Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第7章 甦りゆく世界 (1)




 オタワの街は、ゆっくりと再生していった。でも、かつてそこに住んでいた人々は、もう戻らない。生き残った僕たちも、危険の中で生きている。伝説の大嵐の後、劇的に薄まった街の放射線量は、それから六年の歳月を経て、さらに減衰していた。でも食物や水や空気を通じて、微量ではあるが少しずつ埋め込まれた爆弾が、徐々に人々の中で炸裂していくようだ。ここに来た時には六千人近くいた人間も、今では三千三百人あまりしかいない。その中で完全に健康と言える人は、おそらく半分いればいいほうだろう。でもみんな、生命のための苦闘を続けている。
 ありがたいことに、子供たちの数は増えていっていた。今ではスフィア全体で、二百人くらいの子供たちがいる。亡くなる人も多いが、生まれる子供も少しずつではあるが、増えてきているのだ。しかしフォールアウトの影響は、ここでも拭いきれない。流産になったり、早産で助からない子、生まれた時にすでに死んでいたり、数時間、長くて数日で死んでしまう子、生まれつき障害を負った子、そういう子供たちが、以前の世界に比べ、かなり高いパーセンテージでいるという、重苦しい事実の中で。それでも新たに誕生する生命たちを見ると、僕は世界の再生の確信を強くする。僕たちの世代は、やがてみんな死に絶えてしまうだろう。でも、新たな世代たちが築いてゆくのだ。新しい世界を。

 僕たちにとって、幸福な一年が過ぎようとしていた。この避難生活下で、昔の世界のような幸福は、とくに物理的なものは、もう望めないけれど、お互いに幸せだった。再び愛し合い、信頼し合える夫婦でいられるということは、本当にすばらしいことだ。若い妻は愛らしく快活に、誠実に僕を愛してくれた。彼女の笑い声は金の鈴が鳴るようで、まるで希望の鐘のように耳に響く。僕たちの会話は尽きず、楽しく、時には真剣に、何時間でも語り合った。言葉のない時には、幸福な沈黙を楽しんだ。長い灰色の生活の後でやっと手にしたこの幸福は、まるで宝石のように貴重な日々だった。
 珠玉の一年が過ぎ、再び春が巡りくるころ、僕らに貴重な贈り物が授かった。エステルに子供ができたのだ。予定日は十月の初め。妻は無邪気に喜んでいた。
 再び自分の子供ができる。それは本当に素晴らしいことだ。でも僕は喜びの中に、一抹の不安を感じないではいられない。我が子は無事に生まれて、育ってくれるだろうか? シルバースフィアには次々と新しい生命が誕生しているが、生まれる前に消えてしまったものも多く、また生まれてすぐに死んでしまう生命や、重い障害を持つ赤ん坊たちも異常に多い状況の中で。それでも子供は彼女の中で、順調に成長していった。
「大丈夫よ。絶対、元気に生まれるわ。あなたとあたしの子だもの。それに、ほら。とても良く動くのよ。元気な証拠だわ」
 エステルは大きくなってきたお腹をそっと撫でながら、ステラの時に見たような母の微笑を浮かべて、よくそう言っていた。すぐに僕も彼女の確信に、心から頷くことができるようになった。お腹の赤ん坊は、無事に生まれて生きるだろう。なぜなら、この子がきっと未来世界で知った僕の娘、あの手紙を書いた、エヴェリーナなのだから。十月と九月の違いこそあれ、生年もぴったり合う。もしあの娘が未来の事実なら、絶対に僕らの子供は、生きて育つに違いない。
 エステルはよくステラがそうしていたように、お腹の子供に向かってやさしく話しかけ、時々澄んだ声で、そっと子守歌を歌ってやっていた。
「君も歌がうまいんだね、エステル。ブロードウェイ・スターの卵だっただけあるよ」
 僕がそう誉めると、
「パパの子供のわりには、でしょ? あたしはママの方にある程度、似てくれたようよ。でもあたしは本当に卵だから、スター歌手になろうなんて、大逸れたことは考えないわ」
