Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第三章  新たな試練 (5)




 翌日、ついにその時が来てしまった。放射線障害で新たに倒れる人たちが、ようやくかなり減ってきて、落ち着いたばかりのアイスキャッスルに、新たな危機が訪れたこと。それも前のように一部の人たちだけのトラブルではなく、全体に降りかかってくる、避難生活存続のピンチ――全員の生命線である食料が切れてしまうということを、みんなに明かさなければならない。そしてその危機を乗り越えるために、一部の人々の犠牲が必要になることも。ここへ来てから何度も難しい局面での呼びかけがあったが、これはその中でももっとも危機的なものかもしれない。
 中央広場には、今ここにいる全員が集まっていた。ここに来た時には人が多すぎて、みな立っているしかなかったが、二割ほど人数が減った今では、座る余裕ができている。相変わらず密度は高く、隣同士身体が触れ合っている状態だが、部屋から持ってきた毛布を下に敷いて、膝を立てて抱えた、いわゆる体育座りのようなポーズで座っていた。
 僕たちは所定の位置に進み、人々を見渡した。エアリィが前に進み出、マイクを取った。そして彼はいきなり告げた。
「今みんなに来てもらったのは、とても重大なことを告白するためなんだ。そしてお願いと。明日で、食料がなくなってしまうんだ」
 人々は一瞬静まり返り、その後、驚きと当惑の声を上げた。
「ごめん、もっと早くに言うべきだったけど。もうここに半年いるから、備蓄が終わってしまうんだ。ここにはもう、食べるものがなくなる。これから僕たちはどうやって生きていくか、選択肢は二つしかないんだ。一つは、空港にある貨物飛行機を使って、他の都市、それも空港があって、近くに倉庫もたくさんあるような大都市……ここだと、トロントかモントリオールになるけど、四時間くらいのフライトだね。そこへ行って、食料を持ってくる。でもどの都市も、外の世界は放射線汚染がひどい。だから、食べ物も多少は汚染されてると思う。でも包装の外側をはずせば、かなり汚染は減るだろう。この地にはもう、きれいな食物なんて存在しないんだ。だけど缶詰や保存食料なら、比較的汚染は少ないはずだよ、中身は。長い間にはだんだん僕らの身体に蓄積されて、やがて障害を引き起こす可能性はあるけれど。でもその間、時間がある。ただ問題は、この方法をとった場合、そこへ行かなければならない人が、必要になることなんだ。それも、一人では無理だ。フォークリフトやトラックを見つけて使っても、飛行機一杯の荷物を積むには、十人で一日がかり……いや、二日くらいかかると思う。それだけ長いこと汚染地にいたら、どうなると思う? トロントもモントリオールも、それにオタワも、春に調査隊の人たちが数値を調べてきてくれた。それから三ヶ月ちょっとしかたっていない。だから、数値はあまり変わらないと思う。つまり……行った人は、死ぬんだ。そして急性放射性障害は、苦しい。楽には……死ねない。最近でも、大勢の被害を出したばかりだけど、たぶんそれより症状は、激しく出るかもしれない」
 彼は目を閉じ、ふっとため息をついた。そして再び目を開け、言葉を継ぐ。
「その人たちはみんなを生かすための、犠牲になってしまうんだ。最後は、苦しんで死ななければならない。一回で十人。それも、一回では終わらない。一回で積んでこられる食料は限りがあるから、せいぜい二週間ちょっとで終わってしまうだろう。だから、繰り返さなければならないんだ」
「いつまで――?」そんな声が、聴衆たちから漏れる
「わからない、それは。でも、希望はあると思う。そう思える根拠はあるんだ。それはあとで話をするよ」エアリィはそう答え、一瞬の沈黙のあと、話を続けた。
