Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 2  AGE Blue (青の時代) (3)



( 3 )

 翌日は、実習日だった。エヴェリーナはまだ研修段階なので、週に四回、十時から十六時半までを、『みどりの家』で過ごすことになっている。正式メンバーになると、それが週五回に増え、勤務時間も九時から十七時までになるのだった。
『みどりの家』は、元はシルバーホームだったところを改造されて作られ、約五十人の子供たちがいた。入り口は、同じ障害児たちの施設である『愛の家』と共同だ。『みどりの家』が、両親ともに死亡か、母親が死んで父親不明の障害児たちの預かり施設である一方で、『愛の家』は親がいるものの、何らかの事情で養育できない子たち――多くは非婚の母子家庭で、母親が死んでしまい、なおかつ障害のある子供たちを預かる施設だ。父親は生存しているが、家庭があり、庶子の面倒は見られないというのが一番多いが、エレン・スターリングの兄の子、ミルカ・ジョンストンのように、夫に死に別れた妻が再婚する時、前夫との子を連れていかないケースや、その逆もある。
 両方の『家』の入り口を兼ねるエントランスには、広々とした総合受付があり、両側に大きなリハビリ室と、浴室、洗濯室、リネン室がある。左側が『みどり』で、右側が『愛』の管轄だ。二階部以降も同じようで、真ん中に大きなパーティションが置かれ、それぞれの家に分かれているが、二階には広い食堂と、職員の控室、プレイルームがある。三階部には、小さめのリハビリ室と、パーティションで区切られたいくつもの教室があり、四階と五階は子供たちの部屋――四人部屋がそれぞれの階に十六ずつあり、ここは『みどり』と『愛』の共用部分だ。六階以降は、普通のアパートメントになっている。ここも他の建物と同じく、四階からは地上に出ていて、窓から日も入るが、三階以下は、窓はあるものの、そこから一・五メートルほど先にコンクリートの壁があるだけだ。その吹き抜け部の天窓から入る光で、外はある程度明るいが。自力移動ができない子たちもかなりいるので、上下の移動はエレベータが不可欠だったが、もとはシルバーホームだけあって、一階から五階専用のエレベータが二基あった。
 通路を挟んだ向かい側の建物には、身寄りのない健常児の施設『光の家』と、事情があって養育できない健常児たちを預かる『めぐみの家』がある。ここは、一、二階は他の作業班の事務所で、三階に職員控え室とプレイルームがあり、四階から七階までは、アパートメント部を利用した、子供たちが住む施設になっていた。四ベッドルームの家に八人の子供たちが住み、職員三、四人が交代制で、彼らの世話をする。そういうユニットが、『光』と『めぐみ』を合わせて、全部で十六あった。学齢期の子供たちはここから学校に通い、プレスクールの子たちは、同じようにそこから通っている。それより上の階は、通常の住居だった。
 シルバースフィア内にある建物は、北側の入り口――第一世代の人々がアイスキャッスルから移動してきた時に、最初にたどり着いたそこから数えて、南側の入り口に向かい、左一、右一、略してL1、R1というふうに数えられていた。左は九まで、右は十まである。エヴェリーナたちが住む居室のあるビルはL5で、『みどりの家』『愛の家』の建物はL3。学校はL4のビル内にある。“光の家”と“めぐみの家”のある建物はR4、病院がR5だ。L4とL5の間に、幅二五メートルほどの空間があり、右側の五と六の建物の間にも、同じような空間がある。真ん中に時計台と、そしてバンド関係の展示物が置いてあるそこは、中央広場と呼ばれる場所だ。その先は両側に商店と共同トイレ、倉庫があり、地上部のビルの間には、透明なアクリル壁が天井部分までそびえている。

