Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 1  AGE White (白の時代) (2)




 もうすぐ三十才になるエレン・スターリングは、この作業班の中では最年少メンバーである。四年前、リサイクル班に所属していたトーマス・スターリングと結婚するまではエレン・ジョンストンといった彼女は、十五才の時、以前の世界に決別した。その時にはことの重大さを半分も認識できないままに、どうやら今までの人生を支えてきたもの全てが消え去ったことを、そして自分は兄と共に最果ての地に人類の唯一の生き残りとして、すべての物から切り離されて存在しているということを――その冷酷な事実を徐々に悟っていった。三歳年上の兄マークは二年ほど前、子供を一人残して、突然の心臓発作で世を去った。今年四才になる彼の娘ミルカは、今『愛の家』にいる。同じ障害児のための施設だが、みどりの家と違うところは、ここにいる子供たちは、身寄りはあるが、現在はなんらかの事情で世話の出来ないケースを集めているということだ。
 エレンの兄、マーク・ジョンストンの妻であったリンダは、現在リンダ・マーレイ、つまり兄の死後一年たって、別の男性と再婚していた。この義姉の未亡人となってからの変わり身の速さや、小さな娘に対する態度をあまり快く思っていなかったエレンは、義姉が再婚に伴い、強く希望して相手の所属するグループに移ったのを、内心感謝していた。
「だって、毎日会っていてごらんなさい、きっとわたし、喧嘩しちゃうわ。別に再婚はいいのよ。今日々永遠の愛なんて、わたしたちにはあまり縁がないんですものね。でもわたしはあの人を、もとから好かなかったわ。それに新しい人と再婚したら、ミルカをさっさと『愛の家』に入れちゃって、めったに会いにも行かないのよ。あれでいったい母親と言えるのかしら。ミルカがかわいそうだわ」
 エレンは親しい友である、同じ作業班のリサ・パールマンにそう漏らしたことがある。
 四才のミルカ・ジョンストンは、生まれた時から静寂の世界に住んでいた。彼女のまわりに音はなく、言葉もなく、ただ目に入ってくる風景しか刺激のないまま、四年と三ヵ月の歳月を生きてきた。言葉の刺激がないため、彼女の小さな頭にはそれ以上の考えは形成されず、赤ん坊の時からあまり進歩がないのに業をにやしてか、母親のリンダは新しい夫と結婚すると、すぐ娘を『愛の家』に入れてしまったのだ。新しい夫はその一年前に前の妻を亡くしており、その子供たちが二人いる。その子たちの良き母親になりたい。実の娘の障害が夫やその子供たちの障害になってはいけない。彼女は娘を養育施設に預ける理由として、そう述べていた。だがエレンの目には、自分の子を差し置いて他の子供を選ぶのか、もしミルカが障害児でなければ、決してリンダはそんなことを言わなかったはずだ。ただ厄介払いしたいだけなのだ――そうとしか映らなかったのだ。
「でも、わたしにはリンダの気持ちも、少しだけはわかるような気がするわ」
 リサはため息をつきながら、そう答えていた。
「わたしにも同じような子がいたんですもの。我が子が障害児でうれしい親なんて、一人もいないわ」
「それはそうだわ。でも、やっぱり自分の子なら、かわいいのではなくて?」
「そうね。わたしのかわいそうなマイケルを、わたしはいつも愛しく思っていたわ。障害があるだけによけい不憫でね。あの子のことを思い出すと、今でも悲しいのよ」
 リサはあふれてきた涙を拭った。彼女は結婚しておらず、同じグループの男性との間に子供が一人できたが、その男性はすでに家庭を持っていて、子供もいた。そして生まれた彼女のたった一人の息子は、生れながらの盲目だった上、二年前、突然の脳内出血で四年足らずの短い生涯を終えたのだった。それは生まれ持った脳動脈の奇形のためだった。そして、彼女は息子の死後三か月で、文化保存班に復帰したのだった。
「思い出させてごめんなさい。でも、それが自然の母親の情よね」
 エレンは相手の腕にそっと手をかけ、謝った。
