Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 3  AGE Red (赤の時代)(1)



( 1 )

 十月下旬のその日、月が満ちて、エヴェリーナは母親になった。初めて経験する、生命をこの世に送り出すと言う崇高で激しい戦い。それは日没から始まり、日の出とともに終わった。かぼそい泣き声が上がり、続いて「女の子だ」という夫の声がした。やがてフェリックスが見せてくれた、大きな目をした可愛い赤ん坊を見た時、エヴェリーナは安堵と喜びの入り交じった深いため息をつき、まもなく眠りに落ちた。
 目が覚めた時、陽はすでに高く上っていた。枕元で、ずっと夜通し付き添って励まし続けてくれた夫が、柔和な目で見守っている。
「目が覚めたかい? エヴィー。ごくろうさま」
 フェリックスは屈み込み、妻の乱れた髪を直してやりながら、慈しみのこもった口調で声をかけた。
「ええ……」
 エヴェリーナは疲れてはいたが、満足そうな微笑をもらした。
「赤ちゃん、女の子だったんでしょ。ここにはいないの?」
「ああ、今連れてくるよ」
 夫は頷いて部屋を出て行き、しばらくのちに白い産着にくるまれた赤ん坊をそっと抱いてくると、エヴェリーナの側に寝かせた。
「わあ、可愛い!」
 彼女は目を輝かせて、赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「おててもあんよも、ちゃんと揃ってるのね。よかったわ。あら、もう髪が生えてる。うっすらと茶色だわ。それにまあ、なんて色白で可愛いんでしょ。普通赤ちゃんって、真っ赤なのにね。目を開かないかしら。最初に見た時、何色だったか覚えていなかったから」
「茶色の目なんだよ」
「あら、じゃああなた似ね。ブルネットの可愛い美人さんだわ。ねえ、女の子だったから前にも話したとおり、グレイスって付けましょうよ。優雅な恵み。ああ、ぴったりだわ。ミドルネームはあなたのお母様、マーガレットさんから取って、グレイス・マーガレット。素敵じゃない?」
「そうだね」
 フェリックスは微笑して頷いた。しかし彼の微笑の中にある何かが、エヴェリーナの心にひとしずくの不安をなげかけた。そして、気づいた。夫の目の中にあるものは、喜びではない、と。まるで、何かを悲しんでいるような――。
 不安が、水面の波紋のように広がっていった。夫が赤ん坊を再び連れて行き、また戻ってくると、エヴェリーナは気遣わしげにベッドの中から見上げて尋ねた。
「どうしたの? どうして、もっと喜んでくれないの? なぜ、そんなに悲しそうにしているの? あの子に何か……障害でもあるの?」
 フェリックスの顔は微笑もうとしたようだった。しかし笑顔を作ることは、努力しても及ばなかったようだ。彼は妻の手を取り、ぎゅっと握り締めると、一瞬躊躇したのち、「ああ」と頷いた。
「そうなの……?」エヴェリーナは擦れた声でささやく。
「でも、見たところ普通の子よ、あの子。手も足も顔も……ねえ、どんな障害があるの?目が見えないの? 耳が聞こえないの? それとも……歩けるようにならないの。どこか知的障害でもあるの?」
 エヴェリーナは心配に圧倒されたが、やがて気を取り直した。
「ああ、でも大丈夫よ。みどりの家でも、いろいろな障害のある子たちを、ずっと見てきたわ。ここでは、そう珍しくないことですものね。たとえ我が子がそうでも、あたし、きっと立派に育ててみせるわ。ちゃんと自立できるように……」
「違うんだ、エヴェリーナ」
 フェリックスは妻の手をぎゅっと握りながら、首を振った。
「自立以前の問題だ。あの子はね、重度の心臓奇形らしい。あの子の色が白いのは、血行が不十分だからだ。一部にチアノーゼもある。それで君が眠っている間に、心電図と超音波を取って、わかったんだ。今は酸素チューブをつけて、保育器の中に入れているから、なんとか落ち着いているけれど、これくらい重度だと、せいぜい一ヶ月くらいしか生きられないだろうって、心臓疾患担当の先生に言われたんだ」
