Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 2  AGE Blue (青の時代) (5)




 ランディスが眠ってしまうと、エヴェリーナはキッチンに行き、家から持ってきたパンを一つと、ここの冷蔵庫にあったコーヒー風味の豆乳をコップについで持ってくると、再び子供たちの傍らの椅子に腰を下ろし、二人の寝顔を見守りながら、簡単な夕食を済ませた。時計を見ると、八時半だった。
 エヴェリーナは一度弟の様子を見に居室へ帰った。アドルファスの元には時々エディスが見舞いに来ているようだったが、やはり完全に放ってはおけない。それに、妻子の看病で手一杯なエフライムに負担もかけたくなかったので、弟の枕元にスープとパン、そしてスポーツドリンク(数年前からスフィア内の工房で粉末を再現できるようになっていた)を持っていってやると、『大丈夫ね』と確かめてから、再び従兄の家に戻った。そして従兄の書斎から本を持ってきて、子供部屋に戻り、読み始めた。それでも時おり、二人に目をやるのは忘れなかった。グロリアの病状は変化していないか。ランディスが発病する兆しはないか、と。幸い、ランディスは熱もなくすやすやと眠っているようだったし、グロリアも熱は高いので、当然息遣いはかなり荒いが、よく眠っているように見えた
 十一時を回り、エヴェリーナも眠気を感じた。彼女は子供部屋のフロアソファの上にクッションを置き、それを枕にして、毛布に包まった。

 夜中、エヴェリーナは目をさました。起き上がり、時計を見ると、三時をすぎたところだった。三時間半くらいは寝たのか――エヴェリーナはもう一度眠る前に、ランディスとグロリアの様子を見た。ランディスは相変わらず、ぐっすりと眠っている。毛布を蹴飛ばしていたので、かけてやってから、グロリアを覗き込んだ。幼女も、よく眠っているようだった。そう呼吸は荒くない――熱が下がったのかと、エヴェリーナは額に手を当てた。相変わらず、熱いようだ。でも、手は妙に冷たい。それに熱は高いようなのに、顔は紅潮していず、むしろ青白くさえあった。
「大丈夫かしらね、グロリアは……」
 エヴェリーナはそう呟き、小さな少女の、汗で額に張りついた前髪をそっと戻した。その時、不意にグロリアが目を開けた。
「あら、目が覚めちゃった? ごめんね」
 エヴェリーナは言ったが、グロリアは彼女に目を向けることはなく、天井を見ていた。
「ママァ!」突然グロリアがそう叫んだ。
「ママ、どこ!?」
「ママは今病院よ。前にも言ったと思うけれど、赤ちゃんが……」
 そう答えようとして、エヴェリーナは息をのんだ。グロリアの目は天井を見たままで、完全に焦点があっていない。
「ママ、パパァ!」
 小さな少女は不意に微笑んだ。そして腕を振り回すような仕草をした。
 これは――エヴェリーナは激しい戦慄を感じた。そう、父の記録で読んだことがある。アイスキャッスルで、アールとオーロラの下の姉が、インフルエンザ脳症で亡くなった時、これと同じ幻覚のような症状を起こしていたという――。
「グロリア、しっかりして。ここはおうちよ。パパとママは病院。あたしがわかる?」
 エヴェリーナは小さな両手をつかんで、顔を近づけ、呼びかけた。でも子供は、彼女に顔を向けることもしなかった。相変わらず焦点の合わない目で宙を見つめ、そして言う。
「ママ、絵本読んで……」
 次の瞬間、幼女は目を閉じ、かくっと全身の力が抜けたようにベッドに倒れた。その手足が動いた。激しい勢いで。ひきつけを起こしたようだ。全身が痙攣し、目が反転する。エヴェリーナは驚いたが、すぐに自分に言い聞かせた。落ち着け。ひきつけなら、みどりの家で何度か見たことがあるではないか。熱が高い時には、子供によっては良くあることだ。衣服を緩めて、温かくして――。
