Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第6章 荒野の花 (3)




 春も間近になった三月終わりの昼下がり、エステルと僕は二人だけで居室にいた。ロブ夫妻は定例のコミュニティの運営委員会に出かけ、アデレードは子供たちをつれて広場に行っていた。アランとジョセフはもちろん研究所だ。
 エステルはひとりでリビングのソファに座り、父親の肖像を描いていた。彼女は絵を描くのが得意で、毎年リビングにかけるカレンダーも作ってくれている。そのカラフルな絵は、部屋に彩りを添えてくれていた。
 彼女はアイスキャッスルに持ち込んできたスケッチブックにも、よく絵を描いていた。風景や静物画もあるが、身内の誰かが亡くなると、しばらくの時間をおいて、その肖像を描いている。見せてもらったそのスケッチブックの最初のページには、アイスキャッスルのゲートから見た全景が描かれていた。その次のページには、中年――いや、もう六十歳を超えていると思われる、年配の女性が描かれている。紺色の格子縞ワンピースにエプロンをかけ、まっすぐな茶色の髪を後ろに一つにまとめ、銀縁のめがねをかけた、どことなく鋭い眼差しだが、それだけではない表情の、痩せた女性。『これはミル伯母さん』エステルはそう説明していた。次のページは、もの問いたげに無邪気な表情でこちらを見ている、白い犬。この犬には、僕も見覚えがある。エアリィの家で飼っていた、ハスキーとサモエドのミックス犬、トリクスターだ。その犬を最初にもらってきたのは、エステルだという。友達の家で生まれた一匹を。ただ、家の家政を見てくれているミリセントさんはあまり犬が好きではなかった上に、活発過ぎて家の中を引っ掻き回すし、だんだん大きくなってきて手に負えない――『誰かほかに、飼ってくれる人を見つけてきなさい』そう伯母に命じられ、ちょうど家を建てたばかりの、兄のところに持ち込んだらしい。エステルも、とてもかわいがっていた犬。『伯母さんもトリクも、もう生きていないだろうから』と、アイスキャッスルの十二月に描いたという、二枚の絵。その次の絵は、ランカスター草原の風景画。さらに二枚の静物画の後、ティアラ――雪だるまを作って無邪気に笑っている、小さな姪の姿が描かれていた。それからさらに数枚の静物画、風景画の後、その姉ロザモンド――これはアイスキャッスルでの彼女だろうか。小さなテーブルの上にノートを広げて、勉強をしている姿だ。さらには花畑や草原の風景画、数枚の静物画の後、エアリィ――彼女には兄。彼の肖像はそれこそ一般の人たちの間でも、絵のうまい人たちに頻繁に描かれているが、エステルが描いたのは、彼が最後の遠征から帰ってきて、飛行機のタラップから降りてきた姿だ。エステルは決して写実的記憶の持ち主ではないらしいが、その一瞬がよほど彼女の印象に、強く刻まれていたのだろう。それは僕の脳裏にも焼きついている姿だった。そして今描いている父親の絵はパソコンの前に座り、キーを叩きながら考えている姿だ。おそらく父の研究中、何度も見てきた光景なのだろう。
 鉛筆で描かれ、色鉛筆で彩色された、彼女の失われたファミリー。僕は黙って彼女の側に腰をおろすと、その絵を見ていた。そして彼女が絵を描き終わるのを待って、声をかけた。「うまいね。君は絵の才能があるよ」と。
「ほんと? お世辞でもうれしいわ」エステルは少し悪戯っぽく微笑し、スケッチブックをたたむと、少し遠くを見るような目で話しはじめた。
「あたし、子供の頃から絵を描くのは好きなの。よく描いていたわ。でも、絵描きやイラストレーターになろうって考えたことは、なかったのよ。『母さんの夢に縛られることはないじゃないか。自分の好きな夢を見れば』って、いつかお兄ちゃんに言われたことがあるけれど、あたしはやっぱり小さい頃からミュージカルスターになるって、ずっとその夢を追っていたの」
「ああ、君は中学を出てから、NYでミュージカルスクールへ通っていたんだっけね。向こうにいる遠縁の叔母さんのところに下宿させてもらって、ハイスクールにも通っていたって聞いたよ。最後の年の春から舞台に出ていたんだってね。すごいじゃないか」