「あと、もう一つの選択肢……それは、たぶん察しのいい人は、わかっているよね。ここにある、食べられるもの。それは、そう、言葉に出して言うのもおぞましいけれど、ここで亡くなった人たち。放射線障害で亡くなった人は、汚染の心配があるだろうけれど……漂流船の中とか飢饉とか、生死のぎりぎりに立たされると、そういう選択がとられることもある。人間の尊厳も何も、あったものじゃないかもしれないけれど、自分が生きるための、最終手段……でもね、この道の行き先は、どうなると思う? 考えてみて……気分の悪くなる話だけれど、僕もあえて言いたいことじゃないけど、僕個人としてはそんなこと、絶対いやだけれど、今のところはせいぜい半月くらいしか、その『食料』はもたないよ。これだけの人数がいるんだから。そして人数は減っていく。その分『食料』は増えるかもしれないけれど、それは蛇が自分の尻尾を食っていくのと同じだ。そしてまた冬が来る。時間は巡って行くけれど、救いは来ない。そして……最後にはみんな、いなくなる」
 彼はそこで言葉を止め、目を閉じて、しばらく沈黙した。聴衆たちは目を見開き、身体を震わせて、同じように黙った。あちこちですすり泣きの声が漏れる。
「どっちをとっても、それは絶望の二択に思えるかもしれない……」
 エアリィは目を開け、ゆっくりと言葉を継いだ。
「そして僕たちには、みんなにどちらかを選べと強制する権利もない。みんなの意志に任せるほかに。君たちは思うかもしれない。仮に犠牲的精神を発揮して、全体のために命と引き換えに食糧を供給し続けても、行き着く先は後の道と同じじゃないか、と。でも、違うんだ。どこかに希望はある。さっきも言ったように。僕たちはいずれ、オタワに移住できるはずなんだ。たぶん、シルバースフィア……三年近く前にできたあの特別居住区に、僕たちのうちの五千八百人が移り住むことになるらしい。今ここにいる六千五百人あまりのみんなのうち、七百人が脱落してしまうけれど。その数字はたぶん、最初の手段がとられた場合に犠牲になる人数と、全体的な健康被害、それを足した数なんだと思う。歴史がそうなっているから。僕らは知っているんだ。世界の崩壊を知ってたと同じくらいに」
 そして彼は語りはじめた。十二年近く前の晩秋、初めてのアメリカツアーで、真夜中のハイウェイで不思議な光と出会い、タイムスリップをしたことを。三百年以上先の未来世界を訪れ、そこで世界の終末を知り、再び戻ってきたことを。ほとんど感情を交えずに、淡々とした言葉でそのあらましと、未来世界での経験を語り、最後にこう付け加えた。
「たぶん、みんなは信じられないだろうね。ふざけた話をするんじゃないって、怒る人もいるかもしれない。でもその時の僕らも、本当にそんな気分だったんだ」と。
 人々は黙って聞いていた。彼らの間を支配しているのは不信ではなく、戸惑いと驚きだっただろう。ゆっくり静かに語られる言葉の中にこめられた真実の響きは、誰も否定することの出来ないものだったように思われたからだ。
「その時未来で、核が誘爆した直接原因は何だか聞きました?」
 マスコミ関係の誰かが、そう質問した。
「わからないって言ってた。小惑星が衝突しそうになったことと、核が爆発したことの因果関係は、未来世界でも解けない謎だって。大規模な地殻変動の影響でオートリベンジを起動してしまったとか、降り注いできた宇宙線でコンピュータにバグが入ったとか、それが直接核施設を起爆したとか、いろんな説があるけれど、どれも推測だけで証明されていないって。だから僕らにも原因は知りようがなかったし、それに僕ら自身、その時はまだ半信半疑だった。なにかの間違いか、悪い夢だって思いたかった。だけどみんなに責められても、しょうがないね。僕らにはわかっていたのに、みんなを巻き添えにしてしまったって……こんなひどい目にあわせてしまったって、憤る人がいたとしても、無理もないことだと思う。怒りは遠慮なくぶっつけてほしい。それで気が済むなら」
 彼はここでしばらく言葉を止めた。しかし聴衆は、誰も反駁はしなかったし、怒りの言葉を投げつけるものもいなかった。エアリィはしばらくまわりを静かに見回し、相変わらず押さえた、しかしその中に込められた強い熱意が感じられる口調で、話を続けている。
