Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第四章 惜別の光 (4)




 すっかり体力の衰えきった僕らは、長い間立っていることは出来なかった。一人、また一人と床に座っていく。
 僕は椅子に寄りかかるようにして座り込み、モニター画面を見上げた。渦巻く感情は、やがて圧倒的な虚無感に取ってかわっていった。長い間の飢餓状態は、思考力も奪ってしまうのかもしれない。それでも、完全な無感覚に陥ったわけではなく、心の奥深くで燃える火のように、思いがわきあがってくる。
 夢だったのだろうか――でも、全員が同じ夢を見るなんて。単なる夢で済ませられるとは思えない。ああ、しかし事実だったとしたら、どうすればいいのだ。エアリィが帰ってこない、ということは、調達隊全員が帰ってこないこととイコール――『アイルマーさんは操縦できない』彼らのうちの一人が、悲痛な調子でそう言っていた。今回は、副操縦士は同行していない。エアリィがナビゲーターと副操縦士役で行っているから、一人でも無用な犠牲をなくそうという配慮で、同じようにキャビンアテンダントの人も同行していない。その一人しかいない正規のパイロットに何らかの障害が起きたということなら、もはや操縦できる人はエアリィだけになる。彼の力で、一行はオタワまでたどり着いたのだ。まったくの手探り状態でも、彼の俯瞰能力と、かつて見た『新世界の地図』を突合せて。さらに飛行機の操縦方法と、アイスキャッスルからオタワまでの飛行ルートは、行きのフライトでエアリィの頭には確実に入っているから、仮に行きと同じ条件でも、ここまで戻ってくることが出来る。しかし、彼がいないとなると――『あなたがいないと帰れない』という彼らの叫びは、単なる精神的支柱を求めてだけではないのだ。『君が倒れたら終わりなんだ』と、ジャクソンも何度となく訴えていたように。
 だが、今の僕らにオタワへ救援に行けというのは、とても無理だ。相変わらず手探り状態での飛行に加え、このコンディションでは。賭けは失敗したのか――友は無駄死になのか? そして僕らはここで、死んだ人の肉をむさぼりながら、緩慢な死へと向かっていくのか――? ステラのことを思った。そしてクリスを。彼らが来たりくる地獄を味わわずにすんだことを、感謝すべきなのだろうか。だが僕たちは、ただ絶望の中で滅びるために、八千人あまりの人を、ここに連れてきてしまったのだろうか――。

 誰も何も言わなかった。静寂のみが部屋を支配し、アイスキャッスルを覆っている。その重苦しい朝が過ぎようとする頃、突然無線のランプがつき、通信機から声が響いた。
「ハロー、アイスキャッスル。誰かいる?」
 聞き間違えようのない、この声は――僕は頭を上げた。同時に、管制室にいたすべての人が、同じ動作をし、一瞬呆然とした後、マイクに向かって進もうとした。距離的には、一番ジョージが近かった。彼はマイクを取り、呼びかけた。
「エアリィ、おまえか? 本当に、おまえか?」
「そうだよ……」怪訝そうな声だった。
「いや……幽霊じゃないよな、おまえ」
「なんで僕が、幽霊なのさ」
「いや、いいんだ。おまえが無事なら。気にしないでくれ」
「ああ……」微かに笑ったような声と共に、一息置いてから、エアリィは続けた。
「みんなに、報告があるんだ。嵐が止んだよ。だから、これから帰る」
「おお」ジョージはそう声を上げたきり、絶句した。僕らもみな、同じだった。
「それから、もう一つ。嵐と竜巻の影響だか、なんだかわからないけれど、放射線量が薄まったんだ。さっき計ってみたら、数値が下がっていたよ。二桁近く、かなり劇的に……」
「なんだって……?」博士がジョージの横からマイクを取った。
「アーディス、間違いないのか? 本当に数値が下がったのか。スケールは間違っていないか?」
「ああ、ちゃんと確認したよ。スケールミスじゃない」
「おお!」告げられた数値を聞き、ステュアート博士が感極まったような声を出した。
「その濃度なら、我々はオタワに移って……生きていられる。当然、危険はあるが……即座に命に、かかわるほどではない。ここより薄いほどだ。おお、奇跡だ。奇跡が起きた」
 僕も驚きと感嘆のあまり、何も言えなかった。みなも同じだったようだ
「そう、みんな、もうこっちへ来られるよ」
 エアリィが通信機の向こうで、そう言っているのが聞こえた。
「今から持って帰る、食料が終わるまでに、こっちへ来るといいよ。一応はその時に、もう一度測ってみないと、いけないけれど……でも、僕のカンを信じてくれるなら、もうこれ以上、濃度は上がらないと思うよ」
