Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第三章  新たな試練 (6)




 翌日、七月十日のお昼過ぎに、最初の食料調達隊が、トロントへ向けて飛びたった。貨物用の飛行機に、操縦士が二人――機長さんと、副操縦士、どちらも正規のパイロットだ。世界崩壊後、飛行機での初フライトなので、状況がどうなっているかわからない。いきなり素人の起用は危険だという判断だ。それに客室乗務員さんが一人と、食料を積み込んだりするための要員が十人。ロビンのほかは一般から志願してきた人たちだ。彼らはみな銀色の防護服を着て、シールドを付けている。マスコミの調査隊にかなり使ったので、アイスキャッスルにあった服は、これが最後だ。一度使ったものは汚染されているので、処理能力がない今は、直ちに外へ破棄するしかないからだ。もちろん、防護服も気休めのような物だろう。それでも付けていないよりは、被曝の程度は軽くなるだろうとは思う。
 死地へ向けて出発する人々を、僕たちはホテルの玄関で見送った。
「食料をうんと積んで帰ってきますよ。待っていてくださいね」
 マクニールという青年は手を振ってみせた。
「僕には、もう失うものはないんです。だからせめて、みんなのために働いてきますよ。限りない未来のためにも」エバンスというアフリカ系の青年は、静かに言った。
「色々あったけれど、ここへ来られて良かったと思っています。他の人より半年以上、長生きできましたね」ジョンソンという青年は、穏やかな笑みを浮かべた。
 僕たちは何も言えなかった。ただ一人一人、その手を握り、「本当にありがとう。頼んだよ」と、言うことしか。
「がんばってくるよ、待っていてね」
 ロビンは短くそう言って、手を振った。送る方は、たぶんみな誰もが精一杯の笑みを浮かべ、手を振り返すことしかできなかった。そして、彼らは飛び立っていった。

 それから僕らのうちの何人かが――僕も含めて、アイスキャッスル屋内施設の後部、時計台の上に設置されている、空港管制室に移動した。空港とは四百メートルほどしか距離がないので、アーケードの上に出ている窓からも本来はその光景が見えるはずだが、今はドーム状のシールドに覆われているので、その様子はモニター画面に映し出されている。ロビンには、春に調査に行ったマスコミの人が持って行ったのと同じような、出力をブーストした携帯無線機を渡していた。現地から様子を知らせてもらうために。
 夕方五時すぎに、ロビンからの第一報が来た。
「今トロントに着いたよ。空港のターミナルにいるんだ」と。
「よかった。そっちはどんな状況だ?」僕は無線器に向かって問いかける。
「うん……最初に着いた時には、僕らの街なんだな、って思った。見た感じは、それほど変わっていないんだ。市庁舎や高いビル、それにタワーが折れてて、その下の建物が壊れているほかは」彼はしばらく黙った後、言葉を続けた。
「でも、すべてが止まっているんだ。時が止まった街って、前にそんな話を読んだことがあるけれど、本当にそんな感じで……静かで、動かないんだ。信号も消えてて、車も止まったままで。ところどころ道路に人が倒れてる。空港にも飛行機がそのまま止まってて、作業員の人たちが倒れているんだ。みんな干からびていて……ミイラみたいなんだ。空港の建物に入ったら、もう店はシャッターが下りていたけれど、ロビーにやっぱり人が座ったままで干からびていたんだよ。本当にぞっとして、泣きたくなってしまったんだ」
 その言葉に、僕は思わず絶句した。
「悪いが、そっちの放射線濃度を測ってくれないか」
 ステュアート博士が短く指示した。
「やってみます」
 測定器の針の振り切れる、ピーという鋭い警告音が漏れ聞こえてきた。そしてロビンが告げた数字は、四月にマスコミの調査隊が言ったときの数値より、わずか数一、二パーセントほどにしか減じていなかった。
「そうか……ありがとう」博士はため息とともに頷き、無線器の前を退いた。
 かわって母がマイクの前に進み出た。
「ロビンくん、聞こえる? 大変だったわね。ありがとう」
「ああ、ローリングスの小母さん。ええ」
「食料のありそうな倉庫は見つかった? たぶん空港の南側に流通倉庫があるはずだけれど、少し歩かなければならないわ。運ぶのは、トラックやフォークリフトを使ってね。空港にある中で、動くものもあると思うわ。でも、あなたがたは疲れているでしょうし、今日はもう休んで、明日作業しますか?」
「いいえ、ここはまだ明るいんです。これから探してみます」
 その通信の後、夜の九時半過ぎに、再び連絡が入った。
「もしもし……あれから空港の近くにいくつか食品メーカーの倉庫があったから、中を見てみたんだ。かなりたくさん保存のききそうな食料があったよ。とりあえず今日は缶詰を六万個くらい積み込んだんだ。重たかったけど、みんなでリレーして、カートに乗せて、トラックに積み込んで。それから飛行機まで持っていって積んで……でも、もうすっかり暗くなってしまったから、今日の作業はこれでやめるつもりなんだ。残りは明日になるけれど、そっちはみんな大丈夫?」
「ああ。食料は今日一杯で終わったけれど、二、三日はなんとか持ちこたえられると思うぞ。だから、こっちのことは気にするな。みんな大丈夫だからな。そっちこそ、どうだ?身体は大丈夫か」ロブがそう気遣った。
「ありがとう、今のところは大丈夫だよ」それがロビンの返答だった。
「みんな疲れてはいるようだけれど、よく頑張って働いてくれているよ。キャビンアテンダントさんまで協力してくれているし……それに測ると、たしかに放射線濃度は高いけれど、空気はそんなにピリピリするような感じじゃないんだ。でも、時々頭が痛くなったり、めまいがしたりはするよ。たいしたことはないんだけれど」
「そうか。がんばってな……」僕らはそれしか言葉がなかった。

