Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第6章 荒野の花 (2)




 博士を埋葬して部屋へ帰る途中、僕はエステルにきいた。
「博士はなぜ、アイスキャッスルへ来てくれたのだろう」と。
『ネオ・スーパートロンの研究でずっと忙しそうだったから、来ないんじゃないかと思った』と、アイスキャッスルのコンサート当日、エアリィが言っていたが、たしかに研究第一の人が、わざわざそれを途中でやめてまで、はるばるアイスキャッスルまで来たことは、僕も少々意外な感じがしたのた。僕の父親同様、博士はエアリィがプロになる時に承認を与えたきり、ずっと今まで彼のバンド活動に関わったことはなく、公演を見に来たこともなかったのだから。
 エステルは僕の問いに首を傾げ、少し考えるような表情をした後、答えた。
「さあ……あたしもよくわからないけれど、パパが言うには、アイスキャッスルの運営システムに設計でかかわったから、一度見ておいても良いかと。現地に行ったことはなかったから。それともう一つは、この機会に家族旅行がしたかったのかもしれないわね」
「ああ。じゃあ、ストレイツ大臣夫妻と、動機はあまり変らないんだね。彼らも現地に行ったことがなかったから、ちょうど良い機会だ。子供のために旅行をするのも悪くない、そうミックに言ったらしいから」
「そうね。特にうちの場合、今まで一回も家族旅行に行ったことがなかったから、それもあるのかもしれないわ。それにパパもアーディお兄ちゃんのこと、表面的には無関心のように見えたけれど、気にはしていたのよ。お兄ちゃんはパパの本当の子供じゃないけれど、でもパパはあたしやアラン兄さんと、変わりなく接していたわ。お兄ちゃんがロンドンで入院していた時も、しばらくロザモンドちゃんを引き取ってくれたし」
「ああ、そうだったね」僕は思い出して頷いた。
「それに前、お兄ちゃんが言っていたことがあるの。ママが亡くなってから、お兄ちゃんはパパに『僕は、ここにいても良いのかな』って、聞いたことがあるらしいけれど……お兄ちゃんは、パパの籍には入っていなかったから。でもパパは不思議そうに『なぜそんなことを聞く。当たり前だろう』と答えて、それからすぐにお兄ちゃんの未青年後見人に、なってくれたらしいわ。法的にも、そんな心配をしなくてもすむように」
「そうなんだ」
「そう。うがった見方をする人は、あたしと家の面倒を見る人がいなくなるから、って言うけれど……ミル伯母さんはちょうどその時、オタワのお祖母ちゃんが病気で、家を離れられなかったから。でも、そんなことはないの。パパはそんなこと、考えてもみなかったはずよ。パパは善人なのよ、本当に。血はつながっていなくても、自分の子と同じように考えていたから、そう言った。お兄ちゃんもあたしも、それはわかってる。だからあたし、パパがお兄ちゃんに調達隊に行ってくれって言った時、本当の子じゃないからそんなこと言うんだって、パパを責めてしまったことを、後悔してるの。そんなつもりじゃないってわかってたけど、あの時にはあたしも相当、頭に血が上っていたから」
「君の気持ちはわかるよ。仕方がないことだと思う」
「パパは冷静だから、人からは、非情に思われてしまいがちだけど。それに無愛想だし、感情表現が苦手というか、そんな感じよ。パパはお兄ちゃんの音楽活動も、表立ってはそんなに関心がないように見えたけれど、でも、あたしが買ってきた音楽雑誌をパパがこっそり見ていたり、いつの間にかCDが書斎に移動していたりしてたのよ。一度なんか、すごく面白かったわ。あたし、夜中に寝付かれなくて下に降りてきたら、リビングで変な声がするじゃない。びっくりしてドアからのぞいたら、パパが歌っていたの。何の歌だか、さっぱりわからなかったわ、最初は。でもよくよく聞いていたら、歌詞になんだか聞き覚えがあるの。『風が語っている/でも僕にはわからない/大地が呼びかけている/何を言っているの?/自然は語りかけてくるのに/僕にはその言葉がわからない』」
