Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 1  AGE White (白の時代) (9)




 オーロラが結婚した時、メアリは二人目の子供を身ごもっていた。やがて四人家族となるアールの一家は、妹の結婚と同時に、今までの住み慣れたコンパートメントを離れ、一階上の新しい住居に引っ越していった。残った三人はそのことに寂しさを覚えたが、オーロラは新しく来たエフライムとともに、兄夫婦から主寝室を引き継いで、新たなファミリーを作ろうとしていた。そしてエヴェリーナとアドルファスは、シンクレア夫妻の未来の子供たちに部屋を提供するため、元の書斎と客用寝室だったところに、別れて移った。アドルファスは元書斎に、エヴェリーナは元客用寝室へと。
 アドルファスは朝研究所に出かけてから、たいてい夜八時か九時ごろまで、時にはもっと遅くまで帰らないのが常だったので、エヴェリーナは自分の勉強が終わってからの時間を、リビングスペースへ出て、従姉夫妻と過ごしていた。最初は大人ということで、少しエフライムに気後れを感じていたが、彼が気さくな性格であったことから、一か月がたつ頃には、エヴェリーナも新しい家族に慣れ、楽しんでいた。時にはアールのところにも遊びに行き、夕方を過ごした。そうして月日は穏やかに流れていき、その間にアールとメアリ夫妻に第二子のグロリアが生まれ、オーロラも夫との子を身ごもったのだった。

 エヴェリーナとアドルファスは、この九月で十四才になった。アドルファスは得られるかぎりすべての知識を吸収してしまい、とうに実践段階に入っていた。彼は今や、エディス・バーネットと供に、科学研究班の中枢になっていて、すでにロボットやコンピュータの改良版、リサイクル研究など、いくつかのプロジェクトで成功をおさめている。
 エヴェリーナの方は中級教育を終えたところで、希望にしたがって、どこの班に所属するか、今年中に進路を決めなくてはならなかった。彼女は文化保存班か、教育班かどちらかに行きたいと思っていた。自分自身の能力が双子の弟アドルファスに比べて、ぱっとしないのが彼女のひそかな悩みの種ではあったが、しかし弟は天才に生まれついているのだし、比較してみても仕方がないと、自らに言い聞かせていた。
「でも、アドルよりあたしの方が、大人だと思うんだけどなあ。昔のことだってよく覚えているし。でも頭がいいって事は、それとはあまり関係ないのね」
 エヴェリーナは頭を振り振り、納得いかなげにつぶやいていたが。

 三階部にある、元コミュニティホールの一室が、シルバースフィアへ移ってきてからずっと、第一グループの集会室としてあてられていた。グループ内の誰かの誕生日には、いつもそこで、ささやかなパーティが行われている。
 その夕方、エヴェリーナとアドルファスの誕生パーティが終わると、二人は居室へ戻った。オーロラは「アールの家にちょっと用があるの」と、上階へ行ったので、帰ってきたのは二人と、従姉の夫エフライムだけだ。だがエフライムは「ちょっと調べ物があるから、失礼するよ」と、居室に入ってすぐ、夫婦の寝室へ引き取っていった。
 エヴェリーナとアドルファスは二人でリビングのソファに座ると、お互いに頷きあい、にっこり笑った。理由はわからないが、十四歳という年齢になったことで、少しだけ大人になったような気分だった。
「ねえ、もうほとんど大人よねえ、あたしたち。コミュニティでは、十六才になったら大人ってみなされるから、本当はあと二年あるんだけど、なんだかあたし、ずいぶん大きくなったような気がするわ」と、エヴェリーナは笑みを浮かべたまま言い、
「うん。だって十四才だと、もう大人予備軍じゃない。でもさ、ぼく思うんだけど、大人になったとして、今とどう変わるんだろうね。エヴィーは何したい? 大人になったら」
 アドルファスは首を傾げる。
