Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 3  AGE Red (赤の時代)(6)




 開け放した部屋のドアから、激しい泣き声が聞こえた。その合間に、訴えるように何度も、弟の名前を呼んでいる。その声の主は、マデリーンらしかった。部屋の中に入ると、彼女はベッドの足元に身を投げ出すようにして、泣いていた。その傍らで、二歳になるフローレンスが困ったような不思議そうな顔で、母に取りすがっている。上の二人、メイベリンとニコラスはプレスクールに行っているのだろう。
 そのベッドの中で、アドルファスは眠っていた。両手を軽く胸の上に組んで、楽しい夢を見ているかのように、かすかな微笑さえ浮かべて。枕の上に広がった金髪に、窓から差し込んできた太陽の光が反射して、まるで後光のようにその顔の周りを取りまいていた。
 エヴェリーナはふらふらと弟のそばに行き、その手に触れた。異様な感じが、彼女を震わせた。こんなことは以前にもあった。どこでだったかしら――そうだ、エヴァ! あの十一年前の冬の日、あの時彼女がつかんだ雪の冷たさが、小さなエヴァの手に触れた時に感じた冷たさが、感覚をとらえた。エヴェリーナは小さく悲鳴を上げると、よろめきながら一、二歩後退した。
 ベッドの反対側には、医師が立っていて、弟の身体を診察しているようだった。数分のち、医師は首を振った。
「非常に残念ですが、もうお亡くなりになっていますね。それも、数時間はたっているでしょう。たぶん、急性心不全……いわゆる心臓麻痺でしょうか。睡眠中に起こったのだと思います。ですから本人は、何も苦しくはなかったと思いますよ。それにしても、ああ……これは大きな損失ですね。私たちはまた、貴重な頭脳を失ってしまったんですから」
「科学班には、そうでしょうね。春にエディスさんも亡くなって。まあ、彼女はもともと産休だったんでしょうけど」
 マデリーンの姉、アイリーンがそう相槌をうっていた。
「ええ、今年は科学班には厄年ですね。第二世代の天才が、いっぺんにいなくなってしまった。第三世代のランディス君もよくやってくれてはいるんですが、まだまだ若いだけに、ちょっと荷が重いでしょうし」
「天才に生まれついたのが、アドルの不幸よ!」
 突然、エヴェリーナが叫んだ。彼女の心をマヒさせていたショックが抜けると、悲しみの感情が、怒りにも似たそれに変わっていたのだ。
「それが、寿命を縮めたんだわ。エディスだってそうよ。何が使命よ! 生命を削って何になるの? そうよ、アドル……あなたって頭はよくても、やっぱり馬鹿だわ! そんな若さで死んじゃうなんて。まだ二八なのに……!」
 そこへフェリックスが入ってきた。アイリーンの夫、ジェイク・スミスから状況を伝えられたのだろう。かなり慌てた様子で、大股に来ている。
 エヴェリーナは夫の姿を認めると、すがりつくようにその胸に飛び込んだ。
「フェリックス……あたし、どうしたらいいかしら。アドルが……アドルが……」
 そのあとの言葉は続かなかった。涙が堰を切れたようにあふれ、押し寄せる感情の中に、溺れてしまったような気がした。
 
 アドルファス・ルーク・ステュアート・ローリングスの突然の死の知らせは、その日のうちにコミュニティ全体に広がり、みなにショックをもって受け止められたようだ。
「あの人が死んでしまったら、科学の発展はどうなるんだ」と、多くの者が危惧を投げかけ、後世の人々は、のちに彼の業績を讃えて、『科学の父祖』という尊称を贈った。
 やがて葬儀が終わり、科学技術開発のペースダウンという後遺症を残して、彼の死もやがて日常の波に溶け込んでいった。

 エヴェリーナは一日の家庭作業を終えると、ため息をついてソファに座り込んだ。アドルファスの葬儀から、一週間がたっていた。頭に手を当ててじっと座っていると、フェリックスが黙ってそばに腰を下ろした。彼女は振り向いて夫を見、哀しげに訴えた。