「でも、ほんの端役よ。五分間の群舞が二回で出番は終わりなの。あたしはきっと、ママほどの才能はないわ」
「だって、まだスクールの生徒だろう? いきなりそんな大役なんてこないさ」
「まあ、お兄ちゃんみたいに、ミュージカル初体験でいきなり主役っていうのは、めったにないことなのは確かよね」エステルは肩をすくめ、くすっと笑う。
「でも、自分でわかるの。あたしは本当に、それほどの才能はないのよ。舞台に立つのは、決して嫌いじゃない。歌ったり踊ったりするのは好き。でもね、あたしはこのままブロードウェイで勉強しても、大スターにはなれなかったと思うし、それに、もっと好きなことが本当はあるのよ。それが絵を描くことなんだって。でも、それに気づいたのはNYへ行ってからよ。あたし、三才か四才くらいの頃から、メイベルと一緒にバレエとピアノを習っていたの。ママはあたしたちに自分の叶えられなかった夢を託したかったんだろうって、ミル伯母さんは言っていたけれど、あたしもなんとなくそうなりたいって、思っていたの。それが本当にあたしの夢だったのか、それともママの夢があたしの頭に植え付けられただけなのか、わからなくなっていたのね。それにメイベルが死んでしまったから、もうあたししかいない。そんな気になっちゃったのかもしれないわ」
「そう。そう言えば、エアリィから聞いたことがあったなあ。お母さんが君たちに、バレエやピアノを熱心に習わせていたって。事故にあったのも、バレエのレッスンの帰りだったらしいね」
「ええ。そうらしいわ。あたし、あまりはっきり覚えていないのだけれど。小さかったからっていうのもあったけれど、事故の時に頭を打ったのと、精神的なショックもあるんだろうってお医者様は言ったって、お兄ちゃんが話してくれたんだけど、本当に、なんだか記憶が、はっきりしないのよ。ママのことも覚えているし、あたしと同じ姿かたちの女の子、メイベルのことも、覚えてはいるの。彼女はもう一人のあたしだって思っていたことも。でも、その子のことをもっと詳しく思い出そうとすると……それに事故にあう前の、あたしのことも……なんだか頭の中にもやがかかったような気分で、思い出せないのよ。ああ、でも、はっきり覚えていることがあるわ。病院のベッドで目がさめた時、パパが静かな声で言っていたの。『落ち着いて聞くんだ、エステル。アグレイア……ママとメイベルは死んだ。もう会えない』って」
 エステルの横顔に、悲しみの記憶がかげりを落とした。僕は何も言えず、ただその手を取って握りしめた。エステルは僕を振り向き、笑顔を浮かべている。
「ああ、ごめんなさいね。なんだか感傷的になっちゃって……でも、その時あたし、ママの夢から解放されても良かったはずなんだけれど、かえって強くからめ取られてしまったみたいなのよ。もう、あたししかいないんだ、って。それで小学校に上がってから、パパとミル伯母さんに頼んで、バレエとピアノのレッスンをまた始めたの。もうママはいないけれど、だからこそ、やらなくちゃいけないって。あたしがさぼったら、きっとママやメイベルが悲しがるって、そう思えたの。ハイスクールを出たらNYへ行くって、あたしパパにいつも言っていたけれど、たまたまお兄ちゃんがブロードウェイに出演することになったから、ちょっと早いけどチャンスだって思って、フレイザーさんの紹介でスクールのオーディションを受けて、なんとか受かって……でもね、ニューヨークってあたしには、なんだか大きすぎるって感じだったわ。お友達も出来て楽しかったけれど、最初から挫折気味だったのよ、あたし。オーディションを受けたその夜に、お兄ちゃんの舞台を見て。ホントにお兄ちゃん、次元が違うわ。『あたしがママの夢を叶える必要なんて、全然ないじゃない!』って叫びたかったわよ。でも、来た早々逃げ帰るなんて、恥ずかしいじゃない。だから、あとの二年半は、ただの意地よね。おもしろかったことは認めるけれど、配役のことでもめたり、足を引っ張り合ったりで、イヤな面も見ることになって、幻滅も多かったわ。