「ひょっとして、それって……『Talk with Nature』かい?」
「そうよ。あの問題作『Vanishing Illusions』のラストよ。Green Aid21でもやった曲よ。でも、その歌詞がなかったら、あの歌だとは思えなかったわ、とても。だってパパって、はっきり言って音痴なんですもの。あたしこの時ほど、アーディお兄ちゃんとパパは血のつながらない親子なんだって、実感したことはなかったわよ。でも、パパはあたしが聞いているなんて知ったら決まりが悪いだろうってわかってたから、あたし、そのままそうっと自分の部屋へ帰ったけれど、その場で吹き出さないようにするのに必死よ、もう。部屋のドアを閉めて、大丈夫だってわかってから、思いっきり笑い転げちゃった」
「へえ、本当に? 意外だな!」
 僕も思わず吹き出してしまった。そういえばパーレンバーク夫妻もこの曲を気に入ってくれたらしいので、大人受けする要素はあるのかもしれないが。
「本当はね、パパって結構通俗的な部分もある人よ。ミル伯母さんもそう言っていたわ。でなければ、十歳以上年下の、子連れの金髪美女に一目ぼれなんてしないって言うの」
「面喰いなのかい、博士は」僕は再び吹き出した。
「そうなのかしら……そうかもしれないわね。最初の奥さんも、わりときれいな人だって聞いたし。アラン兄さんは、パパ似だけれど。それに、ユーモアもわかる人よ。表面的にはすごく事務的でぶっきらぼうだけれどね。本当に損な性格よ」
「でも、君もそんなお父さんのことを、ちゃんと理解できてるんだね、エステル。そういえば、僕の父もね、昔気質の頑固者だったんだ。それに愛情を大っぴらに表すことは恥だと考えていたようだし、仕事熱心でいつも家族は二の次だった。僕も子供のころは、ときどき父が恐いと思ったこともあったよ。でもね、やっぱり父も表に表さないだけで、愛情をたっぷり持った人だったんだ。僕はかなり大人になってから、理解できたんだけれどね」
「そうね。それにローリングス先生は、わたしたちみんなのために、ずいぶん力になってくださったわ」
「君のお父さんもね。本当に大貢献だよ。お父さんがいなかったら、きっと僕らの未来はつながらなかったんじゃないかって言うほどにね」
「そうね。みんなのためにとても大きな貢献をして、死んでいった人たちも多いのよね。食料調達隊の人たちとか、パイロットさんやお医者さんや、先発隊の人たちや、マスコミの調査隊の人たちも。でも、普通に死んでいった人たちは、何かの役に立ったのか。もしあたしが今死んだとして、誰かの役に立っていたのか……わからないわ。そう考えると、なんだか悲しいし、淋しいの。自分に割り振られた仕事もほとんどしないで、病気でみんなに迷惑をかけて死んだ、だから取るに足りない、なんてことは思いたくないの。あたし、ドリアンが調達隊に行った時の彼の言葉が、いまだに悲しいのよ。『ただ病気で死んだら、無駄死にだ』って。そんなことない。みんな一緒に頑張ってきたのよ。誰もが、一生懸命に生きたんだから」
「そうだね。生命の重さに変わりはないし、何をした何をしなかった、だから偉い偉くないなんて、考えること自体が不毛だ。大きな貢献を果たした人たちには、その勇気と不屈の精神を讃えて感謝し、そうでない人たちにも、この困難な環境の中で、ともかくそこまで頑張って生き抜けた、そのことだけでも十分に立派だと讃えたいよ」
「そうよね」
「でも君もここへ来て、それだけ成長したんだね、エステル。そこまで思いをめぐらせることができるようになったなんて。君のお父さんのことも心から理解しているみたいだし」
「いろんな経験をしたもの」彼女は少し笑って、もう一度頭を振った。
