Part 4 of the Sacred Mother's Ring - The Children of the Light

ACT 1  AGE White (白の時代) (1)



( 1 )

 クリーム色のくすんだ壁に、白い蛍光灯の光が鈍く反射していた。十メートル四方ほどの広さのこの部屋には、東側の壁に大きな窓が二つあり、少し色のさめたベージュのカーテンがかかっているが、その窓から外の景色は見えない。窓の向こうは幅一・五メートルほどの吹き抜けになっていて、そこの透明な天窓から入る光で、日差しのある時には少し明るいが、カーテンを開けても、見えるのはコンクリートの壁だけだ。この部屋は、アーケードの真ん中を通るメインストリートの高さから見れば、二階に当たっているが、シルバースフィアにおける地上は、周りの地面より八メートルほど下がっているので、地上に顔を出しているのは、四階以上なのである。だが、人々は閉鎖的なその環境に慣れていた。ことに今はもう晩秋だ。外気は寒く、毒も薄まったとはいえ、消えているわけでは決してないのだから。
 以前もオフィスとして使われていたらしいこの部屋の中には、十六台の灰色のデスクが、人が楽にその間を通れるくらいの余裕を持って並べられていた。どのデスクの上にも、パソコンとブックスタンドが乗っている。その前に座っている十六人の女性たちは、みな三十代くらいの年輩だ。彼女たちはスクリーンとスタンドの上に広げられた本のページに交互に目を走らせながら、軽快にキーボードの上に指を踊らせている。
 律動的なカタカタというリズムが絶えず響く部屋の隅に、一人の少女が座り込んで、本を読んでいた。かなり刷り切れた本だ。硬い表紙も、元は青だったらしいが、今は灰色に近くなっている。この年ごろの少女には、まだ内容を理解するのは難しいはずの本だが、熱心に活字を追っている、その澄んだ緑色の瞳には、何か未知のものを懸命に探ろうとする――子供らしからぬと言えば、そうかもしれない――道を求める旅人のような光が浮かんでいた。
 少女のいる場所から一番近いデスクにいる女性が、スタンドの上に広げてあった本をぱたんと閉じて振り返った。灰色の柔和な印象の目に、まっすぐな鳶色の髪を後ろでひとつに束ねた、三十代に入ったばかりの年頃に見えるその女性は、気さくな微笑を浮かべながら、少女に声をかけた。
「エヴィー、今度はその本を打ち込まなければならないの。悪いけど、貸してちょうだい。あなたには、今打ち込み終わった、この本を貸してあげるから」
 少女は目を上げ、差し出された本を見た。
「シェイクスピアの『真夏の夜の夢』? あたし、それもう読んじゃったわ。それ、すっごくわけがわからなかったの。だって妖精とか、魔法とか、そんなことって、あるわけがないんですもの。世界を知る参考には、絶対ならないわ」
「エヴィー、悲しいことを言わないでちょうだいよ。わたしたちの子供のころは、お伽話を信じていたわ。それにまあ、そっちの方が多分に現実的なのはわかるけれど、それでもかなり古いわよ。それにあなたにヘミングウェイは、まだ難しいんじゃないかしらね」
 とび色の髪のその女性は、少し寂しげな笑みを浮かべながら、かすかに肩をすくめた。
「ええ、難しいわよお、これって。あたしがわかるところって言ったら、十分の一もないの。でもご本って、みんなそうでしょう? ねえ、もうちょっとで読み終わるの。だから、もうちょっと待って」
  少女は相変わらず真面目な様子で、そう答える。
「まあ、いいわ。一生懸命勉強なさい。あなたのその好奇心は貴重よ。じゃあ、ちょっと疲れてきたところだし、あなたがそのご本を読み終わるまで、少し外の空気を吸ってきましょうか」
 女性はかすかに笑みを浮かべて、デスクから立ち上がった。