 僕は昨夜の夢を思い出していた。あれは本当に夢なのか、それとも――。
「おまえが……奇跡を起こしたのか……?」
 その問いかけに対して、エアリィはただ、これだけ答えた。
「ここまで、これだけの人が、がんばってきたんだから……」
「ああ、そうだけれど……」
「……みんなの声、聞こえたよ。ありがと」
「えっ?」
「じゃあ、これから、出発するから」
 通信は切れた。不思議な思いに圧倒されたが、それ以上深く考えると、めまいがしそうだ。通信室にいた人々は、僕も含め、みな床に座り込み、モニターに映る空にじっと目を凝らしていた。もちろん、帰りのフライトがうまく行ったとしても、実際の到着は、たぶん午後になるだろう。しかし、他に何かをやる気力も、もう残っていなかった。一つだけを除いて。エアリィから再び通信が入ったこと。これから帰る予定だということ、オタワの線量が劇的に下がったので、移住が可能になったこと――それだけは心配しきっているだろうアイスキャッスルのみなに、伝えなければならない。それを伝えた時の人々のどよめきは、建物を隔てた管制室にいてすら、感じられるほどのものだった。

 その日の午後、アイスキャッスルの空港に、再び飛行機が帰ってきた。モニター画面に映る厚い雲の間から機影が見えた時の喜びは、言葉にできない。飛行機はだんだん高度を下げて近づき、ついに空港の滑走路に着地した。その瞬間、僕らは一斉に歓声を上げた。
 飛行機が無事についたとアナウンスした後、ここまで響いてくる歓声を聞きながら、ジョージと僕は、残された体力の許す限り急いでエレベータで下に降り、アーケードの広い通路を走った、いや、走ろうとした。実際はよろよろと歩いただけだが。同じように大勢の人が、外に出てきて、通路を埋めている。ロブが拡声器を持ち出し、彼らに告げた。
「みなは外に出ないで、ここに待機していてください! 第一グループの人たちで、男性は、空港までトラックを運転していく手伝いをしてください。バスも必要だから、それも!」
 僕らは何人かのスタッフと一緒に、空港に向かった。タラップ車を横付けし、荷物搬送用のフォークリフトを動かし、貨物室のハッチを開ける。外装を外して詰めなおすのはもう向こうで済ませているので、運び出された荷物は、そのままトラックに積み込まれていく。
 調達隊のみながタラップを下りてきた。防護服は嵐の時に濡れたのでそのまま着なかったのか、オタワを発つ時に脱いできたのかはわからないが、普通の服装だ。全員がふらつきながらではあるが、自力で降りてくる。アイスキャッスルからの援軍に身体を支えられ、バスに乗り込んでいた。だが彼らの容貌は、昨晩夢で見たように、いや、それ以上に生々しく、一様にやつれはて、ほとんど髪も抜け落ち、別人のような容貌だった。顔は土気色、もしくはあちこちに紅斑が出来ている。
 エアリィは一行の最後に降りてきた。彼は変わっただろうか? アイスキャッスルへ来てからも、その容貌はほとんど変わらなかった。持って生まれた美は、決して損なわれはしなかった。昨日の夢でもそうだったが、実際には、調達隊の他の人たちのように、ぼろぼろに憔悴しきっていたら――そんな姿は見たくない。一瞬、誰もがそう思ったようだ。
 だが、彼がタラップをゆっくりと降りてきた時、僕はあっと息をのんだ。異様な感動だった。それは、きっとそこにいた人すべてにとっても、きっとそうだっただろう。変わり果ててしまった? とんでもない。ただ、妙に透き通ってしまったような印象だった。エアリィは出発した時とも、昨日の夢とも違う、スカイブルーのセーターの上に、フードのついた白い上衣を着ていた。下はブルージーンズだ。たぶん帰ってくる前に着替えたのだろう。だが、その服の緩やかなシルエットの上からでも、身体の線がますます細くなったのがわかる。肌は白を通り越して妙に透き通るような色があり、人間的なものが、もうほとんど残っていないような印象だ。そして右の頬には、すっと細く白い筋が走っていた。風になびいた髪にかすかな日の光があたって輝き、まるで本物の後光のように、彼を包みこんでいる。その髪の小さな変化に、僕は気づいた。元々左側にひと筋あった青い髪の束が右側からも生え、左右対称になっている。ここを出発した時には、片側だけだったのだが――。
 エアリィは空港に降り立つと、誰の助けも借りずにバスに乗り込んだ。そして僕らに丸めた地図を渡した。
