Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第6章 荒野の花 (1)




 シルバースフィアの生活も、四年目を迎えようとしていた。十一月、オタワに初雪が降り、再びアーケードの大扉が閉鎖されてまもなく、ミックが病の再発に倒れた。ジョージ同様、次は助からないという死の期限。それがついに、彼にもやってきてしまったのだ。ミックは、翌年の一月半ばまで持ちこたえた。その間ずっとポーリーンは一人娘のイヴを連れ、朝から晩まで夫の病室につめていた。子供連れでの看病はたいへんだと、アデレードやレオナがイヴの面倒をみてあげると申し出たのだが、ポーリーンは微笑して謝絶していた。夫が娘に会いたがっているのだからと。
「この子が一緒に行くことが、彼にとって一番のお見舞いなのよ」
 ポーリーンは毎朝小さな娘をベビーカーに乗せて病院に行き、夜半過ぎに、すっかり眠ってしまったイヴとともに帰ってくる、そんな毎日だ。僕もほとんど毎日病室に顔を出し、一、二時間ほどそこにいた。でも実際、僕にできることは多くない。ときおりポーリーンが夫を介助する時に手助けをしたり、その間イヴの面倒を見たりすることぐらいだ。
「悪いね、ジャスティン……ありがとう」
 ある日ミックは頭をめぐらせて僕を見、感謝の言葉をかけてきた。
「そんなこと。もっとできることがあれば、いいんだけれど」
「君が毎日来てくれるだけでも、うれしいよ」
 彼は目を閉じ、ふうっと長いため息をついた。
「大勢の人が、死んでいくのを、見たよ。アイスキャッスルでも、ここでも……みんな色々な思いを抱いて、眠りに……ついていくんだ。僕は、いつも見ていた……でもついに、僕の番が、来たようだね」
「ミック……そんなことは……」
「ないって、いつも言うんだ。たいてい……誰の時でも、死にゆく人が、自分の最後を悟って……別れを告げようと、すると、『そんなことはない』ってね。でもね……それは、ごまかしに、すぎないことを、言ったほうも……言われたほうも、わかっている。罪のない……嘘だけれどね。でも、僕には、そんなことは……言わなくても、いいよ」
 彼は落ち窪んだ目で、僕を静かに見た。昔はあんなにふくよかだった身体も、今はすっかり肉が落ちて、別人のようになっている。
「僕は、落ち着いている。大丈夫だよ。世界が……崩壊する前には、最高の夢が、叶ったし、その後でも……世界の終焉から、助かって、ゼロから立ち上がっていく……様子を、見ることが、できた。滅多にない……経験だよ。それに、僕には、希望がいる……」
 ソファの上で絵本を眺めている小さな娘を見ながら、ミックは言葉をついだ。
「だけど、少し、心残りでも……あるね。イヴとポーリーンを……置いて、いかなければ、ならないって、考えると。ジャスティン……図々しい、お願いだけれど……僕が死んだあと、妻や子供に、もしなにか、困ったことが……起きたら、できるだけ力になって……やって、くれないだろうか?」
「もちろんだよ!」僕はすっかり細くなった手を握りながら、頷いた。
 僕の後ろで、ポーリーンが声を殺して啜り泣いていた。イヴはソファの上から顔を上げて、ベッドの上の父と傍らにいる母を、不思議そうに見ている。
「泣かないで、ポーリーン。イヴ……こっちへおいで」
 ミックは娘を手招きした。イヴはソファから滑りおり、ちょこちょこと父親のベッドの側に行っている。もう起き上がることは出来ないのだろう。彼は小さな娘に、ベッドの上に上がるように頼んだ。イヴは頷いて靴を脱ぎ、父親のところに這い上がろうとした。だが、片手だけしか使えないので、なかなかうまく上がれない。僕は手をかして、彼女を上に上げた。
 ミックは手を差し伸べ、娘を自分の体の上に乗せると、肩のあたりを手で支えるようにして、じっと見つめていた。浅黒い愛嬌のある顔立ち、きらきら光る切れ長の黒い目、肩まで伸びた鳶色の真っすぐな髪、まるっこい身体にがっしりした足、そして片一方しかない手を、その目に焼きつけるかのように。
