Part 5 of The Sacred Mother's Ring - Call of the Time

序章(1)




 七月、ニューヨークの夜明けは早い。空は紫がかった水色に染まり、太陽の光が街を照らしはじめる。その下で、一人の若い女性が、母親らしい女性に付き添われ、病院前に停まった小型シャトルから降りてきた。若い女性は一瞬、空を見上げ、痛みに耐えるように顔をしかめて、地面に視線を落とす。ラベンダー色のワンピースに包まれたそのお腹は大きく膨らみ、明らかに臨月の妊婦だ。彼女は病院の玄関に足を踏み入れたとたん、「あっ」と小さく声を上げ、その場に座り込んだ。
「しっかりして、シンシア。どうしたの?」
 付き添っていた五十歳を少し出たくらいの年配の女性が、気遣わしげに声をかけた。
「ママ……お水が……出たみたい。どうしましょう……」
 シンシアと呼ばれた若い女性は、しばらくその場にうずくまった後、振り向いて小さな声で答える。座り込んだ足元から、小さな水の流れが、玄関前の敷石を濡らしていった。
「あら、破水してしまったのね」
 付き添いの女性――その娘の母親は一瞬緊迫した表情を見せて、両手を握り締めたが、気を取り直したように、娘の肩をなでた。
「落ちついて。大丈夫よ。あなたはここにいなさい。動いてはダメよ。先生を呼んでくるわ。すぐに戻るから」
 まもなくアンドロイドのナースが、ストレッチャーを押してやってきた。
「手術室に運びます。ドクターもすぐにいらっしゃいますから、大丈夫ですよ」
 機械的ではあるが温かみのあるトーンだ。ナースは機敏な動作で娘を抱え上げ、ストレッチャーの上に寝かせて、病院内に運び込んだ。
 手術室の前には、薄い緑色のユニフォームを着た、四十年配の医師が待っていた。
「シンシア・ラーセン・ローリングスさんですね」
 医師はストレッチャーの上の女性に向かって問いかける。
「え……ええ」
「痛かっただろうね。大丈夫だよ。もう痛みは感じないからね」
 医師は子供に話しかけるような口調だった。そして穏やかに微笑した。シンシアも微笑もうとした。一緒にいた若い看護助手が、麻酔用のマスクをシンシアに装着する。
「これから帝王切開で、お子さんたちを取り出します」
 医師は付き添いの母親に向かい、短くそう説明した。詳しいことは、前回の検診時にもう説明してある。産婦に自然分娩は無理なことを。自然分娩とはいっても、今はもはや痛みは伴わない。あらかじめお産の日を決め、痛覚神経ブロック薬、陣痛誘発剤、産道柔軟薬を組み合わせることにより、苦痛のない楽なお産が可能になっていた。産婦は子宮の収縮を示すモニター音に合わせて力を入れ、いきめばいい。薬によって柔軟になった産道を赤ん坊はするすると滑っていき、生まれ落ちて産声を上げる。その後手早く処置され、清められた我が子と対面した母親は、睡眠剤を注射され二日ほど眠る。母体の回復を早めるために。これが自然分娩のプロセスだ。しかしシンシアの場合、位置の難しい双子で、しかも初産のため、明後日に帝王切開で赤ん坊たちを取り出す予定だった。しかし、予定より早く陣痛が来たのだ。
「お願いします、先生……」
 娘の母親は両手を握り合わせ、訴えるように相手を見た。
「大丈夫ですよ。お任せください」
 医師は再び笑顔を見せ、手術室へと入っていった。
 医師と看護婦、そしてストレッチャーに乗せられたままのシンシアが手術室に消え、ドアが閉まった。そして三十分後、二つの命がこの世に誕生した。母の体内から外に出された赤ん坊たちは、同時にか細い鳴き声を上げた。
「ひどいな、これは。わかってはいたが……」