 エヴェリーナは目を見開いた。夫の口から発せられた非情な言葉が、最初は彼女の心を麻痺させ、ついで鋭い矢のように胸を引き裂いた。しばらくは、何も言えなかった。緑の瞳に、みるみる苦悶と悲しみがいっぱいにあふれた。
「嘘よ!」彼女はあえぐように叫んだ。
「嘘よ! あたし、そんなの信じない! 何もかも間違いよ!」
「エヴィー! 起きちゃいけない。静かに。君は今、産後の大事な身体なんだぞ。出血がかなりあったから、安静にしていなければならないんだ。落ち着いて」
 フェリックスは屈み込み、身をもがいてベッドから起きようとするエヴェリーナの肩を押さえた。彼女はしばらく、夢中で抵抗した。残酷な運命に抗おうとするかのように。しかし、力は途中で尽きた。エヴェリーナは両手をだらりとベッドの上に下げると、目を閉じた。涙があふれて頬を伝い、小さな川のように流れて、枕を濡らしていく。
「エヴェリーナ」
 フェリックスは低く妻の名を呼ぶと、力強く抱擁した。それが彼に出来る、唯一最大の慰めだったのだろう。フェリックスは妻の艶やかな髪をなでながら、言葉を継いだ。
「ごめんよ、エヴェリーナ。僕が悪かったんだ。今の君に、こんなことは知らせるべきじゃなかった。でも遅かれ早かれ、わかってしまうんだ。僕は不器用だから、お芝居は出来なかった。本当にごめんよ」
「どうして……?」
 エヴェリーナは泣きじゃくりながら、咽喉の詰まりを押して、声を絞り出した。
「どうして? なぜ? なぜあの子は……生きられないの? せっかく生まれてきたのに。こんなことって……あんまり……ひどいわ」
「そうだよ。僕もそう思う。だけど僕たちは、耐えなきゃならないんだ。辛いけれど勇気を出そう。乗り越えなければ」
「なぜ、耐えなきゃならないの?」エヴェリーナは反抗的に叫んだ。
「こんな、理不尽なことってないわ! 神様なんて、もう本当に信じない。なにもかも、大嫌いよ!」
「そうだ。たしかに理不尽だよ。でも、僕たちは乗り越えなくちゃならない」
 フェリックスは彼女の手を再びぎゅっと握り、首を振った。
「明日のためにね。僕たちには、まだ残された未来があるから。グレイスはかわいそうだ。だから、せめてあの子の短い生涯の間、精一杯の愛情を注いでやろう。でも僕たちは、それで終わりじゃない。こんなことを言うと、また冷たいなんて、君は言うかもしれないけれどね。でも、僕らは乗り越えて行かなくちゃならないんだよ。あの子のためにも、これからきっと生まれてくるだろう、僕らの新しい子供たちのためにも」
 エヴェリーナはしばらく無言で、緑色の瞳に身を突き刺すような苦痛を浮かべながら、夫の褐色の目をじっと見つめた。やがて彼女は全身を震わせて吐息をつき、あふれ落ちる涙を拭うことも忘れて、あいたほうの手を弱々しく差し伸べ、震える声で呟いた。
「あたしに耐える力と……勇気を……貸してちょうだい、フェリックス」
「ああ、僕に出来る限り、君の力になるよ、エヴェリーナ」
 フェリックスは身を屈めて、再び彼女をしっかりと抱き締めた。

その悲しい秋の一日から一ヶ月間、小さなグレイスは生きていた。ほとんどの時間を保育器の中で過ごし、酸素チューブにつながれ、おむつ替えも中に寝かせたまま、手だけ入れて行う。エヴェリーナが娘を抱けるのは、授乳時間だけだった。それも全身に消毒スプレーをふりかけ、手をアルコールで拭いて初めて、娘に触れることが出来る。