それになにかっていうと、すぐ『アーディス・レインの妹』って見られちゃうのよ、スクールの生徒たちや、関係者の人に。まあ、あたしもお兄ちゃんと同じ、『アリステア・ローゼンスタイナーの孫』なんだけれど、それ以上にお兄ちゃん、凄かったから。しかもブロードウェイで大センセーションをまいた後だったし。『えー、多少はうまいし、多少は可愛いけど、それだけねぇ。期待はずれ』『あのアーディス・レインの妹って、どれだけ凄いかと思ってたのに、普通の女の子じゃない』なんて、そんな声が聞こえてくると、すごく傷ついたわ。そうよ、あたしはお兄ちゃんみたいな超人じゃないし、普通の女の子よ!って。まあ、お兄ちゃんも超人と言われるのは嫌がったけど、でも本当にそうだったし。ママもお祖父さんの娘だ、七光りだって言われて苦労したって聞いたけれど、その気持ちすごくわかる、って思ったわ」
「そうなんだ。なんとなくわかるよ。同じ芸能系だからね」僕は苦笑して頷いた。
「だからもう、ブロードウェイはいいかな、ハイスクールを出たらスクールも辞めてトロントに帰って、アートカレッジを受けようか、なんて思い始めていたところだったの、あの頃は。それが全部壊れて、もう六年……でもあたしには、もっと長いことたったみたいな気がするわ。本当に、遠い昔のようね」
「そして君は人生のいちばん楽しいはずの時期を、暗いシェルターの中で過ごしてしまったんだね……」
「そうね。十七才から二二才までなんて、本当にバラ色の青春を期待していたのにね。二十歳になったらもらえるはずだったお祖父さんの遺産も、もらい損なってしまったし」
 エステルは、最初は寂しげに、後半は少し冗談のように言って、笑った。
「ああ。そういえばマインズデールのシスターが言っていたっけね。アリステアさんの遺産を、お母さんが亡くなった時に残っていた中から四分の一ずつを、君とエアリィがそれぞれ二十歳になった時に、相続することになっていたって。たしかに惜しかったね」
 僕もちょっと笑い、軽く肩をすくめた。
「お兄ちゃんの分は、相続できたけれどね。でもお兄ちゃんはその時、はるかに多くのお金があったから、お祖父さんの遺産は全額寄付したって言っていたわ。児童福祉施設に」
「それは僕も聞いたよ。エアリィらしいなって思った。でも君だったら、何に使った?」
「ピンクのドレスね!」エステルは笑って即答する。
「ずいぶん高いドレスだね」僕も思わず笑った。
 ひとしきり笑った後、エステルはため息をつき、頭を振った。
「ああ、でも……本当にこれは、もう一つの世界の話ね。存在しない……未来がこんな風に変わるなんて、十七の時には夢にも思わなかったわ。ミュージカルかアートカレッジかなんて、本当に無駄な悩みだったのね。助かっただけでも幸いだってわかってはいても、そうは思えない時がいっぱいあったわ。悲しいことやつらいことが多すぎて……」
「運命は残酷だね」
 僕は思わず彼女のほっそりした小さな手に、自分の手を重ねた。彼女はちょっと戸惑ったように頬を染めて僕を見たあと、ふりほどきはせずに目を伏せて頷いた。
「ええ。でもね、運命の残酷さを恨んでも仕方ないの。それで幸せになれるわけでもないし、よけい惨めになるだけですもの。あたし、失ったものは数えないことにしてるの。今残されている喜びを、支えにしようと思っているわ」
 エステルの青い目には、暗い時代を乗り越えて前向きに生きていこうとする、強靭でしなやかな精神が輝き出ていた。僕はひどく感動を覚え、握りしめた手に力をこめると、彼女の方に身を屈めて問いかけた。
「今の君の支えは、どんなもの?」
「アールとオーロラでしょ、アラン兄さん、アデレード義姉さん。ビュフォードさんたちも良い人たちだわ。それにね……」彼女は少し羞かしげに僕を見上げた。
「それから……ジャスティンさん」
 はにかみながら言ったその言葉は、甘美な矢のように心に突きささった。僕は思わずぎゅっと手を握り、短い沈黙のあと、思い切って彼女に告げた。
「ねえ、エステル……僕は君を愛しているんだ。僕と結婚してくれないかな?」
 彼女はその言葉を耳にすると、目を真丸にして、ぽかんと見上げていた。