 医師は硬い表情で、小さくそう呟いた。生まれた赤ん坊たちのへその緒を切ると、彼らを洗浄し、保育器に入れる作業は看護助手に任せて、縫合にかかる。針と糸ではなく、縫合器と呼ばれる機械を使って、切れた組織を接着させるのだ。接着に使われる物質はたんぱく質の一種なので、すぐ組織に吸収される。その上から増強剤を補っておけば、母体がこれから何度か妊娠しても破裂の恐れはなく、十分自然分娩が可能だ。

 一時間後、シンシアはストレッチャーに乗せられたまま、再び手術室から出てきた。まだ麻酔が効いているので意識はなく、青ざめた顔で堅く目を閉じている。シーツに覆われた腹部は、もう膨らんではいない。
「どうでしたか、先生? 娘は……?」
 廊下のソファに腰かけて待っていた母親のマチルダが弾かれたように立ち上がり、そう問いかけた。
「無事に終わりましたよ。午前五時四十分に、男子の双生児が誕生しました」
 医師の答えは、どことなく機械的に響いた。「これから、お嬢さんを病室に移動させます。そうですね……明後日の朝までは眠ってもらいましょう」
「そうですか」
 マチルダは頷き、心配そうに娘の顔を見守ったあと、思い出したように再び問う。
「それで……子供の方は、どうですか?」
「赤ちゃんですか? そうですね……お嬢さんが目覚めたら、説明いたしましょう」
 医師の目が、一瞬宙を泳いだ。
「あの……ダメだったんですか?」
「いえ、生きてはいますよ、二人とも」医師は首を振った。
「明後日の十時に、もう一度いらして下さい。その時、お嬢さんとご一緒に説明いたしましょう」
「ええ……」
 マチルダ・ローリングスは娘の病室に行き、眠っている娘の頬に、愛しむように手を触れた後、自宅へと帰っていった。一方、控え室に戻った医師はロボットメイドにコーヒーと煙草を持ってこさせ、一服付けた。そして九時になって、勤務を交代する時、彼は同僚たちにこう申し送りをしていた。
「例の赤ん坊が生まれた。確実に、もう一仕事必要になると、外科にも伝えてくれ」と。

 まだ十九歳で若い母親となったシンシア・ローリングスは、翌々日の夜明けに目覚めた。頭だけを巡らせて枕元の時計を見ると、五時前だ。身体のあちこちに、まだ管がついたままだった。そっと手を伸ばしてコールボタンを押す。やがて看護ロボットがやってきた。身体に付けられた付属品がはずされたあと、シンシアは自由になった手足を伸ばし、ついで腹部に触れた。臨月になってからは動くのにも不自由だった大きなお腹が、嘘のように平らになっている。手術後の保護にバンテージテープが巻いてあるため、いくぶん堅い感触のその腹をすうっと指で撫でながら、彼女は不思議な気分を感じていた。ついさっきまで(手術からの二日は認識されていないので、シンシアにとっては本当にそう感じられる)このお腹の中でうごめいていた別の生き物、あの赤ん坊たちはどこへ行ったのだろうと。今頃、新生児室のコットの中にいるのだろうか。
「あら、シンシア、目が覚めていたの?」
 その二時間後にやってきた母親は、優しい口調で問いかけた。娘はゆっくり頭を巡らせ、大きな瞳で母を見た。垂れ下がった黒い巻き毛が、よけいにその顔を青白く見せているようだ。マチルダは手を伸ばして、娘の艶やかな髪を慈しむように撫で、微笑みをみせた。
「かわいそうに。お産の痛みは辛いから。でも大丈夫よ、シンシア。もう、無事に終わったのよ、なにもかも」
「わたし、眠っていたの、ママ?」
「そうよ。お産のあとは眠るって、習ったでしょう?」
「ええ。でも、どのくらい眠っていたの?」
「まる二日よ。今日は十六日だから」
「そう……」
 娘は頷き、しばらく沈黙したあと、小さな声で問いかけた。
「ねえ、ママ……赤ちゃんはどうなったの? ちゃんと生まれたの?」
「ええ。十四日の五時半過ぎにね。男の双子だと、先生はおっしゃっていたわ」
「そう。どんな子なの? 二人とも、ちゃんと五体は満足?」