「あたしもアイスキャッスルに行った時は十七歳で、今から思えば世間知らずのひよっこだったわ。でもあれからあそこで一年、こっちで四年、いろんなことがあって、色々考えさせられて……あたしも来年は二三よ。少しは大人になったのかもしれないわね」
 彼女はぱさっと髪を振りやり、僕に向かって笑いかけた。その笑みと表情の中に、僕をどきっとさせる何かがあった。彼女はたしかに、もう子供ではない。
 僕にとってエステルは、小さな子供のイメージだった。練習場の椅子にちょこんと座り、耳にイヤーマフをつけて、片手にピンクのテディベアを抱え、僕らの練習を見ていた小さな女の子。最初の一、二か月は少し緊張しているようだったが、春になるころには、時々手や足でリズムを取り、『クラシックより断然うるさいけど、好き!』と声を上げて、手を叩いてくれたり、片隅で踊っていたりしていた、小さなエステル。その後プロミュージシャンの卵として独立したあとの数ヶ月間も、時々会った。『ジャスティン、ヒマ? だったら悪いけど、少し付き合って! エステルがおまえ指名してるから』と、エアリィが僕の部屋に来て、僕も『ああ、いいよ』と一緒に遊んだことが、七、八回はある。逆に僕が彼の部屋に行った時に、たまたまエステルが来合わせていて、話をしたり遊んだりしたこともあった。人懐こく、わりと喜怒哀楽は激しく、よく笑い、よくおしゃべりをする小さな女の子。その後は年に二、三回、新年パーティと、地元でのコンサートのバックステージで会うくらいだったが、常に彼女は小さな妹的な存在だった。でもその小さなエステルが、いつのまにか一人前の女性になっている。
 僕は急に彼女の存在が、少し眩しく感じられた。僕たちはここ一、二年話をする機会が急に増え、お互いに対等に、そして楽しんで話せる相手であることを認識している。しかし、まだ二二才のエステルから見れば、三三の僕は、さぞかしおじさんに見えるだろう。そう思うと、少しわびしかった。いつのまにか彼女は僕にとって、灰色の荒野に咲いた、一輪のピンクの花になっている。でも、それ以上突き詰めて考える勇気は、まだなかった。ステラとクリスがまだ鮮やかに心の中に生き続け、プラチナの結婚指輪が、まだ僕の左手に光っている。そんな僕に無垢の花を手折る資格もなければ、その勇気もなかった。

 オタワに来て、五度目の冬が訪れた。アーケードの出入口にあるシャッターは再び長い間閉ざされ、また穴ごもりが始まる。そんな十一月終わりのある夜、僕たちみなが、リビングに集まっていた。ロブとレオナ夫妻、アデレードとエステル、僕、それにアランとジョセフも研究の手を休めて集ってきていた。アールとオーロラはもうお休みの時間で、自分たちの部屋のベッドでぐっすり眠っているようだ。
 リビングのすみで、ストーブが真っ赤になっていた。部屋はほんのりと暖かい。今やシルバースフィア全体の人数は、四千人を切っている。それにともなって消費燃料も減ってきたので、こういう贅沢もできる。レオナとアデレードは、僕たちみんなにコーヒーをいれてくれた。マーケットに残っていた商品を集めてきた最初の冬以来、週に二、三回、この飲み物を楽しむことができるようになっていた。最初は挽き割り粉やカートリッジコーヒーを使い、それがなくなったら豆を再焙煎してから挽き、最後にインスタントコーヒーを使うことになっている。放射能汚染の心配もゼロではなく、賞味期限もとっくに過ぎて、年月が経つにつれ香りもどんどん飛んでいくが、今は豆をもう一度煎って使っているので、香りがかなり復活していた。それに、ファーストインパクト――あのカタストロフ当時に発生した膨大な放射性物質は、ダニやハエなどの小昆虫すら殺したらしく、年月が経っても虫害の心配がないことだけは、幸いだったかもしれない。
 僕たちはしばらく、無言でコーヒーを飲んでいた。
「しかし、ずいぶん淋しくなったな。ここに来た時には、全員集合するとソファとダイニングテーブルの椅子が、満員だったのに」
 ロブがため息とともに、カップを下に置いて、口火を切った。
