Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第四章 惜別の光 (5)




 それから十日が過ぎた。みんな長い飢餓状態からやっと健康を回復していたが、アデレードはずっとベッドに伏せたままだ。エアリィが死んで、さらに空気に溶けて消えてしまったあと、その衝撃で失神した彼女を、僕らはベッドに寝かせた。それから十日間、彼女はそこに寝ていた。時おり立ち上がってトイレに行く以外、ずっとベッドに横たわり、虚ろな瞳で天井を見つめている。食事をするように言うと、口に入れるのは、ハニーレモンのキャンディだけだ。最後にエアリィが持ってきたのと同じそのキャンディと、あとは水だけ。セーラを亡くした後のロビンのような、虚脱状態――それに近い感じでもある。衝撃が深すぎて、心が何かを感じることを拒否してしまったような、そんな印象すら受けた。そういえば『君は思いつめて突っ走っちゃうから心配』と、エアリィが出発前夜に懸念していた。彼も恋愛部分については疎かったかもしれないが、妻の性格はよくわかっていたのだろう。今は仕方がない。いずれ時が癒してくれるだろう――僕たちはそう思うしかなかったが、一週間以上過ぎても変わらない状態に、さすがに心配が募ってきた。声をかけられてもほとんど反応せず、唯一義妹エステルからの声かけにだけ、微かに、ほんの微かに返す。エステルも兄を失って、その悲しみは非常に激しいようだったが、彼女の場合は発散するタイプで、そして兄と同じ芯の強さがあるゆえにか、三日ほどの悲しみの急性発作のあと、徐々に立ち直りをみせてきていた。「でも、あたしは生きなきゃ……お兄ちゃんが、そう言っていたもの」と。だがアデレードは内に沈降するタイプのようだ。そしてその感情の底は深い。そんな印象だった。彼女にも立ち直ってほしい――そう願っても、何もできない。そんな日々だった。
 だがこのままではいけない。それはたぶん、誰もが感じていたのだろう。十日目の昼頃、レオナが食事のトレーをアデレードの前に置き、強い口調で言った。
「食べなければだめよ。悲しいのはわかるけれど、絶望してはいけないわ。エアリィだって、最後までそう言っていたじゃない。生きなくちゃダメだって。あなたがそんなふうだと、彼は決して喜ばないわよ」
 レオナは四日前にも、同じことをした。同じ言葉を言った。その時には、アデレードは何も答えなかった。無言でトレーを横に押しのけ、それに手を付けることはしないまま、かたくなに目を閉じていた。しかしこの時には彼女は目を開け、トレーを横に押しやると、ベッドの上に起き上がった。
「ええ、きっとわたしが後を追って死んだら、彼はあまり喜ばないでしょうね、向こうで」
 アデレードは首を振り、感情を抑えたような、平板な声で言った。
「本当は、彼と一緒に行きたかった。オタワへ。一緒に働いて、苦しんで、一緒に死にたかった。でもそれができないのなら、わたしに残された道は二つだけ。ただ一つの希望が叶えられたら、わたしはこれからも生きる。もしそれが叶えられないなら、わたしはみなさんと一緒にオタワへは移住しない。ずっとここに残る」
「えっ……」おそらくそこにいる全員が、そう声を上げた。
 そしてレオナが困惑したように続けた。
「移住しないって……ここに残ったら、死んでしまうわよ……」
「平気です」アデレードは天井を見上げ、微かに首を振った。
「わたしはこのベッドの上で、その時を待ちます。ここは……わたしたち四人が、寝ていたところだから。エアリィとロージィとティアラと。みなここにいたのだから、それにドリアンも――わたしの家族はみなここにいるのだから、わたしは離れたくない。ずっとここにいます」
 この静かな宣言に、僕らは当惑しきった表情で、互いに顔を見合わせるしかなかった。心情はわかるが、とても認めるわけにはいかない。彼女は重ねて言った。
「わたしをもし無理に連れて行こうとするなら、わたしは自殺します」と。
