Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 2  AGE Blue (青の時代) (6)




 アールの一家も、再び幸福の軌道に乗っていた。三人目の子供の流産と同時に、娘グロリアを失い、一時期失意のどん底にいたメアリも、夫を初めとする周りの励ましと気遣いをうけ、時にも助けられて、やがて立直っていった。メアリに一人残された息子ランディスは、五才半の元気な男の子に成長している。そして彼女は、エヴェリーナたちが結婚したすぐ後に、子供が授かったことを発見した。その子は来年五月に生まれるはずで、メアリは一年半前の悪夢に怯えながらも、無事に生まれるよう願い続けていた。
 アールとヴィエナとの間の娘ティアラも二才になり、ふさふさしたダークブロンドの巻き毛、大きなすみれ色の瞳の、人形のように愛らしい、よく笑う快活な幼児になっていた。そして彼らの間には、この七月に男の子が生まれていた。
 メアリとの間に生まれたランディスを入れれば二人目の、ヴィエナとの間には初めての息子が生まれた次の日、アールはティアラをつれて、改めて母子を見舞いに訪れた。
「ほら、おまえの弟だよ、ティアラ」
 アールは小さな娘を抱きかかえ、母のそばのコットに寝かされた、黒髪の赤ん坊を見せてやった。
「あかちゃんって、ちっちゃーい」
 ティアラは不思議そうに手を合わせ、目をまるくしていた。
「おまえだって、生まれた時には小さかったよ」
「そうよ。あなたはこの子より、もっと小さかったわね」
 両親の言葉に、幼女は不思議そうに目を見開いて赤ん坊を見つめ、そっと手を伸ばして、その小さな手に触れた。
「なまえは、なあに?」
「ああ、そうそう。今日はこの子の名前を決めなくてはね」
 アールはヴィエナを見、次いで赤ん坊を見やって、もう一度恋人に目を戻した。
「君につけたい名前があるなら、先に聞かせて欲しいんだ。ティアラの時には、僕が決めてしまったから」
「あら、あなたがお姉さまの名前をこの子につけてくれたことには、とても感激しているのよ」ヴィエナは小さな娘を見、微笑んだ。
「似ているような気がしたんだよ。写真で見た下の姉と、同じ髪の色で、同じ目の色で。生まれ変わりかな、なんて思ってしまったんだ」
 アールは少し照れたように笑い、娘を見やったあと、再びヴィエナを見た。
「それで、この子の名前は?」
「あのね……もし、わたしがつけていいのなら、つけたい名前があるのだけれど……」
「どんな名前?」
「アリステア。あっ、でもね、それは、わたしのお祖父さんの名前なのよ」
「へえ。僕のひいお祖父さんと、同じ名前なんだね。それ、いいかもね。両方のご先祖に共通の名前か。じゃあ、この子は、アリステアにしよう。もっともこの子にローゼンスタイナー姓を名乗らせたら、同姓同名になってしまうけれど」
「あなたの姓を名乗らせてくれるの? わたしは正式の妻ではないけれど」
「ああ。正式な夫婦でなくとも、僕の子だからね。僕は君との間に男の子が生まれたら、そうしようって思っていたんだ。本当はティアラの時もそう思ったんだけれど、下の姉と同姓同名になるのと、女の子だから母親の方でもいいかな、と思ったからそのままにしたんだけれど」
「この子はあなたのひいお祖父さまと同姓同名になるけれど、いいの?」
「いいと思うよ。今は僕のひいお祖父さんのことを知っている人は、第一世代の人以外は、それほど多くないし、子孫なんだから。ジュニア、ではないけれど。ミドルネームを変えればいいしね。アリステア……ひいお祖父さんはジョンだから、それ以外で、それもJじゃないほうがいいな。そうだ、ショーンにしようか。君のお父さんの名前から取って」
「アリステア・ショーン。良い名前ね。わたし、お父さんにはそれほど会ったことはないけれど、でも好きだったから、嬉しいわ。それに、わたしたちの子供にアリステアとつけられたことが……なんだか認められた気分で、一番嬉しいの。ああ、いいえ、誤解しないでね。わたしのことじゃなくて、お祖父さんのことが……」
「君のお祖父さん?」