 中央広場と建物を一つ挟むが、エヴェリーナのいるアパートメントからみどりの家までは、百二十メートルほどの、短い行程だった。正面のドアを開け、彼女の担当である三階部に階段を使って上がると、教室にたどり着くまでに、小リハビリルームを通る。その一角で、数人の子供たちに指の機能訓練している、フェリックス・ラズウェルの姿が目に入ってきた。長身でひょろりと長い手足、くるくると渦を巻いたとび色の髪を肩の辺りまで伸ばし、首の後ろで一つに束ねている。顔の造作バランスや輪郭はそれほど悪くないが、エヴェリーナの審美眼からすると、ちょっと鼻が大きすぎ、目は間が少し離れすぎ、口は大きすぎるというところか。でも、あの明るい若草色のセーターは結構似合っているかもしれない――。
 フェリックスはエヴェリーナを見ると、にやっと笑った。
「やあ、感心だね、ひよっこさん。ちゃんと階段を使って、上がってきた。君の生徒たちがお待ちかねだよ」
 エヴェリーナは一瞬、心臓が跳ね上がり、頬が紅潮するのを意識した。が、次の瞬間、そんな反応をした自分自身に、猛烈に腹が立ってきた。
(ばかばかしい。昨夜アールお兄ちゃんに、『意識しないで会う』って言ったばかりじゃないの。なんであたしが、あんな奴に赤くならなきゃいけないの。フェリックスなんて、ちっともハンサムじゃないし、おまけに人のことをひよっこよばわりして、いけすかないったらありゃしないわ。だいたい、階段使えって言ったのは、そっちじゃないの。たしかにあたしも、考えが足りなかったけど)
 みどりの家に来た初日、エヴェリーナはエレベータを使って上がってしまい、フェリックスに言われたのだった。『おやおや、君は丈夫な足を持っているだろう? ここにはどうしてもエレベータを使わなければならない子たちが、大勢いるのに』と。その時、彼女はフェリックスに対して、『いけ好かない人』という評価を下してしまったのかもしれない。たしかに彼の言うことは、正しいのだが。それに従兄にはひよっこと呼ばれても気にはならないけれど、他の男の子からでは、癇に触る。
「おはようございます。ラズウェルさん」
 エヴェリーナは半ば顔を横に向けながら、他人行儀に挨拶をすると、身体を斜めにして脇を通り抜け、さっさと担当生徒たちが待つ教室へ向かった。

 エヴェリーナがここでしていることは、『みどりの家』に暮らす子供たちに、勉強を教えることだった。障害があるゆえに、彼らは『光』や『めぐみ』の子供たちのように、普通に学校へ行くことができない。それゆえ、とりあえず勉強ができる状態にある子供たちのために、教育班から施設に赴いて、勉強を教えていたのだ。
 視覚障害がある子に点字を教えたり、聴覚障害のある子に手話や読唇術を教えたりするのは、教育班でも専門の『点字班』『手話班』の担当で、そのカリキュラムは別にある。手足の不自由な子供たちに対して、少しでも機能を補って動けるように訓練するのは、フェリックスが担当しているように、医療班の一部署である『リハビリ班』の仕事だ。
 エヴェリーナは読み書きや計算などの、初等教育担当だった。十時から十二時までは、七歳から八歳、上は九歳くらいの、手足は不自由だが知能は正常である十二人の子供たちに読み書きと計算を教え、二時半から四時半までは、知的障害のある八人の子供たちに、同じように教える。こちらは午前中と違い、その進歩はカタツムリの歩みのようにのろく、何回反復させても覚えられない子供たちも多かったが、エヴェリーナは専門課程を勉強している時、よく先生に教えられていた。それは忍耐を必要とする仕事です。でも、焦る必要はないのですよ。一人一人の進度を見極め、繰り返し繰り返し、わかるまで教えてあげなさい。子供によっては、最後まで同じことを教える場合もあるでしょう。でも、それでもいいのです。ここはかつての競争社会ではないのですから、と。その言葉をいつも忘れないように、とエヴェリーナは心に銘じていた。