 翌日一杯、調達隊は食料の積み込みに費やしたようだ。その日の夕方、十万個の缶詰とビスケットや乾パンを十万食、スキムミルクの粉末を五百キロ分、缶入りキャンディを千個ほど確保したけれど、もうこれ以上飛行機には積めないと言う報告があった。それから近くの病院で抗生物質と様々な薬、次の調達隊のための防御服を探し、それも飛行機に積み込んだようだ。宿泊場所はどうしているのかという問いには、『昨日は飛行機に戻って寝たけれど、あまり被曝程度は変わらなさそうだから、近くのホテルを使うことにしたんだ。フロントにアナログ式の鍵があったから、それで。その方が、みんなよく眠れるし』という答えだった。
 三日目の午前中に彼らは、二人のパイロットが主導して、後続のために空港のガイドビーコン(これまではコンパスと地図だよりだったが、これを動かすことができれば、オートクルーズも使える)を再び作動させたあとトロントを離陸し、一時間後にオタワに到着したようだ。
「こっちも、街が残っているよ」ロビンはそう報告してきた。
「市街地がきれいに残ってるんだ。ターミナルビルも無傷だし、滑走路も壊れていない。でもね……ゴーストタウンだ。トロントと同じで。恐いよ。建物は無傷なんだけれど、人はみんな干からびて倒れてるんだ……」
 この報告に、僕らは再びぞっとした面持ちで、顔を見合わせた。オタワでは放射能値を測定し、やはりガイドビーコンを作動させただけで、すぐアイスキャッスルに向かって離陸する。ここの放射線濃度はトロントよりはほんの少しだけ薄いが、まだまだ致死濃度だ。
「やはり、まだ駄目だな。こんな数値では、防御服なしでは半月ともたん」
 ステュアート博士が難しい顔で腕組みし、
「マスコミの方たちが調査に行ってくださってから、三ヵ月もたっていませんものね」
 母は半ばあきらめ顔で頷いていた。

