないけれどね」
「見た目は、結構かわいいのよ、たぶんね」マチルダは気のなさそうに答えた。
「でも何もしゃべらないし、かわいげのない子だわよ。もっともまとわりつかれても、うっとうしいだけだけれど。わたしもあまり積極的にかかわりたくはないし、シンシアもね」
「ふうん。見た目はかわいいわけね。そのあたりはシンシアに似たのかしら。でも男の子じゃ、見た目が良くても、あまり役に立ちそうにないわね。うちも、とんだお荷物をしょいこんだものだわ」
「本当にね。シンシアが結婚した後は、わたしが育てていかなければならないわけだし。気は進まないけれど、仕方がないわ。シンシアのためだもの。せっかくのいい縁組なのだから、あの子のことでダメになるのはもったいないわ。誰かあの子を欲しいと言ってくれる人がいればいいけれど、まあ、まずいないでしょうしね」
「絶対にいないでしょうねえ、それは。母さんも大変ね」
 エセルはいささかの迷いもない様子で、頷いていた。

 背後でそんな会話が交わされている間も、シンシアは無言でじっと鏡を見つめていた。姉の棘のある言葉には、もう慣れている。仕方がないことなのだろう。あんなことが起きる前は、とても仲の良い姉妹だったのに――。
 シンシアは小さくため息をもらし、母と姉を振り返った。
「ママ、姉さん。お願いがあるの。少しだけ、わたしを一人にしておいて」
「ええ。わかったわ。でも、あと十分ほどでアンダーソンさんがお見えになるから、あまりゆっくりはしていられないわよ。花婿さんがいらしたら、また来ますからね。エセル、あなたは先に広場に行っていて。バリーや子供たちもいるのでしょう?」
 マチルダはエセルを促して、部屋から出ていった。
 誰もいなくなった静寂の中、シンシアは再び深くため息をついた。ドレスの襞を崩さないようにそっとスカートをつまみ上げ、鏡の前の椅子に腰を下ろすと、花嫁の装いをした自分の姿を、再びじっと見つめる。
 シンシアは、エセルがやっかみ半分で言ったとおり、美しい娘だった。すっきり整った鼻筋に、浮き彫り彫刻のような顔立ち、清純な輪郭、抜けるように白い肌。紫がかった灰色の大きな瞳は自然にカールした長いまつげに縁取られ、緩やかに波打った黒髪の巻き毛が、肌の白さと鮮やかなコントラストとなって、顔を縁取っている。でも今鏡に映っている自分の姿は、幸福そうな花嫁には見えない。手でベールを後ろにやりながら、少しいらだたしさを感じた。何を悲しむことがあるのだろう。ジョン・スタンフォード・アンダーソンは、どこから見ても理想的な夫になるだろう。
 彼と出会ったのは一年半前だ。彼女は十八歳と八か月で専門課程が終わり、物品管理局の二級オペレータとして仕事を始めていたが、一年もしないうちに妊娠のため在宅勤務になり、さらに出産に伴って、三年間の休業となった。生まれた子供を育てるために。しかし、その子供に愛情を持つことが出来なかった彼女は、朝のミルクを飲ませ(母乳は与えなかった)、オムツをかえると、避けるように外に出、公園や図書館で本を読み、時間を潰していた。その間の赤ん坊の世話は、娘の育児補助のため再び在宅勤務になった母が、やってくれた。たぶん母も時間ごとに部屋を訪れ、ただミルクを飲ませてオムツをかえるだけなのは、わかっていたが。そうして毎日を過ごしているうちに、ある日公園で、偶然出会ったのだ。仕事の帰りに通りかかったジョン・アンダーソンは、ベンチに一人で本を読んでいた若く美しい女性に、心を惹かれたらしい。何度か彼はそこを通りかかり、そして何回目かで、話しかけてきた。そうして二人は知り合った。
 彼は感じのいい男性だ。背は高く、鳶色の髪は形よく刈り込まれ、その笑顔は人の気をひきつけるものがある。そして将来を嘱望された、有望な人間だ。二人はそれから定期的に会い、知り合って一年後、彼からプロポーズされた時、彼女は承知した。政府の許可も下り、今まさにその儀式の日なのだ。彼を愛さなければならない。良い妻になって、あの人の子供たちをもうけ、良い家庭を築かなくては。四年間重荷となっていた最初の子供も、母が引き取ってくれるのだし。
「シンシア・ラーセン・ローリングス。あなたは、もう居ないのよ。あなたは今日死んだの。これからわたしは、シンシア・ローリングス・アンダーソンとして生きるのよ」