「僕の、希望だ……」ミックは押し出すような声で言うと、娘を抱きしめた。
「パパに、キスしておくれ」
「うん」娘は真面目くさってその小さな頭を傾げ、すっかり肉の落ちた父親の頬に二、三回、やさしいキスをする。
「ありがとうよ、イヴ……」ミックはもう一度、娘を抱きしめた。
「パパはいつも、おまえや……ママを、見守っているよ。イヴ、元気に……育っておくれ。そして、おまえの名の通り……新世界の母に、なるんだよ……」
 ささやくような、熱い思いのありったけをこめたような声だった。
 それが、僕が聞いた最後の言葉だった。翌日病室に行った時には、ミックは昏睡状態に陥っていた。それから三日間意識が戻らないまま眠り続け、一月半ばの朝、巡回してきた主治医によって、死んでいるのが発見された。夜のうちに息を引き取ったらしい。
 彼の死と共に、僕は一人取り残されてしまったという思いに襲われた。バンドの仲間たちも、すべて逝ってしまった。最後の錨が外れてしまった。あの運命の瞬間を除いては、何時でも冷静で穏やかだったミック。バンドのまとめ役として、ここまで僕らを引っ張ってきてくれた彼も、いなくなってしまった。僕は一人だ。もう誰もいない。妻も子も両親も姉妹も、友たちも。唯一残っているのは、兄だけだ。ああ、世界が壊れたあの時から、なんと多くのものを失ってきたのだろう。失われたものは、ほとんど僕のすべてだったかもしれない。この時ほど、僕は淋しいと感じたことはなかった。この世で一人ぼっち――それは心の拠り所がすべて失われてしまったような、恐ろしい感覚だ。

 だが、悲劇はこれだけでは、おさまらなかった。ミックが死んで五ヵ月半がたった、七月初めのある日、イヴはベッドから起きてこなかった。
「どうしたの?」と、ポーリーンが声をかけると、
「おきたく、ないの」小さな娘はかぶりを振って、毛布の中に潜ってしまう。
 母親は娘の額に手を当て、首を傾げていた。
「ちょっとお熱があるようね、イヴちゃん。今日は、おとなしく寝んねしてなさいね」
「うん……」子供は小さくあくびをすると、やがて再び眠り込んでしまった。
 その時にはポーリーンも、さほど重大な病気だとは考えていなかったようだった。もともとイヴは体質的に弱く、朝も苦手なため、こういうことも珍しくはなかったのだ。念のため彼女はその日、イヴを病院に連れて行った。レオナと僕も付き添って行き、診察した若い医師は、風邪だろうと告げた。アイスキャッスルの冬には致命的だったその病気も、ここではもう、さほど心配はいらなくなっている。少し使用期限は切れているものの、風邪薬も抗生物質もここにはあるし、環境も閉鎖的ではあるが、劣悪と言うほどではないのだから。『栄養を取って薬を飲んで、しっかりと寝ていれば治る』――以前と同じ、そういう病気になっていた。
 イヴはその日、インスタントのコーンスープと(クリスが最後に飲んだものと同じブランドのものだった。かなり賞味期限は切れていたが)、ポーリーンが小麦粉と砂糖を混ぜて蒸した自家製パンを食べ、ベッドに寝て、母親に絵本を読んでもらったりして過ごしていた。翌日は、よく煮たオートミールにスキムミルクをかけたものを食べ、粉末ジュースも飲んでいた。うつらうつらしていることは多いものの、その日までは彼女は、普通の病気に見えた。
 しかしその翌日、イヴは食事を出されても、首を振って食べようとしなかった。そして今まで以上に眠りがちになり、熱が急激に高くなった。僕はポーリーンを手伝ってイヴを毛布でくるみ、抱きかかえて、レオナとともに再び病院へ赴いた。その時に見てくれたベテランの医師――アイスキャッスルのクリニックに派遣されていた常駐の医師で、インターンではない唯一の現役ドクターであるエヴァートンさんは、難しい顔をして告げた。
「入院させましょう。肺炎の疑いがあります」
「え?」その言葉を聞いたポーリーンは、唇まで真っ青になった。
「でも今は、抗生物質もあるから」僕は少しでも安心させようと、そう声をかけ、
「そうよ。心配すぎないで」と、レオナも励ましていた。
