Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第四章 惜別の光 (3)




 翌日、飛行機はアイスキャッスルを飛び立って行った。一行十一人を見送る僕たちは、おそらく誰もが、いつもの調達隊を送る時よりはるかに強い悲壮感をこめて、小さくなっていく飛行機を見つめていただろう。アイスキャッスルにいる五八〇〇人あまりの命運をかけ、この上もなく困難な冒険に出掛けていく十一人。しかも率いるのは彼らにとっての“教祖”その人なのだ。長年エアリィのセキュリティを勤めていたネイト・ジャクソンとパーソナルマネージャーで、医療トレーナーでもある、モートン・カークランドさんも、今回行動をともにしている。チームA最後のミッション――誰に強制されたわけでもないのに、彼らはそう言い、自発的に申し出てきた。カークランドさんは、ここでは数少ない医療知識を持った人だ。それゆえ、最初はエアリィも彼の同行を、なかなか認めようとはしなかった。『モートンはせっかく医療知識があるんだから、ここでも結構お医者さんとして見てきてくれたんだから、ここに残って。あなたの医療知識が、僕と一緒に潰れてしまうのはもったいないよ。現役時代ずっと僕のために使ってくれたその知識を、ここではみんなのために使って。それがあなたの、チームA最後のミッションだと思って』と。しかし、カークランドさんは、何としても聞き入れなかった。『僕は半端な医者だ。資格すらない。僕の仕事は、第一に君の健康を守ることだ。君が生きてアイスキャッスルに帰れるようにすることだ。僕がいなくとも、アイスキャッスルには何人も医者はいる』と。僕は自分のセキュリティだったマイクを思い出し、改めて彼らの忠誠に驚嘆の思いを感じた。

 飛行機が飛び立っていったのは、九時三〇分過ぎだった。その後、博士とロブ、ジョージと僕は管制室に閉じこもり、連絡を待った。長い長い時間が過ぎていくように思えた。実際、第一報が午後三時前に入るまでの五時間半は、僕らには一千年のようにすら感じたほどだ。
「もしもし……アイスキャッスル、聞こえますか?」
 疑いようのない印象的な響きを持った明瞭な声で無線連絡が入ってきた時、僕らはみんな弾かれたように椅子から飛び上がり、我先にマイクへ走った。最初にマイクをひっつかんだのは僕だ。
「エアリィ、どうだった? うまくいったか?」僕は夢中で問い返した。
「残念な報告。トロントには行けなかった」
 この返答に僕らは思わず真っ青になり、二の句が次げなかった。
 彼はちょっと間を置いた後、こう続けた。
「でも、オタワには来たよ。ちょっと目印を一つ読み違ったっぽい。だから今、マクドナルド空港のターミナルにいるんだよ」
 一瞬鼓動が止まってしまった僕の心臓は、再び動き出した。
「人騒がせな報告をするなよ! 心臓が止まったじゃないか!」
「ごめん、ちょっと順番、間違えた」
 かすかに笑いを含んで返ってきた言葉は、紛れもなくエアリィだ。事態の重さに負けず、悲壮さを感じさせずに笑ってしまえるところが、彼の真の強さなのだから。無線機からは報告が続いている。
「でも実際、けっこうやばかった。オートクルーズは気流のせいでできないし、高度を少し普段より下げて、下の地形見ながら飛んでたんだけど、全然、地図どおりじゃないんだ。変なところに湖が出来てたり、山が出来てたり、なくなってたり。それで、未来世界で見た地図を、ほら、ゴールドマンさんが見せてくれたやつ、あれを思い出して、それと太陽の方向と、それを頼りに飛んだんだけど、あの地図、一か所ランドマークがずれてるね。それで、オタワに来ちゃったんだ。コンパスはね、回らなかったけど、針がふらふらしてて、止まっても微妙にズレてるっぽいから、それ信頼してると、たどり着けないと思うよ。GPSも相変わらず効かないし。それでようやくビーコンが検知できて、ほっとして見たらオタワの空港のやつで、あれ? って思ったけど、まあいいやって、着陸したんだ。今、みんなで積み込みやる前に一休みしてるとこなんだ。もともとのコンディション、かなりきつかったから、みんなすぐには動けなくて」