「そうね。でも、今は九人。大人は七人ね」レオナがあとを受けて頷いた。
「子供も今のところ、アールとオーロラだけだし」
「でも、幸いあの子たちは双子だから、いつも相方がいるようなものよ。それに広場で他の子たちともよく遊んでいるから、それほど淋しくはないでしょうけれど、やっぱりこのグループの中にも、もっと子供がいればいいでしょうね」
 アデレードは微笑して、小さく首を振っていた。
「だが、今のところ増える見込みはないな」ロブは苦笑し、軽く肩をすくめた。
「我々にはもう無理だし、他にはちゃんとした夫婦が一組もないからな」
「やもめの三十男が、三人も揃ってちゃあなあ。いや、僕はもう四二だ」
 ジョセフが苦笑いして頭を掻いた。
「三人とも、もう一度結婚することを考えたらどうだ?」
 ロブは僕らに、そんなことを言う。
「僕までやもめにしないでほしいな。僕は結婚したことはないから」
 アランが自嘲気味に笑いを浮かべ、首を振った。
「それに、仮に結婚したとしても、子供は無理だろうな。僕には、子種がないんだ。健康診断でわかったんだが。放射線のせいだろうね、たぶん」
 僕たちは一瞬、言葉に詰まった。しかし彼は笑みを浮かべて続けている。
「でも僕は別に、その運命を恨んではいないよ。この状況で、僕のやるべきことは他にあるからね。みんなのために、早く完璧なロボットシステムを作らなくては。それが、僕の使命なんだ。他のことには、興味が向かないのさ。それに僕は昔から、女の子とのことに関しては奥手でね。というか、苦手なんだ。アイスキャッスルへ来た時だって、三一にもなっていながら、恋人の一人もいなかったんだからね」
「それなのに、今から嫁さんを見つける努力も気力もないって言うわけだろ?」
 ジョセフが苦笑しながら、あとを引き取った。
「それは僕も同感だな。僕は幸いそっちの機能は残っているようだが、放射線の影響も気になるし、第一子孫を残すために嫁さんをもらうっていうのは、不純だよ。僕は妻を今でも忘れちゃいないし、まだ愛してもいる。でも他に愛する人が出来たら、結婚してもいいと思ってもいる。まあ、それが自然な感情じゃないかな。でも、これは相手がいることだし、今の状況じゃ、他の女性に接触する機会もない。それにここにいる一般の女の子たちっていうのは、ほとんど二十代、良くて三十過ぎくらいだろうが。僕のような四十男が、そんな若い女の子に相手にされるという自信もないしな。そんなことに労力を裂くより、自分の使命に振り向けたほうが、はるかに有意義だ。少なくとも、この研究が完成するまで、そんなことを考えている暇はないよ」
「その通りだよ。おまけにこんな状況じゃ、いつ倒れるかわからない。あと何年、無事で生きていられるかわからないんだから、できるだけ急いで研究を進めなければね」
 アランの言葉に、ジョセフも頷いた。そして二人は顔を見合わせ、立ち上がった。
「そうだ。そろそろ戻るか」
「ええ、もう行っちゃうの? せっかくゆっくりしているのに」
 エステルがちょっと不満そうに頭を振って引き止めた。
「時間が惜しいのさ、お嬢さん!」ジョセフが笑ってみせ、アランは表情を変えぬまま頷いて、二人は研究所へと帰って行った。

「頑張っているな、二人とも」
 彼らが行ってしまうと、ロブが苦笑しながら呟いた。
「でも、わたしたちに出来ることが何もないのは残念ね。みんな未来のために、何かをしているのに」レオナが少し寂しげな調子で言う。
「これから僕たちが必要になることが、何かあるのかもしれないさ、レオナ。そうなったら、昔に劣らず忙しいかもしれない」ロブは微笑を浮かべて妻を見やった。
「さて、コーヒーのおかわりといきたいところだが、これから先を考えると、そんなに飲むわけにはいかないな。最後のほうには、かなり香りも抜けるし、固まるだろうが、それでも……だから、お湯に砂糖を溶いて飲むか」
 今度は薄い砂糖湯が配られた。そのカップから一口すすり、ロブは再び苦笑した。