「だけど僕たちは、みんなをここに連れてこないわけには、いかなかったんだ。僕たちだけでは、未来は築けないから。みんなの力が、どうしても必要だったから。なんでこんな話をしたか、もうひとつの理由がここにあるんだ。未来は存在してるんだよ。僕らみんなから、新しい世界が始まっているんだ。あの時僕らが行った未来世界には、発展した科学と文明の中で幸福に暮らしてる、二万二千人の人たちがいた。その世界ではまた、未来からの訪問者も来たらしくて、五千年先には人口も二億を超えて、宇宙にも飛び出して行くって、そんな話も伝えられていた。もしそれが本当なら、世界はまた、広がっていくんだ。いつかは僕らがよく知ってるかつての世界みたいに、にぎやかな繁栄した世界がくるんだ。その世界は、人類が過去に犯したひどい過ちさえ繰り返されなければ、長い間存続していくことが出来ると思う。僕たちは未来から帰る時、彼らの前で音楽を披露しさえしたんだ。熱心な若者たちがそれを習って、広めてくれるって約束してくれた。そう、科学だけじゃなく、文化もまた広がっていくんだ。世界はまだ死んだわけじゃない。今は夜かもしれないけれど、やがて日は昇るんだ」エアリィはそこで再び言葉を止め、聴衆を見回した。
「でも今は、まだその時期じゃない。今オタワに移ることは、自殺行為だ。今僕たちがここでしなければならないことは、出来るだけ犠牲を最小限にして、生き延びることなんだ」
「でもオタワの放射線量は、そんなに早くは薄まりませんよ」
 マスコミの人々の中から、そんな声が上がった。
「そうだろうね、普通に考えれば。だからこそ、最初に言ったんだ。終わりは見えないって。でも信じるものがあるならば、それは未来の希望しかないんだ。未来で知ったとおりに、世界は本当に終わってしまった。だったら、未来で知ったとおりに、僕らはオタワに行って、生きていられるはずだ。たとえ不可能に見えても。今はそう信じるしかないんだ。そしてともかくその時まで生きていくために、さっき言った二つの選択肢がある。でもたぶん、後のほうをとったんじゃ、無理だと思う。根拠はないけど、そんな気がしてる、僕には。みんなに犠牲を強いることなしに解決できることなら、なんだってしたい。でもそれは、不可能なんだ。強制できることじゃない。みんなにお願いすることも、本当はやりたくない。でも、ほんとうにごめんなさい! 恐れや苦しみを全部理解した上で、それでもみんなのために自分の命を犠牲に出来る人が、誰かいますか?!」
 エアリィはその場に膝をつき、両手もついて、頭を下げた。僕らバンドの残る四人と関係者たちもみな、同じようにした。本当にそれしか、僕らに出来ることはなかった。
 しばらく沈黙があった。やがて聴衆の中から、一人、二人と、声を上げて立ち上がる。全部で二百人あまりの人が、最終的に立ち上がった。そしてなんと僕らの中からも、すくっと立ち上がった人がいた。ロビンだ。
「僕が行くよ、エアリィ……そして、みんな。僕が最初に行く」
「えっ?」僕らはみな、凍りついたように言葉を失った。
 エアリィは跪いた姿勢のまま驚いたようにロビンを振り返り、口を開いた。
「だめだよ……」
 彼はそう言った。しかし、それを声に出すことは出来なかったようだ。エアリィは頭を振り、立ち上がると、みなを見た。そして静かにもう一度、頭を下げた。
「ありがとう……みんな。でも、今の一時の勢いだけで、決めてしまわないで。まだ時間はあるから、よく考えてください。第一会議室の前に、夜の十時に紙を貼るので、それでも決心が変わらない人だけ、そこに名前を書き込んでください。最初の十人の人に、明日の朝、最初の食料調達に行ってもらうことにしますから。本当に……みんな、ありがとう! そして、本当に、ごめんなさい!!」
 集会は終わった。一般の人々は、それぞれの部屋へ帰っていった。僕たちは彼らを見送り、すべての人がいなくなってから、自分たちの部屋に戻った。

「ロビン、まさか本当に行くんじゃないだろうな!」
 部屋に戻るとすぐに、ジョージが詰まったような声で叫んだ。
「うん。僕は本気だよ」ロビンは硬い表情で頷く。
「どうしてだよ……」僕はそれしか言うことができない。