 十二時から一時間は昼休みで、子供たちは食堂に集められ、調理班から派遣されてきている人々が作る昼食を取り、養育班の人たちもそこで一緒に食事する。他の班から派遣されてきた人々は職員控室で、家から持ってきたランチを食べる。エヴェリーナは家からいつもパンに野菜を挟んだサンドイッチを持ってきていたが、そこでもほぼ毎日のようにフェリックスと会い、時には同じテーブルで食べることもあった。
 
 午後の一時から二時半までは、個人授業の時間だった。重い内部疾患や身体疾患があって部屋から動けないが、勉学意欲はある子供たちのために、その部屋まで赴いて勉強を教える。彼女が担当している生徒は八歳の女の子で、エヴァンジェリン・スミスという名前だ。この子はいつも、エヴァと呼ばれていた。彼女は四階の部屋に住んでいたが、生れつき重い心臓疾患があり、半年前までは何とか車いすを押してもらって移動できたが、ここ数か月は病気が進んでしまい、ほとんどベッドに寝たきりだった。その小さな鼻には酸素チューブがつけられ、トイレにも行かれないために、オムツをつけている。彼女の真っすぐな金髪に縁取られた顔は、雪のように真っ白で、小さな唇も色を失っていた。
 エヴェリーナは彼女に、読み方の勉強として、絵本を読み聞かせていた。今どこを読んでいるかを指で示しながら、何度か読んだ後、自分でも少し読ませてみる。単語につっかえると、そのたびに教えてやる。少しだけ起こしたリクライニングベッドに寝ている小さな生徒の腰の下あたりの位置にベッドテーブルを置き、本を立てて見やすいようにしながら。時おりエヴァは手を伸ばし、本を触ろうとするが、その少女の手はいつも、氷のように冷たかった。エヴァは昔死んだ小さな従妹ドロシーを思い起こさせた。

 この日、エヴァはいつもより気分が良さそうだった。エヴェリーナがベッドの側へ行くと、さっそく昨日の続きを読んでくれとせがむ。エヴァにとっては、絵本を読むのは勉強というより、楽しみなのだろう。エヴェリーナが教材にしていたのは、アンデルセン童話集で、以前シルバースフィアに住んでいた子供のものだったのだろう、全八巻の絵本シリーズだった。『おやゆび姫』『人魚姫』と読み進めてきて、今は『雪の女王』だ。絵本自体は何度もスフィアの子供たちに読まれたため、かなり擦り切れてボロボロになっていて、あちこち透明なテープで補強してあった。実際エヴェリーナもアドルファスとともに、この絵本を五歳ごろ、レオナに読んでもらった覚えがある。
 この話は少し長いので、五回に分けて読んでいて、一回ごとに三度反復し、最後にエヴァに読ませて、次へ行く。そしてこの日はちょうど最後のセクションに入るところだった。
「わたし、続きが気になって仕方がないの」
 エヴァは待ちかねたように、両手を合わせ、嬉しそうに見ていた。
 エヴェリーナはいつものようにゆっくりと、言葉をはっきり言うように気をつけ、自分の読んでいるところを指でたどりながら、その絵本を最後まで読んだ。その間、エヴァは目をキラキラさせ、どこかうっとりとしたような表情で、話に聞き入っているようだった。最後まで行くと、ほっとしたように息をついた。
「良かった。カイとゲルダが、また仲良しになれて」
「そうねえ。前の人魚姫では、あなた泣いちゃったものね、最後は」
 エヴェリーナは少し苦笑して本を置くと、少女の背中をそっとさすった。
「だって、かわいそうだもの。お姫さまが幸せになれないお話って、わたしあまり好きじゃないの」エヴァは小さな両手を胸の前で組み合わせ、そう訴える。
「そうね。あたしもハッピーエンドが好きよ」