「あのね、今だから打ち明けるけれど、わたしのお祖父さんは、あなたのひいお祖父さんの子供だったのよ」
「ええっ!?」
「突拍子もない話で、信じてもらえないかもしれないけれど、昔ひいお祖母ちゃんが若い頃、アリステアさんがロケに来て。ウェールズの小さな村なんだけれど、そこで知り合って、一夜だけの契りをもって、その時に身篭もったのだって。誰にも報せなかった秘密なの。だからアリステアさんも、知らなかったと思うわ。彼女は生まれた子供に、本当のお父さん、あなたのひいお祖父さまの名前をつけたのよ。お祖父さんが三歳の時、ひいお祖母さんは他の人と結婚して、ロンドンの郊外に引っ越したのだけれど、その相手がいい人で、お祖父さんもわが子として育ててくれたらしいの。お祖父さんの、本当のお父さんのことは、お祖父さんが結婚することになった時、初めてひいお祖母さんが話してくれたらしいわ」
「へえ、そうなんだ……」
 頷きながら、アールは昔読んだジャスティン叔父の記録にほんの一行だけ、そんな言及があったことを思い出した。
『お祖父さんは、結構若い頃いろいろあったらしくてさ、隠し子が三人とか、そんな話があるんだ』と、父が言っていたという。ヴィエナの話はあくまで彼女の話にすぎないのだろうが、アールはきっとそれは本当の話なのだろうと感じた。
「そうしたら、僕と君とは、縁続きなんだね」
「そうなるのね。少し薄いでしょうけれど。お祖父さんと、あなたのお祖母さまが異母兄妹ということになって、母とあなたのお父さまが半従兄妹、これには、母は仰天したらしいけれど。祖母がね、あなたのお父さまが、ひいお祖父さまの孫だと知って、母に『じゃあ、あなたとは半分従兄妹ね』と言ったらしいわ。冗談かと思ったって、母は言っていたものよ。だって、あなたのお父さまって、母さんにとっては、神さまにも等しかったのだから。それがいきなり縁続きだ、なんて言われてもね」ヴィエナはくすりと笑った。
「それじゃあ、僕らは半また従兄妹ってわけか。不思議な縁だね……」
 アールは頷き、ヴィエナの手を取った。それならば、お互いの身体に流れる同じ血が呼んだのだろうか。メアリには今も昔も、穏やかな愛情を感じている。しかし、その妻への背信になることを知っていてなお、ヴィエナに惹かれるものを感じたのは、彼女の魅力、彼女の心。それは間違いないが、それ以外にもあるとしたら――。
「ええ、本当にね。母は去年亡くなったけれど、わたしがあなたとの子供を授かったって知った時には、本当に仰天していたわ。母や第一世代の人たちにとって、あなたたちは言ってみれば、王子様王女様のようなものだから、と言うと、あなたはあまり愉快ではないようだから、今まで言わなかったけれど」
「そう……今も、まあ、あまり歓迎はしないよ。もっと普通に見て欲しいって思う」
「母には無理だったみたいだけれどね。あなたのお父様を崇拝しきっていたから」
 ヴィエナは再びくすりと笑った。
「昔から、すごく熱心なファンだったみたいだわ。だからあなたのお父様たちがイギリスに公演に来るたびに、追っかけをやっていたって言っていたもの。あなたのお父様がロンドンで撃たれた時にも、母はその現場にいたらしいし」
「えっ、そうなんだ? エミリーさんが?」
「ええ。当時の母は十七歳で、最終公演はチケットが取れなかったけれど、その前の日のコンサートには行っていて、大感激して、その勢いで、ホテルがわかったから行ってみたいって、二人の友達と午後から学校を抜け出して行ったらしいの。あの時、人質にとられた姉妹のすぐ近くにいて、二人とも話をしたそうよ。あの姉妹は、ロンドン公演はチケットが取れなくて、せめて姿だけでも見たいって、言っていたらしいの。それで、お互いに学校を抜け出してきたって言って、まわりの子たちも自分たちの状況を話してて。『でも、見えないかもね〜。ガードがすごく邪魔』なんておしゃべりしていたって。あの事件の一部始終は、死ぬまで忘れられない……母はそう言っていたわ。あなたのお父様が退院するまで、暇さえあれば病院に行ったらしいし」
「そうなんだ……」
