Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第四章 惜別の光 (1)




 七月八月――なんと暗い季節だったろう。重く垂れ篭めた雲と濁った日の光、氷点下前後の気温という、まったく名ばかりの極地の夏。“核の冬”真只中の夏の二ヵ月、アイスキャッスルではただ生き延びることだけに、すべてのエネルギーが費やされる状態だった。
 最初の食料調達隊が行ったのが七月十日。その食料が尽きる前日、七月二三日に、次の調達隊が行った。その次の第三次隊は八月六日に、さらにその次は八月二十日に出発となった。志願者は前日の夜十時に、第一会議室前に張り出される紙に名前を書く。そして先着の十名が、たいてい選ばれるのだ。調達隊が行った翌日に食料が切れるので、彼らが帰ってくるまでの二、三日間ほどは全員が飢餓状態に置かれ、ただベッドに横たわって、時間が過ぎ去るのを待つ。その後、やっと待望の食料が届く。また二週間は、みんな普通に生きていられる。その繰り返しだった。
 その間にも、死者は増えていった。調達隊の人々はもとより、残っている人たちの間にも、累積された放射線の影響と体力の衰えで、病気が発症しやすくなっているようだ。そこへ半飢餓状態が重なり、みなの健康状態は確実に悪くなっていったようで、夏の間の死者は六百人近くに達していた。
 この夏の間に、飢えるということの本当の意味を知った。思考力も体力も奪い取られ、ただ何か食べたいと渇望するだけの状態を。お腹が空いた、などという生易しいものではない。空腹を訴えるお腹の痛みを、水を少しずつ飲むことで紛らわせても、すぐにまたぶり返してくる。空腹感は最初の日が最も強く、翌日以降はふらふらした感じの方が強くなるようだ。同時に何もする気も、考える気も起こらなくなる。ベッドに横たわったまま何もせず、いつも食物を夢想し、眠れば食物の夢を見る。テーブル一杯のご馳走を前にして、目が覚めてしまう虚しさといったらない。食料をもたらして戻ってくる人たちの背後に後光がさしているように感じるほどだ。
 でも僕にとっては、食物の夢をみてがっかりしているほうが、まだよかった。飢えに苛まれていない夜、いつも夢を見る。子供のころの夢、コンサートの夢。中でもいちばんつらいのは、妻子と共にいる夢だ。彼らは世界が消えてなくなる前の風景――トロントの自宅、避暑地の海辺、ピクニックに行った野原――そんな背景とともに現れてくる。ステラは快活に僕に話しかけ、笑い、クリスを慈愛に満ちた瞳で見守る。わが子は風に髪をなびかせ、頬を紅潮させ、笑いながら遊んでいる。時おり、無邪気に僕らに話しかけながら。僕は二人に囲まれ、暖かい幸せを感じている――。
 そんな楽しい夢の残像が、目が覚めたとたんに消えてしまう時。一人ぼっちのベッドの上、灰色に閉ざされた部屋の中で、冷たい現実に目覚める時。がっかりなどという生易しい言葉では、その虚しさはとても語り尽くせない。我知らず涙を流しながら朝を呪い、新しい一日の始まりを呪う。起きだして今日を過ごすのが、ひどく苦痛だ。
『朝、目が覚めて、今日はどんな日になるのかしらっていう希望を、昔は持っていたの。でも今は、新しい日を迎えるのがつらいわ。同じことの繰り返しで、ただ時間が過ぎていくだけ……』
 亡き妻がこの春嘆いていたその言葉は、今の僕の心情そのものだった。どこにも希望を見いだせず、生きる意味も見つからない時、それでも生きていかなければならないとは、なんてつらいことだろう。

 こんな極限状態の中、僕らのグループでもっとも幸福で、なおかつもっとも気をもんでいるのは、ミックかもしれない。この夏の耐乏生活のさなか、奥さんのポーリーンに子供ができたのだから。なんと、結婚後十一年目に授かった子宝である。二人とも子供のことはもうほとんどあきらめていたらしく、この突然の気まぐれな授かりものに、すっかり仰天していたようだった。七月の終わり、部屋で突然気分が悪くなったポーリーンが医師の診察を受け、『おめでたですよ。何週目とは、はっきりは言えませんが、だいたい三ヵ月前後でしょうね』と告げられた時の彼女の顔といったら、(何の冗談を言っているのかしら)という感じがありありだった。それが本当とわかった時のストレイツ夫妻の驚きも、尋常ではなかったようだ。喜ばしいのはもちろんだが、セーラの悲劇もある。おまけに今は、寒さはそれほど深刻な問題にならないにしろ、半飢餓状態という最悪のコンディションなのだ。
