Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 1  AGE White (白の時代) (8)




 むずがる小さな赤ん坊にちょっと手を焼き始めた頃、アールが戻って来た。
「相変わらずランディはぐずってるんだなぁ」
 リビングのソファに座って、かわるがわる赤ん坊をあやしているメアリとエヴェリーナに視線を向けると、彼は苦笑を浮かべた。赤ん坊はもう泣いてはいないが、今にも泣きだしそうな風情で、しかめっつらをしている。
「ああ、アール、お帰りなさい。お腹がすいたでしょう。今したくするわ」
 メアリが赤ん坊を抱いたまま、ソファから立ち上がった。
「ああ、ありがとう。でもまだいいよ。ランディが寝たら、ゆっくり食べるさ」
 アールは空いたソファに腰かけた。メアリもその隣に、再び腰を下ろす。
「お従兄ちゃん帰りが遅かったのって、なにかみどりで問題があったの」
 エヴェリーナがそう聞いた。
「うん。夕方、四才の知的障害の女の子が、二才の男の子をソファからおっことしてね。その子は床に頭をぶつけて、意識不明なんだ。たぶん助からないって」
「あら」メアリとエヴェリーナは一斉に、小さな叫びをもらした。
「でも、その女の子にしてみたら、遊ぼうとしたつもりだったらしい。でも加減がわからなくて、強く押しすぎたみたいで、おまけに男の子の方は両腕がない子だったから、そのまま頭から落ちることになってしまって……養育班の人も、あっという間で止めようがなかったらしいんだ」アールは小さくため息をついた。そして赤ん坊の息子を抱きとりながら、あやすように揺すって、言葉を続けた。
「ところでランディ、おまえはいつまでぐずってるんだ。もうそろそろ九時だぞ。寝る時間だ。そんなしかめっつらして、目ぱっちりあいてるんじゃないの」
「寝そうもないわね。抱いていても機嫌悪くて。子守歌うたってもダメなの。わたし、歌がへたなのかしら。ああ、アール、あなたなら上手ではない? だってあなたは……」
 言いかけて、メアリは言葉を止めた。しかし彼女がなんと言おうとしていたのかは、エヴェリーナにはわかった。たぶんアールにもわかっていただろう。
(あなたは『あの人』の子供だから)
 スフィアの住人たちには新世界の守護神、象徴として受け止められているアールとオーロラの父を持ち出すことは、二人に複雑な感情を呼び覚ますらしい。たぶんそれを、メアリも感じ取っているのだろう。
「……僕は普通だよ」アールは苦笑して、小さく肩をすくめた。
「でも、いいや、歌ってみよう」
 彼は少し間をおいてから、柔らかい響きのある声で、そっと歌い出した。

 眠りの国の妖精が
 風をわたって扉を叩く
 わたしたちの楽しい国に
 一緒にいらっしゃいと
 牧場はみどり、お空は青
 風は絹の響き、雨は水晶の竪琴
 夜は群青、そして
 ダイアモンドの星くず
 黄金の三日月の船に乗って
 きらきらこぼれ
 わたしたちの夢の中に落ちてくる

 ゆったりした不思議な調べを、赤ん坊のランディは聞いているかのように、むずかることをやめた。そして、だんだんと穏やかな表情になっていき、ついににっこりと笑った。二回目のリフレインが終わる頃には、すやすやと小さな寝息をたてて、眠りはじめている。
「あら、寝たわ。坊や」
 メアリはそろそろと夫の腕から赤ん坊を抱きとり、自分たちの部屋に戻っていった。ベビーベッドに寝かせに行ったらしい。そして再びリビングへ戻ってくると、感嘆したような口調で付け加えていた。
「でも、やっぱりあなたって、歌がうまいわね」と。
「ううん、それほどじゃない。でも、あれで寝てよかったよ」
 アールは少し照れたような笑いを浮かべている。
「あれは何の歌なの?」
「僕とオーロラが子供のころに、母さんから聞いた子守歌なんだ。お父さんが、最初の子供が産まれた時に作ってくれた歌だって」
「そうなの。バンドの音楽とは、少し系統は違うけれど、きれいな曲ね」
「お父さんは……最初の子供、ロザモンド姉さんが生まれた時、十八才前だったんだ。僕も同じような年で、父親になったけど……」
 アールは少し首を振ると、壁に視線を送り、黙った。