「でも、リンダに母親の情がないわけではないと思うのよ」
 リサは寂しげな笑みを浮かべていた。
「きっとわが子に期待をかけていた分、障害があることが、もどかしいのではないかしら。わたしも時おりそう思ったもの。癇癪を起して、わたしを求めて差し伸べる手を払ってしまったこともあるし、声を荒げてしまったこともあるわ。あの子が突然逝ってしまった時には、本当にそんな自分の行為を許せなかった。なぜ、そんなことをしてしまったのかって。でも、時々精神的に余裕がなくなってしまうのよ」
「そうかも知れないと覚悟するのと、何年もその事実につきあうのでは、たぶん違うのでしょうね」
 エレンは小さくため息をついた。その時にはまだ、彼女の中に小さな命が生まれていることに、確信は持てない時期だったが、そうかもしれないという思いは持っていた。そして希望と不安が交錯するような思いを感じた。本当に子供が授かったのだとしたら、その子はどうなるのだろうと。ちゃんと生まれてくれるのか、健常なのか――。
 子供が無事に生まれてくるか。健康に、ちゃんと五体満足に。そしてちゃんと成長してくれるかどうか? それは千六百人近い第一世代の女性たちにとって、共通の心配ごとだった。以前の世界では考えられない異常な高率の不妊率、流産率、奇形率や胎児死亡率、さらにガンや白血病、循環器障害の異常な発生率。こういった残留放射線の影響としか思えないさまざまな恐怖に、彼女たちは常に直面せざるをえなかった。それでも生命は、送り出され続けなければならないのだ。未来への希望をつなぐために。

 エレン・スターリングは通路脇のエレベータから降りた。シルバースフィアの入り口は、ここに来た時には重いシャッターだけだったが、五年ほど前、その内側にガラスのドアがつけられていた。ロボットと数人の人間が数キロ離れたガラス工場まで赴き、非常用電源を使って機械を動かして、そこで制作し、ここまで運び、設置した。冬の間はシャッターを閉めるが、まだ秋なので、そのガラスドアを通じて、外へ出ることができるようになっている。
 彼女はドアを押して、外へ出た。あれから十五年――シルバースフィアのまわりにあるいくつもの白いビニールハウスや工場、運動場などの施設の向こうに、オタワの街並みが広がっていた。エレンが十五才の時まで住んでいたこの街は、すっかり変わり果てている。スフィア周辺に出来た新しい生活維持施設や農園の他は、二キロメートル四方の範囲で更地になっていた。そのまわりは、見慣れたオタワの街並みだ。ビルの壁はくすみ、窓ガラスの大半は割れていたが。ロボットたちは少しずつ街を整備していて、現在は二キロほど先のビルが三つほど取り壊され、一つは比較的損傷が少ないために改修中だ。
 彼女は入り口のそばに置かれたベンチに腰をおろし、かつて自分たちが暮らしていた、廃墟の街を眺めた。でもここが――故郷? カタストロフから一年が経過し、アイスキャッスルからここに移ってきた時、あまりの街の静けさに彼女は息を飲み、激しく震え、大声を上げて泣いた。それ以来、思い続けていた。ここは異次元の世界なのだ。あの時から、自分は別の世界に投げ出されてしまった。もう、戻れない世界に。
 その思いは、背後から聞こえた明るい子供らしい声によって中断された。ガラスの扉が再び開き、エヴェリーナが小走りに出てくる。
「もうじき雪が降るって。気象班の人がそう言っていたらしいわ、エレン。だから戻ってらっしゃいって、ポーラが伝えてくださいって」
「あら、ありがとう、エヴィー。本はもう読みおわったの?」
「ええ、借りていてごめんなさいね。お仕事の邪魔しちゃた? あたし、あそこに出入りしちゃ、やっぱり邪魔かしら」
「そんなことはないわよ。あなたたちが昔の世界を知りたいって思うのは、とても自然なことだし、わたしたちにしても、あなたたちにぜひ知ってもらいたいと思っているわ。さもなければ、わたしたち大人がみんな死んでしまったら、あの懐かしい世界のことは、もうすべての人々の記憶の中から、永遠に消え去ってしまうことになるでしょう。そんなのはあんまり悲しいもの」