「ああ、フェリックス。あたし淋しいわ。一人ぼっちになってしまったみたいで」
「君がひとりっていうことはないさ。子供たちもいるし、僕もいる」
「そうだけど……ああ、でもそういう意味じゃないの。あたしアドルとは生まれた時から、ずっと一緒に育ったのよ。同じ部屋でずっと暮らして……子供の頃は何をするにもずっと一緒だったし、大きくなってお互いに別の興味を追い出してからも、よくいろんな話をしたわ。同じ秘密をもって、お互いの悩みを打ち明けあったり、笑ったりふざけたり……あたしにとってのアドルは、もうひとつの男性の形を取った分身だったのよ。だからあたしは自分の分身を失って、なんだか半分からっぽになってしまったみたいな気分がするのよ」
「そうだね、今はショックだろうよ。アドルは君のたった一人の兄弟なんだし、おまけに双子だったんだものね。泣くだけ泣くといい。いつか悲しみが薄れるまでね。そのうちに新しい希望や明日への活力が生まれてくるから。そう、これはそもそも君のお得意だったじゃないか。新世界のモットーだね。『後を振り向くな、前を向け』って。涙が乾いたら、そうしなくちゃ」フェリックスはエヴェリーナの肩を抱きながら、静かな口調で励ました。
「それ、元はアールお兄ちゃんとオーロラお姉ちゃんの、お父さんの言葉なのよね。お従兄ちゃんも、お従姉ちゃんが死んでしまった時、こんな気持ちだったのかしら。ああ、でもとにかく今は、ちょっと前は向けないわ。なんだかもう、みんな儚すぎる。生まれた時から、いつもそうだったわ。大好きな誰かが、ついこの間まで話したり笑ったりしていた人が、突然逝ってしまう。もう、こんなのはいや。そうして誰かがなくなってしまうたびに、あたしは思っていたのよ。もういや、これで終わりにして欲しい。これ以上は耐えられないって……お父さん、ロブ小父さん、レオナ小母さん、ドロシー、エヴァ、グロリア、グレイス、オーロラお姉ちゃん、エディス、そしてとうとうアドルが……もう誰が残っているの? ダリルとヴィッキーとアンジーと、あなたと、クレアと、それからアールお兄ちゃん、メアリ、ランディ、ジョスリン、ティアラ、アリステア、エイプリル、それからまあ、ヴィエナ……それにティーナ、ライラス、パリスにポラリス、それからエフライムさん、それとマデリーン。メイベリンやニコラス、フローレンスももちろん、かわいい甥姪だわ。ああ、こうしてみると、かなり残っているのね。でも逆にそれって、怖いわ。あたしはもう、現実が信用できない。今生きているからって、これからも生きているとは限らないなんて。本当に、何を信じていいかわからないわ。少なくとも、自分の寿命だけは、はっきりわかっているのに。あたしはこれから三十年以上、生きなきゃならないのよ。ねえ、そうなると長生きも良し悪しね。だってそれだけ他の愛する人たちの死を、見送らなきゃならないってことですもの」
「僕がいるよ、エヴェリーナ。君を一人ぼっちにはさせない。子供たちもいるじゃないか」
「でも子供たちにだって、先立たれてしまうかもしれないわ。本当に何も確実なことなんて、ないんですもの。現にグレイスには死なれてしまったし、あなただってあたしより年上なんだから、先に死んでしまうんじゃないかしら、きっと」
「おいおい、勝手に人を殺さないでくれよ」
 フェリックスは苦笑すると、エヴェリーナの手を握りしめた。
「そりゃあね、誰だって先のことはわからないさ。君みたいに人生の終焉の日があらかじめわかってしまっている人は、まずいないよ。でもね、エヴェリーナ。それを恐れちゃいけないと思う。別れはあるだろうさ、いつかは。だけどそれはその時になって嘆けばいいことで、起こりもしないうちから悲嘆したって、しょうがないだろう。僕だって君より先に死ぬかもしれないし、そうでないかもしれない。でも僕は、どんなことがあるにせよ、死ぬまで君を守るつもりだし、そのために出来るだけ長生きするよう、努力するよ。約束する」