 メアリも言葉を捜すように沈黙した。ローゼンスタイナー兄妹の、父親に対する複雑な感情を彼女も知っているのだろう。どう返答していいか、考えているようだ。
 その間に、エヴェリーナは言葉を挟んだ。
「ねえ、その曲って、あたし、聞いた覚えがあるわ。うーんと昔に。なんだか初めて聞いたんじゃないような気がするのよ」
「あら、そうなの? じゃあ、あなたも子供のころに聞いたんじゃないの、エヴィー。あなたも血縁なのだから」メアリはいくぶんほっとしたような口調だった。
「いや、メアリ。エヴィーは聞いていないはずだよ」
 アールは少し考えるように黙った後、首を振った。
「だって、その歌を知っていたのはエステル叔母さんなんだけど、叔母さんはエヴィーとアドルが生まれた時に、亡くなってしまったから。ジャスティン伯父さんは、知ってはいたけれど歌わなかったみたいだし、お母さんもそのころには、僕たちは五つになっていたから、もうあまり歌っていなかったんだよ。だから……そうだね。叔母さんはエヴィーとアドルがお腹にいたころ、よくこの歌を歌っていたらしいから、もし胎内記憶があるなら、聞いたって言うのも、間違いじゃないかもしれない。でも、胎内記憶って、実際はあまりないって聞いたことがあるんだ。だから、たぶん勘違いだよ、エヴィー」
「でもあたし、知ってるのよ、アールお兄ちゃん。本当よ。お腹の中だったかどうかは知らないけれど、本当に知っている気がするの」
 彼女は頭を振って、なおもそう主張した。なにかが彼女にそう言わせた、そんなような気がした。記憶の中に畳み込まれたものが、それによって少し呼び覚まされたかのように。

「ねえ、アドル、この曲知ってる?」
 その夜エヴェリーナは自分の部屋に戻って寝る時、弟にさっき聞いた歌を繰り返してから、こうきいた。まだこの頃は、小さな頃と同じように寝室にベッドを並べて寝ていて、十三になったら、別々にしようと取り決めていたのだ。そして、もし一回だけしか聞いていなければ、たぶん自分はそこまで覚えていないはずだが、弟に向かって歌う時、なぜかメロディと言葉が頭の中に繰り返され、半分ほどまで歌うことができた。やっぱり元から知っている気がする――ますますエヴェリーナはそう思えた。
「ううん、知らない。初めて聞くよ。でも、きれいな曲だね。ぼく気に入ったな」
 アドルファスはしかし、かぶりを振ってそう答えた。
「あなたが、気に入る気に入らないじゃないの。ほんっとに聞き覚えない? あたしは覚えてるのに」
「本当に知らないよ。エヴィーはどこで聞いたの?」
「わからない。うんと昔のような気がするけど。そうね、パパが死んじゃう、もっと前のような……」
「ぼくは知らないよ、全然」
「もう、この。あなたは記憶力ないんだから。よくそれで、IQ二六〇の天才だって言えるわね」エヴェリーナは、軽く弟の頭を小突く真似をした。
「それとこれとは、別だもん。それにぼく、厳密には二五八らしいよ、IQ」
 彼は気に留める風もなく、舌を出して笑っている。
「そんなに変わらないじゃないよ」エヴェリーナは思わず笑った。

 弟がいつもどおりにぐっすり眠ってしまった後も、彼女は目を覚まして考え込んでいた。その歌にまつわる記憶が、胸のあたりにもやもやしていた。
「おかしいわ。アールお兄ちゃんの話だと、たしかにママのお腹の中で聞いたのでない限り、あたしが知っているはずはないのよね。なのになんで、あたしは知っているのかしら。だってそうよ。あたし聞いたことあるもの。ああ、でもいつだったかしら。まさか本当に、ママのお腹の中で? そんなことって、あるのかしら?」
 それは靄の中におおわれた記憶を、探すようなものだった。彼女はいつかその白い靄の中に迷い込み、答えの得られないままに、眠りに落ちていった。

 一人の若い女性がベッドの上に座り、本を読んでいた。金色の巻き毛がくるくると背中に垂れ下っていて、父との結婚式の時に撮ったという写真の母と同じ顔だが、その肌は透き通るように青白く、写真のころよりさらに痩せたような感じで、青い大きな目がひときわ際立って見える。ピンクの小花が散った白いネグリジェの上に、誰かがふわりとピンク色のガウンをかけてやっている。その顔はエヴェリーナのよく知っている、父の顔だった。
「ほらエステル、冷えるといけないよ」