「あたし、すっごく知りたいと思ってるのよ」
 少女は胸に手を当て、真面目くさった調子で訴えた。
「だけど、あんまりイメージが湧かないの。たくさんの人っていうのは、ここにいる人たちをいっぱい増やして、なんとか想像できるけど、動物や植物は、わからないわ。映像や写真では見たことあるけど、あたし実際に見たり触ったりしたことはないし、話したこともないんですもん。大きさすら、わからないのよ。いつか、アールお兄ちゃんが言ってたわ。世界を作り直すって言っても、モデルがなきゃ困るって。でもお従兄ちゃんにも昔の世界のイメージって、はっきり湧かないんだって。オーロラお姉ちゃんだって、あたしに想像力を働かせなさい、なんて言うわりに、じゃあ教えてって言っても、知らない、なんて平気で言うのよ。生まれる前のことなんて知らないって」
「そうでしょうね。アールやオーロラにだって、わからないのは当然だと思うわ。子供たちは、みんなここで生まれたんですもの。世界が消えてしまってから。でも、たとえ少しずつでも、知っていってほしいの。間接体験でしかなくてもね。わかってほしいわ。昔の世界の素晴らしいところ、ひどかったところ。受け継いでいってほしいところと、ぜひ切り捨てていってほしいところをね。わたしは十五年しかいなかったけれど、もっと長くいた人も多いから、その人たちに聞いたほうがイメージは湧くかもしれないわね。でもね、わたしたちの思いは、みんな同じよ。昔を知っていて欲しい。物理的には消えてしまったけれど、記憶や記録からは消えないで欲しい。そう思っているの」
 エレンは空を見あげ、ふと目の前をかすめて落ちてきた白いものを手で受け止めた。
「あら、本当に雪が降ってきちゃったわ。気象プログラムも、結構正確なのね。たいしたものだわ。中へもどらなきゃ」
 彼女は少女を促して、再び地下街へと続くドアを開けた。二人の頭の上から、白い雪がふわふわと舞い下りてくる。
「そうだ、エヴィー、ちょっと待ってて」
 エレンはふと思いついて、ポケットの中を探り、作業用のルーペを取り出すと、少女に差し出した。
「その服についた雪の粒を、これで覗いてごらんなさい」
 エヴェリーナは赤いセーターについた雪を、拡大鏡で覗きこんだ。そして息を飲んだように、小さく歓声をあげた。
「わあ、きれい!」
「そうでしょう。これも、あなたたちに知ってほしいことの一つよ。自然が作り出すものの美しさをね。自然はこれだけのものを生み出せるの。簡単にね。わたしたちは見ているだけで、それを壊してはならないのよ。今のあなたには、わからないかもしれないけれど、大きくなったら、思い出してね。この雪も、かつてわたしたちは汚し続けてきてしまったわ。その最悪のものが、オタワに移動して初めての冬に見た灰色の雪よ。放射能の交じったね……」
 エレンは軽くため息をついて首を振り、やがて気を取り治したように続けた。
「エヴィー、雪を観賞するのはそれくらいにして、中へ戻りましょうよ。もし何かあったら、ポーラに叱られるわ」
「待って、だって……」
 エヴェリーナはすっかり魅せられたように、雪を受け止めては、ルーペで覗き込んでいる。「だって、形が一つ一つ違うのよ……素敵じゃない?」
「そうよ。でも、すぐに溶けてしまうでしょう? その儚いところが、よけいきれいなのかもしれないけれどね。エヴィー、あなたが入ってくれなきゃ、わたしも入れないわよ。お互いに、風邪を引いたら大変だわよ」
「はあい」
 少女は厚いガラスのドアを開けて、渋々といった風情で中に入っていった。



( 2 )

 冬は雪と手を取り合って、再びオタワの街にやってきた。十一月になると、シルバースフィアの出入り口には、厚いシャッターがおろされる。冬の間は外の運動場も閉鎖され、水耕栽培のビニールハウスも、全面的にロボット任せにされる。人々は灰色の季節を、閉ざされたアーケードの中で過ごすのだ。
「あたし、冬は好きじゃないわ。陰気なんだもん。雪の結晶はきれいだったけれど、外には行けないし」