「それはそうだよな。まあ、でもよかったよ、無事そっちへ着けて」
 僕は安堵のため息を吐き出しながら頷いた。十一年、いや、もう十二年近く前に未来世界で一、二分見せてもらった地図を、細部までよく覚えていたものだ。さすがに写実的記憶だな、と感心しながら。同時に、それゆえにこのフライトは彼しか成し遂げられなかったのだろう、という思いも改めて感じた。少し目的地はズレたが。
「うん。良かった。お互いのためにね。ある程度元気が回復したら食料積みをやって、明後日の午前中には、そっちへ向けて離陸できるようにするよ。一回ここまでたどり着いたから、行きと条件同じでも、見当つけて帰れると思うんだ」
「ああ。頼りにしてるよ」
 僕は頷いた。そう、一度行ってしまえば、そのルートは完全にエアリィの頭には入っているだろうから、帰りに迷うこともないのだろう。
 その脇からステュアート博士が来て、マイクに向かって呼びかけた。
「アーディス、聞こえるか? 私だ」
「ああ、継父さん。何?」
「放射線の濃度は測ったか?」
「測ったよ」
「数値に変化はないか?」
「前回と? そうだね、ほとんど変化ないよ。ほんの心持ち減ったくらいかな」
 彼は数値を告げた。その値を聞いて、博士は首を振った。
「そうか。それでは、まだまだ危険だな。ちゃんと防御服は調達できたか?」
「ああ。空港のそばの施設にあったよ。だから人数分持ってきて、今は全員着てる」
「そうか。おまえは元気か?」
「とっても元気、とは言えないかな。まあ、なんとか動けるけど。ともかくそっちが心配だから、できるだけ早く食料を積もうと思う。オタワは将来的にみんなが来るんだと思うと、食料あまり減らしたくないけど、一回くらいはいいかな」
「大丈夫だ。今は非常時だから、仕方あるまい。後のことは、その時になって考えたらいい。トロントほどではないが、オタワだって五十万都市だ。食料はたくさんあるだろう。頼んだぞ」そして博士は言葉を続けた。
「頑張れよ。おまえも大変だろうが、みんなの信頼に応えてくれ」
「うん、わかってる。みんなも、がんばって」
 その日の通信は、それで切れた。翌日はまる一日連絡が入らず、僕らはやきもきしつつも、連絡がないのはとくに変わったことがないからだろうと考えた。エアリィは昔から、それほどまめに連絡をよこすタイプではなく、なおかつほかのことに意識が行くと、連絡を忘れやすいところがある。しかし何か異常があった場合には言ってくるだろうから、今はオタワでの作業に一生懸命なのだろうと。

 第二報が入ったのは、三日目の午前九時ごろだった。
「とりあえず食料は積んだよ。ただ、二週間分までは行かないかもしれない。十二日くらいは持つかな、って感じだけど」エアリィはしばらく黙り、そして続けた。
「けど、ひょっとしたら、すぐには帰れないかもしれないな」と。
「え?」僕は一瞬、意味が飲み込めずにいた。
「どうしてだよ? 何か起きたのか? 帰れないような事情が……?」
「うん。天気がやばい。朝までは晴れてたのに、急に崩れてきたんだ。東の方から、見たこともないような変な雲がすごい速さで流れてきて、かなり風も強くなって。だから、とりあえず二日分の食料犠牲にしてでも、早く飛び立とうって思ったんだけど、ちょっと遅かったっぽい。ってか、本当にまずい、これ。ものすごく風が強くなってきた。一回みんな、建物へ入って!! 早く! もうじき嵐に……うわっ!」
 突然、激しいノイズが入ってきた。何とも形容しがたい、凄まじいジェット機のような空気を切る轟音、切れ切れに交錯する何人かの叫び声。次の瞬間、何か金属製のものが叩きつけられたような大きな衝撃音とともに、通信が切れた。
「何が起きたんだ……?」
 僕らはただ顔を見合わすばかりだった。
「嵐が来そうって言っていたけれど……」
「大丈夫だったのかな……?」
 誰もが大きな不安と心配を感じているだろうその中で、僕らは絶句し、それから一様にしゃべりだし、また言葉を失った。通信の最後の方の言葉はたぶん、調達隊のメンバーたちに呼びかけたのだろう。無線からも、風が強く空を切る音が聞こえてきていた。しかしそれ以上の状況は、遠く離れたアイスキャッスルの僕らには知りようがなく、連絡を待つしかない。