「あたしはやっぱり、何かみんなの役に立つ仕事をして、そして結婚したいわ、素敵な人と。それからたくさん可愛い子供を産んで。あなたは? アドル」
「わかんない。今と同じじゃないかな。せいぜい、やっぱり結婚するくらいだよ」
「あなたは、やってることは大人と変わらないものね。話してることは、しっかり子供っぽいけれど」
 エヴェリーナは、ややあきれ顔になった。たしかにアドルファスの仕事領域は、もうとっくに子供はおろか、並の大人の範疇さえ飛びこえてしまっている。その精神性には子供らしい無邪気さとあどけなさを残しながら、頭脳の方はどんな大人も追い付けないほどの高次元に飛んでしまっている天才少年が、大人になってもあまり変わらないと言うのも、無理もないことだろう。

 やがて、オーロラがアールとともに帰ってきた。
「お帰り、お従姉ちゃん。お従兄ちゃんも?」
 そう問いかけたエヴェリーナに、アールは頷いてみせた。
「ああ。ちょっと君たちに用があってね。この日を待っていたんだ」
「なあに?」
 怪訝そうなエヴェリーナとアドルファスをよそに、アールとオーロラは連れ立ってリビングに入ってきた。二人とも、両手に何かを抱えている。アールは何冊ものノートのようなもの、オーロラは小さなピンクのバインダーと数枚の紙を。
「実はね、僕ら六年前に、ロブ小父さんに頼まれたんだ。エヴィーとアドルが十四才になったら、渡してほしいものがあるって。それで僕がここを出る時、とりあえず全部預かったから、オーロラにも取りに来てもらったんだ、今日。君たちに渡すためにね」
 アールは腕に抱えていた品物を、テーブルに置いた。それは十冊近い、分厚いノートだった。次いでオーロラがCDサイズの薄いバインダーと、隅をホッチキスで止めた八枚つづりの楽譜を、その傍らに置く。
「なあに、これ?」エヴェリーナとアドルファスは、怪訝そうに見つめた。
「えっと……」アールとオーロラは互いに顔を見合わせていた。
「あなたが話す、アール?」
「うん、じゃあ僕が代表して……」
 アールは従妹弟たちに向き直った。
「これね……このノートはジャスティン叔父さん……君たちのお父さんの記録なんだ。まだ世界が壊れる前の二〇〇九年くらいから始まって、二〇三二年に亡くなるまでの、二四年間の記録らしいよ。付けていた日記を整理して、最後の二年間に、君たちが眠ったあとで、ずっと書いていたらしいんだ。日記の方は、伯父さんが亡くなった時、一緒に埋めたらしいけれど。それで実はね、ごめん、六年前にロブ小父さんにこれを預かってから、僕、二、三回読んじゃったんだ、その中身。本当は読まないつもりだったんだけれど、オーロラが読んじゃったから、つい……」
「あら、人のせいにしないでよ。あなたが読む、読まないは自由だって言ったじゃない」
 オーロラはちょっと笑い、次いで従妹弟たちに向き直った。
「まあでも、あなたたちには謝らないといけないわね。人の日記……まあ、正確には日記じゃないけれど、似たようなものを勝手に読んじゃったんだから。ごめんね」
「ううん。いいのよ。だってお従兄ちゃんお従姉ちゃんは、あたしたちにも家族だから」
 エヴェリーナは首を振って即座に声を上げ、
「うん。それにパパにも義理の甥っ子姪っ子だし、全然知らないわけじゃないんだし」
 アドルファスも頷いて言い足していた。
「それを聞いて、ほっとしたよ」アールは微笑し、言葉を続けた。
「まあ、ともかくね、君たちも読んでみるといいよ。それでね、この記録をエヴィーに、十四歳の誕生日に渡してくれって、ロブ小父さんに頼まれたんだ。それがジャスティン叔父さんの遺志だったらしいんだ」
「エヴィーに? なんで? じゃあ、ぼくは?」
 アドルファスは抗議の声を上げた。アールは笑って、従弟の肩を軽く叩いた。