 小さなグレイスが誕生して一ヶ月と三日がたった夕方、エヴェリーナは娘にミルクを飲ませてやっていた。悲しみのあまり母乳の出が悪くなってしまったのと、グレイス自身に乳を吸う力が弱かったため、生まれて三日目からずっと、ミルクをスポイトで少しずつ与えていた。そのミルクも、元々あまり飲まなかったが、最近ますます飲む量が減ってきている。泣くとすぐに全身紫色になってしまうため、赤ん坊が泣くたびにこのまま死んでしまうのではないかとう恐ろしさと、哀れさに胸をふさがれる思いだった。それも、最近はほとんど泣かなくなっている。エヴェリーナは、日一日と娘が弱っていくことを感じ、やりきれない思いで日々を過ごしていた。それはフェリックスも同じだったろう。
 その時も、グレイスはほとんどミルクを飲まなかった。それでもげっぷをさせてやると、小さく空気を吐き出し、ついであくびをした。そしてぽっかりと目を開いて、大きな褐色の瞳で母を見つめた。ふっと、微笑みが浮かんだ。満ち足りた新生児が見せる、天使の微笑み。その無邪気な笑みに、エヴェリーナは胸がいっぱいになり、思わず娘をしっかりと抱きしめた。保育器の中に返したくない。このまま抱いていたいと、痛切に願った。やがてグレイスは母の腕の中で眠り、エヴェリーナは娘を再び保育器の中へ寝かせた。そうするより、仕方がなかったのである。常に酸素を送り続け、湿度も温度も整った、除菌された環境の中でなければ、この子は生きられない。その保護があってさえ、もう残された時間は、本当に短いのかもしれない。そんな認識に胸を引き裂かれながら。保育器の中で、そのままグレイスはずっと眠っていた。ずっと目を覚ますことなく。朝、フェリックスが娘の様子を見にきた時には、赤ん坊の皮膚は黒ずみ、すでに冷たくなっていた。

 エヴェリーナは小さな娘の死を、激しく嘆き悲しんだ。覚悟していたとは言え、やはりこうして向き会ってみると、まるで胸が破れるような痛みを覚えた。彼女の嘆きは深く、激しい悲しみの発作は数日の間、猛威を振るって暴れ続けた。自分も娘と一緒に死にたい。あの子に母親がついていてあげないなんて、あまりにもかわいそうだと、本気で口走りもした。フェリックスはエヴェリーナが眠っている間に、静かに娘の品物を片付けた。新しい家族のために用意したベビーベッドや小さな洋服、オムツなどを、物品管理班に返す。悲しみにくれている彼女にはさせられない仕事――目の前でやることすら、悲しみの追い討ちになることがわかっていたからだろう。彼は仕事を一週間休み、ずっと傍についていた。家の仕事をし、何か食べるように勧め、泣いている時にはその背中をなで、時には抱きしめて。
 エヴェリーナもそんな夫の助けを受け、やがて悲しみの急性発作は徐々に去っていった。同じ居室に暮らすアドルファスとエディス夫妻、そしてアールやオーロラ、メアリ、さらにグループのほかのメンバーたちの親切な慰めと励ましも力になり、彼女は次第に立直ることができた。親切な、時間という精にも助けられ、彼女の胸をざっくりえぐった傷は、徐々に癒えていった。
 冬が過ぎ、春が来る頃には、エヴェリーナは再び笑うようになっていた。しかしその傷跡は、いつまでも心に残っている。もうぱっくり口を開けて血を流してはいないが、時おり鋭くうずくような痛みを与えるのだ。傷がうずく間隔は時とともに長くなってはいくが、しかしそれは一生消えない痛みであり、空虚感であった。

 それからさらに一年が過ぎ、再び春がめぐり来た時、エヴェリーナは男の子を産んだ。一年半前の悲劇に脅かされながらも、彼女は雄々しく戦いぬき、赤ん坊は元気に生きた。ダリル・エリックと名付けられたこの赤ん坊は、金褐色の巻き毛に赤い頬をし、淡い栗色の目をした可愛い悪戯っ子だった。エヴェリーナは文字どおり彼に夢中になった。そして一生去らない痛みの傷が、この子によって慰められたのを感じた。傷跡は心に残り続けるだろう。これからも痛むだろう。だが、以前ほどしばしばではあるまい。エヴェリーナのからっぽの腕は、今ふさがれたのだから。


( 2 )

