Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第7章 甦りゆく世界 (2)




 お互いにそっくりな双子が遊び心を起こして入れ替わる。そんな話は聞いたことがある。『二人のロッテ』は読んだことがないが。エステルとメイベルがちょっとした悪戯心を起こした時、運命の衝撃が襲い、幼いメイベルの心に強いショックと混乱をもたらした結果、彼女はまわりの間違いを受け入れてしまったのか。
 見分けもつかないほどそっくりな双子──僕は妻の双子の相方には会ったことがないが、エアリィの部屋ではじめて写真を見た時、そこに写っていた彼の双子の妹、幼い二人の女の子たちが、まるでコピーしたようにそっくりだったことに、驚いたものだった。
『顔も体つきも声も髪型も、まったく同じなんだよね。ほくろの位置まで同じだって、あれほど完璧そっくりな双子って、見たことなかったよ。おまけにたいてい同じ服着てて』
 エアリィがかつてそう言っていたことを、思い出した。
『それで、周りは区別がついたのか?」と、僕が聞くと、彼は肩をすくめて答えていた。
「いや。だから、目印つけてたっけ。“E・S”、“M・S”ってイニシャルを服につけたり、あと髪の毛を結ぶ時リボンの色を変えたりね。じゃないと、下手すると母さんですら間違えるから」
 僕の脳裏に、記憶がよみがえってきた。スタジオのラウンジで──そう、あれは『Eureka』を録音中、休憩時間でのことだった。コーヒーを飲みながら交わした、たわいないお喋りの一つだ。その時には、たいして気にも留めなかったのだが。
『だからかな、ホントに助かったのはエステルなのかなって、僕は時々不思議に思ったんだ。エステルだってわかったのは、ピンクのリボンと座席の位置だけだから』
 エアリィはあの時、そう続けていた。
『でも、本人が自分はエステルちゃんなんだって、思っているんだろ? 仮によく物語にあるみたいな、取り違えとか入れ替わりが起きていたとしても、本人ならわかっているんじゃないのか?』ジョージが肩をすくめて、首を振っていたものだ。
『うん。ま、そりゃそうなんだけど……気になるのは、事故前の記憶が良くわからないって言ってることなんだよね。それだけ衝撃が大きかったんだろうけど』
『記憶障害なんだね。それは……でも、どうなんだろう。もしかしたら、君には区別がついていて、それでなんとなく違う感じがするとか?』
 ロビンに問いかけられて、エアリィは『うーん』と、考えこむような表情をしていた。
『わかんないんだ。けど、昔は見分けられたよ。二人並べたらね。一人ずつだったら、確率落ちるけど。でもどんなにそっくりな双子だって、性格までそっくりってわけじゃないし、微妙にパーソナリティ違うから、そのうちわかってくるんだ。それで、事故のあとのエステルは、前とちょっと人格変わったんだよ。たしかに大きなショックだったから、性格変わるってことあるだろうけど。記憶障害起こすくらいだから。でも、時々メイベルの人格感じることがあって、なんか不思議に思ったんだよね。でも……』
 彼は少し黙った後、小さく頭を振って笑っていた。
『でも、今の彼女はエステルなんだよね。事故で間違ったとか、メイベルに憑依されたとか、それともずっと生まれながらの本物のエステルだとか、そんなこと今の彼女には、たいした問題じゃないんだ。彼女はエステル・ステュアートとして、自我を持って生きて、存在してるんだから。人生って、結局それに尽きるんじゃないかな。自分は自分だって意識を持って、自分で見て聞いて考えて感じて、生きてるってことが。だから僕は不思議に思うのはやめたんだ。もし彼女が本当はメイベルで、将来的に何かの拍子で思い出したとしたら、彼女自身は混乱しちゃうかもしれないけどね。でも結局メイベルだろうとエステルだろうと、彼女は彼女に違いないし』
(エアリィ、おまえはどこまでわかっていたんだ──?) 
 妻の肩を抱きながら、今はもうこの世にいない友に、強烈にそう問いかけたかった。彼はわかっていたのだろうか。ロンドンの病院で臨死体験をした時も、『弟と妹に会ってきた』と言った。『メイベルに会ってきた』ではなく。
(そして、僕はどうすればいいんだ──?)