 その日の夕方、彼らは無事アイスキャッスルに帰ってきた。飛行機いっぱいの缶詰や乾パン、ビスケット、固形ミルクやキャンディを積んで。二日間水以外何も口に出来なかった人々は、飛行機が空港に到着したという知らせを受けると、いっせいに歓声を上げた。そして施設内の駐車場から、何台ものトラックが空港へ向けて走っていった。向こうの空港で一回包装をはずし、こちらから運んできた空のダンボールにつめなおしてあるので、そのまま出来るだけ外気に触れないように、施設内に運び込む。こうして、待望の食料が補充された。これでみんな、二週間は生き延びることが出来る。
 ロビンを含めた調達隊の十人は、帰ってくるとすぐに、それぞれの部屋に引き取って休んだ。今は疲れているだけだが、やがて死の病が身体を蝕んでいくのだろう。そう思うとやりきれない。自己犠牲――この極限状態でも、人間の心というものは、ここまで気高くもなれるものなのだ。
 彼らが生命と引き替えに持ってきてくれた食料で、人々はにわかに元気になった。夕食に配られたビスケットとコンビーフ、ミルク――外気に触れていた外箱をはずしても、この食物は完全に汚染されていない、というわけではないだろう。でも、僕たちは食べなければ。生きるために。彼らの犠牲を無駄にしないために。

 ロビンはアイスキャッスルに帰ってきてから丸一日、精も根も尽き果てたように眠り続けていた。二日目は「なんだかだるい」と言いながら、ベッドにずっと横になっていたが、三日目にはいくぶん気分が良くなったようで、帰ってきてから初めて昼食を全部食べた。翌日の夕方までは小康状態だった。一瞬、このまま回復するのではと錯覚したほどだ。だが、それは本当に潜伏期間に過ぎなかったのだ。
 四日目の夜、ロビンは突然吐いた。吐き気はなかなか止まらず、最後には胆汁まで吐きだした。嘔吐が収まると今度はがたがた震えはじめ、四十度近い高熱が出た。それから四日間、ロビンは激しい症状と戦った。熱に浮かされてうとうととまどろみ、時折激しく胸をかきむしって、「苦しい! 痛い! 助けてよ!」と声を上げて、のたうちまわる。見ていることができないほどだ。その間に、髪もほとんど抜け落ちてしまった。顔は異常に紅潮し、手足には紅斑が浮き出ている。頬はこけ、目は落ちくぼみ、あっという間に、別人のようにやつれてしまった。

 調達から帰ってから八日目の夕方、ロビンは発作の後の長い眠りから覚めたようだった。そしてゆっくりと目を開け僕を見ると、かすかな微笑をもらした。
「ジャスティン……君はいつも、いてくれるね。昔を思い出したよ。もう……十年近く前……ロサンゼルスの病院で、僕が、落ち込んで……早まって、死のうと、した時……君が助けてくれた。あの時、僕はもう駄目だって、思って……目が覚めたら、君がいたんだ」
「そんなこともあったな……」
「君は、いつも、いい友達でいてくれたね、ジャスティン……」
 彼は手を伸ばし、僕の手をつかんだ。
「君は小さいころから、ずっと……僕の友達でいてくれた。子供のころ、僕が泣かされるたびに、君がかばって、くれたし……僕が、くよくよしていると……いつも慰めてくれた。いつも君が、そばにいてくれたから、僕は、寂しくなかったよ……君が、僕の世界の、すべてだった、ほどに……ありがとう。君には言葉で、言えないほど、感謝しているんだよ……ジャスティン」
「ロビン……」僕はそれ以上、何も言えなかった。涙があふれそうになる。
「変な、ものだね。たぶん僕……もう長くは、ないのだろうけれど……恐いとか、いやだとか、そんなことは……もう、思わないんだ。ものすごく、静かなんだよ。まわりが、すごく……静かで、穏やかなんだ。こんな気持ちに、なったことって……ここへ来て、初めてだよ」
 僕は返す言葉が見つけることができなかった。ある意味では、家族よりも近かった親友。物心ついた時から一緒に遊び、一緒に成長し、同じ夢を追いかけ、同じ悪夢も分け合い、共に生きてきたロビンが、世を去ろうとしている。ほとんど生涯と同じ長さにわたる付き合いの中で、覚えているかぎり、ただの一度も喧嘩をしたことがなかった。いつも僕が彼をひっぱり回して、好き放題をしていたような気がするが、温和なロビンはいつも文句ひとつ言わず、僕に付き合ってきてくれた。今、死に臨んでいる友に対して、僕は何をしてやれるだろう。無力感ともどかしさが、またやってきた。

