Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 2  AGE Blue (青の時代) (4)




 エヴェリーナはその夜、食堂の椅子に一人座りながら考えていた。夕食は二時間前にオーロラ一家と済ませた。今はオーロラも小さな子供を二人抱えていて、しかもあまり体調が良くないので、エフライムが調理班からパンを買ってきていたが。
 三年ほど前から、シルバースフィアにも通貨が用いられるようになっていた。商店の倉庫や街中の銀行に眠っていたお金を利用して、労働の対価、生活、育児手当てと品物の値段を決め、通貨を管理する『銀行班』も出来ている。
 今日の夕食はそのパンと、昨日の夕方、エヴェリーナが作ったスープだ。オーロラの一家は三十分ほど前に、部屋に引き取っていった。エヴェリーナは帰りの遅いアドルファスのために夕飯を用意しようと、待っていたのだ。
 エヴェリーナはテーブルに手を組んだまま、思いをめぐらせていた。今日は本当にショッキングな一日だった。でも、フェリックスの言ったことも、正しいのかもしれない。表面的には確かに冷静すぎ、冷たいようにも思えるが、と。それにあの人に一階の受付に行け、とアドバイスしてもらったのに、お礼も言わなかった――。
「わかってはいるんだけど、でもあの人が言うと、なぜか癪に触っちゃうのよね。あたし、どうしていつもあの人に突っ掛かっちゃうのかしら。やっぱり相性よくないのね」
 エヴェリーナはほっとため息をついて、小さな声で呟いた。
「誰と相性が悪いの、エヴィー?」
 ふいにそう聞かれて、エヴェリーナは飛び上がった。アドルファスが彼女の後ろに立っている。
「ああ、びっくりした! いつ帰ってきたの、アドル?!」
「今だよ。部屋に荷物おいて、ここに来たんだ」
「気がつかなかったわ」エヴェリーナは振り返った。
「じゃ、スープ温めるわ。ちょっと待ってて」
 遅い夕食を食べ終わると、アドルファスは聞いてきた。
「それでさっき、相性が悪いって言っていたのは、何のこと?」と。
「あのね……」エヴェリーナは改めて、父の日記の記述から見付けた小さな一言から発展した話の一部始終を、弟に打ち明けた。
「本当? じゃあ、エヴィーはその人と結婚するんだ?」
「冗談はやめてよ。あたしはしないわよ!」
「その人を好きじゃないの?」
「そうよ。好きじゃないわ。なんで好きでもない人と結婚しなきゃいけないのよ。いいえ、アドル。反論しないでね。あなたお得意の科学知識を持ち出して、未来は変更不可能だから、あたしの運命は決定づられてるなんて、言わないでちょうだい。せっかくアールお兄ちゃんが、逃れる余地を残してくれたんだから」
「反論はしないよ。その一言だけなら、未来状況の柔軟性は、あると思うもん。ただその背景を考えると……」
「ほら、反論はしないって言ったじゃない!」
 エヴェリーナは頭を振って抗議し、そのまま沈黙している。
「怒ったの? エヴィー」
「ううん……怒ってやしないわよ。考えてたの。ねえ、アドル。あなたはエディスと好き合ってるのよね。それはいつからなの?」
「話をはぐらかさないでよ、エヴィー」
 アドルファスは少し赤くなって抗議していた。
「はぐらかしては、いないわよ。ただ、聞きたいだけよ。お互い恋愛問題を話しているんだから、いいじゃない」
「そう……でも、ぼくも、よくわかんないんだ。昔から、エディスは好きだったよ。でも、そういう意味で考えたことはなかったんだ。あの時突然、ぱっと……わかるまでは」
「そう。突然ぱっと……友達から恋人に変っちゃうわけね。不思議ね」
 エヴェリーナは再び考えこみ、やがて決然として首を振った。
「でも、あたしは違うわ」
「そう躍起にならなくても、いいんじゃないの? そんなに気にしすぎるようじゃ、やっぱり気があるって感じになっちゃうよ。自然に考えればいいじゃない。そのうちそれが恋なのか、それとも友情なのか、憎しみなのか、何でもないのか、わかる時って来ると思うんだ。それまで焦んないで、待ってたらいいんじゃない?」