「さあ、ねえ……それは聞いていないわ。実は、わたしも会ったことはないのよ」
「ここへ来る前に、新生児室に行かなかったの?」
「ええ。いえ……のぞいては見たのよ。モニターを。でも、あなたが産んだ赤ちゃんは、その中にはいなかったわ」
「そう……」
 シンシアは小さく呟き、深いすみれ色の瞳に上ってきた不安の色を母から隠そうと、窓の外に視線を戻した。それ以上は何も言わず、窓から見えるビル群と、その上に広がる空と、じっと見ている。マチルダも黙って手をのばし、娘の背中を二、三度さすった。一般の新生児室にいない――それは、赤ん坊に何か問題があるという証拠だ。重苦しい沈黙のうちに、時は過ぎていった。

 十時になった頃、静かにドアが開いた。部屋に入ってきた白衣の医師は、ベッドサイドの椅子を引き寄せると、腰をかけた。
「ご気分はいかがですか、ローリングスさん」
 出産前からずっとシンシアを担当しているトーマス・グレグスン医師は、微笑を浮かべながら口を開いた。それはすべての患者たちに対するおきまりの挨拶だっただろうが、その口調には本気で気遣っているかのような、『大丈夫ですよ』と言っているような優しい響きが感じられ、シンシアは少し慰められたような気分を感じた。
「わたしは大丈夫です、先生」
「そうですね。あなたは特に問題はないでしょう。検査に問題がなければ、四日後に退院ですし、それから一週間もすれば完全に回復しますよ」
 瞬間、微かな安堵を感じたが、不安は解消されない。
「赤ちゃんは……どうですか?」
「赤ん坊は、ですね……」
 グレグスン医師は当惑の色をかすかに浮かべていた。
「正直に申し上げましょう。生まれたのは男子の双生児ですが、非常に残念ながら、お子さんたちは障害児でした。いわゆるシャム双生児でしてね。頭は二つあるのですが、身体の方は――特に胸から下は、一つしかないのです。上半身も頭の一部が癒着していて、二人とも内側の腕は、こぶのようにしかありません」
「ひっ!」シンシアはあえぐようなうめきを漏らし、両手を口に当てた。
「そんな……それではまるで……」
 マチルダも青ざめた顔で、言葉を飲み込んでいる。しかし母がなんと言おうとしたのかは、シンシアも察した。『化け物』――それは彼女の胸にも響いた言葉だ。
「まあ、今回の妊娠は規定ではなく、自然出生でしたからねえ。自然出生だと、百人のうち三、四人ほどが、奇形児や障害児になる可能性があります。ですから正規の夫婦の出産には、規定出生を勧めているんですがね。しかしあなたのようなケースは、仕方がないですね。危険性もある程度、覚悟はしておられたと思うのですが……私どもも、妊娠中の超音波検査で見当はついていたのですが、しかしそれを告げたところで、その時点では何とも処置の仕様がなかったので。なんといっても、もう三十週に入ろうとしていたところでしたからね。産むしか選択肢はなく、それも出産までこぎつけるかどうか半々だという見通しだったので、何も言わないでおいたのですよ。でも実際に赤ん坊の姿を見て、さすがの私も少し驚きました。今までいろいろな奇形を取り扱ってはきましたが、さすがにここまでひどいのは初めてでした」
 子供が五体満足で生まれる保証はない。規定出生ではなく、自然出生である以上、ある程度覚悟はしていたことだった。シンシアの中に小さな命が宿ったと知った時から。
 規定出生――それは奇形や障害を極力排除するための、体外受精である。誘発剤を使って成熟させた複数の卵子を取り出し、受精卵の発育にはまったく支障のないいくつかの指標薬と電子顕微鏡を使って、染色体異常のないものを選別する。そして同様のふるいにかけられた夫の精子と受精させ、体内に戻す。受精卵の着床を助けるため、妊娠状態を安定させるために、さまざまなホルモン剤や薬も使われる。ほとんどすべての夫婦が、そうして子供を作ってきた。受精卵は着床率を考えて常に二個ずつ体内に戻されるので、規定出生の場合、半分近くが双子になった。

