Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 3  AGE Red (赤の時代)(4)




 アールはここ一年半の間、戸籍班のメンバーとともに、戸籍の完全復刻という作業に取り組んでいた。アイスキャッスルに最初にいた八二五二人の名簿、オタワに移動した五八一三人のリスト、彼らの生死、婚姻状況と第二世代の出生名簿、第二世代の成長状況、婚姻関係、職業、死亡、第三世代の出生や動静などが調べ上げられ、中央コンピュータのデータベースに打ち込まれた。それが完了した後、これからの社会の基盤となるファミリーの確立に乗り出していた。
 この“ファミリー”という概念の固定化をめぐり、一ヵ月近くにわたって中央委員会は大論戦になった。どういう集団をファミリーと呼ぶべきなのか。またその統一根拠を姓に取るなら、男女どちらに従うのか。今までの場合は基本的に、昔の因習を継いで妻が夫の性を名乗るという原則になっていたが、それを継承すべきか否か。この問題をめぐって、委員会のメンバーたちの間でいくつも意見が別れた。
「そんな男性優先社会は許すべきではない。女性はファミリーを継げないということになったら、娘ばかりの家は滅びることになってしまう。それは理不尽だ。やがては女性軽視の種を育ぐむものだ」
「生命の源は女性であるのだから、男性中心というのは変だ。いっそのこと母系社会にしてしまったらどうか。家長は母親であり、姓も妻に従うとしたら」
「いや、元の世界でも長い間男系社会だったのだし、それでうまくやってきたんだから、それを踏襲すべきではないか。社会は男性中心でやっていき、女性はなんといっても子供を産み育てるという、男には絶対出来ないことをしなければならないんだから、社会進出は二の次でいい。ことに今は、人口を増やすことが何にも増して重要なんだから」
「その考えは以前の世界でも、もはや古いと聞いたが」
「前の世界は社会システムそのものが爛熟していた。しかし今は、科学こそある程度進歩しているが、社会自体は原始時代に戻ったようなものだろう。だから、古くからの慣習が復活したとしても、当然なのではないか」
「そもそも、夫婦が同じ姓にならなくてはならないという考え方自体がおかしい。姓はお互いに変えないで、息子には父親の姓を、娘には母親の姓を名乗らせたらいいんじゃないか。以前の世界だって、夫婦別姓がかなり広く行なわれていたというではないか」
「いや、それではファミリーという概念が分散してしまう。家族は本来ひとつでなければならないんだから、一つの姓のもとに集まる一体感こそが必要なのだ」
「果たしてファミリーという考え方自体が必要なのだろうか」
 最後にはこんな疑問を投げる人もいた。アールはこの発言を聞くと、デスクから立ち上がった。
「ファミリーという概念は必要だよ。それが社会の基本概念になるはずだから。個人基盤があって、家族があって、社会があるんだ。だからその概念をはっきりさせておくために、今議論してるんじゃないか」
「そうですね」発言者は少し決まりの悪そうな顔になった。
 出席者は一様に頷き、アールは意見の取り纏めに入った。
「それで、どういう提案が今のところ出てるんだっけ。夫の姓に準ずる、妻の姓に従う、姓は変えない。その三つだね。それぞれに問題点はあるけど。男系にしろ女系にしろ、反対の性が家系を継げないという点はあるから、これはオプションが必要だろうね。もし夫の姓にするんだったら……今のところずっとこの方針だけど、これはあくまで暫定だから、もし女性の方の兄弟が女の子ばかりで、もし男性側に他に男の兄弟がいたら、彼の姓はそっちに継いでもらって自分は奥さんの姓になるとか、それが無理なら、そのカップルの二人目の息子を、彼が結婚した時に母親の姓にする、とかね。こういったことって、結構元の世界でもやっていたらしいから、それは継承してもいいんじゃないかな。母系ならこの逆。変えないっていうのはその点問題はないかもしれないけど、ファミリーとしての統一感は薄れる、と。他には、もう選択肢はないかな?」
 しばらくみんな黙って考えているようだったが、やがてメンバーの一人がためらいがちに口を開いた。
「新しい姓を作る道もあると思います。結婚した時に、夫婦で独自の姓を決めるのです」
