Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第四章 惜別の光 (6)




 翌日、アイスキャッスルでの犠牲者二四三九人のための、追悼集会が開かれることになった。中央ホール――シェルターが閉じる前は、アイスキャッスル屋内施設の、建物に囲まれたこの空間は、ここに来て以降、いくども集会に使われていた。最初は八千人あまりの人で、全員が座るスペースはなく立っていたが、人数が減っていくにつれ、座っていても隣の人とぴったり密着しない程度の隙間ができている。僕たちがいつも話す場所、もしくはアコースティック・ライヴをやる場所は、ホールの奥、上部に管制塔のある、時計台の下だ。集会の時には机を一つ置き、その上にマイクを立てる。これまでは、そのマイクに向かって話していたのはエアリィだったが、今は僕がその場所に立っていた。右隣――かつて僕が立っていた場所にはミックが、左隣にはジョージが立っている。もう今は、バンド側もこれだけしかいない。
 五千八百人あまりの人々は、これまでの集会と同じように、部屋から持ってきたひざ掛けやクッションの上に、膝を抱えて座っている。僕は目の前に集まったこの群衆を見ながら、軽い戦慄を感じた。元々僕は、人前で話をするのは苦手だ。マイクを調整し、口元に持っていったものの、口の中が乾き、なかなか言葉がでなかった。
「みなさん、こんにちは」
 第一声は、ひどく間抜けなあいさつになってしまったが、いったん言葉が出たら、舌が解れていった。「みなさん、ここに集まってくれて、ありがとう。いよいよ明日、先発隊がオタワに行きます。それで大丈夫なら、あさってから移動が始まります。ここには去年の十一月からいたから、十一ヵ月……もう、ほとんど一年が過ぎたわけだね。みんなはたぶん、ここへくる時には、こんなことになるなんて全然思わなかっただろうけれど、ともかく一年近い苦難の日々を僕たちは無事切り抜け、いよいよ新天地へ出発するわけなんだ。でも僕たちが忘れてはならないのは、ここに残らなければならない二四三九人のことで……ここにきた時には、八二五三人いたね。みんな仲間だった。十一ヵ月の苦難の間にここで力つきた人たちのことを、僕たちは覚えていよう。病気で、凍死で、放射能障害で……それから調達隊で犠牲になって、これだけの人たちがここで亡くなったことを。その人たちのために祈ろう。それが僕たちにできる、ただひとつのことだから」
「一分間、黙祷してください」
 ミックがマイクを取り、静かな声でそう引き取った。僕らは目を閉じて祈った。
 黙祷が終わると、僕は再びマイクを机上に立て、言葉を続けた。
「僕たちはミュージシャンだから、追悼集会って言うとコンサートをするのが正解だと思うけれど、昔のような形態の音楽は、もう無理なんだ。七月の終わりから、アコースティック・ライヴをやっていたけれど、エアリィがいない今は、それも出来ない。だから、代わりにこれをかけようと思う。エアリィもロビンもまだここに生きている、音源があるから。僕たちAirLace最後のアルバム、『Neo Renaissance』を聴いてください」
 音響室から持ち出してセットしたステレオのスロットに、ミックがCDを滑りこませ、プレイボタンを押した。
 演奏が始まる。『Neo Renaissance』最初のトラック――二分間のインストナンバーが聞こえてきた。『Passing by』――瞬間、僕の身体に戦慄が走り抜けた。なつかしい! うずくような、憧れに近い喜びがこみあげてくる。これは紛れもなく僕のギター、かつての僕の音楽。ああ、ロビンの暖かいベースのうねりも聞こえる。ジョージのドラムビート、ミックのシンセサイザーの響き――僕の心は再び昔に帰った。まだ世界が存在していたころに。音は生々しく迫ってきた。ああ、これを作ったころ――来たりくる未来の不安をできるだけ片隅に押しやって、精一杯現在の幸せを味わっていたあのころ――まだ二年半しかたっていないのに、もう二世紀くらいの時が流れたような隔たりを感じる。