 妻は悪戯っぽく笑って答える。

  眠りの国の、眠りの精が
  風を渡って窓を叩く
  私たちの楽しい国に
  一緒にいらっしゃいと
    牧場はみどり、お空は青
    風は絹の響き、雨は水晶の竪琴
    夜は群青の青
    ダイアモンドの星くずの中
   黄金の三日月の船にのって
   きらきらこぼれ
   夢の中に降ってくる

 この歌を、彼女は繰り返しお腹の子供に歌って聞かせてやっていた。僕も前に何度も聞いたことがある。初めはエアリィがアイスキャッスルで子供たちに歌ってやっていたのを聞いた。アデレードも双子が四〜五才になるまで、この歌を歌ってきかせていた。不思議に心の琴線に触れる、波のような美しいゆったりした旋律だ。
「この歌、何の子守歌?」
「これね、たぶんお兄ちゃんのオリジナルだわ。ロザモンドが生まれた時に作ったって、言っていたもの。ロージィもティアラもこの歌大好きだったし、あたしも教えてもらって、覚えたの。CDにしないのっていつか聞いたら、『えー、無理!』って、笑われたけれどね」
「うーん。子守歌か。バンドとしては少しミスマッチだな、やっぱり」
 僕は思わず苦笑した。シングルのカップリングならありかもしれないが、それでも異色すぎる。
「やっぱりそうよね。だから、あたしも出来るだけ歌っていっているの。アデレード義姉さんだってそうよ。せっかくだから、残していきたい。お兄ちゃんが作ったんだし、きれいな歌ですもの。第二部も残せたら、もっと良かったんだけど」
「第二部って?」
「この子守歌、かっこよく言えば、二部構成なの。これは第一部、『大地の母の祈り』、ティアラが生まれてしばらくしてから、お兄ちゃんは第二部を作ったらしいわ。『天の母の祈り』をね。でも、これはあまり歌わなかったから、お兄ちゃん本人しか知らないのよ」
「じゃあ、物理的にはエアリィと一緒に消えてしまった歌なんだね」
 しかし、どこか記憶の中で、頭をもたげてくるものがある。
「あれ、でも『天の母の祈り』って、どこかで聞いたな」
 しばらく考えた末、思い当たった。アイスキャッスルでエアリィがロザモンドの臨終の時、歌ってやっていた曲だ。たしか――。
 私の腕で遊びなさい、子供たちよ
 私の膝でお眠りなさい、子供たちよ
 私の胸にいらっしゃい、子供たちよ
 おまえたちの光が私の――。

 そこから急に思い出せなくなった。たぶん日記を見れば、言葉は書き留めたはずだから、歌詞だけは残っているだろう。しかしメロディが消えてしまうと、歌自体の意味はほとんどなくなってしまうような気がした。音楽を覚えていることにかけては自信があったのに、何年もたつと、やっぱり忘れてしまうのだろうか。
 僕は思い返そうとした。やはりメロディも歌詞も、頭から消えてしまっている。ただ、あの時感じた情景や感情だけは思い出せた。まわりには何もない、ただ満天の星空の中で、その広大な腕に守られて、安らいでいるようなイメージを感じたことを。これはエアリィが作り出した、叙情の世界だ。バンドの音楽がそうであったように、彼には言葉やメロディを超えた感情世界を作り出す才能があった。この曲にも、彼が歌わない限り伝わらない意味がある。やはりこれはエアリィと一緒に、向こうの世界へ行ってしまう運命だったのかも知れない。
「残念ねえ、もう一息なのに」エステルは首を振り、微笑していた。
「第一部だけでも、伝承しようよ、せめて君が覚えているならね。僕はもう、歌を覚える自信をなくしたよ。もともと歌うのは得意じゃないしね」僕は苦笑して答えた。

「ねえ、大ニュースよ!」
 七月の終わりに、病院の検診から戻ってきたエステルは、部屋に入ってくるなり、僕にそう告げた。
「双子なんですって! 前から心音が重なって聞こえるって言われていたんだけれど、今日超音波を使って、確認してもらったの。赤ちゃん、二人いたのよ」
「本当に?」