 どっちにしろ自殺じゃないか……どうしたら彼女に生きる希望を持ってもらえるのだろう。その深いすみれ色の瞳は淀んだ水の水面のように、光を失っていた。
「義姉さん……」エステルが進み出て、その手をとった。
「もう一つの選択肢にはなれないの? ただ一つの希望って、何?」
「そうね……それをこれから確かめに行くわ。一緒に来てくれる、エステルちゃん?」
 アデレードはかすかに微笑み、そっとベッドから降りた。
「ええ、もちろん。でも、どこへ行くの?」
「医局へ。あれから十七日がたった。もうそろそろ、わかるころよ。ちょっと早いかもしれないけれど、わたしは生理が遅れたことはなかったの。ここへ来ても。だから……」
 ああ、そうか――僕は、あの最後の夜を思い出した。最後の希望、それは亡き夫の血を引く、新たな子供か。そういえばロザモンドができた時、エアリィは『ヒット率高すぎ』と言っていたっけ。あの夜も言っていた。『君のヒット率の高さに、かけてみようか』と。彼女は妊娠しやすい体質なのかもしれない。このコンディションでは、万全とはとても言えないだろうが、それがアデレードを支えている唯一の希望なのか。十七日目、だと仮にヒットしても、場合によっては反応が出るには早いかもしれない。彼女自身も言ったように。それなら、もう一週間ほど待つようには言えないだろうか。その間に生理が来てしまったら終わりだが、そうでないなら、何とか説き伏せて――。
「待って。それならわたしも一緒に行くわ」
 レオナが二人の後を追って、廊下へ出て行った。
 残った僕らは、互いに顔を見合わせた。
「無茶な賭けだとは思うが……当たっていてほしいな。アデレードさんのためにも、エアリィのためにもな。先行きはたしかに心配だが……」ジョージがため息交じりに首を振り、「そうね。彼女の場合は、もう後がないのですもの」
 ポーリーンは同情に満ちた表情で、両手を組みあわせていた。

 しばらくの時が過ぎた。廊下を軽やかに駆けてくる足音がする。と、エステルが部屋に飛び込んできた。
「出たのよ、出たの! 本当に!」
 彼女は頬を紅潮させ、感極まったように叫んでいる。
「何が?」部屋にいた僕らは一斉に問いかけた。
 エステルはますます頬を真っ赤にし、大きな目に涙をためながら叫ぶように答えた。
「妊娠反応よ! 試験紙がプラスになったの! 本当よ、間違いじゃないわ。念のため、三回やって確かめたもの。アデレード義姉さん、本当に赤ちゃんが出来たの。アーディお兄ちゃんの子が! 三人目の子が! ああ、うれしい!!」
 彼女はソファに置いてあったクッション――エアリィが最後に寄りかかっていたそれを抱きしめ、泣きだしていた。
「ええ!?」僕らは一斉に、そう声を上げた。
 その後レオナに付き添われて部屋に戻ってきたアデレードは、ふらふらと今まで寝ていた自分たちのベッドに倒れこむようにして、布団を抱え、泣き出した。泣いて泣いて、激しく泣きじゃくる。エステルに結果を知らされていなかったら、てっきりダメだったのかと思うほど、激しい号泣だった。エアリィが死んでから、初めて見せた涙だった。アデレードはあの時から感情が麻痺したようになって、ただひたすら一つの希望にすがる、それだけしか考えられない状態になっていたのだろう。本当に奇跡が起き、望みが叶えられたことを知った時、彼女は感情を取り戻したのだと思う。彼女は夫の死を悲しむことが出来、同時にそれを乗り越えて授けられた、新たな生命に歓びの涙を流したのだろう。その姿に、ほとんどの人がもらい泣きをしていた。
「良かったわね、本当に。希望がかなったのよ。エアリィだけでなく、ここにいるわたしたち全員だけでもなく、神様もあなたに生きなさいって言っているのよ。だからもうここに残るなんて言わないで、生きてね!」
 レオナも感極まったように目に涙をため、抱きかかえるようにして言った。そしてサイドテーブルに僕が退避させた食事のトレーを取り上げ、再びアデレードの前に置いた。
「まずは、これを食べてちょうだい。もう、あなた一人の身体じゃないのよ。ちょっぴりのキャンディしか食べないのでは、赤ちゃんがかわいそうだわ。もっと栄養をつけなきゃ」