「ハッピーエンドって?」
「みんな幸せになりました。めでたしめでたし、っていう終わり方よ」
「わたしもその方が、絶対いいわ」
 エヴァはそう声を上げ、しばらく余韻に浸るように黙った後、言葉を継いだ。
「わたし、このお話、今までの中で一番好き。ねえ、エヴィー。雪の女王って、本当にいるのかしら」
「おとぎ話はおとぎ話よ。あなたの夢は壊したくないけれど、本当にはいないと思うわ。人魚姫やおやゆび姫が、実際にはいないようにね」
 エヴェリーナは少し笑って、エヴァの頭をなでながら、そう答えた。
「雪の女王もね。いたら素敵だけれど、ちょっと怖いと思うしね。もしかしたら雪の女王って、雪そのもののイメージなんじゃないかしらね。美しくて冷たい」
「わたし、雪って見たことないの」
「そう。あなたは生まれてから一度も、外へ出たことがないのだったかしら?」
「ううん。二回だけ、出たことがあるの。去年。少しだけだけど。車椅子に乗っけてもらって。それで光とか風はわかったの。気持ちよかったわ。でも、雪はわからないの」
「冬に外へ出るなんて、あなたには、とんでもないことですものね。わかるわ。たぶん今、外に雪が降ってるでしょうけど……今降ってなくても、積もってるでしょうし。ああ、そうだわ。エヴァ、まだ時間があるから、国語のお勉強は一度やめて、理科のお勉強をしましょう。あたしが外へ行って、雪を持ってくるわ」
「本当! うれしいな」エヴァは嬉しそうに手を叩いた。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
 エヴェリーナは二階に降り、食堂に隣接した調理室へ入って、昼食後の後片付けをしていた調理班の人たちに頼んでお皿を一枚借りると、再び階段を下りて建物の外へ出た。冬の間は出入り口にシャッターが下りていて、施錠されているので、まず学校の向かい側の建物にある中央委員会の本部に行き、「個人授業で生徒に雪を観察させたいから、それを取りに外へ行きたい」と頼んだ。アールは不在だったが、他のメンバーたちもなじみの顔ばかりだったため、頼みはすぐに聞き入れられ、メンバーの一人がシャッターの鍵を持って、一緒に入り口まで行ってくれた。
 三階分の階段(もとはエスカレーターだが、今は電力節約のために止まっている)を上がり、内側のドアを開け、シャッターを開けてもらって、エヴェリーナは外へ踏み出した。
「うわ! 寒い!」
 目の前には、一面真っ白にきらきら輝く雪が降り積もっている。初めて見る真冬の風景に、エヴェリーナは少なからず驚いて、目を見開いた。シルバースフィア近隣のビルは、『生活システム維持モデル』ロボットの活躍で、今はほとんど取り壊されているため、一面に雪の原が続いていて、空はどんよりとした灰色だ。吹いている風が、何と身を切るように冷たいことか。彼女はもう一度身を震わせると、片手で雪をすくい、皿に入れてから、もう一度中に入った。一緒に来てくれた中央委員会のメンバーが、「施錠は僕がやっておくから、君は雪が溶けないうちに、『みどり』に帰りなよ」と言ってくれたので、お礼を言って階段を駆け下りた。
 みどりの家まで走ってくると、さらに階段を四階まで駆け上がり、エヴェリーナはエヴァの部屋に飛び込んで、手に持った青い皿を少女に差し出した。
「ほら、エヴァ、これが雪よ!」
 エヴェリーナはスフィアの入り口からずっと走ってきて、さらに階段を四階分一気に駆け上がってきたので息が切れ、それ以上言えなかった。
「わあ、きれい! 本当に白くて、キラキラしてるのね」
 エヴァは目を輝かせ、手を伸ばした。
「あ、そんなに思いきり触っちゃだめ!」
 エヴェリーナが声を上げるのと、エヴァの手が雪に触れるのが同時だった。少女は慌てたように、さっと手を引っ込めている。