「これ、帰りにコックピットで、書いたんだ。字、少し読みにくいけど、ごめん。新しい地形と、方向……コンパスは、七度くらい、南よりにずれてる。だから、気をつけて。GPSは……復活したみたいだけど、これも誤差、五十キロくらいある。アイスキャッスルへ帰るときには、ハドソン湾に出たら、クルーズにしても平気。それまでは……気流で流されるから、ダメだよ。オタワ行きは……西へ向かう気流が強烈で、邪魔されるから、クルーズ、使えないんだ。みんなが、オタワに移る時の、参考にして……」
 それはカナダの地図だった。赤いマジックで地形の変化が書き込まれ、方位針は修正されている。青で気流が示され、アイスキャッスルからオタワまでの飛行ルートが太い赤の矢印で記され、ポイントごとの注意事項が少し乱れ気味の字で書いてあった。
「ありがとう……」僕らはそれしか言葉がなかった。
 アイスキャッスルの中央ホールには、ほぼ全員が迎えに出てきていた。みな残された気力を振り絞り、帰還した一行の周りを取り巻く。彼らは涙を浮かべて、口々に言っていた。
「ありがとう」
「帰ってきてくれて、本当に嬉しい」と。
 エアリィは小さく微笑し、そして言った。
「遅くなって、ごめん、みんな……でも、もう、大丈夫だから……今までここで……がんばってくれて、ありがとう……」
 アイスキャッスル最大の、そして最後の試練が終わった――きっと僕らの誰もが、そう感じていただろう。みんなが涙を流していた。神に、運命の恵みに、そして調達隊みんなの頑張りに感謝しながら。
 
 エアリィは部屋まで自力で歩いて帰ってきた。手を貸そうとすると、ゆるくかぶりを振りながら、かすかに笑って言う。
「支えられると、力が抜けちゃうから、いいよ」と。
 アデレードが廊下に駆け出してきた。目を潤ませながら駆け寄ってくる。
「ただいま。帰ってきたよ、約束通り」
 彼は妻に手をさしのべた。彼女はその手を取った。そのとたん、彼女の歓喜に輝いていた表情が、凍りついた。
「アーディス……アーディス・レイン」
 かすれた声で、アデレードは呼びかける。
「なんて冷たい手なの。まるで……氷みたい。まるで、いつか……病院で眠っていた時のようよ」彼女はそろそろと手を伸ばし、相手にさわっていた。
「あなたは実体なの、エアリィ。本当に、本当に、あなたなの……?」
「やだなぁ。僕は……幽霊じゃないよ。一応、ね。生きてると……思う。まだ」
 彼は微笑を浮かべ、ポケットに手を突っ込んで、何かを取り出した。
「そうだ……アデル、おみやげ」
 妻に手渡したのは、黄色い包みのキャンディだった。オタワでの食料を持ってきたのだろう。そのまま彼女の手を握り、かすかに微笑したまま言葉を継ぐ。
「アデレード……君は、生きて……これからも」
 その後ろから駆けてきた妹には、同じようにピンクの包みのキャンディを手渡していた。
「エステルもね……君たちは……未来の希望なんだ」
 エアリィは部屋に入ると、深くため息をつき、ソファに崩れるように座りこんだ。
「帰ってきたんだ……アイスキャッスル……良かった……」
 僕らはまわりに集まった。彼は僕らを見、ふっと笑った。
「ありがと……みんなの、おかげで、帰ってこれた、ここまで……」
(……本当に、お疲れ様でした、アルフィアさま。ゆっくりおやすみください……)
 その時、僕の耳にかすかなこだまが響いた。振り返ると、あの幻影の姿が見えた。真横の壁に投影されるようにして、立っている。エアリィにも見えているのだろう。彼はその方向にも目を向けた。そして呼び名に抗議はせず、声にならない言葉を発した。
『ありがと、ヴィヴ……』と。そして、再び僕らに目を向け、かすかに微笑んだ。
『ごめん。もう眠くて……』再び声にはならなかったが、彼はそう呟いた。その眼から光が消えていくと同時に、ゆっくりと瞼が閉じて、頭が傾いていく。深くソファに寄りかかったような状態で、動きが止まった。
 僕は最初、彼は精根尽き果てて眠ってしまったのだと思った。二ヶ月半前に、ちょうど同じようにここへ帰ってきたロビンが、そのままベッドに倒れこんで眠ってしまったように。エアリィの場合は、ベッドまで行き着くだけの気力もなかったのだろうと。本人も、そう言っていたのだから。『眠い』と――。
 紫装束の幻影は、まだ佇んでいた。そしてつと手を伸ばし、慈しむようにその髪に触れた。今は両側になった青い髪束を撫でるようにその手が動くと、その髪はほんの微かに、ふわり、と動く。この人は投影で、実体はないはずなのだが――それとも偶然、空気の流れで揺れたのだろうか。微かな言葉が、心の中に聞こえてきた。
(こんな難条件を、よく乗り越えられましたね、アルフィアさま。あなただから、できたことです。あなたを誇りに思います。私もいずれそちらへ行きますから、それまで待っていてください。あなたにとっては本当に……短い生でしたね)
