Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 3  AGE Red (赤の時代)(5)




 まわりの心配をよそに、夏が過ぎて秋になっても、状態は変わらなかった。そして半年近くがすぎた十月の初め、マデリーン・セルシュが三人の子供たちを連れ、泣き腫らした顔で、ラズウェル家の居室を尋ねてきた。
「お願いします、エヴェリーナさん。アドルを止めてください。あんなことしてたら、死んじゃいます。でも彼、あたしの言うことなんて、全然聞いてくれないんです。部屋に帰ってさえもこないんですよ。科学班の友達が、彼はずっと研究室にこもって仕事しているって言ってて。それで研究室へ訪ねていっても、忙しいから邪魔をしないでくれって言って、入れてくれないし。二度目に行ったら、『ほんとにもう来ないで!』って、ものすごく怖い顔で言われたの。あんな怖い表情のアドル、初めてだった。それからはあたし、ただ待ってることしかできなくて……。でも、全然来てくれないんです。エディスさんがあんなことになって以来、彼はまるであたしに会うのは罪か汚れだと思ってるんじゃないかとさえ、思えるんです。でもあたし、心配で心配で……あたしの言うことは聞いてくれなくても、エヴェリーナさんの言うことなら、聞いてくれるんじゃないかと思って……」
 マデリーンは思いつめた調子でそう言うと、わっと泣き崩れた。頬のまるみも赤みも失せ、目は赤くなって紫の隈に縁取られている。くしゃくしゃに乱れた赤褐色の髪が、無造作に肩に垂れ下っていた。かつての快活さや元気さは、今のマデリーンには見る影もない。彼女の変わりように改めて気づいたエヴェリーナは、驚きに打たれた。
(まあ、この子もどんなにか苦しんでいるのね……)
 マデリーンは彼女なりに真剣にアドルファスを愛し、心からその身を案じているのだ。そう悟った瞬間今までマデリーンに抱いていた微かな嫌悪や軽蔑の感情が、エヴェリーナの心から消えた。相手を心から許す気になり、その苦しみに同情した彼女は、相手の腕に手をかけながら、いつになく優しい口調で答えた。
「あたしも心配しているの。アドルはあたしの言うことも、聞いてはくれないわ。でもこのまま放ってはおけないから、今夜にでも、また研究室へ行って、説得してみるわね」
「そうしてください、お願いします」
 マデリーンは軽く頭を下げ、帰ろうとしたが、エヴェリーナは引き止めた。
「ああ、そんなに急いで帰らなくても、たまにはゆっくりしていったら。お茶でも一緒にどう? 昨日、カップケーキを作ったのよ。たくさんあるから、あなたと子供たちにも、お相伴してもらいたいの」
 マデリーンはこの言葉を聞くと、驚いたように目を見開いたあと、ゆっくり頷いた。再びぼろぼろこぼれた涙が、頬を濡らして床に落ちていく。
「ああ、泣かないでよ。ほら、あなたが泣くと、子供たちが悲しむわ。見てごらんなさい。メイベリンもニコラスもフローレンスも、悲しそうな顔をして見てるじゃないの」
「すみません」
 子供たちの方を見やったマデリーンは頷くと、涙を飲み込んだようだった。
「でもあたし、なんだかほっとしてしまって……」
「そうね。あなたは今までこのグループで、一生懸命一人で気を張って生きてきたんですものね。大変だったでしょう。あたしもあなたに対しては、思い遣りがなかったかもしれないわ。ごめんなさいね。でもこれからは、仲良しになりましょうよ」
「ありがとうございます、エヴェリーナさん」マデリーンは再び涙をこぼした。

 ラズウェル家のリビングで、子供たちがエヴェリーナの子供たちと一緒に遊んでいるのを見ながら、マデリーンはしばらく黙ってお茶をすすっていたが、やがてぽつりと呟いた。
「でも、あたしがやっぱり間違ってたんでしょうか……」
「何が?」エヴェリーナはそう問い返した。