「きゃ、冷たい! 本当冷たい!」
「心臓は大丈夫? どきどきしない?」
 エヴェリーナは少女の両手をつかんだ。その手はもともとかなり冷たいが、さらに冷たくなったような気がした。
「大丈夫。ちょっとびっくりしたけど」エヴァはかぶりを振って答える。
 少女の状態が変わりなさそうなことがわかると、エヴェリーナはほっと安どのため息をついた。「良かったわ……」
「うん。平気」エヴァは重ねて言う。
「じゃあ、気を取り直して、お勉強をしましょう、エヴァ。これが雪よ。なぜ降るかって言うと、雨と同じね。空気中にある水分が雲になって、重くなると水になって降ってくるんだけれど、空の上の温度が低くなるとね、水が凍って氷になるの。雪は小さな小さな氷の粒ね。それも……ちょっと待ってて。この雪は降りたてみたいだから、まだ形が残っているかもしれないわ」
 エヴェリーナはふと思いついて、隣のベッドの上にあった弱視用のルーペを手に取った。エヴァの同室三人のうち一人は、弱視がある六歳の女の子で、今は下の階で機能訓練を受けていたのだ。それから皿の上の雪をひとつまみ、自分の赤いセーターの上に振り掛けるようにこぼした。ルーペを通して、エヴァに覗かせる。
「わあ、きれい!」
 まだ雪の結晶の形が、なんとか残っていたものがあったのだろう。エヴァは感嘆したような声を上げた。
「きれいでしょ? あたしもあなたくらいの時に、これを初めて見たの。水の粒が空で凍る時、こんなきれいな形になるんですって。一つ一つ形も違うでしょ? 自然の芸術品だって、大人たちが言っていたけど、本当にそうよ」
「そうね。本当きれい」
 少女は熱心な表情でルーペを覗き込みながら、頷いている。
「外は今、真っ白よ。雪が町をすっぽりおおってるの。きらきら光って、本当に真っ白で、すごくきれいで、寒いのよ。あなたも見られたら、絶対イメージ湧くわ。雪の女王って、冬景色そのものなのよ」
「うん……なんだかわかるわ。あたし、想像してみてるの」
 エヴァはうっとりしたような表情で、宙を見上げている。
 エヴェリーナはそんな生徒をしばらく見守り、寒くないようにショールを肩にかけてやってから、言葉をついだ。
「じゃあ、今日の授業はこれで終わりね。絵本はここに置いておくから、一人で読めたら読むといいわ。気分が良ければね。無理はしちゃだめよ。明日また来るわ」
 エヴェリーナは雪が乗った皿を調理室に返してこようと、手を伸ばした。
 しかしエヴァは「まだ置いておいて」とせがむ。
「そのうちに溶けちゃうわよ」
「うん。でもそれまで、見ていたいの」
「触らないでよ」
「うん。冷たかったから、絶対触らない」
「じゃあ、仕方がないわ。二時半からのクラスが終わったら、また取りに来るから」
 エヴェリーナは微笑みを浮かべ、エヴァの頭をなでた。
「うん。ありがとう。うれしいな。また来てね、エヴィー」
 エヴァは本を取り上げて、そこに目を注いでいた。時おり目を皿の上に移し、視線を宙に踊らせて。その様子は楽しそうで、満足気であった。

 午後のクラスを終えたあと、お皿を調理室に返そうと、エヴェリーナは再びエヴァの部屋を訪れた。その時、少女は両手にしっかりと『雪の女王』の絵本を抱えたまま、眠っているようだった。サイドテーブルの上には青い皿がのっており、外から取ってきた雪が、すっかり溶けて水になっている。
 エヴェリーナは小さな生徒の上に屈み込み、毛布をかけてやるために絵本を取ろうとして、その手に触れた。少女の手が氷のように冷たいのは、いつものことだ。しかし、何かがおかしい。少し強ばったような感じがする。それにいつも眠っている時にはかすかに聞こえるはずの寝息が、まったく聞こえない。
「エヴァ! エヴァ! 起きてちょうだい!」