 エヴェリーナは自分たちの居室のリビングスペースに設置された小さな石油ストーブにあたりながら、そうぼやいた。ストーブは九年前から居室ごとに一つずつ配られ、ロボットたちが街のガソリンスタンドから運んでくる灯油によって、住民たちに暖を与えていた。あまり設定温度は高くできないものの、エアコンと併用することによって、彼らは永年苦しめられてきた寒さから、解放されていたのだ。
「冬は、陰気なことはたしかね。でも、もう命取りでは無くなったことに、わたしたちは感謝すべきよ、エヴィー」レオナが微笑して、小さく首を振った。
「最初のころは本当に、冬の来ることが恐ろしかったわ。ことにアイスキャッスルで過ごした冬なんて、本当に地獄だった。その最初の冬にアールとオーロラのお姉ちゃんたちや、エヴィーとアドルのお兄ちゃん、それから他の子供たちも、みんな死んでしまったのよ。寒さと病気で。あなたたちも、もしその時代にいたら、間違いなく死んでいたわ。子供には苛酷すぎる環境だったのよ」
「アイスキャッスルか。ここよりうんと北だもんね、あそこ。たしかに寒かっただろうね。でも僕、行ってみたい気もするんだ。そんなに大勢の人が死んだところだって思うと、なんだか恐いけれど」アールの口調は、憧憬と怖れが混じっているように響いた。
「そうね。大抵の人は、あそこにはつらい思い出しかないわ。あなたがあそこへ行ってみたいと思うのは、あなたのお父さんや小さなお姉ちゃんたちが、あそこで亡くなったからでしょう、アール。わたしとロブは、他に肉親はいなかったけれど、だからその人たちをなくす悲しみもなかったけれど、でもね、愛情をかけてきた人たちが、あそこでずいぶん死んだわ。わたしたちはアイスキャッスルに対して、二つの思いを持っているの。忌まわしい苦難の地、けれどそこだけが助かった恵み。そして大事な人たちをあそこで亡くした人にとっては、ある種の、その人を恋いる思いね。あなたたちのお母さんもそうだったし、エヴィーやアドルのお父さんも、ここへきてからも、向こうで失くした前の奥さんや子供のことを、気にかけていたわ」
「パパの前の奥さんとお兄ちゃん……?」エヴェリーナは首を傾げた。
「なんだか、変な感じよね。あたし話には聞いてるけれど、二人とも写真でしか知らないし……」
「うん。ぼくもなんだか変な感じがするんだ。だってぼくたちのお兄ちゃんって、今のぼくより小さいみたいなんだもの。それにあの人は、ぼくたちのママじゃないんでしょ?」
 アドルファスも不思議そうにしている。
 二人の頭に浮かんでいただろう、その一枚の写真。それは彼らの父ジャスティンの遺品の中にあった、スマートフォンに入っていた写真をプリントしたものだ。スマートフォン自体は、彼が亡くなった時に一緒に埋葬してしまったのでもうないが、何枚かの写真が紙に印刷された状態で、残っていたのだ。その一枚の写真に写っているのは、青いレース地のドレスを着て、麦藁帽子の下から帽子と同じ色合いの髪を肩に垂らし、幸福にあふれた笑みを浮かべた小柄な女性。そして彼女と手をつないでいる、六歳ぐらいの男の子。その子は金色がかったブロンズ色のふさふさとした巻き毛で、顔立ちは全体に小作りだが、造作ははっきりしている。漫画の入った白いTシャツと赤い半ズボン、麦藁帽子という出で立ちで、楽しそうに笑っていた。背景に、青い海と白い砂浜が見える。この写真が撮られたのは世界が崩壊する二年前。場所はカリブ海のバハマ諸島の海岸。写真に添付されているデータに、そう記されていたらしい。その情報がロブの字で、裏に書いてある。
 この女性は父の以前の奥さんであり、この男の子はエヴェリーナとアドルファスの異母兄にあたることは、二人とも以前からいく度となく聞かされて知っていた。エヴェリーナはこの写真に好奇心と興味を持っていたが、しかし同時に微かではあるが、秘かな反発も感じていた。それは自分たちの知らない世界に属する。自分たちとは無縁のもの、いやそれ以上に、自分たちの存在を危うくするものだと。はっきりとそう認識していたわけではなかったが、どことはなしにそんな思いも感じていたのだ。弟の思いもたぶん自分と近いものであることも、なんとなく知っている。