 エステルは僕の胸に顔をうずめ、小さく身体を震わせながらしゃくりあげている。そう、やっぱり僕にとって、彼女はエステルだとしか思えない。元の名前が何であれ、彼女は彼女だ。妻の兄である友が、かつてそう言っていたように。
「エステル……メイベル……君がなんであれ、君は君だよ。僕の妻だ」
 僕は妻の膨らんだおなかを圧迫しないように気を付けながら、そっと腕に力をこめた。
「ジャスティン……」
「とりあえず、部屋に戻ろう。もうかなり寒くなってきているのに、何も上に着ないで、スリッパのまま廊下に出るのは、よくない。冷えてしまうよ。君は今、大事な身体なんだ。無理しちゃ、いけないよ」
 僕は妻を促し、寝室へと戻った。僕は彼女をベッドに寝かせ、その髪をなでながら、さっき記憶によみがえってきた会話を繰り返して聞かせ、そして付け加えた。
「ねえ、エステル……メイベル……君の気持ち、ショックだったのは、僕も少しだけ理解できるよ。アイデンティティが揺るがされるのは、たしかにショックだろうと思う。ことに今の君は、かなり気分が高ぶりやすい時だからね。でも、今までの二四年半を生きてきたのは、紛れもなく君だろう? かつての世界で青春の夢を抱いて、世界の崩壊にあって、アイスキャッスルの地獄を生きて、ここでの苦難にも耐えてきたのは、君なんだよ。その中で優しさと明るさをいつも忘れなかったのは、君なんだよ。エステル……メイベル……どっちだって、かまいはしない。僕は、そんな君が好きなんだ。僕だけでなく、君を知る人たちすべてがきっと、そんな君を好きだと思うよ。自信を持って。君はファントムなんかじゃない。君は君自身だ。生きている君自身だ。そしてステュアート博士の娘で、アランさんとエアリィの妹で、アデレードさんの義妹で、アールとオーロラの叔母さんで、僕の妻で、もうすぐ生まれてくる僕たちの子供たちのお母さんだ。それで充分じゃないかい?」
「……そう、ね……あたしは、あたしなのよね。今まで生きて……今もここにいて……」
 彼女は僕を見つめ、しばらく黙ったあと、小さく言った。
「ありがとう、ジャスティン……」
「君のことを、どう呼んだらいい?」僕はもう一度妻の金髪をなで、そう問うた。
「エステルでいいわ。今まで通り。急にメイベルとは、呼べないでしょ? それにあたしも、今さらそう呼ばれても、変な感じがしてしまうもの」
「そう。わかった……」
「『エステルとメイベルは一緒になったんだと思えばいい』って、お兄ちゃんが言ったわけ、やっと本当にわかったような気がするわ」
 エステルはかすかな笑みを浮かべ、そう続けた。
「あたしはエステルとメイベルと、二人の命を生きているのよね。本当のエステルの分も」
「ああ、そうだね……」僕は頷き、妻の手を握り締めた。
「不思議に思うわ。改めて考えると。あたしがあの時、エステルと入れ替わらなかったら、あたしはいつもの座席にいて……たぶん死んでいたわ、あの時に。窓を開けようとして、立っていたから、入ってきたトラックの積荷の鉄パイプに、まともに頭を直撃されていたと思うの。そして本当のエステルは意識を保ったまま、火に包まれて……」
 彼女は震えた。僕も寒気を感じながら、握る手に力を込めた。
「運命のいたずらに、感謝しないとね……」
「ええ……」
 まもなく、妻は眠ってしまった。もう思い悩んだような表情はなく、まるで子供のような無邪気な、美しい寝顔だった。僕は彼女の細い手を、再びそっと握った。そう、エステルでもメイベルでも、僕にとっての君は、君だけだ。君が生きてここにいてくれて、本当に良かったと。

 その翌々日の夕方、エステルは産気づいた。僕はロブとジョセフの協力を得て、妻を病院に運び込んだ。若い見習い医師と元助産婦研修生だった看護婦、それからレオナが後見人として付き添っている。もちろん僕も一緒だ。