「それも、たしかにおもしろい考えだと思う。でもそうすると、子孫の代を経るたびに姓が変わっていくことになるよね。そうなったら、自分のルーツがどこだか、わからなくならないかな? 横の関係としては新姓も悪くないけど、縦につなげていくというファミリーのもう一つの性格を考えると、ちょっとどうかな、と思うよ」
「そうですね。じゃあ、くっつけるという手もありますよ。夫と妻の両方の姓を。基本的には一番後の姓が通称として使われますけど、でもそうすれば、もうひとつの姓も消えずに残るのではないでしょうか。それにルーツもわかるし」
「うん。それも一つの案だね」アールは頷いた。
「でも、その場合だと、基本的にどっちの姓が後にくるか、考えないといけないな。それと、子供が結婚した場合、さらに相手の姓とドッキングしたら四つになってしまうから、元々の二つのうち、どちらかをカットする必要があるよ」
「そうですね」
「じゃあ、これで全部の選択肢が出揃ったかな?」
 アールはまわりを見回し、しばらく黙った。もう他に新しい意見は出なかった。
「じゃあ、今までの選択肢の中で、全員の意見を仰いで決めてもらおう。コミュニティのみんなに選んでもらって、一番多く得票をした制度に決定する。これでどう?」
「じゃあ、そうしましょう」出席者たちは一斉に頷いた。
「ところで、もうひとつ問題があるんですが、やっぱり一夫一妻制にしますか? それともそのへんはフレキシブルに?」と、メンバーの誰かが聞いた。
「そうだね」アールは苦笑いしながら答えた。
「本来は、一夫一妻制の方がいいよ。ファミリーの統一という観点からはね。自分のことは棚上げすることになるけれど。でも、子供の問題があるんだな。非嫡出って言うことになると、その子の姓は父親のものになるのか、母親のものになるのか。そのへんも決定しなくちゃね」

 十一月になって、シルバースフィアすべての人を対象に、選択投票が行なわれた。その結果選ばれたのは最後の案、夫と妻の姓を両方名乗ると言うものであった。フルネームがかなり長くなるという恨みはあるものの、これがいちばん平等だという支持を得たようだ。原則的には夫の姓が後になり、非嫡出児はどちらを最後にするかは母親の自由裁量となる。父親がわからない場合は、母親の姓をそのまま継ぐ。結婚した時は、夫はそのまま、妻は原則として、元の二つのうち最初の姓を落とし、夫の最後の姓と同じものを、その後に付ける。ただあくまで原則なので、妻側に後継者が不足している時には、逆でもかまわない。その案が、全体の六十パーセント近くの得票を得て決定された。
 その後その規則に基づいて、第二世代以降の子供たちは今までは慣例的に、結婚している場合は父方の姓を、未婚の場合は母のものだけを名乗っていたが、第二の姓が付け加わり、それが正式な名前として登録された。例えばアールの場合は、アール・ランディス・ハミルトン・ローゼンスタイナーが正式の名前となった。メアリの子、ランディス・パロマとジョスリン・グロリアはそのあとに、ローデス・ローゼンスタイナーとつき、ヴィエナの子ティアラ・マリアとアリステア・ショーン、エイプリル・エイミーはライト・ローゼンスタイナーとなる。エフライムとオーロラの子供たちは、ローゼンスタイナー・シンクレアとなり、アドルファスはアドルファス・ルーク・ステュアート・ローリングス、マデリーンとの間の子たちは、セルシュ・ローリングスとなった。もしエディスとの間に子供が生まれたら、その子はバーネット・ローリングスとなる。エヴェリーナは記録にあったとおり、エヴェリーナ・メイ・ローリングス・ラズウェルとなった。それは彼女の子供たちも同様だ。その子供たちが結婚すれば、さらにその子供の代ではどちらかの姓が消滅することになるが、その姓の後継者がいない場合、三〜五代前までは、さかのぼって継承することも可能となった。
 すべての人の名前が正式に登録されると、現在存在している第二世代のファミリー。組み合わされた二つの姓のうち、最後の姓の数である八〇二の家系が決定され、そのすべての家系図が、コンピュータのデータベースに打ち込まれた。
 制度が確立されてから一か月後、それぞれのファミリーの元となる夫婦に、シルバースフィアの隣にある工房で『製作モデル』ロボットたちによって制作された、青い箱が渡された。再生金属で出来た一フィート立法の箱で、内側はやはり再生布が張ってあり、蓋にはダイアル式の鍵がついていた。蓋の上には金色の文字で、それぞれのファミリーの名前が刻まれている。