 妻の妊娠がわかってから、ミックは自分の食物を時々抜かして、調達のインターバルにやってくる飢餓期間のためにストックしていた。
「僕はもとから自分の身体に、たっぷり貯えがあるからね。ちょうどいいダイエットさ」
 彼は恐縮する妻に、笑ってみせた。もっともアイスキャッスルへ来てからは、彼の体型もすでにかなり締まってきていたのだが。そのおかげでポーリーンはその期間も通常に食事が続けられたが、「みなさんに悪いわ。わたしだけ食べるなんて」と、盛んに僕らに気遣っている。
「あなたは特別。頑張って、元気な赤ちゃんを産んでよ」僕らは笑ってそう答えたが、彼女はそれでも目の前では決して食べなかった。みんなの飢餓感をあおることを、承知していたからだろう。一人で食事をするところは、いつも洗面所だ。僕らは彼女の配慮に感謝しながら、なりゆきを見守っている。困難なこの時期を無事に切り抜け、元気な赤ん坊が生まれることを祈りながら。みんな心配しつつも、一縷の期待をもこめているようだった。ロビンとセーラの時よりは、コンディションは良くなっているはずだ。もうあんな悲劇は、繰り返したくないと。

 八月二十日に四回目の調達隊が行った時も、オタワの放射線濃度はさほど減衰していなかった。他の都市も、言うまでもない。この調達隊には長年僕のセキュリティを務めてくれていたマイク・ホッブスも志願していた。彼は出発前、僕に向かって告げた。
「僕はあなたを守ることが仕事ですから、ジャスティンさん」
「こんな場で、仕事も何もないだろう? 君はもう僕のセキュリティじゃないんだから」
 僕は驚いて彼の腕をつかみ、止めようとした。
「それが何を意味するか、わかっているはずじゃないか。君が僕のために生命を投げ出すなんて、そんな必要は全然ないことだよ」
「でも、僕はそうしたいんです」
 彼は僕の手を握り、僕の目をまっすぐにのぞき込んできた。その眼には、忠誠と熱情が宿っているように感じた。
「あなたは僕の過ちを、黙って許してくれました。僕はその時、決心したんです。僕は、これからは何があっても、この人を守り抜こうと」
 マイクは濃い灰色の目に熱意を燃やして、飛び立っていった。現地でも隊の中で率先して働いたという。そして、帰ってきてから二週間後に死んだ。
 最後のツアーで僕のギターテクを勤めてくれた、マイクの弟チャーリー・ホッブスも、冬の間に肺炎で命を落としていた。もともと幼いころの栄養状態が極端に悪かったせいで、下の三人は体質的には丈夫でないと、マイクが言っていたことがある。僕も一応、気にはかけていたつもりだった。でもチャーリーが病に倒れて一、二日後に、簡単な見舞いに行ってのち、クリスが病気になったために、僕はわが子にかかりきりになり、その間にチャーリーは息を引き取っていた。僕が彼の死を知ったのは、クリスが死んで二日後、マイクに聞かされてで、その時にはもう、四日がたっていた。僕は最後に見舞いにいけなかったことを悔やんだが、マイクは表情を変えずに言った。
『気にしないでください、ジャスティンさん。お子さんが、大変な時だったのですから。チャーリーもわかっていました。あいつは幸せだったと思います。夢が叶ったのですから。あの最後のツアー、あの一年間だけで、一生分幸福だった……あいつはそう言っていました。そしてジャスティンさんに、最後にありがとうと……伝えてくれと』
 マイクは表情を変えることはなかったが、その頬に涙をこぼしていた。
 マイクとチャーリーのホッブス兄弟は、ラストコンサートの時に渡した六枚のゲストチケットで、ジョン、ローラ、アニー、そしてジョンのガールフレンド、ケリー・リンドバークと、チャーリーの昔のバンド仲間、ボブことロバート・シェーファーとフィーナことデルフィーナ・ホイットマンを招待していた。その六人のうち、今生きているのはジョン、ボブ、フィーナの三人だけだ。アニーはチャーリーより一週間早く肺炎で亡くなり、ローラとケリーは六月下旬に放射線障害による劇症型白血病で、相次いで命を落としていた。二人ともあの風が吹いた時、広場エリアまで出ていたことが災いしたようだ。すぐ下の弟、ジョンは第二次調達隊に志願しようとして、兄に止められたらしい。