 それは僕が初めて目のあたりにした、新たな生命誕生の戦いだった。クリスの時には、ロード中だったのだ。しかし実際にこうして自分の子供のお産に立ち会った時、僕が感じたのは感激よりも心配や不安、無力感の方が大きかった。
 医師が予想したとおり、難産だった。子供はなかなか産まれない。陣痛の間隔は産気づいたその夜、九月二四日の夜半には、三分を切るほど狭まってきた。でもそれから先が、もどかしいほど進まない。翌日いっぱい、二、三分間隔の陣痛が続いた。痛みは少しずつ強くなるようで、その日の夜には、間隔も一、二分に狭まってきている。だがエステルには、それ以上お産を進行させる力が得られなかったようだ。初産のせいもあるのだろう。陣痛が効果的に来ないのでなかなか子宮口が開かず、さらに双子の位置の難しさも重なってか、子供は出て来られない。三日目に入った二六日の朝が明けても、まだ子供は生まれなかった。
 その間ずっと苦痛に苛まれているエステルは、どんどん衰弱していくのが、僕にも感じられた。 真っ青な顔をして、苦しそうにあえいでいる。時おり痛みに顔をしかめるけれど、『痛い』と声をあげる気力も、もうないようだ。
 僕はそんな妻の手を握り、励ましの声をかけ続けることと、陣痛の合間に、少しでも水を飲ませたり、彼女の身体をさすったりすること、陣痛が起きている時も、時おり手を伸ばして腰をさすること――そんなことしかできなかった。自分の子供を送り出すことさえ、僕は無力なのか――そう思うと、ひどく自分が情けない。

「これ以上長引くと、母体が持たないでしょう」
 二六日の午前十時ごろ、ついに若い医師が難しい顔で宣告した。
「本来なら帝王切開をしたほうがいいんでしょうが、この条件下で、手術は出来ないんですよ。私も医科大学で五年まで勉強して、数回手術の実習もやったことはあるんですが、それだけですから。器具は揃ってはいるんですけれど、やっぱり危険が伴いますし、実際怖いです。自信が持てないんですよ。万が一のことがあったらと。かと言って、へたに陣痛誘発剤もかけられませんし。余計衰弱させてしまうかも知れませんし、子宮破裂の恐れもありますから。ある程度難産は予想されていましたが、本当に難しいですね。やっと子宮口は全開したけれど、あまりここから時間がかかると、赤ちゃんにかなり負担になるんですよ。実際、子供の心搏も落ちてきているし、このままでは母親も子供もダメになってしまう危険性が、十分にあると思います」
 僕は背中から冷水を浴びせられたような恐怖を覚えた。ここまできて、またすべてを失ってしまうなんて、とても耐えられない。
「エステル!」僕は妻の手を握り締め、強く呼びかけた。
「がんばれ! 赤ちゃんを早く出さないと、だめなんだよ。がんばって力を入れて……君なら出来るよ! 僕はここにいる。頼むから、がんばってくれ!」
「うん……」
 彼女は僕を見て、かすかに頷いた。ぎゅっとバーを握りなおし、必死の力を振り絞ろうとしているようだ。短いうめきが食い縛った唇の間から漏れる。その力が頂点に達したと思えた時、変化が起こった。
「あっ!」助産婦役の看護婦が声を上げた。
「頭が見えたわ。ちょっと力を抜いて……」
 彼女は手を消毒液に浸し、手を入れて赤ん坊の頭を支える。
「今だ、力を入れて。気張って!」医師が言った。
「がんばれ! 君なら出来る! がんばれ!」僕はそれしか言葉がない。
「うっ!」
 エステルは短いうめきともに、白い骨が浮き出るほど力をこめてバーを握り締め、身体に残っているありったけの力を、必死で振り絞っているようだった。赤ん坊の肩が外れ、やがて全身が外へ出た。へその緒をつけたままの血塗れの赤ん坊が、ベッドの上に敷いたビニールシートに横たえられる。
「おぎゃあ!!」