 太陽の光が、複雑なカットを施された透明なクリスタルを通り、銀盤に反射してきらきらときらめく。その下に据え付けられた鈍い銀色に光る大きなボックスから、ウイーンというかすかな振動と音が響きわたり、メーターが動き始めた。
「やった!」
 アドルファス・ローリングスは短い勝利の叫びとともに、軽くボックスを叩いた。まわりで見守っていた科学班のメンバーたち十四人が、同時に歓声を上げる。ここ二年間、彼を中心にしたプロジェクトメンバーが取り組んでいた、特殊クリスタルによる、充電機能を備えた高性能太陽発電装置の完成だ。やがて大がかりな設計図が引かれ、建築ロボットたちが、この街すべてを賄うのに十分たる、規模を拡大したクリスタル太陽発電所の建設に取りかかることになっている。来年の春には、太陽光発電単独での、シルバースフィアの完全電化が、ついに可能になるだろう。調理やシャワー、暖房といった、今までガスで賄っていたものを、新太陽光発電がもたらせてくれる充分な電気で賄えれば、もう定期的にサテライトにLNGを供給する必要がなくなる。ガス資源は、市内はおろかモントリオールやトロントまですでに取りつくしていて、今ではデトロイトやバッファローあたりまでも、ロボットがタンクローリーを運転して、遠征しているのだ。いずれはアメリカ大陸内すべてを取りつくしてしまうことが懸念されていたので、ガスに頼らない完全電化は、長年の念願だった。充分な電力のおかげで、冷暖房は好きなだけ使えるし、シャワーを使うのも音楽を聞くのも完全に自由で、好きなだけ夜更かしも出来る。さらにロボットたちももっと製造できるし、コンピュータも増やせる。都市の再建も楽になるだろう。やっと文明を完全に取り戻すだけの、地盤を持てるのだ。
「良かったですね。おめでとうございます」
 科学班のメンバーで、彼の助手を努めていた少女が、明るくそう声をかけた。
「うん。ありがとう、マデリーン。君にもずいぶん協力してもらって、助かったよ」
 アドルファスは髪をかきあげて、相手に笑いかけた。
「そんな、あたしはただ、お手伝いをしただけです。設計も実験も、みんな博士がなさったことじゃありませんか」
「博士はやめてくれる? そんなこと言われると、ぼくはいっぺんに五十才くらいになったような気がするじゃない」
「それは言える。アドルはそういう点、外見はちっとも博士らしくないからなあ」
 プロジェクトメンバーたちは、いっせいに笑った。その言葉どおり二一才のアドルファスは、その若い年令以上に少年らしく見える。白衣の代わりに色の覚めた青いスモックを着て、履き古して膝に穴が開いているジーンズを履き、金色の巻き毛を肩に垂らして、何でも面白がりよく笑う彼は、『科学者と言うよりも、むしろ芸術家かミュージシャンという雰囲気だね』と、第一世代の人たちからよく言われていた。

 この研究を思いついたのは、ちょうど二年前の夏だった。妻のエディスと二人で運動公園(シルバースフィアに隣接する広い公園が世界崩壊前にもあったが、その半分は共同墓地にし、もう半分は整備して、子供たちが遊んだり、大人たちが散策したりできる、運動公園にしていた)に、散歩に行った時だ。珍しく同じような時期にお互いの研究が一段落し、一緒に取れた二週間ほどのお休みに、夫妻は時々こうして散歩に出ていた。公園の向こうの農場区域まで足を延ばして、この日は一時間ほど二人でそぞろ歩きしたあと、公園に置いてあるベンチに並んで腰をかけた。良く晴れた日で、輝きを取り戻しつつある太陽が明るい光を投げかけ、時おり柔らかな風が吹きすぎていた。散策でいくぶん疲れを感じていたアドルファスは深く息をつくと、ベンチに寄りかかり、目を閉じた。
「ああ、太陽の光が気持ちいいな」
「そうね。それにほら、空が青いこと」
 エディスが伸びをしながら空を見上げて、微笑する。