 幻影は涙を流していた。頬に一筋、二筋と。そして僕には何も言わず、こちらを見ることもせず、くるりと手に持ったリングを回す。銀色の光が流れ出し、その人はその光の中に、すうっと消えていった。
 僕は背筋にぞくっと冷たいものを感じた。まさか――。
「大変だったんだろうね……でも、ここよりベッドに寝かせてあげた方がいいよ」
 ミックがそう促し、
「ああ。エアリィは一度寝ると、なかなか起きないからな。連れてってやるか」
 ジョージが頷く。僕も進み出た。セキュリティのジャクソンなら、ひょいと抱えられるのだが(実際、現役時代そんな運搬を良く見たものだ)、ジャクソンも今は重病で別室に休んでいる。いくら軽量でも一人では無理があるので(ましておや、今はなおさら力が出ない)、ミック、ジョージ、ロブと僕で持ち上げていこうと、その身体に触れた。そのとたん、僕は再びぞくっとし、思わず声を上げそうになった。なんという冷たさ――たしかにアデレードが驚いたのも無理はない。それに、その冷たさには硬直が伴い、もはや生きている人間の息吹は感じられなかった。僕はあわてて手首を探った。脈が触れない。頸動脈も、心拍さえも――意識と一緒に、命まで消えてしまった。この部屋に帰ってきて、わずか二、三分ほどで。
「どうした、ジャスティン。まさか……」
 あとの三人が、息をのんだように問いかける。
「ああ……もう、心拍が……」僕は、あとの言葉を飲み込んだ。
 誰かがものすごい勢いで、僕らの間に割って入ってきた。アデレードだ。まだ半ばソファに座ったままの夫に飛びつき、その肩に両手をかけて、激しく揺さぶっている。
「エアリィ! エアリィ、起きて!! 寝ているんでしょ? そうよね!! 目を開けて! お願いだから――!」
 エステルも飛び出してきて、兄の腕と背中に触れ、揺さぶって叫んでいる。
「お兄ちゃん! アーディお兄ちゃんってば! いやよ! こんなに早く! まだ話したかったんだから! お兄ちゃんが帰ってきたらって――」
「そうよ! まだ話したいこと、いっぱいあったの!! まだ時間があるって……思っていたのに! その間、ずっとそばにいようと……思ってたのよ! ねえ!」
 アデレードの声は、悲鳴に近くなっていった。
 彼にもっとも近い二人の女性たちに道を譲りながら、僕らも呼びかけ続けた。あの夢では、一度心拍が途絶えた彼を、こうして呼んで――そして彼は、生きて戻ってきたのだ。だが今は、どんなに揺さぶっても呼びかけても、エアリィが再び目を開くことはなかった。
 ひらり、と僕の目の前を、小さな光が飛んでいった。そして、すっと消えた。またもう一つ、さらに一つ――すぐに僕は、その光の出所を知った。アデレードやエステルに揺さぶられて揺れているエアリィの身体の肩や髪、背中の辺りから、いく筋かの光が飛んで、空中で消えていっているのだ。その光は動くたびに多くなり、小さな小さな蛍のように、舞っては消えていく。僕は反射的に、アデレードとエステルの腕を押さえた。何も考える暇もなく、言葉が口から出てきた。
「待ってくれ。これ以上揺さぶったら、エアリィが溶ける」
「えっ」二人の女性たちは一瞬驚いたように声を上げ、動きを止めた。
「溶けるって……」エステルが息をのんだように、兄を見つめた。その身体からはなお、小さな光が金色の粉のように、舞い続けている。
「これって……なんなんだ?」ジョージが掠れた声で言った。
「わからない……」僕は漠然と首を振った。溶ける、などと思わず口から出てしまったが、僕にも何が起きているのかは、はっきりとはわからなかったのだ。
 ミックは目の前に飛んだ光の一つを捕まえようとするように、手を握った。しかし手を開いても、そこには何もなかった。ロブも同じことをし、そして開いた手を見つめながら首を振り、掠れた声で言った。
「ともかく……これが何かはわからないが……このままではしかたがない。ベッドに寝かせてやろう。それから医者に……確かめてもらわないと」
「そうだね」僕らは再び頷く。
 僕ら四人は心なしかそろそろと、その身体を持ち上げた。ソファから身体が離れたとたん、光は群れになって、身体から出て舞い上がっていった。
「本当に、なんなんだ、これは……」
 ジョージが声を上げかけ、さらに息をのんだような声を発した。持ち上げた脚から水色のスニーカーが落ちたが、それを履いているべき足はなかった。ジーンズもだんだん、足元から垂れていく。それに驚くまもなく、僕が持っていた左腕から腕の感触が消えた。パーカーとセーターだけが、だらりと僕の腕にかかってきたのだ。僕は思わず叫び声を上げた。反対側を持っていたミックも叫んだ。同じように右腕が消えたようだ。小さな音をたてて、金の結婚指輪が転がっていった。同時に無数の光がその身体から飛び、金色の雲のように、覆いつくしていった。