 僕らは引き続き管制室にいて、ひたすら待った。向こうの状況を知りたい。何か教えてくれ。これっきり音信不通などということになったら、いったいどうすればいいのか見当もつかない。通信が再開するまでの時間が、永遠に続くように思われた。実際には二時間後に、再びオタワと連絡が取れたのだが。
「もしもし……アイスキャッスル!?」
 かなり雑音が入って聞き取りにくいとはいえ、再びアーディスの声が無線器の向こうから聞こえてきた時には、僕らは一様に飛び上がり、一斉に安堵のため息をついた。マイクの前に動かずに頑張っていたジョージが即座に問いかけた。
「エアリィ、そっちの状況は!? 大丈夫だったのか?」
「あ、ラッキー! 壊れてない」そんな小さなつぶやきのあと、報告が来る。
「大丈夫だよ。さっき、いきなり突風が吹いてきて、飛ばされて無線器ごと倒れちゃったけど。みんな、その場に立ってられないくらいで、なんとかターミナルビルまで引き返してきたんだ。でも途中で、バケツの底抜けたみたいな、大雨が降って来ちゃって。防護服もずぶぬれで、脱いで乾かさないと、どうしようもないんだ。着替えはビルの店で適当に調達してきて。外は今、すごいんだ。滝みたいな勢いで雨が降ってるし、こんなに吠え狂ってるような風の音って、聞いたことないよ。そっちにも聞こえる?」
「ああ、聞こえてくるよ」
 僕らは頷いた。通信の背後からまるでBCMのように、激しい雑音に混じって水の轟きや風のうねりが漏れ聞こえてきている。
「じゃあ、天気が持ちなおすまで、飛行機は飛ばせないな」
 ジョージは少しがっかりしたように、トーンを落とした。が、思い直したように付け加える。「だけどまあ、そっちが無事ならよかったぜ」と。
「うん。みんなには悪いけど、もうちょっと頑張ってて。とにかくこっちは嵐が止むまで、全然身動きとれないから。じゃあ、また連絡するよ」
「ああ、そっちも頑張れよ」それしか僕らに言葉はなかった。

 その日と翌日は、何も続報がなかった。それはまだ嵐が止んでいないことを意味する。僕らの飢餓状態も、もうかれこれ一週間になる。ペットボトルに汲んだ水だけを命綱にして、七日間。ほとんど全員がベッドに横たわったまま、動けなくなっていた。ジョージと僕、それにロブとステュアート博士は、オタワから連絡が入った時に対処できるように、管制室の中にずっといた。アイスキャッスル屋内施設の中、アーケード奥の時計塔上部に、屋根の上から顔を出すような形で設置された管制室は、空港と施設が近いこともあって、ここに設置されたらしい。時計塔の下部分は店舗になっており、上までエレベータが通る。管制室の後ろには係員たちの休憩用ソファがあり、床のスペースもいくぶん広かったので、僕たち四人はそこにマットと毛布を持ち込んで寝ていた。非常に厳しいコンディションの中で、アイスキャッスルにいる全員の願いはただ一つ、オタワの嵐が早く納まることだけだっただろう。
 待望の続報が入ったのは、その翌日の昼ごろだったが、僕らの待ち望んでいた報告ではなかった。この二昼夜半の間、嵐は猛り狂う一方で納まる気配がないという。
「昼間なのに、夜みたいに暗いよ。でも、空が光ってる」
 エアリィはそんな報告をしてきた。
「稲妻じゃなさそうだけど……すごく変な雲なんだ。明るい銀色で、ぼうっと光ってる。ここから街が見えるけど……道路がみんな、川みたいだ。すごい濁流になって、流れていくんだ。滑走路は洪水で沈んじゃったし、ここも一階の半分くらいまで、水に浸かっちゃったよ。窓は強化ガラスなんだけど、それでもところどころ砕けてる。ぶつかってくるんだよね。フォークリフトとか台車なんかが飛ばされて。建物が今もガタガタすごい音たててる。まあ、つぶれることは、なさそうだけど。風も凄いんだ。いろんなものが、飛んでくのが見えるよ。看板とかビルの残骸とか……人も、ふっとんでる。みんなとっくに死んでて、ミイラになってるけど。車も、おもちゃみたいに転がってくし」
 僕は思わず状況を想像して、ぞっとした。
「いつになったら、止むんだろうな……」思わず、そう言ってしまう。