「あたしがエディスさんから、アドルを取ろうとしたことが。でも、あたしは本当に彼のことが好きだったから、きっと彼女には出来ない何かが自分には出来るに違いないって信じて、まわりのひんしゅくにも目もくれないで、突き進んできちゃったんですけど、やっぱりあたしには、彼を奪うだけの力はなかったんですね。結局こんなことになってしまって。アドルはあたしには全然会ってもくれないし、だから子供たちはまるで父なし子みたいで、まわりの人もあたしを理解してくれるのは、同じような立場にあるヴィエナさんだけで、他の人はみんなよそよそしいし……あたしが突っ張っちゃったのもいけないんですけど、でも、そうしないではいられなかったんです。みんながエディスさんの肩を持つのが癪に触って。アイリーンお姉ちゃんだって……あ、あたしが一緒に住んでる姉なんですが、できたら普通の結婚の方が良かったのに、って言うし。仕方がないわ、好きになった人が、もうすでに結婚していたんだからって、あたしは言ったんだけれど。姉は肩をすくめて、『諦めるのも選択肢だったとは思うけれど、まあ、あなたの人生だもんね。あなたが納得できるなら、いいわよ。お母さんは喜ぶかもしれないしね。あなたが第一グループ入りしたのは』って。あたし、そこは意識していなかったんだけれど……お姉ちゃんたちがいてくれたのは本当に救いだったけれど、このグループの集会にも、行くたびに肩身が狭かったわ。エディスさんが出る時には行かなくていいから……彼女とは、顔を合わせない約束だから、逆にすごくほっとしたりもしたんです」
「ごめんね……そのあたりのところ、わかってあげられなくて」
 エヴェリーナはマデリーンの腕にそっと触れた。マデリーンはかぶりを振り、感謝するようなまなざしを投げた後、言葉を続けた。
「冷静に考えてみたら、あたしがアドルに対してしてあげられたことは、彼の子供を生んだことだけで、ほかは何もなかったような、そんな気すらするんです。それに、恐ろしい疑問を感じてしまって。あたしが意志を通した結果、エディスさんを殺してしまうことになったんじゃないかって。ひょっとしたらアドルも、そう考えてるんじゃないか、だから、あたしに会いたがらないんじゃないかって、そんなことすら思えてきたんです」
「そんなことはないわよ」
 エヴェリーナは頭を振ると、優しいながらきっぱりした口調で否定した。
「あなたが自分の意志を通した結果、エディスを苦しめたかもしれない。そうね、それはたしかに否定しようのない事実よ。でも、あなたもまたそれに劣らず苦しんだんだから、その償いは出来てるんじゃないかしら。それにエディスが死んだのは、お産が重かったからで、誰のせいでもないわ。彼女があんな結果になったのは、環境のせいだろうって。長い間の過労と、生まれつきの体質なんじゃないかって、お医者さまもおっしゃってたのよ。だからあなたがそのことを気にするのは、もうおやめなさいな」
「はい……」マデリーンはしばらく黙ったあと、頷いた。
「ありがとうございます、エヴェリーナさん」
「またいつでも遊びにいらっしゃいね。それから、アドルが今の状態から立直ったら、あの子のことを、元気づけてあげてちょうだい。エディスがいない今、それが出来るとしたら、あなたしかいないんだから。将来的には、アドルとあなたと子供たちで、一つのコンパートメントで過ごせるかもしれないわ。あなたがクレアも、ちゃんと責任と愛情をもって、面倒を見てくれたら。そうしたらきっとアドルも、あなたの愛情を感じてくれると思うし、知り合った頃の思いに戻れるかもしれないわ」
 その言葉に、マデリーンは目を潤ませ、無言で頷いていた。
 やがてマデリーンと幼い三人の子供たちを、彼らの居室まで送っていくと、エヴェリーナは再び家へ戻りながら、小さなため息と共に呟いた。
「愛情に正邪は付けられないってフェリックスが言ってたのは、たしかに本当ね。あたしもマデリーンと和解できてよかったわ。でも、ああ、その前に一つ解決しなきゃならない問題があったわね。アドルのこと……」
 家に帰ると、リビングに置いたベビーベッドの中で、クレアランスが目を覚ましてぐずっていた。エヴェリーナは赤ん坊を抱き上げながら、首を振った。