「え?」彼女はみるみる頬を真っ赤に染め、それから笑いだした。
「やあだ! そんな冗談! もう、からかわないで!」
「冗談なんかじゃないよ」僕はその肩を捕まえ、軽く揺すぶった。
「やっぱり君にとっては、冗談以外のなにものでもないかい」
 僕は不意に虚脱感に襲われた。
「そうだね。考えてみれば当然だよ。僕はもう三四才のおじさんだし、結婚歴もある。ずっと君のお兄さんがわりでしかなかったんだから、そんなこと考えられるわけないよね」
「本気なの……?」エステルは当惑したように僕を見上げている。
「そうだよ。冗談なんかじゃない」
 僕が強くそう言うと、彼女は目を見開いて僕を見つめながら、ゆるくかぶりを振った。
「あたしは……あたし、あなたがそんなふうに見ていてくれるなんて、考えてもみなかったわ。あたしはあなたから見れば全然ひよっこで、おちびちゃんでしかなくて……あなたの好意から、あたしを妹がわりに考えてくれているんだと思っていたの。それであたしは十分だと思っていたわ」彼女はそっと僕の腕に触れながら、言葉を続けた。
「あたし、あなたがどれほどステラさんやクリスチャン坊やを愛していたか、ずっと見てきたんですもの。アイスキャッスルでも、シルバースフィアに来てからさえ……あなたの心には、ずうっと奥さまが住み続けている。だから他の人と結婚しようなんて言いだしたりは絶対しないだろうって思っていたし、あなたもそう言っていたわ。だからあたし、あなたにそれを求めるのは止めようって思ったの。ずうっと妹がわりで満足していようって」
「じゃあ、エステル……」僕は思わず彼女の手を強く握った。
「君は僕を……君は僕に好意を……愛情を持ってくれていたの?」
「ええ……」彼女は羞かしげにうつむいた。
「昔からあなたのことは、好きだったのよ。アーディお兄ちゃんのバンド練習について行っていた頃から。実は、あたしの初恋の人はあなたなの、ジャスティンさん」
「ええ? そうだったのかい? 知らなかったな」
「パピーラヴですもの。子供の初恋」エステルは小さく肩をすくめて笑う。
「バンドの練習にあたしみたいな女の子がついてくるって、考えてみたら他のみなさんに迷惑だったかしらって、かなり後になって思ったんだけれど、でも、あの頃のあたしは、不安と寂しさの塊だった。あの事故の後からずっと。ママがいないこと、メイベルがいないことが耐えられなくて、また大事な誰かがいなくなってしまうんじゃないかって不安で――だから、アーディお兄ちゃんがあたしから離れてしまうことが、すごく寂しかった。お兄ちゃんもどこかへ行って戻ってこなかったらって、心配で不安で――それにお兄ちゃんがそばにいてくれたら、あたしの寂しさや悲しさも耐えやすくなるような気がしたの。だから、七月の半ばに退院した後は、ずっとお兄ちゃんにくっついていたわ。後追いなんてものじゃないわね。離れていると不安で、お兄ちゃんが出かけようとすると、あたし泣き出して『行かないで、傍にいて』って……」
「それだけ君の精神的な傷は深かったんだね。不安定になっていたんだ。わかるよ……」
「そう。だからお兄ちゃんも出かけられなくて、買い物に行くのにもあたし、ついていって。でも、お兄ちゃんのプロヴィデンスのお友達、みんないい人たちで、うちへ集まって遊んでくれたから、すごく慰められたの。エリックさんとジョーダンさんは亡くなってしまったけれど、まだトニーさんとパティさんがいらっしゃるから、すごく懐かしいわ。それからトロントへ行って、九月になって、お兄ちゃんも学校へ行かなきゃならないから、ずっと一緒というのは無理だってパパが言って、あたしは幼稚園に入れられたけれど……延長預かりもしてくれるところで、先生もお友達も優しかったけれど、最初の一ヶ月は泣いてばかりいたわ。それから少しずつ気持ちは落ち着いてきたけれど、やっぱり少しでもお兄ちゃんに傍にいて欲しくて、時々駄々をこねたわ。『バンドのれんしゅうってなあに? なんでいっちゃうの? あたしも行く!』って」
「エアリィにバンド加入を頼んだ時、条件として、妹さん連れてきていいぞ、って言ったのは正解だったんだな」僕は思わず苦笑した。