 重みが完全に消えた。無数の小さな光は、きらっと一瞬だけ輝いたあと、すうっと消えていく。髪の毛の何本かが空中に舞っていたが、それも漂ううちに細かい粒子になり、最後には光って消えていった。驚いて手を離した僕らの腕から、洋服がふわりと床に落ちた。いつも護符代わりにつけていたペンダントも。残ったのは、そういう身体に付けていた付属品だけだった。彼自身は何も残らない。髪の毛の一本さえ。
 あまりのことに、唖然として声も出なかった。アデレードとエステルは鋭い悲鳴を上げ、床に倒れた。気を失ってしまったようだ。僕らも一斉に、ぺたんと床に尻餅をついた。まだ空気は、きらきらと光っていた。その小さな光の群舞も、徐々に消えていく。
 十二年前、現代に帰ってきた僕たちがエアカーを分解した時の光景が、ふと浮かんできた。白煙が上がり、あとにはさらさらした粒子が残って、風に飛ばされていった。まさかアーディスも、原子に戻ってしまったのだろうか。彼は光って、空気に消えていった。エアリィという呼び名そのままに。
 足元に、透明な円盤状の結晶がついた、金のペンダントが転がってきた。エアリィが生まれて間もない赤ん坊の頃、行方不明になっていた母親と一緒に教会に来た時に持っていた、唯一の手がかり――いつかマインズデールのシスターが、そう話していた。僕は反射的に手を伸ばし、拾い上げた。突然、その球――実際は球ではなく、ちょっと変わったカットを施された円形の、三センチほどの直径で一センチほどの厚みを持つ、水晶のようなその透明な結晶が、きらっと小さな光を放った。反射ではなく、それはその結晶そのものから発した光のように見え、僕は一瞬、再びそれを落としそうになった。そして不意に思い出した。あの時、シスターが言っていたことを。
『結晶を光にかざすと、ルーン文字のようなものが浮かび上がる――』
 僕は天井のライトに、その透明な結晶をかざしてみた。ニューブランズウィックの宝石商は、その結晶内の不純物だろうと言ったらしいが、これは――違う。白銀のような輝きをもって、浮かんで見えるそれは、僕らのシンボルマークの、スターの中の記号だった。
『聖なる母の環。選ばれたものが引き継ぐシンボル――』
 その意味を問うた時、エアリィはそう答えていた。その二つの記号が、この水晶のようなダイアモンドのような透明な結晶の中にも、刻まれている――。
 流星雨に先導され、このペンダントとともに、やってきた赤ん坊。無力で心細かったと、その瞬間さえも覚えていたと言っていたが、母親はまるでタイムリープしたかのように失踪し、一年間の記憶が抜けたまま、消えた時と同じ服装で戻ってきた。赤ん坊とともに。
「エアリィ、おまえはいったい、どこから来たんだ……」
 初めて彼に会った時に問いかけた言葉、『君、どこから来たの?』――それを今、もう一度呟いた。神秘の出生と同じように、神秘の消失をしてしまった今。でも、その答えは返らない。不思議に思うことは、多々あった。その桁外れの力に、驚嘆し、感嘆し、羨望したこともあった。僕の親友はロビンしかいないのだろう――漠然とそう思い、そのことに満足していた僕の心に入ってきた、もう一人の親友。その強く明るく前向きな精神は、アイスキャッスルの八千人余を、そして僕らをずっと引っ張ってきてくれた。でも彼は、もういない。アイスキャッスルの一般グループの人たちにとって、まだまだ心の柱となるはずだったエアリィが、遺体さえ残らず、消えてしまうなんて――六年前ロンドンで彼岸から奇跡的に戻ってきて以来、僕らは誰もが潜在的に思っていたのかも知れない。アーディス・レイン・ローゼンスタイナーは決して死なないと。だから遠征隊を率いてオタワに行った時でさえ、命と引き替えになることは決定的だとわかっていながら、心の奥底ではなお信じていたのだろうか。彼は決して死にはしないだろう。きっとまた奇跡が起きて、復活してくれるに違いないと。でもエアリィは妻に言っていた。『僕はそこまで不死身じゃない』『限界は三五時間。それを超えたら僕だって死ぬよ』――それは本当だった。百時間以上もその中にいたら。アーディス・レインは決して不死身ではなかった。衝撃とともにそれを知ったのは、現実に彼が目の前から消失してしまった、その時だった。

 僕らはしばらく呆然とその場に座り込んだあと立ち上がり、床に落ちた遺品を拾った。そして失神してしまったアデレードをベッドに運び、彼女が目を覚ましてから指輪と、ペンダントを手渡した。洋服はベッドの上に広げておいた。