「ごくろうさま、エレン。そうね、あなたは朝からずっと作業していたから、少し休んだら。でも、わかっているでしょうけれど、外にいられるのは十分だけよ」
 ひときわ大きな机の前に座っている四十才くらいの年配の女性が、そう声をかけた。
「ええ、ポーラ。ありがとう。わかっているわ。もう十月の終わりですものね」
 エレンと呼ばれた最初の女性は、微かに笑みを浮かべ、頷く。それから一息おくと、少し意を決したような調子で、言葉を継いだ。
「ああ、それとね、ポーラ。朝報告しようと思ったのだけれど、作業中の本を打ち込んでから、と思ったのよ。あのね、わたし赤ちゃんができたの」
「あら、そうなの? それは、おめでとう!」
 大きな机の前に座っていた女性は、明るいトーンで声を上げた。同時に部屋にいた女性たちもみな、作業の手を止めて、同じ言葉を繰り返している。
「ありがとう。昨日、病院で確認してもらって、わかったの。わたしもやっと親になるのよ。来年の春には。あくまで無事に育つかどうかは、わからないけれど、そうであることを願いたいわ」
 エレンは少し顔をほころばせ、そっと手を腹部にあてた。
「それなら来週から、あなたは文化班を休業ね。今からでも、あまり根を詰めてはいけないわ。あなたたち、結婚して何年だったかしら」
 大きな机の前に座っていた女性、この班のグループリーダーであるポーラ・ブラッドレイは、そう聞いた。
「四年目よ。だから、無理かなと思い始めていたところだったの」
「本当に良かったわね。大事にしなさいね」
 ポーラは心から湧き出てきたような微笑を浮かべた。彼女自身の子供には恵まれなかったが、子供が増えるということは、コミュニティには常に喜ばしいことなのだ。
「ええ、ありがとう。心配はつきないけれど、できるだけ前向きにがんばるわ。シルバースフィアの住民らしくね。ここで、もう十四年もがんばって生きてきたんですもの」
 エレンはふと考え込むような表情になった。何気なく口に出した年月の重さを振り返るように。
「十四年……そうね、そんなに長い時がたったのね。アイスキャッスル時代を入れたら、十五年よ。わたしはとうとう人生で、シェルター生活が同じ長さになってしまったわ。アイスキャッスルに来た時、十五才だったんですもの」
「世界が続いていれば……どうなっていたのかしらって、時々思うことはあるわ」
 向かいのデスクの前に座った栗色の巻き毛の女性は、小さなため息をついていた。
「思っても仕方のないことだって、わかってはいるんだけれど。時々考えてしまうのよ。わたしはどうしていたかしらって。普通に大学を出て、どこかに勤めて、結婚して、子供もいてって――週末は家族で遊園地とかに行って、時々はおいしいものを食べて、おしゃれもしたのかも。それで、若いころはきっとAqualeaの追っかけをやって、もしAirLaceが復活したら、また追っかけをして、その間もきっとファンはずっと続けて……」
 栗色髪の女性はそこまで言うと、ちょっと笑って肩をすくめた。
「それは、今も変わらないわね。ファンであることには変わらない。ファン以上になっているけれど。変わったことは、世俗並みの幸せ、特に物質的なものがなくなって、わたしの親兄弟もいない。これはすごく大きいけれど、でもわたしはここで生きている。一応、恋人もできたわ。結婚はしていないけれど……子供もできた。すぐにダメになってしまったけれど、また生まれるかもしれない。それが希望ね。わたしは、希望は捨てない。あの追悼集会以来、決心したんだもの。わたしはヒロインになる。悲劇にも悲しみにもつらさにも負けないヒロインよ」
「わたしもそうよ、ノーマ。たぶんここの人たちは、みんなそうでしょうね。わたしたちはみんなが一人一人、ヒロインになって生きる。生きていく。その日その日を生きて、自分にできる精一杯のことをして。あの時アイスキャッスルに行ったことを感謝すべきかどうかなんて、そんなことはかまわない。わたしたちはここに来た。だから、進まなくてはならないのよ」