「ええ。たぶんそれがなきゃ、お兄ちゃんなかなか練習に出られなかったと思うし。一緒に行けて、あたしも寂しくなくて、良かったわ。音は大きかったけれど、あの頃からみなさんの音楽は好きだったの。それにね、あなたのことは『お兄ちゃんのお友達の中では、一番かっこいい人』って思っていたのよ」
「それは光栄だね」僕は再び苦笑して、頭をかいた。
「お兄ちゃんが家を出て独立して、ミル伯母さんが来てからも、あたしはやっぱり寂しくて、我慢できなくなると、お兄ちゃんの携帯電話にかけて『遊びに行っていい?』って。それでいいってなったら、ミル伯母さんが『仕方がないわねぇ』ってぶつぶつ言いながら、車で送ってくれたの。小母さんに送ってもらうの悪いから、僕が迎えに行くよってお兄ちゃんが言ったら、『あなたは、まだ自動車は運転できないでしょう、アーディス。自転車の二人乗りは危ないから、いけません。良くこの一年無事だったと、神様に感謝したわよ。原付バイク? それは、二人乗りはダメなはずよ。なんてことを言うの。夕食もあるから、六時に迎えに来るわ。いいえ、何も悪い事はないわよ。私はジャーメインの残された娘の保護者になると覚悟は決めたから、雑用も義務のうちですからね』って、ミル伯母さんは言っていたけれど」
「そうなんだ。それも、好意なんだろうけれど……」
「言葉だけではわかりづらいけれど、好意なのよ、それは。あとであたしもわかったわ。それで六月半ば……お兄ちゃんの誕生日の二日後に、あたし、お兄ちゃんにプレゼント持っていって、それで部屋で遊んでいたら、あなたが遊びに来てくれて、一緒にゲームをやったの、覚えてます?」
「ああ。プレイステーションの……アクションゲームだったね。タイトルは忘れたけれど。二人プレイで」
「そう。お兄ちゃんはアクションゲームって、異次元レベルのハイスコアで、あっという間にクリアしちゃうから、なかなか二人プレイって出来ないの。それでつい、あなたに頼んだのよ。それが楽しかったから、それから時々あなたのお部屋にもお邪魔して。ご迷惑だったかなって、あとで思ったんだけれど、あなたはいつもニコニコ笑ってあたしの相手をしてくれて、嬉しかったわ。あたし一度、お兄ちゃんに言ったことがあるの。『あたし、お兄ちゃんのお友達の中では、ジャスティン・ローリングスさんが一番好き。優しいし、かっこいいから。あたし将来、あの人のお嫁さんになりたいな』って」
「そうなんだ。それは、ありがとう。で、エアリィはなんて答えていた?」
「『うん。ジャスティンは本当にいい奴だよ、とても。でもエステル、おまえがあいつのお嫁さんになれる年になるころには、あいつとっくに結婚してそうだなぁ。今の彼女さんがいるし、なんとなくあいつは結婚早そうな気がするんだ』って。あたしは『え〜、なんで? そんなのわからないわよ』って答えて、そしたらお兄ちゃん『まあ、たしかに先は何が起きるか、わかんないからなぁ』って、笑ってたけど」
「そうなんだ」僕はふと不思議な気分がした。その時の無邪気な言葉が、今現実になろうとしている。六歳の少女が二二歳の乙女に成長して。
「でもね、あの時には『それは無理。でも夢は持っててもいいんじゃないか』って、遠回しに言われたんだなってことは、あたしも気づいていたわ。彼女さんがいるっていうことも、その時はじめて知って。それで、本当にがっかりしたけれど、あなたみたいにかっこよくて優しい人なら、彼女さんいて当然ね、ってあとで思ったの。それで、ああ、あたしももう少し早く生まれてきたかったわ、って思ったものなのよ」
 エステルはくすっと笑い、ついでまじめな面持ちになって言葉を継いだ。