 シンシアは鏡に向かい、静かな口調でゆっくりと言った。自らに言い聞かせるために。両手を胸のところで握りあわせると、大粒の涙がこぼれた。
「さようなら……」
 言葉にならない名前が、唇から漏れた。その名前は言えない、たとえ死んでも。それは、決して許されない愛。シンシアが心から愛した人、子供の父親――それは、この世では決して結ばれることのない人だ。
 やがて、ドアがノックされ、母が呼ぶ声がした。
「シンシア、アンダーソンさんが見えたわよ」
「ええ、今行くわ」シンシアは部屋のドアを開けて、外へ踏み出した。

 婚礼の宴が終わったあと、シンシアは再び自室に帰り、純白の花嫁衣装を脱いで、サーモンピンクの旅行服に着替えた。ワンピースは身体に沿ったシンプルなラインで、ふくらはぎのあたりまで垂れたスカートのすそは、緩やかに広がっている。同じ素材でできた長袖のボレロには、飾りボタンと銀色のふち飾りがついていたが、ワンピースには、ほとんど装飾はない。その服は彼女のほっそりとした身体の線を、ほどよい優雅さで包んでいた。豊かな黒髪をすき上げて編んだ頭に、サーモンピンクの小さな帽子をかぶり、白いストッキングに白い靴をはく。すべて、この日のために父母が新調してくれたものだ。これから新夫妻はヨーロッパへと新婚の旅に出かける。
 着替えを終えると、シンシアはすっと鏡の前に立ちあがった。これから新しい生活が始まる。ジョン・アンダーソンの妻として。過去とは、はっきり決別するのだ。この家に帰ってくることも、もうほとんどないだろう。母は寂しがるだろうが、よけいな感傷を起こさせないためにも、自分の決心を鈍らせないためにも、その方がいい。
 シンシアは堅く唇を引き結び、ついで鏡の前で笑顔を作ろうとした。幸せそうに見えるだろうか。ジョン・アンダーソンの親族たちに、幸福で満ち足りた花嫁として、映ってくれるだろうか――。
 背後で、静かにドアが開く気配がした。シンシアは振り返り、思わず微笑を引っ込めた。
「ジェレミー……」シンシアは小さく呟いた。
 四年前に産み落とし、大手術をして生き延びた、望まれない私生児――ジェレミー・ジェナイン・ラーセン・ローリングスは、美しい子供だった。母譲りの整った輪郭、白い肌、黒いまつげに囲まれた大きな瞳、一筋の乱れなく整った顔を、金髪の巻き毛が縁取っている。子供はじっとシンシアを見つめていた。その目の色は光の具合で、また気分次第で様々に変化したが、今は母親と同じ、紫がかった灰色になっている。何かもの問いたげな表情を浮かべて。
 シンシアは、この子が生まれて以来、できるだけ接することを避けてきた。生きていくために、必要最小限の世話はしなければならないが、それも半分ほどは母に任せていた。赤ん坊時代は時間が来たらミルクを飲ませ、オムツをかえるだけ。少し大きくなって動き始めるようになると、サークルに入れて、おもちゃを二つほどあてがい、放っておいた。一人で食事がとれるようになると、乳児用カップに入れたジュースと手づかみで食べられる乳幼児用食――いろいろな栄養を添加した、丸い小さな柔らかいボール状の食べ物をいくつか容器に入れ、手の届くところに置いておいた。そして二十時になると、寝ていようといまいと、子供用寝台に連れて行った。子供の泣き声は無視した。そして三日に一回、シャワー室に連れて行った。世話をしている間、話しかけることも、笑いかけることもなく、子供と眼を合わせることすらなかった。二歳からはサークルを取って、小さな自分の部屋の中を自由に動かせていたが、部屋から出る心配はなかった。ドアの開閉ボタンは、この子には手の届かない高さにあったからである。
 そんなことを繰り返すうちに、子供の方も泣かなくなっていった。四歳の今になるまで言葉を発することもなく、表情も消えていった。だがシンシアは、手間がかからなくなったと、ほっとしただけだった。さすがにいつまでもオムツではいけないと思い、三歳になったころ、部屋に小さなおまるを置き、トイレを教えた。子供はすぐに覚えた。
 シンシアの結婚式にも、ジェレミーは完全に蚊帳の外だった。自室から出てくることすら、考えなかった。相変わらずドアのボタンには、まだ背が届かなかったからである。しかしなんとなく普通とは違う雰囲気を、この子も察したのだろう。それできっと、テーブルか何かを踏み台にして、何とかして部屋から出、母のもとに来たのだ。この部屋のドアも、何とかしてそれで開けたのだろう。後で廊下に出てみると、たしかに子供の部屋で使っている小さなテーブルが、ドアの開閉ボタン前に置いてあった。