 ひきつけは、立て続けに起こった。そして発作が終わると、グロリアはぐったりして、再び深い眠りに入ったようだった。エヴェリーナはそっと起こそうとしてみた。しかしグロリアはかたく目を閉じたまま、目を覚まそうとしなかった。
 これは間違いないかもしれない。同じ症状だ――半ば恐慌に襲われながら、エヴェリーナは立ち上がった。もしそうなら、このまま朝までおいておくのは、危険かもしれない。もちろん、なんでもないかもしれない。でも、症状が似すぎている。父の記録に書いてあったものと。医療部に行って、診察してもらおう――。
 エヴェリーナは立ち上がり、上着を羽織ると、居住区を出て、病院へと急いだ。夜間診療部へと。でも、そこには誰もいなかった。当直の医療班診療部メンバー二人は、病棟へ行っているらしかった。第一世代が減ってくるにつれ、医療班のメンバーもだんだん減っていき、第二世代はまだ勉強中の今は、ちょうど医師の数が底をついた状態のため、夜は診療を頼みに行っても、誰もいないことが珍しくなかったのだ。
「ああ、どうしよう……」
 エヴェリーナはおろおろと呟き、しばらく広い医療班夜間診療部の部屋を歩き回った。待っている間に、誰かが戻ってくるかもしれない。けれどあんまり待っていて、大丈夫だろうか。もし誰も来てくれなかったら――。
 その時、ドアが開いた。当直の誰かが、来てくれたのだろうか――期待して目を向けたエヴェリーナは、次の瞬間、思わず落胆の叫びをもらした。
「なんだ、あなただったの!」
 入ってきたのは、誰あろうフェリックス・ラズウェルだ。
「何だ、はごあいさつだな。誰もいないの?」彼は苦笑して相手を見た。
「ええ」
 彼女はそっけなく頷いた。去年の暮れから三ヵ月近く、意識しないでおこうと努めてはいたけれど、なぜか彼と会うと、最初は赤面してしまう自分を腹立たしく思っていた。フェリックスも、前より感じ悪くはなくなったけれど――。
「そうか。僕はまあ、妹の薬を取りにきただけだから、製薬マシンがあれば大丈夫なんだ。君は誰かが病気で来たのかい?」
「そうなの。グロリアが、アールお兄ちゃんの二番目の子供が、病気なの。でもお従兄ちゃんも、メアリも――その子のお母さんよ。二人とも病院に行ってて、いないのよ。流産しそうだから、絶対安静なの。グロリアは、なんだか様子がおかしいの。ひきつけるし、呼んでも返事しないし、熱も高いし。もしかしたら、悪い病気かもしれないわ。あたしたちのお父さんが、記録に書いていた、アールお兄ちゃんたちのお姉ちゃんがアイスキャッスルで、インフルエンザ脳症で亡くなった時と、同じ感じなの、症状が。幻覚と、引きつけと。でももしそうなら、どうしたら良いのかしら……ともかく、お医者さんをと思ってきたんだけれど、誰もいなくて……ああ、本当にどうしたらいいかしら」
「落ち着きなよ。君がかっかしても、しょうがないんだから」
 フェリックスは静かな口調で言い、相手の手を取った。
「そんなこと言うと、また君は冷たいとかなんとか言うかもしれないけれど、こういう時こそ、冷静になることが必要なんじゃないかな。何をしたら一番いいか。そうだな……」
 彼はしばらく考えこむように黙った後、再び口を開いた。
「僕と同じグループに、医療部の研修生がいるんだ。僕らの隣のコンパートメントに住んでいる。彼は僕より二つ年上で、僕らは友人なんだ。まだ正式なメンバーじゃなくて、見習いだけど、頼めば来てくれると思う」
「夜中なのに、悪くないかしら」
「医者は夜中だって休みはないって言うのは、そいつだってわかっているからね。行こう」