 必死に呼びかけた。揺すぶってもみた。しかし少女は依然として目を堅く閉じたまま、身動きもしない。
「大変だわ! 係の人を呼んでこなくちゃ!」
 エヴェリーナは半ば恐慌状態になって部屋を飛び出した。階段を駆け下りて三階のフロアに降り、走り出した途端、誰かにどしんとぶつかった。同時に、叱責の声が飛んできた。
「危ないじゃないか! もっと前をよく見ろ! ここは『みどりの家』なんだぞ。まわりにいる子たちは、君がぶつかったら怪我をするかもしれない子ばかりじゃないか! 先生がそんなことでどうするんだ!」
 声の主を見上げると、フェリックス・ラズウェルだ。でもその時のエヴェリーナには、彼に対するこだわりも、怒鳴られたということも、構っていられなかった。
「どいてよ。あたし急いでるの! 養育班の人を探さなきゃ! できたらエヴァの担当の人を!」
「エヴァ? あの心臓病の、君が個人授業をしてるの生徒かい? あの子がどうかしたの?」
「あなたに説明してる暇はないわ。とにかく、あたし急いでるの」
「担当が誰か、今どこにいるか、君が知らないなら、一階の受付に行きなよ。そこに養育班の人がいる」
 エヴェリーナは返事を忘れ、そのまま一階に降りて、総合受付にいたみどりの家担当者に、状況を伝えた。そこにいた担当者は、今日出勤しているエヴァの養育係の人を探してくるから、悪いけれどもう仕事が終わったのなら、病院に行って医療班の人を連れてきてくれと頼まれた。エヴェリーナは頷いて、今度は病院に走って行った。障害者の収容施設という性格上の配慮から『みどりの家』と『愛の家』は病院に近く、幅二十メートルの通路を挟んだ斜め向かいの建物だ。幸い往診担当の人もいたため、十分ほどで医師が来たが、すでに間に合わなかった。
「死亡してますね。硬直が始まっているから、一、二時間はたっているでしょう。でも苦しんだ様子もなく、寝ている状態のままなので、たぶん睡眠時に急性心不全状態になったのでしょうね」と、その第一世代の医師は告げた。
 みどりの家の総責任者オスカー・ピーターセンと、エヴァの所属している区画二四名の監督者である、クララ・ベインズという二人の第一世代の大人たちは、こういう事態には慣れているようだった。ほんの一瞬表情を変えた後、少女の埋葬手続きをし、名簿からエヴァンジェリン・スミスの名前を消した。

 生まれた時から何度も人の死を見て来たとは言え、エヴェリーナにとって、いつもそれは悲しい思いを心に突き刺す。その日の夕方、彼女は自分の部屋に帰るために、通路を歩いていた。中央広場まで来た時、後から小走りに駆けて来る足音が聞こえ、誰かに肩をぽんと叩かれた。
「よ!」
 振り返ると、フェリックス・ラズウェルだった。
「何よ」エヴェリーナはちらっと相手を見ると、そっけなく答えた。
「何よ、はごあいさつだな。まあ、そう落ち込むなよ。まるで君の持ってるそのバッグに二、三トンの荷物をぶらさげてるように見えるよ。君の気持ちはわかるけど。でも、ここではわりとよくそういうことは起こるんだ。それでも僕らは、取り乱しちゃいけないんだよ。僕らの担当は一人だけじゃないんだからね」
「なんて冷たいことを言うの、あなたは!」
 エヴェリーナは思わず声をあげた。彼の言うことはもっともだと思いながらも、内心の反発を押さえることが出来なかったのだ。
「怒るなよ、エヴィー。僕も別に、君を非難する気はないんだからさ」
 彼は半ば当惑したような顔で、頭をポリポリ掻きながら、言葉を継いだ。
「でも君は、ちょっと感情的すぎるよ。思い込みすぎるし、愛情をかけすぎるんだ。それは悪いことじゃないさ。ここの子たちはみんな、愛情に飢えてるからね。その点、君は申し分なしだ。だけどね、時には冷静さも持たなければならない。君はあの時、あわてて走っていって僕にぶつかったけど、あれがもし僕でなく、目の見えない子や、歩行練習をしている子や、受け身の取れないような子にぶつかってごらん。君は間違いなく二次災害を引き起こしていただろうよ」