 でも今、音楽がその隙間を埋めようとしていた。余韻を残してギターのサスティン音が消えていき、交錯するように本来の一曲目『Cutting Edge』のイントロが始まった。二三秒――歌が入ってくる。そのとたん、昔の自分たちの残像に聞き入っていた僕の頭の上に、ハンマーが激しく打ちおろされたような衝撃を感じた。思わず身体が震える。同時に、目の前の人々――ホールにいた全員が立ち上がった。
 アーディス・レイン――おそらくここに集まっている五千八百人近い人々にとって、“追悼”の心の真っ只中にいる彼が、僕らみんなに呼びかけている。彼がここで行ったどんな話より、訴えより真に迫って。エアリィは真の意味でのソングマスター、未踏の領域に入った、ただ一人のシンガーだった。その思いを、メッセージを確実に聞き手の心に届かせ、その主題にまつわる感情を喚起させる。そして感情を激しく揺さぶり、深い感銘を残す。その力で、彼はモンスターになった。彼の、僕らのバンド、エアレースも。その事実を、あらためて思い知らされる。そしてこの最後のアルバム、『沈みゆく世界への福音』というメッセージをこめたこの作品は、実はもうひとつの意図を持っていたことを、僕は初めて悟った。アイスキャッスルで生き延び、さらに新天地を開く人への、限りない慰めと希望でもあったのだということを。曲が進行し、一曲一曲進み、圧倒的な力で僕たちを包み込んだ時、まだ世界があった当時にはわからなかった、その意味が見えてくる。時には激しく、時には穏やかに、時には悲しげに、しかしその底に常に圧倒的なやさしさと希望をこめた、幾千もの激しい熱弁にも勝る歌が僕らを包み、魂を揺り動かす。
『すべてを失ったと思った時が、人間一番強いんだよ。どん底に落ちちゃったって感じた時が、一番希望のある時なんだ。希望なんて、探せばいくらでも見つかるんだから、生きることを、あきらめちゃダメだ』
 オタワに行く前の晩、エアリィが妻に向かってかけた言葉が、不意に鮮明によみがえってきた。彼もかつて幼いころに底辺を見た人間だからこその悟りだけに、力強い信念となって、今どん底にいる僕たちに、そこから立ち上がれと呼びかけているようだ。アルバムに満ちている彼の意志が、語っている。『もう一度、生きろ!』と。『生きることで、希望が生まれる。未来がつながる』と。その思いが、強烈に心を揺さ振る。絶望という氷を溶かしていく。
『愛を失わず、後ろを向かないで、希望を持って前に進め。過去は懐かしむだけでいい。未来に向かって行こう。陳腐な言葉だけど、ここにいる人たちがみんな、その思いを持ち続けてくれたら、悲劇から立ち上がるヒロインやヒーローになろうと、すべての人が思ってくれたら、きっと新世界は昇っていくよ。またいつか、輝きはじめるよ』
 エアリィは夏の集会で、そう語りかけていた。それはこの三月に、妻と娘に言った言葉でもあった。その言葉が再び、声にならない想念のように、僕の胸に再び響いている。僕は我知らず涙を流していた。さらにここに集まった五千八百人が同じ思いを共有していることを、彼らの涙と祈り、その表情の中に見た。
 僕は思い出していた。このアルバムをレコーディングしていた時のことを。ケベックの高原にある、スィフターのプライベートスタジオ、ラセットプレイスで、夏の日差しと緑の木々を見ながら、これを作っていた。一曲ずつ、まずはガイドを作り、ドラム、ベース、キーボード、ギターと録って、最後にヴォーカルを入れる。エアリィはいつも、ワンテイクで決める。イントロから聞いて、コーダまで、途中で切らずに通して。その録音にかかる前、彼はいつも『ちょっと集中する』と、目を閉じてじっとしている時間がある。両手でヘッドフォンを押さえて、静止しているその時間が、このアルバムではかなり長かった。『Polaris』の時も長いと思ったが、それよりも。五分、長い時で十分くらい。その後目を開いて、マイクに歩み寄り、『いいかい、始めるよ』と声をかけるローレンスさんに頷いてから、録音にかかる。その時の彼の目は、遠くを見ているようだった。何か見えざるものに向かって歌っているような、そんな印象を受けたものだ。