 エヴェリーナは、それは弟に似合わない洞察だと思った。でも、その通りだ。彼は自分の知っている子供のアドルファスよりも、少し精神的に大きくなったようだ。愛――女の子との愛を知ったせいなのだろうか。エヴェリーナはふたたび取り残されたような淋しさと、憧れの入り交じったような気持ちを感じた。

 エヴェリーナは雪の原に立っていた。今日、シルバースフィアの出入口から見た外の景色だろうか? いいえ、違う。そこは見渡す限り純白の世界で、視界を遮るものなど何もない。一面の雪と氷。遠くに見える、唯一のオブジェクト。あれは何だろう。丸い銀色の少しいびつな、頂点の高いドームのように見える。そこへ行き着かなければならなかった。
 エヴェリーナは吹き付ける風に逆らって、進んでいった。しかし進んでも進んでも、いっこうに足が前に出ない。遠くに見える銀色のオブジェクトの大きさも、ずっと変わらない。疲労感と凍えの感覚が襲ってきた。
「あたしは死ぬのかしら、ここで」
 エヴェリーナは立ち止まり、絶望にかられながら暗い空を見上げた。不思議な美しい虹の光が、踊っている。その荘厳な美しさに打たれ、寒さも忘れて見上げていた。
 虹の光は、やがて彼女のそばに舞いおりてきた。氷のような美しさを持ち、白いドレスを来た女性の姿で。
「雪の女王だわ」
 エヴェリーナは半ば畏怖に打たれ、半ば恐怖に襲われて呟いた。相手は冷たい手をのばして、触れようとする。エヴェリーナは悲鳴を上げて飛び退いた。雪の女王に触れられたら、凍りつて、死んでしまうことがわかっていたからだ。逃げなければ。どこへ? あの銀色のドームの中へ。あの女性に捕まらないうちに。でも、行き着けるかしら――。
「救けて! アドル! オーロラお姉ちゃん! アールお兄ちゃん!」
 夢中で叫んでいた。だが、三人ともあの建物の中にいるのだ。そこへ行かないかぎり、彼らの助けは呼べない。
 エヴェリーナは雪と氷の荒野を逃げた。恐ろしい雪の女王の手から逃れるために。しかし、振りきれなかった。ついに彼女は疲労のあまり、雪の中へ倒れこんだ。思わず、絶望の呟きが漏れる。
「もう、ダメ……」
 その時、誰かがそばに近寄り、つと手を差し伸べた。
「ほら、元気を出して」
 エヴェリーナは九死に一生を得た思いでその手に捕まり、起き上がる。心の中は、助かったのだと言う深い安堵感でいっぱいになっていた。彼女は立ち上がってお礼の言葉を言うために相手を見ると、驚きのあまり思わず叫んだ。
「あら、フェリックス。こんな所で」
 フェリックスは彼女の顔を見つめて微笑し、いつもに似合わない優しい口調で言った。
「君を助けにきたよ、エヴェリーナ……」

 そこで目が覚めた。エヴェリーナはベッドの上でため息をもらし、胸に手を当てた。
(あそこはもしかしたら、アイスキャッスルなのかしら……淋しいところね)
 真っ暗な部屋の天井を見つめながら、彼女は思っていた。
(でも、なぜあそこにフェリックスが出てくるの? あそこでもし素敵な王子さまがあたしを救けてくれるのなら……そうね、よくそんな物語があったものね。それなら、とても素敵だったのに。相手がフェリックスじゃ、ちっともロマンチックじゃないわ)
 エヴェリーナは寝返りを打って、もう一度眠ろうとした。夢の中で彼が救けに来てくれた時に感じた言いようもない安堵感を、出来るだけ心の隅に押しやろうとしながら。しかしなぜか胸がドキドキして目がさえてしまい、なかなか寝付けなかった。


( 4 )