 目を開いたアデレードは、しかし僕らには目を向けず、力なく天井を見つめるだけだった。急逝してしまった夫を揺さぶって叫んでいた時とは、まるで別人のようだ。
「これ、エアリィの指輪とペンダント。あなたが持っていたほうが良いと思って」
 僕がそう声をかけると、少しだけ表情を動かし、頷いて右手を小さく出した。その手の上に遺品を乗せると、彼女はそれを両手でぎゅっと握った後、無意識の動作のようにペンダントを首にかけ、指輪を左手の薬指にはめた。そこには、もう彼女自身の指輪がある。一年近い避難生活で、ますますスリムになってしまった彼女の指に、その指輪はかなりゆるくなっている。その上につけた夫の指輪は、ワンサイズしか違わないらしいが、少し回る。アデレードは放心したように長いこと指輪を回していたが、ふと抜き取って、隣の指にはめた。そして自分の結婚指輪も抜き、その上にはめる。二個の金色のリングが彼女の中指の根元で、小さな輝きを放っている。彼女はそのまま両手を組み合わせ、ふっとため息をついて目を閉じた。でも、眠ってはいないようだった。時おり目を開けては、天井を見ていたから。
 アイスキャッスルの人々の嘆きも、やはり深かったようだ。「本当に死んでしまうなんて」「もういないなんて信じられない」「どうしたらいいのかわからない」――そんな声を無数に聞いた。食料を配る時、多くの人が泣き腫らした目をしていた。アイスキャッスルは救われた。来月からは新天地へ移動できる。新しい生活が始まる。しかし、そのために払った犠牲は、とてつもなく大きいように思われた。

 九日ぶりに食べ物を口にしたあと、ジョージとミック、ロブと僕はオタワから帰ってきた十人を見舞いに行った。病人たちは広めの部屋に集められ、ずらっと並べられたベッドの上に寝ていた。巡回している医師に容態を聞くと、
「今夜か明日くらいが峠ですね。もう全員ぼろぼろです。よくここまで生きて帰ってきたと、不思議なくらいですよ」と、小声で答えている。
 それは春の調査隊が瀕死の状態で戻ってきた時のような、壮絶な病状だった。病室に立ちこめている異様な匂い、時おり上がる苦しそうなうめき声、思わず目を背けたくなるほど変わり果てた病人たち。だが、目を逸らさずに見なければ。彼らをこんな姿にしたのは僕らだ。彼らは僕らのために、これほどの犠牲を払ってくれたのだ。
 まだ致死量の放射線のあふれているところへ、三日も食べ物を取っていないような最悪のコンディションで行った。雨にも当たった。向こうへ行けば食物の問題はなくなるが、四日も嵐で足止めされたら、その間に障害が出てしまう。それは当たり前のことなのに、僕らはどこまで彼らの艱難辛苦を思いやれていただろう。ただ自分たちの飢餓の苦しさにとらわれ、彼らは僕らより数倍苦しい状態にあることをわかっていたはずなのに、心から気遣う余裕はなかった。もし本心から気遣えたなら、嵐の最中エアリィから『そっちの様子はどう?』と聞かれた時、『かなり苦しい状態だ。もう少しこんな状態が続いたら、僕らの方にも犠牲者が出るかも知れない』などと答えはしなかっただろう。
 オタワからヒーリングを試みたあと、なぜ急に咳き込む音とポンという衝撃音で終わってしまったのか、その理由を同行した専属マネージャー、モートン・カークランドさんから聞かされた時、僕は自分のうかつな答えを心から悔いた。エアリィは咳とともに喀血し、そのまま意識を失って倒れてしまったらしい。その前に、彼は言っていた。『ニューヨーク時代を思い出した。今はそれより少しきついかな』と。だが僕らは飢餓状態から来る思考力不足で、その言葉を聞き流してしまった。そして結果的に、彼により無茶をさせることになってしまった。エアリィはそれから翌日の夕方まで、意識が戻らなかったという。このまま死んでしまうのではないかと、一行は気を揉んだほどだったらしい。彼が意識をなくしていた間に、同行した十人の病状はひどくなってしまった。癒し手がいなくなってしまったからだ。エアリィは調達隊メンバーの苦しみを、僕らに対してしたのよりもっと直接的な方法で癒していたらしい。
「エアリィが……アーディス・レインさんが、いてくれたら、楽になれるのに……」
 調達隊の一般メンバーの人たちが、熱に浮かされてそんなつぶやきを漏らしていた。苦しくていたたまれなくなると、彼がそばに来て病人の手を握り、もう一方の手をそっと病人の頭に当てて、穏やかに、静かに語りかけたと言う。『頑張って、大丈夫……君の力を、信じて……』と。一、二分後に彼が手を離すと、病人の気分は本当に楽になったらしい。それも半日から一日ほどは、楽な気分が持続する。それを繰り返して、遠征隊のみんなは最後まで持ちこたえられたらしい。