「そうよね、クレア。あなただって孤児には、なりたくないわよね。パパは今のところあなたに冷たいようだけど、それじゃエディスの立つ瀬もないわ。あなたが物心つくまでに、ちゃんと立直ってくれるといいわね。そのためにあたしも、出来るだけの努力をしなくちゃ。あの子たちの苦しみに比べたら、あたしがあなたとアンジーとダリルとヴィッキーを育てるのにきりきり舞いするくらい、本当にたいしたことはないわね」

 その晩、自分の子供たちがみな寝付いたあと、あとを夫に任せて、エヴェリーナはクレアランスを抱いて、アドルファスの研究室へおもむいた。ドアには鍵がかかっていたが、エヴェリーナはどんどんと叩いた。
「アドル、ちょっと開けて!」
 一頻り待たされたのち、ドアが開いた。
「何? ここには来ないでって言ったよね」
 アドルファスはちらっと息子に目を向けると、無愛想にそう聞いてくる。
「それはわかってるわ。でも、こうでもしないと、あなたに会えないじゃない。押しかけられたくなかったら、たまにはちゃんと帰ってらっしゃいよ。ちょっと話があるの」
 エヴェリーナはひるまず、頭を振ってそう言い返した。
「何の話? ぼくはこれを解析しなきゃならないから、忙しいんだ」
「じゃあ、終わるまで待ってるわ。いえ、クレアは泣かせないから、安心していいわよ。あたしたちに構わずに続けてちょうだい」
「じゃ、そうするよ」
 アドルファスは再び椅子に腰を降ろすと、コンピュータと向かいあっていた。
 エヴェリーナは肩をすくめながら、壁際に置かれたソファに腰を下ろし、赤ん坊をあやすように軽く揺すった。クレアランスはいつのまにか、すやすやと眠っている。
 エヴェリーナは目を開けて、じっと弟の後ろ姿を見つめていた。以前より線の細くなった背中に、長い間切らずに伸ばされたままになっている金髪の巻き毛が後ろで無造作にひとつに束ねられて、垂れ下っている。一度も後ろを振り返らず、自分たちの存在など忘れ去っているようだった。
 アドルファスはほとんど身動きもせずに座っていた。手だけが休みなく動いている。静まり返った部屋の中に、カタカタと絶え間なくキーを打つ音だけが響いていた。

 アドルファスは、大きく伸びをすると、セッションを切って立ち上がった。エヴェリーナがクレアランスをつれて彼の研究室に来てから、五時間が過ぎていた。アドルファスは、振り向いてソファの上で眠っている二人に目を止めると、驚いたように目を見張った。改めて今、そのことを思い出したかのように。
「そうか、エヴィー、本当に待ってたんだな、ぼくの仕事が終わるのを。でも、寝ちゃったら意味ないじゃないか。真剣なんだけど、本当にどこか抜けてるんだから」
 アドルファスは苦笑して呟くと、いつも白衣がわりに着ている青い上着のポケットに両手を突っ込んだまま、眠っている二人の姿を、長い間見つめていた。エヴェリーナはソファにもたれたままの姿勢で、こっくりこっくりし、赤ん坊のクレアランスはその腕の中で、安心しきったように眠っている。金色巻き毛の小さな頭を、エヴェリーナの紺色ワンピースの袖にもたせかけて。
 エヴェリーナの寝ている体勢が少し崩れ、位置がずり下がったのに驚いたクレアランスが目を覚まして泣きだした。その声でたちまち彼女も目覚め、あわてて抱き直した。
「あ、ご、ごめんなさい。泣かせちゃったわね。あたしったら、寝ちゃって……」
「いいよ、もう仕事は終わったし」アドルファスは手をのばした。
「ぼくに貸して」
「大丈夫?」
 エヴェリーナは少し驚きを感じながら、赤ん坊を手渡した。アドルファスが自分からこの子を抱いたことは、あの生まれた時以来ついぞなかったのだ。引っ越しの時には、まるで荷物を持ってくるように、キャリーに入れて連れてきていたし。
 アドルファスは赤ん坊を受け取ると、そっと腕に抱えた。最初はちょっとびっくりした顔だったクレアランスも、すぐにその新しい所有者に慣れたようだった。
「やっと、この子を抱く気になったのね」
「うん」アドルファスは頷いて、赤ん坊を抱いたままソファに腰を下ろした。