「それは昔の写真だもの。でもあなたたちのお父さんも、オタワに来て携帯電話の充電が出来るようになってからは、よく見ていたものだったわ。そう……クリスチャンも生きていたら、今二二、三才くらいになっていたでしょうね」
 レオナは懐かしむような口調だった。
「そんなに大きなお兄さんなのね」エヴェリーナは不思議な思いに打たれた。
「写真では、あんなに小さいのに」
「あの子は八才で死んでしまったから、ずっと八才なのよ」
「あら、あたしたちと同じ年だわ」少女は小さく驚きの声を出した。
「じゃあ、死んだ時の歳が、そのまま天国での歳になるの? そうすると、もしあたしが中年のおばさんか、もっとおばあさんになって死んだとしたら、小さなお姉ちゃんたちは、きっとびっくりするでしょうね。それにお母さんとお父さんも。あなたが妹、娘? 嘘でしょうって笑われてしまうわ、きっと」
 オーロラが肩をすくめて笑い、エヴェリーナも困惑した様子で同調した。
「いやだあ、あたしもそんなことになったら、どうしよう」
「そういう意味ではないのよ。天国では、年令なんて考えはないと思うわ。年令というものは、肉体があるから、ついてくるものなのよ。まあ、あなたたちにはこういう抽象的な議論は、わからないかもしれないわね。わたしの言い方も、悪かったかもしれないし。いつまでもその年令のままなのは、わたしたちの心の中だけよ。でもそのうちに、きっと、何かの考えをわかるようになるわ」レオナは苦笑し、首を振っていた。
「天国に、神さまに……昔の世界か。なんだかみんな、抽象的なものだね。はっきりイメージがわかないよ」アールが首を傾げて、不思議そうに言う。
 少年のその言葉に、レオナはふっと寂しげな笑みをうかべ、ついでため息をついた。
「ええ、そうね。そうかもしれないわ。わたしたちの世界も、もうそういったイメージ世界と同じレベルのものになってしまったのね」

 ロバート・ビュフォードは中央委員会での仕事を終え、妻の待つ居室へ帰る道を歩いていた。彼ももう五十才を超し、コミュニティの中では最年長メンバーのひとりであったが、長い避難生活と十五年近くにわたるシルバースフィア・コミュニティでの陣頭指揮の心労のためだろう、その年令以上に老けてみえた。髪はすでに真っ白だ。背ははっきりと曲がり、顔には何本もの深いしわが刻みこまれている。
 シルバースフィアに移ってきてから、ずっと住んでいるそのアパートの部屋の住人は、今九人いる。自分たちの自室に使っている部屋は、ずっとビュフォード夫妻だけで変わっていない。しかし他の四部屋の住人は変わっていた。アデレードとエステルがいた部屋は今、アデレードの子供たちであるアールとオーロラが引き継ぎ、かつてジャスティンとジョージが住み、ジョージの死後、数年して、エステルが新たな住人となった部屋は、今は夫妻の子供たち、エヴェリーナとアドルファスが住んでいる。ミックとポーリーンのストレイツ夫妻の部屋だったところは、今はジョセフ・ローリングスの一家がいた。もう一部屋、最初にジャスティン・ローリングスの母と姉が使っていた部屋は、ずっと空き室になっていたが、来年アールとオーロラが十四歳になった時に部屋を分け、どちらかが入ることになっている。
「お疲れさま、ロブ」
 彼が居室の玄関を通り、中に入ると、リビングでノートをつけていたレオナが顔を上げ、微笑んで立ち上がった。
「熱いコーヒーを入れるわね。一週間に三度のぜいたくよ」
「ああ、楽しみだな。なんだかこの瞬間だけは、昔に戻ったようだな」
 彼はソファに座ると、時計を見た。
「夜の十時か。思ったより、遅くなってしまったな。子供たちはもとより、ジョセフさんたちも部屋に引き取っているようだな」
「ええ。ケイトはドロシーちゃんを寝かせに八時半ごろ部屋に引き取ったし、ジョセフさんも今日は珍しく早く帰ってきて、九時ごろに一緒に部屋に行ったわ。子供たちもそのくらいには、部屋に戻っていったし」
 レオナは夫にカップを渡した。ロブはそれを一口すすった。
