Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第四章 惜別の光 (2)




 さらに大問題が、僕らの前に立ちふさがっていた。
「飛行機は迷走して、燃料切れで墜落したというわけか……」
 第六次の食料調達隊が無念の最期を遂げた後、長い沈黙を破って、ステュアート博士がため息とともに言った。
「彼らが連絡してきてくれたことを、感謝しなくては。わからなかったら、また同じことの繰り返しになり、時間を空費し、新たな犠牲者を出したことだろう。それにしても、気流の乱れで、オートクルーズが使えないのか。まあ、それでも調査隊や最初の調達隊はコンパスとGPSに頼って目的地に行ったわけだが、その頼りのコンパスとGPSも使い物にならないとは。少なくとも人工衛星は、無事だったはずなのだが……」
「これでは我々は、どこにも行けない……」ロブが絶望をにじませた口調で呟く。
「でも食料なしの状態が、いつまでも続いたら……」
 母も困惑しきった表情だ。それはこの場にいた全員がそうだった。
「行かなければならない……」
 ステュアート博士はうなるように、しかし強い口調で言った。
「我々が生き延びるために、どうしても行かなければ……だが外は気流が乱れ、GPSも効かず、コンパスも当てにならない。気流が平常に戻っているかどうかは、のってみないとわからんから、オートクルーズも厳しいだろう。ジェット気流にのって変だと感じたら、ただちにオートパイロットを切って高度を下げ、地図を参照しながら自分の目で鳥瞰して行かねばならん。それもあまり強い気流だと、先の調達隊のように抜けるのに苦労しなければならない。しかも我々は、一昨日から何も食べていない。コンディションは、とてつもなく厳しい……しかし、行くしか手がないな」
「それは、本当に大変な賭けですよ」
 ロブは危ぶむような口調だった。無理もないだろう。
「わかっている。状況を鑑みれば、成功の確率は、非常に低いだろう。だがゼロでない以上、やってみないことには、我々はここで終わってしまう。それとも、もう一つの選択肢を実行するか?」
「絶対にいやです!」
 博士の問いかけに、誰もがそう即答した。それだけはいやだ。どんなことがあっても。
「わかりました。次の部隊を組織し、明日行ってもらいましょう。でも……難しいですね。体力的にも精神的にもコンディションは最悪だし……さらに行く条件も最悪と来ているんですから。考えたくはないのですが、果たして本当に成功できる確率がゼロではないかどうか、などとも考えてしまいます……」
 ロブが同意しながらも、不安げな様子は隠せないようだ。
「そうだ。今までのようなわけにはいかない。普通にやったら、完全にゼロではないとは、私も言い切れない。だが……」
 博士はそこで言葉を切り、しばらく沈黙した後、意を決したように言葉を継いだ。
「だがこのコンディションでも、成功率はゼロではないといえる人間を、私は一人だけ知っている。アーディス……おまえなら、たぶん成功できる可能性がある。そう思えるのだ」
「えっ?」また無線機の前にいたエアリィも、継父の言葉を聞いた時には一瞬驚いた表情になった。が、一瞬で彼も決断したように、頷いて答えた。
「うん……僕にできるかどうかわからないけど、できるだけやってみる」と。
「ええ!」僕らはいっせいに声を上げた。
「やめて! パパ、なんてこと言うの!! ひどいわ!」
 エステルがたまりかねたように叫んだ。彼女もまた、飛行機の行方を心配して、アデレードやレオナとともに、管制室へ来ていたのだ。
「それじゃ……お兄ちゃん、どうなっちゃうのよ! なぜ、そんなことが言えるの!? お兄ちゃんが、パパの本当の子じゃないから?!」
「それは……関係ない、エステル」博士は苦渋に満ちた様子で、うなるように答えた。