「たまに、本当に薫り高い挽きたて煎りたてのコーヒーが、もう一度飲みたいと思ってしまうよ。それに、紅茶もね。まあ、今でも多少味が落ちても、飲めているんだから、贅沢だと言われれば、それまでだが。こんな状況だからな」
「僕も同感だよ。それに、みんなそう思っているんじゃないかな」
 僕は肩をすくめた。
「そうだな。ところで……アランさんやジョセフさんだけじゃない。おまえはどうなんだ? ジャスティン。もう結婚はしないつもりなのか? でもそうすると、未来が狂うぞ。おまえの娘はどうするんだ?」ロブはそう問いかけてきた。
「え?」僕は虚をつかれ、少し頬が紅潮するのを感じた。
「まだ、考えてないよ……」
「ビュフォードさん、それじゃ世話好き仲人さんみたいよ」
 アデレードが笑って助け船を出してくれた。
「本人にその気がなければ、まわりがいくら言っても駄目よ」
「たしかにね」ロブは笑った。
「世話好き仲人さんついでに聞くが、君はどうなんだい、ローゼンスタイナー未亡人。アールとオーロラに新しい弟妹を作って上げる気はないかい?」
「とんでもない!」彼女は強く首を振った。
「わかっているくせに、意地悪だわ、ビュフォードさんは。女性は子供を作るためにだけ存在してるんじゃ、ありませんよ。エアリィもわたしも再婚家庭に育っているのに、それを子供の代まで繰り返させたくないし」
「義姉さんも再婚家庭だったの?」
 エステルは、初めて聞いたというような顔だった。
「ええ。わたしの本当の母は、事故で死んでしまったの。一緒に乗っていた六歳の弟も。わたしだけが、生き残ったのよ。ちょうどあなたと同じね、エステル。わたしたちは、単独事故だったけれど。やっぱり雨の日で、わたしたちはトロントからオタワの母の実家へ帰るところで、ハイウェイを走っていてね。ガードレールに激突したのよ。母は即死で、弟のランディスはその時チャイルドシートにちゃんと座っていなかったから、窓に激突して頭を打って、脳死になってしまったの。そして心肺移植のドナーになって、物理的にも死んでしまったわ。わたしはもうその時、十歳になっていたけれど、シートベルトをしていたから、それほど怪我はしなかったの」
「あら、じゃあ、あたしと反対だわ。あたしは覚えてないけれど、お兄ちゃんが言っていたもの。警察の人の話だと、あたしはその時、チャイルドシートに座ってなくて、窓を開けていたから、そこから飛び出したって。右側の席にいたから、路肩に落ちて助かって……車が、燃えたらしいの、その後。メイベルは相手のトラックの積荷のポールが窓を突き破って飛び込んできて、それが頭をかすった衝撃で意識をなくしたから、火に包まれても、あまり苦しまなかっただろうって。それが、せめてもの救いなのかもしれないけれど……」
 エステルは身体を震わせた。
「それは、運命なのかも知れないわね。残酷な運命。そう思うしかないわ。わたしたちが生かされたのは、生きていなければならない理由があったから……」
「義姉さん、お兄ちゃんと同じこと言ってる」エステルは微かに笑っていた。
「影響はされているのでしょうね、間違いなく」アデレードも寂しげに笑う。
「でも義姉さん、お母さんと弟さんが、その時に亡くなったのなら……ドリアンは?」
 しばらく沈黙の後、エステルは思い至ったようにそう聞いた。
「父は母が死んで、たった半年で再婚したのだけれど、その新しいお母さんの連れ子だったのよ、エイドリアンは」アデレードは感情を交えない調子でそう答える。
「あら、じゃあ、ドリアンはお義姉さんとは、血はつながってはいなかったのね」
「いいえ、本当の弟だったわ。半分だけだけれど」
「えっ、それって、どういうことなの?」