「これはファミリートレジャーボックスといいます。子孫に伝えたいこと、残したいもの、家族の証などをこの箱に入れて、みなさんの子孫たちに代々渡していってください。そうすればうんと先の時代になっても、みなさんのファミリーのアイデンティティは残されることになります。これは一応、最後の姓で刻まれていますが、もし新しいブランチができたら、そのつど中央に申請して、新しい箱をもらってください」
 アールは箱を配る時に、そう告げた。彼自身もすべてのボックスを配り終わった後、自分の分として“Rosenstainer”と記された箱を持って帰った。いつになるかはわからないが、とりあえず自分が死んだら、長子ランディスにその箱を譲り渡すつもりだった。


( 5 )

 十二月になって、エヴェリーナは女の子を出産した。その娘を、夫の希望を入れてアンジェリーナと名付けた。アンジェリーナ・フローラと。ちょっと色が浅黒く、鳶色の縮れ毛に大きな褐色の目をした小さな娘をひと目見た瞬間、フェリックスは自分の父親によく似ていると言った。フェリックスの父は第一世代では好男子の一人だということを聞いていたので、女の子ではあるものの器量よしだということだと、エヴェリーナは夫の言葉を満足して受け入れた。
 新しく増えた家族とともにクリスマスを迎えた彼女は、三人の子供の幸福な母親として日々を送っていた。三月から、一番上の息子ダリルが初等課程に通い始めた。自分の幸福だけでなく、他の人のそれにも非常に敏感なエヴェリーナは、アールや今はなきオーロラの家庭とも、親密な交流を保った。また彼女自身はマデリーンを好かないものの、一応弟の子供である、小さな甥や姪たちの存在も無視は出来なかった。

 春になると、エヴェリーナは赤ん坊とともに、よくエディスの部屋を訪問していた。弟夫婦とは、お互いに結婚した時から一緒に住んでいたが、四ベッドルームの家で、三人目の子供が生まれるラズウェル夫妻のためにと、昨年から二人はシンクレア家に間借りして住んでいた。やもめとなったエフライムは主寝室をアドルファスとエディスに譲り、隣接する子供部屋も予備として提供した。そこを使っていたライラスとパリスは、父の部屋の向かい側の個室に移り、アティーナは妹ポラリスを自分の部屋に入れていた。
 そんな生活になって半年後、エディスに待望の子供が授かった。結婚十年目の子宝だ。そしてこの五月に、出産を控えていた。自分の研究に切りがつかないからと、エディスは身重の身体にもかかわらず、二月までは通常どおりの研究所通いを続け、やっとそれが終わった三月から、彼女はごく普通の主婦であり、間もなく母になる女としての、穏やかで幸福な日々を送っていたのであった。
「科学班では、あなたが休業することを残念がっている人は多いけれど」
 エヴェリーナは義妹に向かって、優しい口調で話しかけた。
「でもあたし、ずっと気になっていたのよ。あなたが女としての幸せを犠牲にしてはいないかどうか。いいえ、あなたが満足しているなら、何も言うことはないのだけれど。ただ、あの娘の存在もあるから……」
「そうね」エディスは微笑した。
「わたしは今ね、変な気分なのよ。ずっと今まで一生懸命にやっていたことが、もう当分やらなくてもすむようになって、一日中こうして彼の帰りを待っているなんてね。今まであなたがたや、シンクレアさんの厚意に甘えてしまっていたけれど、家に入って、家事も少しやるようになったのよ。今でもティーナちゃんの方が、ずっと上手だけれどね。でも、ティーナちゃんも学校があるから、わたしのつたない家事でも、ありがとうって言ってくれるのがうれしいわ。こうして待っている間は、ぽかっと穴が出来たっていうか、真っ白になったような気分よ。研究生活も好きだったし、大変だけれど、楽しくもあったわ。でも、今はこの何もない穏やかさが、わたしにはなんだか心地いいの。こんな幸せもあったんだなあって、感謝したい気分よ」
 シンクレア家の人たちは、それぞれ仕事や学校に出かけて不在で、エディスとエヴェリーナは二人でリビングにいた。エディスはゆったりとソファの上に座り、テーブルの上には読みかけの本が置いてあった。半年前からのばし始めた真っすぐな鳶色の髪が肩にかかり、灰色の目は夢見るように輝いている。いくぶん頬のまるみも増して、ほんのり紅色に色付いている。エヴェリーナはふと感嘆の気持ちに襲われた。