 彼が歌いかけていたのは、CDを買って聴いているだろう人たち。僕はそう解釈していた。でも同時に、あの時の彼は、この光景も見ていたのかもしれない。ふとそう思えた。エアリィは滅びゆく人たちと、ここで新天地に向かう人たち、両方に向けて歌っていたのかもしれない。この『Neo Renaissance』収録曲の一つ一つを、両方の意味をこめて。だから、いつもより長い集中を必要としたのだろう――。
 やがて曲は最終トラック「Mother」になった。

 マザー、僕らに光を
 マザー、僕らに希望を
 マザー、僕らに未来を
 マザー、僕らに愛を
 マザー、僕らに信念を
 混沌の世界に道を開くために
 弱い心に力をもたらすために
 僕にパイロットとしての力を与え
 進むべき道を教えてください
 マザー、僕らに真理を
 マザー、僕らに無限を
 マザー、僕らに成就を
 マザー、あなたの栄光を
 マザー、あなたの慈悲を
 マザー、あなたの恵みを
 僕らの元へ届けてください
 僕らをお導きください
 世界は混沌に沈んでいます
 だから道を開く力を与えてください
 生きる力を与えてください
 今、新たな再生が始まろうとしているから――

『マザー』と繰り返される呼びかけは、明らかに『神よ』と同義だ。キリスト教の見地に立てば、『主よ』もしくは『天の父よ』と、呼びかけるのが正しい。でも、エアリィはあえて『天の母よ』と、呼びかけている。彼は神を代名詞で言及する時、いつも『彼女』と呼んでいたことも相まって、このアルバムが出た当時、異教的だとか、マザコンの気でもあるのかと、いつもの中傷好きな連中が言ったものだが、でもこの曲にあふれる圧倒的な純粋さと真摯な祈りは、そんなけちな意見など軽く一蹴したものだった。
 彼はいつも危機の淵に立った時、その神に呼びかけていた。『聖なる母よ』と。その前につくのはtheだったりmyだったりourだったりするが、Sacred Motherと。その神の正体はわからない。しかし、それは決して邪教の神なのではなく、普遍的な、大いなる力を持った神――僕でさえ、そう感じられる。父神ではなく母神であるところから、大きな広がりと、包み込む力を感じさせる、その神――神聖なる母、The Sacred Mother。ただ、それを曲の中で連呼することは、彼にもためらいがあったのだろう。それは、キリスト教の『みだりに神の名を唱えてはならない』という教えと同じような縛りなのだろうか。それはわからないが、この曲で呼びかけている神は明らかにそれでも、The Sacredを落として、ただのMotherとしている。でも、その意味は同じなのだ。キリスト教徒にとって、Fatherが天の父を意味するのと同じように。そういえば、エアリィは自分自身の母親アグレイアさんのことは、いつも”Mom(母さん)“と呼び、Motherと言及したことはない。たぶんその言葉は、彼にとっては神を意味するものだから――。
 
 最後のトーンが静かに消えていった。その瞬間、このアルバムが文字どおりみんなを、新たな再生への意欲に燃え立たせたことを、僕は悟った。人々は身じろぎもせずその場に立ちすくみ、そして爆発的に叫ぶ。
「もう一回かけて!」
「OK。じゃあ、もう一度だけ、リプレイするよ」
 僕は声の上擦りをできるだけ押さえ、もう一回再生ボタンを押した。
 再びホールに響きわたる音楽を聴きながら、僕は震えた。彼らの上に励ましの言葉は、もういらない。みんなを励まして引っ張っていかなければなんて、気張る必要はない。ただ、この音楽があれば。みんなの気持ちが沈みそうになったら、これをかければ――どんな言葉より、どんなドラマチックな演説より彼らの心にしみ渡り、励ましてくれるだろう。