「ええ……ありがとうございます。今はちょっと無理だけど、あとで食べます。必ず……みなさんには、ご心配をかけてしまって……すみませんでした」
 アデレードは涙を飲み込みながら、頷いていた。「本当に、ありがとうございます。神様……わたし、これからも生きていかれる。この子のために……いえ、生きなくちゃ」
 彼女はそっと手を下腹部に触れた。そしてふっと微笑んで、言葉を継ぐ。それは十八日ぶりの笑みだった。
「きっと、これから大変ね。わたし、つわりが重いから。いえ、最初の子供の時には、三ヶ月の終わりまでしか、育めなかったけれど、つわりは軽かったのよ。でも、ロザモンドの時も、ティアラの時も、きつかったわ。エアリィの子供たちって、ちょっと違うのかもしれない。彼が普通じゃないからかもしれないけれど……つわりはきついし、普通の赤ちゃんよりも小さいし、生まれてからの発達も早いの」
 それは、彼が持つ特殊因子のせいなのかもしれないな――僕はふとそう思った。たぶん未来世界で聞いたところのPXLPという因子。それが普通の女性には、刺激が強いのだろう。いや、その子供を宿すのがアデレードでなければ、育つことも出来ないのかもしれない。そういう意味で、たしかに宿命の二人なのだ――そう思えた。
「がんばって。その子は絶対、無事に育つよ」
 僕は思わず、そう言わずにはいられなかった。
「そして、いつかその子から、新世界の王が生まれるよ。『夜明けの大主』が……」
 僕は思い出していた。未来世界で見た、初代大統領の肖像を。亡き友に恐ろしいほどそっくりな、あの姿を。当時のエアリィはまだ十四歳だったから、年令的な隔たりがあったが、あれから十年たった時、彼はあの肖像の青年と本当に瓜二つになっていた。
 カタストロフの半年前、彼が何度目かの「ローリング・ストーン」誌の表紙になった時、僕はびっくりして、思わず雑誌を落としそうになったことがある。そこに映っていたのは、あの『夜明けの大主』の肖像だった。全身像ではなかったが、同じような白のオーバーブラウスを着て、奇しくもポーズまで同じ。彼はあの肖像を見ていないはずだが。手に丸めて持っているのがその雑誌で髪がブロンド――同じ青い髪が、ひと筋だけあるが。そして前髪はふわりと額に降りている。表面上は、それだけの違いしかない。ただ表情は決定的に異なった印象を受けた。あの肖像は、唇は笑っているが、目は冷たかった。エアリィは逆だ。微笑してはいないが、目は笑っている。だが、この圧倒的な相似は、紛れもなく二人の血の証明だった。あの『ダイアモンドの微笑』の持ち主は、まだ四十数年間は誕生しない。とすると、今アデレードの中に宿った彼の忘れ形見が来年誕生すれば、あの大主は、きっとその子の子供か孫だ。僕はそう確信した。
 あの最後の夜、もうひとつの奇跡が起きたのだ。神は本当に、アデレードの必死の願いを叶えて下さった。エアリィも自分の血を残すことが出来た。本当に、最後の最後で――。その奇蹟の子が無事に産まれることを、その子からつながる未来を、僕は信じて疑わなかった。ロビンが生きていたら、さらに証人になってくれるだろうが、今はそれを知るものは僕しかいないと思っていた。だが、どうやらそれは、間違っていたようだ。
「そうだね。アルシス・リンク・ローゼンスタイナーが未来世界の史実に存在する以上、その子供は絶対に生きるよ」と、ミックが落ち着き払って言い、
「そうだな。僕もエアリィが死んでしまった時、おや? あれは間違いだったのか、エステルちゃんの方の系統だったのかな、と少し疑問に思ったんだ。しかしやっぱり、事実は事実だったんだな」と、ロブも重々しく頷いている。
「知っていたの、二人とも?」僕は驚いて聞いた。
「図書館の文献で読んだことがあるんだよ。帰る二日前のあの晩にね」
 二人は少し決まり悪そうに、そう答えている。
「なんだ。歴史は見ちゃダメって言われたじゃないか」