「ああ、本当に微かに、コーヒーだとわかる香りがするな」
「まあ、仕方がないわね。いくら真空保管されているとはいえ、十五年物ですもの。変質していないだけ、ましよ。本物のコーヒー豆が取れるまでは、もう少し待たないと駄目ね」
「農業班が今、取り組んでいるみたいだな。温室を建てて。七、八年くらい先には、本物の取れたて挽きたてのコーヒーが飲めるかもしれないな。それまで生きていたら、だが。今は大豆やたんぽぽの根を使って、代替コーヒーを作ろうとしているらしい」
「そうね。ゆっくりゆっくりでも、少しずつわたしたちは、もとの姿に近付いていっている、いえ、近づこうとしているのね」
「ただ、どうしても取り戻せないものもある」
 ロブは天井に目をやり、首を振った。
「これからどうやって埋め合わせていくか、それがこれからの大きな課題になるだろうな。コーヒーや紅茶は農業班の頑張りに期待できるが。植物は種さえ手に入れば、類似の環境を作り出して栽培することは可能だからな。でもそこまでいくには、かなりかかるだろう。でも動物は、人工子宮の技術が開発されるまで、凍結受精卵のままで保存しておくしか手がない。今、肉はすべて缶詰で、それももう本当に残り少ない。十五年もっただけでも奇跡だろうが、それ以上はさすがに期待できないだろうな。その後は、どうすればいいのか……僕には見当もつかないね」
「でも、そういったことも含めて、みんなが必死に努力しているのでしょう?」
「そうだ。それに、いずれはなんとかできるのだと思う。僕が未来に行った時、そこで肉を食べたんだ。卵もあったし、牛乳もあった。まだ大豆の合成品だったがね。でも本物そっくりの味だった。クローニング技術も、使われていたと思う。それに、生きている動物たちも少しずつ再生されていたんだ」
「そう……そうね。あなたは今よりもずっと未来の世界に、行ったことがあったのよね。それを考えると、今でも不思議だけれど……」
「そうだ。何の恵みなのか、災いなのかは知らないがね」
 ロブは深くため息をついた。
「今となっては、あの未来を体験したのは、僕だけになってしまった。もう二六年も前の、遠い幻想だ。あれから十一年……そして世界が壊れて十五年。気がついてみたら僕だけがとり残され、この混沌の地の再建を指揮する立場になってしまった。もちろん、僕自身が何もできるわけじゃない。科学研究も、資料保存も、教育も、子供たちの養育も。ただそれをやる人たちを管理する。昔も今も、僕はマネージャーなんだ」
「でも、そういう人もいなければ、社会は成り立たないわ。アーティストにマネージャーが必要なようにね。それにあなたは今となっては昔と未来の両方を知る、たった一人の人だわ。あなたの知っている未来を作るための方針を敷いていける、ただ一人の人よ」
「それはかいかぶりだよ、レオナ。未来は僕らが作っていこうとする努力以上のものなんだ。僕らはみな、決められた道を歩いているだけにすぎないさ」
「随分な運命論者になってしまったのね、ロブ」
「ああ、でも結局、すべてを通して、こうやってきてみると、やっぱりそういう結論におちつかざるをえないね。だが、絶望しているわけでもない。絶望するためには、それに見合うだけの大きさの希望が必要だよ」
「そうね……」レオナもため息混じりに頷いた。
 ひとしきり夫婦は沈黙し、やがて妻が少し気を取り直したように口を開いた。
「今さらこんなこと聞いても仕方がないかもしれないけれど、あなたはもし、世界がこんなふうにならなかったら、今頃どうしていたと思う?」
「あれから十五年か……どうなっていただろうな。僕はまだマネージメントにいただろう。AirLaceは十五年前に一度解散しているが、世界が続いていたら、何年か先にはリユニオンして、また続けていったのかもしれないな。みんな一回引退はするが、音楽をするならこのバンドしかない、そう言っていたから。ああ、エアリィはアクアリアがあったんだろうが……でも彼もきっと戻ってきて、今頃落ち着いたベテランバンドとして、それでも巨大な存在であり続けただろうな。そして僕はまだ彼らのマネージャーで……今みんな、生きていれば、いくつなんだ? エアリィももう、四十になっているんだな。ジャスティンとロビンが四三で、ジョージとミックが四七……みんな四十代か。けっこうな年配だな」