 同時に、忘れかけていた音楽への情熱が、内面からたぎりたつのを感じた。ああ、でももうそれをぶつける場所はない。エアリィもロビンも逝ってしまって、バンドは三人になってしまった。だからエアレースというバンドはもう存在していないし、バンドという基盤抜きでは、僕の音楽もありえない。もう一度みんなでプレイできたら、どんなにいいだろう。でもジョージが言っていたように、この地上ではもう永遠に不可能だ。
『いつか、向こうの世界でみんな揃ったら……また一緒にプレイしたいね』
 ロビンが最後に、そう言っていたっけ。たしかにメンバーが、向こうとこっちの二つの世界に別れてしまった以上、もう一度みんなが揃うとしたら、あっち側――天国で演奏会か。夢想的な話だ。でも、もうそれしか、僕らが一緒にプレイする可能性はない。
 最終トラックが終わり、音楽が幻のように消えていった。
「マザー、私たちに光を――」
 二時間半にわたって身じろぎもせずに聞き入っていた聴衆たちは、音楽がやんでもなお、最後の曲のリフレインを憑かれたように歌っている。繰り返し繰り返し――五千八百人の人々の唱和する声が、ホールに響き続けていた。
 その大合唱を聞きながら、僕はぶるっと震えた。彼らも祈っている。求め、願っている。歌の言葉の通り、希望を、光を、愛を、未来を、信念を。これからの世界を、自分たちで築いていかなければという、熱い使命に燃えて。そして彼らが祈っている相手は、彼らの『マザー』、もしくは神は、繰り返されるリフレインの中で、徐々に置き換わってきた名前だった。
 歌は少しずつやんでいき、誰からともなく、再び黙祷が始まった。それは誓いの祈りだ。そう感じられた。彼らの熱い祈りが誰に捧げられているか、それも明白だ。この瞬間、アーディス・レイン・ローゼンスタイナーは、アイスキャッスルの一般グループ六千人弱の人々の守護神へと昇華したことを、僕は悟った。彼は死んでもなお、人々の心の支柱であり続けるだろう。アイスキャッスルの危機を救った英雄的な死が――彼にまつわる不思議な出来事すら伝説となって、生きている一人の人間以上に強い精神的な支柱を、彼らの上にもたらしたのだろう。『僕は何も特別じゃない』そう言い続けていたエアリィだが、やはり一般のファンにとっては、彼は特別な存在だった。これまでも、そしてこれからも。
『エアリィは偶像なんですよね。アーディス・レインというアイコン』
 まだ世界が在りし日に、つかの間ロンドンで一緒に暮らしたニコレット・リースが、そう言っていたことを思い出した。本人が生きている間さえあったその見方は、『全体のための殉教』と遂げた今、完全なものとなったのだ。守護神というアイコンに。でも当の本人はこの状況に、(えー、ちょっと、やめて欲しいな)などと苦笑して、肩をすくめていそうだな――ふと、そんな思いも感じた。もともとそういうイメージだけのアイコン化は、現役時代も、あまり歓迎していなかったように見えたから。
 僕は深いため息を漏らした。一般グループに対する、自分の役割もはっきりと見えた。僕は彼らの神殿の司祭。そして“現在”の取りまとめ役。それ以上にはなれないだろうが、実際の統制の舵取り役がなければ、みんなはやがてばらばらになってしまうかもしれない。僕は現在を見極めながら、彼らの司祭になろう。全力を挙げて。
 集会は終わり、みんなまだ思いがさめやらない表情のまま、ゆっくりと自分たちの部屋へ引き上げていった。僕らもステレオを片付けたあと、部屋へ帰った。みんな言葉少なだった。だがその胸に去来している思いはたぶん同じであることを、僕は感じていた。
                   
 翌日の朝、オタワへ行く先発隊が出発した。行ったのは一般グループからの二〇〇人、マスコミ関係と従業員グループから六五人、それに僕らのスタッフや外戚組みから三二人の合計二九七人で、ジョージが全体のリーダーをつとめている。もうここには戻ってこない前提だから、先発隊は前日のうちにすべての荷物をまとめて、一緒に持っていっている。