「わからないな……みんなも、大変だと思うけど……」
 言いかけて彼はしばらく咳き込み、荒く息を吸い込むと、しばらく沈黙した。
 僕は不意にはっと胸を突かれた。苦しいのは彼らも同じだ。向こうに着けば食料はあるけれど、足止めが長くなれば体力の消耗もひどくなり、放射性障害もあらわれてくるだろう。おまけに彼らは最初、防御服なしで行った。服を調達してくるまでの間、致死量の放射能をまともに浴びているのだ。さらに雨にも打たれた。オタワにいる十一人は、僕ら以上につらい状態なのだろう。
「そっちは大丈夫なのか? みんなの健康状態は」僕はそう聞いた。
「良くはないよ。今のところ、とりあえず寝込んでないのは、ネイトと一般メンバーの、パーマーさんだけ。あとは全滅かな。まあ、仕事はないから、寝てても大丈夫、だと思うけど。それにネイトもパーマーさんも、時間の問題だと、思うし。なんたって、もともとコンディション最悪だったからね。防御服があったって、完全には防げないよ。もうまるで病院みたいだ」
「おまえは?」
「うーん、僕は……寝込んではないけど、かなり、やばいかも。元々体力に、自信のある方じゃないし。なんかさ、昔を思い出した。ニューヨークにいたころの……あの時より、ちょっときついかな、今は。けど、僕はつぶれるわけには、いかないから……心配しないで。大丈夫だから。そっちの具合はどう?」
「ああ。みんな、かなり弱っているよ。あと二、三日こんな状態だと、こっちにもかなり犠牲者が出るかもな」僕はありのままに、そう答えてしまった。
「そう……」エアリィはひとしきり黙った後、言葉を続けた。
「この通信、一般の放送に切り替えられる? みんなに話したいんだ」
「やってみるよ」
 僕はのろのろと起きあがり、回線盤を切り替えた。あまり使うことはないが、飛行機の中からこの施設へのアナウンスなどをするためにと、一般放送にも切り替えられるようになっているのだ。しかし僕も立っていると、めまいがしそうだった。
 やがてアイスキャッスル中に、オタワからの通信が流れた。ひどい雑音の背後から、それでも明瞭に伝わってくる声が、みんなに呼びかけている。
「アイスキャッスルの、みんな。僕たちは、まだ帰れない。僕たちはお互いに、今いちばん苦しい時期にいるんだと……思うよ。でも、お互い、どこまで気力が体力を上回れるか、それを試されてるんだと思って……なんとか、がんばろ」
 エアリィは一息ついた後、さらに呼びかけた。
「みんな……聞こえる? 僕たちも、みんなのところへ、早く帰りたい。今オタワで嵐が過ぎるのを待ってる間……遠く離れたみんなに対して、何ができるか、わからない。でも……ひょっとしたら、今の僕にできるかもしれないことを、一つだけやってみるよ」
 一瞬の沈黙の後、スピーカーから流れてきたのは、歌声だった。しかし、なんという声だろう。現役時代の彼よりもっと、より清澄に、より力強く、より暖かく、神聖さすら感じる声が、メロディを形作っていく。巡回旋律のようにも聞こえる、舞い上がるような、異様に心に響く調べ。三二小節のそのメロディが、繰り返される。歌詞は――わからない。英語じゃない。アイスキャッスルにいる人の誰もが知らない、音の連続。しかし、それは言葉なのだろう。意味はわからないが。ふと『Polaris』を思い出した。六枚目のアルバムのタイトルトラック。そのチャント――もしくはスキャットにも似ている。そして『A  Paradise In Peace』や『Fancy Free』のスキャットにも。ファンたちには、その最初に使われた曲名をとって「Polaris語」、もしくはAerlie語、とも呼ばれる、言葉を形作らない音――でも、これは先の三曲とは、音もメロディも違う。
 調べに、心が吸い込まれていくようだった。やがて、体がふわりと浮き上がるような、不思議な浮遊感を感じた。ついで、ヴィジョンが浮かぶ。虚無の暗闇――その中心に、ふっと入ってくる光。それは渦を巻き、徐々にあたりを照らしていく。冷たい心の奥底に、一条の熱を感じた。小さな炎と光が体と心の暗闇を照らし、暖かさを与えてくれる――。