 イヴが入院してから一週間の間、ポーリーンもずっと娘に付き添っていて、部屋に帰ってこなかった。僕も毎日病院に行って、様子を見ていた。だが懸命の治療と看病にもかかわらず、症状は良くならないようで、ポーリーンの顔にも、焦燥と疲労の色が濃くなっていくようだった。夜もほとんど眠っていないようで、目には濃いクマが出来、彼女の方が重篤な病人に見えたほどだ。
 そして入院してから一週間目の朝、小さなイヴはあっけなく、短い生涯を終えてしまった。肺炎から来る呼吸不全――医師はそう診断した。
「血液検査をしてみたのですが、この子は全体的に、赤血球と白血球が少ないようです。造血機能不全でしょうかね。白血病や再生不良貧血までには、至っていないようでしたが、それゆえ抵抗力も体力も落ちるので、感染症にかかりやすく、重症化しやすかったのでしょう」
 臨終を宣告したエヴァートン医師は、僕らにそう告げた。それもまた、放射線障害――生まれる前からなのか、生まれてからなのかはわからないが、彼女が負ってしまった災いなのだろう。本人には、何の罪もないのに――だから単なる風邪でも、致命的になってしまったのだろう。その災いのために。
『イヴ、元気に育って、新世界の母になるんだぞ』
 ミックの最後の言葉を思い出す時、無念という気持ちをもはるかに通り超した、痛ましい思いにとらわれる。イヴは彼が最後までその身を案じ、すべての希望を託した、たった一人の娘だったのに。

 夫と唯一の子供を立て続けに失ったポーリーンの悲嘆は、言葉に出来ないほど大きかったようだ。小さなイヴを埋葬した後、彼女は寝室にこもってしまい、何日も食物にも何も手を付けずに、嘆き続けていた。
「ミック……ごめんなさい……イヴを、死なせてしまって……守れなくて……本当に、ごめんなさい」
 彼女は繰り返し、うめくようにそう呟き続けていた。その悲痛な声は、僕の耳から離れなかった。僕らはみな何度も彼女のところへ行き、それはあなたのせいではまったくないから、あなただけでも生きて欲しいと励まそうとしたが、彼女の耳にはまったく入らないようだった。何を言われても何も答えず、ただ首を振るだけで、泣き続けている。
 ある朝、僕が起きていくと、食堂のテーブルにはもうビュフォード夫妻、アデレードとエステル、アールとオーロラがいて、レオナとアデレード、エステルはみなにスキムミルクで煮たオートミールを配っていた。そしてレオナが「ポーリーンも食べてくれるといいけれど。持っていってみるわ」と、朝食のトレーを手に、彼女の居室に入っていった。ノックをし、「おはよう。入ってもいいかしら」と、声をかけながら。しかし彼女は、十秒もしないうちに、すぐに出てきた。明らかに顔色を変えて。
「ポーリーンがいないわ!」
 レオナはトレーをテーブルに置きながら、青ざめた顔で僕らに告げた。
「なんだって?」
 僕とロブが同時にそう声を上げ、彼女の部屋に飛び込んだ。そこには誰もいなかった。ダブルベッドの上に、寝具がきちんと畳まれている。枕の上に、ノートを破ったようなメモが置いてあった。僕は手に取って読んだ。
【もう生きている希望もありません。ミックとイヴのところへ行き、お詫びをしてきます】
 僕は思わず、メモを取り落した。体中の血が、引いていくような気がした。まさか――。
 ロブも僕が落としたメモを拾い上げ、顔色を変えている。
「まず……部屋の中を探そう。クロゼットとバスルーム、それに空き部屋も……それでもいなかったら、外かもしれない」
 僕らは家じゅうを探し、中にいないことがわかると、「ポーリーンさんを探してくるから、君たちはちびちゃんたちと、食事していて。待っていて」と、アデレードとエステルに告げ、部屋を飛び出した。今は夏なのでシルバースフィアの扉は閉鎖されていない。もしポーリーンが外へ行ったのなら、探索ロボットを使って探せないか聞いてみよう――ロブとレオナ、そして僕は素早く相談しあって、ステュアート博士たちのいる研究所へと向かった。博士とアランは直ちに、一号機である運搬ロボットの一台を探索モードにして、搭載カメラを通じて町を探させた。
「それほど遠くには、行っていないだろうが……」