 午後、飛行機は現地につき、調査が始まった。放射線濃度は最後の遠征隊が離陸間際に測った数値と、ほとんど変わっていない。以前の世界と比べればやはり高いが、居住は可能なレベルだ。
「でも、あの大嵐の影響なんだろうな。街の中はがらくた箱を引っ繰り返したようなありさまだぜ。車が逆さまに止まってたり、ビルに突き刺さったりしてるしな。空港だって、えらい有様なんだが、B滑走路だけは、きれいに片付いていたよ。あの最後の調達隊が、離陸する前に、そこだけ整備したんだろうな。あんなコンディションで、どうやってやったのか、わからないが。他の滑走路は、まだまだいろんなものがごろごろしているんだ。みんなが来る前にA滑走路と、あと退避場所も片付けなきゃな。でもま、そっちは明日やるよ。とりあえず、今シルバースフィアに向かっている」ジョージはそう報告してきた。

 その夕方、続報が入った。
「シルバースフィアの中は、大水が通り抜けていったみたいだぜ」
 ジョージはそう言っていた。「やっぱりシールドは閉まってなかったし、扉も両方開いているんだ。その中に雨が流れ込んで、そして中を洗うような形で吸い出されていった、そんな感じだ。ビルの上のほうまで、水滴がついてる。今も多少水が残っているが、水たまりっていうほどじゃない。とりあえず、濡れた通路を拭くことからだな」
「そう。大変だけれど、よろしく頼んだよ」
「ああ、大丈夫だぜ。モップも雑巾もたくさんある。アーケードの通路には、ほとんど何もない。みんな水に持ってかれたみたいだな。ここは元々、駐車場は地下にあって、ダイレクトに外に出ていくから、通路に車はないんだ。歩行者専用で入れないからな。きれいさっぱり、なにもない。でも、建物の中までは水は入っていないようだ」
「そう。ありがとう。よろしく」ミックがマイクの前で頷いている。
「じゃあ、明日からみんな移動して、大丈夫だね」
「大丈夫だぜ。折り返しの飛行機に、地図を積んでおくよ。そっちにも、ちゃんとコピーがあるよな。『あれがなかったら、間違いなく遭難するところだった』って、パイロットさんたちが言ってたぜ。オタワ周辺の気流の乱れは、本当に洒落にならないらしい。最初少し高度を上げすぎて、気流にかすって、持っていかれそうになったらしい。慌てて下げて、修正が間に合ったそうだが。コンパスのズレもな。それを計算に入れて、あの飛行注意に沿って行ったら、見事にオタワに着いた。『よくこんな、ふらふら不安定なコンパスの状態で、静止した時、南に七度傾いているとわかったのか不思議だ。それでオタワにたどり着けたのだから、それが正解ではあるんだろうが』と言っていた。GPSのブレにしても、気流の感知にしてもな。まあ、書いたのがエアリィだからな、としか俺には言えないが。後続のパイロットさんたちにも伝えておいてくれ。あそこに書いてある飛行注意は、絶対守れって」
「わかった」僕らは頷いた。
「それから、シルバースフィアの中の放射線濃度は、外より薄い。それに建物の中も、それほどじゃない。掃除をすれば、もっと薄まるだろう。それから非常用の換気システムがあるんだが、これはやっぱり、発電装置を動かさないとダメなんだ。そういったもろもろの作業は、明日やっておくよ。みんなが来るまでころには、住める状態にしておくからな」
「ありがとう。大変だけれど、よろしく頼むね」
 僕は思いをこめて感謝した。調達隊のように生命と引き替えという重い犠牲があるわけではないが、先発隊約三百人は結構重労働だ。
「ただ街の中までは、掃除しきれないぜ。幸いここは空港から近いが、それでも歩いて二時間半以上かかるんだ。結構ハードだから、みんなそのつもりで来いよ」
「わかった。じゃあ、がんばってね。ご苦労さま」
 僕は頷いて通信を切った。
「さて、明日から、いよいよ民族大移動だ」ロブがパンパンと両手を叩いた。