「私は……区別したつもりはない。だが、今の場合の最善を、他に思いつかないんだ。アーディスなら、不可能を可能に出来るかもしれない。こんな条件の中でも。一度行ったところのマッピングも完璧に出来るし、軽飛行機ではあるが、操縦経験もある。仮にわからなくとも、行きにパイロットの操縦を見れば出来るしな。だから、副操縦士も不要だろう。犠牲は一人でも少ない方が良い。それにアーディスは第六感的なものも鋭いから……このコンディションでも目的地に行きつけるかもしれない。そう思えるのだ。それになにより、最悪のコンディションでいく他の人たちをも、束ねていくことが出来るだろう……」
「いいんだ、継父さん、わかってる。エステルも……大丈夫」
 エアリィは静かな声で二人を制し、立ち上がって妻と妹の傍に行った。そして軽く頭を振ると、博士を見る。
「ごめん、継父さん……気がつかなくて。こんな役をやらせてしまって」
「いや……おまえの立場を考えれば、おまえが自分から言い出せないのは、わかっている。私とて、ここでのおまえの存在が持つ意味は、わかっているからな。だが……今はそれ以上に、危機的状況なんだ。その全体の危機を乗り越えられるとしたら、おまえしかいないのではないかと、そうも思うのだ。他に選択肢があるのなら、おまえにこんな頼みはしないのだが……」
「うん。わかってる……大丈夫」
 エアリィは頷くと、妻と妹に向き直り、にこっと笑った。
「帰ってくるから。だから、待ってて……」
「お兄ちゃん……やだ。行かないで!」
 エステルは見開いた目に涙をため、身体を震わせながら兄を見上げていた。
「本当に帰ってこれるかどうかだって、わからないじゃない。それに帰ってきたって……お兄ちゃんも、ドリアンみたいに……そんなのって……いやよ。もうこれ以上……お願い……行かないで」
「エアリィ、あなたが行くなら……わたしも連れていって」
 アデレードは蒼白な顔で今まで黙っていたが、ここにきてそう口を開いた。震える声で。
「わたしは、あなたの助けになりたい。そして……死ぬ時には、一緒に死ぬわ」
「だめだよ」彼は即座に首を振った。
「君はここにいて。待ってて、アデレード。それに、エステル。君たちはここにいて、生きて、希望をつないで」
「希望! いったいどんな希望があるというの!?」
 アデレードは激しい調子で叫んだ。
「わからない。でもきっと、君たちが生きていれば……希望はまた生まれる。未来はつながる。そんな気がするんだ」
 エアリィは手を伸ばして、妻と妹を同時に抱きしめた。二週間以上前、義弟のエイドリアン・ハミルトンを見送った時のように。二人の女性は、堰を切ったように激しく泣き出した。以前と同じ、いや、もっと悲痛かもしれない。
 愛は引き裂かれることはある。ここでは特に――愛するものが、無慈悲に奪い去られていく。だが、それは病魔によってで、抗いようのない運命の手だ。僕たちは調達隊を募る時、あとに激しく悲しむ人がいる場合は、許可しなかった。そもそも恋人がいる場合は、一般の人たちも志願はしてこない。僕たちのグループでも、肉親や友人が後に残るケースはあったが、カップルの片方が、そのパートナーを後に残して、というケースはなかった。エステルとエイドリアンは微妙な線だが、まだ恋人未満であり、エイドリアン側の体調不良と本人のたっての希望という事情があった。でも、今回は――僕はエイドリアン・ハミルトンが出発する時、まだパートナーを失っていない友を羨んだ。エアリィには芯の強い献身的な妻がいて、心から慕ってくれる妹がいて、僕たち以外にもプロヴィデンスから来てくれた友人たちがいて、頼りになる継父と継兄がいて、そして一般の人たちにとっての求心的リーダーだ。二人の娘たちは失くしたが、まだまだ多くのものを持っていると思っていた。だがその彼自身が、死地に赴かなければならない状況になるとは――。
 一般の人たちにも、この決定は驚きと当惑を持って迎えられたようだった。「行かないで!」という声も、無数に聞いた。いや、それはたぶん一般の人たちの総意かも知れない。
「あなたが行ってしまったら、私たちはどうすれば良いの」と。
 エアリィは集会場になっているホールで、そんな彼らに向かって言った。