 シンシアは叱ろうとした。『部屋にいなさい。出てきちゃだめよ!』と。しかしその顔を見、目を合わせた時、シンシアは、ふいに強い憐憫を感じた。今まで避け続けてきた、重荷にしか思われなかったわが子ではある。でも、もうこれきり別れなければならないというこの時、心の奥に押し込んだはずの母性が、突然目覚めたように。そうだ――この子は自分の子だった。たとえ、どんないわくがあろうとも、たとえつぎはぎだらけで生かされているとしても、ともかく彼女の中で半年以上もはぐくんだ我が子だ。子供に何の罪があったのだろう。罪があるのは、我が身なのに。それなのに、わたしはこの子に何一つ母親らしいことをしないで、捨てようとしている――。涙があふれそうになった。
 シンシアは膝をついて子供と同じ目線の高さになると、手を伸ばして、子供の肩にかかった金色の巻き毛を撫でた。
「ごめんね、ジェレミー」彼女は初めて心を込めて、その名前を呼んだ。
「あなたを連れていけない、ママを許してね。あなたのことは忘れないわ。元気でね」
 子供はなおも大きな目を見開いて母を見つめていたが、ゆっくりと微笑した。その微笑みは、美しい顔の上で花が開くように輝いた。
「ああ、ジェレミー。あなた、初めて笑ったわね。うれしいわ。本当にかわいい笑顔よ」
「ママ……」
 言葉が子供の口から漏れた。生まれてから四年以上も一言もしゃべらず、表情も動かさなかったこの子が、初めて発した言葉だ。ちりんと鈴が鳴るような、かわいい声だった。
「あら、あら、初めてしゃべったのね! うれしいわ!」
「ママ……行っちゃうの?」
 子供は母を見上げ、悲しげにそう問いかける。
「ええ。ごめんなさい……」
 シンシアは思わず子供の身体に両手を回し、抱きしめた。
「せっかく、あなたとこうして親子になれたっていうのに……いいえ、わたしが気づくのが遅すぎたのね。あなたが生まれた時、わたしはひどくショックだった。それに、どうしてもあなたのお父さんのことを思い出させるから、あなたを無視しようとしてきたの。わたしには愛せない、なんて言って。何の罪もないあなたに。ああ、本当にひどいこと……わたしには、母親の資格なんてないわね」
「ママ……でもぼく、ママが好きだよ」
「ありがとう、ジェレミー」シンシアは思わず涙にむせんだ。
「わたしもあなたのことが、大好きよ。覚えておいてね。わたしたちはこれから離ればなれになってしまうけれど、ママはいつも、あなたのことを気にかけているわ。あなたを愛しているからね」
 シンシアはこの土壇場になって、初めて母の愛を、そして我が子と心が通い会った喜びを知ったのだった。しかし、別れはすぐそばに迫っていた。
「出発の時間ですよ、シンシア。アンダーソンさんが待っているわ」
 マチルダがやってきて、そう告げた。そして傍らにいた子供に目を向け、驚いたように叱っている。
「まあ、ジェレミー。どうやって、ここにきたの!? 部屋に帰りなさい!」
「大丈夫よ、ママ」シンシアは子供の肩に手を置き、母親を見た。
「ジェレミーのことは、ジョンも知っているわ。わたしはこの子にお別れをちゃんと言えて、良かったと思っているの」
「そう……まあ、それならいいですけれどね。でも、表には連れていけないわ。ジェレミー、ここでお別れするのよ。ママが出かけたら、すぐにお部屋に行きなさい」
「大丈夫……ね」
 シンシアは両手を息子の肩にかけ、ついでその手を回してぎゅっと抱きしめると、その頬にキスをした。そして柔らかい金色の巻き毛をもう一度慈しむように撫で、ささやく。
「じゃあ、元気でね、ジェレミー」
「……うん」子供は涙ぐみながら、頷いた。その意味を、小さな心の中ではっきりとわかっているように。
「母さん。ジェレミーのことを頼みます」
 今までになく真剣な思いで、シンシアは母に願った。そして、促されて家を出た。
 
 小さな息子はドアのそばに立ったまま、廊下を歩み去っていく母の後ろ姿をじっと見送っていた。目にいっぱい涙をためて。が、突然声を上げて飛び出し、後を追いかけて走り出した。
「ママ、ママ!! 行っちゃいやだあ!!」