「誰が何便で移動するか、その手筈はもう打ち合わせ済みだし、あとは実行あるのみだな。いよいよ本当に、こことはお別れだ」
「そうだね」僕らは顔を見合わせて頷いた。 
 様々な思いが胸に去来する。アイスキャッスル――世界で唯一滅びから救われた、氷の中のシェルター。そして僕がすべてを失ったところ。ここで過ごした一年近い月日は、なんと大きな苦難と悲しみ、絶望に塗り潰されていただろう。でも今、僕たちはここを出ていこうとしている。新天地へ、文字どおりゼロからの出発だ。

 翌朝から、本格的な移動が行われた。アイスキャッスルの空港には、十六機の旅客機がある。どれも、定員三百人あまりのものだ。あのコンサートの日、トロント‐アイスキャッスル間は全便チャーターで、コンサート前日と当日で、合計二七便が飛んだ。スタッフや従業員を含めれば、二八便だ。トロントはローカル空港発着で、アイスキャッスルの空港もそれほど大きくないために、大型機は使えず、このサイズが精いっぱいだった。そして前日に来た十二機はいったんトロントに戻って、翌日再びアイスキャッスルまでの客を乗せてきている。手配できた飛行機は十六機で、アイスキャッスルの空港に飛行機が待機できるスペースもそのくらいだったからだ。コンサートの翌日、アイスキャッスルに待機していたこの十六機が三十分おきにトロントへ向かって飛び、最初の十二機はトロントで客を降ろし次第、再びアイスキャッスルに戻ってくる予定だった。重複する十二機分については、まるまる一往復分無駄になるが、僕らはその分、自腹を切って補填しようと思っていた。そう――何も起こらなければ。
 でも実際に、悪夢は現実となってしまった。この十六機の飛行機がトロントへ戻ることは、もうない。航空会社にチャーター代を払う必要すら、なくなってしまった。会社も社会も通貨も、何一つなくなってしまったのだから。でもその飛行機たちには、新しい行き先が見つかった。オタワ――三往復が必要だが、パイロットさんたちは快く引き受けてくれた。「新しい天地へ行けるなら」と。
 彼らに食料調達のため飛行機を飛ばしてほしいと頼んだ時も、「仕方がないのだろうな」と頷いていた。「それがなければ、みな死ぬことになるのだから、仕方がない」と。残ったパイロットさんの話では、「誰が行くのか、最初に話し合った。年齢順とか、キャリア順とか、いろいろ案が出たが、結局くじ引きにした。恨みっこなしだ」ということだった。
「ある意味、自分たちは幸運だった。生きてここを出て行けるのだから」――そうも言っていた。僕らはただ、感謝することしかできない。

 最初に、アイスキャッスルに今ある十五機の飛行機のうち六機を使い、千八百人がオタワに移動する。パイロットたちが七組しかいないので、それ以上は無理だ。離陸は一機ずつしかできないから、二十分の間隔をあける。アイスキャッスルは高緯度地帯にあるので、十月になると、もうかなり日が短い。最初の便を飛ばせるのは、九時過ぎだ。オタワ着が一時。最終便は順調にいって二時四五分ごろ。だいたい三時近くになる。そこから飛行機をアイスキャッスルに戻そうとすると、到着は夜になってしまうので、無理だ。かといって、到着次第給油してすぐ戻る、というのも危険だ。行く飛行機と戻る飛行機が同時に存在するのは、航空管制なしの状態では危ない。アイスキャッスル側は管制可能で、実際管制官も生き残っているので、その人が航空管制を務めてくれるのだが(食料調達の時とは違い、何機か飛ぶので、間隔をあけているとはいえ、管制はあった方が安全だ)、オタワ側は管制装置自体、電力がないので動かせない。ビーコンは発電機を使って動かせたが、単純にコンセントを発電機に差し込めば動くというタイプの機器だけではないからだ。それゆえ最初に着陸する飛行機以外は、いったん空港上空を通過し、前の飛行機が退避所に移動したのを確認してから、旋回して着陸しなければならないくらいだ。