「今は、アイスキャッスル最大の危機なんだ。このままでは、ここは本当の地獄になってしまう。だからそれを回避するために、僕は行く。みんなはここで、がんばっていて。大変だろうと思うけれど。そして、祈っていて。未来はつながるって……みんなの祈りが、力をくれるから」
 彼の言葉は真実なのだろう。今、アイスキャッスル全体が、存亡の危機に晒されている。生命線ともいえる食料供給が途絶え、飛行機を飛ばすことも非常に困難で、さらにこれ以上失敗を積み重ねれば、状況は壊滅的になっていく。二機あった貨物飛行機は、一機を失って、残ったのは一機だけ。旅客機は十六機あるが、輸送量は落ちるし、積み込みの手間もかかる。いや、それ以上に僕らはこの時点で、断食状態になって二日目なのだ。失敗の積み重ねは、成功率をさらに下げることになる。今だって、非常に低いのに――。
 ステュアート博士の判断は正しい。そのことも、認めざるをえなかった。オートパイロットもGPSもコンパスも、管制誘導もない、いわば手探り状態での飛行。当然、パイロットのコンディションも最悪だ。その中で、地図と眼下に見える光景だけが頼り――普通に考えれば、それで目的地にたどり着くのは、広大な砂漠の中で道もなくコンパスもない状態で、そして喉もからからで今にも倒れそうな身体で、地図に記された小さなオアシスを探すようなものだろう。無理だ――普通に考えれば。だが、エアリィなら――彼は不可能を可能に出来るかもしれない。かつて何度も、そうしてきたように。彼の力と、求心力があれば――。博士も言ったように、他に手段があるなら、選択肢があるならば、僕らの誰もが心情的に切りたくない、最後の札。しかし、今の状況を打破できるとしたら、それは彼しかいないのだろう。

 その夜も、寝られなかった。眠って悲しみも無力感も不安も空腹も、全部忘れ去りたいと思っても、容易に眠りは訪れてこない。しんと静まった静寂の中、時間はゆっくりと過ぎていく。柱時計が十二時を打った。しばらくして、アデレードの小さなささやきが、静けさの向こうから聞こえてきた。
「エアリィ……今、起きてる?」
 しばらくのち、同じように小さく答えが返ってきた。
「起きてる……ってか、今目が覚めたんだ。なんかこのまま朝までずっと寝てちゃいけないような、なんかやり残したことがあるみたいな気がして……」
「良かった。あなたはいつものようにさっさと寝てしまったから、どうしようかと思ってしまったのよ。起こすのは悪いし、でもこのまま別れるのもたまらないし」
「それってさ、帰ってこないの前提にしてない? これが最後の別れじゃないつもりだよ、僕は」
「それはそうなんでしょうけれど……それに、そんなつもりじゃないのよ、もちろん。それにわたし、できればあなたについていきたいわ、やっぱり。明日一緒に行っちゃダメなの? どうしても」アデレードの声は小さいが、悲痛な熱っぽさに満ちていた。
「それはぜったいダメ! 却下」エアリィの答えは一瞬の迷いもない感じだった。
「どうしてよ。わたしが……女だから? 力がないから?」
「それ以前に、一緒に行ったら君は死ぬことになるから」
「わたしはいいのに……」
「よくないって! 君は死んだらダメだよ。生きなきゃ」
「あなたはそういうけれど、どうやってわたしに生きろというの? わたしは……あなたを失ったら、ここで一人……生きていく意味なんてないわ。それともエアリィ、あなたは例外なの? あなただけは、普通の人と違うから、放射能にやられても……その、死なないでいてくれるの? それならわたしもまだ、希望を持てるけれど……」
「そこまで僕も不死身じゃないよ。僕は回復力がかなりあるってだけだから。でもこの状況だと、たぶんダメージに追いついていけないだろうと思う。それが限界を超えたら、僕だって死ぬよ。うーん、まあ、そうだなあ、トロントやオタワの放射線量考えたら、二八時間――ロンドンの時みたいに仮死を使っても、三五――まではいかないな。でも、そんな短期間では戻ってこれないだろうから、無理だと思う」