 微かに聞き覚えのある優しい口調で、父はそう声をかけていた。
「ありがとう」女性の方は振り返り、微笑んで頷く。
「でも君は、本当にピンクが好きだね。このガウンもそうだし、君はピンクのものが残っていたら、必ずそれを取るんだね。サイズが合えば」
 父は笑ってそのガウンに手を触れ、
「そうね。あたし、ピンクは世界で一番素敵な色だと思うわ。春の花の色よ」
 彼女も微笑んで袖を通しながら、そのガウンに目をやっていた。
「この色を見ていると、思い出すのよ。サンザシ、リンゴ、桜、スイートピー、カーネーション……それで、ほんわりと温かい気持ちになれるの。ここじゃ、花は見られないけれど。昔は、思っていたのよ。結婚したら、大きなお庭の家が欲しいなって。お兄ちゃんの家みたいな、っていうのは無理かもしれないけど、もうちょっと田舎でもいいから、広いお庭があって、たくさんお花の咲いた花壇があって、近くに気軽にピクニックに行けるような広場か公園があって……そんな中で、子供を育てたいなって。でも現実の子供たちは、本物のお花を知らないのね、まだ」
 彼女の瞳に、哀しげな表情がかすかに浮かぶ。
「そうだね。元の世界が続いてたら、君も広い庭付きの家で、子育てをしていたのかもしれないね。花と芝生に囲まれて、走り回って……」
 父はかすかに悲しげな表情を浮かべ、頷いた。
「でも、その場合、あたしの旦那様は、あなたじゃなかったわよね、絶対に」
「そうだね、きっと……君は他の誰かと結婚して、別の家庭を築いたんだと思う」
「そう思うと、こんな状況にも一つの救いはあるわ。ああ、誤解しないでね、ジャスティン。こんな状況の中でも、ステラさんが生きていてくださることが、あなたにとって一番良かったということは、あたしもわかってるから」
「わかってる。ありがとう、エステル。そう思ってくれると、うれしいよ。でも僕は、この現実の中でも、君がいてくれて、本当に良かったと思っている」
 父は母の背中に手を触れ、優しくなでおろしていた。
「こんな中だけど、僕たちにできるだけのことをしていこう。この子たちが元気に成長していかれるように」
「そうね」彼女は微笑を浮かべ、脹らんだお腹に手をやった。
「もし女の子が生まれたら、ピンクのベビー服を着せてあげたいわ。女の子なのよね、少なくとも一人は」
「そうだね。その子たちのどちらかが、未来のエヴェリーナなら。ピンクのベビー服は倉庫にあると思うよ。明日探してこよう」
「ありがとう、でも生まれるまでには、まだ二ヶ月あるから、それまでにで良いわ、ジャスティン」
「いや、思いついた時にした方が良いよ。準備は早い方が良い。新品だったら、一度、洗わないといけないしね。もう一人はどっちかな。まだどちらかわからないから、クリーム色か白にしよう」
「ピンクと白って、メイベルとあたしがよく目印につけていたリボンの色だったわ。髪を結ぶ時に」母は懐かしむような表情を浮かべた。
「それで白が当たると、ああ、ピンクが良かったな、って思った覚えがあるの」
「そうなんだ。本当にピンクが好きなんだね、君は」
「ええ。あたし、事故の前のことはあまり覚えていないけれど、写真を見ると、どこかにピンクが入った服を着ていたわ。メイベルとおそろいで。でもね、ミル伯母さんがうちに来てからは、ピンクは派手だって言って、地味な服しか買ってくれなかったのよ。紺とかグレーとか茶色とか。それも、ストレートラインで、可愛くないの。髪もまとめなきゃいけなくて、あたしは巻き毛でお下げにしにくいからって、首のところできゅっと一つに結んで、リボンもつけてくれないのよ」
「そうなんだ。そういえば、君が僕らの練習に一緒に来ていた頃は髪をおろしていて、よくピンク系の服を着ていたけれど、アパートに遊びに来ていた頃は、たしかに時々、落ち着いた色の服を着ていたね。髪も束ねていたし」