 そのため、飛行機の引き返しは翌日になる。九時から、三十分ずつ間隔をあけて、でもアイスキャッスルに戻るのは、三機だけだ。前日までにアイスキャッスルから乗ってきた七機のうちの、三機を使う。オタワの飛行場には、もっと大量輸送できる飛行機もあるが、大型機はアイスキャッスルの空港に着陸が難しいことと、世界崩壊時の大量放射線で機器が故障している可能性もあるので、使えないからだ。乗ってきた飛行機も、四機はオタワの空港に置いたままで、パイロットだけが戻る。オタワではアイスキャッスルより日が長いので、七時半くらいには飛行機が飛ばせるのだが、それでアイスキャッスルに戻り、当日中にオタワに来られる飛行機は、せいぜい一、二便だろう。オタワの空港にも電気がきていないので、ライトアップはできないから、アイスキャッスル同様、夜の到着はできないのだ。だから、ここは無理をせず、翌日に七機を使って、二千百人をオタワに移動させる。この日はそれでおしまいだ。この時点で、アイスキャッスルにある飛行機の残基は五機だ。
 翌日は二機がパイロット全員とともに、アイスキャッスルに戻る。本当は最後の便は六機でこと足りるので、戻るのは一機でもいいのだが、あまり余裕がないのも不安だ。そしてその翌日、残った千六百人の人々をオタワに連れてくる。両方向に飛行機を同時に飛ばせず、なおかつ夜の離着陸が不可という条件では、一日で片道の飛行しかできない。五日がかりになるが、それがうまく行けば、すべての移動は終わりだ。

 僕は最初に行く千八百人の人々を率いていた。母とステュアート博士、ポーリーン、アデレードにエステル、それにアラン・ステュアートとジョセフも一緒だ。まだ彼らには話していないが、将来の三賢者たちには、オタワについてからやらなければならない使命がある。それを向こうに落ち着きしだい、彼らに話してとりかかってもらうつもりだった。

 飛行機に乗りこむ僕たちの上に、オーロラが揺れていた。エスキモーたちの伝説では、オーロラは死んだ人の魂だと言う。この光は、アイスキャッスルで死んだ二四三九人の魂なのだろうか。いや、魂は天国にいるのだとしたら、これは彼らが僕らに贈る、惜別の光――生き残ってここを去っていく僕たちに向かって、最後の別れを告げているのだろうか。頑張って、自分たちの分まで、生きてくれと――。
 飛行機は離陸していった。アイスキャッスルの施設全体をドーム状に覆っている銀色のシールドが小さな円となって、次第に遠ざかっていく。窓の外には七色の光が、飛行機にまつわるように揺らめいて舞っていた。別れを告げているように、別れを惜しんでいるように。
 涙で、視界がぼやけていった。さようなら――妻と子の形見のロケットを握り締めながら、窓の外にきらきら点滅する七色の光に、僕は呼びかけた。さようなら、そしてありがとう。もうここへ僕らが戻ってくることはないだろうけれど、みんなのことは一生忘れない。ここで生き、生命のために精一杯戦って、力尽きていったみんなのことを。その生命の愛と無念さを――そして僕たちみんなのために、自ら犠牲になって死んでいったみんな――本当にありがとう。僕たちが生きていけるのも、君たちのおかげだ。でもその気持ちは決していつも穏やかではなかっただろう。生きたいという思いを犠牲にしてしまったことを、僕らは一生忘れない。この七色のオーロラの中に、もう小さな点になってしまったドームの中に、僕の妻や子や父、そして友たちがいる。もう現世で会うことはできないが、きっとまた向こうで会える、その時まで――さようなら。
 窓の外のオーロラはやがて消えていき、銀色のドームは白い世界の中に埋もれて、見えなくなっていった。
 
 凍りついた大地と、凍りついた海。全ての生命を凍らせる、氷の世界。世界で唯一、北極光のもとで滅びから逃れられた、現代のノアの方舟。さようなら、恵みと苦難の地、アイスキャッスルよ。僕らは今、新天地へと向かう。もう一度、生きるために。




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