「つまりね、新しい母は、父の昔からの愛人だったの。母が死んで、父は恋人と再婚したわけよ。わたしはそんなこと、初めは知らなかったわ。でも十五の時、偶然二人が話しているのを聞いてしまって……わたしが聞いているとも思わずにね。ひどくショックを受けたわ。わたしは亡くなった母が、とても好きだったから、その母を裏切った父も継母も、許せないと思ったの。父も新しい母も、それまでは決して嫌いではなかったのに。継母はわたしにそれは良くしてくれようと努めているのも、わかっていたのだけれど。でもね、一度許せなくなると、ともかく癇に障って仕方なくなってしまうのよ。一緒にいるのが耐えられなくなるほど。わたしは反抗的になり、学校にも行かなくなって、十六の時に家を出たの。しばらく友達の家に泊めてもらって、そして町を歩いていたら、マダム・クロフォードのお店に『縫い子募集』という張り紙を見つけて、飛び込んで。幸い採用されて、そのまま住み込みで働いたの。それでその次の年に、たまたま先生がお店に来られた時、『モデルにならない?』と声をかけられたのよ」
「そうだったの。お義姉さん、とてもきれいだから、マダムの目に留まったのね」
 エステルは憧れるようにため息をつき、言葉を継いだ。
「でも、お義姉さん。その……お父さんの秘密を知った時、ドリアンに対する気持ちって、変わった?」
「そうね。変わったと思っていたわ。あの子が最初に家に来た時には、まだ三歳になるやならずで、わたしはかわいいと思って、一緒に遊んであげたり、面倒をみたりしていたのよ。血はつながっていないと、その時には思っていたけれど、なくしてしまった弟の代わりのような気がして、ちょうどその頃のランディを思い出して、ドリアンの優しいお姉さんになろうと思っていたの。本当のことがわかった後、わたしはあの子を突き放そうとしたけれど、出来なかった。とても悲しそうな、傷ついた顔でわたしを見ていて、思わず『ごめんね』と抱きしめたの。子供には罪はないって。十六で家を出てからは、ずっと実家には帰らなかったから、何年も会わなかったけれど」アデレードは微笑して、肩をすくめた。
「そう。わたしはそれから五年間、実家には帰らなかったの。でもロザモンドが生まれた夏の終わりに、わたしは娘を抱いて、実家を訪ねたのよ。父と継母は幽霊でも見るように、わたしを見ていた。そして、五年ぶりの実家のリビングで、わたしはこれまでのことをすべて話して、二人に対して思っていたことも、すべてぶつけたわ。そうしたら、父は言ったの。父と母は結婚する直前に、とても不幸な事件に巻き込まれて、その後に出来てしまった心の亀裂を乗り越えられなかったと。自分も心が狭かった、申し訳なかったと思う。ミランダも――母よ――そこまで強くはなれなかったのだろうって。わたしは父と母の子供だったけれど、ランディはそうじゃなかった。脳死になって、臓器移植のドナーになった時にわかった血液型が、父の子供だったら、ありえないものだったらしいから。でも父はそのことを、それまで何も言わなかった。母にそうさせてしまったのには、自分に原因があるって、泣いていたの。継母も言ったわ。苦悩する父を見ていられなかった。わたしはこの人のことを好きだから、すべてを受け入れて愛そうと思った。母に対する背信になるのは、わかっていたけれど、と。わたしは思ったの。父も心が弱かった。母も強くはなれなかった。でも、誰が悪いわけでもない。継母も父を愛していた。子供は産んだけれど、結婚したのは、母が亡くなってから。そう、すべては不幸な巡り会わせだったに過ぎないんだって。そう思ったら、ふっと心が軽くなって、二人を許せる気になったのよ。それからは抵抗なく実家にも帰れるようになったわ。二人はロージィのこともティアラのことも、とても可愛がってくれたしね」
「そうなの。良かったわ。仲直りできて」