「ああ、君だって自由に中を読んでいいはずだよ、アドル。僕らでさえ、読んでしまったんだしね。一応の所有者はエヴィーってだけだから。二人で一緒に読んでみたらいいんじゃないかな。それとね、アドル。君にお父さんが託したものは、他にあるんだ。この楽譜と、バインダーに入ってる、お父さんたちのバンドのコンパクトディスク。楽譜の方はね、お父さんたちの最後の作品なんだ。君たちも覚えてるんじゃないかな? 十年前、伯父さんが亡くなる時、一回臨終を宣告されたあと生き返って、その楽譜を書いたって」
「ああ……ええ!」エヴェリーナは、両手を打ち合わせて頷いた。
「覚えてるわ。パパが死んでしまって、しばらくして目を開けて、何かを一生懸命書いてた。それが……これなの?」
「ぼくも……覚えてる。はっきりとじゃないけど」
 アドルファスは不思議そうに目をぱちぱちさせながら、楽譜を見つめた。
「お父さんが書いたの、これ?」
「うん。でもね、この曲には、ちょっと不思議な経緯があるんだ」
 アールは頷いて、昔ロブ・ビュフォードから聞いたその曲の顛末を姉弟に話した。自分たちの父が残したという遺稿も、上着のポケットから取り出して見せた。この話の証拠として、持ってきたのだろう。
 二人は目を丸くして聞き入り、やがてエヴェリーナが両手を組み合わせ、ほっとため息をつきながら、小さく声を出した。
「不思議な、話ね。本当にあの世があるって……証明みたい」
「でも科学的な反論は、ありそうじゃない?」
 オーロラが従弟を見ながら、ちょっと悪戯っぽく笑ったが、アドルファスも首を振って、こう答えただけだ。
「ううん……それって、本当だと思う、ぼく」
 四人は一頻り黙った。やがてアールが口調を変えて言葉をついだ。
「こっちのCDの方は、君たちのお母さん、エステル叔母さんの持ち物だったんだ。お父さんたちのバンドの音楽なんだよ」
「うん、知ってるよ。集会でかかるもん」
 アドルファスはバインダーからCDを一枚取り出して手に取り、頷いた。
「凄いよね、お父さんたちのバンドって。第一世代の人たちは『これがなきゃ生きていけない』なんて言ってるし、第二世代の子たちも、好きな子多いよ」
「あたしも好きよ。すごく……なんて言うのかしら、衝撃があるの。かきたてられる感情って言うのも」エヴェリーナも目を輝かせて頷く。
「でも、文化保存班の人たちが入れてる音楽の中には、お父さんたちのはないんだよね。放送室にストックはあるけど、それは中央委員会で管理して、永久保存はしないことになってるんだって。どうしてかなあ」
「みんなは保存したがってるんだけど、中央が絶対に許可しないって、言ってたわ」
 不思議そうに言うエヴェリーナとアドルファスに、アールは説明した。
「ちょっと理由があって、お父さんたちの音楽は保存できないんだ。僕も惜しい気は凄くするんだけど、あとへ残さないことが必要みたいで。第一世代の人たちが持って来たお父さんたちの音楽CDって、HDプレイヤーもそうだけど、その人たちが死んだら、みんな回収されているしね。だからアドル、できたらそれも、君が死ぬ時に……縁起でもないこと言ってごめんね。まだまだ先だと思うけど……処分してほしいんだ。ロブ小父さんの要請なんだ。頼んだよ」
「なぜ? なぜ、あとに残せないの」
「その理由は今僕が話すより、君たちのお父さんが書いたその記録を読んだ方が、いいと思うよ。そのほうが良くわかると思う。君は聡明なんだから、アドル。それからエヴィー。これでロブ小父さんが僕たちに言った約束が果たせたよ。あとは君たちの手に委ねられることになるからね。と言うわけで、これが僕らたちからの、君たちの十四才の誕生日の、特別プレゼントさ。君たちももうある程度大人だから、きっとその意味を理解できるよ」
 アールは二人の従弟妹たちの肩を小さくポンと叩いた。
「まあ、本当に必要なのは最初の二冊だけかもしれないけれど、お父さんたちや昔の世界のイメージを知るために、最後まで読んだ方がいいと思うわ。オカルト話は置いておいて」
 オーロラもぱちっと片目をつぶっている。
「うん。でも、オカルト話って何?」
 エヴェリーナとアドルファスは同時にそう聞いた。