「だが、やっぱりあれだけいろんなことがわかってきた以上、多少禁を侵してでも調べないと、どうしても気が済まなかったんだ」ロブが頭を掻いて苦笑した。
「だが、そういうおまえだって、ジャスティン。どうして知っているんだ?」
 そう問い返され、僕はロビンと二人で、間違って大統領室にまぎれこんだ体験を話した。
「なんだ。じゃあ当のエアリィと俺と、二人だけが知らなかったことなのか」
 ジョージが肩をすくめて、苦笑いを漏らしていた。
「まったく、おまえらが密かに禁を犯してるなんて、考えたことなかったぜ。正直に生きてきて、損したよなあ」
「そう言うなよ。知的好奇心に負けただけさ」
 ロブは苦笑しながら、その肩を叩いている。
「じゃあ、他にもまだ何か隠してることあるんじゃないか、おまえら」
「ないよ。僕の知ってることは、それだけさ」僕は首を振った。
 しかしミックとロブは少々バツの悪そうな顔をしながら、こんなことを言った。
「未来は未来が語る、さ。こっちはまだ本人が生きているから、言えないな」
「え?」ジョージと僕は、顔を見合わせた。
「未来は未来が語るのさ」ミックとロブはもう一度、意味ありげに繰り返す。
 それ以上は、確かめようがなかった。でも、たしかに事実があるなら、希望がある。そう言えば僕にも――娘が生まれる? それが未来の事実だと、ロビンも言っていたっけ。だから希望を持てと。ああ、でもいったいそんな事実は――今の僕には見えないけれど。
 
 僕たちはその夕方、一般グループへの夕食配りと慰問をすませて、自分たちの部屋へ帰る長い廊下を歩いていた。まもなくアイスキャッスルで生き残っている全員が、オタワに移動することになっている。未来の史実どおり、五千八百人の大移動だ。
 最初は飛行機一機分、三百人が移り、改めて向こうの放射能濃度をはかる。OKということになればシルバースフィアの状況を調べ、居住可能かどうかの判断を下すのだ。両方ともOKならば、翌日からいよいよ全員の大移動が始まる。十四人のパイロットを総動員して――機長と副操縦士のペアに、航空免許を持った人や航空学校の生徒など、一般から一人ナビゲーターと補佐役でつく。一機の飛行機で三百人運べるから、七機を動かして二千百人。だいたい三往復で、全員を移動し終えることができる。夜に移動できないことを考えると、一日で一往復が限度だし、パイロットの疲労を考えても、そのくらいが妥当なペースだ。全員が移動し終わるまでに三日かかるが、ついにこの氷の牢獄から脱出する日が、近付いてきたのだ。
 スタッフや関係者たちは、名簿の整理にかかりっきりになっていた。無事アイスキャッスルでの一年近くを生き延び、新天地へ移動する五八一三人の名前をノートに整然と書き込み、人数の減ってしまったグループを再編成する。ついに新天地を見ることなく力つきた二四三九人についても、彼らのことが後世の人々の記憶から消えてなくならないように、全部リストに書き込んだ。フルネーム、出身地、生年月日、没日、享年、死因と。この長いリストの中には、見慣れた名前がいくつもある。いとしい妻やわが子、父親、親戚、親友たち――ここを離れることは、彼らからも引き離されるように思えて、悲しい。でも生きてここにはいられないのだから、僕たちは別れなければならない。
 永遠に彼らの眠る場所に戻ってこられないとしたら、ここを去る時、いくばくかの名残の品を持って行きたい。昨夜、僕は一人で地下の巨大な倉庫へ下りていき、久しぶりの対面をはたした。ひんやりと冷たい地下倉庫は氷点下以上には気温が上がらないため、ほとんど体は崩れていない。でも面と向かっては、もう見下ろせなかった。僕は覆いをほんの少し取り退け、息子の髪の毛を一房はさみで切り取った。妻のほうは残っている数本の毛をとり、二人の髪を一緒にして妻が大事にしていた銀のロケットの中に収め、僕自身の護符にするつもりで首にかけた。クリスのお気に入りだった赤いミニカーも、わが子の形見として持っていくことに決めた。ほんの小さなことだが、二人がいつも僕と一緒にいてくれるような気がして、オタワでも生きていける力を得られたような思いがする。