 ドアが開いて、食事配りに行っていた他のみんなが戻ってきた。ロビンが目を覚ましているのを見ると、ベッドに近づいてきて、まわりを取り囲む。
「どんな具合だ、ロビン?」ジョージがいたわるような声で問いかけた。
「大丈夫だよ、兄さん」弟の方は微笑して答えている。
「苦しくはないか? 熱はどうだ?」
「大丈夫だよ。なんだか……身体中の力が、抜けちゃったような、気が……するけれど」
「そうか……」ジョージはしばらく弟の腕を無言でさすっていたが、やにわに顔を突きだし、上擦った声で続けた。
「なあ、おい、ロビン……俺を置いて行く気じゃないだろうな? おまえは俺に残された、たった一人の弟なんだぞ。俺にはもう、誰もいないんだぞ」
「ごめんね、兄さん……兄さんを、一人にする気は、なかったんだけど……でも僕ね、兄さんのことは……そんなに、心配していないんだ。ジョージ兄さんは……僕より、強い人だもん。それに僕より、ずっと……物事を前向きに、考えられる人だよ。これから、生きていかれたら……兄さんにも、きっと、希望が戻るよ。それまでは、バンドのみんなを、兄弟だと思って……がんばって、生きていってよ」
「おまえなあ……頼むから、そんなこと言わないでくれよ」
 ジョージはぼろぼろ泣いてしまって、あとを続けられなくなったようだった。
「僕、今のうちに、みんなに……言っておきたかったことが、あるんだ」
 ロビンは僕たちを見回し、静かな口調で言葉をついだ。
「ありがとう……みんなと一緒に、バンドを組めて、十二年間、活動できて……本当に、うれしかった。毎日が、最高の夢だったよ。僕一人じゃ、とっても、到達できない……高処まで、連れていってくれて……僕の不器用や、はにかみ癖を、黙って、認めてくれて……いつも、立派なメンバーの、一員だって……思わせてくれたね。本当に……ありがとう。僕……みんなが、大好きだよ。ジョージ兄さん……いつも僕を、気遣ってくれて、愛してくれて、ありがとう。ミック……思索や内省は、悪いことじゃないって、教えてくれて、励ましてくれて、ありがとう。エアリィ……僕の心の、垣根を壊して、広い世界に、つれていってくれて、ありがとう……君は僕の、あこがれだったよ。それから、ジャスティン……君には、さっき言った、けれど、でも、もう一度言うよ。ありがとう。ありがとう、本当に……」
 彼は一人一人に手を伸ばし、握手をしていった。その手は細く、しわが寄って、冷たい。僕の知っているロビンの手ではなかった。指先のたこだけは、まだ固く残っているようだ。十数年間バンドの土台を支えた、ベーシストとしての名残だ。でも、握る力は弱々しかった。僕は涙をこらえ、精いっぱい笑顔を作ろうとした。それは他の三人も同じだったようだ。ロビンの顔にも、かすかな微笑が浮かんだ。そして再び口を開いた。
「ねえ……また天国で会った時……五人揃ったら、もう一回、一緒にプレイしようね。ここでは……無理だから」
「ああ……」僕は、そしてたぶんほかの三人もみな、ただ頷くことしかできなかった。
「ねえ……ひとつだけ、お願いが……あるんだけど、いいかな」
 ロビンは両手を合わせ、訴えるように僕たちを見た。
「そんな話を、したら……みんなの、プレイが……聴きたくなったよ。僕たちの、音楽が」
「ここでは無理だぞ。さっきおまえも言ったじゃないか。CDをかけるか」
 僕はみなと顔を見合わせ、そう提案した。
「うん、それもいいけれど……セーラと僕の、結婚式の時を……覚えている? あの時みたいに、ギターと歌だけの、アコースティック・バージョンを……聴かせてほしいんだ。あの時の『Angel』は……僕にとって、最高の贈り物、だったよ。だから今、僕は……最後の贈り物が、ほしいんだ」
「あの曲を?」エアリィがちょっと驚いたような表情で、首を傾げる。
「ううん。あれは……セーラがいないと、だめだよ。今やって、ほしいのは……ねえ、三曲、出来る? 『Spinning Wheel』と、それと……『A Paradise in Peace』……それに『Fancy Free』。ラストアルバムの、三曲を。人生の最後に……聴くには、これほど……ふさわしい曲はないよ」
「うん、いいよ……ジャスティンは?」
「もちろん、やるよ。まあ、どれもアコースティック・バージョンなんて作ってないから、ぶっつけ本番だけれど……なんとかなるだろう」
「うん。まあ、僕は自分のパート、そのまんまだから」
「僕も、簡単な伴奏しか付けられないと思うけれどね」
 僕はずっと部屋の隅で埃を被っていたアコースティックギターのケースを開け、取り出してフレットを拭いてから、チューニングを始めた。ギターを弾くのは、本当に久しぶりのような気がする。世界の崩壊に直面してから、ほとんど忘れていた音楽。かつてあれほど情熱を傾け、僕らの支えになってきてくれた音楽よ。もう一度、僕らに力を与えてくれ――。
 指がフレットを走り、弦を弾きだした。一年近くご無沙汰でも、まだ指は錆び付いていない。よかった――なつかしい音色、やさしく美しい音が、部屋に響き渡っていく。その音は大きな慰めを与えてくれた。