「エヴィーが何を言いに来たのか、わかってるよ。あまり無理するなって言いたいんだろ?」
「そうよ。まったく、あなたときたら……まあ、いいわ。自分でわかってることでしょうし、あなたも四人の子持ちの立派な大人なんだから、自分で責任を取れるはずですものね。あなたは昔から、同じ日に生まれた双子なのに、たった二時間早く生まれたっていうだけであたしがお姉さんぶるって文句を言ってたから、今回はお姉さんぶるのはやめにして、忠告をしようとかそんなことは、何も言うつもりはないわよ」
 待っている間、エヴェリーナは弟に対して何を言うべきか、多くの忠告の言葉を考えていた。しかし浮かんでくるのはどれも今まで何回も言い古されてかびが生えているような文句だし、それを再び言葉に上せるのは無駄だと、この場になって思ったのだ。
「だけど、一つだけ聞かせて。あなたは研究によって、何かを忘れようとしているの? もしそうだとすれば、あなたが忘れようとしていることは何? 後悔なの?」
「後悔は、してるけれど……」
「それなら、あなたが後悔することはないわよ。少なくともエディスは幸せだったのだし、マデリーンのことでエディスを苦しめたっていうのは、もうすんだことなんだし。それにマデリーンも、ずいぶんあなたのことを心配していたわ。あたしはあの娘と仲良しになったのよ。そしてわかったの。誰もがみんな真剣だった。誰も、悪くはないって」
「そうかもしれない……」アドルファスは窓に目をやりながら、呟いた。
「後悔しても遅い問題でもあるしね。ただ、どうしても忘れられないことがあったんだ」
「何?」
「血なんだよ。何もしないと、目の前に浮かんできてしまったんだ。あの最後の光景が。吹き出る血と真っ赤に染まっていく床。最後のエディスの顔……研究をしてる間は忘れられるけれど、そうでないと、すぐ浮かんできてしまう。クレアに会いたくなかったのも、そのためだったのかもしれない。どうしても、思い出してしまうから」
「気持ちはわかるわ……」
 エヴェリーナはしばらく黙ったあと、立ち上がって弟の腕に手をかけた。
「あたしも忘れられないもの。人間としては、当然だと思うわ。でもそれでクレアを恨むのはやめて、お願いだから。ポラリスが生まれて、オーロラお姉ちゃんが死んでしまった時、エフライムさんに言ったことを、あたしはあなたにもう一度繰り返すわ。赤ちゃんを恨まないで。忘れたの? あなたは特にそうよ。あなたとあたしは生まれる時、ママを殺したのよ。言ってみれば、そうでしょう。だから今クレアを否定することは、自分自身さえも、否定することになってしまうわ」
「うん……それはわかっているよ。別にクレアを恨んでいるわけじゃないさ。ただ、忘れられなかったんだ」
「それもわかるわよ。でもね、きっと、いつかは薄れていくと思うの。鮮やかなイメージではなくなるわよ。焦らないで、なにか研究ではない、健康的な気晴らしをなさいよ。できたら、あたしも協力するから」
「そうだね。でも気晴らしなら、一つだけあるよ。ずいぶん、ぼくを救ってくれたものが」
「何、それって?」
「音楽だよ。父さんたちの音楽。三ヵ月くらい前に、改めて聞いてみたんだ。苦しみを忘れられたよ。励まされたし、慰められた。とくにあのラストアルバムとその前の、あの二枚は、ぼくの愛聴版なんだ。ほとんど毎日聴いていたくらいだから。もうぼくも、おかげである程度、立ち直ってるよ、今はね。さっき話した状態は、夏までが一番ひどかった。忘れるために研究していた時期は、もう過ぎたんだ。今はどちらかと言えば、ぼくは自分の使命に追われて、仕事しているだけさ。自分でやらなければならないことを全部やり遂げてしまうまで、なかなか休む気になれなかったんだよ」
「そうなの、なぜ?」
「もう、時間がないから」アドルファスは静かにそう答えた。
 その言葉の調子は、エヴェリーナの背筋にひんやりとした戦慄めいたものを走らせた。
「どういうこと……?」
「たぶん……ぼくの時間は、もうあまりないと思うんだ。今までかなり色々無理をしてきたからね」
「ねえ、アドル……」エヴェリーナは声がかすれるのを意識していた。