 ジェレミーが言葉を発した。これほど激しい感情を露わにした。その驚きが、一瞬マチルダをすくませた。が、すぐにはっと気づいた。この子を玄関から出してはいけない。結婚式の雰囲気が台無しになる。彼女は走って孫の小さな手を取り、強く引き戻した。
「だめよ! あなたは、ここにいなさい!」
「いやあ!! ぼくもママといっしょに行きたいー!!」
 普段は完全におとなしい子供が、まるで狂ったようにもがきながら、泣きながら叫んでいる。マチルダは怒りを感じた。
「ジェレミー! 黙りなさい! お母さんの幸せを邪魔しないの! あなたがいては、お母さんは幸せになれないのよ!」
「どうしてなの……?」
 子供は力が抜けたように、その場に座り込んだ。
「ぼくは、いないほうが良かったの……?」
「そうよ。あなたはいない方がいいの! 初めから、いない方が良かったのよ」
 冷たい声が背後でした。いつの間にか再びこの家に戻ってきたエセルが廊下に立ち、氷のようなまなざしで子供を見ている。マチルダは驚いて振り返り、娘を見た。
「エセル……いくらなんでも、そこまで言っては、言いすぎじゃないの」
「でも、母さんも、本当はそう思っているのでしょう? この子も自分の立場を、ちゃんとわかった方がいいのよ」
「それは、たしかにそうだわ……」
 マチルダは自分の足元に座り込んだ子供を見やった。
 ジェレミーはしばらくして立ち上がり、自分の部屋に戻っていった。ドアの開閉ボタンに手を伸ばしたが、手が届かないので、再び引き返し、母の部屋の前に置いたテーブルを取ろうと、戻りかける。
「ほら」
 エセルがそのテーブルをつかみ、開閉ボタンを押した。そして蔑んだ調子で続けた。
「早く入りなさい。もう出てこないで。まったく、こんな悪知恵だけは一人前に働くのね」
 子供はちらりと伯母と祖母を見たあと、部屋に入っていった。エセルがテーブルを部屋の中に放りこみ、ドアを閉めた。
 マチルダはその姿に、微かな同情を感じたが、同時に思っていた。これでいいのだ。それにしても、なんだってシンシアはこの土壇場になって、優しい母親のふるまいをするのだろう。それでは子供にも、かえって酷ではないか。ジェレミーが部屋から出てきても、エセルがやったように冷淡にあしらって、去っていけばよかったのに、と。彼女は今さら、孫に対して優しいお祖母ちゃんになろうという気は、まったく持っていなかった。シンシアはこれからこの子と関わることはないのだから、良いだろうが、自分はこの子が一人前の大人になるまで、これからもずっと見ていかなければならないのだ。ただでさえ不本意で、しかも自分でもまったく愛情を抱けない子には、精神的にも肉体的にも、時間も労力も、必要最低限しかかけたくない。多少言葉が話せなくとも、感情表現がなくとも、手間がかからない方が楽だったのに、かえって扱いにくくなったら、厄介だ。ただでさえ厄介なのに――。
 マチルダはため息をつくと、家を出る娘を見送りに、玄関へと出ていった。




 それから、十年の年月が過ぎていった。良く晴れた八月初めの午後、ローリングス家のリビングではマチルダと、息子の一人であるアンソニー、そしてその妻が語らっていた。アンソニー・ローリングスは双子の息子の弟で、生産局の技師をしている。兄ダニエルが黒髪で黒い目の、父親似のがっしりした男性であるのにたいして、アンソニーは母親の血が濃く、長身で金髪、繊細で優雅な顔立ちをしていた。社会的にはダニエルの方が成功していて、一族の誇りでもあった。でもジェフリーがダニエルびいきである一方で、マチルダはアンソニーの方が気の合う息子だったようだ。アンソニーは気さくで陽気であり、ダニエルはその点、生真面目すぎて冷たいところがあるように感じられるせいだろう。話し相手としては、アンソニーの方が数倍おもしろい――それは、彼らを知る一族共通の意見だったようだ。アンソニーは十四年半前、南アメリカで募集していた新しいポストに応募し、合格したため、彼とその家族はニューヨークを離れた。それからほとんど実家に帰ってこなくなった時には、少しばかりの寂しさを、一族のみなに感じさせたようだ。