 突然、小さな濁った咳のような音とともに、歌が途絶えた。ついでポンという何かがぶつかったような音がして、通信も切れてしまったようだった。はっとして目を開けた僕は、不思議な気分に気がついた。空腹が忘れ去られ、気力がよみがえってきたのだ。僕は部屋にいる三人と顔を見合わせた。何がどうなったのか説明はできなかったが、何かひどく不可思議な出来事に出会ったような気分だ。
 やがて内部通信のランプがつき、驚いたような口調でレオナがこういうのが聞こえた。
「いったい何をやったの? どんな魔法を使ったの? 今、みんながでてきて、すごい騒ぎよ。エアリィが、オタワから魔法の歌でヒーリングをやったって……」
「まさか! あいつは超能力者じゃないだろ?!」
 僕は思わず目を丸くし、首を振った。
「そこまで人間離れしてるとは、思わなかったしなあ」
 ジョージも驚きを隠せない口調で、首をひねる。
 それ以上、僕らは何も確かめようがなかった。その後また、オタワとは連絡が取れなくなったからである。しかし、確実な事実が一つだけあった。何がどうなったかはわからないが、ともかくみんなに待つ気力が戻ってきたのだ。

 翌日の夜、僕は夢を見た。ここは、どこなのだろう。一面すべて窓ガラスのように見える、その向こうは暗い。激しい雨が降っているようだ。吹きすさぶ風の音も聞こえる。暗い空に、時おり稲妻が走ると、その光が情景を照らし出す。ここは、オタワ――? そうだ。たぶん、オタワ国際空港のターミナルビルだ。ターミナルビルの大きなガラスは、かなり強化されているので、普通は壊れない。しかし、その窓がところどころ割れている。今も、吹っ飛んできた何かが激しく窓に激突し、そこからクモの巣状に細かくひび割れ、その中央部がキラキラと光りながら、こぼれるように崩れていく。たぶん風で飛んできた運搬用の車か何かがぶつかったのだろう。そんな割れ方をしている部分が、他にも何か所かある。そういえばエアリィも言っていたっけ。フォークリフトや台車が飛んできて、窓が割れていると。その窓のひび割れた部分から、風と一緒に雨が激しい勢いで降りこんできている。内部に明かりはついていない。街の電力は途絶えているから当然だ。それゆえアイスキャッスルから他の都市に行く時には、発電機が不可欠だった。非常用電源がない施設の場合、発電機を使わないと何も動かせないからだ。だが、もしここがオタワなら、調達隊のみなは、どこにいるのだろう。たぶん風や雨が振り込まない、安全な内部にいるのだろうが――。
 まだ割れていない窓のところに、人影が見えた。エアリィ――? 床に膝をつき、暗い空を見つめている。彼の後ろ、十メートルくらいのところに、LEDランタンが置いてあって、その小さな光が、ぽぅっと周りを照らしていた。その光と、時おり空にひらめく稲妻に照らされて、その姿が見える。彼はここを出た時とは服装が変わっていて、紺色のフード付きトレーナーを着ている。そうか、雨に濡れて着替えたと言っていたっけ。彼はしばらく空を見上げていたが、ふと表情が変わり、胸を押さえて咳き込んだ。血が床や服に飛び散り、咳がおさまった後も、痛みに耐えているようにじっとそのままうずくまっている。やがて頭を起こし、口から垂れた血をトレーナーの袖でぬぐうと、再び空を見上げた。
「ホントこれ、厳しい……あれ? でも……」
 深く息をつくと、エアリィはそう呟き、胸に手を当てた。ふっと再び息をつき、目を閉じる。しばらく後、彼は再び目を開けた。そして小さく言う。
「うん……痛く、ない。苦しくも、ないし……でも、治った、わけじゃないから……ああ、来たんだな。ついに……今なら……できるかも」
 奥の柱の後ろから、誰かが二人出てきた。モートン・カークランドさんとネイト・ジャクソンのようだ。だが、彼らのやつれようは、どうだろう。目は落ち窪み、頬はこけ、別人のように面変わりしている。カークランドさんはもはや立っていられないようで、膝を突いて進んでいるような格好だ。ジャクソンのほうはかろうじて立っているが、柱につかまって、肩で息を切らせている。
「エアリィ、ここは危ない。いつガラスが……割れるかも、しれない。飛来物に……直撃される、危険もある。中へ、戻ろう」