「それは悪かったわね!」
 エヴェリーナは感情的にそう言い捨てると、足早に歩き去ろうとした。おお、やっぱりフェリックス・ラズウェルなんぞ、とても好きになれない。悲しみや痛みなんて屁とも思わない人なんだわ。冷たくていやな人! と、内心おおいに憤慨しながら。
「人が心配してるのに、なんだよ!」
「どこが心配してるのよ。それにあなたになんか、心配してもらいたくないわ!」
 その時、聞き慣れた声が後ろから聞こえてきた。
「こんなところで、何を喧嘩してるんだい、エヴィー?」
 二人から数歩遅れて、アールが歩いてきていた。エヴェリーナは振り返り、従兄の姿を見つけると、ぱっと表情を輝かせて駆け寄った。
「ああ、お従兄ちゃん! あのね、今日悲しいことがあったから。あたしの担当してた生徒が死んじゃったの。突然よ。授業をした時には、そんなに悪そうに見えなかったのに、二時間しかたたないうちに……」
「エヴァンジェリン・スミスのこと? そうだね、少し前に連絡が来たっけ。僕は物品管理班に行くところなんだけど、それが終わったら、みどりの家に行こうと思っていたんだ。あの子は君の生徒だったのか。じゃあ、さぞかしショックを受けただろうね」
 アールは彼女の背中を軽く叩いている。
「でも、元気を出しなよ。君はいつも誰かが死ぬと、強く悲しみを感じてしまうから。いや、それはあたりまえのことだし、いいことでもあるとは思うけれど、それを引きずっていたって、何も良いことはないからね。その子だって、君がいつまでもくよくよしてるのを見たくはないだろうし」
「そうね……」エヴェリーナはしばらくうつむいた後、顔を上げた。
「うん。『前へ進め、後を振りむくな』っていうのが、あたしたちのモットーだものね。今はちょっと気分が沈んでるし、エヴァのことを悲しみたいけど……あの子もそんなにさっさと忘れられたくないと思うし。でも、明日になったら、きっとあたし立直るわ。ありがとう!」

 フェリックス・ラズウェルはその間も、ずっと傍らに立っていた。そしてエヴェリーナが従兄の慰めを受け、肩から荷を一トンくらい下ろしたような足取りで、自分には目もくれずに歩き去ったあと、小さなため息を漏らし、呟いた。
「……言ってることは、同じだと思うんだけどな」
 そしてしばらく、家へ帰るエヴェリーナと、方向は同じだが通路を渡って反対側にある物品管理班の本部へ向かっているのだろうアールのうしろ姿をかわるがわる見比べながら、何事か考え込んでいるようだった。が、決心がついたように小走りに駆け出した。
「すみません、アールさん。アール・ローゼンスタイナーさん、ちょっと待ってください!」
「え?」呼ばれたアールは立ち止まり、怪訝そうにフェリックスを見た。
「あ、すみません。突然呼び止めちゃって。僕はフェリックス・ラズウェルって言います。エヴェリーナさんと同じ『みどりの家』で働いているものなんですが。まあ、僕は機能訓練担当なので、部署は違うんですが」
「ああ、君が……?」アールは好奇心を覚えているようだった。
「あの、率直に聞いていいですか? あなたとエヴェリーナさんは従兄妹同士だってことは知ってます。でも、本当にそれだけですか? あ、失礼なことを聞いて、本当にすみません。でも僕……気になって。彼女は非常にあなたのことを、慕っているようなんで。僕もさっき彼女を慰めようとしたのですが、ただ怒らせただけでした。でも、あなたが慰めると、絶大な効果を発揮しちゃうんですね。だから……」