「ええ、一つだけは約束してよ、フェリックス。あなたは絶対アドルみたいな無茶はしないって」エヴェリーナは頷いて、夫を見上げた。
「アドルは……あたしにはいまだに、よくわからない。あの子は社会に殺されたんじゃないかって、そんな気もしてくるのよ。もともと体質的に強くなかったのに、あんな無理をして。自分が強くないことがわかってるんだったら、もっと身体をいたわって過ごせばよかったのに。アドルはたしかに今まで、科学技術の発展におおいに寄与したわ。あたしたち凡人には考えられない頭脳で、動物たんぱくの合成もやったし、メインコンピュータのシステム改良もやったし、ロボットも改良したし、太陽クリスタル発電システムを完成させたし、内蔵型太陽電池も開発したわ。パパの日記に書いてあった『A.L.S. Rollings』がしなければならないことは、すべてやったわよ。ヒューマノイド型ロボットの設計もほぼ完成したらしいし、衣料の完全リサイクルだの、ファミリートレジャーの真空保存装置だのタイマーロックだの、細々したこともずいぶんやったわ。でもそんなに急がなくたって、今までの半分のペースで、二倍長生きしてそれをやってもよかったことじゃないの。なのになぜ、アドルはあんなに全速力で走り通さなければならなかったのかしら」
「科学研究のことは、それこそ僕らには、わからないな。でもそうすることが必要だと、アドルは判断したんじゃないか? 彼のような天才型は、非常に爆発的な突進力を持つって、いつか科学班の友達が言っていたっけ。止めることは、本人にも出来なかったんだろう。それはまた、エディスにしてもそうだったんだろうね。彼女だって研究生活と主婦業との両立でずっと積み重なった過労が、あんな結果を招いたのかも知れないって、医療部の友達が言っていたし」
「そういえばあの晩、アドルも言っていたわ。自分でもコントロールが効かない、なにかが急き立てて休ませてくれないって」
「彼自身も、わかっていたんだね。悲しいことかもしれないけれど、でもそれが彼らの運命だったんだろう」
「運命……結局はみんな、それで終わってしまうのね。抗うことも出来ずに。悲しいわね」
 エヴェリーナはぽつりと呟いた。
「そう、だけどそれに怯えても意味のないことだし、恨んでもしかたのないことなんだ」
 フェリックスは妻の艶やかな金褐色の髪をなでながら、静かな口調で言った。
「もっとも僕たち人間の感情は、それだけではなかなか割り切れないけれどね。誰かが死んで悲しいのは、その人を愛した証拠だから」
「そうね。人を愛することの代償が悲しみなら、なくなればいいとは思わないわ。それに何度悲しい思いをしても、いずれ傷は癒えるのね。時がたてば」
 エヴェリーナは、そっと夫の胸によりかかった。
「フェリックス、ありがとう。あなたがいてくれたら、何があっても耐えていけそうな気がするの。そして、子供たちと……ああ、みんな、元気に無事に育って欲しいわ。たとえあたしの子供時代の基盤がみな消えてしまったとしても、この家族がいてくれるから、あたしは根無し草にはならないわね」
「そうだよ。それに君の子供時代の基盤は消えたわけじゃない。君がいる限り、君の心の中に生きているんだ。アドルもエディスも、オーロラさんも、小さなグレイスも、グロリアちゃんも、君の従妹のドロシーちゃんも」
「そうね……」そう思うしかない。それだけが、慰めなのだから。

 エヴェリーナは二週間後、手作りのクッキーを少し携えて、弟の研究室を覗いてみた。かつての主人を失ったその部屋は、今は十五才のランディス・パロマ・ローデス・ローゼンスタイナーが、新しい主人になっている。
「調子はどう? ランディ。これ、差し入れよ。クッキー」