「体調が悪いと思っているなら、どうしてそんな無理をするのよ。ねえ、もうやめて。そう思うなら、なおさら……あたしはあなたを失うのはいやよ、アドル。これ以上愛する誰かをなくすのは、もう耐えられない。あなたはあたしのたった一人の、双子の弟なのよ、アドル。お願い……無理しないで」
「うん。もうこんな無茶は、これで最後にするつもりだよ」
 アドルファスはかすかに、微笑して首を振った。
「でも、今まではね……途中でやめたくはなかったんだ。ぼくは昔から、一つの研究に熱中してしまうと、寝食を忘れて打ち込んじゃうって、よくみんなに言われたけど、ぼく自身でもコントロールできないことなんだ。ステュアートのお祖父さん譲りなのかな。なにかがぼくにそうさせるんだ。ここ二ヵ月くらい、ずっとそうだよ。忘れるために研究に没頭する、その逃避は必要なくなっても、なにかが駆り立てて、長くは休ませてくれないんだ。早く、早くしろってね。だからずっとここにいて、そこのソファで眠って、処理待ちとか、少し集中が切れてきたなと思ったらCDを聴いて、科学班のメンバーが買って来てくれるジュースとサンドイッチを時々つまんで、ずっと仕事をしてた。ここ三ヶ月くらい。でも今、やっとぼくがしなければいけないことはみんな片付けたから、あとはランディがうまくやってくれると思うよ」
「ねえ、アドル。仕事が一段落したのだったら、今からでも遅くはないから、これからは身体をかばって生きなさいよ。そうすれば……」
「そうだね。そうできれば」アドルファスは弱々しく笑った。
「でもね、ぼくはクレアのことが心配なんだ。もしもぼくが死んだら、エヴィーが育ててくれる? マデリーンより、エヴィーの方が適任だと思うんだ。今まで育ててくれたんだし。大きくなったよね。ありがとう、ずっと育ててくれて。夜中に帰ってくる時、クレアの寝顔をいつも見ていたよ。そのたびに、大きくなったんだなって思った。だから、ね……エヴィーなら、きっとエディスがそうしたように、母親の愛情をもって育ててくれる。ぼくはそう思えるんだ」
「縁起でもないこと、言わないでよ!」エヴェリーナは激しく首を振った。
「それは……そうなれば、あたしが育てるわよ。でもね……」
「ありがとう……」アドルファスは頷いて微笑すると、立ち上がった。
「じゃあ、ぼくは帰るよ。エヴィーも帰ろう」
「ええ」エヴェリーナは弟の後に続いた。
「あなたは、今日はどこへ帰るの?」
「マデリーンの部屋に行こうかな。久しぶりに」
「そう、よかったわ。ぜひ、そうしてあげて。彼女、あなたのことをとても心配していたから、安心させてあげてちょうだい。お節介かもしれないけれど、つっけんどんにあしらったりしないでね」
「うん、大丈夫だよ」
 科学研究室のあるビルを出て通路を歩き、自分たちの住むアパートの建物に入ると、アドルファスはエレベータの前で立ち止まり、姉を振り返った。
「エヴィー、そう言えば、頼まれていた、あのタイマーロックができたよ。組み立てロボットに設計図を入力して、一週間前に完成させたんだ。研究室の棚に試作品があるよ。我ながらなかなかよく出来たんだ。指定時間までは絶対開かない。設計図はCDRに入れたから。ランディも知っていると思うよ。バックアップもあるし。でもノート用のはまだ実際には制作してないから、それはあとで必要になるまでに、ランディに頼んで作ってもらってよ。でもね、タイマーロック試作第一号は、もう実際に取りつけちゃったんだ」
「あら、どこへ?」
「ぼくのローリングス家の、ファミリートレジャーボックスへ。一か月前に家へ帰った時、研究室に持っていったんだ。入れたいものも一緒に。それを改造して、タイマーロックの試作品を取り付けて、一昨日中身を詰めて、鍵をかけちゃったんだよ」
「中に何を入れたの?」
「母さんのスケッチブックと、古い写真と父さんの楽譜と、母さんが持っていた、父さんたちのCD五枚をバインダーごとね」
「まあ、CDなんか入れたの? あれは処分しなきゃだめだって、アールお兄ちゃんに言われたじゃない。タイムシークエンスが壊れたら、どうするのよ」