「まあ、エディス。あなたは、きれいになったわね」
「そんなことないわ」エディスは恥ずかしそうに微笑んだ。
「でも嬉しいわ。ありがとう。ああ、けれどね、もう五年これが早かったら、六階のあの娘に、アドルをとられないですんだんでしょうね。それを思うとちょっと悔しいけど、それでもわたしは今、とても幸福なの。彼はわたしが家に入ってからは、あまり彼女のところへ行かなくなったし、それにわたしには絶対だめだとあきらめていた願いが、今叶ったんですもの」
「本当に、よかったわね」
 エヴェリーナは自分の腕に抱いていたアンジェリーナを差し出し、悪戯っぽく微笑んだ。
「抱いてみる? 予行練習に」
「ええ」エディスは微笑みながら、ためらいがちに手をのばした。
「でもね、わたし今まで赤ちゃんって抱いたことないのよ。嫌がらないかしら」
「大丈夫よ、この子はあまり人見知りしないから」
 エヴェリーナは娘を義妹の手に抱かせた。エディスは、最初はためらうようにぎこちない様子でアンジェリーナを抱いていたが、やがて慣れたようだった。
「いい匂いね、ミルクの匂い? それにやわらかくて……」
 エディスは赤ん坊に頬を寄せながら、ふと微笑して呟いた。
「わたしの赤ちゃんも、早く生まれないかしら。抱いてみたいわ、こうやって。なんて赤ちゃんてちっちゃくて頼りなくて、可愛いんでしょう」
「あと二ヵ月よね。まあ産む時はちょっと苦しいけど、それだけ喜びも大きくなるのよ。頑張ってね」
 エヴェリーナは少しだけ経験者の威厳をにじませながら、笑った。
「ええ。わたし、その日をこうやって、指折り数えて待ってるの。わたし、生まれてから今まで、こんなに幸せを感じたことってないのよ」
 そう答えたエディスの目は、穏やかな幸福に輝いていた。

 彼女は五月半ばに産気づいた。今は電話の代わりに、トランシーバのような無線機が各家庭にあるが、その日のお昼頃、エヴェリーナの家に義妹から通信が入ったのだ。
「陣痛が始まったと思うの。お水が出たし。でも、アドルには連絡がつかないし、シンクレアさんの家は誰もいないの、今」
「ああ。学校だもんね。エフライムさんは仕事だし、ポラリスはプレスクールだから。アドルは仕事、抜けられないのかしら。ともかく待ってて、今行くわ!」
 フェリックスがちょうどその日は仕事が休みだったため、夫に子供たちを任せて、エヴェリーナは下の階へ飛んでいった。そして義妹の状態を確かめると、病院に走った。家の扉は開放しておいたので、看護師と看護用ロボットがストレッチャーを押してエディスを迎えにいっている間に、エヴェリーナは科学技術班の研究室によって弟へ伝言を頼み、義妹の後を追いかけるように、再び病院へと走った。
 エディスのお産は重く、その日いっぱいかかっても、ほとんど進行しなかった。そして日付けが変わるころになって、ようやくアドルファスが駆けつけてきた。
「ありがとう、エヴィー。機械トラブルがあって、修復作業を抜けられなかったんだ」
 アドルファスはずっと妻についていてくれた姉を感謝するように見た。
「大丈夫よ。今日はフェリックスがお休みの日だから。ただね、かなり時間がかかっているのが、心配だわ。エディスもつらいみたい。あなたも大変でしょうけど、ちゃんとついていて上げてね。なんと言っても、あなたが一番、支えになれるはずだから」
「うん。ありがとう、エヴィー。ぼくが来たから、あとは立ち合うよ。エヴィーは家に帰って寝てて」
 姉に感謝のまなざしを投げると、アドルファスはベッドに寝ている妻の手を握った。エディスは青ざめた顔ながら、夫の姿を見ると、ほっとしたように微笑んでいる。
「ええ。じゃあ、あたしは帰るわ。明日の朝、また来るけど、そのころには赤ちゃん、元気に生まれているといいわね。エディス、頑張ってね。アドルもね」

 しかし翌日、エヴェリーナが出勤する夫フェリックスと学校に行くダリルを見送り、あとの子供たちをメアリに託して病院に駆けつけた時になっても、まだ赤ん坊は生まれていなかった。エディスは分娩台の上で真っ青な顔であえぎ、それを見守るアドルファスの目の下にも、薄いクマができている。
