Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 3  AGE Red (赤の時代)(2)




 アドルファスはまもなく、彼女の情熱に屈した。彼にとって妻エディスへの愛と忠節は揺るぎないものの、心の中の空き間をすべて埋めつくすほどには、いっぱいではなかったのかもしれない。彼らは独立した夫婦だった。たまに共同研究をすることはあっても、お互いに違うプロジェクトを抱えていると、物理的にはどうしても離れ離れになってしまう。それでも彼らの心の絆は変わりない。お互いに八才と九才の少年少女だった頃から、もう十三年もいっしょにいるのだから。しかし、物理的な距離から生まれたアドルファスの心の空白に、この情熱的な娘が入りこんできたのである。
 まわりの人々は、この第三の女の出現を薄々感じていたようだったが、それが決定的になったのは、それから半年後、マデリーン・セルシュの妊娠が発覚し、アドルファスがそれを自分の子供と認めたことだった。

「アドル! ここに座って。あなたに言いたいことがあるのよ。そうよ、見当はついているでしょうけど……いったい何を考えてるのよ! アールお兄ちゃんの方はもう慣れたと思ったら、今度はあなたまで。なんでそう男って、どうしようもない浮気者なのかしら!」
 エヴェリーナはことがわかった時、憤慨のあまり、弟の帰りを待ち構えていて、そうまくしたてた。
「ごめん……」
 アドルファスはソファに座りながら、神妙な顔つきで謝った。
「あたしに謝ってどうするのよ。謝らなければならない人が、他にいるでしょ」
「エディス、だろ。わかってるよ」
 アドルファスは少し顔を赤らめ、しばらくうつむいた。
「彼女には、すごく悪かったと思ってるんだ。本当、謝るだけしかできないよ」
「まさかあなた、彼女と別れて、今度の恋人と一緒になる気なの?」
「そんなことは全然考えてないよ。ぼくはエディスを愛してるから」
「じゃあ、なんで浮気なんかしたの? ああ、わかった。あの娘に押し切られたんでしょ。あの娘もね、ヴィエナと同じタイプよ。いえ、まだヴィエナの方がましよね。だって、あのマデリーンって子は自分のことだけで、エディスの気持ちなんて全然気にしてない感じだもの。あたし、あの娘は好きじゃないわ、はっきり言って。気は利いてるかもしれないけれど、気は強そうだし厚かましいじゃない」
「マデリーンのことを悪く言わないでほしいんだ。彼女のことも、ぼくは好きなんだよ。あの子はあの子なりに、いい子なんだ。エディスとは全然タイプが反対だけどね。勝手だってエヴィーは言うかもしれないけど、どっちが仕掛けたんであれ、やっぱりこういうことは両方の責任だよ。それに、ぼくは子供に対して責任があるんだ。こんな場合の女性の立場って、強いようで弱いんだよ」
「子供はね」エヴェリーナもため息をついて認めた。
「それは仕方がないわよ。でも、あたし正直言って、こんなことになるなんて残念だわ。あなたまでがアールお兄ちゃんと同じ、一夫多妻制信仰だとは思わなかったわよ」
「アールお兄ちゃんなら、きっとぼくの気持ち、わかってくれるんだけどなあ」
「そりゃ、そうでしょうよ」
「エヴィーは、ぼくのことを軽蔑してる?」
「そんなことはないわよ」
 弟の言葉の中に自嘲の思いを感じたエヴェリーナは、攻撃をやめて、首を振りながら、調子をやわらげた。
「あたしも言い過ぎたかもしれないわ。それに、あなたの問題なのに、でしゃばって口を出してしまって、悪かったわ。ごめんなさい。あなたも悩んでるのよね。でも、一つだけアドバイスさせて。エディスには本当にちゃんと、誠心誠意謝ったほうがいいわ」
「そのつもりだよ、もちろん」
 アドルファスは真剣な口調でそう頷いた。

 エディス・バーネット・ローリングスは、表面上は冷静に構えていたようだった。
「わたしも、悪かったのかもしれないわ」
 彼女はアドルファスに向かって、そう告げた。
「あの娘が付け入る隙を与えてしまったのは、わたしのせいよ。わたしがあなたを構わなかったから。あまりいい奥さんじゃなかったから」
「そんなことないよ、エディス。悪かったのは、当然ぼくの方さ。君には何も責めなんかないよ」
「いいえ。それにわたしには子供が出来ないし、あなたがあの娘を通して子孫を得られたら、それはそれでいいんじゃないかしら」
 彼女の言葉には、無限の苦さがあった。アドルファスは戸惑いと後悔、そして悲しみの入り混じった表情を浮かべ、妻の顔を覗き込んだ。
「怒ってるの? エディス」
「そんなことないわ。わたしは……ただ、ちょっと傷ついただけよ。そして、あなたはもうわたしのことを愛していないんじゃないか、わたしと別れて、その子と一緒になりたいって言い出すんじゃないかって、それが心配なだけだわ」