「えー、そうねえ、結構ありえない部分もあるのよ、常識では。特に幻影話と、あたしたちのお父さんの夢話は。基本的にあなたたちには関係ないから、そのへんは飛ばしても良いかと思うわ」オーロラは少し苦笑しながらそう答え、
「うん。たしかにそのあたりは、二人にはあまり関係ないね。どちらかといえば、僕たちに関係がある話だから」アールも頷く。
「僕は、ジャスティン叔父さんのプライベートな話は、読まないでとばしたんだ。オーロラもそうしたって言ってたけれど――それはやっぱり日記に当たるし、僕らが立ち入ったら失礼だと思ったからね。バンドの話は読んだけれど。僕らには、お父さんのイメージが知りたいっていう思いがあったから、ジャスティンさんの記録を読んだら、わかるかなって思って。逆に君たちは、ジャスティン叔父さんのプライベートを読んで、僕たちのお父さんのいわゆるオカルト関連は、読まないで飛ばして欲しいと思うんだ。君たちには興味のない話だろうし」
「なんか変に取られても、いやだしね」
 オーロラはかすかにため息をつき、首を振っていた。
「ただでさえ、あの人は人外っぽいんだから、これ以上ぶっ飛んだイメージは持ちたくなかったわ。バンド話は良いけれど、最後はもう読まなければ良かったと思ったわ、あたし」
「でも、あれは夢だから、あくまで」
 アールは決然とした表情で頭を振ると、再び従妹弟たちに向き直った。
「ただプライベート話は、前の奥さんと子供の話が多いみたいだけれど。まあ、でも以前の世界を知る上では、良いんじゃないかな」
「うん……」
 エヴェリーナとアドルファスは神妙な面持ちで頷いた。
 アールとオーロラはそんな二人を見、お互いに顔を見合わせ、相談するように目線を交わした。そして二人は立ち上がった。
「じゃ、僕はこれで帰るよ。ランディをお風呂に入れてやらないといけないから」
「あたしももう、洗面所へ行ってから、部屋に戻って寝るわ。少し疲れちゃったから」
 そして再び、リビングにはローリングス姉弟だけになった。

 静かになったリビングで、ソファに座ったエヴェリーナとアドルファスは、しばらく顔を見合わせ、それから机の上に置かれた品物をじっと眺めた。
「パパの記録……」
 エヴェリーナは分厚いノートを一冊手にとって、ぱらぱらとめくってみた。父が夢に向かって踏み出したばかりの十五歳の少年だった時から、二人の記憶にかすかに残っている三九才の時――その死の七時間前までに綴られた、二四年間にわたる長い記録だ。
 二人はノートやCD、楽譜を手に取って、驚きと好奇心と不思議さが交じり合ったような表情で、しばらく黙っていた。それは彼らにとって、四才で死別した父の生命の木霊であり、在りし日の世界の幻だ。
「とにかく読んでみようよ、エヴィー」アドルファスが促した。
「ぼく、あまりパパのこと覚えてないから、読んでみたいんだ。そうしたら、もっとはっきりした実態になると思うんだ。それに昔の世界のことも、何かイメージが湧くかも知れないし」
「そうね」
 エヴェリーナは頷き、一瞬躊躇してから、通し番号の振ってあるノートの一番を取り上げ、色褪せた青い表紙をめくった。
 二人はソファの上に並んで座り、そこに書かれた言葉を一緒に目で追っていった。静かにページがめくられていくにつれ、最初は好奇心で輝いていた姉弟の顔に、驚嘆の色がのぼっていく。二人はどちらも口をきかなかった。エヴェリーナがページをめくる時にたてる、かすかに乾いた擦れ合う紙の音だけが、部屋の中で聞こえる唯一の音だ。一冊目を読み終えると、二冊目を手に取り、同じようにページをめくっていく。
 ノートの二冊目は、父たちが未来世界から現代へ帰還し、最初の妻(この時にはまだガールフレンドだが)と公園で『世界は本当に終わってしまうんだろうか』と思う、その場面で終わっていた。そこまで読み終えた時、そのノートはエヴェリーナの手から滑って、下へ落ちていった。
「こんなことって……あるのかしら」