 だが、アンソニーは帰ってきた。彼はこの七月に再びニューヨークに仕事を求め、認められて、一家は約十四年と七ヶ月ぶりにこの地に戻ってきたのだ。息子の帰還に声を上げて喜びを表したマチルダは、落ち着いたらすぐ家に遊びに来るように言い、息子夫婦はそれに応えてやってきたのだった。

「久しぶりね。シンシアの結婚式以来じゃない?」
 マチルダは華やいだ声を出しながら、お茶をティーカップに注いだ。
「そうだね。本当に久しぶりだ」
 アンソニーはカップを受けとり、笑顔を浮かべた。
「ところで、父さんは? 今日は留守のようだけど、元気かい?」
「ええ。去年心臓を悪くして、しばらく入院していたけれど、今はわりと元気よ。いざという時のために、薬はずっと持ち歩いているけれど、幸いほとんどやっかいにはなっていないわ。ここ二、三ヶ月は、ずっと調子がいいのよ。それで昨日からね、ダニエルたちとマイアミに行っているの。一緒に行きませんかって、声をかけてもらったから。わたしはあなたが遊びに来ると言っていたから、ここに残ったけれど、ジェフリーの静養が一番の目的ですしね」
「そう。それはありがとう。それに良かったね。父さんも楽しんでいるだろう」 
 アンソニーはお茶を一口飲み、しばらく黙ったあと、再び問いかけた。
「ところで、シンシアたちは元気かな? クリスマスにカードをよこすぐらいで、あまり連絡がないからね」
「あの娘も結婚して一年もたたないうちに、ヨーロッパへ移住してしまったんですものね」
 マチルダは少しため息混じりに頷いた。
「でもまあ、アンダーソンさんにとっては昇進したも同然なのだから、良かったんでしょうけれど。あの娘はこの五月に、アンダーソンさんと間に四人目の子供が産まれたのは、知っている? 男の子だったって。この子は自然出生なのよ。だから結構みんな気を揉んだのだけれど、幸い今度は大丈夫だったわ。ジェームスという名前になったのよ。でも、みんなはジミー坊やと呼んでいるわ」
「へえ、そうか、知らなかったよ。それはよかったなあ」
「ええ。ヨーロッパへ行ってからも、一月に一度は通信をよこして、近況を知らせてくれるのよ。なかなか帰れないからと。子供たちの写真もたくさん送ってくれて。あなたたちみたいに、行ったきりクリスマスカードが来る以外ほとんど音沙汰なし、なんて薄情じゃないのよ、あの娘は」
「ごめん、ごめん。あまりにも南米はニューヨークと違いすぎてね。そこにどっぷりつかってしまったものだから、ほとんど家のことを思い出している暇がなかったんだ」
「まあ、あなたって子は昔から、まめに連絡をする子ではなかったものね。面倒くさがりなのかしら。さあ、あとでいろいろと向こうの話を聞かせてね。でも、あなたたちがサンパウロに行ってしまった時、もう戻る気はないのかと思ったわ。あなたもそんなことをほのめかしていたでしょう。帰ってきてくれて、本当に嬉しいけれど……むこうで何かあったの?」
「まあ、いろいろとね」アンソニーはため息をつくと、カップを置いた。
「僕も帰ってくる気はなかったんだ。いい職場だったし。でも、ちょっと娘たちのことが心配になって、サンパウロを離れたんだよ」
「まあ……それはどう言うこと? ヒルダとヘイゼルが、どうかしたの?」
「二人とも、ちょっとトラブルがあったんだ。ことの発端は、去年の夏……ヒルダがろくでもない男に乱暴されて、妊娠してしまって」
「あらまあ!」
 マチルダはそう声を上げた。持っていたカップから、紅茶が少し受け皿にこぼれた。
「本当なの、それは。たいへんじゃないの! だって、ヒルダはまだ二一になったばかりでしょう?」
「ああ、その時には、まだ二十歳前だった。相手は僕の上司の息子で、本当にろくでもない奴でね。口実をつけて呼び出されて……本当に卑劣で、今でも頭に血が上りそうだ。おまけに運悪く、妊娠してしまって。相手の親も息子の行いを知った時には、出来心だった、許してくれ。だが若いもの同士、良くあることだろうなどと言っていたが、妊娠となると、さすがにあわてたらしい。誰の子かは調べればわかってしまうから、言い逃れも出来ないからね。金をやるから、昇進させてやるから、息子の子供ではないということにしてくれ、ときたものだ。相手にはヒルダと結婚する気なんかありはしないし、ヒルダの方でも、あんな男とは死んでもいやだろう。それで、相手は金で処理しようとしたんだ。よっぽど叩き返してやりたかったが、騒ぎを起こすのは娘のためにならない。だから涙をのんで、娘一人の子供として、こちらで育てると約束したわけなんだ。ヒルダが流産した時には、相手は早まって余計な金を出したと、あからさまに残念そうな顔をしていたけれどね」