 頷きながら、その偶然にアールは驚いていた。その事件は、ジャスティン伯父の記録にも詳しく書かれている。その時の犯人たちは銃を持ち、首謀者は身体に爆薬を巻いていた。もし父が出て行かず、犯人たちが言葉通りその場で銃を乱射し、自爆していたら、ヴィエナの母エミリー・ライトも、その時に命を落とした可能性があるのか。もしそうならば、ヴィエナもまた生まれていない。アールは軽い震えを感じた。
「本当に、不思議な巡り会わせだね……」
 アールは手を伸ばし、コットに眠る赤ん坊を抱き上げた。腕に抱き、その顔を覗き込んだ時、予感めいた戦慄のようなものが、身体を走り抜けるのを感じた。いや、直接この子ではないかもしれない、しかし、この子から確実に何かがつながるのだろう、と。


( 7 )

 エヴェリーナが結婚してから、幸福な一年がすぎた。結婚後五ヵ月目に、彼女は最初の子供をみごもり、五月に『みどりの家』の教員を休職した。今、彼女はやがて母となる喜びに胸を膨らませ、穏やかに流れる時間の中で、新しい家族を受け入れる準備を調えている。その合間にエヴェリーナは従兄姉たちそれぞれの家族のコンパートメントにも、以前のようによく遊びに来ていた。
 アールの妻メアリは四月下旬に、女の子を出産していた。ジョスリン・グロリアと名付けられたその子は、標準より少し小さめではあったが、元気な赤ちゃんだった。濃い金色の巻き毛と、つぶらな灰色の瞳をもった可愛い美人だ。でも、たとえこの子が外見的に多少可愛くなかったとしても、メアリにはシルバースフィアにいる子供のうちでいちばん可愛い、天使のような娘だと思えたことだろう。そのミドルネームが意味するように、メアリにとって、かわいい盛りに失った娘と、ついに生まれなかったもう一つの命、二つの命を背負って授けられた、なにものにもかえがたい、貴重な贈り物と感じられたのだから。

 九月のある日、エヴェリーナは従兄の居室を訪ね、メアリが迎えてくれた。アールたちは家族が増えたため、一年ほど前に以前からの懸案だった、最上階にある六ベッドルームの部屋へ引っ越しを済ませている。エヴェリーナたちが住む八階からの移動は、身重でもあることなので、さすがにエレベータを使っていた。
「いらっしゃい、エヴィー。今、子供たちはお昼寝中よ。ランディは学校ね」
 メアリはにこやかに笑って迎えてくれた。
「あら、本当?」エヴェリーナもにっこり笑って、部屋の中をのぞき込む。
 広いリビングの中で、ジョスリンはコットで眠り、ティアラとアリステアはソファの上で、すやすやと眠っていた。二人の上には、薄い毛布が掛けられている。
「ティアラとアリステアもあなたが見ているの? ヴィエナは?」
「ああ、彼女ね、前にいたグループのお友達が、お産がうまく行かなくて、亡くなったんですって。そのお弔いに行ってるの。お葬式に、小さな子供たちを連れていけないでしょ。それもお産で亡くなって、赤ちゃんも死んでしまっているのに。旦那さんやご兄弟から、無神経だと思われてしまうわ。だから、わたしがまとめて面倒を見ていたの」
 メアリは、くすっと笑って言葉をついだ。
「ねえ、エヴィー。あなたは不思議そうな顔をしているわね。どうしてわたしたちが、お互いに子供の面倒を見合ったりして、たとえ表面上でも仲良くしていられるのかしらって」
「ええ」エヴェリーナは、ちょっと肩をすくめながら頷いた。
「あれから三年半もたつのに、あなたたちって、まともに喧嘩をしたこともないんですものね。まるで、普通のお友達みたいなんですもの。昔、物語で読んだ恋のライバルたちって、もっといがみあってたわ」エヴェリーナは微かに笑って頭を振り、続けた。
「お話と現実は違うのかしらね。でも、あたしには想像できないわ。それにあたしは恋のライバルなんて、持てそうもないしね。フェリックスって、あまり女の子にもてるタイプじゃなさそうですもん」
「そんなことはないわよ。彼は実直な好青年だわ。しっかりしているし、頼もしいと、たいていの人は見ているわよ。でも彼はたとえ他の女の子に愛されたとしても、きっとあなただけを守って、愛して生きるでしょうね。そういうタイプだと思うわ、あの人は。でもアールはどちらかというと、博愛主義者みたいね。束縛も嫌いで。いい加減ってわけじゃないんだけど、浮気者でもないんだけど、独占的じゃないのよ。だから自分が独占されることも嫌うのだと思うわ」