 驚きだったが、よく考えれば納得できる。エステルは月令のわりにお腹の脹らみ方が、記憶しているかぎりでは、ステラがクリスを身篭もった時よりも大きかった。ちょうどアデレードが双子を身ごもった時のように。いや、エステルは小柄だから、よけいに大きいような感じがしていた。七月の半ばごろからは、少しの動作をするのにも肩で息をして、つらそうになってきてもいた。そうか、双子だったのか――。
「本当よ。あたしもびっくりしちゃった。アデレード義姉さんの双子にも驚いたけれど、あたしの赤ちゃんも双子だったなんて」
「そうだね。でも君自身も双子の片割れだったんだし、やっぱり遺伝かな」
「あたし、双子の片割れって言い方は好きじゃないわ。なんだか一人では半人前みたいな感じがするのよ」エステルはちょっと口を尖らせて、そう抗議した。
「ごめん。気に障ったら謝るよ」僕は両手を合わせて、おどけて頭を下げる。
「気に障った。でもいい。許して上げるわ」彼女はにっこり笑った。
「でもね、双子って、考えようによっては変なものね。あたしの言うのは、一卵性双生児よ。アールとオーロラは二卵性だけれど、あたしとメイベルは一卵性だったの。自分とまったく同じ姿形の人間が、もう一人いるのよ。なんだか自分の分身みたいなの。でも外見は同じだって、中身は違う人間だわ。でも、みんなはあたしたちをよく二人まとめて『双子ちゃん』なんて呼ぶの。それがあたし、なんとなくいやだったことだけは覚えているわ」
 彼女は軽く頭を振り、言葉を続けた。
「メイベルが死んでしまったのは五才の時だから、あたしも細かい記憶はないのだけれど、昔はいつも二人だった、それだけは覚えているの。たしかにあたしと同じ姿かたちの女の子が、もう一人いた。いつもいっしょにいて、お互いに分身みたいな感じを持っていてね。一緒に遊んで、話をして、同じベッドに寝て、同じ服を着て。あたしたち、本当によく似ていたって、お兄ちゃんたちも言っていたわ。同じ髪型で、おそろいの服を着て、同じ顔で。ほくろとか、そういう見分けられる目印もなかったから、髪のリボンの色を変えたり、違うブローチをつけたりして、見分けていたらしいの。事故にあって、あたしだけ助かった時、あたしはピンクのリボンをつけていて、メイベルは白だったんですって。それにいつも車に座っていた座席の位置で、あたしはエステルなんだって、わかったほどだったらしいわ」
「へえ。でも、たしかに一卵性の双子って、奇妙かもしれないね。自分とそっくりな人間が、もう一人いるわけだからね」
「そうなの。不思議よね。一卵性双生児って、元は一人の人間のもとが、二人に分かれて育っているわけでしょう? あたしね、メイベルが事故で死んでしまったことがわかった時、ものすごく……ううん、悲しいとか寂しいは当然だけれど、それ以上に不安だったし、頼りなさを感じたものだわ。あたしはもう二度と一人前になれない、あたし自身の半分がなくなってしまった、そんな気がしたのよ。でもね、プロヴィデンスでの夏、家のリビングでアーディお兄ちゃんにそう訴えたら、お兄ちゃん、言ったわ。『じゃ、溜め込むのは良くないから、僕の後について言って! どうしてママは死んじゃったんだ! どうしてメイベルは死んじゃったんだ! どうして二人とも、もういないんだ! 会いたいよ! もう一度、話したいよ! もうずっと会えないなんて、いやだ! 寂しい! 悲しい! ホントに悲しい! どうしたらいい?!』って。あたしも大声でそう叫んだら、泣けてきちゃって。そうしたらお兄ちゃん、頭を振ってから、あたしをぎゅって抱いてくれたの。『でも言っても泣いても、帰ってこないんだよね、二人とも。そんな僕らの思いを天国で感じて、(あ〜ごめんなさい。そんなつもりはないのよ)って、悲しく思っちゃうかもしれない。だからさ、がんばろ、エステル。僕たちは生きてるんだから、二人が天国で心配しないように、いつか会える時まで。僕も出来るだけ、おまえの力になるから。