 カークランドさんが、苦しそうな声で呼びかけていた。
「モートン。ネイトも……寝てなきゃ、ダメじゃないか……」
 エアリィは二人を振り返り、少し驚いたような顔をした。
「いや……寝ていられない。君のほうが……俺たちより、ずっと……悪いのに」
 ジャクソンがうめくように言いながら、首を振る。
「僕は、いいんだ……」
「良くはない……君は、無理をしすぎだ……でも、君が倒れたら……終わりなんだ。少し横になって、休んでくれ……頼む」
 懇願するジャクソンに続くように、カークランドさんも声を上げる。
「そうだ。君は……倒れるわけには……いかないんだ。ここへ来てから……君は僕の言うことを、何も聞いてくれない。だが、君は……自殺したいわけじゃ、ないはずだ。帰らなければ。みんなで、アイスキャッスルに……帰るんだろう」と。
「そうですよ……」
 別の声が聞こえた。他の調達隊のメンバーが、廊下の奥から出てきていた。その人も顔色はどす黒く、やつれきった表情だ。廊下に這いつくばるようにして、進んできている。その後ろからも、一人、また一人――全員がやってきていた。
「大丈夫ですか……お願いだから、これ以上無理を、しないでください……」
「ありがとう……」エアリィは彼らの一人一人を見、微かに表情を緩めた。
「でも、このままじゃ……帰れない」
 彼は再び窓の外に目をやった。時折稲妻のひらめく、荒れ狂った空に。
「いつになったら……収まるんだろうな……」ジャクソンが、そんな呟きを漏らした。
 エアリィは無言で、なおも窓の外を見ていたが、やがて立とうとした。が、そのまま足の力が抜けたように座り込む。
「あー、もう、情けない! 足はまだダメに、ならないで欲しいな!」
 自嘲気味に小さく声を上げると、彼はそのまま手をついて進み始めた。柱の傍まで来ると、そこにおいてあったバッグの口を開き、中から服を取り出した。それはステージ衣装だった。ラストコンサートでも着た、あの『Scarlet Mission』のMVで使った純白の衣装。復活コンサートも、この服だった。彼はオタワにこの服を持ち込んでいたのか。
「それは……どうするんだ?」ジャクソンが不思議そうにきく。
「着替える。今着てる服も、相当汚れたし……これからやることには、白い服の方がいい。ちょっとここで着るには、恥ずかしいけど、アイスキャッスルに、僕が持ってきた服の中では、これが一番、力が出せる気がするんだ」
「これからやること?」
「うん……本当は、みんなのいないとこで、やりたかったけど……みんな、ここにきちゃったから……ちょっと驚かせちゃうかも、知れないけど……まあ、見なかったことにして」
 エアリィは頷いて、かすかに笑い、着ていたトレーナーを脱いだ。下には青い半そでTシャツを着ていたが、濃淡まだらになっている。血のあとなのだろう――後でそう気づいたが、彼はそのシャツも脱ぐと、白いTシャツを着た。ただでさえ身体は細いのに、その半分くらいになってしまったような印象だ。その上から、彼は白い衣装をすぽんとかぶって着た。髪の毛を襟元からすくうように出し、いつもかけている透明な結晶がついたペンダントも服の外に引き出すと、座ったままズボンを履き替えている。この衣装のズボンは、かなりぴったりフィットしていたはずだが、今はゆるみがあるようだ。そして、再び立とうとして、また座り込んだ。
「ほんっともう、情けないなぁ!」
 再び苦笑して首を振りながら、両手をついて、窓のところへ行こうとする。
「どこへ、行くんだ? 窓のそばは、危ないって言うのに」
 カークランドさんが声を上げ、制止しようとする。エアリィは振り返った。
「みんなは、そこにいて! いや、もうちょっと、下がって。危ないから」
「君は……?」
「いいから! 大丈夫!」
 エアリィは窓のところまで来ると、今度はふらつきながらではあるが、立ち上がった。再び窓の外に目を向ける。彼は声に出さないまま、外を見つめて、何か言った。でも、以前と同じように、僕にはその言葉がわかった。
『聖なる母よ……お慈悲を……お力を、お貸しください……』