 大きな産声が響いた。医師と看護婦が手早くその子を取り上げ、へその緒を切り、産湯で身体を清める。僕はドキドキしながら、生まれ落ちた嬰児の姿を確認した。ちゃんと手足が二本ずつ、指も揃っている、顔もちゃんとしている、うっすらと髪の毛すら生えている。まったく普通の赤ん坊だ。安堵と嬉しさがこみ上げ、思わず飛び上がりそうになった。
「女の子よ」看護婦さんがそう報告した。
「ちゃんと五体満足だわ。とても元気よ」
「よし、この子の名前はエヴェリーナだ!」僕は考えるまもなく、そう叫んだ。
「よくやった、エステル! 娘が生まれたよ! ありがとう! ごくろうさま」
「まだ終わりじゃないのよ、ジャスティン。もう一人いるのよ」
 レオナが頭を振って、苦笑した。
「そうです。まだもう一人……気は抜けませんよ」
 医師も額の汗を拭いながら言う。
「そうだ。もう一人いるんだ。ごくろうさまは早かったね、エステル。大変だろうけれど、がんばってくれ。僕にはそれしか言えない」
 手を握った僕を見、妻はかすかに微笑んだ。そして小さく頷く。やがて最初の子供の後産が出、一分ほどの短い休息ののち、再び陣痛が襲ってきたようだった。

 それから二時間ほど、苦闘が続いた。そして、やっと赤ん坊は入り口まで来たが、最初に出てきたのは、頭ではなく足だ。
「逆子か……」医師が呟いた。
「やっかいだな、これは」
「ひっぱればいい……」思わずそう言葉が出た。アールが生まれた時も逆子だったから、最後に足を引っ張ったと聞いた。この子も――。
「頭が子宮口を抜けていれば、そうした方がいいかな。鉗子はないけれど、手でいけるだろう」医師が頷いた。
「足が見えていれば、大丈夫かも……」
 看護婦も頷く。やがて彼女はおもむろに小さな足首を掴み、鋭く言った。
「力を入れて、いきんで! 思いっきり!」
 短いうめき声とともに、エステルは最後の力を振り絞っていた。顔は紫色になり、握った僕の手に爪が食い込んで、血がにじむほどだ。同時に看護婦がそろそろと足を引っ張った。やがて胴体がずるっと引きずり出され、首まで来た時、医師は息みをやめて力を抜くように指示した。そして最後のいきみ――赤ん坊の全身が外に出た。だがシートの上に寝かされた血塗れの小さな男の子は、泣き声をあげない。
「間に合わなかったか? いや、一応やるだけやってみよう」
 医師は小さな赤ん坊をお湯につけたあと、足首をつかみ、逆さまにぶらさげて、背中をぴしゃっと叩いた。一回、二回、三回――それでも、子供は泣かなかった。
「だめか? いや、最後にもう一回だけ……」
 パンと小さな全身が揺すぶられ、そして奇跡が起きた。赤ん坊は羊水を吐き出すと、全身を震わせ、泣いた。
「おぎゃあ!!」
 一瞬止まっていた僕の心臓も、その声を聞いて再び動き出した。その感動を忘れられない。駄目かと思った息子は、奇跡的に息を吹き返した。すぐに全身を清められ、白い産着を着せられて、二時間先に生まれた姉の側に寝かせられている。
「よかったわ、蘇生して……」
 若い看護婦が、ほおっと安堵したように息をついた。
 僕も忘れていた吐息を、深い深い安堵のため息をもらした。
「良かった……」
 涙が頬を濡らす。並んで動いている、小さな二人の赤ん坊……僕の娘と息子。彼らが無事、この世に生を受けた。五体満足で。
「おめでとう。元気な男の子と女の子よ。よく頑張ったわ、エステル」
 レオナも涙ぐみながら、そう声をかけていた。
 三日にわたる苦闘を終えたエステルはかすかに微笑み、呟いた。
「見せて、赤ちゃん……」
「ほら」僕は片手に一人ずつ、赤ん坊を抱いて見せた。
「こっちが娘。約束どおりエヴェリーナってつけたよ。こっちは息子。名前はまだ考えていないな。でも、すごいじゃないか、エステル。いっぺんに男の子と女の子を同時なんて。僕は凄く嬉しいよ。本当にご苦労さま。ありがとう」