「そう……かも知れないわね。アールお兄ちゃんは。結婚はお互いを縛る鎖になっちゃいけないって、前にそう言っていたもの」
「でも、わたしはアールを愛しているのだから、仕方がないわ。彼もわたしを思ってくれているし、ランディとジョスリンという、可愛い子供たちもいるしね」
「それに、あなたは正式な奥さんじゃない、メアリ。もっと堂々と自分の権利を主張すればいいのに」
「戸籍の上では、そうね。でも、彼はきっと、そうみなしてはいない。つらい事実だけれど、アールはわたしより、ヴィエナを、より強く愛しているように思えるのよ。もし彼に二者択一を迫ったら、捨てられるのはわたしの方だわ。そう、あの時……ヴィエナに子供ができたってわかった時、彼はわたしに言ったの。君を苦しめたくはないけれど、僕はヴィエナを愛することをやめられない。もし君が耐えられないなら、君は僕から自由になるかい、って」
「ああ……」
 エヴェリーナは従兄から同じ言葉を聞いたことを思い出し、頷いた。それは何という残酷な提案だったのだろうと、改めて思いながら。
「そう言われた時、わたしは目の前が真っ暗になったわ、文字通り。そんなことはいや、なんとしても。そのくらいなら、ヴィエナを受け入れて共存したほうがいい。わたしには、その道しかなかった。あの時、オーロラには言われたわ。あなたにはプライドはないのって。プライドはあるわ。妻としてのプライドは。でもわたしに魅力が足りないせいで、彼の心が他の人に奪われてしまった、と。彼女には、そういう風に考えるのは間違っている、悪いのはアールで、あなたじゃないって言われたけれど」
「そうよ。そういう風に考えちゃだめよ。あなたは何も悪くないわ、メアリ」
「ありがとう、エヴィー。わたしが悪いわけじゃないって、みんなそう言ってくれるけれど、でもそれで残酷な事実が覆るわけじゃない。わたしは、彼に残っているわたしへの好意を、完全に失いたくはないの。だから彼の望み通りにしたい。彼を悲しませないために、ヴィエナと喧嘩はしたくない。ヴィエナの子供たちにも、もちろん自分の子と同じわけにはいかないけれど、アールの子供でもあるんだって考えて、できるだけ好意的に考えていきたい。子供には罪はないのだから、決して憎んだり嫌ったりしては、いけない。たとえ心の奥底でも、一瞬たりともそんな感情を持ってはダメなのよ。それを知られてしまったら、アールはたちまちわたしから離れていってしまう。それがわかっているから」
「そこまでメアリは、アールお兄ちゃんのことが好きなのね」
 エヴェリーナはそう言わずにはいられなかった。
「アールはわたしのすべてよ」
 メアリは微笑んだ。その口調は、当たり前のことを述べているかのように響いた。
「彼とは子供のころから、ずっとお友達だった。ずっと憧れていたの。そしていつの間にか、愛するようになった。でも、叶わないと思っていたの。だから彼に、『君は僕のことを好きって本当?』って聞かれた時には、真っ赤になって絶句してしまったわ。自分からは、とても言えないことだった。でもそれで、アールにもわかったみたい。彼も赤くなって、『そうなんだ……』って。それから言ったわ。『僕も君のことは好きだから、今度中央広場のベンチで話そうか』って。そう言ってくれた時、わたしは天にも昇る気持ちだったわ。それからずっと幸せで幸せで、こんなことが本当にあり得るのかしらと思ったくらいだったわ。ヴィエナが彼の前に現れるまで。彼女は美しくて、輝いていて、若くて、憎たらしいくらい魅力的だった。わたしは、到底彼女にはかなわないと思ったわ。でもわたしは、アールを完全に失いたくはないの。そんなことになったら、生きていける自信もないわ。子供たちのために生きなくてはと思うけれど、それでもアールのいない人生はどんなに空虚かしらと思うと、耐えられないのよ。だからわたしは、今の立場を守るために、何でもするわ。ヴィエナとお友達になれと言うなら、とりあえず嫉妬心を飲み込んで、彼女と仲良くしようと思うし、彼女の子供たちを愛せと言われたら、そうしようと努めるしかない。いいえ、彼は直接そんなことは言わないけれど、彼の望みはそこにあるとわかるの。ヴィエナも幸い性格は悪くないから、わたしに意地悪をしたり、勝ち誇ったり、わたしの子供たちをいじめたりは決してしないわ。それどころか、子供たちにはとても親切にしてくれる。わたしにも友好的な態度でいてくれるから、わたしもそう努めることは、それほど難しくない。だから、わたしはそうしているの。わたしの嫉妬心なんて、どうだっていい。アールを失わないために、わたしは何でもするわ」