 ロブはこみ上げてくる感情と涙を飲み下した。
「でも、これはネヴァネヴァランドだ。未来で会った博士が言っていた。ロビンも遠征前に言っていたらしいが……存在しない世界、ただのファンタシーだ。世界中を感動させるような、素晴らしいミュージシャンを、この手で育てたい。大学を出て銀行に勤めていた我が平凡なキャリアを投げ捨てて、ミュージックビジネスの海の中へダイビングしたその夢は、成就した。夢見た以上にね。でも、もっと長く、長く続けさせてやりたかった。昔の世界が続いていて、みんながまだ生きていたら……どんなに願っても、それは架空の世界でしかない。たった十一年でおしまいになるなんて、やりきれないよ。カタストロフの時でさえ、まだまだみんな、ミュージシャンとしては、これからの若さだった。それなのに僕らは最初から、もう決められた未来に向かって、走っていくしかなかったんだ。ジャスティンが日記に『僕たちは最初からスプリンターにならざるをえなかった』と書いていたが、その通りだ。エアレースというバンドは、最初から短距離走者の運命にあったんだ。それだからこそ、あれだけの爆発力を生んだのかもしれないがね」
「彼らは短距離走者だったからこそ、あれだけ密度の濃い活動ができたのか、それとも、その爆発力ゆえに短距離走者にならざるを得なかったのか……にわとりと卵みたいだけれど、時々そんな疑問は感じるわね。でもどっちにしろ、あのペースで活動したなら、あの時点で解散というのは、頷けると思うわ。時間制限がなかったとしたら、もう少しゆっくり進んだかもしれないけれど」
「君もそう思うか、レオナ」ロブはゆっくりと頷いた。
「しかしな、もし、という仮定は存在しないんだ。最初から彼らが制限なしの状態だったら、どうだったか……それもまた、ネヴァネヴァランドだ。今となっては、むなしいだけだ。彼らはもういない。残ったのは巨大な残像だけだ。みんな僕にとっては、子供みたいなものだった。随分大きな子供だけどね。夢も希望も愛情も、すべてをかけた存在だったんだ。けれど子供たちの方がみんな先に逝ってしまうとは、思いも寄らなかったよ」
「でも、孫がいるわよ」
 レオナはつとめて悪戯っぽい声を出そうとしているようだった。
「あの子たちが子供なら、その子供たちは孫ですものね。まあ、わたしたち、もうお祖父ちゃんお祖母ちゃんだわ」
「そうなるかな……」ロブは笑ったが、やがて再び頭を振ってため息をついた。
「しかし、これから僕らはどこへ行こうとしているのか、時々わからなくなることもある。たった一つの羅針盤は、未来世界で見たあの世界の姿なのだから。そこまでの道程は、どうやっていくのか、僕には見当がつかないんだ」
「弱気になってはだめよ。少しずつ一つずつ考えていけば、そのうち答えは見つかるわ」
「君は強いね、レオナ」
「強くならざるをえないわよ。さもなければ、とても生きていけないわ」
「混乱の世には女性の方が強い、か。たしかに真実かもしれないな」ロブは苦笑した。
「そう、少しずつでも進んでいくしかない。それが僕に課せられた務めだ。だが、この羅針盤を持っているのが、僕だけというのも心許ないな。僕ももう年だし、これからの人たちに、知識を引き継いでもらわなければ。僕らのタイムリープの話は、もう一般のみんなにも知れわたっているから、そっちの方はたいして問題ないが、信頼できる何人かに未来社会の詳しい説明をして、そのための青写真を検討しなくてはならないな」
「そうね。中央コミュニティのメンバーと、それから第二世代の子たちにも、それは必要かもしれないわね」