「まあ、なんてこと……流産したの?」
「ああ。十一週で流産してしまった。どうやら先天的な異常があって、生まれるまで大きくはなれなかったようなんだ。ある意味では、親孝行な子だったね」
「でも、不本意な子でも、わたしたちには血のつながった孫ですから、生まれてこないで良かったなんて言い方は、かわいそうなんですが……」
 アンソニーの妻メラニーが、そこでためらいがちに口を出した。
「ヒルダもとてもショックを受けて、悲しがったんです。たとえ不本意な子供でも、自分の子には違いないのだから、ちゃんと生まれて欲しかった。そうしたらちゃんと育ててあげるのにって、嘆いて……」
「でも、本当にそれで良かったのよ。そんな事情ならね。たしかに、その子は親孝行だったわ」マチルダは首を振り、ため息混じりに付け加えた。
「ああ、こんなことを言ってはいけないのでしょうけれど、ジェレミーもいっそのこと、そうだったらよかったと思う時があるのよ。その方がシンシアも気が楽だったでしょうし、わたしたちだってね……」
「ああ、ジェレミーね……」アンソニーは思い出したように頷いた。
「でも、あの子は現に生きているんだからね。そんな言い方はやはり、かわいそうだよ。あの子は修復可能な障害だったから、施設の入所が認められなかったし、しかも手術に大金が必要だったって聞いたから、たしかに母さんたちが面倒を見るのも、大変だろうけれどね。今もいるのかい、ここに?」
「ええ。ずっと自分の部屋に閉じこもりっぱなしだけれどね。食事はメイドがいる時には運んでもらっているし、シャワーも私たちが使っていない時を見計らっているようだから、会いもしないけれど。だから普段はわたしたちもほとんど、あの子が居ることを忘れているわ。食事の時一人分余分に用意しなければと、思い出すだけよ」
 メイドといっても、ロボットだ。人間とは明らかに見分けがつくよう、金属の肌に色とりどりの髪をした、若い女性を模したアンドロイドで、命令に従って、家事や育児補助を行う。裕福な家には一体、時には複数体常駐しているが、一般家庭では週に何度か、支払う料金に応じて派遣されてくることが多い。ジェフリーとマチルダの家では、週に四回、午後の六時間だけ来ていた。今は来ていないので、マチルダは自分で紅茶を煎れていた。
「じゃあ、今あの子がどういう状態なのか、母さんも知らないのかい?」
「そうねえ……メイドのいない時にはわたしが食事を持っていくけれど、部屋の前に置くだけだから。でも、ああ、そうそう、あの子、頭はいいのよ。六歳の時の学力検査で、IQが一六八あるって通知が来たから。それを聞いて、びっくりしたわよ。だってあの子、シンシアの結婚式の時に一度しゃべったきり、何も言わないし、表情だって動かさないから、わたしはてっきり何か知能に障害があるのかと思っていたんですもの。そうしたら、それどころか天才だなんて言われてね。わからない子よ、あの子は。職業適性の通知が来て、検査官がこちらまで見えたから……ええ、あの子はちょっと特殊な事情だから、在宅審査にしてもらったのよ。だから、もう専門課程に入っているんでしょうね。ついこの間、十四才の誕生日のことよ。もっとも結果が何になったか、わたしは知らないわ。本人に通知されるだけだし、あの子は相変わらず何も言わないから」
「じゃあ、知能的な欠陥はないんだね。それどころか、IQが百六十以上なんて、相当に優秀なんだ。二年も早く専門課程をやっているということは、特Aコースか。でもそれなのに何も感情を表さず、しゃべりもしないと言うのは、不思議だな」
「知能ではなくて、情緒的な障害なのかしらね。たとえば、自閉症のような……」
 メラニーが小さな呟きを漏らした。
「なんだい、それ?」アンソニーが怪訝そうに聞く。
「自分の回りとコミュニケーションが保てない、感情の病気のようなものよ。わたし、以前にそういう症例も見たことはあるわ。現場で仕事をしていた頃に。回りの世界を自分の心から遮断してしまって、ただ自分しかない……そんなに多いケースではないけれど、たまにいるのよ、そういう子が。扱いが難しいわ。知能は普通かそれ以上のケースもあるけれど、感情のコミュニケーションが出来ないから、たいていは施設送りになってしまうの」