 東洋系らしい黒髪の女性が、穏やかな調子で後を受けた。
「くじけそうな時には、音楽を聴いてね。そうやってみんな、頑張って生きてきたのよね。それに、そう……考えてみれば、わたしたちが一つの国を興すのね。一つの世界を。結構スリリングな出来事のはずね。二度と元には戻れないのだということを、重大に思いすぎさえしなければ」エレンは追憶するような表情を浮かべて、言葉を継いだ。
「そうね。あの時、学校を休んでまで、兄さんと一緒にアイスキャッスルへ行かなかったら、わたしは十五歳で死んでいたわ。この街で。そしてあなたがたがここへ来た時、わたしの変わり果てた死体を蹴飛ばすことになっていたかもしれないわよ。父さんは学期の半ばに、三日も学校を休んでまでアイスキャッスルに行くことは、反対していたけど、母さんの伝手で行けるなら、どうしても行きたいって、兄さんと一緒に頼み込んで、アイスキャッスルに行ったのよね。こんなことになるとは、思いもしないで。それが幸いだったのかそうでなかったのか、そんなことはどうでもいい。わたしはここに来た、生きて。それを大切にしたいと思うわ。でも、アイスキャッスルからオタワに来た時のあの衝撃を、忘れることはできないわね。お父さん、お母さんや友達が、この中にいると考えただけで気を失いそうだった。十六だったわたしには、厳しすぎる現実だったわ」
 エレンの灰色の瞳に、悲しげな影がよぎっていった。
 
 少女は顔を上げて、大人たちの会話を聞いていた。八歳になった少女エヴェリーナ・ローリングスは、読み書きや基本的な計算などの初級課程を終わったばかりだ。これから中級課程に入るまでの、三ヶ月のお休みを利用して、この作業室にやってきては、オペレータの女性たちが打ち込む予定のものや、打ち込み終わった本を読むのが、彼女の日課だった。エレン・スターリングの母はジョージとロビンのスタンフォード兄弟の母方の従姉にあたり、彼女も第一グループのメンバーだったことから、エヴェリーナがこの作業室に出入りすることを認めてくれていていた。それに、ある意味彼ら第一グループの子供たち、ことにメンバーの子供たちは、シルバースフィアの人々にとって、特権階級なのだ。アールとオーロラほど顕著ではないが、エヴェリーナとアドルファスも、またそうだった。
 少女の飽くことなき探求心は、過去という未知の世界へ向けられていた。古い本を読むことは、少女の知らない世界に触れることだった。シルバースフィアで生まれ育ったエヴェリーナは、大人たちの言う“以前の世界”というものを、まったく知らない。このオタワ市郊外にあるシルバースフィアの大アーケードと、そこに住んでいる三千人の人間たち、その周辺の運動公園と菜園、そして農場。それが彼女の全世界だった。それゆえ少女が手当たり次第に読んでいる、いろいろな本から知る昔の世界は、彼女の小さな頭では理解しづらいものだった。そこで知識の不足を埋め合わせようと、少女は周りの大人たちを捕まえては、幾度となくこんな質問を発した。
「昔の世界って、どんなだったの? 教えて」と。
「そうねえ、うんとたくさんの人間がいて、たくさんの動物たちがいて、たくさんの草や木や花があって、いろいろなものがたくさんあふれていて、たくさんの街があって、たくさんの夢と可能性があったところよ」