「一緒に行ってくれるの?」
「君はそいつと知り合いじゃないだろう? 僕が行かないと」
「ああ、そうしてくれると、ありがたいけれど……」
 エヴェリーナは両手を組合せ、懇願するように相手を見上げた。
「でもあなたもやっぱり、妹さんの具合が悪くて来たんでしょう? こんな夜中に来るくらいだから、あまり良くないんじゃないの?」
「妹は大丈夫さ。もう十五なんだしね。明日からの薬が切れたんで、来たんだけれど、別に今でなくとも良かったんだ。たまたま調べ物をしていて遅くまで起きてしまって、目が冴えたから、ついでに薬だけ取ってこようと思って、来ただけさ。昼間に処方箋を書いて貰ったんだけれど、取り忘れたんだ。ちょっと待ってて……今、処方箋を入れて、もらってくるから……」
 フェリックスは手に持った処方箋を製薬マシンのスロットに入れた。これは二年ほど前にアドルファスが開発したマシンで、挿入された処方箋を自動的に読み取り、そこに書かれた種類と量の薬を袋に入れて出すものだ。フェリックスは薬の袋を受け取ると、エヴェリーナに向き直った。
「OK、じゃあ、行こう」

 フェリックスの友人、医療部のインターンであるヴィクター・モリスの部屋は、たしかにラズウェル家の隣で、母親と姉一家で暮らしているようだった。こんな夜中に玄関のチャイムを何度も鳴らして住人たちを起こすのには、エヴェリーナは抵抗を覚えた。が、フェリックスは目配せしている。
「大丈夫。君たちは、特にアールさんは『王族』なんだから。第一世代の人たちにとっては。だからモリスのおばさんも、きっと怒らないよ」
 案の定、迷惑そうな眠そうな顔をして、「こんな夜中に何、フェリックス? うちには小さい子もいるのよ」と、寝間着にガウンをひっかけた姿で現れた、ヴィクターの母親モリス夫人だが、「本当にすみません、こんな夜中に。でも、ヴィクターに往診をお願いできないかなと思って。今医療班に誰もいないんです。アール・ローゼンスタイナーさんのお子さんが、もしかしたら重大な病気かもしれなくて、彼女が……エヴェリーナ・ローリングスさんが看病していたんですが、彼女が危険を感じて、僕に相談してきたんです。僕らは仕事場の同僚で……」と、フェリックスがすまなそうに言うと、途端に表情を変え、「あらぁ!」声を上げていた。
「それは大変だわ。ヴィクター、起きなさい! アールさんのお子を、助けてあげて!」
 モリス夫人は踵を返し、息子の部屋に入っていった。
「ほらね」と、フェリックスはエヴェリーナに再び目配せをする。自分たち四人は、第一世代の人たちにとっては『特権階級』なのだ。特にアールとオーロラは。その出自ゆえに。普段はあまり意識しないその事実を、エヴェリーナはこの時改めて認識した。

 当のヴィクター・モリスは医師の卵としての使命感と、フェリックスへの友情もあったのだろう。快く来てくれた。彼はまず病院へ行って、これも科学班で開発した簡易診断機を持ってきた。そしてグロリアを長いこと診察したあと、エヴェリーナを振り返った。
「ものすごく意識レベルが低下しているようなんだけれど……うん、もしかしたら、君の恐れは当たっているかもしれない。だとしたら、まずいよ。早く病院へ連れて行って、当直の先生を緊急コールで呼んで、処置しないと」
 エヴェリーナはこの言葉に、身体中の血が引くような気がした。騒ぎで、目がさめてしまったのだろう。ランディスがベッドから起きだし、自分にすがりついてきた。彼女はほぼ反射的に子供を抱きしめると、呆然とベッドに眠るグロリアを見た。
「僕が連れて行こう」