「そんなことって……科学じゃ考えられないよ。でも本当……なんだろうね。パパがそう書いてるんだもの」アドルファスは再び頭を振った。
 それは一見信じられないような物語だが、そこから響いてくる真実の叫びのようなものが感じ取れる。それは事実なのだと。
「あたしが、未来のパパに……過去のパパに……メッセージを残すの? ねえ、なんだか不思議な気分だわ」
 エヴェリーナは当惑したように呟き、頭を振って、床に滑り落ちたノートを拾い上げた。
「あたしが十四歳の誕生日にパパの記録を読んだって書いたから、パパはこの記録を書いて、ロブ小父さんがそれを十四歳になったらあたしに渡してって、アールお兄ちゃんたちに頼んだのよね。それで今日があたしたちの十四歳の誕生日だから、今これを読んでいるの……ねえ、いったいどこが始まりで、どこが終わりなのかしら。わからないわ」
「メビウスの環みたいなもんだね。閉じたサークル……結果が結果を生んでる。本当に不思議な時の環だね」アドルファスが静かに呟いた。そして続ける。
「そういえば、ぼく、思い出した。ジョー伯父ちゃんが亡くなる何日か前に、言ってたんだ。研究室のキャビネットの、一番奥の下の引き出しに灰色の丸い筒が入っているけれど、その中にいろいろな数式が書いてある青い紙が入っている。自分が死んだら、おまえがそれを管理してくれ。必要になるまでって」
「それはここに書いてあった、あたしの手紙と一緒に入っているっていってた紙?」
「たぶんそうだと思う。ぼくは、良くわからなかったけれど。その時、ジョー伯父ちゃんが言ったんだ。おまえたちが十四になったら、その意味がわかるだろう。今は忘れても良いが、その時に思い出してくれって」
「そういうことなのね……」
 二人はしばらく言葉もなく、お互いの顔を見ていた。
「そういえばあたし、ママの夢を見た時、あたしたちが生まれる前なのに、パパが一人は女の子だ、エヴェリーナだって言っていたこと、不思議に思っていたのよね。今、納得したわ。パパはあたしが生まれることを、前から知っていたのね」
「ああ、あの子守唄を聞いた時に見た夢?」
「ええ」エヴェリーナは頷く。
「そうなんだ。ぼくもママの夢、見たかったな」
 アドルファスは憧れるように言い、そして首を振って言葉を継いだ。
「それにしても、これ、オカルト話は読まなくて良いって、お従兄ちゃんお従姉ちゃん言っていたけど、最初からオカルトじゃない? オカルトが常識じゃ考えられない、不思議なことっていう意味なら。エヴィーの夢もオカルトっぽいけど。だって胎内記憶なら、普通映像はないはずじゃない。でもエヴィーはパパとママの様子を、はっきり見たんでしょ?」
「うん。たしかにそうね……考えてみたら」
 エヴェリーナも苦笑して肩をすくめる。
「続き、読んでみよ」
 アドルファスはしばらく黙ったのち、頭を振って促した。
「うん、そうね。ここからはオカルト色、薄まるのかしら」
 エヴェリーナは三冊目を手に取り、ページをめくった。二人は頬をくっつけるようにして、読んでいった。そのまま四冊目、五冊目、六冊目、七冊目と読み進んでいく。
 そこまで来て、エヴェリーナはほっとため息を漏らした。
「なんだか複雑ね。前の奥さんと子供の話は。ママのことなんて、ほとんど出てこないわ。最初の頃のほうが、まだ出てきたわね。ママがほんとに小さな子供の時だったけれど」
「バンドの練習についてきてた頃だね。でも、そこから接点がなくなっちゃったんだね、パパとは。もしアールお兄ちゃんたちのお父さんが記録を書いてたら、かなり出てきたかもしれないけれど」
 アドルファスが頭を振り、少し肩をすくめた。
「でも指名されたのがパパだったから――あたしが読み手だったからかしら。だから、こうなっちゃったわけね。誰が指名したのか、わからないけれど」
 エヴェリーナも肩をすくめ、再びノートのページをめくった。