 博士はまずは隣接する公園内を探索させ、それから周辺道路を探させた。シルバースフィアの横を通る幹線道路から、横手の道を一本一本探していく。
「あっ……あれだろうか」
 二本目の道路を探していた時、カメラのモニター画面を見ていたアラン・ステュアートがそう声を上げた。道路に人が倒れているようだ。長い黒髪のようなものが見えた。周辺に赤いものも。僕は思わず目をそらせた。
 アランが運搬指令を出し、ロボットは荷物と同じような動作で、持ってきた台車に彼女を乗せ、やがて帰ってきた。研究室に戻ってきたポーリーンの姿は、あまりに変わり果てていた。頭は割れ、足は奇妙な形に曲がっている。僕は、頭がくらくらするのを感じた。たぶん廃墟のビルの階段を上がり、割れた窓から外へ飛び出したのだろう。
 ロブと僕はポーリーンの遺体を毛布で包み、ほんの少し顔の部分だけをのぞかせた状態で、ロボットが押していた台車を借りて、病院に運んだ。医師たちに死亡を確認してもらった後、僕たちはそのままそこに彼女を安置し、夕方埋葬をした。ミックとイヴの隣に。
 自殺――それはアイスキャッスルからシルバースフィアまでの、亡くなった多くの人たちの死因のうちで、初めてのものだった。アイスキャッスルでの、最初の死――血も凍る激しい寒さの中へ出て行った青年はそれに近かったが、彼の場合は『外に出ること』が第一義で、凍死はその結果だったような印象を受ける。初めから死を意図して行動を起こしたのは、彼女が最初だ。七月の終わり――娘の死から、わずか二週間後のことだった。僕も力になってくれとミックに頼まれたのに、結局何もできないままだった。運命の非情さが恨めしく、自分の非力さが情けない。

 わずか半年の間に、ひとつのファミリーがぽっかり消えてしまった。ポーリーンの埋葬が終わった翌日の夜、またひとつ部屋が空いてしまった僕らの居室で、部屋の全員がリビングに集まって、その非情な現実を恨んでいた。
「なぜ、こんなことになってしまったのかしら。ほんの半年前まで、ストレイツさんのご家族は、あんなに完全で幸せなファミリーだったのに……」
 アデレードが呆然とした口調で、そう呟いている。
「そうだな。ミックのところは夫婦二人と子供が揃っている、うちのグループでは唯一のフルファミリーだったのに」ロブはかすかにため息をついた。
「ここでは、誰も幸せになれないの?」エステルは悲痛な声を出していた。
「昔のような幸せは、無理かもしれないわね。でも、それぞれに小さな幸せを見つけることは、できるはずよ。でも、ここではそれすらも、明日の知れない、いつ消えるかもわからない、はかない喜びなのかもしれないわ」レオナは静かに首を振っている。
「ポーリーンさん、かわいそう……」エステルは顔を両手でおおった。
「あの人が、一番かわいそう。悲しみのあまり死を選ぶなんて」
「そうね。でも、わたしはポーリーンの気持ちはわかるの。わたしだって、あの二週間半考えていたことは、希望が途絶えたら、どうやって死ねばいいか、そのことだけだったから」アデレードは天井に目をやった後、頭を振った。
「ああ。お兄ちゃんがオタワに行ってから、あの子たちが授かったってわかるまでの間に? そうね。アイスキャッスルに残るって言っていたものね、義姉さん」
 エステルが思い出したように、少し首をかしげていた。
「そう。もしあれから……希望が途絶えて、それでもみながわたしを強引にオタワに連れて行こうとしたら、わたしはどうやって命を絶とうか、考えていたわ。ポーリーンが実行してしまったことは、わたしがあの時考えていた手段の一つだったのよ」
「そうなの……」エステルはぶるっと身を震わせた。そして遊び疲れて母親の膝に眠っているオーロラと、まだ活力があまっているらしく、ソファに上ったり降りたりして遊んでいるアールに目を向け、続けた。
「義姉さんは、そうならなくて……本当に良かったわ。この子たちがいてくれて」
「そうね。本当に。この子たちがいてくれるから、わたしも生きて、今ここにいるのよ。そのことに感謝したいわ」アデレードは眠っている小さな娘の髪を、そっと撫でた。