 クリスマスがやって来た。それは夏からの懸案どおりに、失われた世界のお祭りの彩りを、この灰色の世界に初めて持ち込もうとする試みだった。アイスキャッスルでの最初の冬からクリスマスは祝われてきたが、その暗黒時代から今に至るまでの二三年間、クリスマスは簡単な祈りと音楽、少しばかりのチョコレートやキャンディなどのお菓子と、肉の缶詰などで、ささやかに祝われてきた。クリスマスツリーも七面鳥も、プラムプディングもケーキもなかった。しかしこの年の十二月になってやっと完成した動物たんぱく製造技術のおかげで、ご馳走の再現が可能になり、第一世代の女性たち百人が、前々日から台所にこもって、懐かしい世界の木霊の再現に取り組んでいたのだ。
 クリスマスツリーの方は、難問だった。オタワの街には、いまだに一本の木も生えていなかったからである。公園や街路、庭の木々はすべて立ち枯れたまま朽ち果ててしまい、そこからまだひとつの新芽さえ吹き出していない。街の中に辛うじてある緑と言えば、今は約百ヘクタールの広さになった、コミュニティの農場だけだったが、そこに栽培されている植物は食用のものばかりなので、木の植樹はまだ始められていない。それは、二年後から実行される予定であった。
 しかしこの難問は、シルバースフィアから数キロメートル離れたショッピング・モールで、街を探索させていた運搬モデルのロボットが、人工の樅の木を見付けてきたことから(多分昔のクリスマスに、本物の代用として使われたものであろう)とりあえずは解決された。大人の背丈ほどのそれに、第一世代の大人たち数人の指導の元、子供たちがカラフルな豆電球、色とりどりのボール、玩具屋から持ってきたろう細工のりんごやサンタの人形、銀紙で作った星、ふわふわした綿などで飾りを付けた。電球に電気が通され、赤や緑、青、黄色の小さな光が飾り付けられた木の中で一面に煌めいた時、大人も子供も歓声を上げた。そのクリスマスツリーはシルバースフィアの中央広場に、イヴの朝からクリスマスの夜まで、電気を通したまま飾られた。それは、第二世代以降の若者や子供たちには楽しさと夢を、第一世代の人々には失われたものへの憧憬と、昔の幸福な夢に対する甘美な痛みを与えた。
 クリスマスのご馳走もそうだった。再現されたローストチキンとクリスマスケーキ、ミンスパイとプラムプディングは、それぞれのグループに対して四〜五個ずつ配布され、クリスマスツリー同様のものを与えたようだ。夢と憧れ、希望と痛みを。
 第一グループは人数が少ないので、すべて二個ずつであったが、全員が集まった集会室で、それらのご馳走が誇らしげにテーブルの上に並べられ、「わあ!」とか「すごい!」、「きれい!」などという子供たちの歓声の中、全員に切り分けられて回された。
 料理は飾りつけも何もないシンプルなもので、ケーキはスポンジの上に薄い砂糖衣をかけただけであり、ミンスパイのレーズンや乾しくだもののフィリングは厚さわずか五ミリちょっとという貧弱なものだった。プディングの中のレーズンやプラムは、一人にひとつ、多くて二つずつ当たるのがやっとというくらい、まばらにしか入っていなかった。そして、なんといっても奇妙なものはローストチキンで、それはささ身の固まりを薄い皮の部分で包んだ、まんまるい形をしている。しかし味はほぼ昔どおりだと(少なくとも二十数年の記憶のギャップが許すかぎりは)、第一世代の人たちは口を揃えて賞賛していた。
「ああ、懐かしいわ、本当に!」
 今や第一グループに最初からいる第一世代で二人だけの生き残りとなったエレン・スターリングとナンシー・ミルトンはプディングを一さじ口に入れ、ゆっくりと味わうようにしたあとで、ため息と共に声を出した。
「こんなおいしいの、初めて食べた!」
 第二世代の青少年たちは一斉に歓喜の声を上げる。
「ありがとうね、アドル。わたしたちが死ぬまでにもう一度クリスマスのご馳走を食べられるなんて、夢にも思わなかったわ。楽しい夢が叶って、本当にうれしいわ」
 ナンシーは感謝するようなまなざしを向けた。、