「今日も一日終わりだな。あと二日で、ここともおさらばか……」
 ジョージがため息をつき、天井を仰いだ。
「二人とも家族がこっちに残っているんじゃ、つらいだろうね。形見は持っていくんだろうけれど」ミックの声は、同情に満ちていた。
「ああ。だが、どこへ行っても、パムもプリシラもジョーイも、俺と一緒さ」
 ジョージは三人の遺髪が収めてあるロケットを振った。
「それから親父におふくろに、ロビンもな」
 もうひとつの袋を振りながらそう付け加えた後、彼は深く深くため息をついた。
「まったく……みんな逝っちまって、残ったのは俺だけだ。まったく生きていたって、どんな喜びがあるってんだろう」
「僕もそう思うよ……」僕は力なく頷いた。
「だろ。だがジャスティン、おまえは俺より、ましなんだぜ。少なくともおまえには、まだおふくろさんもいるし、兄さんも姉さんもいるもんな」
「それは、そうかもしれないけれど……」
「元気を出すんだよ、二人とも」ミックが静かに、熱意をこめて励ましてくれた。
「もう、最大の苦難は終わったのだから。これから僕たちは新天地へ移って、もう一度始めるんだ。頑張らなくちゃだめだよ」
「オタワのシルバースフィアか……」僕は天井を仰ぎながら、呟いた。
「新しい未来……でも僕には、まだ真っ白にしか見えないよ。何もイメージが浮かんでこないんだ」
「俺もだ」ジョージも首を振っている。
「今は、そうかもしれないね。でも、そのうちに何か絵が描けてくるよ。時がたてば」
「おまえはいいよな、ミック。奥さんは元気だし、なんたって来年の三月には、子供が生まれるんだもんな」ジョージは芯から羨ましそうな口調だった。
「うん。僕はそういう点じゃ、君たちの誰よりも、恵まれているかもしれないね。だけどこの希望は、いつも心配と隣り合わせなんだよ。最終的には誰がいちばん幸せなのか……それは、誰にもわからないことさ」
 ミックは相変わらず静かな口調で言い、微かに首を振った。
「うん、それはそうだね」僕は頷いた。
「未来はわからない。事実を垣間見ることは別としてね。僕はいつも、未来なんか見たくなかった。十一年間ずっと世界の終末の幻影に悩まされて……結局それは現実になってしまった。いやな未来なら、見たくはないよ」
「知らぬが仏ってわけだな」ジョージは小さく肩をすくめ、苦笑した。
「そう、先のことは、その時になってみないとわからないさ。でもいやなことや悲しいことは起きてから考えればいいことだ。出来るだけ現在のよい面、楽しい点を見て幸せになってたほうがいいって……こりゃ、エアリィがよく言ってたことだな。過去や未来に、現実を侵食されたくないと。ここじゃ、それは難しいかもしれないが……」
 ジョージは再び長いため息をつき、言葉を続けていた。
「あの最後の遠征隊に、俺が代わりに行ってやれたら、どれだけよかっただろうな。あいつはまだまだ、みんなに必要とされる人間だったのに。一般の連中にとって、アーディス・レインという存在は、特別なんだ。その言葉も、歌も、ぜんぶひっくるめて……今まで亡くなった一般連中が、最後に付き添って欲しいと望むのも、ほとんどあいつだった。だからここであいつは、二千人近い人の最期を看取ってきた。慰め、祈ってきた。迷走して落ちた、第六次調達隊の最後の通信の時だってな……」
「ああ……」僕はあの光景を思い出し、頷いた。
「僕たちも出来るだけのことはしたい、これからも。一般の人たちを、看取っていくことは出来るけれど、でもきっと、あいつのかわりにはなれない……」
「そうなんだよな」ジョージがため息をつく。
「これから一般の連中への統制を、どうやって取っていったらいいんだろうな。まだ二六の若さで、逝くには早すぎるぜ」
「エアリィは生き急いでしまったような印象を、僕は受けるんだ。巨大な星のように、激しく燃えて、早く燃えつくしてしまうような……それが彼の宿命だったのか、わからないけれど」ミックが頷きながら、ため息をついていた。