「ポーリーンもね……そうであってくれたら、よかったのに。イヴちゃんがあんなことになってしまって、彼女は絶望してしまったのではないかしら。彼女はね、表向きは静かだけれど、内側の性格はわりと激しいのよ。思いつめるタイプ。わたしと同じね。だからこの可能性を、少し心配したのだけれど、でも口に出すのははばかられるような、そんな気がしてしまったの」
「その可能性を僕らはまったく考えなかった。だから、後悔する部分はあるけれど」
 僕は頭を振り、ため息をついた。
「起きてしまったことは、仕方がないと思うわ。ああすればよかった、というのはあっても、今は遅いから。彼女も運命の犠牲者だった。そう思うしかないわ」
 レオナは白い壁を見つめながら、小さく首を振っていた。
 僕らはみな、静かに頷いた。その神妙な空気の中、アールだけが元気で、相変わらずソファ探検に余念がない。エステルがそんな甥に、声をかけていた。
「もうねんねしなさいよ、アール。九時半よ。オーロラは寝ちゃったわよ」
「イヤ。ぼく、まだねたくないの」
 アールは決然とした調子で、首を振ってそう宣言し、ソファからすべりおりると、ミックたちのいた部屋の扉を開けた。僕は少しはっとした思いを感じた。それはみなもそうだったようだ。アデレードがいくぶん厳しい声で、息子をたしなめている。
「アール、開けちゃ駄目よ!」
「どして?」子供はびっくりしたような顔で振り返った。言われたとおりにドアを閉め、母親のところへ駆け戻って、見あげている。
「ねえママ、イヴちゃん、どこいったの? イヴちゃんのパパも、イヴちゃんも、おばちゃんも。ねえ、みんな、どこ行っちゃったの? いつここに、かえってくるの?」
 アデレードはしばらく黙ったあと、静かな声で答えた。
「イヴちゃんたちは、お星さまになったのよ」
「お星さまってなあに?」
 アールの大きな目は真丸になり、青い色に変化した。生まれたての時にはわからなかったが、この子は曾祖父アリステア・ローゼンスタイナー譲りの、虹色の瞳の持ち主だったのだ。普段は灰色の目が気分や光線によって、青や緑、紫、黒と言った色調に変化する。好奇心に燃えた時、その瞳はいつも青くなった。
「どうして、お星さまになるの? ねえ、お星さまに、なっちゃったら、どうなるの?」
 子供は尚も母親を見上げて、たたみかけるように問いを繰り出している。
「ここじゃ、お星さまは見えないものねえ」
 返事につまってしまったらしいアデレードにかわり、エステルが苦笑しながら助け船を出していた。「イヴちゃんたちは、遠い所へ行ってしまったの。そこはお星さまの国で、わたしたちを見てるの。今は駄目だけど、いつかあなたが大きくなって、夜に外へ出たら、お星さまが見えるわ。そうしたら、あなたにもわかるわよ、知りたがりやさん」
「どうして、とおくに行っちゃたの?」
「神さまが来なさいって、おっしゃったからよ。神さまに呼ばれるまでは、あたしたちはみんなここに生きていて、呼ばれたら行かなくてはならないの。いつ呼ばれるかは、誰にもわからないのよ」
「エーティー叔母ちゃん、神さまってなあに?」
「ええ?」エステルも降参してしまったようだ。三才のアールにとって、この世は謎だらけなのだろう。とくにこのシルバースフィアで生まれ育ち、外の世界を知らず、昨日まで生きていた人が今日はいなくなるという、非情な世界の中で生きていれば、この世は未知と不条理の固まりだ。それでも子供の好奇心は輝き、真理を求めようとする。
 僕はふと亡き息子クリスチャンを思い出した。あの子も好奇心の旺盛な子で、よくこんなふうにどうして、なぜと質問攻めにして、ステラや僕を困らせていたものだ。
「神さまは、お空の上にいる偉い人だよ」
 僕はそう答えた。昔、息子にも答えたように。しかしアールに空という言葉は、わからないかもしれない。子供たちは外へ出たことがないのだから。ひょっとしたら彼はスフィアの屋根の上に誰かいるのかと思ったのかもしれないが、しばらく首を傾げて考え込むような表情を見せたあと、この疑問を追求するのをやめたようだった。その代わり、哀しげにこんな質問をしてきた。