「すごく……強い愛情なのね。あなたの、お従兄ちゃんに対する思いは……」
 エヴェリーナは感嘆のささやきをもらした。
「そうね。でも、ヴィエナもそうだと思う。愛情の強さでは、わたしと彼女はよく似ていると思うわ。だから彼女も、本当はわたしがいて面白くないでしょうけれど、自分は後から来たのだという思いと、アールの望み通りになりたいという思いで、わたしと仲良くしようとしているのだと思うわ。二年半前、三人目の子供が流産になって、その入院中にグロリアが亡くなってしまった時、アールはわたしのために、二週間くらいずっとそばにいてくれたわ。ヴィエナのところには行かないで。わたしは娘と赤ちゃんをなくして悲しかったけれど、彼がずっとそばにいてくれることがうれしかった。でも彼がそれだけ長い間わたしのそばにいてくれたのは、もちろんわたしの悲しみに寄り添おうっていう彼のやさしさなんだけれど、ヴィエナが言ったらしいわね。『今はメアリについていてあげて。わたしのことはいいから』と。それをあとで知った時、ああ、わたしは彼女に負けた、と思ったわ。何回目かしら。そう思い知らされるのは」
「それでも……メアリは幸せなの……?」
 エヴェリーナは思わず、そう問いかけてしまった。
「ええ」メアリはすぐに頷いていた。
「幸せよ、本当に。毎日彼の姿を見られて、わたしに笑いかけてくれて、話しかけてくれる。それだけで、胸の中が暖かくなるの。たとえその微笑みや言葉を、わたしよりも少しだけ多く受け止める人がそばにいても。心配しないで、エヴィー。それに愛情に関しては、少なくとも母より、わたしは幸福な女だわ」
「メアリのお母さん? どんな方だったかしら」
 エヴェリーナは首を傾げ、思い出そうとした。しかし、メアリのことはかなり前から知っていても、その母親までは、思い浮かばなかった。エヴェリーナが個人的に、結婚前のメアリの居室に行ったことはなかった。以前は第十四グループに所属していて、弟が二人いる。それだけしか、メアリの家庭のことは知らないのだ。ああ、たしかエヴェリーナが十歳になるころ、『メアリ・ローデスのお母さんが亡くなった』と、アールとオーロラがその葬儀に行っていた。二人が十五歳のころだ。
「母は、わたしが十五になるころに亡くなったの。病気で。ガンだったと思う。三十八歳だったわ。弟たちはまだ十二と十歳だったけれど、わたしはもう家のことはできたし、一緒に暮らしていた人たちにも助けてもらって、暮らすことができたわ。その家にはもともと、わたしたち親子四人と、ナット叔父さん一家五人、それに同じグループのエイダ小母さんと子供のナイル、それにエイダ小母さんのお友達で、独り身のキャサリン小母さんがいたの。叔父さんは母より二年ほど早く亡くなったけれど、アースラ叔母さんと、エイダ小母さん、キャサリン小母さんには、ずいぶん助けてもらったわ。わたしもできるだけ弟たちだけでなく、従妹弟たちやナイルの面倒も見ようとしたし。みんなで助け合って、暮らしていたの。母はナット叔父さん、正式にはナサニエルというのだけれど、母の弟ね、と弟の彼女さんだったアースラ叔母さんと三人で、ロンドンから来たのよ。海を隔てた向こうね。アイスキャッスルに来た時には二一才だったって。ナット叔父さんとアースラ叔母さんが十八で」
「そう。じゃあ、遠くから来ていたのね」
「ええ。でも、どうしても来たかったのですって。だから抽選に当たった時には、とても信じられなかったし嬉しかったと言っていたわ。こんなことになるとは、思いもよらなかったでしょうけれど。母の名前はマーガレット・ローデスといって……ねえ、エヴィー、あなたのお父さんは記録を残していたって、アールが言っていたけれど、それなら、昔お父さんたちのバンドの現役中に、こんな事件があったのが記録されていなかった? アールとオーロラのお父さんが、ロンドンで狂信者に殺されかけたという……」