 二二世紀から今まで、世界はどん底まで減ってしまった人口を取り戻そうと、出生率増強に努めてきた。『一世代で人口を二倍に』というスローガンの元、一夫婦に四人以上の子供を持つ運動が、盛んに繰り広げられてもきた。しかし七、八パーセントの不妊率、そして五、六パーセントの流産率や三、四パーセントの障害児出生率に悩まされ、そのスローガンもなかなか達成できなかった。世界崩壊時に発生した多量の放射性物質の洗礼を、たとえかなり減衰した状態だったとはいえ、浴びてしまった新世界人の子孫たちは、何十世代を隔ても、変成を受けた遺伝子を引き継いでいかなければならない宿命なのだ。あれから二千年近くの時が経過した今でも。
 しかし、飛躍的に発展した科学や医療技術の進歩に助けられ、人口は確実に増え続けて、現在では七千万人に届こうとしている。二九世紀の初めに規定出生の技術が導入されてからは、障害児の出生率も格段に減った。ただしそれはあくまで規定の場合だけで、自然出生に関しては、常にリスクがつきまとう。シンシア自身も自然出生児であった。正規の夫婦の間に産まれた子供なので、規定出生で生まれた三人の兄姉たちと、法的立場も社会的なそれも、変わらなかったが。
 シンシアの父ジェフリー・ローリングスと母マチルダは結婚三年目に双子の男子、七年目に女児をもうけたあと、十三年目で自然にシンシアを身ごもった。この末娘がお腹にいる間、マチルダは子供の安否を気遣い、不安な日々を過ごしたらしい。娘が無事に、何ら身体の欠陥もなくすこやかに生まれた時には、喜びのあまり涙が止まらなかったと母が語るのを、何度も聞いた。しかし今、自分が流している涙は、母のそれとは違う。喜びの涙ではない。
 シンシアが自分の身体の異変に気づいた時、恐れと当惑の中で考えたことは、両親に知られてはならない――それだけだった。それに、本当にそうなのか、確かめてみる勇気もない。もしかしたら、間違いかもしれない――そう思いこみたかった。しかし時が過ぎていっても生理は来ず、気分の悪さや体調不良に悩まされた。両親は幸い、彼女の不調を妊娠と結びつけて考えることは、しなかったようだ。まだ十九歳のシンシアには、決まった交際相手もいなかったし、浮ついた話のひとつもなかったのだから。ようやくその症状が治まったころには、おなかは明らかに膨らみ始め、赤ん坊の体内での動きを感じるようになった。間違いない――彼女はその事実に青ざめたが、なお両親に告げる勇気はなく、隠し続けた。
「シンシア。最近あなた、太ったんじゃない?」
 そう気づいた母親のマチルダが何気なく娘の膨らんだ腹部に触れ、青ざめるまでは。マチルダに引っ張られるようにして病院に連れて行かれた時には、もう出産予定日まで二ヶ月もなかった。
「よくもまあ、ここまで検診もしないで来られましたね」
 診察したドクターは、あきれたような口調だった。
「しかも、この赤ちゃんは双子ですよ。まあ、規定出生では珍しくないですが、自然では稀な方ですね。まあ、ここまで来たら、産むしかないですね」
 政府は原則として、堕胎を認めない。重篤な知的障害や修復不可能な身体欠陥が確実に予測され、なおかつ妊娠九週までなら――それが唯一許されている堕胎の条件だ。シンシアには、子供をそのまま産むしか選択肢は残されていなかったのである。
 当然のことながら、両親の当惑と失望も大きかったようだった。激怒した父親ジェフリーには、厳しい口調で「おまえを、そんなにふしだらな娘に育てた覚えはない!」と、何度も吐き捨てるように言われた。「いったい誰の子なんだ!」とも詰問された。父ほど厳しい口調ではないものの、明らかに当惑しきった顔で、母マチルダも同じことを口にした。しかしシンシアは、両親の非難には泣きながら「ごめんなさい!」とだけ繰り返し、問いかけには固く口を閉ざした。