  始まりがあって、終わりがある
  終わりの後には、始まりがある
  全てはみんな回り続ける環
  灰の中から生命が生まれる

  世界は回り続ける輪
  世界は昇り、世界は沈む
  終わりの後には、始まりがある
  滅亡の中から、不死鳥が甦る

  人はみな、回り続ける輪
  生が終わり、生が始まる
  幾多のタペストリーを描きながら
  描いては消し、消してはまた描いていく
  僕たちは誰も死なない――
 
 比較的明るめの、アップテンポのメロディにのって歌われるこの曲のテーマは、不滅の魂。それも、転生する魂だ。これにはエアリィの独特な宗教感が反映されていて、出た当初『やっぱり異教的だな』と、一部の宗教関係者から眉を顰められたものだ。でも僕は、そうは思わない。そこにあるのは、狭い宗教の枠など遥かに超えた、不滅の希望。死にゆく世界、失われていく生命への、強い希望と慰めをこめたレクイエム。決して悲壮ではなく、落ち込ませることもなく、魂をやさしく慰め、元気づけ、包み込んでいく。そう――あのアルバムには比較的こういうテーマが多かった。
 ベッドの上のロビンも、ジョージやミック、ロブも、部屋にいる他の人たちも、ほとんど身動きもせずに、じっと聞き入っている。さらに曲の途中から、ギャラリーが増えはじめた。ドアの外から、一般グループの人たちが覗き込んで、聴いていたのだ。あとから聞いた話では廊下まで広がって、相当数の人が来ていたらしい。
 やがて曲は終わった。僕は軽くコーダを演奏し、いったん音を止めた。みなも一斉に深い吐息をもらした。僕たちは一瞬顔を見合わせて、次の曲にいく確認をした。
『A Paradise in Peace』――この曲はラストアルバムの、二つ目のシングルカット曲だ。