それでさ……メイベルのことは、考え方を変えてみないか。半分なくなったんじゃなくて、一緒になったって。メイベルとエステルは一緒になって、これからも生きていくんだって。ほら、エステル、鏡を見てごらんよ。メイベルがいるみたいだろ? 二人はそっくりだったんだから』って、玄関にあった大きな鏡のところへ連れて行ったの。あー、ホントだって、あたしは思ったんだわ。あたしたちは鏡で映したたみたいにそっくりだったから、鏡の向こうにメイベルがいるみたいで。『エステルの姿を通して、メイベルに会えるよ。これからも会いたくなったら、鏡の前に行けばいい。姿だけで、返事はしないけど。エステルとメイベルは今までずっとおんなじように大きくなってきたから、これからもきっとおんなじように大きくなっていくはずだよ。だからおまえの姿は、メイベルの姿でもあるんだと思う』お兄ちゃんはそう言ってくれた。それからあたし、ずっと毎朝鏡を見て、『メイベル、おはよう!』って言ってきたわ。寝る時にも、鏡の前で今日あったことを話していたの。あたしたちはそっくりだったから、本当にメイベルに会えるみたいな気がしていたわ。あたしの姿を通して、メイベルもいる。あたしたちは、二人一緒だ。あたしが大きくなれば、彼女も大きくなるんだって。決して返事はしてくれないけれど、心の中にしかいないけれど、本当にそれはどうしようもないことだから、あたしは生きていくしかない。あたしたちがそっくりで、写真じゃなくて、鏡の前に行けば一緒に成長できるのが、少しでも嬉しい。そう思ったのよ」
「うん。そうだね」僕は頷き、思った。いつの世も、別れは存在する。今の暗黒期だけでなく、平和だった時代でも、その非情な真理は、変わりはしないのだと。
「今もそうね。変わりないわ、あの時と」
 エステルも寂しげな表情を浮かべ、首を振った。
「あたし、まだあの時は五歳だったけれど、大切な人が急に、それもずっといなくなってしまったって悲しさが、今でも忘れられないわ。そしてその思いを、アイスキャッスルからずっと、何度も繰り返している。あまりにみんなどんどん逝ってしまうから、少しは慣れるかと思うんだけれど、全然だめ。そのたびに思うの。どうして逝ってしまったの。どうしてもう会えないの。話したいのに。寂しい。悲しい。どうしたらいい?って、あの時の言葉を。言っても帰ってこないのは、わかっているけれど、天国で心配するっていうのもわかるけど、そして、あたしたちはここで生きて行くしかないって、わかっていても……それでも、思いは止められないわ」
「そうだね」僕は頷き、その肩を抱いた。
「本当に、あの時からみんな多くの愛する人たちを失ってきたのね。あなたもそうだけれど、あたしもそう。ロージィ、ティアラ、お兄ちゃんにパパ。それからドリアンも」
「エイドリアン・ハミルトンくん? そうだね、彼が行った時も、君はずいぶん悲しんでいたね。君は彼のこと、愛していたの?」
「そうね、たぶん……ドリアンは現実的な初恋だったのかもしれない。それほど夢中というわけじゃなくて、大切なお友達のように思っていたけれど。お兄ちゃんはあたしとドリアンが一緒になったらいいと思ってた、なんてあの時言っていたけれど……そうね、もし彼が今も生きていたら、そういうこともあったかもしれないって思うの。現実に“もし”は、ないんだけれど。彼とはお兄ちゃんの家に遊びに行った時に、知り合ったの。その時はお互い子供だったし、ただ気の合う友達になれそうって感じだけだったわ。あとになって、あたしがNYに行った時、彼もたまたま向こうの音楽学校に通うことになってね。その時にはあたし、頼りになる友達が居てくれて、本当に心強かったわ。だからドリアンが逝ってしまった時には、とても悲しかった……」
 彼女は一瞬寂しげな表情になったが、やがて顔をほころばせて僕を見た。
「でもあたし、大事なものを得たわ。あなたと、この子たち」