「ううん。ぼくだけじゃないよ。エディスや科学班の人たちや、それに調理してくれた人たち、みんなの力だよ。それに、これって素材だけだとたいしておいしいとは思わなかったけど、そこからこんなにおいしいものができるんだね。なんだか不思議だよ」
 アドルファスは少し照れたように、首を傾げた。
「そうね。そういえばケーキもプディングも、同じ小麦粉と卵とミルクと砂糖から作るんでしょ? それでも出来上がりは、まるで違ったものになるのが不思議ね」
 エヴェリーナは両方食べ比べて見ながら、つられて首を傾げている。
「プディングには小麦粉は入らないわよ、エヴィー。卵とミルクと砂糖だけなの。それに調理法も違うの。ケーキはオーブンで焼くし、プディングは鍋で煮るの。蒸す方法もあるけれどね」ナンシーがそう説明している。
「それって不思議なことね、やっぱり。同じような素材でも、調理法によってまったく違ったものになるっていうのが。わたしたちの食事っていつも、農場からとれた豆や野菜を煮て軽く塩で味を付けたものや、スープだけでしょう。それにパンと。他のお料理があるなんて知らなかったわ」
 メアリは二人の子供ランディスとグロリアに、クリスマスメニューを食べさせてやりながら、感嘆したような口調で言う。
「あとは豆乳とかお菓子とかよね。パンケーキやクッキーは調理班が作って売っているけれど。パンもパンケーキもクッキーも小麦粉から作るから、パイやケーキって、それの親戚みたいなものなのかしら」
 オーロラがアティーナにプディングを食べさせてやりながら、同調した。その傍らで、先月生まれたばかりの息子ライラスを抱いたエフライム・シンクレア(彼は第一グループ三人目の第一世代だ)が、やはり懐かしそうにケーキやプディングを味わっている。
「本当にこういうご馳走を食べたのは、思い出せないくらい昔だな。生きてまた味わえることになるとは、思わなかったよ。そう、ケーキやパイは、小麦粉が原料で、オーブンで焼くということでは共通しているよ。間のプロセスや入れるものが違うんだけれどね」
「どう違うの?」
「そうだなぁ。教えてあげられればいいんだけれど、当時野球と音楽とコンピュータに明け暮れていた十四歳の少年に、料理の知識はあまりないんだよ。そういうのは、ナンシーさんやエレンさんのほうが詳しいだろうね」
「わたしも料理の知識は、お寒いものよ」ナンシーは肩をすくめた。
「パンなんて、ここへ来て初めて焼いたのですもの。でも、フリーズドライしたイーストがまだ生きていて、よかったわ。アドルたちの科学班でクローニングして増やして――最近ですものね、イースト入りのふっくらしたパンが食べられるようになったのは。それまでは、まるで過ぎ超し祭りみたいな、種の入らないパンよ」
「そうね」エレンが思い出して、苦笑している。
「過ぎ越し祭りって、いったい何?」第二世代の子たちが、一斉に問いかけた。
「ああ、また死語を言ってしまったわね。過ぎ越し祭りって言うのは、宗教のお祭りなのよ。聖書の出エジプト記って言う……ああ、まあいいわ。そういう儀式よ。あぶった羊の肉と、種の入らないパンを食べるの」ナンシーは軽く肩をすくめる。
「どうして種の入らないパンなの。何か意味があるの?」
 子供たちは不思議そうに、首を傾げていた。
「宗教上の意味はあるのよ。でもここでは、関係ないわね、あまり。まあ、とにかくパンはイーストを発酵させて、小麦粉から焼く。それが正解よ」
 ナンシーは苦笑を浮かべながら、過ぎ越祭りの説明は省いたようだ。
「そういえば、調理の仕方は基本的に五種類あるって、昔ママから聞いたことがあるわ。煮る、蒸す、焼く、ゆでる、それからなんだったかしら」
 エリサ・カートライトが話を本筋に戻そうするかのように、頭を傾げて言い、
「揚げる、じゃなかった?」
 妹のミルドレッドが車椅子の中から見上げて、最後のものを付け足した。