 空はどこまでも青く
 水は黄金に輝き
 木々は緑にさざめき
 僕は吹き抜ける微風を感じる

 太陽は世界を照らし
 雨は葉の上に優しく落ちて
 風が微かに空気を揺らし
 僕は解き放たれた自由を感じる

 それは平和の楽園
 永遠に変わらない景色の中の
 争いも葛藤もなく
 飢えも苦しみも渇望もなく

 どうかそのままでいて
 この瞬間の中に永遠が宿ればいい
 それは夢なんだとわかっていても
 あっけなく流れ去っていくものだとしても

 平和の楽園
 それは心の中の庭園
 消えない記憶、そして思い
 幻のエデンの園
 
 伸びやかで明るく、清らかなメロディにのせて紡がれていく景色――今はもう幻でしかない、在りし日の世界の美しさ。そして穏やかさ。今では本当に、僕らの記憶の中にしかないもの――涙があふれてきた。
 この曲は途中、二分ほどスキャットが入る。『Polaris』のように――あれほど長くはないが。ただ『Polaris』同様、これも普通のスキャットのように「ラララ」とか「アアア」というような音の繰り返しではなく、時おり変化する。ただ、それは明瞭な言葉ではなく、たとえば「ラファヴェスティア・ファリア」――この曲のスキャットの一部だが、こんなふうに聞こえる部分があるし、他にもそれ単独では意味のなさそうな、言葉ではない言葉に聞こえる部分がある。これには何か意味があるのか、逆再生メッセージか、などと『Polaris』の頃から議論はあったが、結局結論は出なかった。だが、たしかに不思議なスキャットだ。聞いていると、圧倒的な感情が喚起されてくる――この場合は、なんだろう。なだめる感情――落ち着かせるような穏やかさと安らぎ。
 二曲目が終了した時、僕は次の曲に行く前に涙を拭わなければならなかった。視界がぼやけて、はっきり見えなくなっていたのだ。そして僕の指は再び弦を弾いた。ピアノ伴奏をギターに置き換え、適度にアレンジしながら、イントロを弾いていく。『Fancy Free』、『Neo Renaissance』アルバムの六曲目だ。

  風に乗って、彼方へ飛んでいこう
  上昇気流に運ばれて、空の高見へと
  舞い上がる鷲のように自由に気ままに
  すべての束縛から解き放たれて
  パラダイスは幻
  自由な風のような精神だけの
  地上の楽園は決してこない
  その最後の言葉がわからない限り

  光の中を飛ぶ時
  何が見えるのだろう
  地上の美しいパノラマ
  それとも壮大な幻
  果てしなく広がる空間
  頭の上には何もなく
  足元にも何もない
  光のシャワーの中で
  僕は初めて本当の自分を取り戻す
  作られたままの僕自身に

  草原の風は何を思うだろう
  森の木のざわめきは
  夜空に降る星の光は
  風に乗って彼方へ飛んでいく時
  僕は何を思うだろう
  自由な風のように
  すべての束縛から解き放たれた時
  人は至上の喜びを知るのだろうか

  思いは空に舞い上がる
  自由な空間へと

 この曲は“彼岸”を歌っているのだろうか? 瞑想的な歌詞ではあるが、この抽象性を通して伝わる、圧倒的な世界の広がりはなんなのだろう。この曲もさまざまなイメージを聞いているものの心に、鮮やかに呼び覚ます。その背後にある、絶対的なやすらぎをも。そう、これは『転生する魂が休息する場』である、彼岸の安らぎだ。『そこでは、誰もが幸福だ』と、いつかエアリィが幼い娘に語ってきかせていたように。
 エアリィはこの場で、アルバムのレコーディング時よりさらに明確に、その感情を注ぎこんでいるようだった。友への惜別に捧げる、精一杯の福音を。無心に、力強く、優しく、それでも明るさを失わず。その歌はロビンの胸に、僕らみんなの心にしみ込んでいっているようだ。僕はあふれてきた涙を堪えきれず、かといってギターを弾いているので拭くことも出来ず、頬に流れるまま指を動かし続けた。
 この曲はラスト二分が、やはりスキャットだ。他の二つとは違うものだが、やはり言葉にならない音がある。そしてそこから想起されてくる感情は、圧倒的な優しさ、そして包み込むような癒しと慈愛。これは『Neo Renaissance』アルバム全体にみなぎるテーマだが、この暖かな光に包まれて安らいでいるようなその感情は、覚えがある。そう――ラストコンサートの時、最終曲『Evening Prayer Reprise』の前二曲がこれだった。『A Paradise in Peace』と『Fancy Free』――その時に感じた想いだ。そして僕は、改めて理解した。『Evening Prayer』が臨終の祈りなら、その前のこの二曲は、魂に安らぎをもたらす最後の説法、もしくはレクイエム。そのためにラスト三曲は演奏されたのだということを。そしてこの場で、ロビンは人生の終わりにもっともふさわしい曲を、リクエストしたのだろう。
 ロビンは身じろぎもせず、じっと天井を見つめたまま、胸の上に手を組み合わせて聞き入っているようだった。彼の頬も、また涙で濡れていた。
「ありがとう……本当に」
 曲が終わると、長く深い息を吐き出しながら、彼は小さく呟いた。
「また……会おうね。向こうの、世界でも……できたら、また……生まれ変わっても」
 ロビンは目を閉じながら、再び長く息を吐き出した。そして、小さな小さなささやきが。
「セーラ……待っててね……今……行くよ」
 彼は再び深い眠りに落ちた。そして真夜中近くに、意識を戻さないまま、眠るように息を引き取った。調達隊のうちパイロットをのぞいた十二人の中で、四人目に早い死だったが、残りの八人もその時には全員重体に陥っていて、生命が切れるのも時間の問題だった。殉教者――彼らはそう呼ばれた。全体を救うために自らが犠牲になったその行為を称え、感謝をこめて、誰ともなしに、その言葉で彼らを呼んだのだった。