 父が死んでからずっと保護者として面倒を見てくれているレオナ・ビュフォードが、いつも夢見るような、少し寂しげな微笑を浮かべながら、そう答えていた。他の大人たちの答えも、同じようなものだった。しかし、そのイメージは少女の八年間の、このシルバースフィアでの経験しか知らない頭では、ほとんど理解できない。植物も動物も、かつてのにぎやかな街も、彼女にとっては大人たちの話や、本や写真や動画という架空の世界で、抽象的に知るだけだ。はっきり理解できたのは、どうやら今と比べて、昔の世界はたいへん良いものだったに違いないということだけだった。ほとんどすべての大人たちが、その消えてしまった世界を懐かしんでいたのだから。
「もう、その世界を取り戻すことはできないの?」少女は尋ねた。
「できないのよ。もう消えてしまったから。時計を巻き返すことができないかぎり、それは不可能だわ。そしてね、エヴィー、時計を巻き返すことは、たとえ神さまでもできないことなのよ。ああ、神さまって言っても、あなたにはわからないかもしれないわね。神さまと言うのはね、わたしたち人間の上にあって、わたしたちの運命を決めてくださる人のことよ。でもね、取り戻すことはもうできないけれど、作り直すことはできるわ。わたしたちや、あなたたちや、あなたたちの子供たちの手でね。それはうんと時間がかかることだけど。たぶんわたしもあなたも、それを見届けることはできないでしょうね。でも、いつか世界はよみがえるわ。そのために、わたしたちは今ここにいるのよ」
 レオナやまわりの大人たちは、いつもそう答えていた。
 世界は壊れてしまったからもう取り戻せないけれど、作り直していくことはできる。未来はつながっていく。シルバースフィアの人々はその希望だけを頼りに、世界を再建しようとしていた。世界の崩壊から十五年がたったこの秋、ここに住む人々の数はやっと三千人ほどだ。最初に八二五二人いた第一世代の大人たちは、シルバースフィアへ来る時には五八一三人となり、それから十四年の年月の間に、二二〇〇人足らずまで減っていた。そして第二世代の子供たちが今、八百人近くいる。
 
 エヴェリーナとアドルファスの、ローリングス家の双子も、この九月に無事八才の誕生日を迎えている。母エステルが彼らをこの世に送り出すために自らの生命を使い果たし、父ジャスティン・ローリングスが子供たちに希望を託しながら四年前に世を去ってから、彼らは孤児となって、この年月を生きてきた。
 エヴェリーナは少し金色がかった明るい褐色の巻き毛を、まとめることはしないで、いつもふさふさと背中に垂らしていた。眼は鮮やかな緑だ。クリーム色の皮膚や整った輪郭、その茶色のまつげを伏せてから、ふっと目をあげた時に浮かぶ考え深そうな表情、意志の強そうな口元などが、髪や目、肌の色、それに感受性豊かで誠実な性格とともに、まわりの人たちに彼女の父親との相似を思い起こさせると、よく言われていた。
 エヴェリーナが“父の娘”であるならば、双子の弟アドルファスは母の血を多く受け継いでいるようだった。ふわふわとした金色の巻き毛や、くりっとした青い目、抜けるような色の白さや、ふっくらした頬のピンク色、笑った時に浮かぶえくぼ、ちょっと小首を傾げて見上げる表情などが、彼の屈託のない無心さ明るさと相俟って彼らの亡き母を思い起こさせると、母を知る人はみなそう言った。
 二人には、母親の記憶はまったくなかった。母のものだった携帯電話、かつてはスマートフォンと呼ばれていたそれに残された映像からプリントされたという、十枚ほどの写真には、十二、三才くらいから十七、八才くらいまでの年代の、美しい少女が映っていた。ぱっちりとした大きな目、小さな赤い口元、えくぼの刻まれているふっくらとしたピンク色の頬。くるくるとした巻き毛になって垂れ下っている、明るい金色の髪。
「きれいな人ね。それに、やっぱりアドルに似てるわ」
 エヴェリーナは憧れるような表情を浮かべて、何度も写真に見入っていた。
「あたしも、ママに似てたら良かったのになあ……」
「あなたはパパによく似ているのよ」