「そうよ。ああ、そうなんだわ。わたしたちは今まで、できるだけ第二世代以降の子供たちに、わたしたちの知っていることを教え、残そうとしていたけれど、まだひとつ残っていた大きなことがあったわ。料理技術よ。素材が揃わなかったから、今まではできないと思っていたけれど……」ナンシーははっと気づいたように、手を打った。
「そうね! でも今じゃ、一応食物合成もできたんだし、再現は可能になったんだから、わたしたち第一世代の知識が消え果てないうちに、若い人たちに残さなければね。でも、わたしはあまり料理を覚えなかったから、知っているものは少ないのよ。タフィーと、レイヤーケーキとビスケットと、シチューくらいだわ。あなたは、ナンシー?」
 エレンが目を輝かせて頷きながら、問いかけている。
「あなたはあの時、十五才だったものね。でもそれで、それだけできれば良いわよ。わたしもそんなに変らないわ。あなたより四歳も年上なのにね。家のことなんてあまりやらなかったつけが、こんな所で出ちゃったわね。わたしが出来るものはあなたのそのレパートリーに、あとクッキーとカップケーキ、それにオムレツが加わるくらいね。プレーンはなかなかうまくできなかったけど、わたし、スパニッシュ・オムレツはわりと得意だったのよ。あとはサンドイッチね」
「サンドイッチは、料理のうちに入るかしら」エレンは笑っていた。
「でも、まだ幸いコミュニティには千人近い第一世代の女の人が残っているから、みなのレパートリーを集めれば、結構幅広くなるんじゃないかしら」
「男の人にも、一応聞いてみてもいいんじゃないかしら。中には料理が得意な人だって、いるかもしれないわよ」
「その辺は、僕が聞いてみよう」と、エフライムが申し出ている。
「料理のレパートリー集めか。それは必要だよね、絶対」
 アールは感嘆したように声を上げ、両手を打ち合わせた。
「本当。これでお料理のバリエーションがついたら、素敵だわ」
 ヴィエナが赤ん坊のティアラを抱いたまま、あいている手を彼にかけた。メアリはそれをチラッと見たが、表情には何も出さず、二人の子供たちに目を注いでいる。
 エレンとナンシーは顔を見合わせ、一瞬後、笑顔で頷いた。
「ええ、じゃあクレイグさんに相談してみて。もし実行するとなったら、わたしたちは喜んで協力するわよ」
「でも本当に、昔はいろんな料理があったのねえ。そういえばお父さんの日記にもクリスマスのことが書いてあったけど……あたしにも今やっと、はっきりしたイメージが湧いたわ。昔の世界というのも、少しね」
 エヴェリーナは食べる手を止めて、憧れるような調子で呟いた。
「あたし、一回昔に生きてみたいな……」
「ぼくもそう思う。ある意味じゃ、大人たちはずるいなあ、なんて思っちゃうな。ぼくたちが知らないことをたくさん知ってて、食べたことのないものをたくさん食べたことがあって、見たことのないものを、たくさん見てきているんだから」
 アドルファスが首を傾げて、ちょっと笑いながら言う。
「そうね。わたしたちは、とても恵まれていたのよ。つくづくそう思うわ。昔は、なんて幸せな暮らしをしてきたのだろうって。あの時は当たり前に思えていたことが、こんなに貴重で得難いものだったなんて……それを知っていたら、もっともっと大事に過ごせばよかったわ。今となっては遅いけれど」
 エレンは失われたものを懐かしむような表情を浮かべた。
「そうね。わたしもまったく同感よ。でも食物のことといえば、わたしたちは細かいことを思い出すほどの余裕がなかったのよね、今まで。というより、口には出さず、思わないようにすらつとめてきたのかもしれないわ。でも今は、やっとそこまでのゆとりがでてきたのね。ああ、そういえば、このクリスマスのご馳走を再現するきっかけになったのは、ジェーンの最後の幻想……願いだったのよね。彼女がまだ生きていて、この場にいたら、どんなに喜んだでしょうね」ナンシーは静かな口調で、そっと首を振る。