「わたしが二人に会って、思っていることを言ってしまおうという気になったのは、わたしの夫、あなたのお兄さんのおかげだったけれどね、エステル。彼が言ったのよ。『話もしないで断絶って最悪。それじゃ弟にだって、会えないじゃん。お父さん側の事情もあるかもしれないしさ、せっかくロージィにも血のつながったお祖父ちゃんなのに、もったいない。思ったことや言いたいことがあるんなら、溜め込んでないで言っちゃた方がいいよ。それで向こうにも思ったこと言ってもらって。それでもダメなら、あきらめつくけど、最初っからドア閉めるのは、惜しいと思う。せっかく親子なんだから』って。それでわたしは思ったのよ。まあ、言いたいことを言って、久しぶりにドリアンに会ってくるのも悪くはないわねって」
「お兄ちゃんらしいわね、そのあたり」エステルは、ちょっといたずらっぽく笑う。
「でも、うちって、たしかに再婚家庭だったけれど、あたしはあんまり意識していなかったわ。まあ、アーディお兄ちゃんは、いろいろそれまでが大変だったんだけれど、うちは幸せな家族だったって、思っているわ。たしかに考えると、ちょっと不思議に感じることもあったけれど。パパはお兄ちゃんには本当のパパじゃなくて、ママはアラン兄さんには本当のママじゃない。お兄ちゃんたちは、実は兄弟じゃない。でもメイベルとあたしには全員が本当の両親で兄弟だって……ねえ、なんだかこんがらがりそうね」
「うん。そういえば、僕も君たちの家族関係を把握するのに、ちょっと考えたっけ。まあ、親が再婚同士だと、往々にしてそういうこともあり得るね」僕は苦笑して頷いた。
「でもやっぱりそういうのって、子供にはいやなことでしょうね、たしかに。お父さんやお母さんが途中で変わったり、いろんな人の元を転々と育てられたりっていうのは、子供にとっては悲劇ですものね。ママがニューヨークに戻った時の愛人さんなんて、本当にひどい人だったし。そういえばアラン兄さんが、さっき女の子のことに関しては奥手だって言っていたけれど、それはきっと小さいころ実のお母さんに捨てられた心の傷のせいだって、昔ミル伯母さん――パパのお姉さんよ。うちの家政を見てくれた――が、言っていたのを聞いたことがあるわ。アラン兄さんの生みのお母さんって、兄さんが三歳になってすぐに、他の男の人と一緒に家出しちゃったらしいのよ。たった三つの子を一人で部屋に残してね。パパはその日研究室に泊まっていたのだけれど、忘れ物をして家に電話しても出ないから、取りに帰ったら、家中散らかった中にアラン兄さんが泣いていて、奥さんの手紙がテーブルにおいてあったらしいの。あんまりだと思わない? パパがたまたま家に帰らなかったら、兄さんはどうなっていたのか、ぞっとするって、ミル伯母さんが言っていたわ。最初の奥さんは保護者遺棄で警察に捕まってパパとは離婚になって、その時の男の人と再婚したらしいわ。その人のことは、ステュアート家では話題に出すのもタブーだったらしいけれど、世界が崩壊する三年くらい前に、アラン兄さん、会いに行ったらしいのね。やっぱりアーディお兄ちゃんに『言える状態だったら、言ってくればいいと思うよ。溜め込んでると、精神衛生的に良くないから。まあ、追い討ちかけられて余計に傷つくリスクがあるから、絶対そうすべきだ、とは言わないけど』って言われて。家には乗り込まなくて、喫茶店で話をしたらしいけれど。あの時のことを今でも覚えている。夢に見てうなされる、と兄さんが言ったら、『ごめんなさい。悪い母親だと思うでしょうね。本当にその通りよ。気にはしていたけれど、いいわけにもならないわね』と泣いていたらしいわ。でも話をしたら、気分が軽くなったって言っていたわ、アラン兄さんも。お母さんに会ったのは、その時が最後らしいけれど」エステルは両手を組み、ほっとため息をついた。
「ああ、でもあたしの家族も、もうアラン兄さんしかいないのよね。アールとオーロラがいてくれるのは、嬉しいけど。あの子たち、本当に可愛いし。でもね……なんだかやっぱり寂しいわ」
「あなたも新しい、自分のファミリーを作ればいいのよ」レオナが微笑して言った。
「エステルちゃんも、来年は二三ですものね。そろそろ適齢期よ」
「やもめでよければ、うちのグループにもいるぞ、ちょっと年を食ってるがね」