「自然の力って、やっぱり偉大なのね。ああ、ここに緑が生えてたら、昔のようかもしれないわ。子供の頃に見た写真のように」
「どんな写真?」
「あなたと結婚する前、母と妹と暮らしていた家のリビングに――ああ、他にも七、八人いたけれどね――そこに古いカレンダーが貼ってあったの。カタストロフの翌年のものが、買ってあったみたいで。それが一枚の大きな写真だったのよ。こんなふうに空が青くて、緑の草と木、それから赤や黄色の花が、いっぱい咲いているの。母さんは、それはチューリップっていう花だって言ってたわ。昔はオタワの街を流れる運河の両側に、いっぱい咲いていたって。母さんはここで生まれて育ったらしいの」
「へえ、そう」
 アドルファスは首を傾げ、考え込みながら、視線を宙に向けた。彼にはわからない世界のイメージを、頭の中に思い浮べようと。
「わたし、世界を元通り緑で塗りたい。木があって、花があって。あのきれいな絵のように、街を作り替えたいわ」エディスは夢見るように、そう言葉をついでいた。
「そうだね。でもそのために、農業班が努力してるんじゃない?」
「そうよね。でもほら、農業班は食物中心でしょ? 今栽培されているものだって、じゃがいも、えんどう、トマト、きゅうり、かぼちゃ、大豆、にんじん、ピーマン、とうもろこし、かぶ、たまねぎ、砂糖大根、胡椒にハーブ。それから小麦。あと特別栽培で、温室の中で育てているコーヒーとお茶。野菜の花だって、それなりに可愛いけれど、でも花そのものを目的としているわけじゃないでしょう? 木の植樹も一年前から始めたけれど、あまり成績は良くないようだし。農業省の栽培試験所から持ってきた、樅と杉と松と樺と楓の種を千粒ずつ播いても、芽が出てきたのは、十分の一もないわ。それがさらに苗木に育つ段階で三分の一脱落して、移し替えてから根つくのに、また半分枯れて。今じゃ、それぞれ二十本ちょっとしか、育ってないのよ。これじゃあ先が心配だわ。今年も千粒ずつ播いたけど、あともう三、四年で、種もなくなるんですもの」
「でも一本でも育てば、そこからまた種が取れるじゃない。そこが植物栽培のおもしろい点だと思うな。人間と同じで、生物は増える余地があるもの。なんにもなくなると、ちょっと難しいかもしれないけれどね」
「そうね」エディスは微笑し、しばらく無言で何かを考えているようだったが、やがて連れを振り返った。
「ねえ、今のところ中央委員会から特に研究要請はないのだし、次は自由研究で良いということだから、わたし、やってみようかしら」
「何を?」
「植物栽培よ。バイオ技術を駆使した。農業班と協力して、植物を育てたいわ。この町に、緑をよみがえらせたいの」
「ああ、それはいい考えだね。バイオはもともと、君のお得意分野だもんね」
「ええ。あなたは、アドル? 何か考えている?」
「うん。僕も今、思いついたんだけど……これなんか、どうかな?」
 アドルファスは天を指さした。
「なあに? まさか宇宙?」
「違うよ。それはまだまだ先。ぼくが今取り組みたいのは、太陽なんだ。すべての研究を、文明をすすめる上で必要なもの。たっぷりした電気、それをこの有りあまるエネルギーから取れないかなって思って」
「太陽光発電? でもそれなら、シルバースフィアの屋根にもあるわよ」
「そういうんじゃないんだ。あれってすごく効率悪いよ。風力、ガスとあわせても、今のぼくら三千八百人ちょっとの生活と、ぼくらの研究と、中央のファイル管理や保存作業に使うコンピュータ、それを賄うだけでぎりぎりじゃない。だからロボットもそんなに増やせないから、街の再建作業も凄くゆっくりだし。アールお兄ちゃんも、その点が頭痛いって言ってたことがあるんだ。今はぼくら、たいした規模じゃないからなんとかなってるけれど、何十年何百年ってたって、規模が大きくなったら、これじゃとても賄いきれない。それにLNG頼りじゃ、いずれ尽きるから、完全なクリーンエネルギーで電化できたらいいって」