「あっ、ああ、ええ、そう。そんなことがあったわ。パパが書いていたわ……」
「あなたのお父さんがどこまで詳しく書いたかわからないけれど、その時アールのお父さんを撃ったのが、母のお父さん……わたしの祖父に当たる人なのよ。母はその人の娘なの。その当時、母は十六才で、生まれた時から自分のお父さんの信じている宗教団体の教えを受けていたらしいわ。母の母、つまりわたしの祖母は母が五歳の時に離婚して、その団体を抜けたそうだけれど。祖母はその時、二歳になる母の弟――アイスキャッスルにも一緒にきたナット叔父さんね――だけは連れて出たのだけれど、母は手放さざるをえなくて、それ以来母は祖父の元で育ったのよ。その宗教と教祖を信じて。ところが母は、同じ宗教団体にいたお友達がエアレースの『Scarlet Mission』のビデオクリップを見て脱会したのがきっかけで、同じようにそれを見て、ものすごいショックを受けて、こっそりCDを買って聴いて、それで結局、祖父の元を飛び出したのよ。それで祖父がものすごく怒って、アールのお父さんを殺そうとしたの。母をそそのかしたって」
「あっ、ええ……! 本当? まあ!」
「そう。かなりな因縁でしょう。しかもね、ヴィエナが言っていたわ。彼女のお母さんは、その時ホテルの外で、人質に取られた女の子のすぐ近くにいたって。なんて偶然なのかしら、ってわたしは思ったものだわ。彼女もわたしも、同じイギリス出身の母親を持っているということは、知っていたけれど。恐ろしい因縁だとしか言葉がないわ」
「まあ! そうなの! それで……メアリはそのことをヴィエナには言ったの」
「いいえ、言えなかったわ。アールにも。あなたが初めてよ、エヴィー。だから、他の人には内緒にしておいてね」メアリは首を振り、話を続けた。
「わたしたちは、加害者側ですもの。とんでもないことをしでかした人の子孫だなんて、なかなか言えないわ。事件の時もね、実のお父さんが、母が教団を抜けた報復に、母が崇拝しているアーディス・レインさんを殺しかけたって聞いて、そのショックはもう並大抵ではなかったらしいわ。別れたお母さん、わたしの祖母が、母が脱会して保護施設に駆け込んだ時、連絡を受けて迎えに来てくれて、母はその後祖母の元で暮らしたらしいけれど。その母がアイスキャッスルに来て、アーディスさんと話す機会を持てた時、怖いけれどどうしても言わなければと、打ち明けたらしいのよ。父があんなことをして、ごめんなさいって。アーディスさんは少し驚いたように、答えたらしいわ。『そう、君があのマーガレット・ローデスさんなんだ。同じ名前だったけど、本人だったんだね。ここに来てたんだ。えー、本当に偶然だなぁ』って。『でも、僕の方こそ謝んないとね。かえって君に、大変な思いをさせちゃっただろうから。僕は別に、君のお父さんを恨んでないよ。それだけ君を、愛してたんだろうって思う。カルトにはまっちゃったのが間違いのもとだったんだろうけど、それがなければ、普通に愛情深い良いお父さんだったのかなって考えたら、すごく惜しいな。お父さんを変えたのは、間違った洗脳だったんだ。今はお父さんのご冥福を祈って、君はここで生きていって。君にここで会えて、ほんとによかった。無事にここまで来てくれたんだね』って、本当にうれしそうな笑顔に一瞬なって、そう話してくれたそうなの。そう……その時に母は、以前からの崇拝が、人間的な愛情を伴っていたことを悟ったらしいわ。その瞬間に、恋に落ちてしまった、と言った方が正しいかしら。ことにアイスキャッスルに来てからは、手の届かない人じゃなく、普通に話せる人になったから。母は生涯、現実の男性は誰も愛さなかったわ。アールとオーロラのお父さん以外は。第一世代では、それほど珍しいことじゃなかったらしいけれど、ヴィエナのお母さんエミリーさんも、そうだったらしいけれど、でもそんなの、とても叶わぬ恋でしょう? たとえ普通に話せたとしてもね。奥さまもいらしたわけだし。おまけにアーディス・レインさんは、アイスキャッスルで亡くなってしまったから、元々ゼロに等しかったチャンスも、これで完全になくなってしまったわけよ」