「その時間内に、戻ってくればいいのに。あなたに死んでほしくないと思っているのは、わたしだけじゃないわ。きっと一般の人たち、みんなそうよ。行かないでって、あれほど言われたじゃない。その間に積み込めるだけの食料を積んで帰ってきたら、きっと誰も文句は言わないわ」
「それだけの時間じゃ、半分しか積んでこられない。一週間分。それでまた、その分誰かが行かなきゃならないじゃないか。みんなが死を覚悟して行っているのに、僕だけ死にたくないから早く帰るなんて、できるわけない。それに……わかったんだ。継父さんに言われた時。ああ、ここが僕の到達点だったんだなって。僕は、生きて新世界は見られない。前からうすうすそう感じてたように。この危機を乗り越えること、奇跡を起こすこと……この命と引き換えに。それが僕のこの人生の、最終ゴールだったんだって」
「あなたの言うことは、時々意味がわからないけど……なぜそう悲壮になってしまうの」
 アデレードは訴えるような口調だった。「ごめんなさい。でも、ああ……やっぱり……そうだったら、わたし、とても耐えられない。どうしたらいいの。ドリアンといい、あなたといい、どうしてそう平気で、犠牲的精神を発揮できるの? それは、たしかに、人から見れば英雄的かもしれない。でも、残された人間のことを考えてみてよ」
「残される人のことを考えたからこそ、エイドリアンは行ったんだろうと思う。でも、決して平気じゃなかったはずさ。そう……今までに、七十人以上の人が、みんなのために犠牲になったんだ。ロビンも、エイドリアンも、マイクもジョンも、ギルバートも、それに一般の人たちが毎回、亡くなってる。最後の十二人は、助けにさえ行かれない。本当に報われない状態で……これだけ多くの人が、みんなのために亡くなっているんだ。僕だって、そのうちの一人に過ぎない。何も特別じゃない」
「あなたはいつも、そう言うのね」
「うん。ただ僕は、みんなとは違う宿命があるんだ。それだけの違いだ。僕はね、今の人生、気に入っているんだ。ここに来てからは幸せとはとても言えないけど、もしオタワに行けて、新しい世界の始まりを見られたらいいなって、本当に思う。でもね、これは抗えない運命なんだ。僕が生まれて、ここまで生きてきたことの、最後の地点。ああ、でも短かったな。二六年と三ヶ月。欲を言えばきりがないけど、いろんな体験ができて、中身は濃かったから、満足すべきなんだろうな……」
「お願いだから、決まりきったように言わないで」
 アデレードは懇願するようなトーンになった。
「わたしはやっぱり、耐えられそうにないわ。娘たちは二人とも、逝ってしまった。たった一人の弟も。その上あなたまで逝ってしまったら、わたし、とても生きていかれないわ」
「その言葉、すごくデジャヴなんだけど。僕らが初めて出会った時にも聞いたよ。もうわたし、とても生きてなんかいかれないんだから、って。ものすごく悲痛な顔で」
「ああ……ええ、そうね。そうだったわ、たしかに。わたしたちが初めて会ったのは、アパートメントの屋上だったわね。わたしが、以前の恋人に捨てられて、絶望して飛び降りようと思っていた時、あなたが声をかけてきたんだわ。『そんなとこで何してるの?』なんて、あっけらかんとね」
「『見てわからないの! わたしは死にたいんだから、放っておいてちょうだい。もうわたし、とても生きてなんかいかれないんだから』ってのが、君の第一声だった」
「そう。そしてあなたが『どうして死にたいの? 生きていかれないような理由って、何?』なんて、本当に無邪気に聞いてくるものだから、わたし頭にきてしまって、まくしたてたんだったわ。初対面のあなたに向かって。その男にどれだけ惚れ抜いて尽くしたか、子供もおろしてしまったし、他の人と寝させられたりまでしたというのに、彼は他の女と結婚して、しかもわたしに他の男の愛人になれと強要して、それを断ったら、まるでゴミのようにわたしを捨てたのかを。わたしは傷ついて、身も心もボロボロになって、もう生きている希望なんてないって。そうしたら、あなたときたら、とても理解できないっていう顔をして、『えー、なんで? そんな奴と切れたんなら、良かったんじゃない? ろくな奴じゃないよ、そいつ。今から再スタートすりゃ良いじゃない。せいせいすると思うけど』なんて、あっけらかんと言うんですもの。あの時ほど腹が立ったことはなかったわよ」