「そんなことは、絶対ないよ!」
「じゃあ、彼女とのことは遊びなの? あなたがそんなことをするとは思えないわ。少しは愛情を持ってたんでしょ?」
「そりゃあね。でも、君に対してとは違う種類のものだよ。ぼくにとって本当に必要なのは、君なんだ。だけど、彼女も必要としてる。今はね。勝手な事を言って、ごめんね。もしきみがどうしても我慢できないって言うなら、ぼくは彼女と別れるよ。でも子供のことに関しては、責任をとらなきゃならないんだ」
「それはもちろんよ、アドル。わたしだってあなたに、子供が出来ても知らん顔なんて、そんな無責任な男には、なってほしくないもの」
 エディスはしばらくうつむいて黙った後、顔を上げた。その眼には意を決したような光が浮かんでいた。
「アドル。一つだけ約束してちょうだい。わたしが一緒にいられる時は、いつもわたしと一緒にいて。あの人も子供も、側にこさせないで。そうしたらわたしは、あなたと彼女との仲を認めるわ。彼女がわたしたちのグループに入ってきても我慢する。そう、どうしようもないことですものね。子供ができてしまった以上は。わたしにはできないことを、あの娘はできるのよ。あなたの世話をし、楽しませ、慰め、子供を生む。だから、わたしは彼女の存在を認めるわ。でも、共存はできない。一緒に住むのだけは、絶対にごめんよ。わたしはメアリさんたちのように、仲良くやって行くつもりはないわ。わたしにだって、プライドがあるもの。だからそれだけは、あなたも約束してちょうだい」
「ああ、約束するよ。きっと、そうする」
 アドルファスは妻の手をとって、強く頷いていた。

 夫婦は再びいつもの日常に返り、妻は佳境に入ってきた以前からの研究に、夫は新しく発足したプロジェクトにかかりきりになった。エディスはすべてを振り切るように研究に没頭し、傍目からはそう大きなダメージは受けていないように見えた。しかし彼女はそれから何回となく、ミスを犯した。普段のエディスからは考えられないようなイージー・ミスを。それは内心の動揺を物語っていた。
 マデリーン・セルシュはアドルファスとの間の子供、彼の母親の双子の相方、いや、本当の彼女の名前、メイベルから少し変形させて、メイベリン――メイベリン・ジェーンと名付けた娘を産んだ二週間後に、新しい居室に移ってきた。彼女の元いたグループで同室だった、姉一家も一緒だ。やがて子供が生まれるとはいえ、二人で一つの世帯を使えるほどの余裕は、シルバースフィアにはなかったのだ。しかしマデリーンの側にも、第一グループの同世代たちの側にも、彼女と同室になることは、ためらいがあったようだ。それで、ちょうど同じ建物の六階にあった空き室――将来的に人数が増えた時のためにとっておいた、どこのグループにも属していない部屋を彼女に割り当て、ついでに部屋ごと引っ越してきてもらったのだ。マデリーンは第一グループに移ったが、その姉で一緒に暮らしているアイリーン・スミス一家は、従来通り第二一グループだ。アドルファスは仕事の合間に二、三時間ほど休みを取って、娘に会うために、その部屋を訪れていた。
 その日、エディスはもう少しで一つの温室を駄目にしてしまうところだったほどの、重大なミスをしてしまった。幸い助手の一人がそれを早くに発見したので、かろうじて被害は最小限に押さえられたが。
 
 エディスはその夜、研究室の自分のデスクの上で、長い間身じろぎもせずに座っていた。両手で頬杖をつき、テーブルの表面をずっと見つめて。やがて彼女は深いため息をつくと、昔から愛用している鏡をこちらに向けて、そこに映る姿を覗き込んだ。青白い尖った顔に、少しそばかすが飛んでいて、首のあたりで短く切った真っすぐな鳶色の髪が、櫛も入れられずに乱れている。決して美人でもなければ、愛らしくもない。女としては――あのマデリーン・セルシュの明るい美しさや若さに比べたら、なんとつまらなく見えることだろう。彼女の灰色の目は緑に変わり、乱暴な手つきで鏡を裏返すと、机の上に置いた。
「でも、わたしには、どうしようもないのよ」
 エディスは運命に反抗するように、呟いた。
「それなのに、なんてこと……わたしはもう少しで、自分の研究を台無しにするところだったわ。しっかりしなさい、エディス・リンダ・ローリングス! そうよ、わたしはローリングス夫人。彼の妻よ! それに、形式ばかりの夫婦でもないわ。そのつもりだった。なのに、なぜなの? わたしが忙しいから……?」
 エディスは机に両手を投げ出し、その中に顔をうずめて泣いた。涙は後から後から、あふれてくるようだった。しかし夜更けに自分たちの部屋に帰った時には、もう涙のあとは見せてはいなかった。