 レオナは手をのばして、少女のすべすべした金褐色の巻き毛を撫でた。エヴェリーナは父を慕い、その思い出を宝石のように思っていたので、母のようなきれいな金髪、ふっくらとしたばら色の頬やえくぼ、小さな赤い口元などをもっていないことを羨むのをやめようと、そのたびに思うのだった。

 エヴェリーナとアドルファスにとって、母のイメージは写真を通してしかなかった。母の携帯電話からとった一連の年若い少女と、父が結婚式の時に撮ったという写真――こちらは、父の持ち物だったスマートフォンからプリントしたものだ。そこに写っているのは、無邪気な屈託のなさはいくぶん影を潜め、穏やかな女らしさが加わったが、それでもなお明るい笑みを浮かべた女性だった。金髪の巻き毛を背中に垂らし、ピンクのワンピースに白いカーディガンを羽織っている。父と母が寄り添い、母が父の腕に手を絡めて立っている写真もあった。それはきっと誰かが撮ってくれたものだろう。父と母が結婚したのは、母の二三歳の誕生日だったと聞いていたので、この母はその年齢の母だ。そしてそれから一年半後、母は二四歳で世を去っている。エヴェリーナとアドルファスが生まれた日に。
 父の方は、おぼろげながら覚えている。父の姿や言葉、一緒に遊んだ記憶などが、切れ切れの夢のように、二人の記憶の中に散りばめられていた。父は二人の保護者であり、世話をしてくれる人であり、遊び相手であり、相談者でもあった。彼が生きていたころは、二人とも夢中で慕い、文字通り父がすべてであった。その父が死んだ時、二人の受けた衝撃と悲しみは深く、幾日も周りの大人たちを手こずらせるほど泣いていたが、やがて月日がたつにつれて、幼い姉弟はだんだんと立ち直っていった。
 このシルバースフィアで、孤児は珍しいことではない。彼らは生きていかれた。世話をしてくれる人が、親以外にもたくさんいたからである。エヴェリーナとアドルファスも、ロブとレオナのビュフォード夫妻がいたし、ジョセフ伯父や、のちに伯父と結婚したケイト・スタントン、二人が敬愛しているアールとオーロラのローゼンスタイナー兄妹もいた。彼らはローリングス家の双子にとっては従兄姉に当たり、ずっと同じ居室で育ったこともあって、ほとんど兄姉のような感覚だ。
 アールとオーロラも、今や十三才である。シルバースフィア一年目の五月に生まれた彼らは、コミュニティにいる子供たちの中では、四、五番目の年長者だ。十二歳以上の健全な子供たちは、コミュニティの中で“ユニオン”と呼ばれる集合体を形成していた。そこに所属する四十人あまりの子供たちは、今や八百人に近づいたシルバースフィア全体の子供たちを統制する、監督兼保護者でもある。アールはそのユニオンの中でも、リーダー的な存在だった。彼は生まれながらに、第二世代のリーダーとなるべき運命を背負ってきたとも言える。自身も、『AirLaceの第一人者で、今やコミュニティの守り神でもある人の息子で、なおかつ第二世代の最年長組の一人』と、幼い頃からずっと周りの大人たちから見られてきたゆえ、その運命を逃れるわけにはいかないことを、はっきりとは認識しないまでも、漠然とした意識は持っていただろう。
 アールは誰に一番似ているかと問われれば、曾祖父にあたる映画俳優、アリステア・ローゼンスタイナーであろう。それは間接的にであれ曾祖父を知る人すべての、一致した意見であった。その相似は容貌だけでなく、とりわけ気分によって光線によって様々な色に変化する、灰色の目によるところが大きいだろう。巻き毛になって肩にたれている髪は、今なおプラチナのような銀色に輝いていた。ちょうど彼らが母の胎内で命を得た前後にアイスキャッスル全体が追い込まれていた厳しい生存環境のストレスと放射線、その両方が悪戯した造形なのだろうか。その銀色の髪に、ちょうど左の耳の上あたりにひと房、鮮やかな青い色彩が映える。