「そうね、メラニー。あなたは昔、専門家だったわね。カウンセラーだったのですものね。それに、もうすぐ職場に復帰するのでしょう? だったら家にいる間に一度、あの子を見てやってちょうだい。それで、もしあの子がそういう病気だったら、専門の先生を紹介してほしいのよ。もし、病気だって診断されれば、施設に引き取ってもらえるのでしょう?」
 マチルダがため息混じりに訴え、メラニーは頷いた。
「いいですわ」
「まあ、よかったわ……」
「じゃあ、お茶がすんだら、あの子の所に行っておいでよ」
 アンソニーも妻に頷いている。
「それで……あなたたちはヒルダにいやな思いをさせないために、こっちへ来たの?」
 マチルダはもとの話題を思い出したようで、改めてそう聞いた。
「ああ。それと、ヘイゼルのためもあって……」
「ヘイゼル? まあ、あの娘まで? 何かトラブルにでも?」
「いや、ヘイゼルはヒルダのような、派手なトラブルがあったわけじゃないんだ。ただ、結婚申請が拒否されたんでね」
「あら、早いわね。ヘイゼルもまだ二一になったばかりでしょう?」
「ああ、ちょっと早いと僕らも思ったんだけれど、ヘイゼルも相手の若者もとても真剣なんで、婚約だけでもしておけばいい、式は一年後くらいにでも……そう思って、許したんだ。ところが、政府の許可が下りなかった。それで、ヘイゼルはすっかり落胆してしまって。だから、僕は考えたんだよ。娘たちのために、ニューヨークへ戻ろうと。幸い、仕事のポストはすぐに見つかったしね。条件は前よりちょっと良くはないけれど、ヒルダはいやな思い出を忘れるために、ヘイゼルは悲しい追想を振り切るために。新しい場所で一からやり直せれば、娘たちの心の傷はきっと癒えるだろうと、そう思ってね」
「そう……そうね、それが一番いいわよ。それに他の街でなく、ここへ帰ってきてくれて、本当に嬉しいわ、アンソニー」マチルダも嬉しそうに笑い、頷いていた。
「ここはやっぱり僕らの故郷だからね。この歳になると、故郷が恋しくなるのかな」
 アンソニーは肩をすくめる。
「ところで、他のみんなはどうしてるかな? 元気でやっているかな? シンシアの結婚式の時にもあまり話をする機会はなかったし、それから十年、ずっと向こうにいたからね。他の親戚連中とも、すっかり没交渉なんだ」
「そうでしょうね。ダニエルの一家は、マルコムとデイヴィッドが去年適性検査だったの。マルコムは宇宙開発局になったのよ」
 マチルダの声は、誇りと喜びにあふれていた。
「へえ、凄いな。超エリートじゃないか。ダニエル兄さんも管理局のエリートだから、親子そろってエリートだね」
「そうよ。わたしたちも誇りに思っているわ。あとの子たちもまあ、だいたい問題はないわ。シンシアの子供たちも順調に育っているし、ダニエルのもう一人の息子デイヴィッドや娘のヘレンも、エセルの所のブレットとエレノアも、わりと良い子たちよ。デイヴィッドは流通局のオペレータコースになったわ。あとの子たちは、まだまだ教育課程だけど、問題なく過ごしているようだし。でもね……」
 マチルダは少し言葉を止め、当惑した表情をした。他人のことならともかく、身内の悪い知らせは、たとえ息子とはいえ、あまり言いたいものではないのだろう。彼女はため息をつき、言葉を継いだ。
「モーリスを覚えている? エセルの上の息子よ。なんだか悪い仲間とつきあっているらしくて、ずいぶん心配していたわ。この間も、警察沙汰になったのよ」
「何だって?」
 アンソニーはカップを口に運びかけていたが、手を止めて聞き返していた。
「なんだか、くだらない喧嘩に巻きこまれてね、相手を刺しちゃったのよ、ナイフで。幸い、死にはしなかったけれど、まだ入院しているの。エセルとバリーが相手に頭を下げて、治療費に加えてかなりの慰謝料を出すことで訴えを取り下げてもらったんだけれど、相当な額だったのよ。元々エセルのところはそれほど経済的に余裕があるわけではないから、わたしたちも援助するしかなかったけれど。そうしないと、裁判沙汰になったら、バリーの仕事やブレットとエレノアの将来にまで、響いてしまいますからね。まったく、とんだ災難だったものよ。でも、もうこれ以上補償金を出す余裕はないから、もしもう一度あのろくでなしが何かしでかしたら、もうかばいきれないわ。本当に、わたしたちみな、頭を痛めているのよ」