「でも、わたしにはどうしようもないわ。研究を止めることもできない」
 エディスは部屋へ帰る前に、通路の天井、透明部分からかすかに見える夜の空を見上げながら、自らに言い聞かせるように、声に出して呟いていた。
「わたしに出来ることをやるしかないのよ。彼女に負けないように」
 翌日から、エディスはもうミスをしなくなった。どんなに前の晩が遅くても、朝は七時半に起きてアドルファスと一緒に朝食を取り(エヴェリーナ一家も一緒だ)、彼が新しいプロジェクトのために出勤する時間に、一緒に出ていった。一緒にいられるのはいつもそこまでで、そこからはお互いの研究リズムの違いによって、幾多の擦れ違いが生じてしまう。しかし、エディスは自分が一緒の時にはマデリーンとメイベリンには側にこさせないと言う約束を夫に守らせ、彼女たちを無視し続けた。
 マデリーンの方もそんな仕打ちはあまり有り難くなかっただろうが、割り込んできたほうの身として、一応エディスを立てたのだろう。彼が約束を守ることに、特に不満は訴えなかったようだ。マデリーンはアドルファスのお休みの日だけしか、八階の彼の居室には訪ねていかなかった。それも、アドルファスだけがお休みの日に来る。彼女は彼とエディスの仕事スケジュールを、把握しているようだった。元科学技術班だけに、調べるのは容易だったのだろう。娘を連れて部屋にこもることもあれば、『今日はこっちへ来て』と、自分の居室に連れて行くこともある。時々彼の研究室に迎えに行って、そのまま自分の部屋に連れていくこともあるようで、かなり夜遅くなってからアドルファスが居室に帰ってくることも、時々あった。

 この状態には、アドルファスとエディス夫妻と同じ居室で暮らしているエヴェリーナも、かなり気を揉んだ。少なくともメアリたちは、表面上は友好的だ。しかしエディスとマデリーンの間には、たとえ表面的にせよ、好意の欠片も感じられない。彼女たちにとっての救いは、エディスが研究生活で忙しく、また『わたしがいる時には、彼女を来させないで』との約束のため、二人の女たちが顔を合わせる機会はない、ということだった。エヴェリーナは、一貫してエディスの味方であった。そして義妹が研究を順調に続け、もうミスも侵さなくなったことを喜んでいた。
「でも、やっぱりこんなのって、いやね」
 ある晩、エヴェリーナは夫に向かって、そう訴えた。
「あたし昔アドルにね、男って同時に二人の人を愛せるのかって聞いたら、あの子、結婚は椅子取りゲームみたいなものだけれど、そのルール自体本当に正しいのかどうかわからない、なんて言っていたのよ。あの時にぴーんと来るべきだったわ。結局、こんなことになっちゃって」
「二人以上の相手を同時に愛せるかって言うのは、なにも男だけに限らない問題なんじゃないかな」フェリックスは腕組みをして、考えこむように答えた。
「男でも女でも、そういう人はいるさ。複数の相手を同時に愛せる人がね。ただ多くの人は、愛情を独占的に考えるんだ。自分の愛する人が、他へも愛を与えるのが気に入らないという感じなんだろうね」
「そうね。独占的な愛情って言えば、それが高じると、親とか兄弟とか子供とか、そういう人にさえ、愛情をかけることを嫌がる人もいるっていう話ね。あたしにはあまり理解できないけれど、昔そんな物語を読んだことがあるわ。すごく独占的なお母さんのお話を。一人娘に結婚することを許さなくて、言いつけに背いて結婚した後も、あの手この手で引き離そうっていう、ひどい話よ。またその娘がだらしなくて、いいなりなの。でも、結局は旦那さまを何にもまして愛しているって悟って、家を出るんだけれど。けれど、こんな話、実際にはあるのかしら。なんだか信じられないわ」
「まあ、それは極端な話なんだろうけれどね。でも程度の差こそあれ、そういう傾向のある人はいるのかもしれないね。実は僕なんかも、そうなんだよ、エヴェリーナ」
 フェリックスは笑って妻の手を取った。
「僕は君の博愛主義には悩んでいるんだ。ダリルはしょうがないけどね。自分の子供でもあるし、君の分身でもあるし、君が愛情をかけるのは結構だよ。僕も彼を愛しているからね。でも正直言って、時々アドルやアールさんには、嫉妬することがあるよ」
「なにを馬鹿なこと言ってるのよ、フェリックス!」
 彼女は笑って夫の腕を軽く叩いた。
「でも、本当の所はどうだい、エヴィー。君は複数の異性を同時に愛せる人かい」
「そんなことはないわ。本当に愛するのは、一人だけよ。だから二人同時に本当に心から愛してるなんて、そんなことはあたしには信じられないの。あなたもそうでしょ?」