 その時、また何か障害物が飛来して、ちょうどその前のガラスに激しくぶつかった。それ自体は中に飛び込んでこなかったが、ガラスが大きく砕けた。そのきらきらとした細かい破片が、風に乗って入ってくる。同時に風と雨が、激しい勢いで叩きつけてきた。その雨と風を浴びて、エアリィは一瞬よろけた。身体が濡れ、髪の毛が狂ったように舞う。割れたガラスの破片が彼を傷つけたようで、右腕の中ほどで服が裂け、血がにじんでいた。頬にも、一筋血が流れていく。
「エアリィ、戻らないと! 危ない!」
 カークランドさんとジャクソンが、そして他のメンバーたちが、声を上げて呼びかけていた。しかし、彼は振り返らず、その場を動こうともしなかった。体勢を立て直し、風と雨に逆らって立ちながら、そのまま静止した。髪の毛が風に激しく揺れて、身体を取り巻く光の舞のように見える。その眼は相変わらず、外に注がれている。ちょうど外から見ているようなアングルに切り替わったため、その表情がはっきりと見えた。
 僕は軽い衝撃を感じた。その表情には見覚えがある。そうだ。以前、集中トレーニングをした時、それぞれの講師とともに世界を見聞に出かけた、あの時に、インドの僧院でエアリィがトランス状態に落ちた時、見せた表情。まさにそれと同じだった。そしてあの時と同じように、彼はゆっくりとした動作で両手を動かし、胸の前で組みあわせた。右手で左手を包むように重ねて、両方の親指を立てて合わせ、薬指だけを交差させる、あの奇妙な形だ。胸元に揺れるペンダントが、ちかっと光を発した。口が開き、言葉が流れ出てくる。そう――あの時と同じように、どこの国の言葉ともつかない、一見意味を成さない、中には到底発音しえないようなものさえ混じった、音の連続のような。虚空を見つめたまま、彼はその言葉を発し続ける。最初はほとんど聞き取れない囁きのようだったが、いまや吹きすさぶ雨の音をついて、明瞭に響く。呪文のようでもあるが、それにしては長い。一分くらいかかるセンテンスのようなものを、繰り返しているようだ。
 言葉を発していくにつれ、身体の周りから、ポウっと金色の光のようなものが発せられていった。風に揺れる髪とその光が一体となり、だんだん大きさを増し、輝きを増していく。その光の輝きが身体を包み込み、強力なオーラのように、それ自身が光の玉のようになっていき、その強さが最頂点に達したように思われた時――エアリィは動きを変えた。両手を大きく広げ、天を仰いで、言葉にならない叫びを、そう、コンサートの時のシャウトなど比較にもならないほど、力強く、衝撃に満ちて、様々な思いをその中に詰め込んだような――。
 光の玉がはじけた。そこから光が四方八方に飛んでいき、同時に空から無数の光が降り注いできた。次の瞬間、外の空気が上昇を始めた。雨を巻き込み、風を巻き込み、空へと――それはやがて巨大な竜巻のように、空港を、その向こうに広がるオタワの街を席巻し、水を巻き上げ、無数の色とりどりに光る粒子をきらめかせながら、空の彼方へと吸い込まれていく。まるで、ビデオやDVDの高速巻き戻しを見ているようだった。雨が空へと上がっていく。風が、天を向けて吹き上がっていく――。
 どのくらいの時間がたっただろうか――。この“空気の大逆流”が収まった時、空は徐々に濁った色が取り除かれ、澄み渡りつつあった。星の光が、一つ、二つと瞬きはじめた。地平線から、うっすらと明るい光がさし始める。
 猛り狂っていたオタワの嵐が止んだ――その認識が心を捉えたその瞬間、エアリィの身体を包んでいた光が消えた。彼は目を閉じ、まるで糸の切れた人形のように、床に倒れた。あっけに取られて見ていたであろう調達隊のみなは、一瞬の間をおいて、それぞれの身体の状態が許す限りの速度で駆け寄っていく。カークランドさんとジャクソンがその身体を抱き起こし、呼びかけている。他の調達隊のメンバーも、口々に声をかけていた。
「大丈夫ですか?」
「しっかりしてください」
「どうしちゃったんですか?」
 カークランドさんが手首に触れ、顔色を変えて首筋に触り、しばらく胸に耳を押し当てた後、うめくように声を絞り出した。
「心拍が……聞こえない……まったく」
「ええ?!」