「もしアールお兄ちゃんたちのお父さんが、アイスキャッスルで死なずに、ここに来てたら、昔お話で読んだアラブの王様みたいな、一大ハーレムができたんじゃないかしらねぇ」と、思わず呟いてから、エヴェリーナはすぐに思い出した。いや、伯父さんはその手の方は思い切り淡白な人で、しかも子供を作るのに特殊因子がいる人だった。ハーレムはできても、本当にたくさんの女友達という感覚で、子供はあまり望めないかもしれない。まだお父さんの方が、うまく振舞えばその可能性があったと思うけれど、まじめな人だったから、最初の奥さんとお母さん以外、愛さなかった。あたしもたくさんの異母兄弟がいなくて、よかったと。
「そうねえ。アールはたくさんの異母兄弟は、ほしくないでしょうけれど」
 メアリはそこまでは知らないらしく、肩をすくめて微笑している。
「まあ、そうよね。じゃあ、メアリのお父さんは……?」
「母はこっちに来た最初の冬に、別グループの男の人にレイプされたのよ。つい出来心だった、すまない。そう謝ってはいたようだけれど。それで、わたしが出来たの」
「まあ……」エヴェリーナは思わず声を上げた。
「そうなの。子供が生まれる理由は、今も昔も三つあるようね。ひとつは愛によって、もうひとつは子孫維持の本能、最後は暴力。だんだん悪くなっていくわ。わたしはそういう点、最悪の生まれ方をしたのよ。母は口にしたくもないと、相手の名前を死ぬまで教えてくれなかったから、わたしの父親は誰なのか、わたしは知らないのよ」
「そんな……ことって」
「でもともかく、それでも母はわたしを愛してくれたわ。最初は恨んだかもしれないけれど、女というものは最終的には母性愛がすべてのものを凌駕してしまうのよって、母はわたしに言っていたの。相手の男は嫌いだったけれど、それでもわたしがお腹の中でだんだん大きくなっていくのが愛しかったって。無事に五体満足に生まれてくれと祈っていたって、そう言ってくれたわ。相手はもともとグループも違うし、同じグループの人と結婚したらしいから、あまり会わずにすんだようだし。男は愛せないけれど、子供は好きだ。子孫を残せば、未来をつなげられる。そう思って、母はそれから二人、子供を産んだの。三歳下と、五歳下の二人の弟をね。わたしたち姉弟は、三人とも父親が違うの。母は誰とも結婚せずに、いわば子種だけをもらって、三人の子供を産んで、でも心の中では生涯、ただ一人の人だけを思っていたのよ。決して届くはずのない思いをね。母は事件前アーディスさんにもらった手紙を、死ぬまでずっと肌身離さず持っていたわ。母が死んだ時、一緒に埋葬したけれど。それだけでしか、つながれない、あとは音楽しか。だから、わたしは母よりずっと幸福な女なのよ」
 メアリは篭の中にすやすやと眠っている赤ん坊を見た。
「わたしの愛する人は生きている。遠い人じゃなく、目の前にいて話をすることも、触れることもできる。時々は愛を交わすこともできる。たとえ、誰かと共有することになっても……ああ、でもわたしがアールと結婚したことを母が知ったら、きっと喜んでくれたと思うわ。母の叶えられなかった望みを、わたしの代で叶えたようなものですもの。でも、わたしは彼が誰の子供かということは、あまり気にしないようにしているわ。彼もあまり歓迎はしていないようだし。アールはアールですもの」
「そう。そうよね。なんとなく、わかるわ」
 エヴェリーナは、ほっとため息をついた。
「ところでエヴィー、赤ちゃんは順調?」メアリは笑顔になって聞いてくる。
「ええ。でも、ここまでお腹が大きくなってくると、動くのが少し大変だわ」
 彼女は笑って、そっとお腹に手をやった。
「でも、あたしがお母さんになるっていうのは、すごく嬉しいんだけど、不安でもあるの。あたしが子供を育てられるのかしらって」
「あら、でもあなたは『みどりの家』では、それはうまくやっていたじゃないの。評判だったわよ。子供たちもすっかり懐いていたって聞いたし。あなたがやめた時、生徒たちは、とても悲しんだらしいじゃないの」