 双子の妹オーロラは、女の子でもあることで、兄よりはいくぶん気楽な立場にあったようだ。彼女もユニオンの主要メンバーであったし、亡き父親のように自然体で人を引きつける魅力も持っているようで、子供たちの人気度は絶大だったが、『リーダーなんて面倒よ。あたしはみんなと遊んでいたいの』それが彼女の信条らしく、良くそう口にしていた。濃いヘヴンリーブル―、その神秘的な色彩の大きな瞳と、頬から顎にかけての芸術的なラインは父親譲り、その他の造作は母譲りのオーロラも、兄と同じく銀髪で、右側に細く青い流れが入っている。ほぼまっすぐに近いその髪は銀色の光のように、背中まで垂れていた。
 エヴェリーナとアドルファスにとって、アールとオーロラはもっとも身近な頼れる兄姉であり、またそうなりたいという憧れでもあった。そして彼らが七歳の時に死別した母親アデレードの記憶をはっきりと持っていること、さらにはローリングス家の双子の母であるエステル――エヴェリーナやアドルファス自身には全く記憶にない母のことまで覚えているのが、うらやましく思えた。アールとオーロラにとって、エステルは小さな子供の頃よく遊んでくれた、優しい叔母だった。エステルが新しい双子の誕生と同時に世を去った時、彼らは五歳だった。それゆえおぼろげだが楽しい記憶が、二人の心には残っているようだった。
「いいなあ、アールお兄ちゃんもオーロラお姉ちゃんも、ママのことを覚えてて。それに自分のママだけでなく、あたしたちのママのことまで覚えてるなんて。あたしたちママのことって、何も覚えてないのよ。不公平だわ」
 エヴェリーナはいつか、そう言ったことがある。アドルファスも同じようなことを。二人にとって母親の記憶というものは、何か神聖なものに感じられたのだろう。
「僕の記憶を君たちにあげられたら、良かったのにね」
 アールは困惑した表情を見せながらも、優しい口調でそう答えていた。
「でも、それは無理よ。エヴィーもアドルも、気持ちはわかるけど、仕方ないことを言ってもしょうがないじゃない。その分、いろいろ想像したら?」
 アールよりいくぶん現実的な性格のオーロラは、苦笑しながら首を振っている。
「想像するの?」エヴェリーナは問い返した。
「そう。だって、実際にはいないんだから、それしかないじゃない。写真はあるんだから、イメージできるはずよ。ロブ小父さんとかレオナ小母さんとか、あたしたちよりもっとエステル叔母さんのことを知っている人にいろいろ聞いて、イメージしてみたら。きっとこんな人だったのだろうって」
「でも、イメージって、あんまり浮かばないんだ」
 アドルファスが首を傾げて、困ったような表情をした。
「それは想像力が足りないのよ、アドル。童話の本でも読んでごらんなさいよ。エヴィーみたいに」
「でも、オーロラ。なにも足がかりがないところにイメージするのは、結構難しいよ」
 アールが二人を援護するように、そう口を出した。
「あなたも想像力不足なんじゃないの、アール」
「そうかもね。でも、君自身たとえば、僕らのお父さんのイメージって湧くかい?」
「ああ、それだけは例外だわ!」オーロラは肩をすくめていた。
 エヴェリーナとアドルファスにとっての最大の神秘が、自分たちが生まれてすぐに死んだ母ならば、ローゼンスタイナー兄妹にとってのそれは、彼らが母の体内に宿るのとほぼ時を同じくして、世を去った父だった。殊にその人は、今や伝説と化している。コミュニティの守り神として、半ば神格化されている。そんな父に生身の人間としてのイメージは湧きにくく、またその父ゆえに、シルバースフィアの大人たち全員から特別な目で見られることに、兄妹は戸惑いに似た気持ちを抱き続けてきた。アールは重圧に似たものを感じて困惑し、オーロラは『あたしたちには関係ないことなのに』と反発する。