「大丈夫かしら……」
 エヴェリーナは両手を握り合わせ、思わずそう呟いた。ふと、自分たちの母のことが、頭をよぎった。父は書いていた。母は三日がかりのお産だったと。そしてその負荷のため、命を落とした。そう思ったとたん、激しい震えを感じた。
 赤ん坊は幸い、それから間もなく生まれた。大きな泣き声が響いた時、エヴェリーナもアドルファスも、そして分娩台の上のエディスも、どの顔にも笑みが浮かんだ。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」立ち合っていた医師が告げた。
「ありがとうございます!」
 アドルファスは清められて産着にくるまれた子供を抱き取ると、青ざめた妻の胸に静かに置いた。苦闘を終えたエディスも微笑して頷きながら、小さな赤ん坊に触れた。慈しむように指先で我が子の頬に触れ、微笑を浮かべている。満足と歓喜、そして母の愛情にあふれた笑みを。
「あ!」
 医師が小さく叫んだ。アドルファスとエヴェリーナも、同じように小さく声を発した。それは尋常ではないほどの、出血だった。まるで泉が湧くように分娩台の上から流れ落ち、床を赤く染めていく。同時にエディスの目から光が消えていき、やがてその目も閉じられた。両手がだらりと、力なく垂れさがっていく。
「大変だ! 氷持ってきて!」
 医師はそう叫び、看護師とともに急いで手当てを始めていた。しかしその間も血は止まらず、床は赤さを増していった。
「血圧が急激に低下しています!」看護師が緊迫した声でそう叫ぶ。
「心拍も落ちている。出血性ショックを起こしたみたいだ」
 医師も血を止めようと処置しながら、うめくように言う。
 義妹のベッドの傍らにつけられたモニターが、けたたましい警告音を鳴らした。
「ああ、なんてこと……」
 エヴェリーナは擦れた声で、絞り出すようにそう呟き、両手で顔を覆った。アドルファスは紙のように顔色を失いながら、言葉を忘れたように、その場に立ち尽くしている。まるで彼自身も倒れそうな感じだった。
 やがてピーと鋭い音とともに、心拍計の波がなくなった。医師と看護師は、ロボットが運んできた簡易ベッドの上にエディスを移し、心肺蘇生を試みたが、その鼓動が再開することはなかった。十五分後、医師は努力をあきらめ、宣告した。
「お気の毒ですが……ご臨終です。死因は大量出血のショックによる、心停止でしょう。元の原因は、弛緩出血だと思います」
 それは、五年前にも聞いた死因だ。従姉オーロラが、末っ子ポラリスのお産と同時に、世を去った時に。彼女の場合、元の原因は妊娠中毒による、胎盤早期剥離だったが、その大量の出血が、従姉の命を奪ったのだ。そして義妹も、同じ道をたどった――。
 エヴェリーナは全身の力が抜けるのを感じ、床に座り込んだ。
 アドルファスは医師の言葉に、無言でただその場に立ち尽くしているようだった。その身体はやがて、激しく震えだした。そして彼は叫んだ。
「嘘だ……嘘だ……ぼくはそんなこと、信じない!」
 その言葉に、エヴェリーナは聞き覚えがあった。それは父の記録に書いてあった言葉。母が同じように世を去った時、父が発した言葉だ。彼女は弟の腕を取ろうとした。しかしアドルファスは無意識のような動作で姉の手を払い、よろけるような足取りで、妻が寝かされている簡易ベッドに近づいて行った。そしてその上に寝かされているエディスを、じっと見つめていた。
「エディス! 目を開けて、エディス! せっかく子供が生まれたんだよ! お願いだから! ぼくをおいて……行かないで!」
 その声の悲痛な響きに、エヴェリーナは胸がえぐられるような気がした。アドルファスは枕の上に広がった妻の髪の上に顔を伏せ、声を上げて泣いている。
 枕の上の義妹の、幸せそうな穏やかな顔が、五年前にやはり世を去った従姉の面影と重なった。そしてさらに思いは飛んでいく。自分たちの母も死んだ時には、こんな表情を浮かべていたに違いないと。ほんの数分間だけの、母親の喜び。
 こんな残酷なことって、あるのだろうか。義妹は、あんなに母になることを待ち望んでいたのに。もういやだ。二八年近く前には母が、五年前にオーロラが、そして今、エディスが――お産が命取りになってしまうことが、今はなんて多いのだろう。世界が壊れる前までは、あまりなかったということらしいのに、今は、設備が整っていないからなのだろうか。環境が悪いせいなのだろうか――。原因はなんであれ、失われた命はもはや、戻ってはこないのだ。