「わたしたち、少し母さんのお墓に供えてくるわ」エリサとミルドレッドは、初めて食べるおいしいご馳走を残すという雄々しい努力をして、そう宣言し、
「そうしたら、小母さんきっと喜ぶわ。じゃあ、その分、あたしのを少し食べて」
 エヴェリーナは寛大さを発揮して、二人にケーキを半分割って渡した。エリサとミルドレッドは、エヴェリーナとアドルファスにとっても、母方のまた従姉妹であるのだから。

 クリスマス・イヴの夜は静かに、なごやかに暮れていった。二十数年ぶりに再現されたご馳走は、どのグループでも満足と驚きをもってきれいにたいらげられ、いつもより陽気なクリスマス・イヴの宴が、カラフルな電球で彩られた小さなツリーとともに過ぎていった。翌日は午前中いっぱい、中央広場でコミュニティ全員参加の集会と祈祷会が開かれ、幾多のイベントと供に、シルバースフィア二三年目のクリスマスが終わった。
 年が切り替わっての最初の会議で、知っているかぎりのレシピを保存しておくという試みが中央会議でさっそく承認され、コミュニティの第一世代全員に、知っている料理のレシピを全部書き出すようにとの回覧が回った。一週間後に回収されたこれらのレシピは二千種類以上にもなり、図書館に残っていた料理の本からのものも含めて、新年から文化保存班内の独立セクションとして、コンピュータにインプットされることになったのである。


( 5 )

 その年が明けてしばらくは、平穏な日々が流れていったが、二月の半ばのある朝、朝食の片づけをしている時、メアリが下腹部の痛みを訴えた。彼女は第三子を妊娠中で、今三ヶ月だった。アールが妻を病院に連れて行ったところ、非常に差し迫った流産の危機とわかった。しばらくは絶対安静。アールは彼女の精神的な安定を図るため、病室に一緒にいることになった。
 ところがその冬は、インフルエンザが流行していた。ほとんどは命を脅かすほどのものではなかったが、きちんと養生をしないと、危険にもなりうる。ヴィエナは二、三日前からこの風邪にかかり、他の家族にうつさないようにと、赤ん坊のティアラを連れて、母親の元へ帰って養生中だった。アドルファスも前日から寝込んでいて、オーロラの一家は彼女と娘のアティーナがかかってしまった。それでエフライムは仕事を休み、家事と赤ん坊のライラスの世話、妻と娘の看病をこなしていた。そこへ持ってきての、メアリの切迫流産である。彼女の子供たち、ランディスとグロリアの面倒を入院中誰が見るか、というところで、エヴェリーナは従兄に申し出たのだった。自分は元気だから、子供たちの面倒を見てあげる、と。
「だからお従兄ちゃんは、メアリについていてあげて」
「いいのかい、エヴィー」アールはすまなそうな表情で問い返した。
「ええ。『みどりの家』も結構カゼひいている子が多くて、しばらくお勉強がお休みになったの。だから、大丈夫よ。家のことはエフライムさんがやってくれているし、君は手伝いに行ったら、と言ってくれたしね」と、彼女は請合ったのだった。

 従兄一家は、一階上、八階の角部屋、四ベッドルームの家にまだ住んでいた。もう一人か二人子供が増えたら、最上階の六ベッドルームの家に移る予定ではあったが、今のところはまだ余裕があるからだ。主寝室はアールとメアリが使い、ランディスとグロリアの子供部屋がそのとなり。主寝室を挟んで反対側の部屋は広めの個室になっていて、そこにヴィエナとティアラがいる。この部屋もダブルベッドなのが、妙に生々しい感じだ。今アールが書斎として使っている部屋は、ティアラが大きくなった時には、子供部屋になるのだろうか。ただ、今この家にいるのは、二人の子供たちだけだ。主寝室も、いわゆる副主寝室も、書斎にも、誰もいない。
 メアリが入院したその日は、ランディスもグロリアも元気だった。二人ともリビングに出てきて、よく遊び、よく食べ、お昼寝はリビングのソファで、そして夜は八時前に子供部屋に戻り、よく眠っていたようだった。エヴェリーナはその日は十時ごろ、子供たちの様子を確かめてから、自分の家に戻った。そしてオーロラ一家とアドルファスのために野菜スープを作ってから眠った。