『僕がいずれ行くつもりだ。だから、おまえは生きてくれ』と。
 そしてこの八月、マイクは死地に出向いていった。こんな僕を守るために。
「僕なんて……僕なんて、君の生命と引き替えになるほどの価値は、全然ないよ……」
 マイクが息を引き取ったあと、そう呟きながら、僕は彼をストレッチャーに乗せて地下へと運び込み、泣いた。何もかも失くし、絶望に打ち拉がれている僕なんて、いったいどんな意味があるのだろう。
 部屋へと引き返しながら、我とわが頭を殴り付けたかった。馬鹿だ――僕は馬鹿だ! 僕がこんな考えにいつまでも支配されていたら、マイクの死はまったく無意味になってしまう。ホッブス兄弟が自分に寄せてくれた限りなき信頼を裏切ることなんて、出来ないはずだ、絶対に。僕は頭を振り、ぎゅっと唇を噛み絞めた。生きなければ、前向きに。取り戻せない過去にすがるのではなしに。ひどく難しいことだと、わかってはいても。

 夏が過ぎていった。季節はまもなく秋――しかし、状況は変わらないだろう。九月十月十一月の三ヵ月で、最低六回は調達に行かなければならない。夏から合わせれば、全部で十回。事故だってあるかもしれないし、パイロットが病気で死んでしまうことだってありうる。元は三二人いた現役パイロットのうち、機長さんは十六人。この日が初の機長フライトで、現役がその補佐についたケースが二便あり、それも入れれば十八人。機長経験を持つ現役パイロットでなければ大型飛行機の操縦は無理だが、そのうちの六人をすでに失っている。五人は食料調達で、もう一人は普通の病死だ。操縦士は出来るだけ被曝を避けるために、現地では作業せず退避していたのだが、結果として一般の調達隊より数週間ほど命が延びただけで、二度目のフライトを期待することは出来なかった。そして副操縦士十四人のうち、三人はフライト経験の浅い新人で、経験豊富な人が四、五人くらい。ただ、副操縦士さんたちも今は六人失い(やはり五人は食料調達、一人は自然病死だ)、そのうちの二人は経験豊富な人たちだ。今現在いるパイロットさん二十人で、ぎりぎりできるフライトは、あと十四便くらいだろう。未熟な機長経験者にも頑張ってもらって、さらに一般の中から航空免許を持っている人たちにも、副操縦士見習い役で入ってもらえれば――かなり危ない賭けだが。しかし食料調達のためにすべてのパイロットを使い切ってしまったら、オタワに移動できなくなる。その分の余力を残さなければならない。
「いつまで、こんなことを続けられるだろう――?」
 それは、誰もが感じている疑問だっただろう。それに対する答えを、僕たちは知っている。一般の人たちでも、事情をよく知っていて、ある程度聡明な人ならば、わかるだろう。
「冬が来るまで」
 それが答えだ。パイロットの数も問題だが、この空港は冬になると使えなくなる。それが一番の障壁だ。十一月の半ば以降はほとんど日照がなくなり、アイスキャッスルは再び長い闇に閉ざされる。また暗く長く、厳しい冬が訪れるのだ。滑走路には氷が張り、空港は閉鎖される。さらに去年カタストロフ時の地盤変化で、一本だけしかない滑走路は突端が少し海の中へ沈んでしまった。照明塔はケーブル損傷で動かず、ライトアップができない。短くなった滑走路、厚い雪と氷――しかも除雪は不可能だ。外へ出ての作業など、自殺行為だから。その上、照明もない暗闇、吹雪がいつ来るかもわからない厳しい気象――そんな条件で飛行機など、飛ばせるわけがない。