 フェリックスが言った。彼はモリスを呼んだ後、自宅へ帰って薬を届け、再び様子を見にここに来てくれていたのだ。彼は毛布を広げ、グロリアをくるんで抱き上げた。
「ヴィクター、こんな夜中に来てくれて、ありがとう。あとは僕らでやるから、君は帰っても大丈夫だよ。少しでも寝てくれ。小母さんにも、よろしく言っておいて。あとでお詫びに伺うから。エヴェリーナ、君はおにいちゃんの方を連れて、後から来てくれ。メアリさんにはそんな事情だから、もう少し知らせるのを控えたほうがいいと思うけれど、アールさんにだけは伝えないとね。病院に行ったら、探してみるよ」
「お願い、フェリックス……」
 エヴェリーナはそれだけしか言葉がなかった。モリス青年に頭を下げ、ランディスの手を引いて病院へ向かう。悪い夢のようだった。ランディスも空気を察したのか、何も言わない。夜中に起こされて眠いだろうに、真剣なまなざしで黙々と歩いている。
「お願い、神様……今度だけでいいから、助けてください」
 エヴェリーナは子供の手をぎゅっと握り締め、足早に歩きながら、涙を流した。

 グロリアは病院に移され、当直の医師が探し出されて、やってきた。しかし医師にも有効な手は打てないようだった。アールがメアリの病室を抜け出し、四時半過ぎに、グロリアの元にやってきた。でもグロリアは父がやってきたのも、わからないようだった。相変わらず深く眠り続け、そしてその日の夕方、手当ての甲斐なく息を引き取った。わずか二年七ヵ月の、短い生涯だった。
 娘が息を引き取ったあと、アールは長い間わが子を見つめ、その身体をなでていた。そして椅子にくず折れると、頭を抱え、悲痛な調子で絞り出すように声を上げた。
「信じられない。一昨日まで、元気だったのに……」
「ごめんなさい、お従兄ちゃん。あたしが……あたしがついていながら……」
 エヴェリーナは泣きながら、そう繰り返すしか出来なかった。
「いや、エヴィー、君のせいじゃないよ。むしろ君がいてくれたから、グロリアは最後まで楽しく過ごせたんだ。ほら、笑ってる……」
 たしかにその顔には、楽しそうな笑みが浮かんでいた。それがかえって新たな涙を誘い、エヴェリーナの視界は、再びぼやけた。
「この症例は、急に来ますからね。誰がついていても、手の施しようはないんです」
 医師は慰めるような口調で、首を振っていた。
「ぼく……神様なんて、嫌いだ」ランディスが泣きながら、そう呟いた。
 エヴェリーナも、その言葉に思わず同調しそうになった。あんなに願ったのに、と。
 アールは息子を引き寄せ、抱きしめた。
「ランディ……ダメだよ。神様も運命も、恨んじゃダメだ。恨んだって、グロリアは帰ってこない。でもね、きっとグロリアは今天国で、生まれるはずだった赤ちゃんと一緒に遊んでいるよ……ああ、生まれる前に消えた命は、行き先が違うのかもしれないけれど」
「赤ちゃんも駄目だったの?」エヴェリーナは思わず聞き返した。
「ああ……」アールは頷き、再び息子をぎゅっと抱いている。
 しばらくは、誰も無言だった。アールの肩は震えていた。たぶん泣きたいのだろう、思いっきり。エヴェリーナはそう悟った。自分は好きなだけ涙を流せる。ランディも泣きじゃくっている。でも、アールは小さな息子の手前、泣き崩れるわけにはいかないのだろう。
 エヴェリーナは、メアリのことを思った。三人目の赤ちゃんを生まれる前に失い、そして二歳の娘もまた失ったことを知らされる悲しみは、どれほどのものだろう。最後に見た時には、ニコニコして元気に手を振っていた小さな娘が、二度と会うことのないまま、天国へ行ってしまったと知った時の思いは。その悲しみを思うと、エヴェリーナはいたたまれない思いがした。従兄はその妻の悲嘆を思うと、よけいに自分の悲しみに浸っていられなくなるだろう。なんという理不尽――なぜ、こんな運命なのだろう。神様や運命を恨むなとアールは言ったが、それなら、誰を恨めばいいのだろう。この憤りや悲しみは、ただ自らの胸を食い荒らすままに放っておくしかないのだろうか――。