 エステルは大きくなったお腹をさすって、僕の手とると、その上から触らせた。
「ほら、元気に動いてるわ。服の上からでも、わかるくらいでしょ?」
 はちきれそうに大きくなったピンク色のマタニティドレスが、時々小さく盛り上がるのが僕にもわかった。押さえた手のひらから生命の躍動が感じられる。
「そうだね、失う一方じゃなかったことを、僕らは感謝すべきなんだ。新しい生命をいっぺんに二つも授かるなんて、僕らにとって、この上ない祝福だよ」
 僕はそっと彼女を抱き寄せた。

 八月の終わりに、一般グループの中で、双子を身ごもっていた女性がお産になった。しかし、その子供たちは生まれることが出来なかった。最初の子供が途中で引っかかり、お産に手間取っているうちに、二人ともお腹の中で息絶えてしまったのだ。帝王切開が出来ない今、難産はとりもなおさず母体と赤ん坊の命を危険にさらす。
「こういうことになるんではないかと、思っていたんです」
 若い医師が苦渋に満ちた顔で首を振っていた。
「この子たちはシャム双生児なんですよ。胴体の一部が癒着しているので、普通だったら帝王切開をしなければならなんです。まず子宮口は通らないですからね。もっと早くにわかっていれば、早産させたんですが。母体も絶望です。このままでは、苦しみばかりが増してしまう」
「せめて楽に死なせてやって下さい。お願いします……」
 若い父親がすすり泣きながら言った。医師は頷き、産婦の腕に注射を打った。三十分後、彼女は眠るように世を去った。
 僕はその現場に居合わせていた。いたたまれない気持ちだった。若い夫婦の悲劇にも胸を痛めたが、僕の双子たちは大丈夫なのだろうかと、不安で気分が悪くなりそうだった。利己的だと恥じはしたが、どうしてもその心配はなくならない。
「奥さんの赤ちゃんたちは、少なくともシャム双生児ではないですよ」
 あとでその医師が、僕に告げた。
「超音波を見るのはあまり得意ではないんですが、そのくらいはわかります。ただ、ちょっと位置的に難しいかも知れない。それに、奥さんは骨盤が少し小さいようですから、多少、難産になるかも知れませんね」
 その言葉にまた不安がわき上がる。でも、エステルには言うまい。彼女によけいな心配はさせたくない。特に今は、かなり体調が不安定なのだから。

 夏が進むにつれて、エステルは身体を動かすのが、ひどくつらそうになってきていた。九月に入るころには部屋を横切るのさえ途中で休むようになり、一日中ベッドの上で壁に頭をもたせかけ、肩で息をしながら座っていることが多くなってきている。皮膚の色も透き通るように色を失い、食欲もなくなった。
「大丈夫?」僕が心配して聞くと、
「うん……」彼女はかすかに微笑んで頷く。でも、あまり大丈夫そうには見えない。
 僕は心配のあまり、九月半ばに医師の往診を頼んだ。
「重度の妊娠中毒でしょうね」診察に来た若い医師は、そう診断を下した。
「このまま放っておけば、母体が危険になると思います。とは言っても、今の私たちが出来る治療といえば、彼女に絶対安静を命じることと、塩分と水分を制限することくらいしかありません。あとは早く子供が生まれることを待つだけです。長引くと危険でしょう」
「わかりました……ありがとうございます」
 僕は胸の鼓動が異常に早くなるのを感じながら、ただ頷くことしか出来なかった。妻が生命の危険にさらされている。でも彼女を助けるために祈るほか、何が出来るだろう。

 九月も下旬に入った、ある夜のことだった。僕は夢を見ていた。
 あたりは一面の野原だった。夜明けを迎えようとしているころで、小山の向こうの空に紫と鴇色の混ぜあわせたような、柔らかい色あいを投げている。遠くに小さな木が見える。
 ここはランカスター草原だ。昔、そう十六年前、急に姿を消したエアリィを探しに行った時に来た、マインズデール郊外の。僕は草原の中を通る細い道を歩いている。あの時と同じ風景。でも、光の木はこんなに小さかっただろうか? 