「そう。僕もそういう点ひどく独占的な人間だから、君に同感だよ。それに人間って、そんなにたくさんの愛情をたくさんの人に分け与えるようには、できていないんじゃないかって思うんだ。恋愛ってのは、本質的に結構独占的なものだよ。例外もいるだろうけどね。そうだね――複数の相手を同時に愛している人の多くは、本命はどっちか一人で、そっちの方がもう一人の方よりもウェイトが重いっていう、カモフラージュされた非独占だと思うよ。まあ、中には本当に複数の異性を同じくらいのウェイトで愛してるっていう人も、いるかもしれないけれどね」
「そうね」エヴェリーナは考えこんだ。
「でも、アールお兄ちゃんにしてもアドルにしても、どうなのかしら。オーロラお姉ちゃんが前に言っていたけれど、アールお兄ちゃんの場合、最初にお従姉ちゃんがお従兄ちゃんをけしかけて、メアリを意識させてしまったから、お従兄ちゃん恋愛の免疫がなくて、擬似恋愛的な感覚に陥ったのかもしれない。本当の恋は、ヴィエナなのかもしれないって。そうなると、メアリには身も蓋もない話になるから、黙っておいてねって言われたけれど。それだと、完全な複線進行とは言いがたいじゃない。それにアドルもね、カモフラージュ型かもしれないわ。あたし、アドルの考えていることは、なんとなくわかるのよ。あの子が本当に愛してるのは、やっぱりエディスなんだわ。でも異なった比重で、マデリーンも好きなの。そう、アドルは彼女も好きだけど、好きっていうだけで、本心から愛してはいないと思うわ。ちょうどお父さんが、最初の奥さんと不仲になって、一時的に他の女の人へ走ったみたいに、心の隙間に生じた、気の迷いみたいなものなのよ。もしエディスがメアリみたいな普通の奥さんなら、マデリーンの付け入る隙はなかったと思うわ」
「そうかもしれない。でもまあ、愛情はどんな形であれ、良い悪いという判断は付けられない問題だと思うな。あのマデリーン・セルシュにしたって――僕も君と同様、ああいうタイプは、あまり好きになれないけどね。でも、心から真剣なのには違いないんだし、そういう点では、彼女の愛も責められないのかもしれない。アドルの気持ちも、エディスの気持ちも、僕は何となくわかる気がするしね。エヴィー、愛のトラブルっていうのは、すべての当事者が真剣であれば、彼らで解決すべき問題だよ。第三者がとやかく言うと、こじれるだけだからね。君もあれこれ口を出さずに、そっと見ていた方がいいと思うな」
「そうね。それはわかっているわ。最初は思わずお節介を言っちゃったけど、結局自分でも悟っているわよ。じれったいけれど、見ているしかないって」
 エヴェリーナはため息をついた。
「誰が絶対的に悪いってわけじゃないものね。人が人を好きになるって言うのは、悪いことではないし、仕方ないのよね。でも……」
 彼女は不意に言葉を途切れさせた。ダリルが部屋で目を覚まして泣き出したのを、聞きつけたのだ。妻の顔はたちまち母に取って代わり、エヴェリーナはあわててリビングを飛びだしていった。五、六分後に小さな息子を抱きながら戻って来たエヴェリーナは、再び妻の笑顔で悪戯っぽく夫を見た。
「でも、あなたは浮気しないでよ、フェリックス。あたしは自分でそんな悩みを煩いたくないわ。人の問題だって、こんなにこたえるのに」
「僕が浮気をするタイプに見えるかい、奥さん?」
 彼は愛情深い目で妻をみやりながら、にやっと笑った。
「むしろ僕は、君の浮気の方が心配だよ」
「いやだ。あたしはそんなことしないわよ!」
 エヴェリーナは笑って頭を振った。彼女にとっては、妻となり母となった日に、夫以外のこの世のすべての男性は単なる人間であり、恋愛対象などには決してなり得なかった。王子さまの幻影はとっくの昔に散り失せ、今では優しい夫と可愛い息子の他には、何も見えなかったのである。


( 3 )

 アドル・ローリングスの緊張をはらんだ新しい状態も、月日が経つにつれて徐々に定着していった。彼らの第一グループは、この小さなトラブルを飲み込んで、平静に返った。
 どの家族も、おおむね平穏に暮らしていた。エヴェリーナは二才になったばかりの息子ダリルのやんちゃさに悩まされながらも、夫とともに幸福な日々を送っていたし、アールの家族も、アドルファスのところのような確執はなく、穏やかに過ごしていた。メアリとの長男、ランディスは十歳になり、その二年ほど前から、高いIQを見出されてアドルファスの一番弟子となり、第三世代の科学技術を担うべく、勉強を続けていた。その妹、ジョスリンは四歳になり、穏やかな性質ながら、愛らしい子供になっている。ヴィエナとの間に生まれたティアラは七才、アリステアは五才になり、彼らの間にはさらに半年前に娘エイプリル・エイミーが生まれていた。