 エヴェリーナは、にこやかに呼びかけた。
「ああ、エヴィーおねえちゃん。ありがとう。うれしいな。あとで食べるよ」
 ランディスは振り向いて、にこっと笑った。彼が小さい時、エヴェリーナは未婚だったので、そう呼んでいたが、いまだに昔のくせが抜けないらしい。肩まで伸ばしたまっすぐな金色の髪をうしろで束ねた髪形は弟によく似ているが、その青灰色の眼は、かつてのアドルファスより穏やかな光をたたえていた。
「なんとかやっているよ。大幅なペースダウンは否めないけどね。僕はアドルおにいちゃんほど慣れてないから、あまりぱっぱとは閃かないんだ。でもね、おにいちゃんがあんなことになる前に、出来るかぎりの設計や解析や資料整理をやっておいてくれたから、時間はかかるけど、あとは僕がやっていけると思うよ」
「そう。それはよかったわ。でもね、ランディ、あなたは無理しないでね。アドルみたいに自分の生命を削ってまで打ち込むだけの価値は、何に於いても、ないと思うから」
「うん。ここまできたら、そんなに一生懸命全速力でやらなくてもいいと思うんだ。ある程度、基盤は固まったから。でもね、エヴィーおねえちゃん、わかってあげて。アドルおにいちゃんには、それが必要だったんだよ。おにいちゃんとエディスさんが科学研究を引き継いだ時には、ただ道具があるだけって状態だったから、完全にこの社会の基盤を固めるために、あの二人は全速力で走らなければならなかったんだよ。だからおにいちゃんを責めないで。おにいちゃんたちは自分の意志にかかわらずに、そうしなければならなかったんだから」
 ランディスは椅子に座ったまま振り向いて、じっと見つめてきた。その言葉の調子には、この年ごろの少年には似合わない静かな達観を感じさせ、エヴェリーナは自分が理不尽な非難をしたような恥ずかしさを覚えた。
「ええ。あたしは責めているつもりじゃないのよ」
 我知らずうっすらと顔を赤らめながら、エヴェリーナは首を振った。
「わかっているのよ。だけどそうでもするほかに、どこへも悲しみのもっていきようがなくて、思わずそう言ってしまっただけなの」
「そう。よかった」
 ランディスは安心したように微笑すると、再びスクリーンに目をやった。複雑な数式や図形を眺めながら、独り言を呟いている。
「このパーツは、まだ組んでないのか。組みたてロボット借りて、作って実験してみなきゃだめだなあ……」
「今、何をやっているの?」
 エヴェリーナは少年の肩越しにスクリーンを覗きながら尋ねた。二十年以上前から、アドルファスが同じようにやっていたのを見ていたが、そこに出てくるものは一つとして、彼女に理解できることはなかった。しかしこの領域に自分は踏み込めないことをいつも悟りながらも、見るたびにそういう質問を投げずにはいられないのだ。
「これね、ヒューマノイド型ロボットの設計をやってるんだ。今のロボットみたいな、いかにもロボットですって言うんじゃなく、人間の形をしたものをね。完全にそっくりって言うんじゃなくて、金属製だけど、AIも搭載して。でも、感情回路は入れないけど。入れない方が良いよねって、おにいちゃんとも話して決めたんだ。あと、電気のエネルギー変換、電線を使わずに、床や壁に前段階の電気エネルギーを通してピックアップで拾うっていう、あのシステムの基本構造式と、この二つが、おにいちゃんが残した研究のメインだったんだ。で、どっちからやろうかなあって思ったんだけど、ロボット作るほうは完全に基礎が出来てるし、あとは実践段階を残してるだけだから、こっちの方が早くできそうだと思って、こっちからやってるんだ」
「まあ、そう。でも、実験や製造の実践段階じゃ科学班の協力が仰げるけど、設計段階はあなたひとりっていうのは大変じゃない? アドルもまあ似たようなものだったけど、エディスもいたし、あの子があなたくらいの年ごろにはいつも二人の共同研究だったのにね」