 だが、ここで二度目の冬を迎えるということは、僕たち全員の死を意味するだろう。たとえ忌むべき最終手段――死んでしまった人々を食料にするという、考えただけでおぞましい手段を使っても、十一月半ばから四月半ばまでの五ヵ月間、サバイバルは限りなく不可能に近いだろう。とても考えたくない、ぞっとする話だが、今霊安室に安置してある二千人あまりの遺体を――使ったとしても、半月。最長でも一か月。それも放射線障害でなくなった人は、それ自体が汚染になり、自分も被曝リスクを負う。一ヵ月半ほどで、生存者は半減するだろう。そして残った人が、蛇が尻尾を食うように、タコが自分の足を食うようにして生きていく。冬になれば、また風邪や肺炎も起きてくるかもしれない。健康条件はどんどん悪くなっていく中、春になる頃に、いったい何人が生きているだろう。その時、再び飛行機を飛ばして、食料を持ってくることなど、できるだろうか。終わりの見えない中で――。それは地獄絵図だ。五千八百人がオタワに移住するなんてことは、単なる絵空事になってしまうだろう。やがて誰もいなくなる――最初の調達隊を募る時、エアリィが人々にそう言ったように。
 秋が終わるころ、僕たちはぎりぎりの選択を迫られるだろう。危険を冒してオタワに移るか、ここで人間の心や尊厳を犠牲にしてサバイバルを試みるか。どっちにしても、行き先は全滅かもしれない。でも僕は前者をとりたい。地獄の修羅場の中で人間の心をなくして、ゆっくりと滅亡するなんて、あまりにも悲しすぎる。それより、たとえ自殺するような結果になったとしても、わずかな可能性にかけてみたい。僕たちが、まだ人間でいられる道を。

 九月になるころには、僕たちのグループの人数は半分以下になっていた。バンドのメンバーと家族、それにロブ夫妻で一杯だったスウィートルームも、今や八人だけとなってしまった。家族組のほうも、今や数えるほどしか残っていない。ステュアート博士と僕の母だけが残っている親世代だし、兄弟たちもジョセフとジョアンナ、エアリィの継兄アランと、妹のエステルだけだ。親戚組や友人連もそれぞれ人数が半減してしまったし、スタッフたちも四割ほど欠けた。病気や放射能障害で死んだ人たちがほとんどだが、外戚やスタッフ組からは、かなりの殉教者も出している。四回の調達で合計七人が行っているのだ。
 さらに外戚組の一人であるエイドリアン・ハミルトンが、九月二日の第五回調達隊に志願していた。この二一才の青年はアデレードの弟で、エアリィの義弟にあたり、彼の妹のエステルとも仲がよい、背が高く、黒髪に灰色の目の好男子だ。
「今度の調達隊、僕も行くよ」
 エイドリアンはことさら何気ない調子で、姉にそう告げていた。
「なんですって?」
 アデレードは困惑したあまり、他に言葉が見つからないようだ。
「なぜ、あなたが行かなければならないの?」
「なぜ僕が? ねえ、姉さん。なぜ行かなければならないか、なんてみんなが言っていたら、たぶん誰も行かなくなっちゃうよ。利己心は捨てなきゃならないんだ」
 エイドリアンは頭を振って、きっぱりした口調で言った。
「冬までずっと調達を続けていくなら、だんだんきつくなってくるだろうけどね、たしかに」エアリィは当惑したような表情だが、義弟の正論に同意せざるを得ないようだった。
「けど、君はまだまだ先があるから、出来れば僕も行かせたくないな。アデレードだって君がいてくれれば心強いし、妹とも仲がいいし……そんな理由、自分勝手だって言うかも知れないけど」
「そう思ってくれて、ありがとう、義兄さん……あなたのことをこう呼べるのは、僕にとっては、大変なことだから。僕は仮にもあなたの義理の弟なんだから、このくらいの役割は果たさなきゃ。姉さんにはあなたが付いてるし。僕がいなくても大丈夫」
「それとこれとは……別だよ。僕もいつまで彼女の傍にいられるか、わからないし」
 エアリィは微かに頭を振った。「それに……僕にもね、弟がいたんだ。ちょうど君くらいの年の。生まれてすぐに死んでしまったけど。だから、思い出してた。生きてたら、こんな感じなのかなって。君が替わりの弟みたいで。いつか妹と一緒になったらいいな、とか」
「ちょ、お兄ちゃん、勝手に決めないで!」エステルは真っ赤になって抗議する。
 エイドリアンも思わず赤くなっていた。
「本当にそう出来たら、よかったけど……」青年は優しい瞳で少女を見つめた。
「でも本当のところ、僕はそこまで生きられないかもしれないから。僕もあの時、風に当たってしまったから。義兄さんが呼んでくれたから、五、六分で戻ってきたんだけれど。今までなんでもなかったから大丈夫だと思っていたんだけど、最近、少し体調が変で……」