 それから二日後、エヴェリーナは仕事に戻った。みどりの家では、その日から授業が再開されていたのだ。一昨夜の悲劇からずっと、エヴェリーナは良く眠れず、頭が重く、気分も沈んでいた。だが、仕事を休むわけにはいかない。生徒たちが待っているのだから。エヴェリーナにとっても、仕事はありがたかった。子供たちの相手をしている間は、従兄の一家を見舞った悲劇を、頭の隅に追いやることが出来る。エヴァの代わりに個人授業の担当になった子も、よくなついてくれていたし、総勢二十人の生徒たちも、『エヴィー先生』と呼んで、歓迎してくれる。しかし一日の勤めを終わった時、エヴェリーナは再びアールとメアリのことを考えずにはいられなかった。
「大丈夫か? あまり顔色がよくないぞ」
 家に帰る途中の道で、フェリックス・ラズウェルに肩を叩かれ、声をかけられた。エヴェリーナは振り返って相手を認めると、弱々しく微笑してみせた。彼も今日出勤していたのだが、お互いに忙しくて、今まで言葉を交わす機会がなかったのである。
「ええ。ありがとう。あなたこそ、一昨日は徹夜になってしまったし、ごめんなさいね」
「大丈夫さ。気にするなよ。あれから家に帰って寝たさ。仕事もなかったしね」
「そうね。みどりの家は、リハビリもお休みだったものね。妹さんのぐあいは、どう?」
「ああ、キャリーね。大丈夫さ。気にしてくれて、ありがとう。今日はいくぶん熱も下がったし、じき治るよ。それにしても、あの子は、かわいそうなことをしたね。あとでモリスの小母さんにも聞かれたんだけれど、亡くなったって言ったら、小母さんも、かわいそうに、まだ小さいのにって涙ぐんでいた」
「そうなの……それは、ありがたいけれど。ええ。本当に、残念だったわ。グロリアは無邪気で可愛い子だったわ。本当に可愛い盛りだったし。だから、凄いショックなの。あたし、見ていたのに……」
「君でなくても誰でも、あれは防ぎようがなかったんだから、責めるのはよしなって、散々言われただろう。もうそれは考えるなよ」
「ええ……そう言えば、エヴァやドロシーの時もそう言われたけれど……でも、仕方がないってわかっていても、悲しいわ」エヴェリーナは弱々しく笑った。
「グロリアだけでなくて、みんなもかわいそう。ランディも妹をなくして、とてもしょげているし、メアリのことを思うと……赤ん坊は結局流産してしまって、グロリアはあんなことになってしまって、本当に耐えられるかしら。それにアールお兄ちゃんも悲しいのに、メアリのためにいつまでも悲しがっていられないのね。それもかわいそう。あたしね……思い出しちゃったわ。パパの記録に書いてあったこと。最初の子供がアイスキャッスルで死んだ時、パパはとても悲しかったけど、奥さんのために感情に溺れるわけにはいかなかったって。アールお兄ちゃんも、『僕がしっかりしなきゃ!』なんてすごく悲壮な顔で言ってた。ねえ、男の人って、大っぴらには悲しんでは、いけないのかしら」
「そうだねえ。偏見かもしれないけれど、やっぱり男がわんわん泣いてヒステリー起こすってのは、あまり格好はよくないだろうと思う。もし夫婦でそんな状態になっちゃってたら、いったい誰が慰めるんだい? 奥さんがしっかりして、旦那を励ますなんていうことになると、やっぱり僕は、少し情けないなと思ってしまうね」
「そうなのかしらね……」エヴェリーナは首を傾げ、しばらく考え込んだ後、相手に向き直り、今までになく率直にこう言えた。