「そうね」
「だからさ、ぼく考えたんだ。ねえエディス。アトランティスって知ってる?」
「アトランティス? 何それ? 知らないわ」
「ぼくが子供の頃、エヴィーとぼくに、レオナ小母さんが話してくれたことがあるんだ。うんと大昔の大陸でね、前の世界より、もっともっと大昔なんだって、何千年っていうね。そこには凄く発達した文明があって、とても栄えてたんだって。でもある日、海の底に沈んじゃったって」
「まあ、海に沈んじゃったんですって?! まるで、昔の世界の大都会みたいね」
「ああ、でもアトランティスの話は、本当かどうかわからないんだよ。伝説だって言ってたからね。でもね、栄えた文明が滅んだのは、今に始まったことじゃなかったのかもしれないって、小母さんが言ってたのを、覚えてるんだ」
「まあ、そうなの。でもそれと太陽発電と、どういう関係があるの」
「あのね、そこではクリスタルを使って、とても効率的な太陽発電をやってたって言うんだ。そもそもアトランティスそのものが事実かどうかわからないから、凄く雲をつかむような話だけれど、偏向クリスタルを使って光線を集めるのって、たしかにいいアイデアだなって思って。お父さんの記録にも、未来の電力は特殊クリスタルによる太陽発電で作られてるって書いてあったし。今は分子合成がある程度自由になるから、特殊クリスタルも作れるよ。だからもし実現できたらいいなって、思うんだ」
「そうね。でも、そのアトランティスと同じっていうのは、なんだか不吉じゃない? ここもまた、海に沈んだりしないこと?」
「沈まないよ。オタワに海はないじゃないか」
「あら、オタワにはなくても、アメリカ大陸ごと沈んじゃったら終わりじゃない」
 彼女は悪戯っぽくそう言い、二人は笑いあったのだった。

 それから二年間、エディスは植物の復活を助ける生化学技術に、アドルファスは特殊クリスタルを使った太陽発電にかかりきりになり、夫婦はほとんど擦れ違い生活になった。彼らが顔を合わせるのは、たまに時間が合った時の朝くらいで、ゆっくり話をする機会も一週間にせいぜい二時間くらいとれれば、いいほうだ。違った研究による離れ離れの生活にも、二人の心の絆はゆるまないようで、一緒にいられる時は本当に親密だった。ただそういう生活が多いせいか、望んでいるにもかかわらず、結婚してから三年以上過ぎた今も、二人の間には子供が出来なかった。人々は『あの子たちは天才少年少女科学者の夫婦だから、普通一般の人間家庭というものに、あまり縁がないのだろう。あの子たちが成し遂げる発見や発明、機械や装置が、彼らの子供なのだ』と、みなしはじめるようになっていた。それに貴重な頭脳の持ち主である、もとのエディス・バーネット、今のエディス・ローリングスが、出産や育児でその能力を無駄にするのは、これからの発展にとって大きなロスだと考える人もいた。
『でも、本当にそれでいいの?』と、エヴェリーナやグループの他の妻たちからそう問いかけられるたびに、エディスは微笑んでこう答えていた。
『わたし自身は、そう思ってないわ。子供ができたら、わたしは喜んで研究を休むつもりなの。でも出来ない以上はね、これでいいのよ。わたしは今の生活にも、不満は感じてないわ。幸せよ』と。
 彼らはそれぞれのプロジェクトで、研究生活を送っていた。アドルファスのプロジェクトが終わり建設段階に入った時、エディスの方はまだまだ研究段階だった。この二年間で、彼女は温室の再設計と建設を終わり、種の発芽率を約二倍に高めるのに成功した。肥料の改良も行なった。今は、成長を促進させる技術の開発に没頭しているようだ。