「だって僕は、みんなの中では一番、憂いなく動けるから。それにここでは、僕じゃなきゃ出来ないっていう役割はないから。苦しいことも、帰ってきたら死んでしまうことも覚悟して、それでもみんなのために犠牲になれる。そう、僕はその人になれる。本心から。それにみんなに犠牲を強いるなら、僕らの中からも犠牲を払わないと、フェアじゃないような気がするんだ。それで、僕ら五人の中では、僕が一番身軽なんだよ。愛する人がいるわけじゃないし、未来の希望もない……」
「未来の希望がないなんて、今わかるわけないのに。早いよ、諦めるの」
 エアリィがそう声を上げた。
「うん。たしかにそうだけれど……でもやっぱり僕は、悲観的なのは直らないね」
 ロビンは悲しげな笑みを浮かべる。
「悲観的にも、ほどがあるだろ。わざわざ、おまえが行くことないじゃないか。それがどういうことだか、わかっているだろう?」ジョージが怒ったように言う。
「わざわざ行くことないなんて言ったら、誰も行かなくなるよ。もう一つの選択肢を絶対に避けたいなら、誰かが行かなきゃ。みんなに犠牲を強いるなら、僕らが最初に行動しなきゃ。僕は大丈夫だよ」
 ロビンはそう宣言すると、あとは黙り込んでしまった。固く引き結んだ唇や輝きを帯びた淡褐色の目に、彼の思いがあらわれている。普段は静かでおとなしく、人にたやすく左右されるかのように見えるロビンだが、いったん決意を固めると、誰がどんなことをしてもそれを翻すことは出来ない。僕には良くわかっていた。きっと他のみなもそうだろう。
 僕らは顔を見合わせ、当惑と不安、心配、同情――そんな感情の入り交じった視線を交わした。彼の意志を認めるしかないという、重苦しい決断のうちに。

 夜の十時になって、調達隊を募る紙を会議室のドアに張り出すその前に、ロビンは自分の名前を書き込んだ。【ロバート・テレンス・スタンフォード】と。ドア前に紙を張り出した時、既に一般の人たちが四、五十人ほど、そこにいた。ほとんどが男の人だ。
「力仕事ですからね。男のほうがいいでしょう」
 彼らは一様にそう言い、自分の名前を書き込んだ。そしてロビンを含めた十人が、最初の食料調達隊となった。

 その夜は、なかなか寝つかれなかった。やっと浅い眠りにつき、ふと目が覚めた時は、まだ真夜中だ。僕はがらんとしたベッドの中で寝返りを打った。去年の冬、この部屋に移ってきた時には、ダブルサイズのベッドが家族三人で一杯だった。その後クリスが逝き、ステラが逝って、今は空虚な広がりが、僕を取り巻いている。部屋の人数もだんだんと減っていった。ステラとクリス、ロザモンド、ティアラ、ジョーイ、プリシラ、セーラ、パメラ――さらにもう一人減ろうとしている。僕の子供時代からの親友が。
 深夜の静寂の中、僕はふと目が覚め、起き上がった。隣のベッドにも起き上がっている人影がある。ヘッドボードに頭と背中を寄りかからせて座り、部屋の暗闇を見ているようだ。僕はそっと呼びかけた。
「ロビン……」
 彼ははっとしたような動作で、僕の方を振り返った。
「ジャスティン? 起きてたの?」
「今、目が覚めたんだ」
「そう、僕は眠れなくてね……」
「本当に行く気なのか、おまえ……」
「うん、本気だよ」
「どうしてだ? 誰かが行かなくちゃならないから、なんて言うなよ。それはわかってる。でも、行かずにすませることだって、できたはずだろ」
「そうだろうね。僕が立った時には、もう一般の人、百人くらい立っていたし。十分大丈夫だったと思うよ。でもね……」彼はしばらく黙った後、言葉を続けた。
「やっぱり僕は、どうしても行きたかったんだ。そうすれば、初めてみんなの役に立てる。僕も誇りをもって、夢の中に戻れるよ」
「夢の中?」
「そう、幸せだった時代にね。セーラがいて、希望があって……」
「ここにいるのが、いやになったっていうことか?」
「ここで幸せな人なんか、誰もいないよ」ロビンは首を振り、小さくため息をついた。
「ここは悲しみに満ち溢れているんだ。うれしいことなんか、ただの一つもない。笑いもない。あるのはただ、涙と悲しみだけだよ」
「そうだな。たしかにそうだ。ここは苦難の地だ。ほんとうに地獄だよ。生きる喜びも、何もない。ただその日その日を、生きのびることだけだ。僕ももう全てを失ったし、何のために生きているのかって、疑問に思うこともあるんだ」