「でも、ともかく……ありがとう、フェリックス。あの時、朝までずっといてくれて。本当に、あたしも心強かったわ」
「それは……ありがとう」
 フェリックスは少しどもりながらそっと手をのばして、ぎこちない様子でエヴェリーナの手をつかんできた。
「なんだか今までは、君に話しかけると、『何よ』なんてつっけんどんに返されたけれど、今日は違ったね。笑ってくれたし。僕も少しは、君に嫌われてないようになったのかな」
「嫌ってたわけじゃ……なかったのよ」
 エヴェリーナは少しどぎまぎして、手を振り放そうとした。
「なんだか変に、気に障ってたの。あたし一人でかっかしちゃったみたいで。あなたこそ、あたしのことを嫌っていると……思ってたわ」
 エヴェリーナはなぜこんなに胸がドキドキするのだろうと、半ば当惑し、半ば腹立たしく思いながらも、自分の気持ちの中に生じた変化を認めないわけにはいかなかった。一昨夜、医療センターでフェリックスが『一緒に行く』と言ってくれた時の、言いようのない安堵の気持ちは、はっきりと覚えている。それはいつか夢の中で、雪と氷の世界で倒れた自分を助け起こしてくれた時に感じた、安堵感に似ていた。
 フェリックスは彼女が振り放そうとした手を、ぎゅっと掴んだ。
「嫌ってた? とんでもない。僕は君が好きだよ、エヴィー。ずっと好きだった」
 それは愛の告白をするには、不似合いな場所と時間だった。彼らはシルバースフィアのセンター通路を、それぞれの家に向かって歩いている時であり、まわりには、かなりの人が行き交っていて、ざわざわしている。エヴェリーナは二日前の悲劇のために、まだ心が沈んでいる時でもある。しかしそれにもかかわらず、彼女はその言葉を聞いた時、耳まで真っ赤になった。
「ちょっと……待って、フェリックス」
 エヴェリーナは、やっと言葉を絞り出した。
「あたしの心の中で、かわいそうなグロリアと赤ちゃんのお弔いがすんで、メアリとアールお兄ちゃんがこの痛手から立ち直れたら、その時に改めて、考えてみるわ。今はなんだか、浮つくのは罪みたいな気がするのよ……」
「そうだね。こんな時期だから」
 フェリックスは照れたように笑った。
「君らしいよ。僕としても、タイミングが悪かったみたいだ。ああ、本当に昔アールさんから言われたように、やっぱり僕は不器用なところがあるんだな……」
「お従兄ちゃんが、そんなこと言ったの? いつ? 会ったことあるの?」
「そう、去年の暮れに、ちょっと君のことで、彼に相談したことがあるからね」
「なんか……変なこと言ってなかった? お従兄ちゃん」
「いいや。ただわかろうと努力すれば、理解できるよって言われたんだ。僕と君は少し性格が似ていて、お互いに一本気で正直で、多少不器用だから、ぶつかり合うところもあるんだろうって。それと、僕が照れ屋で、好意を表に出すことを恥ずかしがっているのもよくないって。でも、君も僕のことは嫌っていないはずだから、頑張れって励まされたよ。僕らはお似合いだって」
「お従兄ちゃんってば、しっかり日記のとおりにしようっていう気かしら……」
 エヴェリーナは苦笑しながら、思わずそう呟いた。
「えっ?」
「いいえ、なんでもないの!」
 彼女は再び赤くなりながら、あわてて首を振った。
「でも、どうして……あなたがお従兄ちゃんに、あたしのことを相談したの? それほど親しいお友達というわけでは、なかったんでしょう?」
「うん。アールさんは中央委員会の中枢だし、二世代リーダーで、あのアーディス・レインさんのお子さんでもあるからね。僕なんかが、そう易々とお近づきになれる人ではなかったよ。でも君が彼のことを好きなのかなって、どうしても気になってね。つい、思い切って聞いてしまったんだ」