 オーロラは夫エフライムとの間に、八歳になる長女アティーナ・ローザ、六歳の長男ライラス・アラン、二歳半の次男パリス・ジョセフに続く、四人目の子供を身ごもっていた。しかし七ヶ月半ばで妊娠中毒に陥り、八ヶ月目に入ったところで切迫早産になりかかったことも重なって、ベッドで絶対安静状態になった。だんだん数が減っていく第一世代の中では一番若く健康で、プログラミング班の中枢的な役割を果たしていた夫エフライムも、妻の危機に際して自らの仕事を一時休職状態にし、主にメアリが家事や育児を応援してくれている間に第二世代への引継ぎを済ませると、家庭に入って、三人の子供の面倒を含む家事一切を取り仕切っていた。

 九月も下旬に入ったその夜も、エフライムはアティーナとライラスを子供部屋に送り込んだあと、紅茶のカップがのったトレーを手に、寝室に入っていった。彼は四十代半ばで、金色の巻き毛にもちらほら白いものが混じり始めていたが、まだまだ動作は機敏さを残していた。
「おとなしく寝た、二人とも?」
 カーテンを引いていない窓から見える夜空を眺めていたオーロラは、夫が入ってくる音に頭を巡らせ、そう尋ねた。彼らの住居――アイスキャッスルから第一世代たちが移ってきて以来使っているこの家で、かつてアールとオーロラも生まれ、エヴェリーナとアドルファスも赤ん坊のころから過ごしていたところだ。今は双子の兄も従妹弟たちも別のところに行き、オーロラとエフライムのシンクレア夫妻と、三人の子供たちが住んでいる。この部屋はリビングスペースが真ん中にあるタイプのため、主寝室と子供部屋には外側に面した窓がある。この主寝室をアールとメアリ夫妻から引き継いだ時、オーロラはベッドの向きを変えて、寝ながら窓の外が見える位置にしていたのだ。彼女の傍らには、小さな息子パリスが母の手にすがりつくようにして、すやすやと眠っている。
「ああ。二人とも聞き分けが良いよ。すぐにパジャマに着替えて、ベッドに入っていた」
 エフライムは微笑して頷き、ついで下の息子を眺めた。
「しょうがないな、パリスは。ティーナやライラスと一緒に寝るように言ったのに。相変わらず君のそばに、べったりなんだな」
「まあでも、小さいんだしね。甘えてくるのも今のうちかもしれないと思うと、かわいいじゃない?」
「それに不安なんだろうな。大好きなママがずっとベッドに寝たきりだから」
「早く起きられるようになるといいんだけれど。あたしもね、じっとしているのはあまり好きじゃないのよ。この子が生まれるまでの辛抱かしらね。あと一ヶ月半くらい?」
 オーロラは膨らんだおなかをそっとさすった。
「そうだね」エフライムは笑い、紅茶のカップを差し出した。
「飲まないかい? 今日はまだ何も飲んでいないだろう。水分制限とはいっても、少しくらいは飲んだほうがいいよ」
「ありがとう。じゃあ、少しだけいただくわ」
「じゃあ、ゆっくり起きて。そっとだよ」
 エフライムは枕をヘッドボードに立てかけると、そっとオーロラの身体に手を回し、そこに寄りかからせるように座らせた。そしてトレーを布団の上に置き、カップを手渡す。彼女がそれを受け取ると、エフライムも自分のカップから一口すすった。
「ああ、昔の紅茶の味だな。農業班も、本当に良くやってくれたよ」
「紅茶とコーヒーは、めでたく復活ね。もっともあたし、元の味は知らないけれど」
 オーロラも両手でカップを持ち、中身を少しずつ飲んだ。
「君もスフィア生まれだからね」
 エフライムはひとしきりお茶を飲むと、カップを置き、その青みがかった灰色の目に追憶するような色を浮かべて、言葉を続けた。
「今でも、はっきりと覚えているよ。君とアールが生まれた日のことを。みんなが喜んだ。お祭り騒ぎだったと言ってもいい。アーディス・レインさんの子供が産まれた。彼の生命は未来につながるんだって。王子様王女様が生まれたみたいな感じだったな。みんなが通路に出て、はしゃいでいた。僕も異様に感激したもんだ……」
 彼ははっと気づいたように妻を見やり、少しばつの悪そうな笑みを浮かべた。
「いや、そう言うと、君は嫌がるね。ごめんよ」
「その話、ジャスティン叔父さんの記録にも書いてあったわ。あたしたちが生まれた時のことを」オーロラはもう一度窓の外を見やったあと、夫を見てふっと微笑した。
「でも今は、お父さんに対するこだわりみたいな気持ち、少しずつ取れてきたみたい。昔は、なんとなくいやだったこともあるのよ、あなたも知ってる通りね。お父さん、アイスキャッスルで死んで、それこそ犠牲的精神を発揮して特攻しちゃって、お母さんやあたしたちを置いて、逝ってしまった。あたしたちが出来たことも、生まれたことも知らないわけで。子供の頃はね、そんなの勝手だって思えたのよ。自分は英雄になったかもしれないけれど、あたしたちのことは、どうでもよかったのって。あたし、お母さんがお父さんのことを、ずっと思っていたことは知ってる。悲しんでいたことも、知ってる。お母さんを悲しませるお父さんを認めたくないって、思ったこともあるわ」