「ええ? だったらなおさら、行っちゃだめだよ!」
「いや、どうせ死ぬなら、まだ動けるうちに、みんなの役に立って死んだ方がいいと思って。ここにいて、そのうちに病気になって死ぬよりも……」
「そんなのいやよ、ドリアン!! いや!! 生きてよ!」
 エステルが腕にすがって訴えている。腕を取られて、若きエイドリアン・ハミルトンは困ったような微笑を浮かべた。
「ねえ、エステル、泣かないで。僕は君が好きだよ。でも僕はたぶん、ずっと君のそばにいられない。だから今僕に出来ることで、君を守りたいんだ」
「そんな守り方をしてもらいたくないわ。あたし、そんなの絶対うれしくない! ねえ、本当に病気かどうかも、わからないじゃない! もし仮に病気だったとしても、今行くよりは長く生きられるじゃない!」と、少女はしゃくり上げている。
「でもそうしたら、ただの無駄死にだ」
 エイドリアンはきっぱりとした口調で言い、首を振った。
「僕は、みんなのためになりたい。君のために、エステル。それに姉さんや義兄さんのために。だから、これが最善の道だと思ってるんだ」
「君の気持ちは変わらない? エイドリアン……僕らが説得したとしても」
 エアリィは静かな口調で、義弟にそう問いかけていた。
「うん。僕の気持ちは変わらないよ、義兄さん」
「厳しいと思うよ。体調が本調子でないなら、特に。それでも……?」
「うん。足手まといにならないよう、精一杯がんばるよ」
「わかった。ありがとう……」
 エアリィはしばらく黙って義弟を見つめた後、青ざめた顔で頷いた。
「僕は君を誇りに思う、エイドリアン……君に祝福がありますように。僕にはそれしか言えない。本当に、ありがとう。ごめん。でも……がんばりすぎないで」
「うん」
 青年は頷き、少し涙ぐんでうつむいた。アデレードとエステルはすすり泣いている。
 そう、誰もみな、行かせたくない人はたくさん居る。でも、それを言ったら立ちゆかない――その重いジレンマは、いつも僕らを悩ませる。自分の身内からの犠牲は出したくない、だけど一般の人には協力してほしい、などという虫のいい理論が通るはずはないのだ。だから最初のロビンの志願も退けられなかったし、外戚グループやスタッフ組に毎回一人か二人出てくる志願者も拒否できなかった。今回のエイドリアン・ハミルトンの場合もまさにその通りで、僕たちはただ感謝し、見送ることしかできなかった。アデレードにしても、まだ十八才のエステルにも、それはわかっているだろう。でも、これまでもこれからも、僕らはいったい何人の若い犠牲者を、祭壇に捧げなければならないのだろうか――。

 九月二日に、第五次調達隊は出掛けていった。エイドリアンも勇敢に微笑んで、僕らに手を振っていた。
「わかっているのよ。でもわたし、あの子があんなに優しい子じゃなかったら……もっと自分のことを考えてくれたら良かったのにって、思ってしまうの。わがままよね……でも、やっぱり、あきらめきれない。ドリアン……小さなドリアン……あの子は、わたしのたった一人の弟なのよ。それなのに、黙って見送るしかないなんて……」
 アデレードは遠ざかる飛行機を見送りながら、涙を流していた。
「あたし、ドリアンに死んじゃってまで、守ってなんかもらいたくないわ」
 エステルも泣きじゃくりながら、そう言っている。
「病気かもしれないから……でも、病気で死んでも、無駄死にじゃないわよ。そんなこと言ったら、病気で死んだ人がかわいそう。なぜがんばって、命尽きるまで生きていこうって、思ってくれなかったのかしら」
「エイドリアンの決心は固かったから……僕らには止められなかった。悲しいことだけど。どうするか決めるのは、彼自身だから……彼の思いを無駄にしちゃいけないと思う。彼は僕らのために行ってくれたんだから、僕らは感謝して……生きなきゃ」
 エアリィは二人を抱きかかえるように手を回し、静かな口調で言った。それは自らに言い聞かせているようにも響いた。
「ええ。わかってはいるけれど……」
 アデレードとエステルは寄り添って泣いていた。