「アールお兄ちゃんには、内緒だよ」
 アドルファスは片目をつぶり、ちょっとおどけた表情をみせた。
「タイムシークエンスは壊れないよ、絶対。だってあれ、今から二九三年後にならないと、開かないもの。そういうロックをかけちゃったんだ。父さんたちが行くのは、西暦に直せば二三三九年だから、その時にはまだ、あの箱は開かないよ。開くのは、それから一年後の計算なんだ」
「まあ……」エヴェリーナは一瞬、絶句した。
「じゃあ何? あなたはローリングス家のファミリートレジャーに、三百年近くも鍵をかけてしまったの? それじゃ、あなたの子孫が何か追加しようとしても、できなくなるじゃないの」
「そうだね。でも、それだけの価値はあると思うんだ。ぼくはやっぱり父さんたちのCDを、シュレッダーで細切れにしちゃう気には、なれないんだよ。父さんたちの生きていた証しでもあるんだしね。できたら映像作品も残しておきたかったけど、ぼくは持っていないし、無理だったから。せめてCDだけでも残したいんだ。第一世代の人が全員亡くなった時点で、もうCDもMDもハードディスクの音源も残らなくなるし。ああ、でも中央委員会では、音源と映像ファイルをハードディスクに保管して、放送で流したり、個人のPCからリクエストがかかったらストリーミングしたりすることは、続けるらしいけれど。今は各家庭に一台PCがあるし、第二世代以降にも、ファンは多いから。集会や放送や、お父さんお母さんたちから聞いているうちに、ファンになるんだね。それだけの力が、あの音楽にはあるから。あくまでストリーミングで、ファイルとしてはダウンロードできないようにしているけれど。でもその大元のデータは、二二〇〇年になったら全部を消去するプログラムの下に置くから、時限式で消えるんだ。そのプログラミングも、二年前にぼくがやったんだよ。でも、そのプログラムを開くパスワードは、アールお兄ちゃんしか知らないから、ぼくもわからないんだ。だから、改変は出来ない。消えることは、止められないんだ。みんな、とても残念がっているけれど。今、新世界の国歌のように歌いつがれている『A Brand New World』だって、アールお兄ちゃんオーロラお姉ちゃんのお父さんの、あのガーディアン信仰だって、二四世紀までには消さないとまずいわけだから、第五世代以降は、アイスキャッスルから今までの過渡期の話は、子孫に伝えていかない方針らしいし、タイムスリップの話も、完全にそこで止めるらしいよ。だからいずれは、すべて消えてしまうんだ。でも父さんたちの音楽を未来に残さないなんて、とんでもなく恐ろしい損失だと思うんだ。エヴィーだって、そう思わない?」
「あたしも、そうは思うわ。惜しいっていうより、悲しい気がして。でも、仕方がないと思っていたの。まあ、ずいぶん思い切ったことをやったわね。あとでローリングス家の子孫に恨まれないでよ。ファミリートレジャーに封印して、役立たずにしてしまったって。まあでも、そうね……もしシークエンスを狂わさずに音楽を残しておけるなら、そうしたいのは山々よ。みんな、そう思っているはずだわ。それに、あの楽譜を残すなら、よけいに音楽そのものも残しておきたいしね。もし子孫が他に残しておきたいものがあるなら、もう一つ箱をもらえばいいことだし。二個になるのは煩雑かもしれないけど、できないことはないものね」
「エヴィーはどうする? この手を使うなら、父さんの記録も残しておけるよ。本当に必要なのは君のメッセージだけだし、それは別の小箱に入れて、ヴィクトリアの嫁ぎ先の家のファミリートレジャーに入れてもらうわけだから、ラズウェルの方は問題ないし」
「でも、ラズウェルはローリングスじゃないしね。あたしが何百年も封印しちゃうわけにはいかないわ。あれは、あくまでラズウェル家の物だから。あたしがあのメッセージを書き終えたら、お父さんの記録は焼いてしまうつもりよ。へたに残しておいて、あとでお父さんが見てしまったりしたら大変だもの。たとえ可能性はうんと少なくても、危険は侵せないわ」