「そう。ただ、多くの人でなくてもいい。各世代を代表して数人くらいでも、十分だろう。第一世代では、僕の補佐を務めてくれている、クレイグ・ロビンソンに伝えておこう。彼は信頼がおけるし、若く健康だ。指導手腕も十分に持っている。二世代の方は……まあ、タイムリープ話は、そのうち親から聞くだろうし、実際知っている子もかなりいるが、未来世界の詳しい内容は、親世代同様、全員が知る必要はない。科学、教育、医療、農耕、それから中央管理、そのあたりの仕事の中枢数人が知っていれば、それでいいんだ。今のところ、伝えるべき第二世代はアールだな。彼は僕ら当事者の息子なんだし、第二世代を束ねられるとしたら、彼をおいて他にないだろう。時がくれば、彼が中央の仲間たちに話していってくれればいい」
「オーロラはどうするの? あの娘もアールの双子の妹なのだから、片一方にだけ話すというわけにもいかないんじゃなくて? エヴェリーナにジャスティンの記録を見せると、アドルファスも一緒に読むことになるのと同じように」
「そうだろうな。彼女にも知らせて良いだろう。あとはエヴェリーナとアドルファスだが、あの子たちはまだ八歳だし、いずれ十四才になったら、ジャスティンの記録を渡すことになるから、その時で良いだろう。そうだ、あの記録自体を、今からアールたちに預けておこうか。彼らが先に内容を読んでも、別に差し支えはないだろうし、未来世界の話はその記録を読んでもらえば、僕が説明するよりよくわかるだろう。それにあと六年、僕が生きていられるかどうか保証はないからね」
「そうね。でも、いきなりそんな話をしたら、びっくりするでしょうね、あの子たちも。真相を話して重荷を背負わせるのは、あの年令ではちょっと重すぎるかも知れないけれど、エヴィーとアドルも十四で知ることになるわけだし……そうね、ここの子供たちは、どのみち無邪気ではいられないんですものね」レオナはため息をついていた。

翌日、ロブはシルバースフィア全体の運営を担当する中央本部の部屋で、クレイグ・ロビンソンに未来社会の繊細な描写をした。彼は今年三八才になる、シルバースフィアにおけるロバート・ビュフォードの片腕だった。彼はアイスキャッスルのカタストロフ時二三才で、一緒に来ていた恋人とともにアイスキャッスルを脱出し、オタワにきた。その恋人はここでの最初の冬に、放射性障害のため亡くなり、クレイグはオタワにきて四年目に、同じグループの女性と結婚した。現在は妻との間に子供が三人と、もう一人の恋人の間に二人の息子がいる。
 AirLaceのファン層は、約三五対六五という男女比で、女性が男性の倍近くにのぼり、さらにアイスキャッスル時代の後半行なわざるをえなかった食料調達で、百人近い男性を失ったこともあって、現在生存している第一世代、約二千二百人のうち女性が千六百人、男性が六百人という、かなり極端な比率だ。それゆえ、子供を増やすという大目的を達成するため、女性が男性を借りる、男性が複数の女性に子供を産んでもらうということが、シルバースフィアでは暗黙の了解のうちに、かなり普通に行われていた。クレイグ・ロビンソンも、その例にもれなかったのだ。彼は人あたりの良さと、素早い頭の回転、そして落ち着いた性格の持ち主で、ロバートは自分亡き後、第一世代のリーダーは間違いなく彼になるだろうと保証している人物だった。
『クレイグは、性格的にはミックによく似ている。冷静で、状況を素早く見極められるところが。ミックはいわば引いたリーダーシップで、エアリィやジャスティンのサポート的な感じだったが、クレイグは率先してみなを引っ張れる。今の時代には、必要なリーダーだよ』ロブはかつて妻に、そう語ったことがある。
 ロブはつけていた日記やジャスティンの記録の詳細から、かつて見聞きした二四世紀の文明を、クレイグに説明した。クレイグはそれを聞きながら時おり質問し、ノートに書いて、いくつかのポイントを抜き出していた。
「明日、運営担当のメンバーを招集して、会議を開きましょう、ビュフォードさん。すぐには実現できないとは思いますが、そこまでの大まかな青写真とロードマップを作りたいのです」クレイグはそう提案し、「そうだな」とロブも頷いた。




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