「うん……」彼女はかすかに顔をほころばせ、頷いた。
「よかったわ。あたし……アールとオーロラが、生まれた時ね……いいなあって、思ったの。男の子と、女の子、いっぺんにって。あたしも、そうだったらなって。でも、本当に……そうだったなんてね」エステルの微笑みは顔中に広がり、そして両手をさしのべた。
「あたしに、抱かせて……」
「ああ。君と僕の子供たちだよ。ほら」
 僕はそっと二人の赤ん坊を彼女の腕の中においた。
 エステルは子供たちを抱きかかえ、一人ずつ見ながら、嬉しそうに微笑している。
「ねえ、ジャスティン……」
「なんだい?」
「男の子の名前……あたしつけて……いい?」
「もちろんさ。どんな名前?」
「アドルファス……」
「いいよ。なかなか貴族的な名前だね。どこから取ったの」
「子供のころにね、可愛がってた……猫の名前。でも、その猫ちゃんの名前ってね……ママが読んでくれた絵本の、ファンタシーの……ヒーローの名前なの。あたしずっと、憧れてて。でも……変な趣味か、なあ。でも、もし、その子が……猫の名前なんて、いやだって、言ったら……言ってあげなくちゃ、ね。あなたの名前は、正義のヒーローから……取ったんだって……」
 彼女は再び微笑んだ。満足そうな、幸せそうな微笑だった。両手に抱いた赤ん坊に一人ずつゆっくりといとしむように頬摺りをし、やわらかい頬に唇を触れている。
「エヴェリーナ……アドルファス……」
 エステルは小さな声で、わが子たちの名を呼んだ。
「時間がかかって……ごめんね。あなたたちも……苦しかった、わよね。でも、無事に生まれてきて、くれて……ありがとう。本当に、良かった」
 大きな青い目にうっすらと涙が浮かんだ。彼女はすっかり細くなった指でわが子たちの頬を撫でながら、静かに呟いている。
「エヴェリーナ……アドルファス……元気に育って……いっぱい、遊ぼうね……」
 エステルは涙をにじませたまま、ゆっくりと微笑んだ。そして赤ん坊たちを自分の胸に引き寄せようとした。しかし、力は途中で消えてしまったようだ。身体に一瞬激しい震えが走ったように、彼女は全身を震わせた。小さなけいれんのような動作だった。頬に触れそうなほど長いまつげがゆっくりと目にかぶさり、赤ん坊たちを抱いた両腕が、両脇に垂れ下がる。だがその手はなおもしっかりと、わが子たちを抱きかかえようとしていた。
 若い医師は母親の手から赤ん坊たちを取り、新生児用のベッドに寝かせたあと、その様子に何かを感じ取ったようにエステルの胸に聴診器を当て、顔色を変えた。
「心拍が急激に落ちている! 血圧は?」
「上が六五です。下は測れません」
 看護婦がすっかり細くなってしまった妻の腕に測定機をつけると、あわただしげにそう報告している。
「急いでバイタルのモニターをつけて。出血している?!」医師がそう聞き、
「ええ。二度目の後産が出てから、まだ止まらないです。大出血というわけではなさそうですが」看護婦が手早い動作でその措置をしながら、答える。
『どうしたんですか……エステルは大丈夫ですか?』
 僕はそう聞こうとしたが、声にならなかった。
「まずい! 昇圧剤と、強心剤を打とう! あと、輸液を!」
 医師はモニターを見ながら、慌てた様子でそう叫んでいる。
 妻のベッドは、再び慌ただしさに包まれた。僕はその間、呆けたようにベッドのそばに突っ立ったまま、エステルの顔を見ていた。何も考えられなかった。再び頭の中に白い靄がかかってしまったようだった。
 
 手当の甲斐なく、エステルは意識を戻さぬまま、それから三十分もたたないうちに、世を去っていった。モニターの心拍がフラットになった時、僕はただその無慈悲な一本の線を、茫然と見ていることしかできなかった。医師と看護婦は心肺蘇生を試みたが、その線が再び動くことはなかった。心臓停止から十分が過ぎた時、医師は蘇生の試みをあきらめ、簡単な診察をした後、僕に妻の臨終を告げた。