「ミル伯母さんの方針なのよ、それって。落ち着いて控えめなのが、女の子の美徳って。本当に昔風だけど。伯母さんが来て一年近くが過ぎて、春になる頃には、前に着ていた可愛い服も小さくなって、もう地味系の服しかなくなって、本当にいやだった。でも七歳の誕生日にお兄ちゃんがツアー先から送ってくれた、ピンクのワンピースを見た時のこと、今も覚えているわ。二日くらい遅かったけど、着いたのは。当日電話で、『おめでとう』てかかってきて、あたしが『プレゼントは?』って聞いたら、『あー、まだ着いてないんだ? ごめん。そのうち着くよ』って――ピンクで、小さな白い水玉が飛んでいて、フリルがたくさんついた、とても可愛い服だった。あたし、あんなに嬉しかったことはないわ。『赤毛のアン』に、アンがマシューからクリスマスプレゼントにって、初めてきれいな服をプレゼントされて感激するシーンがあったけれど、あたしもそんな心境だったわ」
「ああ、二度目、いや、三度目のアメリカツアーの時か。サポートで行った。思い出した。フェニックスのデパートで、エアリィが買っていたっけ。『あ、妹に誕生日プレゼント買わなきゃ。ここからトロントまで、三日で着くかな。間に合わないかなぁ』とか言ってて。でもやっぱり、間に合わなかったのか。アメリカの南西部だったからな。たしか、僕らも買い物をしたくて一緒に行ったけれど、さすがに女の子服売り場は気まずくて、売り場の入り口で待っていたな。ジョージもプリシラちゃんが生まれる前だったし。あいつはそういうの、違和感ないからいいなと、その時は思ったよ。店員に『お客さんも、とてもきれいでかわいいですから、こういう服似合いそうですけれど、見てみませんか?』なんて言われていたけれどね。『いや、そんな趣味ないですから』ってあいつは言っていて、僕らは笑い転げたな」
「お兄ちゃんには、その手のエピソードは、それこそ数え上げたらきりがないくらいあるわ。あたしも『エステルちゃんのお姉ちゃんって、本当に超きれいで可愛いわよね。素敵!』って何回言われたか、わからないくらいよ。ああ、有名になる前だけれど。幼稚園にお迎えに来てもらう時にも、先生はいつも『エステルちゃん。お姉ちゃんがお迎えに来てくれたわよ』って」
「で、訂正はしたのかい?」父は笑っているようだった。
「してた時もあるけれど、いつも『うっそぉ!』って驚かれるだけだし、冗談だと思われることも多いから、半分くらいかな」
「まあ、無理ないね。あいつ自身もそんな感じだったし。それで、そのピンクの服はどうなったんだい? 君の伯母さんは、派手だって言っていたんだろう。ちゃんと着られたかい?」
「『アーディスったら、派手好みね。アグレイアさんに似たのかしら』って、ちょっと顔をしかめていたけれどね。でも、あたしがあまりにも喜んでいたから、『無駄にするのはもったいないから、着てもいいわよ』ってしぶしぶ言ってくれて、それでその服を、もう本当にいっぱい着たの。小さくなって着られなくなる頃には、ピンクの色がさめていたくらいだったわ」
「それだけ着てもらえれば、その服も本望だろうね」父は笑いながら頷いていた。
「小さい頃のあたしとメイベルもピンク系の服だったし、ママも写真で見ると、そういう服が多かったから、ママはピンクが好きだったのかしらね。だからミル伯母さんが、そう言ったのかも知れないけれど、ママのピンク好きを受け継いでいたのは、あたしね。でもお兄ちゃんもロザモンドやティアラに、よくピンクの可愛い服を買っていたから、あたしがお兄ちゃんもこういう服好きなのって聞いたら、『うーん、まあ、可愛いと思う、女の子には。似合ってるし』って言ってたわね。たしかに、あの子たちはお人形さんみたいに可愛かったから、本当にすごくよく似合ってたわ。でもそう考えると、お兄ちゃんもやっぱり、ママの趣味を受け継いでいたのかしら」
「かもしれないな。あいつ自身も、けっこうピンクを着てたし。セーターとかパーカーとかシャツとか。ますます女に間違えられるから止めろ、と僕はいつも思っていたよ」
 父は再び笑っている。「でもピンク色は、女の子には可愛いからね。ロザモンドちゃんやティアラちゃんは本当に、お人形さんみたいだったな。君もそうだったよ。君も本当にかわいらしくて、お人形さんのようだったから、よく似合っていた」
「もう、ジャスティン。今さらお世辞は言わなくて良いわよ」
 母は笑って父の背を軽く叩いている。
「いや、本当にそうだって。君は大きくなったら相当な美人になるって、前から思っていたんだ。本当にその通りだったよ」父は笑っていた。