 だが次の日の朝、再びアールの家に戻ってみると、ランディはもう起きていたが、グロリアはまだ眠っていた。ランディスが朝食を食べ終わるころ、やっと起きたが、だるそうで、食欲もない。熱を測ったら、三九度近くあった。
「あらあら、グロリアもかかっちゃったのね」
 エヴェリーナは幼女にイオン水を飲ませ、ベッドに寝かせた。傍らのスツールに自分は腰かけ、そのそばに持ってきた子供用椅子にランディスを座らせると、静かに手遊びをしたり、DVDを見せたり、絵本を読んでやったりして、その日を過ごした。グロリアは熱こそ高かったが、機嫌は悪くなかった。
 夕方、よく煮たオートミールを二人に食べさせたあと、エヴェリーナは絵本を読んでやった。グロリアお気にいりの、『シンデレラ』の童話だった。何度もその話を読まされているエヴェリーナは、すっかりそらで記憶しているほどだが、何度聴いてもグロリアは飽きないらしく、この時もその大きな灰色の目をきらきらさせながら、聞いていた。
「気分はどう? グロリア。どこか苦しいとか、痛い所とかは、ない?」
 エヴェリーナは絵本を読み終わると、小さな少女の、くるっときれいにカールしたダークブロンドの巻き毛を撫でてやりながら、優しい口調でそう聞いた。
「ううん……」グロリアはかぶりを振った。
「そう。よかったわ」
「ママは、まだ?」
「まだね。もうちょっと待ってね。あのね、前にも言ったと思うけれど、ママのおなかには、あなたたちの弟か妹がいるんだけれど、今ママが病院でじっとしていないと、死んでしまうかもしれないのよ。だから、大丈夫だとわかるまで、帰って来れないの。それまで待っていてね。大丈夫になったら、ママは帰ってくるから」
「うん……」グロリアはその瞳に寂しげな色をにじませながらも、頷いた。
 心細いのだろう。まだ二歳半なのだし、自分も病気なのだから、よけいに。エヴェリーナはもう一度幼女の髪をなで、額の汗を拭って、冷やしたタオルを取り替えてやった。
『まだ、お熱が高いわね。熱さましも、あまり効かないようだし……』
 声には出さずにそう呟きながら、エヴェリーナは毛布をかけなおし、軽く胸元をなでてやった。小さな手が伸びてきて、彼女の手をしっかりと握った。エヴェリーナも安心させるように握り返すと、グロリアはほっとしたように、にこっと笑い、まもなく眠ってしまったようだった。
 小さな手の力が緩むと、エヴェリーナは自分の手をひっこめて、もう一度そっと撫でてやった後、傍らのランディスを振り返った。もうじき四歳になるこの子は、妹の具合が心配らしく、屈みこんでじっと見ている。
「大丈夫よ、ランディ」エヴェリーナは元気づけるように、子供の肩に手をかけた。
「ホントに?」
 ランディスは青みがかった灰色の目に不安の色を湛えて、見返してきた。
「大丈夫よ。お薬も飲んだし、何日か寝ていれば、きっとお熱も下がって、元気になるわ」
「でも、つまんないなぁ、みんな病気で」
「そのうちに、みんな元気になるわよ。その時にあなたが病気になったりしないように、あなたももう寝た方がいいわよ、ランディ」
「うん」ランディスはおとなしく椅子から滑り降り、パジャマに着替えると、妹の隣のベッドにもぐりこんだ。
「何かお話してあげましょうか、ランディ」
「ううん。いいや」
「そう。じゃあ、おやすみなさい」
「うん……ねえ、エヴィーおねえちゃん。まだここにいてくれる?」
「ええ、いるわよ。今日はここに泊まることにするわ」
「よかったぁ。ねえ、ぼくが寝てしまうまで、そばにいてね」
「いるわよ。今日はここで、あなたたちと一緒に寝るわ。グロリアも心配だし」
「よかったぁ」ランディはほっとしたような笑みを浮かべた。
「……ねえ、おねえちゃん。ママのおなかの赤ちゃんって、大丈夫なのかなぁ」