「この命と引き換えに奇跡を起こすことが、この人生の到達点なんだって、わかった。あいつはそう言っていたんだ、アデレードさんに。あの最後の晩」
 僕は二人に、あの夜の会話をかいつまんで話した。
「なんだか……やりきれないな」ジョージが少し詰まったような声を出した。
「俺はもう三四年近く生きてきたし、家族もいないやもめで、あと腐れなく死ねる身分なんだ。そんな俺が生きていて、あいつが死ななければならないなんて。でも、あいつでなければ、あの危機は乗り切れなかったんだな。俺たちみんなを救うために……」
「ああ……」
 脳裏に、夢の光景が再びよみがえってきた。最後の調達隊がオタワから帰ってくる前の晩に見た、あの夢を。大気が激しく逆流し、嵐が空へと回収されていく、あのシーンを。
「彼は教祖から、アイスキャッスルを救った英雄になったんだ」ミックが静かに言った。
「エアリィが死んだことは一般の人たちに、ずいぶんインパクトが大きかったようだね。おまけに彼が空気に解けて消えてしまったことまで、一般の人に知れ渡ってしまって」
「あれだけギャラリーが多ければ、どうしたってばれるぜ。見ていた連中が大勢いるからなあ」ジョージが苦笑して頭を掻いた。
 あの時、部屋の誰かが異変を知らせに、医者を呼びに行ったらしい。そのため、『アーディス・レインが死んだかも知れない』という噂は、同時にぱっと一般グループに広まり、医者のあとから大勢の人たちがついてきて、部屋をのぞき込んでいた。エアリィの消失は、僕らだけでなく、彼らの眼前で起きてしまった。彼らがどれだけ大騒ぎしたかは、改めて書くまでもないだろう。
「ヒーリングまでやってしまったしね。それに嵐を止めて、竜巻を起こして……」
 僕も思わず苦笑を漏らした。
「なんだか、ずいぶん神懸かり的になってしまったよ。あいつが生きてたら、どう言っただろうな。たとえ自分がやったことの結果であっても、この扱いは」
「エアリィは元々、かなり人間離れはしていたがな。でもその結果には、ほぼ無頓着だった。だから、バンドやってたころだって『みんなおんなじだよ』と、あっけらかんと言ってくれたし、現状は違うんだぜって言っても、『なんで?』って返すんだ。まったくな。おまえ、本気でわからないのかよ! 頭はとんでもなく良いくせに、そこのところはアホか、天然にもほどがあるだろう、と俺は何回も思ったもんだが」
 ジョージは苦笑し、肩をすくめた。ミックと僕も苦笑した。それは僕も現役時代何度か感じたことだし、ミックもきっとそうだったのだろう。
「まあ、それはともかくな。一般の連中からは、あいつの追悼集会をしたいって要望が、わんさと来てるんだよ。でも自分だけ特別扱いなんて、あいつは望まないだろうな」
 ジョージはそう言葉を継いでいる。
「うん。僕もそう思う。あいつは昔からそうだったよ。あの夜も、言っていたんだ。調達隊に七十人以上が行ってる。僕もその一人に過ぎない。何も特別じゃないって。彼の意識の上では、ロビンの場合と変わらなかったんだと思う。僕もそう思う。みんなが、それぞれの思いを抱いて、死んでいったんだ。だったら……」
 僕の頭に、ある考えが浮かんだ。
「みんなの追悼集会にすればいいよ。僕らがオタワに行く前に、ここで亡くなった二四三九人すべてのために、お祈りをするんだ」
「おお、それはいいアイディアだぜ、ジャスティン!」ジョージが手を打った。
「そうだね。それが僕らにできる最善だよ」ミックも頷いている。
「それじゃあ、集会の進行役は、おまえだな、ジャスティン」
 ジョージはニヤッと笑い、僕を見た。
「どうして?」
「どうして、だと。決まり切ったこと言うなよ。エアリィがいなくなった以上、おまえがやるしかないだろう。おまえがバンドの……」
「ナンバー2だっけ……」僕は自嘲気味に受けた。