「僕は息子しか持ったことがなかったから、ピンクの服には縁がなかったけれどね。娘が生まれたら、着せてみるかな。ステラは可愛い路線の服は着たことがなかったし、ジョイスもそんなには着なかったな。装飾は好きだったけれど、ピンクよりオレンジやクリーム色が好きだったみたいだし。そういえば、最初の新年パーティで三年ぶりに会った時にも、君はピンクの可愛いワンピースを着ていたよね」
「ああ、あのピンクのクレージュのドレスね。あれも、お兄ちゃんが買ってくれたの。『新年会、行く?』って聞かれて『行く! みなさんに会いたい!』って即答して、でも着ていく服がないって言ったら、じゃ、買いに行こうって、一緒にデパートに行って。お兄ちゃんと買い物に行くの、一年半ぶりくらいだったから、すごくうれしかったんだけど……前も、声をかけられることはあったけれど、あの時はデパートが混んでいて、婦人服売り場と子供服、同じフロアだから若い女の子がいっぱいいて……ものすごく騒がれたの。びっくりしたわ」
「そうなんだ。ああ、でも最初の新年会前だと、もう大ブレイクのあとだからね。わかる。僕も煩わされたけど、エアリィだったら、それに輪をかけていただろうなぁ。ことに若い女の子たちの中に突入したんじゃ……結果は目に見えてるな」
「お兄ちゃんも、あれだけの大人数には、さすがにちょっとびっくりしたみたい。『まずい時に来ちゃったかなぁ』って苦笑してたわ。それで『売り場に迷惑だから、騒がないで。妹の買い物に来ただけだから』って言ってて。それからなんとか普通に買い物出来たけれど、あたしは気になって……だって、ずうっと周りから見られているのよ。『気にならない?』って聞いたら、『あー、でも普通にしてればいいさ。で、やっぱりピンクがいい、服?』って。あ、ただ携帯で写真撮ろうとしてる人には、『妹の写真は撮らないで』って言っていたけれど」
「勝手に撮られるのは困るね、たしかに。本当に、マナーは守って欲しいよ」
「そうなのよ。でもそれで、あたしもね、そのうちに、まわりは気にしないで楽しもうって思ったわ。素敵な服も買えたし、帰りにフルーツパフェも食べたし。でも、チョコパフェも食べて良いって聞いたら、二個パフェ食べたら夕飯が入らなくなるから、ミル伯母さんに叱られるからダメ、ってお兄ちゃんに言われたわ。『この服も、怒られそうだなぁ。すぐサイズアウトするのに、こんなブランド服買って、もったいないって』って、肩をすくめていたし。案の定、伯母さん値札見て、顔をしかめていたわ。『お金があるからと言って、無駄に使っていいことじゃないわよって、アーディスに伝えておきなさい。悪銭身につかず、と言うでしょう』って」
「そうなんだ。君の伯母さんって、結構厳しい人だったようだね」
「ええ、そう。昔風っていうか、質素で堅実なのが美徳っていうか、ね。保守的なのかしら。でも、悪い人じゃないのよ。価値観が違うだけ。お兄ちゃんがよくそう言っていたけれど、本当にそうだと思う。あと、パパ以上に、無愛想で愛情表現が苦手なのだと思うわ。ステュアート一族、みんなそうってわけじゃないけれど、似ているのね」
「そうか。なんとなくわかるよ」
「でもあたし、お兄ちゃんが独立してからも、ずっとくっついていたから、かなりアデレード義姉さんには、お邪魔虫だったろうな、って思えるわね、今になって考えると。義姉さん優しいし親切だから、あのころは考えなかったけど。よく泊まりに行ったし、旅行にも連れて行ってもらったわ。あたし家族旅行って行ったことがなかったから、いろいろ行けて楽しかった、本当に。スキーにも行ったし、ダイビングもしたし、ディズニーリゾートに、スカンジナビア半島のフィヨルド、ウユニ塩原、アルゼンチンのパンパ、ゴールドコースト、バルバドス……周りが騒がしいこともあったけど、今思ったら、世界が壊れる前にいろいろなところを見られて、本当に良かったと思っているの」
「そうだね。僕も旅行はよく行ったなぁ。旅行そのものも好きだったけれど、世界が壊れる前に、その姿を見ておきたかった、というのもあってね。たぶんエアリィもそうだったんだろうと思うし、ミックもそうだったらしい。よくオフにいろいろな所に、ポーリーンさんと二人で行っていたみたいだ。彼の場合は東洋や中東、東南アジアが多かったけれどね。ジョージとロビンは、どっちかというと定着型だったみたいだけれど。旅行はロードだけでたくさんだって言っていて」