「ねえ、イヴちゃんたち、もうここに来てくれないの?」
「そうだね。ここには、もう来ないよ」
 アールは再び驚いたように目を見開いた。その目は紫に変化し、涙がたまっている。
「どうして? ぼく、そんなのヤダよ! イヴちゃんとまた、あそびたいよ!」
 アデレードは眠っている娘を片手に抱いたまま、空いた手で息子を膝の上に抱き上げた。そして、その小さな頭に自分の頬をくっつけるようにして囁く。
「わたしたちには止められないのよ、坊や。行く人を止めることは、できないの。どんなにつらくても、我慢するしかないのよ。うんと時間がたって天国へ行ったら、また会えるから。それまでは心の中にだけ、生きている。それしかできないの」
 母の言うことが、幼い息子に理解できたかどうかはわからない。だがアールにも、母の真剣さと悲しみは感じられたのだろう。それが非情な事実だということも。子供はそれ以上何も言わなかった。ただ母によりそい、小さな腕を回して、その胸に顔を埋めた。アデレードは幼い息子を抱き寄せた。そうして抱かれているうちに、アールも眠ってしまったらしい。やがてアデレードとエステルはそれぞれ一人ずつ子供を抱きかかえ、部屋へと戻っていった。ロブ夫妻も自室に戻った。

 僕はしばらくリビングで本を読んでいた。十時を少し回った頃、ぱたんと小さくドアの開閉の音がして、エステルが再びリビングへ出てきた。
「まだ寝ないの、ジャスティンさん?」
「ああ……まだ眠くないからね」僕は頷く。
「あたしも。でも部屋は子供たちが寝ているから、暗くしてるの。だから、ここで絵でも描こうと思って……お邪魔じゃなければ」
「ちっともかまわないよ。誰かがいてくれた方が、寂しくなくていいよ」
「ああ、良かった」エステルはにこっと笑い、スケッチブックを取り出した。そして色鉛筆の蓋を開けて最初の色を手に持ったが、ふと首を傾げてきく。
「ジャスティンさんは一人部屋って、好き?」
「いや……寂しいね。だから僕もこうして、できるだけリビングで粘っているのさ。ここだったら一人でも、そう気にならないけれど、部屋に一人はいまだに寂しいんだ。ジョージが死んで、もう一年以上になるのにね」
「そうなのね。あたしも子供たちが大きくなってきたから、狭いから出たらって、ビュフォードさんたちに言われるんだけれど、今のお部屋が好きなのよ。だからロフトベッドを入れてもらって、上の段で寝ているくらいですもの。一人部屋って……寂しい気がするの。ジャスティンさんも、やっぱりそうなのね」
 エステルはスケッチブックに向かった。僕も読みかけの本のページに目を落とした。このリビングには、もともとの住人が使っていた、旧式のゼンマイ仕掛けの柱時計が置いてある。その時計が十一時を告げるまで、僕らは二人でリビングにいた。お互いほとんど話はせず、それぞれの作業をしていたが、一人の静寂より二人の静けさの方が、ずっと心地よく暖かい。
 エステルが再び自室に引き取ったあと、僕は部屋に戻る前に時計のねじを巻き、そしてストレイツ夫妻が暮らしていた部屋の扉を開けた。リビングから漏れてくる灯りで、ダブルベッドが一つ、壁に寄せて置いてあるのが見える。そして反対側には、小さな子供用寝台が。かつてこの部屋に、親子三人がいた。静かな、しかし強い愛情で結ばれ、仲睦まじく暮らしていた。でも一月にミックが、七月にイヴが相次いでいなくなり、ポーリーンは一人の部屋にいることに、耐えられなくなったのだろうか。イヴが亡くなったことは、ポーリーンの過失でもなんでもなく、残酷な運命に他ならないのに。彼女はここに一人で生き続けるよりも、夫と娘が待つ、向こうの世界を選んだ。そして今はもう、この部屋には誰もいない。ドレッサーやクロゼットの中に、彼らの生活の証を残したまま。
『行く人を止めることは出来ない』
 それは非情な真実だ。僕は頭を垂れ、静かにドアを閉めた。

 いつ途切れるかわからない生命――それはだれもが同じ。他の人が逝ってしまうのを、ただ黙って見ていることしかできない、烈しい現実。それは今後も、変わらないのだろう。