 アールとオーロラには父の記憶がなく、エヴェリーナとアドルファスには母の記憶がない。しかし生まれながらにして片親というのは、シルバースフィアでは決して珍しくはなかった。出生時に母親が死亡してしまい、父親は不明か死亡、母方の兄弟もいないために、生まれながらにして、もうすでにまったく身寄りがないと言う、極端な例すらあるのだ。
 スフィアの中には、様々な子供がいた。正式に結婚した両親の間に生まれて、まだ両親ともに健在という好運な子、片親に死に別れた子、両親ともにすでにいない子、もともと母子家庭に生まれて、母親がまだ生きている子、母親に死に別れて、父親が後見人になっている子。そういう境遇上の区別とは別に、もう一つの分類がある。健常者か障害者か。シルバースフィアの子供たちは、全体の一割強の子が、何らかの障害を背負って生まれてくるのだ。
 親の保護が十分でない様々な種類の子供たちの受け皿となる施設が、コミュニティには四つ存在した。保護者はいるが他の家庭を持っているなどの事情で世話が十分出来ない子供たちの、一時預かり的な施設である、『めぐみの家』と、『愛の家』――前者は健常児のための、後者は障害児専門だ。それから保護者がまったくいない子供たちのための孤児院としての機能を持つ『光の家』と、『みどりの家』。もとのシルバーホームやケアセンター、さらにその上階にあるアパートメントの一部も利用して作られたそれぞれの施設は、コミュニティの中で独立の一セクションとして機能し、養育班のメンバーたちによって運営されている。四つの施設に含まれる子供たちは、第二世代の子供たちのうち、三分の一近くにのぼっていた。
「あなたたちは、まだ幸せなのよ。『みどりの家』の子供たちを見てごらんなさい」
 エヴェリーナとアドルファスが母親のいない寂しさを口にすると、レオナはいつも慰めてくれたが、最後には決まってこう言った。身よりのない障害児たちの施設である『みどりの家』は、大人たちにとっては憂鬱と悲しみの種であり、子供たちには同情の的だった。ここには現在、最年長の十三歳になるマリー・ライトフィールドという女の子から、三日前に生まれたジェシー・ターナーという赤ん坊まで、現在五三人の子供たちがいた。この赤ちゃんはまだ病院だが、もうすでに身寄りが全くないという、その“極端な例”の一人だ。母親は子供を産むとすぐに死んでしまい、父親は不明、なおかつ重度の心身障害を持っている。こんな例も、『みどりの家』では決して稀ではなかった。
「本当にみどりの家の係は大変だわ。でも一番大変なのは、そこにいる子供たちね」
 レオナはため息混じりに、よくそう言っていた。
「あなたたちも第一に、ちゃんと五体満足に生まれてきたことと、それからお父さんお母さんがはっきりしていることを……たとえ死んじゃっていてもね、それを感謝するべきよ」
「うん。でも、誰に感謝したらいいの?」アドルファスが怪訝そうにそう尋ねた。
「運命の神さまに、よね」オーロラが肩をすくめ、
「でも、運命の神さまって、いったいなんだろうね」と、アールは真剣な口調で首を捻る。
「そうよね。そもそも、運命と神さまって同じなの?」
 オーロラは首を傾げながら疑問を投げかけ、エヴェリーナはこんな質問を発する。
「ねえ、神さまって何? 運命って?」
「あなた、お話の本を読んでいて知らないの、エヴィー?」
「うん。だってオーロラお姉ちゃん、あたしご本読んでも、ほとんど何がなんだかわからないんだもの」
「じゃあ、いったい何が面白くて、本を読んでいるのよ」
「面白いんじゃなくて、知りたいの。昔の世界を。お従姉ちゃんは知りたくない、昔の世界を? だって大人の話を聞いていると、すごく面白そうな所なのよ」
「興味はあるわ、あたしだって。だからいろんな本とか人の話を聞いて、イメージしているんじゃない。でも、あなたみたいに何がなんだかわからなかったら、想像しようがないんじゃなくて? わからないところはほうっておかないで、聞かなくてはダメよ」