「うーん、わからないけれど……大丈夫なように、お願いしましょ」
「神様に?」
「うん、そうね。神様に」
「シルバースフィアの神様って、だれ? お祖父ちゃん?」
「あー、それはちょっと意味が違うかも」エヴェリーナは苦笑した。
「あなたたちのお祖父さんは、確かにシルバースフィアの神さま的な見られ方をしているのでしょうけれど、お願いされても、困っちゃうに違いないわ。見守ってはくれているのかもしれないけれど。もっと他の、何か目に見えない大きなものよ。神様って。あたしにも、よくわからないけど」
「そう。じゃあ、その目に見えない神様に、お願い。グロリアが元気になりますように。ママが元気になりますように。赤ちゃんが、無事生まれますように。ヴィエナおばさんが元気になりますように……」
「あなたは優しい子ね、ランディ」
 エヴェリーナは子供の頭をなでた。この子にとっては、ヴィエナとティアラも、家族なのだろう。それは、『もし赤ちゃんが無事に生まれたら、弟と妹、どっちがいい?』と聞いた時、『ぼく、弟が欲しいな。だって妹は、もう二人いるもん』と答えたことからしても、明らかだ。ランディスには、ティアラもグロリアと同じ、妹なのだ。たとえ半分しか血はつながっていなくとも同じ父の子であるのだから、当然といえば当然なのだろうが。
 不思議な家族だ――やはり、そう思わずにはいられなかった。ランディスやグロリアは、自分たちを三人兄妹だと思っているようだ。今メアリのおなかにいる赤ちゃんが助かったなら、四番目の子供になると。そして父と、実の母親と、異母妹の母親たる『ヴィエナおばさん』――この子たちは、今はその事実を当たり前のこととして受け入れている。でも大きくなっても、同じ気持ちなのだろうか。そして今は赤ん坊のティアラが大きくなった時、彼女はどう思うのだろうか。『メアリおばさん』とその子供たちと、自分の母のことを。
 半分だけの兄弟、それは自分たちにもいるのだった。エヴェリーナとアドルファスには、父が母と結婚する前に死別した前妻との間に、クリスチャンという兄がいた。でもその子は、自分の異母妹弟については何も知らないまま、アイスキャッスルで死んだ。エヴェリーナやアドルファスは、父の記録でその子のことをかなり知ることはできたが、それでもやはり“兄”は影のような存在で、ふだんはめったに意識することはない。自分たちが生まれる七年も前に亡くなってしまっているのだから。でも兄であることは理解しているし、受け入れている。でも、もしそれが死別や離婚でパートナーが替わったものではなく、同時に起こった異母兄弟だとしたら、果たして自分はこの子たちのように、あっさりとそれを認められるのだろうか――?
「ねえ、ランディ。ヴィエナ小母さんのこと、好き?」
 エヴェリーナはそうきいてみずにはいられなかった。
「うん」少年はほとんどなんのためらいも見せず、頷いた。
「グロリアもヴィエナ小母さんのこと、好きだと思う?」
「うん。そうだと思うよ」
「そう……」
 それも、不思議な気がする。母親を苦しめているかもしれない人なのに。でも子供たちは、母親たちの愛憎の綾など、そんなことまでは知らないのだろう。好かれていることから察すれば、ヴィエナはメアリの子供たちに対して、不親切なことはしていないに違いない。しかし彼らが大きくなった時にも、果たして気持ちは変わらないだろうか――?
 アールとオーロラの母アデレードが、自分たちの母親エステルに語っていた話――父の記録に残っていたそのくだりを、エヴェリーナはふと思い出した。
『母が好きだったから、その母と結婚していながら付き合っていた父と継母が許せなかった』と。そういう感情は、ランディスやグロリアには無縁だろうか。彼らが大きくなった時でも――。




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