「あの頃のあたしの思いは、子供の初恋だった。お兄ちゃんも『ジャスティンさんが好き。お嫁さんになりたい』ってあたしが言っても、半ば冗談みたいに感じていたんだろうし、あたしも本気ではあったけれど、まだ恋なんて知らない子供だったから。たぶんあなただって、その頃のあたしにそう言われたら、『ありがとう、エステルちゃん』なんて、いつものように笑って、あたしの頭を撫でてくれただけだと思うわ。そしてそのまま、あたしは大人になって、淡い初恋はほんのり甘酸っぱい思い出になって、いつか本物の恋人が出来るんだろうな、って思っていたの。あの頃のことは本当に、ほんのりと暖かくて甘い思い出にはなったけれど、あなたが独りになっても、あたしはたぶんその場所を埋めることはできないんだろうなって、思っていたのよ。あたしはいつまでも、あなたにとって『小さなエステル』に過ぎないんだって。まさかあなたがあたしを子供じゃなく、一人の女として見てくれていたとは思わなかったわ。それは……いつからなの?」
「ここ一年くらいかな。それまでは本当に、君の言ったとおり、君は『小さなエステル』だった。エアリィの妹の、いつも彼にくっついていた、小さな女の子。あどけなくて元気で、かわいらしくて、僕らみんなのマスコット的な存在だった。僕自身にも妹はいたけれど、一歳半しか違わなくて、ほとんど同士というか親友みたいな関係だった。小さな女の子っていうのは、身近にいたことはなかったから、ずっとその頃のイメージを持ってきたんだ。でもシルバースフィアで一緒に暮らすうちに、僕は不意に気づいたんだ。君はもう一人前の女性なんだって。そしてそんな君を、僕は愛していたんだと」
「そう……うれしい……」
 彼女は頬を染めて頷き、しばらく沈黙した後、そっと手をあげて僕の胸に触れた。
「ひとつ、質問していい? あなたの心に、まだステラさんは生きてる?」
 そう聞かれて、一瞬返事につまった。でも嘘は付けない。
「まだ生きているよ。忘れてはいない。たぶん一生、忘れることはないと思う」
「そう……」
「こんなことを言ったら、君には申しわけないね、エステル。前の妻を忘れないなんて言いながら、君に結婚を申し込むなんて、いい加減に見えるだろうね」
「そんなことはないわ。あなたって、そういう人だと思うもの。あれほど奥さまを愛してらしたんだから、そんなにすんなり忘れられたら、ステラさんだってかわいそうよ」
「君は、そういう考え方をしてくれるんだね……」
「ええ、そんなにすぐ忘れちゃうような人は、いやだわ。信用できないもの。そんな人はきっとあたしのことだって、すぐに忘れちゃうんじゃないかしら。それに質問にちゃんと答えないで、今愛しているのは君だけだよ、なんて誤魔化したりしないところが、あなたらしいわ。あなたのそういうところが好きなんですもの、ジャスティンさん」
「じゃあ、承知してくれるんだね」
「待って。その前に、まだ質問があるの」
 彼女は少し笑って、僕の手を軽く振り解いた。
「あなたは、未来に娘さんを残すことが必要なのよね。そのためにだけ、あたしがいるの? このグループの中では、あたしが一番手ごろだったからなの?」
「とんでもない!」僕は激しく首を振った。
「そんな理由で結婚するなんて奴がいたら、張り倒してやりたいね。子供は好きだし、欲しいとは思っているよ、たしかに。だけど、それはあくまで天の授かりものだし、二次的なものだよ。僕は今の君を愛してるから、僕の第二の人生を、君と一緒に歩いていきたいんだ。君さえ良かったらね」
「よかった。もしあなたがあたしを、子供を生むために必要、なんて言ったりしたら、断らなければならないところだったわ。あたしにだって、プライドがあるもの」
 彼女はほっとしたように笑った。そして僕を見上げ、胸に手を触れて問いかけてくる。
「最後の質問よ。あなたの心の中に、あたしの居場所はある? 奥さまのほかに」
「もちろんだとも!」
「じゃあ、あたし、あなたと結婚するわ。こんなあたしでよければ……」
「ああ、ありがとう!」
 僕は思わず彼女を抱きしめて叫んでいた。僕の世界に、灰色の荒野に、再び色彩が鮮やかに浮き出てきた。新しい愛、新しいパートナーを得て。

 僕らは夕食の席でこの決定をみんなに伝えた。
「よかったな。未来図に一歩近付いただけでなく、おまえにまた心から愛せるパートナーができたことが喜ばしいよ、ジャスティン」ロブは僕の肩を叩いて笑った。
「そうなればいいと、わたしはずっと思っていたのよ」
 これはレオナの祝辞だ。
「二度も兄貴の先超して、嫁さんを見付けやがって。まったく、羨ましいぞ」