「でも……あれは、本人には負担なんだよ……」
 カークランドさんはうめくように、声を絞り出してた。
「あれをやるたび……エアリィ自身はますます具合が、悪くなってしまうんだ。ダメージを……吸い取るような、ものだから。元々彼は……最初からものすごい、負担があった。防護服を取りに行くのだって、どうしても一人で行くって、きかなくて……」
「ええっ!」
「一緒に行くって、行ったんだが……」
 となりのベッドにいるセキュリティのネイト・ジャクソンがそう付け加えた。
「聞かないんだ。僕ら全員、飛行機の中で待っていろって、これは命令だって……エアリィがあんなきつい、口のききかたをしたのは……あとにも先にも、あれっきりだ。抵抗はしたんだ。君が最初からそんな……ダメージを負ったら、困るって。みんながとめた……でも、きかなかった。大丈夫だって、その一点張りで……」
「そうか……あいつらしいな……」僕は胸を詰まらせながら頷くしかできない。
「帰ってきて、防護服のフードを上げたとき、まるで日焼けしたみたいに……肌がピンクに染まっていた。僕らに防護服を配ってから、彼は洗面所に行って、吐いた。何も出すものなんてないのに……吐いて、吐いて、緑色の液体がだんだん赤くなって……洗面所が血で一杯になるまで……止まらなかった。ここでエアリィが倒れたら、どうすればいいんだって、不安になるほど。でも彼はそのあと、顔を洗って、フードをかぶりながら、僕らに言ったんだ。『大丈夫! 外へ行こう』って、いつも通りのトーンで。顔色も、その時には……戻ってた。でも、その晩から、熱が出て……彼が手を触れるたびに……その手はとても、熱かった。あの感じは……摂氏だと、四十度、越えていただろう。ずっと最後まで……最後に倒れるまで、そうだった。僕は……昔から、エアリィの健康のことは……とても気にしていたが……職業上、も、あるんだろうが、それ以上に……この時ほど、ひどかったことはない。何度となく、血を吐いた。真っ青な顔で……うずくまっていることもあった。いつ倒れても、おかしくない状態、だった。それでも、横になって休むことを、しなかった。気を失って倒れた以外は。昔はよく、寝てたのに……今は、寝ても回復、出来るレベルじゃないから……逆に、眠くならない……そう言って。でも、一般メンバーの前では、出来るだけ普段通りに……振る舞っていた。僕の苦しみなんて、それに比べたら……」
 カークランドさんが衝かれたような口調で、途切れ途切れにそう話す。
「こっちに力を送って、エアリィが倒れて……その間に、みんなの症状は爆発的に、悪くなってしまって……もうダメかと思ったんだ。でも彼は、まる一日たってから……起きてきた。そして、僕ら全員を楽にしてくれて……」
「でも……彼はもう、限界だった」ジャクソンが話を引き取って続ける。
「俺たち十人分……一気にダメージを、吸い取ったんだ。元々、力を使い果たした、ばかりなのに。ぐったりしていた……本当に、今にも……倒れそうなほど。頼むから、やめてくれって……俺は泣いて頼んだ。君が倒れたら、終わりなんだと……モートンさんも、他のみんなも……止めようとした。でも、『みんなで生きて、アイスキャッスルに帰ろう。僕ももちろん、そのつもりだから』って、笑っていた。それから彼は、嵐の窓辺に座って……祈ってた。訳の分からない言葉で、ずっと……そして、着替えるって言い出して……窓の傍に立って……奇跡が起きたんだ……」
「それは、僕らも見たよ」僕は頷き、静かに言った。やっぱりあれは、現実だったのだ。オタワとアイスキャッスルとの間の距離を飛び越えて、つながった光景――かつて、世界が消える前、亡き妻ステラと僕を再び結び合わせてくれた、あの時のように。
「ああ……あの光景は……忘れられない」
 他のベッドに寝ていた一般グループからの参加者が、ささやくようなため息を漏らした。
「あの人は……神さまだ。俺は本当に……そう思う」
「そうだろうな……」別のメンバーが頷いていた。
「あの人は、きっと……僕たちを救うために……この世界へ来て、くれたんだ」
「夜明けと同時に……エアリィはまた、倒れてしまったんだ」
 カークランドさんは話を続けていた。
「今度は、心拍まで……止まってしまった。僕が……確かめた。エアリィは、死んだのかって……せっかく嵐が、収まったのに……帰れないのかって、みんな途方に暮れた。彼がいなくては……帰るのは、とても無理だ。パイロットは……目が、見えなくなっていた。行きと同じで……手探りで帰らなければ、ならないのに……彼なら、きっと……ルートは頭に、入っているだろうが……でも、エアリィは十分後に、目を覚ました。『帰らなきゃ、みんなの所へ……』そう言って、起き上がったんだ。大丈夫かと聞いたら、彼は微笑んで、答えた。大丈夫、力はあまり入らないけど、どこも具合は、悪くない……ここへ来てから、初めてなくらい……でも、すべてが透明になって、しまったような、妙に、頼りないような……そんな気もするけど、と……」