 ロブがそうからかう。言われた意味がわかって、僕はまごついてしまった。エステルの方は真っ赤になり、「やだ、もう! ビュフォードさんったら、冗談きついんだから!!」と叫んで、ロブの背中を思いっきり叩いている。
 冗談か。やっぱりそうだろうな。僕は彼女の言葉を聞いた時、妙にずきりとした痛みとあきらめを感じた。彼女にとって、僕はそういう対象ではないのだ。わかってはいたけれど、改めてそう思うと淋しい気もする。

 冬は静かに過ぎていった。クリスマスが過ぎ、新しい年が明け、日々はゆっくりと流れていく。その冬の間エステルと僕は、あの夜ロブに言われたことがお互いの心にひっかかっていたのか、かなりぎこちないつきあいだった。彼女は昔のように何のためらいもなく真っすぐに僕の顔を見たり、笑いかけたりしなかったし、腕にまつわりついたり、背中を叩いたり、冗談を言ったりもしなくなった。それが淋しく感じられた。
 冬の間、僕は考えていた。真正面から自分の気持ちと向きあい、今心の中に引っかかっている問題に、明瞭な答えを出そうと。彼女が僕のことをどう思っているかということはひとまず棚上げして、僕自身はエステルをひとりの女性として愛しているか。もしそうだとしたら、それはステラへの裏切りにはならないだろうか、と。僕は指にはまっている結婚指輪を見、妻と子の写真を見つめ、形見のロケットを握りしめる。新しい愛に生きることは、二人を捨てることになるだろうか? もし今僕が天国のステラに意見をきけたら、彼女はどう答えるだろうか。僕の気持ちを許してくれるだろうか――。
 悩んだ末、僕はこう結論づけた。かつてたくさんの人が同じ決断をしたように。
(死んでしまった人は、美しい思い出として心の中に残せ。生きている自分は新しい愛を見つけられたら、それを受け入れろ。両方はじゅうぶん共存可能だ)と。
 でも、その前に慎重に検討をしてみよう。僕は新世界を作るために、娘を残さなければならない。その娘を得るためにだけ、新しい妻を必要としているのか? 違う。未来は、あくまで未来のことだ。僕の心はそれに縛られてはいない。それにアデレードが言ったように、女性は子供を生む道具ではないし、それは僕も心から認めている。基本になるのは、あくまで愛だ。そういう点で、僕はエステルを愛していると言える。ステラへのそれとは少し違うけれど。激しくはないし、燃えるような恋でもない。兄妹のような友情からいつのまにか咲き出でた、穏やかな愛情の花だ。
 ステラもエステルも金髪で目は青いが、雰囲気はまるで違う。一般的なレベルで言えば、美しさや可愛さは、エステルの圧勝だろう。だが、僕は外見で彼女を愛しているわけではないし、ステラのことも僕の目には、一般的な美とはほんの少しだけずれているのかもしれないが、とても心地よく素敵に映っている。エステルの最大の美点は、見た目のかわいらしさではなく、逆境の中でも希望を見いだせる前向きな明るさと、精神のしなやかな強さだ。彼女の兄と同じポジティヴさ、肯定的なものの考え方。血筋なのかどうかはわからないが、この暗い状況の中でも輝き出る、その前向きな力は、こんな中ゆえにより強い光となって、あたりを照らしてくれる。僕が彼女の資質でもっとも愛しているのは、その部分なのだ。そして彼女の優しさと。『何もできないで死んだとしても、それが無為な一生だとは思いたくない』かつて僕にそう言ったように。彼女のひたむきさも――アールとオーロラの無事な出生のために、エステルがささげた努力。その瞳の輝き、その涙――すべてが僕の心を揺さぶり動かしていた。
 この結論をはっきり導き出した時、僕は軽い驚きに見まわれた。ステラが逝ってしまった時、二度と誰も愛せないだろうと思えたのに、いつのまにか愛情の灰の中から、また花が咲いてくるとは。




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