 三人の間にあったのは、悲しみの共感だった。僕はその時、エイドリアン・ハミルトンの犠牲に対する悲しみと同時に、パートナーをまだ失っていない友に、小さな羨望が湧いてくるのも止められなかった。ミックやロブにしても――まだ夫婦という単位を持っていられる仲間は、なんて幸せだろう。そんな考えが頭を掠めるのを、抑えられない。
 調達隊が帰ってきたのは、それから四日目のお昼ごろだった。トロントで食料を調達し、オタワに寄って放射線量を計ってきた。まだ両都市とも居住はとうてい不可能。帰ってきたメンバーも、十日前後で死んでしまった。エイドリアン・ハミルトンも、九日目の夜に、若い生涯を閉じている。
「僕は……精一杯やったよ。だからみんなは……生きて」
 それが最後の言葉だったという。雄々しい殉教者たちの魂に、やすらぎがあらんことを祈りたい。

 九月はゆっくりと過ぎていき、日も少しずつ短くなっていった。月の半ばに、第六次の部隊が行った。午前中に離陸して昼すぎにトロントへ着き、一日半をかけてすべての食料を積み終わり、放射線量を測定した。そろそろトロントの空港近辺の倉庫にある食料が、少し遠くに行かなければ取れないようになってきたので、あと、二、三回くらいでモントリオールに場所を変更したほうがいいか、それとも同じトロント市内でもっと遠くへ行くか、決めたほうがいいのではと言ってきた。僕らはそれに対し、次の時までに協議すると約束した。そしてアイスキャッスルを出てから三日目の昼ごろ、次の目的地オタワへ向かい、それから一時間半後、通信が入った。報告者は、まず放射能測定の結果を告げ(まだかなり濃く、居住は出来ない数値だった)、今から帰ると、こちらに着くのは夜になってしまうから、飛行機の中で一泊し、明日の朝帰ると告げた。アイスキャッスルの空港は照明塔故障のため、夜は真っ暗になってしまうからである。今の時期は、かなり夜は短いのだが、それでも危険は冒せないのだ。
 翌日の朝九時ごろ、まもなく離陸するという通信が来た。だが、通常のフライトなら帰ってくるはずの時間になっても、彼らは帰ってこなかった。その後も灰色の空を映し出すモニター画面に目を凝らしていたが、飛行機らしきものは何も映らない。
「もう離陸して六時間半がたっている。どこへ行ったのだ、彼らは……」
 ステュアート博士が当惑したようにうなった。
「帰って来るって、言っていましたよね。もう少し待ってみますか?」母が首を傾げる。
「今日いっぱいくらいは待つべきでしょうが……しかし、帰ってくるのだろうか。燃料もそれほどもたないだろう。事故でも起きていなければいいが……」
「その可能性は否定できませんね」ロブが難しい顔で首を捻っていた。
「今回のフライトは、パイロット三人態勢なんです。機長がまだ就任してこれで二回目のフライトなので、中堅副操縦士と一般から航空学校に行っていた人が、サブについているのですが……アイスキャッスル‐トロントは機長フライトとして二度目ですが、オタワ‐アイスキャッスルは初めてなのが、少し不安材料ではありますね。二回目からはガイドシグナルとビーコンを出したので、オートクルーズは使えるし、他の飛行機はいないので、管制の必要もそうないといえば、そうなのですが……でも何か突発事態が起きた時、機長経験の浅い今回のパイロットさんが対処できない可能性も、ないとは言えないので……」
「突発事態か。ハイジャックやバードストライクはありえないとして、あるとすれば、機体トラブルくらいか……整備士はいても、この状態で整備はできんだろうからな。それか、離陸時のミスか、だ」ステュアート博士が難しい顔で首を振る。
「そうですね……」母も心配そうな顔で頷いている。
 僕らもみな、おそらく同じような懸念を抱えていただろうと思う。しかし、待つこと以外、僕らにできることは何もなかった。

 それから三十分ほどたった頃、突然無線ランプがついた。
「助けてください!」悲鳴に近い声が、そこから聞こえた。
「どうしました?!」無線機の前のロブがそう問いかける。
「あ、通じた、良かった!」そんな声とともに、相手は続けた。