 やがて記録は世界崩壊へ、アイスキャッスル時代へと続いていった。そしてオタワへと舞台が進み、二人の母がやっと前面に登場する頃になって、姉弟の顔には強い郷愁の表情が浮かんだ。その母の臨終の場面では、エヴェリーナは思わず泣き出し、『もうぼくは大きいし、男なんだから泣かないぞ』と常々言っていたアドルファスですら、涙をふいている。

 彼らがこの長い長い記録の、最後のページを読みおわる頃には、すっかり夜が明けてしまっていた。父の記録の最後は、ペンが流れたような長い一本の線で終わっていた。そこでたぶん彼は意識を失い、昏睡状態に落ちたのだろう。そしてその翌日、世を去っていったのだ。
 エヴェリーナは最後のノートを静かにたたんだ。テーブルに返す途中で、それは再び彼女の指の間を滑り、床に落ちていく。その目には涙があふれていた。
「パパ……あれから十年たって、あたしたち無事に十四歳になったわ。みんな親切で、あたしたちここで、幸せで……大丈夫、生きていけた。だから、心配しないで……」
「うん……」アドルファスも目をこすって、頷いている。
 二人しばらくは言葉を失い、やがてお互いに顔を見合わせた。
「パパは、幸せだったのかしら。ママも、前の奥さんや、お従兄ちゃんお従姉ちゃんのお父さんお母さんも。ああ、アールお兄ちゃんオーロラお姉ちゃんのお父さんって、ママのお兄さんだから、あたしたちにも伯父さんなのよねぇ。だからあたしたちも、従兄妹同士なんだし……あの夢の話はともかくとして、それに夢だし……それも、ママととても仲の良かったお兄さんで。ママより六年も前に亡くなった人だし、今はすごく守護神的なイメージが強いから、遠い存在に感じていたけれど」
 エヴェリーナはかつて夢で見た父と母の会話を思い出し、母のスマートフォンからプリントされた写真の一枚を思い起こしていた。それはピンクのふわふわとしたドレスを着た、十二、三才くらいの年頃の母が、白いスーツを着た兄の腕に捕まって、輝くような嬉しそうな笑顔で写っているものだった。
「うん。ママもぼくたちが生まれた時に亡くなってしまったから、ママ側の親戚の人って、アールお兄ちゃんとオーロラお姉ちゃん以外、遠い気がしてた。アラン伯父さんも、ぼくほとんど覚えてないし」
「あたしもそうよ。でも、それはともかく……みんなは、本当に幸せだったのかしら。バンドの他のみなさんや、ロブ小父さんも含めた、この記録に出てきた人たち、みんな」
 エヴェリーナはささやくような声で、そう呟いた。
「幸せな瞬間もあったと思うけど。そう書いてあるから、パパは。でも、たくさんのものを失くしているんだよね、みんな」アドルファスは考え込むような口調だった。
「オカルトかもしれない。特にお従兄ちゃんお従姉ちゃんのお父さん……ぼくたちの伯父さんの最後の夢とか、幻影の話は、たしかにぼくたちには、直接関係ないことなのかもしれない。でも、もしかしたらそれが、この話の……世界の終わりと再生の、大きなバックボーンなのかもしれない。だからパパも、ここまで詳しく書いて残したのかもしれない。ぼくはなんとなく、そう感じたんだ。それが何なのかはわからないし、本当にぼくたちには、直接かかわりはないことなんだろうけれど、それでもね」
「そうかもしれないわね。あたしもよくわからないけれど……。でもあたし、なんだか泣きたくなってきたわ。なんでかしら……」
「ぼくも……そんな感じがしてるんだ」
 二人は再び顔を見合わせ、黙り込んだ。不思議な思いにとらわれながら。十四才になった夜、彼らの知らない不思議な世界を初めて垣間見たその時、彼らの中で何かが終わり、何かが始まった。終わったものは無邪気な子供時代、始まったものは、現実とそれを超えたものへの認識。そして彼らの使命。エヴェリーナもアドルファスも、心の中に芽生えた畏怖とほろ苦い悲しみ、驚嘆の念、そしてそれを上回る圧倒的な父に対する郷愁を意識しながら、言葉を失ったまま新たな夜明けを迎えていた。




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