「お気の毒ですが……」医師は小さく頭を振りながら、言葉を継いでいる。
「原因は、主に二つ考えられます。奥様は重度の妊娠中毒に陥っていたので、そのために心臓に負荷がかかり、双子の出産に耐えられなかったのか、それともやはりその影響で、血圧が上がって、脳内に出血したのか。たぶん、先の可能性のほうが大きいと思いますが、あとのほうも完全に否定はできません。確かめることはできませんが」
「かわいそうに……」レオナが僕の隣で泣いていた。
「この環境のせいね。アイスキャッスルから今まで、エステルちゃんは本当にがんばってきたれど、やっぱり相当体力的に無理をしていたんだわ。そこに双子を妊娠して……だから妊娠中毒になってしまったのかも。そして、難産がとどめになって……エステルちゃんのお祖母さん、レナさんも心臓が弱かったらしいから、もともと彼女も強くなかったのかもしれない。それで、力を使い果たしてしまったのね。自分の命と引き換えに、子供に命を与えたんだわ」
「嘘だ! 僕はそんなこと、信じない!」
 僕はベッドの上に眠る妻を見下ろしながら、我知らずそう叫んでいた。枕の上に広がった明るい金髪の巻き毛に縁取られて、穏やかな幸せそうな笑みを浮かべ、眠るように横たわっている、若く美しく快活だった妻が、僕から永遠に去ってしまったなんて、とても信じられない。彼女は我が子のためにその命を燃やし尽くし、二四年半の短い生涯を閉じてしまった。僕はまた妻を失ってしまった。やっと新しい愛と家族のいる人生を見つけることが出来たというのに。
 エステルは長い耐乏生活にもお産の苦しみにも汚されない、美しい穏やかな姿で眠っていた。昔の小天使のような面影をそのまま留めて、美しい夢を見ているように。抱きしめた妻の身体には、まだ温もりが残っていた。その短い生涯の終わりに、彼女は自分自身の失われたアイデンティティを思い出し、そして二人の子供を世に送り出した。
 二度目の妻の命日は、友の命日でもある。兄妹で六年の時をはさんで、偶然同じ日に世を去っていった。
『みんな短命なのが、気にかかります。アリステアもアグレイアも事故で、三十代半ばで亡くなってしまいましたし。アーディスとエステルには、それを超えて長生きしてもらいたいのですが』
 マインズデールのシスター・アンネ・マリアが、かつてそう言っていたこと、その中に明らかに(しかし悲しいことに、そういう予感はしない)という含みが感じられたことを、僕は改めて思い出した。シスターの予感は正しかった。エアリィもエステルも、ともに二十代半ばで世を去ってしまったのだから。
 エステル――僕の二度目の妻、友の妹でもある彼女は、しかし本来はメイベルで、運命の小さな悪戯がなければ、五歳で母と本物のエステルとともに、事故で死んでしまっていたのかもしれないのか――それから二十年近く生きられたこと、そして二人の子供を生み出したことは、彼女にとっては幸運だったのか。たとえそのお産が、命と引き換えになってしまったとしても。そう思えば、救いはあるのか。いや――痛みは軽くなりはしない。どうして逝ってしまった。どうして、もう会えない。会いたい! もう一度話したい! 寂しい。悲しい。どうしたらいい?――この思いを、僕も何度感じ続けただろう。アイスキャッスルで、そしてシルバースフィアで。クリス、ステラ、父さん、母さん、姉さん、ロビン、エアリィ、ジョージ、ミック――そして、エステル。君もそっち側へ行ってしまうなんて――。
 胸の中を、暗く激しい嵐が吹き荒れていた。出口のないままに。僕は床に跪き、両手をついた。涙が床に流れ落ちていった。




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