「ミュージシャンって、年に何ヶ月も旅行に出ているようなものですものね」
「そうだね。下手をすると断続的に一年近く続いた時もあったよ。でも体力と気力があるうちは観光が出来ても、そのうちに会場とホテルの往復になって、あまり旅行っぽくはなくなるけれどね」父は肩をすくめていた。
「お仕事だと、遊びとは違うんでしょうね」
「そう。でも僕はオフの旅行も、ワンパターンだったかもしれないな。一つの場所にこだわりが強いのかもしれない」
「ジャスティンのお気に入りの場所って、どこ?」
「バハマとプリンスエドワード島かな。ギリシャと地中海にも何回か行ったな。バハマにはセカンドハウスを買っていたし、キャベンディッシュには、実家の別荘があってね」
「キャベンディッシュって、赤毛のアンの舞台になった所よね。一回行ってみたかったわ」
「良い所だよ、のんびりしているけど」
 父はしばらく黙った後、悲しげに言葉を継いでいた。
「もう今は、海の中だけどね」と。
「ああ……」母も悲しげな顔になった。
「何年か前に、そう言っていたわね、あなた。あのあたりは、もうないのね。マインズデールも。あの町、好きだったのに」
「ああ。ランカスター草原だけは残ったみたいだけれどね」
「あそこもあたし、何度か行ったわ。お兄ちゃんと一緒に。ああ、一度アラン兄さんとも行ったわね。アーディお兄ちゃんがロンドンで撃たれた時、光の木の実をとっていってあげようって。元気になれるように。あの実はなるのが遅くて十一月だから、十二月の初めでも間に合うかしらって思ったんだけれど、もう実が少なくて、高いところにしかなかったから、揺すって落としたの。毛虫がいなくてよかったって、あとで思ったわ。もっともあの木には、毛虫はたからないらしいけれど」
「そうなんだ。それに十二月の初めじゃ、もしいたとしても、蓑虫くらいだろうね」
「でも頭にクモが落ちてきて、きゃー、とってとって!って、騒いだけれど。アラン兄さんも『ぼ、僕は虫が苦手なんだよ、エステル』なんておろおろしながら、でもようやく払ってくれたのよ」
「そう……」父は完全に笑っているようだった。
「そういえば、君がその時とってきてくれた、あの実を漬けたミネラルウォーター、飲んだことがあるな。ロンドンで、エアリィのお見舞いに行った時。少し飲んでみる? なんてあいつが言うもんだから、見た目はきれいだったし、つい一口飲んで、とんでもない目にあった」
「お兄ちゃん、わかっててやったのね」母も首を傾げて笑った。
「あたしもあの実、七歳くらいの時、食べたことがあるわ。一口かじって泣き出したけれど。お兄ちゃんに『食べちゃダメ!』って言われてたのよね。でも、お兄ちゃんは普通に食べてるから、大丈夫だと思ったの。『前にもそう言ったじゃないか』って言われたんだけど、それは覚えていないのよね、事故前だったから。でも不思議だった。なんでお兄ちゃんは、あの木の実を『おいしい』って、食べられるのかしらって。『甘いよ』って言うの。『ただそう感じるのは、僕だけみたいだけど』って」
「それは間違いないな。シスターもそう言っていたし。まあ、あの電撃に耐えられたら、その先は甘いのかもしれないけれどね」
 父は苦笑に近い笑みを浮かべていた。
「でもお兄ちゃんには、あの電撃は来ないみたいなのよね。それが不思議だったわ」
「エアリィは元々、かなり不可思議な奴だったからなぁ」
「そうね。最後は空気に溶けて消えちゃったし……」
 母はふっと悲しげな表情になり、しばらく黙った。
「お兄ちゃんが最後にあたしにくれたのも、ピンクのキャンディだった」
 彼女は開いた本の間から、小さな紙で折った栞を手に取った。
「ああ、それはあのキャンディの包み紙かい?」
「そう、チェリーミントの。あたし、とても捨てられなくて、栞にしたの。アデレード義姉さんも、同じようにして持ってるわ。中身は食べてしまったけれど。お兄ちゃんが死んで一週間後に。甘かったけど……すごく泣いちゃったから、しょっぱかったわ」
 父は無言で、母の肩を抱いた。そしてささやくように言う。
「エアリィにとっても、姪がもうじき生まれるんだ。もう一人が甥っ子か姪っ子かは、わからないけれど。君は身体を大事にして、がんばって生きなきゃね」