「そうなの。みんなが泣いて、やめないでくれって。あたしも泣いちゃったわ。この子たちを置いていくなんて、ひどいことのような気がして。でも、新しい先生も良い子だから、安心よ」
「そうね」
「でもね、昔、ほらランディがちっちゃな赤ちゃんだった頃に、あなたが言っていたじゃない、メアリ。施設の子に接するのと自分の子じゃ、勝手が違うって。あたしはみどりの家の子たちには先生だったけど、母親じゃなかったものね。それにあたしはお母さんっていうものをまったく知らないから、母親って、なんだか不思議な気がするのよ」
「そうね。あなたのお母さんは、あなたたちが生まれてすぐに亡くなったんですものね」
「ええ、だから直接的には全然覚えてないの」
 エヴェリーナはふと考え込み、微笑をもらした。昔見た不思議な夢、大きなお腹を抱えていた母の姿、おぼろげに聞いた子守歌が胸をよぎる。
「あたしにとってのママは、夢か幻のイメージなのよ。せめてもう少しママが生きていてくれて、少しでもあたしの直接的な記憶に残ってくれてたらよかったなあって思うことも、たびたびあるの。あたしは結構、記憶力はあるみたいで、自慢じゃないけれど、昔のことならアドルよりずっとよく覚えているのよ。だから、たとえパパよりもおぼろでいいから、せめて『ママ』って呼んだ記憶だけでも、欲しいなあって思うのよ」
「そうね。わたしは母の慈しみを知っている分、あなたよりは恵まれているのね。父親の方は生まれた時から、決して存在しなかったけど」
 メアリの言葉は少し苦々しげに、少しだけ吐き捨てるように響いた。エヴェリーナは、少なくとも自分には愛情深い父がいたこと、その記憶が少しあることに感謝したいような思いを感じた。でもそれは口に出さず、あえて明るい声を出した。
「そうね。みんなそれぞれよ。でもあたしたちって、みんなどっちかの親の記憶が欠けてるのね。あなたもあたしも、アドルもアールお従兄ちゃんもオーロラお従姉ちゃんも、それからヴィエナもお父さんには別の家庭があって、ほとんど会わなかったって言ってたし。両方とも全然ないっていうのも、そう珍しくはないから、それに比べれば恵まれてはいるけれどね。ほかは少なくとも、マリアやエリサ、ミルドレッドもテディも両方覚えてるはずだけど。ドロシーもそうだっし。あ、それから三世代の子たちは、みんなそうよ」
「三世代は揃ってる子が多いわね」メアリも微笑して頷いた。
「二世代では、ただ子孫を得るために結びつくなんてことは、していないようだし」
「きっと、昔よりよくなってきてるのよ。だんだん。嬉しいわ。時が進むに連れて良くなっていくのって、希望があるわよ。ねえ、そうじゃない」
 エヴェリーナは両手を合わせて、熱心な口調で声を上げた。
 ここはリビングに窓があるつくりなので、その大きな窓から差し込んでくる初秋の日光が、部屋を明るく照らし、半分開けたガラス戸から入る清清しい風が、エヴェリーナとメアリ、三人の幼子たちの髪を撫でていく。今は昼間の二時間だけは、窓を開けることができるようになっていたのだ。
「ほら、見て。空が青いわよ! きれいねえ」
 エヴェリーナは窓の外を見上げ、感嘆をこめて叫んだ。
「ええ。今くらいの時期の空が一番青いらしいけれど、本当にそうね」
 メアリも窓の側まで出てきて、空を見上げている。
「エレンとナンシーがね、こんなに空が青いのは、昔の世界のようだって。いえ、その頃でさえ、あまりなかったって言ってたわ」
 エヴェリーナは夢見るような口調になった。
 彼女は『世界は今、昇ろうとしている』という、父の記録に書いてあった最後の言葉を思い出していた。あれから十五年。今、世界は完全な朝を迎えたのだと。
(あたしたちは、冬の盛りに生まれたのかもしれない。でも今やっと、春になろうとしているんだわ。実際の季節は、これから秋から冬になって行くのでも)
 エヴェリーナは外の空気を大きく吸い込み、満ち足りた気持ちでそう考えていた。




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