「でも、君のお父さんが生命をかけて、あの時オタワに行ってくれなかったら、今頃僕らはアイスキャッスルで、全滅していたと思うよ。君たち第二世代も生まれなかっただろう、きっと。彼がこの世界を残してくれた。僕ら第一世代はみな、そう思っているんだよ。そう、今なら君に話しても嫌がらなさそうだから、言ってしまうけれど、僕は今でもはっきり覚えているんだ。彼が最後の調達隊を率いて、アイスキャッスルから飛び立っていった時のこと。遠くオタワから、僕らの空腹や疲労を癒してくれたこと。あの夜の夢。そして、ついにアイスキャッスルに帰ってきてくれた、あの瞬間。そして亡くなった後、空気に溶けて、消えてしまったことを。そう、僕は見ていたんだ、廊下から。僕はその場にすくんで、動けなくなっていた。僕はビデオの一シーンを思い出した。『Eureka』アルバムの『Abandoned Fire』のMV……もっとも僕はリアルタイムでは見ていなくて、姉たちが持っていたクリップ集のDVDで見たのだけれど、あのMVは恐ろしくインパクトがあるが、最後のシーン。あの人が広い野原に出て、空を見上げ、両手を差し出した瞬間、無数の透明な羽になって消えるんだ。そして最後に、青い空だけが映される。僕は最初に見た時、泣いた覚えがある。姉たちも『このラストだけは、本当にいや。エアリィが本当に死んでしまうみたいで。だからロンドンの銃撃事件があった時、私たちは真っ先にこれ思い浮かべて、本当に恐ろしかったわ』と、言っていた。そしてあの時、あの人は本当に消えてしまったんだ。ビデオではなく、現実に。無数の透明な羽ではなかったけれど、僕にはそれが見えたような気がした」
「あたし、DVDは見てないけれど……たしかに縁起でもないわね」
 オーロラはぶるっと震えた。
「僕もDVDはみんな家に置いてきてしまったから、集会での鑑賞会以外は、見る機会がないんだけれどね。アイスキャッスルでは、本当にそんな余裕も設備もなかったし。アコースティック・ライヴくらいかな。それがとても楽しみだった。でもそれ以前に、本当に何百回となくDVDを見てきたから、シーンは覚えているんだ。そしてそのあと、アイスキャッスルで追悼集会が開かれて、ほぼ一年ぶりに彼らのCDを大音量で聴いた。それまでは、春になって、一週間に一度だけ部屋の誰か一人だけが充電できるスマートフォンで、みんなが回りに寄り集まって、聞いていたんだが。その集会で聞いたアルバム『Neo Renaissance』……彼らのラストアルバムだ。僕は思い出した。多くの思い出と、彼らが僕に与えてくれたものを。そして改めて思った。あの人は僕らを救うために、この世界へ来てくれた神様なのかもしれない、と。今でもなお、そう思っているくらいだ。それはきっと……」
「たいていの第一世代の人がそうだった、って言いたいんでしょ、エフ」
 オーロラはかすかな笑みを浮かべて、夫をさえぎった。
「でもね、あたしはそれも、なんとなくいやだったのよ。お父さんの子ゆえに、っていうのが。第二世代の子たちは小さいうちは、そこまで気にしなかったみたいだけれど、その子たちのお父さんやお母さんに会う機会があって、お名前は? どこのグループ?とか聞かれるでしょ? それで名乗ると、『まあ、あなたがあのオーロラちゃんなのね。そうね、気がつくべきだったわ。その髪で』と、こうよ。見る目がね、もう特別扱いなのよ。もちろん名乗る前に、この髪で気づく人もいるわ。まったく、ただでさえ目立つ特徴を付けてくれたものよね。アールもそうだけれど。『銀色の髪にひと筋の青い流れ』って、本当にあたしたちだけよ、こんな髪なのは。それだから、他の子供たちと同じに見てくれないっていうのをなんとなく感じるし、ちょっとだけ居心地が悪いと思ったこともあるわ。第二世代の子たちも、大きくなってくると少し見る目が変わるし。その点、エヴィーやアドルのほうが、はるかにましだと思ったこともあったわね。あの子たちは、見目がそんなに変わっていないし」
「それにまあ、ジャスティンさんは重要なメンバーには違いないけれど、神格化はされていないからね」エフライムは苦笑しているようだった。
「あなたも、あたしのことを『アーディス・レインの娘だ』って見ているでしょ、エフ」
 オーロラはまっすぐ夫の目を見つめた。
「ティーナが生まれた時、あなたが言ったこと、今も覚えているわ。『君と僕の子供なんだね。そして、彼の孫だ』って」
「それは……」
 エフライムは少し意表をつかれたように目を見開き、次いで苦笑を浮かべた。
「そうだね。否定しない。それはたしかだよ。意識しないでおくことは、たぶん僕には不可能だ」
「そう……」