「だから? それだけかって言うことは、僕らの間に、兄妹の感情以外の何かがあるって、君は疑っているということかい? いや、そんなのはないよ。そんなこと、考えるだけでも変なことなんじゃないかい?」
「ああ、すみません。やっぱり失礼でした。申し訳ありません。忘れてください」
「まあ、それはいいよ。でもどうしてそんなことを、君が気にするの?」
「それは……」
 フェリックスは口篭もっている。その顔は耳の先まで紅に染まっていた。
「わからないんです。ああ、失礼なことをきいてしまって、本当にすみませんでした」
 だが、アールには納得がいったようだった。しばらく相手の顔をじっと見たあと、ぽんと手を打った。
「ああ、わかった! 君は、エヴィーのことが好きなんだね」
 この言葉は、まるで爆弾のように若者の上に落ちかかったようだった。彼は数十センチほど飛び上がり、後ろに飛びずさった。その顔の紅の色は、ますます濃くなっている。
「ち、違います。ああ、いえ……そうかも知れません。いえ……そうです」
 そう言ってしまうと、フェリックスはかえって落ち着いたようだった。頭をあげて真っすぐ相手の目を見ながら、率直な調子で言葉を継いでいる。
「僕は彼女のことが気になって……そう、好きなんです。エヴェリーナって、すごく……なんて言うのかな、僕には特別なんです。今になって考えてみれば、僕は知り合ってすぐに、彼女のことを好きになったんだと思います。第一グループの、ジャスティン・ローリングスさんのお子さんで、科学班の天才であるアドルファス・ローリングスさんの双子のお姉さん、ということで、あなた方ほどではないですが、少し職場で注目されていたこともあって、どんな子かな、と、僕も少し気にしていたんです。最初に見た時、『かわいい』と思いました。こんなことを言ったら、彼女は怒るでしょうけれど。でもかわいいだけじゃなくて、芯が強くてまっすぐな子だと、話していくうちにわかって、ますます惹かれていったんです。ところが僕は、どうにも扱い方がわからない。彼女の前に出ると、なぜだか怒らせるようなことばかり言ってしまうんです。僕はあなたのようには、彼女の心をつかめない。それが悔しくて、もどかしくて……」
 フェリックスは手をそわそわと動かした。
「さっきのことだって、僕は彼女が心配で、慰めてやりたかったんです。ところがいざとなると、僕が言ったことは逆効果になって、彼女は気分を害してしまう。でも、あなたはすぐに彼女を慰めて、元気づけることができるんですね。どうしてですか?」
「どうしてって言われても……僕は彼女が小さい頃から、ずっと接してたから。それだけじゃないかな」アールは首を振り、目の前の実直そうな男を見た。
「たぶんね、君とエヴィーは性格が似すぎているんじゃないかな。ごめん、ちょっと率直に言ってしまえば、少し一本気なところがあって、気持ちを誤魔化せないし、きっと正直すぎるあまり、多少不器用なところもあるんじゃないかと思うんだ。それに君、少し照れ隠しなところがないかい? 好きな女の子には、わざとつっけんどんにするような」
「それは、あるかもしれませんね……」
「そこは少し改善して、できたらもう少し率直になった方がいいと思うよ。エヴィーも恋愛経験がないから、男の人の気持ちの裏とか、あまり読めないと思うからね。それができれば、きっと君の気持ちは伝わると思うよ。エヴィーもね、それだけ君に突っかかるのは、彼女の中に君へのこだわりがある証拠だよ。それだけ意識してるってわけさ」
「そうなんでしょうか……」
「そうだよ。きっと君たちはうまくいくと思うよ。頑張れ!」
 アールは相手の背をぽんと叩き、フェリックスは少し頬を染めたまま頷いた。
「どうも、ありがとうございます」




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