 その場にいた全員、それが何を意味するか、直ちにわかったようだった。彼らは絶句した後、絶叫に近い声をあげた。
「そんな……そんな!」
「嘘だ……」
「眼を開けてください、お願いですから……」
「みんな、一緒に帰るって、言ったじゃないですか!」
「起きてください!」
「あなたがいないと、帰れない……!」
「そうだ。アイルマーさんは、操縦できないんですよ!」
「君が倒れたら、終わりだって、言ったじゃないか! なぜ……?」
「無茶をしすぎるなって……あれほど、言ったのに」
「そうですよ。せっかく嵐がやんだのに、これじゃ……」
「あなたがいないと、僕らは帰れない!」

「冗談じゃないぞ!!」僕も我知らず叫んでいた。
「そんなところで死ぬなんて、許さないぞ、エアリィ! 帰ってくるって言ったじゃないか! アデレードさんにも、エステルちゃんにも、みんなにも、約束したんだろう! 起きろよ! なあ、おまえが帰ってきてくれないと……おまえがいないと、みんなも帰って来れないんじゃないか! 頼むよ! 起きてくれ! 起きて、ここへ帰って来てくれ!! お願いだ!」
 そこまで叫んだところで、はっと目が覚めた。夢――そうだ、夢を見ていたんだ。僕は起き上がり、枕元においてあったペットボトルの水を一口飲んだ。とんでもない夢を見た。寒々とした部屋なのに、汗をかいている。まだ激しく動悸がしている。
「ジャスティン……起きたのか?」
 見ると、隣でジョージが身を起こしていた。僕たち――ロブとジョージ、僕、そしてステュアート博士は管制室に隣接する休憩室で寝泊まりしていたのだ。博士はソファで、残りの三人は床にマットを敷いて、その上で毛布にくるまり、寝ていた。僕は頷き、答えた。
「ああ。とても衝撃的な夢を見たんだ」
「エアリィの……オタワの夢か?」
「ええ?」僕は弾かれたように、暗闇を透かして相手を見た。
「なぜ、それを……」
「俺も見たんだよ。あいつが大気を逆流させて、嵐を吹き飛ばしたのを。その後力尽きて倒れて……俺も、必死で呼びかけているところで、目が覚めたんだ」
「僕もだよ……」ロブが起き上がり、頭を振りながら言った。
「……私も見た」ステュアート博士も頷いている。
 その驚きがまだ収まらないうちに、再び内部通信ランプがつき、レオナの声がした。
「ねえ、どうなっているの? あなたたちも見た? 今、みんなが騒いでいるのよ。同じ夢を見たって。そうよ、アイスキャッスルにいる全員が、同じ夢を見たみたいなの。アデレードは気が狂いそうになっているわ。みんなもそうよ。何だったのかしら、あの夢は」
 その声には、衝撃と恐怖、そして不安が入り混じったように感じられた。ロブも、ジョージも、ステュアート博士も、そして僕もそうだっただろう。
 その後ミックからも、母からも、エステルからも、アラン、そしてジョセフからも、同じような通信が入ってきていた。「どうなっているんだろう」「まさか本当に?」「どうすれば」――口々にみなそう言っていた。ここはホテルやシェルターからは少し距離があるので、体力の極端に衰えたみなは、ここまでくる力は出せなかったようだが、それでもミックとアラン、ジョセフ、スタッフやクルー、マスコミの何人かが管制室までやってきた。彼らの顔には、一様に同じ表情が浮かんでいる。一般の何人かが、いや、かなりの人がアーケードの広場まで出てきて口々に何か言っているのが、眼下に見えた。
「アーディスよ……信じていいんだろうな、私たちは。おまえはここに、戻ってくると」
 ステュアート博士が、南の方角をじっと見つめながら、そうつぶやいた。
 僕は言葉を捜した。しかし、何も言うことは出来なかった。胸の中に祈りと不安を交差させながら、モニター画面に映る、徐々に明るんでいく空を見つめることしか。みな一様に同じ方向を見つめ、沈黙している。ドームの中のざわめきも、徐々に納まっていった。アイスキャッスルは、再び静寂に包まれた。
「帰ってきてくれよ、エアリィ。あんな夢は、嘘だと言ってくれ……」
 我知らず、僕は何度もそう呟いていた。




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