「おやおや、大変だったんだな。全員が全員、順調とは限らないんだ。うちの娘たちもそうだったが……」
「そうよ。十五人も孫がいれば、中にはどうしようもないのも、一人か二人は必ず居るわ。うちの場合は、ジェレミーとモーリスね」
「そこまで言ってしまうと、さすがにかわいそうだね」アンソニーは肩をすくめた。
「でも、本当のことよ」マチルダには、自分の気持ちを隠す気はないようだ。
「まさか、これ以上心配の種は増やさないでしょうね、アンソニー。ヒルダは災難だから仕方がないし、ヘイゼルは運が悪かったんでしょうけれど……下の二人はどう? 秋には適性検査でしょう?」
「息子たちか。マーティンは宇宙開発局へ行くんだって、熱心に勉強してるよ。秋には、適性テストが待っているしね。あの子には、何の心配もないんだ。勉強家だし真面目だし、誰に似たのか頭もいい。でも、パトリックはねえ……どうも僕に似たのか、ちょっと変わっていてね」
「あら、どういうこと?」
「でも、悪いと言うわけではないんですよ、お義母さん」
 メラニーが息子の援護に乗り出すように、再び口をはさんできた。
「ただ、興味の持ち方が有効でないというか……歴史と音楽が大好きで、そういう関係の本を一生懸命読んでいたり、動画をずっと見ていたり、訳のわからない楽器を持ち込んだりしているんです。それだけなんです」
「それだけですって? まあ、困ったこと!」
 マチルダは呆れたような表情を浮かべ、声を上げていた。
「もう少し建設的な興味を持ってくれないと、将来困るわ。でもたしかに、そういうところは、アンソニーに似ているわね。ねえ、アンソニー、あなたも昔は歴史と音楽が大好きだったじゃないの。それで、よくお父さんに怒られていたわね。もう少し役に立つ趣味を持てって。本当に、血は争えないものだわ。それとも、歴史は繰り返すのかしら。でもまあ、あなたも今じゃ、ちゃんとした社会人ですものね。パトリックも、そんなに心配しなくても大丈夫かもしれないわ」
「そんな昔の古傷を暴かないで欲しいな、母さん」
 アンソニーは苦笑して、抗議していた。
「だから言ったでしょう。パットは僕に似ているって。僕も十五の頃には、本気で学術か芸能をやりたくて、お父さんお母さんを困らせたもんだ。お父さんには危うく勘当されかけて……でも職業適性ってものがあるからね、世の中には」
「そうよ。幸いなことにね。学術はまだしも、芸能なんて、とんでもないわ。まあ、そういうものも世の中に必要なことは、認めますけれどね。でも、結局はくだらない気晴らしにしか過ぎないのだし、芸能人というのは、社会的な立場は低いですからね」
 マチルダはカップに二杯目のお茶をつぎながら、首を振っていた。
「まあ、パット本人も芸能は、自分ではやろうとは思わないと言っていますし、志願はしないでしょうね。学術研究の方は、かなりやりたいみたいですが。どのみち、来月にはパトリックもマーティンも、職業適性テストだ。それが終われば、夢は見なくなりますよ」
 肩をすくめながら言うアンソニーの口調には、少しの自嘲と苦みが混ざっていた。
「お義母さん。では、わたしはそのジェレミー君に会ってきたいんですが、よろしいですか」メラニーはつと立ち上がり、弱々しく微笑した。
「ああ、そう。よろしくね。そこの廊下を奥に進んだ、一番奥左側の部屋にいるわ」
 マチルダはちらっと嫁の方を見やって頷くと、再び息子に目をやっていた。彼女がメラニーに目を向けたのは、ジェレミーのことを頼んだ時の、ほんの一瞬だけで、あとはすべて注意も視線も、アンソニーに注がれている。嫁は彼女にとっては、やはり新しく来た分子なのだろう。しかも長男の嫁と違い、メラニーは一族の総意に反する、卑しいものだ。彼女を認めることはできない――息子が結婚してから二十年以上が過ぎてもなお、この思いをマチルダは持ち続けているようだった。それはきっとローリングス一族の総意に違いない。
(しばらくは、目障りなものがいなくなったわね)
 カップを取り上げたマチルダの表情は、明らかにそう語っていた。




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