「うん。でも僕にも、ちゃんと優秀な助手ができたから、大丈夫だよ」
 ランディスは、にこっと笑って答える。
「助手? 誰?」
「ええ? 知らなかった? 三日前から、僕ら共同研究体制になってるの。そろそろパートナーが来ると思うけど……ほら」
 ランディスはドアを振り返った。同時にドアをノックする音がして、一人の少年が入ってきた。軽くカールした明るい金髪に青い瞳の、端整な顔立ちの少年は、オーロラの遺児、十二歳になるライラス・アラン・ローゼンスタイナー・シンクレアだった。
「おっそーい! 遅刻だぞ」
 ランディは机を軽く叩き、笑いながらも、そう警告している。
「ごめんね! だって、もうこんな時間だとは思わなかったんだ」
 ライラスは屈託なく、笑っていた。
「ま、いいや。一休みしたら、昨日の続きやってよ」
「あら、ライラスも科学班になったの?」
 エヴェリーナは軽い驚きを感じた。弟が居室を出てからも、オーロラの遺児たちの様子は時おり見に行ってはいたが、子供たちはまだ、みな教育課程にいると思っていたのだ。
「ううん。僕はプログラミング班だよ。お父さんと同じ。三日前に決まったばかりなんだ。言おうと思ってたけど、最近エヴィーおねえちゃん、あまり遊びに来てくれないからね」
 ライラスは、いたずらっぽく笑って答えていた。
「ごめんなさいね。行こうとは思っているんだけれど」
「忙しいんでしょ。わかってるって。クレアちゃんも増えたし、小さい子たくさん抱えて、大変だものね。なんなら、僕らが子守してもいいよ。パリスやポーリーも遊びたがってるし、ティーナお姉ちゃんが、ちゃんと見てくれるから」
「ありがとう、ライラス。あなたに気遣ってもらえるとは、思ってなかったわ」
 エヴェリーナは笑った。
「ライラスは本当に、五日前に専門課程を終えたところなんだ。本当は仕事に入る前に少しお休みをあげたかったんだけど、今の科学班は非常事態だから、余裕がないんだ。だからせめて、今週は十四時始まりで良いよって、彼に言ったんだけどね。ライラスは僕より、知能指数は高いんだよ。コンピュータ・プログラミングやらせたら、異常なんだ。プログラミング班全体が束になってもかなわないくらい」ランディスがそう説明している。
「あら。そうなの」
 そんな会話の間に、ライラスは窓際にある自分のコンピュータ端末の覆いを取りのけ、セッションを開くと、非常な早さでキーボードを打ち始めていた。
「今、彼には計算に必要な解析プログラムとシュミレーションシステムを作ってもらってるんだ。それが終わったら、ロボットに搭載するAIと中枢プログラムを設計してもらおうと思って」ランディは従弟を見やりながら、説明を続けている。
「まあ、そうなの」
「そう。だから後のことは心配しないで」
 ランディはちょっと笑って、首を振った。
「頼もしいわね。アールお兄ちゃんの子供のあなたと、オーロラお姉ちゃんの子供のライラスと。まあ、ローゼンスタイナー・ファミリーは、言ってみれば超人家系ですものね」
 エヴェリーナは思わず、そんな感嘆の声を漏らした。
「超人って、僕らのお祖父さんのこと?」
 ランディスはちょっと首を傾げていた。
「まあ、あの人は守護神的な人だけど……本当に超人だったらしいし。でもね、僕は自分が非凡だとは思ってないんだ。今のところ、そう自惚れてはいないよ。血筋がそれほど絶対的なものだとも思わないしね。僕の時代は緩やかだから、おにいちゃんみたいな全力疾走はしなくていいし、マイペースでやるよ」
「がんばってね。あなたたちがいれば、アドルも安心だわ」
 彼女は少年たちに笑いかけて、研究室をあとにした。
 エヴェリーナは通路を歩きながら、継承していく流れを思っていた。従兄姉の子供たちが、弟の研究を継いでいる。弟にも子供たちがいる。アドルファスが世を去っても、彼の生命が受け継がれていることを改めて認識すると、ある種救われたような思いがこみあげてくるのを感じていた。