「だけど、誤解しないで欲しいんだ、オーロラ。僕は君を、アーディス・レインさんの子供だと認識している。それは否定しても仕方がない。事実だからね。でも、これだけは信じて欲しいんだけれど、僕はあの人の子供だから、君を愛したわけじゃない。逆に、彼の子供だということは、僕には畏怖の念に近いものを起こさせる。それはむしろ、恋愛にはマイナスの方向に働くものだと思うんだ」
「うん……そうかもね。それは、わかる気がするわ」
 オーロラは頷き、そして夫に問いかけた。
「エフは実際、あたしのお父さんと会ったことはある? 遠くから見ただけじゃなくて、話をしたことは?」
「アイスキャッスルに来てから、五回か六回くらい、かな。バンドの人たちみんなで、定期的に訪問に来てくれたから」エフライムは追想するような表情を浮かべた。
「君も知っていると思うが、僕はシアトルの出身で、アイスキャッスルに二人の姉と来たんだ。元々は姉たち、レベッカとレイチェルが大ファンで、しょっちゅうCDやDVDを流して、話をしているから、そのうちに僕もすっかり大ファンになってしまったわけさ。アイスキャッスルのエントリーには、最大三人までを一単位として申し込めたから、僕ら三人とも、だめもとでそれぞれ三人分を申し込んだんだ。そうしたらレベッカ姉さんが当選して、三人で躍り上がったよ。学校はあるけれど、問題じゃなかった。元々母もかなりファンだったしね。『お母さんも行きたかったわ』なんて言っていた。実際、『Neo Renaissance』ツアーの時に、四人で行ったこともあるんだ。シアトル公演には外れたから、バンクーバーまで国境を越えて、母の車で。父は『しょうがないな』という感じで黙認していた。まあ、家は熱心なキリスト教徒だから――知っているかい? 僕ら三姉弟の名前は、みんな聖書からとっているんだ。父の名前ジョセフも、母のルースもね。だから、『Vanishing Illudions』の宗教騒動では、かなり姉たちは父母ともめたようだけれどね。僕はその後の『Polaris』のころにファンになったから、そのころは傍観者だったけれど。でもそれから五年で、かなり両親は軟化したんだ。母はファンに、父も認めてくれるようになった。それで僕らは三人で、アイスキャッスルに行ったんだが……」
「そこで世界が終わっちゃったのね」
「そうなんだ」エフライムは少し黙った後、言葉を続けた。
「最初は信じられなかった。世界が終わったと言っても、僕らには地震と流れ星と光る空――そのくらいしか認識していなかったから。真実を聞かされた後も、これは現実なんだろうとわかってはいたが、悪い夢を見ているようだった。でも……ある意味、とてもシュールだな、とも思えたんだ。北の果ての施設で、彼らと僕ら観客とで生きて行く、という状況は。父母や友人たち、それにうちで飼っていた犬のことを思うと悲しかったが、大災害を生き延びて、避難生活を送るという状況だったら、この状態はある意味とても……なんというのかな、理想というか、ありうる限りのベストかも……そういう気分だった。実際、姉たちもそうだったし、かなりの人たちが、同じ思いを持っていたようだ。もちろん、辛いこともたくさん起きたが、それでもね。それに、あの人たちが僕らのところまで、わざわざ来てくれて、一人ひとりに話をしてくれるというのが……そう、そんな状況でも、とても感激したものだ。僕は君のお父さんに、初めて面と向かって話した時のことを、鮮明に覚えている。あの人は男の人だったけれど、間近に見ても……こういう表現は変かもしれないけれど、恐ろしくきれいな人だった。アイスキャッスルに来て一ヶ月がたっていても、ほとんど容貌は変わっていなかった。前よりもっと細くなったかな、というくらいしか。他のメンバーたちは無精ひげが生えていたり、髪の毛がぺシャッとしていたし、僕らも似たようなものだったが。君の眼は、君のお父さんの眼に似ている。同じような色だ。晴れた夏の空のような。あの人の瞳は紺色だったけれど。彼は僕の手を取って言った。『エフライム・シンクレア君だよね、こんにちは、初めまして。せっかく来てくれたのに、ごめんね、こんなことになって、いろいろ不自由になってしまって』と。あのARが目の前にいて――あ、“AR”っていうのは、僕ら男ファンの呼び方でね。女ファンたちは“エアリィ”呼びだったが、男たちは少しかっこつけたかったんだろうな。読みもエアに近くなるしね。まあ、それはともかく――僕にとってのヒーローが僕に話しかけている、その思いで、僕は理性が完全に飛んでしまって、ついでに言葉も飛んでしまった。ただ、『だ、大丈夫です!』と答えるだけで精一杯だった。しかも声が裏返った」
「なんだか……その時のエフを見たかったわ」