「ええ?」
 エヴェリーナはぽかんと目を見張り、やがて相手の言っている意味がわかると、思わず吹き出した。「何を言ってるのよ! ええ、ええ、もちろんお従兄ちゃんのことは大好きだわ。あたしのお兄ちゃんだもの。そうよ、あたりまえじゃない。そりゃ、本当の兄妹じゃなくて、従兄だけど、でも、あたしたちにとっては、本当の兄妹と一緒なのよ。自分の兄弟に恋愛感情なんて、持てると思って?」
「彼も、そんなことを言っていたよ」フェリックスは照れ笑いを浮かべた。
「僕は、変な誤解をしてすみませんって、謝ったんだ。でもやっぱり、多少気になってね。アールさんはあの通りの美青年だし、アドルだって可愛い美形タイプだ。君の一番身近な男性たちがあれだけ素敵だと、君の男性に関する審美眼も、相当厳しいだろうなって思えてね。僕は間違っても、容貌に自信があるとは言えないから」
「ええ、あたしも素敵な男性って好きよ。たしかに憧れていたわ。だからあたしも無意識のうちに、自分の理想をお従兄ちゃんの上に見ていたのかもしれない。でもお従兄ちゃんも結婚してしまったし、今は三角関係の真っ只中よ。おまけにアドルまであたしを見捨てて、エディスと恋に落ちちゃったのよ。あたしの兄弟がみんなあたしから離れて、誰か他の人のところへ行っちゃうの。なんだか淋しいわ。もうあたしたち、子供には戻れないのね。人は恋に落ちて、結婚して、ファミリーは離れていってしまうのよ。悲しいことね」
「でも、それがなければ、発展していかないんじゃないかい? 子供はやがて家族から離れて、新しい自分の家族を持つ。これは、当たり前のことだよ」
「ええ、それはわかっているの……」
「エヴィー、エヴェリーナ。僕は君の省略しないその名前が好きだよ。きれいな名前だと思う」フェリックスは赤くなりながら、再び彼女の手を握りしめた。
「君だって、やがて変化の時が来るんだよ。君の服喪期間が開けたら、僕はもう一度さっきと同じ事を、もう少しちゃんと言うつもりだ。でもその頃には、君はまた僕のことを『何よ、あっち行って!』なんて、あしらうかもしれないけどね」
「そんなことは……ないと思うわ」
 エヴェリーナはもう一度真っ赤になりながら、首を振った。フェリックス・ラズウェルは、いやな奴ではなかった。ただ、意識過剰になっていただけだ。素直になれば、お互いの気持ちが見えてくる。そして、二人の前に開けた幸福な未来も。フェリックスがそうであるように、エヴェリーナ自身も心の中では、いつのまにか彼を好いていたに違いない。そのことをこれほどまでにあっさりと認めてしまったことに、彼女は我ながら驚いた。『いつかわかる時が来る』と、アドルファスが言っていたことは、まちがっていなかった。確かにフェリックスは、彼女の理想像とは、かなりかけ離れているけれど。『乙女の理想は、現実によって修正されるものだよ』と、アールも言っていたではないか。
「あたしはただ、恋に恋していただけかもしれない。現実は、物語のようにロマンチックじゃないのね」
 エヴェリーナはその夜、ベッドへ入りながら、思わずそんな呟きを漏らした。彼女のロマンスの花は、いつも夢見ていたような大輪の華やかなものではなかったかも知れない。しかし小さな目立たぬ花にも、可憐な美しさがある。白馬に乗った美しい王子の幻は散り失せてしまったが、しかしこの新しい現実も決して不愉快ではないことを、心の中では認めている。
(そう……あたしの手紙になんて書いてあっても、自然に任せよう。あの人と本当に結婚するかどうかも、あたしの心の中でいずれ『わかる』時が来ると思うわ……」
 彼女はそう思いながら、眠りに落ちた。