 突然、天に光が走った、薄紫色の空から白い光が、すうっと糸を引くように、木の上に落ちた。僕は聖書にあるヤコブの梯子を想像し、思わず胸に手を組み合わせて祈った。やがて僕は歩みを続け、木のそばを通りかかった。
 赤ん坊の泣き声が聞こえる。朝の露を含んだ緑色の草の上に、白い幼児服を着た生後半年ほどの小さな赤ん坊が、うつぶせになって泣いている。近寄ってみると、目鼻立ちのはっきりした、可愛い子だった。金色のやわらかい巻き毛がふわふわと頭をおおい、まつげの長いぱっちりした大きな目は灰色――いや、光の加減で、紫にも緑にも青にも黒にも見える、不思議な色合だ。赤ん坊はさかんに手足をばたばたさせ、這って前に進もうとしながら、訴えるように泣いていた。
 僕は赤ん坊を両手に抱きあげた。赤ん坊は不思議な色合の瞳を大きく見開いて、僕をじっと見ている。やっと人がわかり始めた頃の赤ちゃんが、知らない人間に出会った時、(この人は誰なんだろう?)と不思議そうに、探るように見つめる、あの表情だ。僕は軽く赤ん坊を揺すりあげ、すべすべした丸い頬をちょっとつつきながら、笑ってみせた。
「大丈夫だよ」
 赤ん坊はなおも不思議そうに僕を見つめていたが、やがてしゃくり上げながら、小さな手を差し出してきた。
「よしよし」僕は幼子の背中を軽く叩いて宥めた。そして同時に、この子はいったい誰なんだろうという現実的な疑問がわいてきた。
(アリステア……アリステア……ランカスター?)
 僕の心の中に、不意にその名前が浮かんできた。そう思ったとたん、赤ん坊は小さな子供になっていた。同じように変化する瞳に、銀色の巻き毛。ひと筋の青い髪。
「約束したよね。やっと会えた。オタワで……」
「アール!」僕は思わず、子供の名前を呼んだ。
 かつての夢の残像がかすめた。未来世界で最初の夜に見た夢。
『いつか、オタワで会いましょう、神父さん。僕らは、そういう定めらしいから』
 そして、マインズデールで会った、幻影の言葉。
(あなたの陽のパートナーは、まだこの世に生まれてはいない。あなたが彼に会うのは、かなり先です)
 僕たちは昔会った。僕はヨハン神父、アールはアリステア……アリステア・ローゼンスタイナーとして。さらにアリステア・ローゼンスタイナーは四十年前に行方不明になった赤ん坊、アリステア・ランカスターと同一人物だ。そして僕たちは今、再び会った。お互いにまったく異なった人生を歩みながら、ほんの一瞬重なった。
(今回のあなたたちの関係は、以前ほど近しくはない。それでもあなたはやはり、彼の保護者的な立場になるでしょう)
 そうだ。僕たちは再会していた。ここ、シルバースフィアで。僕の陽のパートナーは、親友の遺児として、二度目の妻の甥として、僕の前に現れていた――そんな認識が強烈に意識を揺さぶった時、すべての風景が闇に吸い込まれていった。

 僕は目覚め、汗を拭った。なぜ、こんな夢を見たのだろう。わからない。かつて感じたデジャヴ、もしくは畏怖の思いが再び心の底から湧き上がってくるのを覚え、同時に非常な不安を感じた。しかし、今は関係ないことだ。
 僕は得体の知れないざわめきを払いのけ、傍らで眠っているはずの妻を振り返った。しかし、そこにエステルの姿はなかった。シーツが小さなへこみを残している。触ると、まだ微かに暖かい。起き出して、それほど時間はたっていないのだろう。でも、あの身体でどこへ行ったのだろうか。