「僕は副操縦士の助手をしている、スティーヴンスと言いますが……今どこを飛んでいるのか、わからないんです。そっちからわかりますか? 今、僕らがどこにいるのか?」
「えっ?!」僕らはそう言ったきり、言葉が出なかった。官製レーダー画面に目をやるが、飛行機らしきものは何もない。この近辺にはいないとしか告げようがなかった。
「この辺には、いないようだよ。いったい何が起きたの!?」
 エアリィがマイクの横から、そう問いかけた。
「やっぱりそうですか。すみません、迷っちゃいました! 今、どこにいるのかもさっぱり……下はすごい野原です。たぶんツンドラだと思います。白いから。行きと同じに離陸して、安定高度になったから、オートクルーズをアイスキャッスルに設定して、それで一時間ほど飛んでいたんですが、ふと気づいたらコンパスが北ではなく、西をさしていて、それに機長のダビシュナさんも副操縦士のスコットさんも、ジェット気流が変だと言って……オタワ付近から、大規模な西に向かう気流が発生しているようでした。それでクルーズを解除して機首を北に向けようとしたんですが、どうしても北に行かないんです。気流が強くて。それで西に流され続けて、少し高度を下げて気流から脱出しようとしたんですが、脱出できるまでに二時間半くらいかかってしまいました」
「ええ? それでどうなったの?」
「ともかく飛行機の現在地を確認しようと、レーダーを見ました。衛星通信はまだ大丈夫なはずだし、行きは確認できたから……でも、だめでした。映らないんです。現在地が。それでダビシュナさんもスコットさんも僕も、とにかくなんとかするしかないと……たぶんオタワから千マイルくらい西に流されたはずだから、その分を東に戻れば、いや、北東に飛んでいけばハドソン湾か北西航路に出るはずだから、アイスキャッスル付近には行けるはずだと、そう思って高度を下げたまま北東へ向かおうとしたのですが、一時間ほど飛んだところで、突然コンパスが回りだしてしまったんです」
「えっ?」
「『落ち着こう。このままの方向なら、私たちは北東へ向かっているはずだ……』ダビシュナさんは、そう仰っていました。それで、そのまま方向を変えずに飛び続けたんですが、どこまで行っても、海には出ませんでした。ずっと下は陸地ばかりで……途中から、ツンドラで真っ白でした。アイスキャッスルからのビーコンも、まったく感知できませんでした。『おかしい。もうとっくに海に出てもいい頃なのに……ビーコンもそろそろ検出できるはずだが……』とダビシュナさんが呟いていて……その時、またコンパスが戻ったんです。そうしたら、それは北東ではなく、真北になっていました」
「えっ?」僕らは言葉を見つけられず、そう繰り返すしかなかった。
「最初に北東へ向かっていると思った時には、もうコンパスが狂っていたのか、それとも別の気流に捕まったのかもしれません。『冷静になろう。東に進路をとれば、きっと大丈夫だ』スコットさんが励ますようにそう言いましたが、それで一応東へ向かったつもりなんですが、それからずっと飛び続けているんですが、まだ海へ出ません。下はツンドラで……本当に東へ向かっているのか、コンパスが当てにならないのなら、それもわかりません。相変わらずアイスキャッスルからのビーコンも検出できませんし、さっきまで無線も出来ませんでした。今やっと、通じたんです。もう燃料がありません! さっきから警告ブザーが鳴りっぱなしなんです!」
 たしかにその通信の後ろから、緊急を知らせる警告ブザーの音が聞こえてくる。オタワで一回給油はしているが、飛行機には、それほど余分な燃料は積んでいない。離陸してから七時間では、限界のはずだ。しかも現在地はわからず、たぶんここより西の方の北極圏なのだろうと推測されるが、そんなところでは空港もなく、給油スポットも期待できないだろう。
「どこかに着陸すれば……」
 エアリィは言いかけて、言葉を飲み込んだようだった。無人の荒野に、しかも致死量の放射性物質にあふれている中に着陸できても、その後こちらから救援に行けなければ――現在地もわからず、コンディションも悪い中では、救援に行くのは不可能だ――彼らには長引く過酷な死が待っているだけだ。それに思い至ったのだろう。