「いや、だって、本当にわかんなかったし。なぜそれで、そんなに絶望してるのか。で、なんで君がそんなに僕に怒ってるのか。そんなに変なこと言ったつもりはなかったんだけど。でもま、結果的に君は死ぬ気が失せたんだから、良かったかな。『あなたになにがわかるのよ! あなたは恋して報いられなかったことなんて、ないんでしょう! だからブロンド女は嫌いなのよ!』なんて言われたけど」
「あの男の妻になった女がブロンドだったのよ。もともとわたし、ブロンドにコンプレックスを持っていたし。不意に現れた、プラチナブロンドの見たこともないほどきれいな女の子が、何でもないような口調で言いたい放題言うのが、本当に腹が立ってね……男を見る目がないって、あなたに言われたのよね。すごく悔しかったけど、あとでとても正論だと思えたわ。そこまでさせられても、相手の男の本性が見えてないなんてって。尽くす自分に酔ってただけじゃないの、とか言われて、殺してやろうかしら、この小娘、って一瞬本気で思ったけれど……でも、たしかにそうなのよね」
「ごめん、いろいろストレートに言い過ぎて。でも本当に、そうとしか思えなかったから、ついね」エアリィもちょっと笑いを含んだ声になっていた。そしてこう続けた。
「でも君は相変わらず、男を見る目ないよ」
「あら、どうして? 二度目はとても自信があったわよ」アデレードは即座に返す。
「いや、もし自信があったら、僕みたいな半端な、見た目女の恋愛オンチは選ばないと思うし」
「あなたは本当にね、最後まで甘いムードには浸らせてくれなかったわね。どこまで行っても友達感覚で、本当に恋愛オンチは当たっているわよ」
 アデレードもほんの微かに笑いを含んだ声だった。
「あなたは『本当の愛を見つけて』と、わたしに言ったのよね、間接的に、あの曲で。もうその時にはロザモンドもいたのに、なんなのよ、それともそれは、あの時点だけでの想いを書いた曲なのかしら、と思ったけれど、あなたのいう『本当の愛』に、自分はなれないと思っていた理由も、後でわかったわ。でもね、わたしの本当の愛は、あなただと思っている。ずっと。あなたがなんであっても。仮にあなたがもし、先行き女の子になってしまったとしても、わたしはかまわない。そう言ったでしょう? あなた、あの時言ったわよね。初めて会ってから、あなたの部屋でお茶を飲んでいる時に。『そいつに対する一番の復讐は、君がそいつより幸せになることじゃない?』って。わたしは最大の復讐を果たせたのだと思ったわ。あの男も最後の三、四年はすっかり落ち目になって、奥さんにも捨てられて、幸せとは言えなかったけれど、たとえあの男が成功を続けて幸せであったとしても、わたしはそれ以上に幸せだったから」
「そう? でも、いろいろ不自由じゃなかった? 僕がいない時には、あまり外に行くこともないって、前に言ってたよね。見物人が来たり、いやなこと言われたりもしたって聞いたし」
「そうね。でも、わたしはその中でも、十分に幸せだったわ。わたしはあなたと出会って、たくさんのかけがえのないものを得たから。実家との関係も修復できたし、可愛い子供たちも生まれた。ねえ、あなたはたぶん気づいていないのでしょうね、エアリィ。あなたはまわりに光を運んでくれるのよ。あなたは、わたしの光なの。あなたがいなくなったら、わたしはまた暗闇に落ちてしまうわ。あなたを愛しているの。失いたくないの。あなたはわたしの生きる力なの。あなたには、わからないかもしれないけれど、わたしは……」
「愛か……うん。僕は、好意と愛情の区別がついてないって君にも言われたし、自分でもそう思うけど、でも僕は君が好きだよ、アデル。君と、それにロージィやティアラと暮らした日々は、僕にはとても貴重だったんだ。でもけっこう僕もマイペースで、君たちおいて遊びに行くこともわりとあったし、最後の休暇も仕事を入れまくって、君や子供たちに留守番ばかりさせて、ごめん」