「うん……」母は少し涙ぐんでいるようだった。そしてふと、顔を上げて言う。
「蹴っとばしたわ、今。どっちかしら。ああ、元気なのはいいことね」
 彼女は膨らんだお腹をさすり、夢見るような表情を浮かべた。
「がんばって、元気に生まれてね。赤ちゃんたち……あたしたち、あなたたちに会えるのを、楽しみにしているわ。生まれたら、いっぱい遊ぼうね。いっぱいお話して、ぎゅって抱っこして……早く会いたいな」
「そうだね。いっぺんに二人は大変だけど、僕もできるだけ手伝うよ。この子たちが、この中でも、少しでも幸せになれるように」
 父は母の膨らんだお腹にそっと手を当てていた。母はもう一方の手を、父の手の上において、微笑みを浮かべた。そして低い澄んだ声で、歌いだした。それは昼間アールから聞いた、あの歌だった。

 エヴェリーナは目覚めた。しばらくぼんやりと天井を見てから、両手を組み合わせて、思わず呟いた。
「ママ……」その目から一筋、涙が溢れ出した。
「やっぱりあたし、あの歌はママから聞いたのね。ママのお兄さんが作って、アールお兄ちゃんたちのママとあたしたちのママが歌いついで。あたしは覚えていないはずだけれど、お腹の中で聞いていたんだわ、きっと。そんなことありえないって、みんなは言うけれど」
 そしてふっとため息をつき、小さな声で続けた。
「ママ……ママはあたしたちが生まれるのを、本当に楽しみにしていてくれたのね。パパも……それに、ママはパパと、いっぱいお話をしていたのね。あたしもきっと、お腹の中で聞いてたんだと思う。でもあたし……生きてるママに会いたかった。ママはきっとあたしたちにも、たくさんお話をしてくれたに違いないのに……いっぱい遊んで、いっぱいお話して、ぎゅって抱っこしてほしかった。ママが言っていたみたいに……がんばって生きなきゃって、パパは言ってたけど、ママはあれから、あまり生きていなかったのね。でもあたし、夢でもママに会えて……本当に良かった」
 母への郷愁が、かつてないほど強く湧き上がってきた。でもその思いは、決して満たされることはないのだ。エヴェリーナは涙をぬぐい、寝返りを打った。
(ママはパパが言ったとおり、可愛いきれいな人だったから、ピンクのワンピース、似合ったんでしょうね。そう……本当に似合っていたもの。どの写真も)
 エヴェリーナは再び眠ろうとしながら、そう考えた。
(でもあたしは、あまりピンクの可愛い服って、似合いそうもないのが残念ね。アドルが女の子だったら、きっと似合ったかもしれないけれど。ああ、やっぱりあたしもママに似たかった。パパは大好きだし、かっこいいから、パパ似って言うのも嬉しいんだけれど、どうせならアドルがパパに似て、あたしがママに似てたら良かったのに……)
 そんなことを思いながら、彼女は夢で母が歌っていた子守唄を、頭の中でくりかえしていた。そしていつしか、再び眠りに落ちていった。


( 8 )

 それから一年と半年が過ぎた。第一グループの人数構成も、少し変わっている。前からの第一世代はもう、ジョンとナンシーのミルトン夫妻と、トーマスとエレンのスターリング夫妻、昨年に夫を亡くして未亡人になったジェーン・カートライトの、五人だけになっていた。トニー・ハーディングは半年前に亡くなったが、一人息子のローリーはもう十四才になっていたので、『光の家』には行かず、そのまま留まった。同時にその頃、一時期『光の家』や『みどりの家』に行っていたスタッフグループの八人の子供たちや、エレン・スターリングの姪ミルカ・ジョンストンが、自立できるほど成長したので、彼ら九人がどっとグループに戻ってきた。そしてローリー・ハーディングも含めた十人の孤児たちは、グループ内で一セクションとなり、四ベッドルームのコンパートメント二つに分かれて、お互いに助け合って暮らしていた。
 第二世代の子供たちにも、悲しい変動が起きていた。ステイシー・ミルトンが一年前に九才で、白血病で亡くなり、十四才の少年に成長したポール・カートライトは、骨肉腫のために現在入院中で、医療班の医師たちは、もってあと半年くらいの命だろうと宣告していた。五才のセオドア・スターリングには一年前に妹ができたが、その子は重度の心臓疾患のため、生まれて三ヵ月で世を去っていた。