「うん。それで、神さまや運命って、いったい何なの?」
「あたしも、あまりよくわからないわ。人間じゃなくて、目には見えなくて、ここじゃない、どこか別の世界にいるって言うことくらいしか」
「お従姉ちゃん! それじゃ、さっぱりわからないわ。もっとちゃんと知ってるのかと思ったわよ!」
「無理言わないでよ、エヴィー。あたしだってシルバースフィア生まれなのよ。昔の世界や考え方なんて、知るわけがないじゃないの。だいたいそういうものなのかなあって漠然としたものはあるんだけれど、はっきりとはわからなくて当たり前よ。タイムマシンでもなければ、無理だわ」オーロラは笑いながらそう抗議していた。
「もし本当にタイムマシンがあったら、絶対見てみたいな、過去の世界を。昔のお父さんたちにも会ってみたいよ」
 アールは憧れるような表情を浮かべ、「ぼくも!」「あたしも!」と、ローリングス家の双子が同時に声を上げる。
 子供たちにとって、過去の世界は未知だった。自分たちの知らない、何かおもしろそうなことを発見できるのではないかという、強い憧れに近いのだろう。彼らは四人とも過去の失われた世界に興味を持っていて、よくそのことについて話し合ったが、なにぶんにも昔の知識を何一つ持たない頭には、はっきりしたことは何もわからない。しかしそれでも、過ぎ去ってしまった世界を知りたいという思いは彼らに限ったことでなく、シルバースフィアにいる八百人弱の子供たちのうち正常な思考力を持った子たちの間の、共通の関心事だったようだ。

 エヴェリーナは八才の誕生日とほとんど同時に、読み書きと四則演算をマスターした。昔の世界の基準で言っても、早熟な子供だったかもしれない。その精神性も普通の八才の子供より、やや成熟していた。それでもなお彼女の心にある子供の無邪気さと絶対的な経験の不足から、消えてしまった世界のイメージを、頭に描くことは出来なかった。そこで初級教育から中級に移る間の猶予期間を利用して、昔の本を読み、経験の不足を補おうと思いついたのである。ただ、『わからないことは放っておかないでその場で聞かないと、ちゃんとしたイメージなんか湧かない』というオーロラの言葉はたしかにそのとおりだと認めてはいても、一生懸命作業している大人たちを中断させてまで聞くのは、ためらわれた。エヴェリーナの探索は一人だけの手探りの困難さに満ちてはいたが、そのうちに何かイメージが湧いてくるかも知れないと言う一筋の希望のもとに、本を読み続けていたのである。
 この作業室は、約百人近い第一世代の人たちで構成されている『文学保存班』の、専用室のひとつである。彼ら彼女らはここで、ロボットたちによって表面をきれいに拭いた後に運び込まれた、オタワ市内の図書館や本屋に残っていた一万冊以上の本を、PCを通して、スフィア全体を管理するサーバーのデータベースに打ち込むという、かなり気の遠くなるような作業を行っていた。電子書籍は以前の世界でも一般的になっていたが、それを記録したサーバーは世界崩壊時に大半のデータが破損しまっていたので、使うことは出来なかった。しかし、紙の本はやがて腐食していってしまうだろう。それゆえ、これから未来へ向けて発展していくであろう世界に、少しでも以前の世界の姿を知ってほしいという望みによって、この作業班は編成された。かつて人類が最初の文明を起こしてから数千年の長きにわたって積み上げてきた文化を、科学を、そして歴史を、これからの子孫たちの知識の記憶から消さないために、愛していた世界の木霊を、キーボードを通して、日夜コンピュータに打ち込み続けているのだ。




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