 ここ二年、精魂傾けて開発した太陽光発電装置が実用化の段階に入り、目の前の大きな目標が当面なくなった今、アドルファスは自分の研究室の大きな灰色の椅子に座り、頬杖をついて窓を見上げていた。彼の研究室は、昔からシルバースフィアにあった科学技術研究室――三賢者たちがロボット開発に使ったその区画の一番上、四階にあり、地上部分に出ている。窓の向こうはすぐ地上で、平らにならされた道路を挟んで、向かい側にはプレハブ造りの、物資製造工場がある。そこに働いているのは、七、八体の『製作モデル』たちだ。その隣には、同じくプレハブ造りの、作った製品をストックしておく倉庫がある。シルバースフィア内に置ききれないものを、そこに置いておくために。
 ただ、今は外の光景は見えなかった。窓は少し開いていたが、カーテンは閉めていたからだ。その色のさめた黄色のカーテンが風にひるがえり、金色の光の粒になって弾け、壁や床に刻々と移り変わる模様を描いている。彼はぼんやりと光のダンスを見ていた。光が漏れて、ちらちらと影を投げかけている。やがて、すうっと意識が飛ぶような感じがした。
 一面に青い世界が広がっていた。まわり一面、透明なブルー。やがて彼は水の中から浮かび上がり、白い砂浜に立っていた。真っ青な空と海を映して、青い世界の中に。花が降ってきた。赤や黄色、白、ピンク、オレンジ――透明な青をバックにして、ふわふわと落ちてくる。 その花たちは地上に落ちると、小さな白い光となっていった。
 彼はノックの音で目覚めた。いつのまにか、眠ってしまったようだ。アドルファスは不思議に思いながら、デスクから身を起こした。あんなイメージは、今まで見た事がない。父が持っていたあの古い写真に似ているけれど、それとも少し違うようだ。
 もう一度、ドアがノックされた。
「お邪魔しまーす」
 明るい声がして、マデリーン・セルシュが入って来た。
 彼女は十九才になる快活な娘で、この一年半の間ずっと、彼のプロジェクト・チームで働いている。どちらかといえば小柄で、程よく肉のついたきれいな身体の線を持ち、丸い淡褐色の目はくりくりと良く動いた。全体としては小作りの顔立ちで、目と口だけが大きく、火のような赤褐色の髪がクリーム色の顔を縁取り、くるくる渦を巻いて肩にたれている。彼女は数学や科学系の成績がわりと良かったので、科学班の助手をしていた。利口でよく気が利き、器用な娘で、コンピュータで計算をしたり分析をしたり、結果をわかりやすくまとめたりという作業をにこやかにこなし、その上にコーヒーをいれたり材料を運んだりという雑用も、すすんでやっている。この時も、片手にカップを持っていた。
「お疲れじゃありません? 研究やっと終わったんですものね。コーヒーはいかがですか? 去年採れたお豆で作った出来たてですよ。お砂糖とクリームも入れました」
 マデリーンは快活な声で続け、にっこりと笑った。
「あ、ありがとう。今、欲しいなって思ってたんだ。いい匂いだね。やっぱり新しいと」
 アドルファスは手をのばしてカップを受け取ると、彼女に微笑を返した。マデリーンも、うれしそうににっこり微笑んだ。
「今日はお休みでしょう? お部屋へは帰られなかったんですか?」
「うん。エディスはずっと研究室だし、彼女がいないなら、家に帰ってもつまらないしね。エヴィーは子育てで忙しいし。ぼくは子守、手伝いたくても、よくわからないから。ぼくはなんだか自分たちの部屋より、ここの方が落ち着くんだ。悲しむべき習慣だと思わない?」
「そうですねえ。じゃあ今、何してらっしゃったんですか?」
「海のことを考えてたんだ」
 アドルファスはしばらく沈黙して、コーヒーをいくらか飲んだあとで、そう答えた。
「海? 海水の有効利用でも考え付いたんですか? でもオタワのまわりには海はないし、行くには遠いですよ。今の段階じゃ、人間の移動は出来ませんし」
「違うよ。まあ、海の開発もいずれはするんだろうけど、君の言うとおり、そのためには海のそばに住まなくちゃならないから、少なくとも百年くらい先になるんじゃないかなあ。って事は、やるのは当然、ぼくじゃないよ」