 ナンバー1がいなくなって、ナンバー2が昇格するのか。でも、僕は決してそんなことは望まなかった。現役時代だって――そう、僕の悪しき心は、かつてそれを望んでいたこともあるが、銃撃事件直前にその気持ちを乗り越えてからは、ただの一度もない。それに、こんな厳しい状況の中では、ナンバー2の役に甘んじて引っ込んでいたほうが、気が楽だ。その苦い事実も、僕は認めざるを得ない。でも今となっては、責任を逃げるようなことはすまい。
「できるだけやってみるよ。僕にはエアリィほど、吸引力はないけれど」
「頼もしいぜ、ジャスティン。頑張れよ」ジョージがポンと肩を叩いた。
「でも、そろそろ僕らも、バンドの枠から外れて考える必要があるかも知れないよ、ジョージ。そもそも今、AirLaceというバンドが存在しているのだろうか、現実に。それは、否じゃないかな」ミックの口調は悲しそうで、寂しそうでもあった。
「だろうな。俺ら三人だけになっちまったんじゃ」ジョージも哀しげに頷く。
「あの最後の日に、五人で演奏して……考えてみりゃ、あの時俺らは一回解散してるはずなんだよな。ロビンが死んでからの、ここ二ヶ月くらいは、アコースティックバンドとして、週一ライヴするようになったが。でも俺はタンバリンじゃなくて、思いっきりドラムを叩きたいんだ。ロビンも含めて、五人で。春くらいまでは、思ってたこともあるんだぜ。いつか、いつかもしオタワで、電力消費が今ほどうるさくなくなったら、またみんなで演奏できないかな、なんてな。だが今は、永遠に不可能だな。おまけにエアリィもいなくなったんじゃ、アコースティック・ライヴも無理だ」
「そうだね……」
 頷きながら、僕は思った。音楽が――昔は常に支えであり、情熱でありつづけた音楽は、ここへ来てから八ヶ月以上、僕の中で力を失っていた。その後、ロビンの臨終の時、エアリィと二人で、『Spinning Wheels』と『A Paradise in Peace』『Fancy Free』のアコースティック・バージョンをやった。それが僕にとって、カタストロフの日以来のプレイだった。それ以来、一般の人たちからの要望で、週一回、短いアコースティック・ライヴをやり続けていたが、その中核であるエアリィがいない今では、それももう意味がない。彼は未踏の領域に到達したモンスターだった。その歌は人の心に確実に届き、揺さぶり、浸透する。夏からの困難な二ヶ月を、統制をたいして乱すことなくやってこられたのも、その力があったからこそだろう。
 だが、僕らがインスト曲や『グリーンスリーブス』あたりをやっても、一般の人たちにとって、余興程度にしかならないだろう。いや、かえって失ったものを思い起こさせ、悲しませるだけかもしれない。でも僕らの十一年間は、栄光の残像でしかないのだろうか。いや――もっと意味ある活動をしてきたはずだ。一般グループを支え続けるバックボーンとして。ならば今でも効力を発揮できないだろうか。生演奏は不可能だが――。
「アルバムがある。僕らのグループの誰かが、持っていないかな。できたらHDプレイヤーより、CDの方が良いんだけれど」僕は頭を上げた。
「俺は持ってるぜ。iPodだけどな」
「僕はCDも少し持ってきたよ。聞く機会はなかったけれど」
 ジョージとミックが、にっと笑って頷いた。
「追悼集会で一枚だけかけて、みんなで聴こう。そのくらいの電力は大丈夫だろ。今はまだ暖房にまわすエネルギーにも、余裕があるから」
 僕はそう提案し、ジョージも同意の声を上げた。
「そうだな。生で演奏できないかわりに、CDか。いい再生装置を使って、大音量で……今の俺たちには、それしかできないもんな」
「でも、一枚となると……」僕は言いかけ、
「『Neo Renaissance』だね。それしか考えられない」ミックが静かに言葉を引き取った。
「あれこそ、今の状態にいちばんぴったりしてるよ。追悼集会という性格にも、もっともふさわしい一枚だ」
「あのラストアルバムか。そうだね」
 たしかにそれが最善だろう。ジョージも同じように思ったらしく「ああ。それがいいな」と、頷いていた。




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