 娘の頑強さに、両親もついに諦めたのだろう。三週間がたつ頃には、娘を問い詰めることも、非難することもしなくなった。父親はむっつりとした顔で何も言わなくなり、母はため息混じりに、「しかたがないわねぇ……」と、呟くのだった。
 両親の気持ちは、シンシアにも理解できた。今の社会では、未婚の母は非常に不名誉なことだ。それに私生児として出生すると、子供の社会的立場は、かなり不利になる。シンシアが結婚する時、相手に子供を引き取ることを認めてもらえないかもしれない。そうすると、その子の養育は次の親権者であるジェフリーとマチルダの義務となるのだから。
 子供が障碍児と聞いて、母の顔に微かな安堵がよぎって行ったのを、シンシアは見逃さなかった。厄介者が自分たちの手に残されるより、これで良かったのかもしれない、と。重篤な奇形なら普通の家庭ではまず育てられないから、すぐに専門の施設送りだ。政府がその子たちの面倒を見てくれるだろうし、どのみちそれほどひどい障害児なら、たいして長生きもするまい――そう思っているのかもしれない。それは、シンシア自身も感じた思いだった。もしその子が、すぐにいなくなるなら――不名誉な記録は残るだろうが、重荷はなくなる。そしてシンシア自身も、ローリングス一族も、やがては忘れていくのだろう。家系の異端児が、かつていたことを。
「ありがとうございました、先生。いろいろお世話になりました」
 マチルダは静かな口調で礼を述べ、医師に向かって頭を下げていた。明らかにこれで幕引きになることを、期待しているかのように。
「いや、待って下さい、お母さん。まだ、お話は終わっていないのですよ」
 グレグスン医師は二人に微笑みかけながら、片手を上げた。
「と、言いますと?」マチルダは怪訝そうな表情で問い返す。
「いえ、あの子たちをこのまま障害児施設に送っても良いのですが、いかんせん、それでは無駄というものです。このままでは、あの子たちは社会の役には立たない。でも、あの子たちを立派に働ける社会の一員として、作り変えることが出来るのです。お子さんたちは修復不可能ではないのですよ。ですから、手術をしなければなりません。ただ、あの子たちを作り変えると言いましたが、その結果普通の人間になれるのは、一人だけです。二人に分離するのは、今の医学をもってしても不可能ですからね」
「つまり、双子から一人を……」
「ええ、そうです。元々胸から下は一人分の身体しかありませんのでね。片一方の子は、胸のところから切り離さなければなりません。片方の腕を付けないといけませんし、頭のくっついている部分を切り離して……ああ、いえ、あまり詳しく術式を説明するのは、気分のいいものではありませんでしょう。とにかくそれで一人は、ちゃんと五体満足な人間になりますよ。もう一人は死ぬことになりますが」
「そうですか……」
 マチルダは暗澹とした表情でため息を一つつき、頷いていた。
「私どもとしては、このまま施設に入れてもらっても良かったのですが、そういう法律なのですから、仕方ありませんね。手術の費用は、いかほどかかりますか?」
「そうですね。自然出生で手術が必要な場合、費用の三十パーセントを負担していただくことになります。ですから、およそ三千五百ドルほどですね」
「わかりました……」
 マチルダは再び重いため息を吐いた。ジェフリーの給与は月二千ドルであることを考えると、母の思いはシンシアにもわかる気がした。望まれない命を生かすために、月収のほぼ二か月分をふいにする。それはたしかに、やりきれない思いだろう。
「娘さんの方は、どうですか?」
 医師はシンシアのほうを向き、穏やかに問いかけてくる。