 僕は起きあがり、寝室のドアを開けて、リビングへ出た。明かりの消えたリビングにも洗面所にもバスルームにも、誰もいない。玄関のドアを開け、廊下へ出てみた。常夜灯の薄暗い灯りの下に、人影が見える。足早に歩いて、遠ざかろうとしている。今のエステルの身体では、それほど早く歩きはしない。しかし後ろ姿は、紛れもなく彼女だった。背中に垂れた長い金髪も、ピンクのネグリジェも。
 僕は走り出し、追いついた。やっぱりエステルだ。僕は腕を取り、立ち止まらせた。
「エステル。どうしたんだい? どこへ行くんだい?」
 彼女は僕を振り返った。ネグリジェの上には何もはおらず、足にはスリッパをはいたままだ。頬には、涙の跡がある。その上に、新しい涙が二、三滴、こぼれおちていった。
「どうしたんだい、エステル。どうかしたのかい?」
 僕は妻の細い両肩をそっとつかみ、問いかけた。エステルは小さく身体を震わせ、僕を見上げた。
「あたし……」そう言ったきり、再び身体を震わせる。
「どうしたんだい、いったい」
「あたし……夢を見たの……」
「どんな?」僕は妻の肩を抱き寄せ、落ちつかせようとつとめた。
「怖い夢でも見たのかい? それとも、不安なのかい? 大丈夫だよ」
「違うの!」エステルは激しくかぶりを振った。
「違うの! あたし、事故の夢を見たのよ。プロヴィデンスでの……」
「ああ……強烈な体験だったんだろうね」僕は妻の手を握った。
「わかるよ。今、君はちょっと神経が高ぶっているんだ。だからきっと……」
「違うの!!」エステルは激しく遮った。
「あたし、思い出したのよ!」
「ああ、事故のことをかい? 君は小さな頃だったから、あやふやな記憶しかなかったって、言っていたね。それにショックもあって、思い出さなかったんだろうって。でも、夢ではっきり思い出されてきたのか。怖かっただろうね、今になって、生々しくそんなことを思い出すなんて。小さい時の怖い体験は、大きくなっても夢の中に……」
「だから、そうじゃないの、ジャスティン!」エステルは再び激しく遮った。
「それ以上のことなのよ! あたし、なぜ今まで思い出さなかったのか、不思議なくらいだわ! 五才までの記憶はたしかにあやふやだけれど、あったのに。事故のショックで混乱したのね、きっと。だから、みんなの言うことを、そのまま信じこんで……」
「いったいどうしたんだい、エステル?」
「だから……あたしは、エステルじゃないのよ!」
「えっ?」僕は思わず言葉を失い、彼女の顔を見つめた。
「あたしは、メイベルなの! 事故で死んだのはエステルで、あたしはメイベルなの! 夢で見て、はっきり思い出したのよ。ああ、あの時……あたしたちはバレエのレッスンに行っていたの。あたしたちはおそろいの服で、レオタードも同じだったけれど、見分けがつくように、髪をまとめるリボンの色を変えていたのよ。あたしは白で、エステルはピンク。それで、そのレッスンの途中で、エステルのリボンがほどけたの。ちょうどあたしのも、ちょっとほどけかけてるみたいだったから、結びなおしてくるって、二人で洗面所に行ったの。その時にあたし、『ねえ、リボン結びなおすなら、そのリボン、あたしがつけたいな』って、エステルに言ったのよ。あたし、あなたも知っていると思うけれど、ピンクが大好きで、ピンクのリボンをつけたかったの。ピンクと白だと、あたし白が当たることが多くて、羨ましかったのよ。『うん。じゃあ、あたしに白いリボンちょうだい、メイベル。