 その夜、エヴェリーナは改めてその思いを感じた。赤ん坊のクレアランスが、その晩初めてにっこりと笑って、自分を見上げた。その表情の中に、明らかに弟の面影がある。目の色こそ少し違うが、幼い日のアドルファスが自分に笑いかけてくれた、その微笑に再び出会ったエヴェリーナは、なつかしさと感激に思わず赤ん坊を抱きしめ、ぼろぼろと泣いてしまったのだった。


( 6 )

 月日は、穏やかに流れていった。子供たちはすくすくと成長を続け、エヴェリーナとフェリックスの長男ダリルは十三歳に、その妹ヴィクトリアは十歳、アンジェリーナは六歳になっていて、さらにその下に三歳になるジュリアン・ウィリアムが生まれていた。アドルファスが死んだ時に引き取った、彼とエディスの遺児クレアランスも六歳になり、五月に初等課程入学のための基礎IQテストを受けた。クレアランスの審査を担当した試験官は、その結果を見ると、こんなことを言った。
「優良だけれど、この子は天才ではないね。あの二人の子供だから、さぞ凄いかと思っていたけれど」
 エヴェリーナは思わず子供の肩に両手をかけ、相手をきっと睨んだ。
「優良なら、いいじゃないの。この子が天才でないのは、この子の責任じゃないわ。あたしは、むしろほっとしてるの。大天才なんて、本人にとっては不幸なことでしかないから」
 お互いにそれ以上何も言わなかったが、『やっぱり天才は一代限りだった』という思いは双方に残ったようだった。エヴェリーナも、彼女の言葉どおりほっとしたと同時に、やはり教育班や科学班と同様、心の奥底では、多少は期待していたのに、ちょっと残念、という気分にもなっていた。それは弟が持っていた財産が、消えてしまったという失望だ。弟とマデリーンの間の三人の子供たちも、頭はいいけれど普通の範疇、という判定だったし、クレアランスは最後の希望だった。殊にこの子は母親も天才なのだから、と。しかし、それはやはり自分で言ったとおり、理不尽な期待だ。彼女はそんなことを思った自分を、ひそかに叱り付けた。それに弟が持っていた財産は、それだけではない。クレアランスには、アドルファスとの容貌の相似の他に、弟が持っていた愛すべき邪気のなさがある。少しやんちゃすぎる面も、なきにしもあらずだったが。

 その年の、十二月のことだった。もうじき七歳の誕生日を迎えるアンジェリーナはその日、やや風邪気味で咽喉を痛がっていたので、エヴェリーナは外へ出ないで部屋にいるようにと、言い聞かせていた。しかしもともと活発で家にじっとしていることの嫌いな少女は、午後二時すぎになって「もう元気になったから平気!」と、中央広場の横にある、子供たちの遊び場スペースに行ってしまった。エヴェリーナは(まあ、いつものことだわね)と肩をすくめ、そんな娘を見送った。その日は、学校はお休みの日だった。ただいつもなら、そういう場合、たいがいクレアランスが一緒なのだが、このとき彼は昼から男の子仲間の家に遊びに行っていたので、アンジェリーナ一人だった。だが、エヴェリーナはたいして心配はしていなかった。広場に行けば、誰かしら遊び相手がいるのだ。アンジェリーナは相手さえいれば、誰とでも打ち解け、一緒に遊ぶことが出来る少女だった。
 四時半ごろ、エヴェリーナが遊び場になっている広場に迎えに行った時、娘はそこにいなかった。一緒に遊んでいた子供たちの話では、年長の誰かが外から雪を持ってきて、しばらくそれで遊んでいるうちに、自分も取ってくるといって、外へ行ったということだった。今はシルバースフィアの扉は冬の間も夜間以外は施錠されず、シャッターのかわりに強化ガラスと鉄の二重扉になっていた。どちらもそれほど厚くないので、子供でも力を入れれば、開けることができたのだ。アンジェリーナが広場を離れたのが一時間ほど前で、それきり帰ってこないから、遊び仲間たちはみんな、家に帰ったのかと思っていたらしい。