 研究所から戻ってきていたジョセフは笑いながら、僕の背中を叩いた。
 アデレードは義妹を抱いて、「あなたの幸せを祈るわ、エステル」と熱心な口調で言い、
「小さな妹をよろしく。泣かせないでくれよ」と、アランは表情を変えずに、僕に告げた。

 僕たちは四月、エステルの二三回目の誕生日に、簡単な結婚式を挙げた。ウエディングドレスもケーキもない、ただ何人かの証人とともにシルバースフィア内にある教会に行き、十字架の前で宣誓してくるだけの、本当に簡単なものだ。ただ結婚式の時には新しい洋服を選べるという決まりのようなものがあったので、彼女はピンクのワンピースを、そして僕は新しいズボンとセーターを、ロボットが街から持ってきた洋服のストックの中から選んだ。それを着て結婚式をすませ、僕らはそれぞれの家族の墓に報告するべく、シルバースフィアの出口を目指して歩いていた。その短い道のりを歩きながら、僕は彼女の肩を抱いた。
「君はこれで、僕の妻だよ、エステル。でも、結婚届けが出せないのが残念だな」
「ええ」彼女は赤くなって頷いた後、頭を上げて僕を見た。
「今、戸籍ってないんですものね。みんな無くなっちゃって。それでもあたし、本当にあなたの奥さんになったのかしら? なんだか変な気分よ。ねえ、ジャスティンさん。それにあたし、名前はどうなったのかしらね。エステル・ローリングス……になったの? それともステュアートのままなのかしら」
「そうだねえ。今は戸籍がなにも無くなってるからね。そのうちに一から作り直すらしいけれど。でも、エステル。君は僕の正式な妻だよ。今日結婚式を挙げた記録は、ちゃんと残されるからね。戸籍がちゃんとできたら、そう登録されるだろう。だから、君は今日からジャスティン・ローリングス夫人だ。名字のほうは、ステュアートのまま変えないか、ローリングスにするか、以前と同じスタイルだったら、君が選ぶことになると思う。実際ステラは、パーレンバーク姓のままだったしね。ああ、それとも僕は次男だし、婿養子になって、僕が姓を変わってもいいよ。ジャスティン・ステュアートとか」
「やあだ、変よそんなの!」エステルは笑って僕の背中を叩いた。
「あたし、そんなにステュアートの姓にはこだわらないわ。アラン兄さんもいるし……ああ、でも兄さんは子供無理なのね。もし、ステュアート姓が途絶えるのが心配だったら、将来、男の子が二人できた時にでも、分家すればいいと思うわ。ローリングスって、素敵な姓だと思うから、あたしもそうなりたい。それにもし子供が生まれたら、あたしはあなたの姓を名乗らせたいの」
「そう、うれしいよ。じゃあ、君は今日からエステル・ローリングスだ」
 僕はほっとした思いを感じながら、頷いた。
「それに、みんなが心から僕らを祝福してくれて、ありがたかったな」
「本当ね」彼女は頷き、それから少し気遣わしげに言葉をついだ。
「でも、あなたの奥さまはどうかしら……?」
「僕の奥さん? 君だろう」
「あっ、もうそうだったわね! あたしもジャスティン・ローリングス夫人だわ」
 エステルは再び羞かしげに笑った。
「じゃなくって、あたしの言うのは、ステラさんのことよ」
「ステラ?」
「そう、あなたがあたしと結婚して、気を悪くしていないかしら? それが心配なの」
「大丈夫だよ、きっと。彼女はわかってくれるよ」
 ステラは僕を許してくれるだろうか? 認めてくれるだろうか? 以前のステラはかなりやきもち焼きだったが、今はどうだろう。昔、エステルのことを言及した時には、一瞬心配げな表情を見せたが、彼女が九才の子供とわかって、ほっとしたと言っていた。その子供が今一人前の女性となり、新たな妻となることを、ステラは認めてくれるだろうか。
 いや、今のステラなら、きっとわかってくれるだろう。そんな思いを感じた。彼女はわかってくれる。ステラへの愛が薄れたわけではなく、僕にも新しい愛が入る余地が生まれてきたことを。

 シルバースフィアの外にあるそれぞれの家族の墓に、簡単な報告をしたあと、僕たちはアーケードの入り口にしばらく佇んでいた。