 死者は六時間ほど部屋に置いた後、生きている可能性がないことをもう一度確かめた上で、地下の霊安室へと移される。寒く暗い永眠の地へと。僕の隣のベッドはなくなり、こっち側の区画には、エアリィとアデレード、そして僕だけしかいなくなった。向こう側の区画はミック夫妻とロブ夫妻、そしてジョージの五人。この部屋にみなで移ってきた時には、全部で十七人いたが、今は八人だけだ。こちらの区画の、真ん中のベッドがなくなった部分には、広い空間ができた。僕の心にも、またひとつ空間ができてしまった。埋められることのない空虚さが。初めて、バンドの仲間が欠けた。それは家族や肉親とは違う、でも決して鋭さでは劣らない悲しみであり、衝撃だった。とくに子供のころから兄弟のように付き合い、ある意味で自分の分身のようにすら感じていた友とあっては。
 僕はベッドに腰をかけ、孤独感に打ち拉がれていた。
『君には未来があるんだよ、ジャスティン。君の娘が生まれることは、まだ未来の事実なんだから。希望をもって、生きなければだめだよ』
 そんなロビンの言葉が甦ってくる。でもその慰めは、今の僕には虚ろに響く。娘――? 僕と誰との間の娘だというのだ。ステラは僕を残して、世を去ってしまったのに。それとも、その子の生年がまだ六年も先だということは、僕はその間にステラを忘れ、他の女性を愛するようになるというのだろうか? いくら六年は長い歳月だとはいえ――。
 僕は激しく頭を振った。やっぱり考えられない。第一、六年も先のことなど、何も考えられない。ここから出る希望も見い出せず、二週間生き延びるために十数人の犠牲が必要な、こんなぎりぎりの状況がいつまで続くかもわからない今、未来の展望など憂欝にさせるだけだ。いっそのこと、ここから逃げてしまいたい。ロビンのように犠牲的精神を発揮して、次の食料調達に行き、けりを付けてしまいたい。ここから出られるのなら。そして天国が安楽なところとわかっていて、そこで愛する妻子が待っていてくれるのなら――。
(逃げる気か?)
 突然、冷酷な声が僕を呼び戻した。それは心の中から発する良心の声だったのかもしれない。その非情な声は僕を叱咤するように、言い続けている。
(つらいから、逃げだす気か? 犠牲的精神などと、よくも言えたものだ。おまえはただ手っ取りばやく、格好のつく自殺を考えているにすぎない。この弱虫め!)
『やめてくれ!』
 僕は思わず両手で耳を押さえ、そう叫びだしそうな衝動を必死にこらえながら、同時に自分の理性の声の正しさを認めた。その通りだ。こんな浅ましい動機で、殉教者を装い彼岸に行ったとしても、妻や子は決して喜ぶまい。ステラの夫として、クリスの父として、彼らが誇れるように生きなければ。
「弱気になっちゃ駄目だ……」思わずそう自分に呟いてみる。
「強くならなくては……」
 でも、誰のために? 誰のために強くなれる? 自分一人が生きるそのためだけでは、人間は決して強くはなれないかもしれないのに。
 僕は深くため息をついた。これまでの二九年間でもっとも暗く、重苦しい夏が過ぎていこうとしていた。




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