 あふれてくる涙を押さえることは出来なかった。幾多の悲しみに会うたびに感じる思い。運命は理不尽だ。エヴェリーナはその思いを苦々しく噛みしめながら、義妹を、弟を、ただじっと見つめていることしかできなかった。

 エディスが生命と引き替えに産んだ息子は、金髪に青灰色の目の、父親に良く似た可愛い赤ん坊だった。この子はクレアランスと名付けられた。クレアランス・ルーク・バーネット・ローリングスと。普段は簡単にクレアと呼ばれ、仕事で忙しい弟の代わりに、エヴェリーナが面倒を見ることになった。ラズウェル家でもまだ子供たちが小さいため、部屋は空いている。弟たちが住んでいたシンクレア一家の家は、もうすでに従姉がいないので、赤ん坊の世話は負荷をかけすぎる。それなら、姉である自分が面倒を見ると、エヴェリーナが強く申し出たからだ。
 クレアランスが退院した時、アドルファスは息子を連れて、姉の家に戻ってきた。彼がかつて妻とともに暮らしていた部屋は、思い出して辛いだろうからと、ラズウェル夫妻は別の部屋を用意し、そこにシングルのベッドと小さなベビーベッドを置いていた。
「ぼくは、仕事に戻らないといけないから、悪いけれど、クレアの世話をお願い。できたらベビーベッドはここじゃなくて、リビングにでも置いてくれると助かるな。ぼくはたぶん、面倒を見られないと思うから」
 部屋に来た時、アドルファスはそう言った。いつになく感情を抑えたような、抑揚のない声で。
「わかったわ。あとでフェリックスに頼んで、移動させてもらうわ」
 エヴェリーナは頷き、弟の手から赤ん坊が入ったキャリーを受け取った。
「荷物はそのうちに持ってくるから」
 アドルファスはチラッと姉に、感謝のこもったようなまなざしを投げた。そしてそのまま、科学研究班の部屋へと戻っていった。

 しかしそれから、アドルファスはほとんど部屋には帰ってこなかった。エヴェリーナが朝起きて弟の部屋に行っても、ベッドに寝た形跡もない。荷物だけは三日後、自分の身の回りの物を大きなバッグに詰めて持ってきたが。一週間に一度くらいは、夜遅くに帰ってきたような気配がし、ベッドに寝た後があるが、エヴェリーナが朝起きてくるころには、もういなかった。最初はマデリーンのところに行っているのかと思ったが、そうではないらしい。フェリックスが科学班の友人に聞いた話では、アドルファスはほとんど自分の研究室にこもりきりで、次々と仕事をしているという。アールも様子を知っているのだろう。ある日エヴェリーナに、首を振りなら、こう漏らしていた。
「アドルは研究することで、悲しみや苦い思いを振り切ろうとしているんだろうか。エディスが死んで以来、まるで何かに憑かれたような勢いで、仕事してるんだ。僕らが頼んだ開発も、かなりの速さで上げてきた。でも、身体は大丈夫なんだろうか……」
 その心配は、エヴェリーナも感じていた。アドルファスは研究が佳境になると、すぐに寝食を忘れて打ち込む。彼らの祖父にあたる、『始原の三賢者』のリーダー的存在だった、ジャーメイン・ステュアート博士に、その部分は似ているのだろうか。しかし研究が終わると、アドルファスはいつも体調を崩し、二、三日寝込んだ。もともと体質的に、さほど丈夫ではないのだろう。
 そんなに仕事ばっかりするな。たまには休息しろ。身体をいたわれ――弟に会ったら、エヴェリーナはいつも、そう言いたかった。しかし、肝心の弟に会う機会がほとんどない。一度研究室に訪ねていったが、アドルファスは「忙しいから帰って」の一点張りで、その次に彼が部屋に帰ってきた日の朝、テーブルの上に【もう研究室に来ないで】という紙が置いてあった。
「どうしたものだろうな。今はそっとしておくしかないんだろうか。いつかアドルも立直るだろうし、その時が来るのを待ったほうがいいのかもしれない」
 フェリックスの心配げな言葉に、エヴェリーナは首を振った。
「でも、その前にアドルが倒れちゃうんじゃないかって、あたしはそれが心配なのよ。なんとかしたいんだけど、どうすればいいのかしら。それもわからないの」




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