 アールとメアリの間には、この夏ランディス・パロマの妹、グロリア・アンが生まれていた。コミュニティ全体では、第三世代の子供たちはランディスとグロリアの他に、やはり委員会の主要メンバーであるカップルの子供が、一人いる。そして第三世代の子供は、来年二月ごろに、もう一人増える予定であった。前年の秋に結婚したオーロラは、今子供を身ごもっていたのだ。正確に言うと、その子は第二、第三世代半々といったところか。オーロラの夫、エフライム・シンクレアは第一世代の人だったからだ。彼は第一グループに加わった、今生きている六人目の第一世代だった。
 エフライム・シンクレアはコンピュータ班に属する技師で、世界崩壊時には十四歳、現在は三五歳になっていた。二三歳の時、二つ年上の第一世代の女性と結婚していたが子供はなく、結婚後二年で妻が病死、それ以降は独り身を通していたのだった。
「まるでハーレム状態みたいな第一世代では、希少種よね、エフは」
 彼と結婚することになったと、アールやエヴェリーナ、アドルファスに打ち明けた時、オーロラはそう言っていた。
「でも、かっこいいおじさんだよね、あの人」
 アドルファスが首を傾げてそんな感想を述べ、
「うん。もてたんじゃないのかなあ、第一世代の女の人たちに」と、エヴェリーナも頷く。
「そうらしいわ。でもね、あの人、第一世代では一番若いのよ。だから奥さん候補はみんな年上。最初の奥さんもそうだったし。まあ、年上が悪いんじゃないんだけれど、なんだかあまりしっくりこなかったって、彼は言うのよ。あたしも委員会のメンバーたちはなんとなく頼りなく感じて、年上の男の人がいいなぁって思ってたけれど、十六歳も年上の、結婚暦のある男の人と結婚することになるとは思わなかったわ。第一世代と第二世代の間には、大きなギャップというか、空白の期間があるんですものね。エフが第一世代の最年少で、アンディが第二世代の最年長、その間の十五年間は空っぽ。誰もいないのよね」
 オーロラの言葉に、アールはしばらく黙った後、言った。
「アイスキャッスルの壁だね」と。
「そう、アイスキャッスルの壁……」オーロラは小さくため息をついた。
「でも、彼がフリーの状態で残っていてくれて、よかったわ。ちょっと年上すぎるかもしれないけれど、あたしは彼が好きだし。あのね、エヴィー、アドル。あなたたちのお父さんも、あなたたちのお母さんと結婚した時には、二度目の結婚で、十一歳年上だったのよ。でも、とても二人は仲が良くて、いい感じだったのを覚えているわ。あんなお父さんがいたらいいなって、思っていたの。あたしたちも、ああなりたいわ」
「うん。パパとママは、仲が良かったのよね」エヴェリーナはランディが赤ん坊の頃に見た夢を思い出し、深く頷いた。そして思わず言葉が続いて出てきた。
「でも、お従姉ちゃん。ママみたいに赤ちゃんを残していったりはしないでね。そこまでその通りにはしないで。お願い」
「あたしも、そのつもりはないわよ」オーロラは肩をすくめた。
「でもエステル叔母さんだって、あなたたちを残していきたくて残していったわけじゃないし、きっと気にかけて見守ってくれていると思うわ、天国で」
「うん。あたしもそう信じているわ」
 エヴェリーナは両手を組み合わせ、再び、深く頷いた。
「まあでも、君もしっかりした伴侶が見つかってよかったね、オーロラ。彼とは僕も時々会うけれど、優しくていい人だし」と、アールは妹を祝福し、
「本当におめでとう。幸せにね、オーロラ。わたしがどれだけあなたに感謝しているか、口では言えないくらいよ」メアリがそう言い添えていた。
「あら、あたしはちょっと余計なことを言っただけよ。逆にあなたに恨まれても仕方がなかったわね。人の秘密をぺらぺらしゃべっちゃったって」
 オーロラは軽く肩をすくめ、笑った。
「そうだよ。あれは完全に結果オーライなだけだぞ」アールは苦笑していた。
「でもわたしには、とてもそれだけの勇気は出なかったから」
 メアリは穏やかに微笑し、幼いランディを腕に抱きなおしていた。




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