「わたし……?」
 シンシアは呆然と医師を見たあと、両手を頬に当て、身体をぶるぶると震わせた。思わず正直な言葉が、口をついて出た。
「わたし……いやだわ。そんな人造人間みたいな子供なんて。障碍児なら、手術なんてしないで、施設に送ってください! わたしはいらない、そんな子!」
「シンシア、気持ちはわかるわ。わたしだって、そう思わないと言ったら、嘘になるわ」
 マチルダは、起きあがろうとしたシンシアの身体を抱きかかえるようにして押さえ、ベッドに寝かせた。「でも、仕方がないじゃないの。法律でそう決まっているのなら、その子を受け入れるしか。だって、あなたの子でしょう? あなただって言っていたじゃないの。他に仕方がないなら、産んで育てるしかないと。あれは嘘だったの?」
「いいえ、いいえ……あの時にはそう思えたの。でも……」
「覚悟していたのと、現実では違うと言うのね? ええ、ええ、そうかもしれないわね。でも、しかたがないじゃないの。これが現実なのよ」
「わかってるわ。でも、わたし……その子を愛せる自信がないの……」
「愛さなくても、いいじゃないの。ちゃんと育ててさえやりさえすれば」
 マチルダは娘の艶やかな髪を撫で、シンシアも無言で頷く。抗ってもどうしようもないことは、彼女にもわかっていた。
「手術は、明日行います」グレグスン医師は宣言した。
「どちらの子供を生かすかについては、一応親御さんの意見も聞きたいので、特にご希望はありますか?」
「いいえ……」シンシアはうつろに頭を振る。
「お子さんたちを見てから、決めますか?」
 その言葉に、シンシアは再び大きく身震いした。
「いいえ! そんな赤ちゃんなんか、見たくない! 見たくありません、絶対!!」
「その判断は、全面的に先生方にお任せします。どちらの子供を生かすことになろうと、異議は差し挟みません。また、かりに手術が失敗して両方死んだとしても、責めるつもりはこれっぽっちもありません。どうぞよろしくお願いします」
 マチルダが固い口調で答え、再び頭を下げた。 
(まるで手術が失敗して、子供が二人とも死んだ方がいいような感じだな、無理もないことだが……)グレグスン医師の表情は、一瞬そう言いたげでもあるかのように変化したが、すぐに柔和な微笑みに戻り、口を開いた。
「では、その選択は私どもに任せていただきましょう。より整合性が保てて、手術のやりやすい子を優先させますが、よろしいですね。それでは、右側の子供の方を助けます。かなり大がかりな手術になるので、出来たら親族の方に新鮮な血液を供給してもらえたら、助かるのですが。どなたかRH(−)A型の人はいませんか?」
「ええ、わたしがそうです。この子の兄の一人もそうなんですが……」
 マチルダは娘に目を向けると、驚いたように言葉を途切れさせた。シンシアは急にあえぐような声を発すると、激しく震え出していたのだ。その顔は、紙のように青ざめている。次の瞬間、彼女は気を失って、ベッドの上にぐったりと倒れた。
「シンシア、いったい、どうしたというの?! しっかり!」
「貧血でも起こしたのでしょうかね。無理もありませんね、いろいろとショックだったのでしょう」
 グレグスン医師は落ちついた声で、傍らの看護ロボットに鎮静剤の注射を命じた。
「いや……いやよ」
 ほとんど意識を失いながらも、シンシアは譫言のように呟き続けた。
「あの子たちを……助けないで……耐えられないわ……わたしには」
 しかし母の願いに反して、望まれない生命は生き延びた。二人分の命を一人として。ジェレミー・ジェナインと名付けられた赤ん坊は、生き続けることが決まったのである。




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