 オーロラはかすかに笑いを漏らした。
「君には見せたくないな」エフライムは苦笑した。
「それからだんだん、僕も少しずつまともに話せるようになって、あの人たちが来てくれることを、楽しみに待つようになった。最後に会った時には、野球の話も少しした。『また来るね』あの人はそう言ってくれたけれど、それから一ヶ月もたたないうちに、逝ってしまったんだ。あの時の喪失感は……言葉に出来ない」
「でも、会って話したのよね、エフは、お父さんに……」
 エフライムは妻を見やり、その手を握った。
「でも、君たちは奇跡の子供だったんだよ、本当に。君たちが生まれた時のことを、僕は今でも……と、それはさっき言ったな」
「ループしちゃうわよ、話が」オーロラも笑っている。
「そう考えると、とても不思議な気分がする。君のことは、小さなころから知っていた。コミュニティ全体で、見守ってきたと言っても良いかもしれない。君は元から可愛い子だったが、君のお姉さんたちとは、また違った可愛さだった。最初のクリスマス集会で見たから、お姉さんたちも知っているが、あの子たちは本当に、お人形さんのようなかわいらしさだった。君は気品と美しさが際立っていた。小さな女神だな、と思った。君がだんだん大きくなり、ますます美しくなっていくにつれて、僕はいつの間にか、憧憬とは違う種類の思いを抱くようになってきた。でも、初めは諦めようとしたんだ。僕は結婚歴もある。君よりはるかに年上だ。君は僕には、まぶしかった。明るさと美と光そのものだった。君は第二世代の男の子たちの人気の的で、でも言い寄るその子たちを片っ端から振っているという話を耳にして、僕なんかまるきり望みがないと思ったものだよ。だから、自分に言い聞かせたものだ。『エフライム・シンクレアよ。おまえのような年食ったやもめ男に、女神が振り向いてくれるわけはない。あの人と同じだ。遠くから崇拝するだけにしておくことだ』と。だから君が僕と知り合いになってくれて……そう、君が十七歳になるころ、中央委員会の用事でプログラミング班に来て、初めて話をしたんだったね。それから僕は君に会いたさに、中央委員会との伝令を勤めて、何回か会って……十回目くらいの時、君は僕に聞いた。『シンクレアさん、ご家族は?』って。僕は『姉が二人いるけれど、上の姉は結婚して、下の姉は非婚だけれど、家庭を持って子供がいる。僕も若いころ結婚したけれど、子供が出来ないうちに妻が死んで、それからずっと一人で、今も姉たちと住んでいるんだ』と。そうしたら君は、『あら、もったいない』って言って……」
「それであなたは言ったのよね、あたしに。『君がお嫁さんになってくれたら、喜んで結婚するよ』って。あたしは冗談だと思って、笑ったんだけれど」
「そう。冗談として受け止められるだろうな、ということは覚悟の上だった。それで良いと思っていた。それから三ヵ月後に、僕は同じことを君に言った。また冗談だと受け止められるだろうし、それで良いと思ったが、君はその時には、真顔で問いかけてきたね。『それって冗談なの? 本気なの?』と。僕は覚悟を決めて『本気だよ』と答えた。断られるのを覚悟の上で。そうしたら、君は笑って言ってくれたんだ。『じゃ、あたしも本気で考えてみるわ。まだ返事できるほど、あなたのことを知らないから、まずは少し付き合ってみない?』僕は自分の幸運が信じられなかった。女神が僕にチャンスをくれたと」
 そしてエフライムは、急に照れたように赤面した。
「いや、つい、恥ずかしいことを言ってしまったね……」
「いやね、本当に恥ずかしいわよ、エフったら。さっきから聞いていると、本当に褒めすぎだわね。なんだかもう、あたしどういう顔をしたら良いか、わからないわ」
 オーロラも頬を紅潮させながら、笑った。
「もうすぐ僕たちが結婚してから、十年になるんだね」
 エフライムはカップを置き、妻の手をとった。
「恥ずかしいついでに言ってしまうなら、この十年間、僕にとって天国以上に幸福だったよ。君にとってもこの年月が、幸せなものだったらいいと思っている」
「あたしも幸せだったわよ。本当に、今までありがとう、エフ」
 オーロラも頬を染めて頷いたあと、不意に笑った。
「いやね、そんなことを言うと、今生の別れみたいね」
「おっと、縁起でもないな」
 エフライムもちょっとあわてた調子で声を上げた。
「こういう時は、木を叩けって、母さんが昔言っていたな。それじゃ、ちょっとこのベッドの柵でも叩いておこう」
「なあに、それ?」
「縁起の悪いことを言ってしまった時のおまじないさ。本当にならないように」
「そんなのもあるのね。昔の世界の伝承って、面白いわ」




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