( 6 )

 それから一年半の歳月を経て、十八才になったエヴェリーナ・ローリングスは、エヴェリーナ・ラズウェルとなった。アドルファスも同時にエディス・バーネットと結婚したので、今の居室にオーロラ一家と住むには少し狭いし、将来的に家族が増えると、なおさらだ。そこで彼らは二夫婦そろって一階上の、アールが住んでいた部屋の隣、五ベッドルームの居室に引っ越した。二組の新婚夫婦が同じ家に住むことになるが、戸数に制限のあるシルバースフィアでは、それは普通のことだった。
「やっぱり、その通りになったね」
 従兄姉たちとアドルファスは結婚式の時、悪戯っぽく彼女に声をかけ、
「運命には逆らえないわ」
 エヴェリーナは負けずに悪戯っぽく笑って言葉を返したものだ。
「でもよかったわ。アドルに先超されなくて。新婚夫婦のお邪魔虫にもなりたくないし。あたしにもちゃんとお相手ができて」
「おい、おい、まるで誰でも良いみたいな言い草だなあ」
 フェリックスが彼女の髪を軽く引っ張って笑い、
「そうよお、誰でもよかったの」
 エヴェリーナはにっこり笑った。その笑顔は、その言葉が嘘であることを物語っていた。

 各グループ間の結婚は、人数の少ない方へ移動するという原則があり、元々の人数の少ない第一グループでは、所属メンバーの誰もが、結婚しても自分のグループを離れずに住んでいたため、構成人数はだんだんと増えていった。
 グロリアの悲しい死以降、このグループに死者は出ていない。四四才のナンシー・ミルトンと、四十才のエレン・スターリングの第一世代は、二人ともまだ健在だった。十七才のマリア・ミルトンは目が不自由ながら、ほとんど自立していたし、セオドア・スターリングは十才のやんちゃな男の子に成長している。エレンの姪である十五才のミルカ・ジョンストンも聴覚障害を乗り越え、手話と筆談をマスターして、現在は文化保存班に行くための勉強をしていた。十六才のエリサ・カートライトはエヴェリーナと同じく教育班の『みどりの家』担当の見習い先生であったし、十三才の妹ミルドレッドは車椅子を操って日常のことはほとんど自分一人でやり、中級課程を勉強していた。ローリー・ハーディングは農業班に進んだ。スタッフ組の遺児たち八人も、一番年長のエレノア・シェーファーは十八才で結婚して家庭を持ち、その弟の十四才のトーマスは片腕がないという障害があったが、プログラマーになるべく日夜片手でキーを叩きながら勉強している。エヴェリーナと同い年のバーナディット・ホッブスは軽い知的障害があるものの、『みどりの家』の養育班で仕事をしていたし、十七才のローズ・シュナイダーは看護班の見習い、その弟で十四才のアーネスト・シュナイダー、十五歳のロレイン・ファーガスン、十三才のミリセント・スウィートとマリー・ホワースはいずれも健常児で、それぞれ順調に中級課程の勉強をこなしていた。
 アドルファスとエディス夫妻は結婚してからも、ほとんど研究室に入りっぱなしで、滅多に部屋にいることがない。そのため同じ居室に住むエヴェリーナとフェリックスのラズウェル夫妻に、『なんだか新婚の蜜月からは、程遠いわね』『でも二人とも共通の目標を持っているんだしね。彼らが幸福なら、それでいいじゃないか』と、半分あきれながら言われていた。元の家に残ることになったオーロラは夫エフライムと、三歳半の娘アティーナ、二歳の息子ライラスと、幸福に暮らしていた。彼女の快活な精神は結婚後、二児の母となっても失われず、その存在はアール一家とエヴェリーナ、アドルファスとの潤滑油ともなっていた。




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