 ここへ来てまる四年がたった十月、ステュアート博士が急逝した。心血を注いで取り組んできた万能ロボット、第三号の『製作モデル』完成を間近にして、力尽きてしまったのだ。それも作業中、突然心臓発作を起こして昏倒し、アランとジョセフによって病院へ運び込まれてから、わずか二時間後に息を引き取ったという。博士はもう六二才、シルバースフィアの人々の、最年長だった。オタワにきてから四年間、それこそ寝食を忘れるほど打ち込んで、万能ロボット開発の中心となって研究を続け、その努力の成果は、僕たちのコミュニティを図り知れないほど救けてくれた。でもその研究がオーバーワークになり、身体を削ることになって、志半ばで倒れる結果になってしまったのだろう。しかし博士は亡くなった時、生前には見たことがなかったほど、穏やかな笑みを浮かべていた。
『ステュアート博士は研究者としては超一流だが、自分にも他人にも厳しい人だ。そして何を考えているかわからない人だ』――世界が崩壊する前、そんな評判を聞いたことがある。その分野では世界的に高名な科学者だったけれど、アイスキャッスルに来る以前は、僕はロンドンの病院で一度会ったきりだった。博士はエアリィの継父ではあったが、僕や他のメンバーの親同様、自分のフィールドから出ず、僕らの活動に関わったことは皆無だったためだ。
 でもアイスキャッスルで会い、そこで一年、そしてオタワで四年一緒に過ごすうちに、僕は博士をだんだん理解した。彼は厳しい人格というより、現実主義者なのだ。感情よりも理性を重んじるタイプだが、決して感情を軽んじているわけでもない。ただ、僕の父同様、その感情表現が少し苦手なタイプなのだろう。そして有能な科学者や技術者にありがちだが、研究に没頭すると周りが見えなくなるタイプでもあるようだ。だが、家族から嫌われていたわけではなかった。実の息子アランからは尊敬され、エステルからは慕われていたようにみえた。エアリィはそれほど継父について話さなかったが、たまに言及する時には、『愛すべき堅物』的なニュアンスを、いつもこめていたのを思い出す。
 博士はたしかに、よき家庭人とは言えなかったらしい。仕事と研究が彼の興味の第一であり、経済観念は皆無に近く、家庭サービスもほとんどしなかったらしい。エステルは一家で遊びに出かけた記憶など、まったくないという。アイスキャッスルに一緒に来たのが、初めてだと。僕の父も決して家庭的ではなかったが、それでも時おり一家で遊びに出かけた記憶があるから、博士はそれ以上だ。妻と娘の一人を亡くした後も、博士は一週間で研究室に復帰し、生き残った小さな娘のことも家の仕事も、当時十三歳の妻の連れ子に任せっぱなしにした。そう聞くと、一見冷たい人のようにも思えてしまうが、デビュー前の春、ジョージがチラッとそうほのめかしたところ、エアリィは首を振って答えていた。
『んー、はたから見ると、そう見える部分ってあるのかもしれないけど、継父さん、すごく悲しんでるし、エステルのことも気にしてるんだよ。でも、研究が慰めてくれる。それが継父さんの生きがいだし、仕事だから。冷たい人じゃ、決してないよ』と。今は、僕も心から理解できる。博士は根っからの研究者だったのだろう。そして最後にこれだけ大きな研究が出来て満足だったろうと、息子のアランも語っていた。ロボットの基本スペックはできている。あとは同じ志をもつ二人の弟子、アランとジョセフが研究を完成させてくれるだろう。
 僕たちは博士を埋葬し、その生涯に感謝し、祈りを捧げた。博士は最後の親世代だった。放射線やエネルギー力学に対する知識も豊富で、僕らに指針を与えてくれた。アイスキャッスル時代の後半、時おり揺れる全体の舵取りを冷静に判断し、指針を示してくれたのも博士の貢献だったし、オタワへ来てからは、復興の原動力を生み出してくれた。万能ロボット。その多大な貢献は、どんな感謝をもってしても、表しきれないだろう。




BACK    NEXT    Index    Novel Top