 話を聞いて驚いたエヴェリーナは、通路の端まで走ると、階段を駆け上がり、ドアを開けて、外へ出た。そして雪が激しく振り出した中に、娘がじっと立っているのを発見した。
「アンジー、何をやってるのよ! 風邪気味だっていうのに、駄目じゃない。さ、帰りましょう」エヴェリーナはほっとしたあまり強い口調で叱り、娘の手を引っ張った。
「ごめんなさい、ママ。でも、きれいなんだもん」
 アンジェリーナは母を振り返った。
「何がきれいなの?」
「あれが……ほら」
 アンジェリーナは、小さな指先で灰色の空に踊る雪をさした。少し大粒のボタン雪が、夕暮れの空から降ってくる間に風に舞い、地面に積もって再び風に巻き上げられた雪とともに、くるくると複雑な模様を描いて、無数に舞っている。その雪の群舞に、エヴェリーナも思わず娘を叱るのを忘れ、しばらくは見惚れた。
「まるで、鳥みたい……」
 アンジェリーナはうっとりとした表情で見つめながら、ささやくような声を出した。
「あら、鳥っていっても、あなたはDVDで見ただけでしょ」
「そうよ。でも、ママだってそうでしょ?」
 小さな娘にひるんだ様子はなく、すかさずそう答えている。
「小さな白い鳥がいっぱい、お空に舞っているの。きれいじゃない? 鳥は世界にいなくなったっていうけど、ほら、ここにいるのよ、こんなにたくさん……」
 少女は夢見るような表情で、小さな両手を組合せた。鳶色の巻き毛は振りかかる雪で少し湿り気を帯び、頬は異常に紅潮している。エヴェリーナは、すっかり冷え切った娘の身体に手を回した。
「寒くない、アンジー? まあ、こんなに冷えてしまっているわ。身体に毒だから、帰りましょう。雪は、また見ればいいわ。もっと元気な時にね」
「ううん。ママ、あたし寒くないの。あったかいくらいよ」
「だめよ。中に入りなさい!」
 エヴェリーナは口調を強めてそう命じ、娘の手を引っ張った。アンジェリーナはしばらくその場に留まりたそうに抵抗したが、母に引っ張られ、中に入っていった。

 家に帰ると、エヴェリーナは娘を着替えさせ、濡れた髪を拭いてドライヤーで乾かすと、ココアパウダーと砂糖を入れて温めた豆乳を飲ませた。カカオは数年前から、温室で収穫できるようになっていたのだ。
 一家で夕食をとった時までは、アンジェリーナも元気に見えた。しかしその後、彼女は「とても寒い!」と、がたがた震え出した。その顔は、異常に紅潮していた。娘の額に手を触れたエヴェリーナは、声を上げた。
「フェリックス、大変! アンジーがすごい熱よ!」
「風邪が治りかけなのに、冷えたからだろう。ぶり返したんだな」
 フェリックスは頭を振ると、娘を毛布にくるんで寝かせ、湯たんぽを入れた。それでも彼女は「寒い」と震え続け、発熱も四十度を超えた。その熱は一晩中下がらず、朝になって、夫妻は娘を病院に運び込んだ。そしてすぐに入院となった。
「肺炎かもしれないな」
 医療班の医師はそう診断を下し、抗生剤や解熱剤を打ったが、熱は下がることなく、まもなく意識もはっきりしなくなった。そしてそれから三日後、七歳の誕生日の二日前に、フェリックスとエヴェリーナの三番目の娘、アンジェリーナ・フローラ・ローリングス・ラズウェルはその短い生涯を閉じた。
 意識が混濁していた最後の二日間、彼女は何度かうわごとを言っていた。
「鳥がたくさん……」「きれい……」と。
 あの雪の日の舞――幼い娘を魅入らせた雪の舞が、結果的にその命を奪ったのだろうか――。エヴェリーナはそんな思いを感じた。そしてそれ以来、もう二度と雪の日が好きになれない気がした。しかし娘は、その雪の舞に送られ、鳥の翼にのって見知らぬ国へと旅立っていったのだろうか、と。快活だった小さな娘の死に、残された家族は深い悲しみに閉ざされた。ラズウェル夫妻の長子ダリルは妹の弔いの時、強い口調で宣言した。