 もしかしたら――彼の身体は、この時点で死んだのでは。ふと、そんな疑問を感じた。調達隊のメンバー十人と、アイスキャッスルに残る五千八百人の人々の呼び声に応えて、魂が呼び返された。だが、ここアイスキャッスルで実際に息絶えた数時間前に、もう身体のほうは死んでいたのかも――離陸準備をし、僕らに連絡をし、目が不自由になったパイロットのアイルマーさんのかわりに飛行機を操縦し、地図をまとめ、アイスキャッスルに帰り着いて僕らに会った。その間、エアリィは精神の力のみで“生きていた”状態だったのかも知れない。だから、あれだけあっけなく逝ってしまったのだろうか。その力が消えた瞬間に。
 残りの十人も、翌々日の朝まで生きていた人は、一人もいなかった。カークランドさんは翌日の明け方に息を引き取り、最後まで生きていたネイト・ジャクソンも二日目の真夜中に死んだ。一般からの八人も、早い人は帰ってきた日の夜半、遅い人で翌日の夕方までに全員が世を去った。それはいかにオタワでの一週間が、彼らにとって苛酷だったかを物語っている。でも、もうこれ以降、オタワにおいて生命の危険が去った。それはエアリィが生んだ奇蹟だろうか? だが、彼はいかに人間離れをしていようとも、それまで、あそこまで桁外れの能力など、片鱗すら見せたことはなかった。ただ、封印していただけなのか。それとも――。
(肉体が壊れてくれば、眠っているあなたの力は解放されていく。あなたの真の力を解放する時が、あなたのゴールになるのですから)あの紫の幻影が、そう言っていた。ロザモンドが死んだ晩に。エアリィはオタワで、身体は死に瀕した。それゆえに肉体的な枷が外れ、本来の能力が噴出したのかも――だから彼は『今なら出来るかも』と言ったのだろうか。そんな思いを感じた。風と水の力を利用して、オタワの街を除染した。汚染物質を水で洗い流し、巻き込み、風の力を使って他の場所へと飛ばした。自然現象さえ逆転させて――そう、あの夢が現実ならば(調達隊十人がみな同じ証言をしているから、疑いようがないが)、彼がやったことは、まさにそれなのだ。それは奇跡――オタワの放射線濃度を居住可能にまで薄めるには、奇跡が起きない限り無理だ、誰もがそう思っていたその奇跡を、彼は起こしたのだ。
『継父さんに言われた時、気がついたんだ。これが僕の最終ゴールだって。僕は新世界を、生きては見られない。この危機を乗り越えること、奇跡を起こすこと……この命と引き換えに。それが僕のこの人生の、到達点だったんだって』
 エアリィが出発前夜、妻にそう言っていたこと、それは厳しい真実だったのだろう。幻影の言葉が真実なら、彼の真の力を解放するためには、その体が完全に壊れなければならない。それはとりもなおさず、その身体に宿る命の終わりを意味するのだ。彼は本来なら、何歳まで生きられたのだろう。『夜明けの大主』よりも放射線の影響はあったが、純度の高い特殊体質だったから、おそらく近いところまでは行けたのかもしれない。容貌はほぼ、変わらぬまま――アイスキャッスルの耐乏生活にも、オタワの苛烈な放射線にも、線が細くなった以外、そして妙な透明感があった以外、影響をほとんど受けなかった外見のように。でも彼はアイスキャッスル存亡の危機を救うため、奇跡を起こすために、天寿を全うすることは出来なかった。本人が悟ったとおり、二六年と三ヶ月でその生涯を閉じてしまった。だが本来、その奇跡を起こした時点で、彼の身体は死んでしまったのだろう。それを、たとえアイスキャッスルに帰るまでの数時間であれ、一時的に死の淵から呼び戻したのは、僕らみなの思いでもあったのだろう。そんな思いがする。それゆえ、エアリィは言ったのか。『みんなの声、聞こえたよ、ありがと』と。
 その別れはあまりにも突然だったために、僕らは彼に何も言えなかった。感謝の言葉も、ねぎらいの言葉も、臨終の時に送りたかった、数々の言葉も。今もし彼に届くなら、なによりも言いたかった言葉を言いたい。今まで本当にありがとう。おまえのかわりには誰もなれないが、あとは僕たちに出来る限り精一杯、このコミュニティを守っていくから、ゆっくり休んでくれ、と――。




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