それで面白いから、入れ替わっちゃわない? 今日はあなたがエステルで、あたしがメイベルになるの』って、エステルが言ったの。ちょうどあたしたち、『二人のロッテ』っていう、双子が入れ替わるお話の絵本を、前の日に幼稚園で読んでもらったばかりで、それで、あたしたちも出来るかも、そう思いついたのだと思うわ。だから、『わあ、それ面白そう』って、あたしも言って、お互いのリボンを取り替えたのよ。でも五才の子供だから、ちゃんと結べなくて、ママが戻ってきたあたしたちを見て、『あらあら、エステル、メイベル。がんばったけれど、やっぱりあなたたちにちゃんと結ぶのは、まだ無理ね。こっちへいらっしゃい』と、結びなおしてくれたんだけれど、あたしたちが入れ替わったことには、気がつかなかったみたい。あたしたちはちょっとどきどきしながら、顔を見合わせてにっこりしたの。それでレッスンが終わって、あたしたちは家に帰るために車に乗ったの。もちろん席も取り替えてね。あたしは右側のエステルの席へ、エステルは左側のあたしの席に座ったわ。外は雨が降っていて、車の中は蒸し暑かったから、あたしはシートのベルトを外して立ち上がって、窓を開けたの。エステルが『雨が降りこんじゃうわよ、メイ……』と言いかけて、それでママがなにか言おうとして……たぶん、あたしたちが入れ替わったのに、気がついたのかもしれないわ。でも、そのかわりに急に、叫び声を上げていたの。その後すぐに、ものすごい衝撃が来て、何もかもが真っ白になって……あたしは身体が外に飛び出したのを覚えている。それから路肩に落ちて、気を失ったのね。あたし……目が覚めた時『エステル』って呼びかけられたから、あたしはエステルなんだって思ったの。あたしは、今日はエステルなんだからって……そう返事しなきゃって、反射的に思ったのかもしれない。それに事故の衝撃で、少し精神的に変になっていて、あたしはエステル……その思いだけが残ったのかも。でも今日だけっていうことは、思い出さなかった。バレエスタジオに行ってから事故に遭うまでの記憶はすっぽりなくなっていて、それより前の記憶も、ものすごくあいまいになっていたから。だから、あたしはエステルだって信じたの。さっき夢に見て、あたしは本当はメイベルだったんだって、思い出すまで……」
 あまりにも予想外の事実に、僕は完全に言葉を失った。エステルはエステルじゃない? 実は彼女は五才の時事故で死んだとされていたメイベルで、実際に死んだのはエステルだった? 本物のエステル・ステュアートはメイベル・ステュアートとして葬られ、本物のメイベルはエステルとして生きていた──?
「あたし、何がなんだか、わからなくなってしまったわ」
 妻は両手を握り、身を震わせた。
「あたしはなんなの? 誰なの? 二十年近く前に死んでしまった幽霊なの? あたしがエステルじゃないとしたら、エステルとして生きてきた五才から今までは、いったいなんなの? 教えてよ! あたしはいったい、どうしたらいいの!」
「エステル……いや、メイベル! 落ちついて!」
 僕は妻を抱きしめた。思わず呼びなれた名前を呼び、ついで本来の名前を付け加える時感じた、不思議な違和感のようなもの──混乱したアイデンティティ。彼女はきっと僕が感じている何百倍も何千倍も、混乱し当惑しているのだろう。




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