「僕は大人になったら、医者になるんだ。それで、アンジーみたいな子たちを救けるんだ。絶対に!」と。

 子供の夭折という悲しい現実は、エヴェリーナの家族だけでなく、弟の遺児たちの上にも襲いかかってきた。アドルファスとマデリーン・セルシュの間に出来た三人の子供たちのうち、二人の女の子、メイベリンとフローレンスは無事に成長したが、唯一の男の子であったニコラス・クロードは八歳の時、腹部に先天性の腫瘍が発見された。それは初めのうちは無症状だったが、成長とともにだんだんと大きくなっていったのだろう。ここ三か月ほど、食欲がなくなり、元気もあまりなかったが、ちょうどアンジェリーナが亡くなって一週間後の夜、激しい腹痛を起こして病院に運ばれた。その時にはもう手の施しようはなく、手術もまだ実践段階ではなかったので、医師たちも苦痛緩和のために、少年を薬で眠らせるしかなかった。そんな状態が三週間ほど続いた後、ニコラス・クロード・セルシュ・ローリングスは、十年と五ヶ月の生涯を閉じたのだった。

 息子の葬儀を終えた一週間後、マデリーン・セルシュは残った二人の娘を連れ、ローリングス家のファミリートレジャーボックスを抱えて、義姉の居室を訪れた。
「これをあなたにお返しします、エヴェリーナさん」
 マデリーンはボックスを床に置くと、静かにそう言った。
「クレアちゃんに持たせてください。もともとそうすべきだったのかもしれないけれど、でもニコラスは長男だし、あたしたちが持っていてもいいだろうと思って、置いていたんです。でも、あの子がいなくなってしまった今、ローリングス家の男の子は、クレアちゃんしかいませんから」
「ええ。今は預かるわ。でももし……そんなことになったら困るけど、クレアにも万が一のことがあったら、その時にはまたあなたにお返しするわね。メイベリンもフローレンスもローリングス家の娘には変わりないんだし、男の子の後継者がいなくなったら、あの子たちのどちらかに、継いでもらうことになるんだから」
「それは、もちろんその時には……でも、そういうことは、ないほうがいいですね」
 マデリーンは悲し気に目を伏せていた。

 マデリーンが帰ったあと、エヴェリーナは目の前に置かれた青い箱を、しばらく黙ってじっと見つめていた。鮮やかな青の上に金色の文字で“ROLLINGS”と印されたその箱の蓋は封印され、鍵の所に「二七六・十一・七」と言う数字が浮かんでいる。それはロック期限の残り年月であり、その数字がすべてゼロになった時、この箱の封印は解ける。
 エヴェリーナはそっと手をのばし、箱の表面をいとおしむように撫でた。
『ファミリートレジャーに、タイマーロックをかけちゃった。どうしても父さんたちの音楽を残したかったから』
 そう言っていたアドルファスのことが、思い出された。あれが、弟との最後の会話だった。今、目の前に置かれたボックスを見ながら、不思議な気分を覚えた。誰がこれを開けるだろう。そして開けられた時、そこに封印されていたものの正体を知って、彼、もしくは彼女はなんと感じるのだろう。重大なもののように思うか、それとも、つまらない過去の感傷だと思うだろうか。そこにこめられている思いを、子孫たちは知るだろうか。
 エヴェリーナはかすかに首を振ると、ラズウェル家のトレジャーボックスの隣に、渡されたその箱を置いた。そして戸棚の扉を閉めながら、そっと呟いた。
「クレアが結婚する時に、これを渡してあげよう。その時アドルのことエディスのこと、それからあたしたちのお父さんとお母さんのことも、あの不思議な話も、すっかり話してあげよう。それまで、ここに眠っていてね」




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