 アドルファスは笑って肩をすくめた。
「違うんだ。もっと抽象的な意味での、海なんだ。ねえ、ところで色つきの夢を見るって言うのは、精神が疲れてるんだって、昔の心理学の本にあったね。ぼくもそうかな?」
「色つきの夢を見たんですか?」
「そう。それも大原色のね。すごくきれいだけど、幻みたいに頼りなかった」
「でもアドルさんが精神的に疲れてるって言うのは、本当じゃないでしょうか。だって、あれだけの大プロジェクトを終わらせたばかりなんですもの。たまにはのんびりして、何かの気晴らしをして、頭をほぐさなきゃ」
「気晴らしか。でもねえ、エディスは研究で忙しくて、いつも帰りは夜遅いし、一人で散歩したりするのも、たまには悪くないけど飽きるし。エヴィーもダリルが生まれたばかりだしね。赤ん坊って、かわいいけれど、少し気疲れするんだ、ぼく。エヴィーは好きみたいだけれどね。ぼくは自分の子供もいないから、あまり扱いが慣れなくて。友達っていっても科学者仲間だと、つい研究の話ばかりになっちゃうしね」
「あたしじゃ、ダメですか?」
 不意にマデリーンは真剣な口調になった。
「あたしが相手じゃ、気晴らしにはなりませんか?」
 アドルファスは少し驚きを感じ、相手を見た。
「そんなことはないけれど。君とは気が合いそうだし、君がいやじゃなかったら、ぼくは別に構わないけど」
「ああ、よかった!」
「でも、どうして?」
「だってあたし、アドルさんのこと好きなんです。愛してるんですもの」
「ぶ!」彼は思わずコーヒーにむせた。
「それはありがとう。まったく、からかわないでよ。きみは人が悪いんだから」
「あたし、本気ですよ」彼女は熱心な口調で、さらにたたみかけてくる。
 アドルファスは相手の真剣な様子を見ると、微笑を引っ込め、コーヒーカップをテーブルに置いた。そして少し当惑しながらも、とにかく自分の立場に踏みとどまろうとの決意で、マデリーンを真っすぐに見た。
「あのね、君の気持ちはうれしいけれど、ぼくは結婚しているんだよ。エディスっていう妻が、ちゃんといるんだ。ぼくは彼女を裏切れないし、きみだって傷つくだけだ。誰か他の人を探した方がいいよ」
「それはわかってます。でもエディスさんは、あなたにとっていい奥さんとは言えないわ。彼女は、あたしなんかとてもおよびもつかないほどの大天才だけれど、そうやってあなたが疲れて休養や気晴らしを求めている時にも、いっしょにいてあげることも出来ないじゃありませんか。あなたは、いつもほったらかされてるわ」
「ぼくは、そうは思わないよ。彼女には彼女の研究があるんだし、ぼくたちは、心は通じ合ってるんだから」
「でも、淋しいと思う時ってありませんか?」
「そりゃ……ね。ぼくも人間だから」
 アドルファスは相手の熱心な調子に引き込まれ、思わずそう認めてしまった。
「そうでしょ? あなたは無理してるんだわ。あたし、力になって上げたい。あなたの慰め手になりたい。そばに、いたいの」
 マデリーンは淡褐色の目に熱情をたたえて、彼の方に身を乗り出してきた。
「でもとにかく、とにかく! 君の気持ちは嬉しいけど、ダメだよ!」
「じゃああたし、今は行きます。でも、また来ますね。あきらめませんから」
 マデリーンは顔をあげて、まるで挑むようにそう宣言した。二人の瞳が合った時、アドルファスは一瞬、奇妙な軽い興奮が背中を走るのを感じた。今までに出会ったことのない種類の情熱のほとばしりをぶつけられて、面食らってもいた。どちらかといえばおとなしく、冷静沈着な妻とはまったく違うタイプの――同志のような穏やかな愛情に慣れていた彼にとって、マデリーンの熱心で単刀直入な求愛は、新鮮な衝撃だったのだ。




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