「あなたのお父さまやステラさん、クリス坊やも、みんなアイスキャッスルにいるのね。だから、お墓に報告っていうわけには、いかないけれど……」
 エステルは北の空を仰ぎ見ていた。
「でも、みんな祝福してくれるよ、きっと。まあ、『うそ!? おまえと義兄弟!? 勘弁して!』って、エアリィには言われそうだけれどね」
 お互いの子供たちが結婚したら僕らは婚戚関係になる、そんなことを冗談めかして彼に言ったことがあるが、まさか義兄弟になるとは、エアリィも僕も当時は想像していなかっただろうな――いや、彼は『先はわからない』と言ったらしいから――エステルに僕のお嫁さんになりたいと言われた時に。妹への慰めだったのかもしれないが、僕は結婚が早そうということも感じていたなら、潜在意識の思いはあったのかもしれない。そんな気もする。どちらにしろ、運命の不思議に、感嘆と感謝の思いを感じた。
「ああ、お兄ちゃんってば、もし今生きてここにいたら、そう言ったかもね。それか『えー、ホントにジャスティンのお嫁さんになったんだ! わからないもんだなぁ』って。でもきっと、喜んでると思う。お兄ちゃんはあなたのことを、大事な親友でパートナーだと思っていたから。いつか、そう言ってたもの」
「そうか。うん、僕にとってもそうだったよ。二人目の、でも二番目ではない、親友だ」
 僕は深く頷く。
「よかった。でも、お兄ちゃんは向こうで死んだけれど、厳密にはアイスキャッスルに眠っているとは言えないかも。だから、どこへ報告していいかわからないわ」
「そうだなあ。でも、いいんじゃないかな、一応そっちの方向で」
「そうね」彼女は一頻り北の空に向かって、手を合わせ祈っている。
(エアリィ、おまえの小さな妹は、僕に任せてくれ。きっと幸せにするよ、僕に出来る限り。おまえは見てるって、アデレードさんに言ってたんだってな。それなら安心して、見ていてくれ)エステルの祈りに被せるようにして、僕も友に呼びかけた。
 一呼吸おき、同じく北の果てに眠る妻と子に向かって、祈りを捧げる。
(ステラ、クリス。僕はこれから新しい人生を歩もうと思う。おまえたちはずっと僕の心の中に生きている。ずっと愛し続けている。それは変わらないよ。でも、世界を隔ててしまった今、僕はこっちで新しいパートナーを見つけた。彼女をも、愛しているんだ。こっちでの残りの人生を、エステルと一緒に歩いていきたい。許してほしい……)
 僕はそっと指輪を外し、ポケットの中に入れようとした。エステルは優しく、僕の手を押し止めた。
「ポケットに入れたら、だめよ」彼女は首を振り、僕の左手をとって続ける。
「こっちは、これからあたしたちの結婚指輪のために残しておきたいけれど、昔の指輪も残しておいてちょうだい。右手にはめたら?」
「いいのかい?」
「ええ。だって、あなたの過去を全部断ち切ろうとは、あたし思わないもの。ステラさんのためにあなたの心の一部を残しておくのなら、指輪だって同じよ。日の目を見ないところに、無理に押し込まないで」
「ありがとう!」僕は感激のあまり、新妻を強く抱きしめた。この娘なら、きっとステラも喜んでくれる、そう思えた。

 その日から、僕が今まで一人で暮らしていた部屋に、エステルがやってきた。シングルベッドのかわりにダブルベッドが入り、花嫁が使っていた小さなドレッサーとクロゼットが、部屋に華やかさを添えてくれた。その晩、僕らのグループのみんなが、簡単なお祝いのパーティを開いてくれた。避難生活下なのでご馳走はなかったが、ロブとレオナが特別にキャンディ・ボンボンをひとつかみ持ってきてくれている。余興は花嫁の希望で、僕らのCDを一枚だけかけた。エステルのリクエストは『Polaris』だった。その高揚感と、幸せの波動は、今の気持ちに最もふさわしいように、僕も思えた。
 僕にとっての長い夜が、やっと明けた。妻と子を最果ての地で亡くし、絶望に沈んだあの日から五年の歳月を経て、ようやく僕の心はよみがえり、長い灰色の冬が終わった。
 世界とともに、僕の心にも春がやってきたのだった。




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