「そうだね。わあ、もう三時半なんだね。寝なくちゃ。ぼくはなんだか、ひどく疲れた感じがするんだ」
「ここのところのあなたみたいな生活をしていて、くたびれなかったら、どうかしてるわ。早く寝て、明日からは、もっと身体をいたわってよね」
「うん……」
 エレベータに乗り込むと、アドルファスは息子を抱きしめ、そのやわらかい、自分と同じ色の髪に顔を押し当てた。しばらくそのままの姿勢でじっとしていたが、やがて姉に赤ん坊を手渡した。
「夜泣くと困るから、預かっててくれない、エヴィー。ぼくは子供の宥め方、いまだによくわからないし、クレアも君の方が慣れているから。マデリーンのところへ連れていくよりも、エヴィーに頼みたいんだ」
「ええ、いいわよ。クレアは預かるから、おやすみなさい」
「うん。おやすみ。今日はよく眠れそうな気がするんだ。ここ三ヵ月くらい、夢も見ないしね。ああ、今晩はいい夢が見れたらいいな」
 エレベータが六階で止まると、アドルファスはもう一度笑って手を振り、おりていった。マデリーンとの居室に帰るのだろう。エレベータのドアが閉まった時、エヴェリーナは一瞬、なにか不思議な感情が胸を通り抜けていくのを感じた。それは何かしら胸を締め付けられるような思い――予感、それとも不安――弟への愛情、なつかしさ――? しかし彼女には、その正体を見極めることはできなかった。エレベータは八階についた。エヴェリーナは首を振り、赤ん坊を抱いて自分たちの居室へと向かった。

 翌日の昼頃、昼食の用意をしている時、来客を知らせるチャイムが鳴った。玄関に出ると、そこに立っていたのは見覚えのある女性だった。黒い髪を長く伸ばし、後ろでポニーテールのように束ねた、エヴェリーナよりほんの少し年上のその女性は、マデリーンの姉、アイリーン・スミスだった。
「ラズウェルさん、大変よ!」
 彼女はマデリーンとよく似た、大きな淡褐色の目を見開き、叫ぶように声を上げていた。
「ジェイクは仕事に行っていて、誰もいないから、今急いで病院に行ったんだけど……お医者さんが、往診にみえるって言っていたわ。妹は今、ものすごく取り乱していて、とても病院にもあなたにも、連絡できる状態じゃないから、あたしが来たのよ。あのね……アドルファスさんが、亡くなったみたい」
「えっ」
 その瞬間、エヴェリーナの世界は凍りついたようになった。呆然と目を見張り、その場に立ち尽くすしかできなかった。アイリーンは説明を続けている。
「昨日夜遅く、アドルファスさんが見えたのね。あたしは知らなかったのだけれど、朝、マデリーンがとてもうれしそうに言っていたわ。あたしも、それはよかったわねって言って、あの娘も起きたら一緒にご飯を食べたいって、すごく喜んでいて……でも、起きてこなかったの、彼。いつまでたっても。マデリーンも最初は、昨夜遅かったのだから、疲れているし寝不足だろうから、起きるまで寝かせておきたいって言っていたんだけれど、でも朝と同じ体勢で、全然動かない。よっぽど疲れたのねって言うから、それちょっと変じゃないって、あたしは思って見てみたら……」
 エヴェリーナはマヒしたように、その場に立っていることしかできなかった。昨日の夜、アドルファスが言っていたことが、ぼんやりと頭をよぎっていく。
『ぼくにはもう、あまり時間がないんだ……』
「ラズウェルさん!」
 強くそう呼びかけられ、エヴェリーナははっとして相手を見た。
「ジェイクに連絡して、あなたのご主人に伝えてって言ったけど、あなたはどうします? うちに来ます?」
「え……ええ。ごめんなさい、スミスさん……ちょっとぼんやりしてしまって。ええ、ええ、行くわ。でも、少し待って……メアリにアンジーとクレアのことを頼まないといけないから……」
 エヴェリーナは家の中に取って返すと、通信機でメアリを呼び出し、震える声で事情を伝えた。そしてマデリーンの姉について、彼女たちの居室に足を踏み入れた。




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