「そんなこと……なんでもないわ。あなたには他にやりたいことが、あったのだから。あなたを縛ることは出来ないと思っていたの、最初から。あなたは本当に風のようなものね。だからわたし、あなたの呼び名を知った時、ああ、ぴったり、と思って、そう呼び始めたほどですもの。でも、寂しかったけれど、帰ってきてくれるってわかっていたから、耐えられたわ。わたしは、あなたが安らげるようなホームを作ろうって思っていたの、いつも」
「うん。本当に、最高のホームだったよ。帰る家があるって、本当に素晴らしいな、って。家に帰ると、君や娘たちが笑顔で迎えてくれて。いつもすごく、感動したんだ。僕は……たぶん、君の持ってる愛情は理解できないかもしれない。でも僕は君が好きだ。君といて楽しかったし、幸せだった。だから、ありがとう」
「……わたしこそ……」アデレードは激しくすすり泣いた。
「うれしいわ……なのに、なんて残酷なのかしら。あなたは明日行ってしまうなんて。帰ってこないかもしれない。帰ってこられても、病気になってしまって、残された日は数えるほどしかないなんて、そんなの……そんなのって……」
「アデル……生きることと死ぬことは、二つの世界を隔てることにはなるけれど、その世界の間には、それほど厳然とした境界があるわけじゃないと思うんだ。ロージィやティアラもそうだし、エイドリアンもそうだけれど、ただいる場所が変わっただけなんだよ。いずれは、また会える。僕もさ、長い長いロードに出たと思っていればいいんじゃないかな。十年、二十年……どのくらいの長さになるかは、君の寿命次第だけれど」
「でもロード中だって、時々電話やメールで話せたでしょう。同じには考えられないわ。それに、そんなに長い間待っていたくない。わたしも、すぐに追いかけていくつもりよ」
「アデル……だから、ダメだよ、死んだら。君は生きていってくれなくちゃ」
「どうやって……?」彼女のすすり泣きは、激しさを増していった。
「どうやって生きていけというの? すべてを失って。何も希望がなくて……」
「すべてを失った状態って言うのは、逆に言えば、すごく希望があるんだ。これ以上、何も失うものがないんだから。それ以上落ちようがなければ、あとは上るだけだから。ねえ、どうも君は突っ走っちゃうんだよね、思い込んだら。前の恋人に対しても、僕にも……」
「それが重いって、あの男には言われたけれど、あなたもそう……?」
「重いって意味がよくわからないけど、別に嫌だとは思わないよ、僕は」
 エアリィは不思議そうな口調だった。「でも、多少やばいかなって思うことはあるんだ。必要以上に重大に感じすぎちゃってるんじゃないかなって。そりゃ、一人ぼっちになったら心細いし、寂しいし、悲しいと思う。でも、どんなどん底からでも、人は立ち上がる力を持ってるはずだから、君もその力を信じてほしいんだ。君も一度は絶望して死のうとしたくらい、落ち込んだんだよね。でも、そこから今の君ができたんだから……」
「それと同列に語るのは、わたしは耐えられないわ。お願いだから、やめて」
 アデレードは堪えきれなくなったようで、少し声を上げていた。
「あなたは本当に、自分がわかっていないのね。ついわたしも懐かしくなって昔語りをしてしまったけれど、デジャヴではないわ。あの時と今とでは、本当に重みも何もかも違う。あの時のわたしは若くて、本当に愚かだった。それに、あなたはあの男じゃない。一瞬たりとも一緒に考えたくはないわ。あの男と別れたことであなたに出会えたことを、わたしは本当に感謝しているの。でもあなたを失った後を考えたら……わたしは頭の中が真っ白になってしまうの。何も考えられないの。それは、あの時の絶望とは違う、まったく別の種類の、そして本物だわ」
「んー、でもねぇ……」
 エアリィは困惑しているような感じを受けた。彼に対するアデレードのひたむきな愛を、完全には理解しきれていないのだろう。僕にすらわかるのに、おい、と言いたくなったが、僕が起きて話を聞いていることは、悟られたくない。もしかしたら最後になるのかもしれない夫婦の会話を邪魔したくはなかった。