「ええ……どの道、僕らは死ななければならないんです。最初に覚悟したように」
 スティーヴンスという報告者は、少しトーンを変えてそう言っていた。
「あなた方にも、どうしようもない。助けて、って思わず言ってしまいましたけれど、僕らの位置もわからないし、仮にわかっても……救援には来なくていいです。よけいな犠牲が出てしまう。でも、何が起きたか、知ってほしかったんです。僕たちは、帰ろうとした……でも、無理みたいです。ごめんなさい!」
「謝らないで! 本当に、ごめん!! 謝らなきゃならないのは、僕たちの方だ! 命がけで行ってくれたのに……こんな目にあわせてしまって、本当にごめん……」
 エアリィは無線マイクの前に座り、そのマイクを抱きかかえるようにした。届かないが、そこに彼らがいるかのように――。
「アーディス・レインさん……最後にあなたと話が出来て、良かったです」
 スティーヴンスさんは、少し穏やかな声になった。
「この飛行機は、もうすぐ墜落します。あなたが言うように着陸を試みても、こんな中では、僕たちは助かりません。食料はありますけれど、でも、それだけですから。だから、ひと思いに終わらせたいです。放射性障害で苦しんで死ぬよりは、楽でしょうから。でもあなた方に食料を持って帰れなかったことが、残念です。そして……次に来る時には、どうか気をつけてください。同じことにならないように。そうも思って、連絡しました。コックピットを開けたので、みんなも全員、来ています。祈ってくれませんか、僕らのために。そして……そうだ。もし良かったら、何か歌ってください、できましたら。人生の最後に、あなたの歌が聞きたいんです。聞きたい曲はたくさんあるんですけれど、もう一曲くらいしか時間がないでしょうから……今、浮かんだ曲をリクエストします『A Paradise in Peace』を」
「うん……わかった。本当にごめん。ありがとう……」
 エアリィは小さく頭を振って、言葉を継いだ。
「ギターを持ってくる時間が惜しそうだから、アカペラになるけど、いい?」
「大丈夫です。お願いします」そう返答が来る。
 彼は一息おくと、歌い始めた。『A Paradise in Peace』――ロビンの臨終の時にも歌った曲だ。その時外で聞いていた大勢の人たちからリクエストされ、僕たちはそれから毎週、集会のたびに、アコースティック・ライヴをやるようになった。ロビンはもういないが、ミックはホールにあるアップライトピアノで、ジョージはタンバリンを持ち出して、四人で三十分ほど、ライヴをしてきた。この曲もかなりリクエストがかかるので、三、四回に一回くらいはやっている。
 しかし、ロビンの臨終の場よりさらに、この時の『Paradise〜』は切ない。飛行機の墜落を目前にした十二人に向かって、エアリィは歌っているのだ。伴奏は何もないが、しかし本当に力のある歌に、伴奏など必要ないのだな――十一年以上、ずっとインストルメンタリストとしてのプライドを持ち、伴奏と呼ぶことを嫌ってきた僕だが、そう思わずにはいられなかった。その圧倒的な力――慰め、優しさ、切なさ――包み込むような、慈愛の光。聞いている誰もが涙した。おそらくマイクの向こうの十二人にも、けたたましいブザーの音を忘れるほど、同じように響いているに違いない。
「……ありがとうございます」
 歌が終わってしばらく後、幾つもの声がスピーカーから聞こえてきた。
「僕たちの方こそ……ありがとう。ごめんね。君たちのために、祈るよ……それしか僕らには出来ないから」
 エアリィは目を閉じ、マイクの上にかがむようにして、両手を組み合わせた。とりあえず普通の組み方だが、小さな声で呟いている、祈りを――その頬を、涙が伝っている。僕らも同様だった。その場にいた誰もがその場に跪き、祈った。
 やがてスピーカーから、激しい衝撃音が聞こえてきた。そしていくつもの叫び声と――僕らはびくっとして、いっせいに頭を起こした。通信は、それきり途絶した。僕らは祈り続けた。それしか出来ることはなかった。




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