「それに、あなたのいう希望というのは何? 誰かほかの人を愛して、その人と幸せな家庭を築くこと? 無理よ」
「なんで? 今はそうかもしれないけれど――」
「もう! 本当にひっぱたくわよ、この恋愛オンチの鈍感!」
 再びアデレードはそんな声を上げる。このシリアスな状況にもかかわらず、僕は思わず失笑しそうになり、慌ててこらえた。「そんな大きな声出したら、みんな起きちゃうよ」とエアリィは少し驚いたように言い、アデレードも慌てた様子で、「ごめんなさい」と、再び声を落としている。しばらく沈黙が落ちた。
「うん……でも君はそういう人なんだよね、アデル。まっすぐでひたむきだけど、それが過ぎて、思いつめすぎちゃう」
 エアリィは小さな声で、吐息とともに言い、そして続けた。
「じゃあさ、ひとつ聞かせて。もしかしたら君とじっくり話せるのは、これで最後かもしれないから……どうしたら、何をしたら君の希望になりえる? 今の君にとって」
「……あなたがこれからも生きていて、わたしと一緒に生きていってくれることだわ」
「うーん、僕もそうしたかったけど、物理的にそれは無理そうだから、他にはない?」
「ないわよ、そんなの……どんな希望があるの。あなたがいないで……ごめんなさい……あなただって、行きたいわけじゃないのよね。他に選択肢がないから、どうしても行かなければならない。それは、わかっているの。わたしが笑って送り出せたら……あなたみたいに強くなれたらいいのに。ごめんなさいね。わたし、あなたの足を引っ張ってしまっている。少しでも寝て、少しでもましなコンディションで行ってもらいたいのに。どうしても行かなければならないのなら……」
「ううん、いいんだ、少しくらい。今の状態で一、二時間よけいに寝たって、そう変わらないよ」
 しばらく沈黙が落ちた。そして再びアデレードの声がした。低く、熱情を秘めたような。
「最後の希望になりえるために何をしたらいい――あなたはさっき、そう言ったわよね、エアリィ。じゃあ、お願いがあるのよ。わたしを抱いて」
「え? よりによってそれ? 超難題!」彼の返答は相変わらずだ。
「あなたには苦手分野なのは知っているわ。わたしももうある程度あきらめているし、価値観も変わっているわ、今では。でも今夜は別よ。わたしはやっぱりあなたに触れていたいし、感じていたい。もう……最後なのかもしれないのだから。それに、それがわたしにとって、最後の希望になるかもしれないから」
「最後の希望?」
「ええ。あなたとの子供が、また授かるかもしれないって……あなたを失わなければならないなら、せめて子供がいれば、その子がわたしの生きる理由になると思うの」
「あ……あー、そうか!」しばらく沈黙の後、エアリィは小さな声を上げていた。
「そういうことなんだ。何かやり残したことがあるって……それか。わかった! だから僕は、男になったんだ。そして、君に会ったんだ。今、すごくはっきり納得した」
 彼は再び少し黙った後、再びトーンを下げ、少し笑いを含んで続けた。
「人生、先をあえて見ない方が面白いって、たしかだね。驚きの連続だけど……正解だったなぁ。うん……まあ、ホント苦手分野だけど、最後だから、こういうのもありだね、アデル。君のヒット率の高さにかけてみようか……」
 ちょ、ちょっと待った! そこまで聞いて、僕は反射的に毛布を頭からかぶった。これ以上起きていたら、とんでもなく罪作りだ。エアリィの方も、僕が動いた気配を察してしまったのだろうか。しばらく沈黙の後、「だけど、静かにしないと、まずいかな……」などとささやいている。思わず顔が火照ってしまった。
 でも彼らにとって、今夜が最後の夜なのだ。その悲壮感が、我知らず聞いてはいけないプライバシーに立ち入ってしまった気恥ずかしさを圧倒した。二人は明日、別れなければならないのだから。もしかしたら、永遠に――。




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