「でも、君には希望があるよ、ジャスティン。君は生きのびられるんだ。いいや、生きのびなければいけないんだ。君の娘さんに後を託さないとね。この円を閉じるために」
「娘! 僕の娘だって?! どうやって、そんなものを残せるっていうんだい。ステラは死んでしまったのに」絶望の吐息が漏れ、僕は思わず頭をかきむしった。
「僕にもわからないよ。でも、まだ時の円環は破れていないんだ。もし破綻していたら、僕らはここにこうして存在してはいないはずだから。だからきっと、そのことはまだ未来の事実のはずだよ」
「本当だろうか。僕にはなんだか信じられそうにないよ。SFの理論は詳しくないけれど、タイムシークエンスの絶対性って、そんなに厳密なものなんだろうか。ひょっとしたら、多少の食い違いは起きるかもしれないし、それがいわゆるエンドレスループにはまりこまない限りは、許されてしまうかもしれないって気もするんだ」
「マイナーチェンジはね。でも、この場合は違うと思うよ、ジャスティン。事実と違えば、僕らの記憶も修正されるはずじゃないか。でも、僕の記憶は、まだ変わっていないよ。僕らは未来世界で、君の娘さんが残した手紙を読んだ。この記憶が僕ら全員の中で変わっていないかぎり、それは未来の事実であり続けるんだと思うんだ」
「本当にそうだろうか……」
「そうなんだよ、たぶん。それに、未来世界で会った博士も言っていたじゃない。時空学者の……僕らがこっちで何をしても、現実は動かないはずだって。そうだよ、きっと僕らには何も変えられないんだ。過去も未来も。もうすでに定められているんだ。時の環は、絶対に破れないと思う。だから今、僕たちはここに存在してるんだよ」
 彼はいつになくはっきりした口調でそう主張したあと、再び吐息をついた。
「君が羨ましいよ。君には娘がいる。それは君にとって、未来の希望になるはずだよ、ジャスティン。でも、僕にはそんな希望も支えも、何もないんだ」
「本当におまえは悲観的だよな、ロビン……」僕も思わず深い吐息を漏らした。
「エアリィにもジョージ兄さんにも同じことを言われたけど、君もよく言うよね、ジャスティン。僕は悲観論者だって」彼の言葉には、かすかに自嘲が混じっているようだった。
「でも僕だって、できるだけ希望は持ちたかったよ。それに自分から進んで死にたいわけでもないんだ。昔、自分の愚かさから早まったことをして猛烈に後悔して以来、死ぬことはやっぱり恐いよ。でも、向こうでセーラと一緒になれる。そう思うと、うれしくもあるんだ。それに僕たち、みんな生命に限界があるんだよね。いずれは死ぬんだ。だったら少しでも、みんなのために死にたいって思う。向こうでは、セーラも待っていてくれる。それに僕が死んで悲嘆にくれる人は、誰も残っていないしね」
「ジョージがいるだろ! おまえの兄さんじゃないか。僕だってそうさ。ずっと親友だったじゃないか。エアリィだって、あの時おまえに『だめだ』って言ったぞ。声には出さなかったけれど、はっきり……それに、ミックだってロブだって、おまえを行かせたくないと思っているはずさ。みんな、おまえが好きなんだよ」
「その気持ちは、うれしいよ。本当にみんなの友情は、ありがたく思っているんだ。だけど、僕が言う意味はね、僕が死ぬことで、愛情が引き裂かれるわけじゃないということなんだ。むしろ愛は、もう一回ひとつになれるよ。三ヵ月前にセーラが死んで引き裂かれた、僕らの愛が」
「だけどロビン……今はまだセーラさんをなくして、悲しいかもしれないけれど……僕だってステラをなくしたから、よくわかるよ。でも、いつか悲しみは薄らぐだろうし……」
「君も本当に自信を持ってそう言える、ジャスティン?」
 逆にそう問い返されて、僕は返答できなかった。僕にとっても傷はまだ生々しく、えぐられるように痛い。未来に希望を持とうとか、そういう心境ではないことは、たしかだ。
 ロビンはしばらく黙った後、静かに言葉を継いだ。
「でも、たしかにどんな悲しみだって、時間がたてば癒されるって言うよね。それは本当かもしれない。セーラが死んだ時、本当に耐えられないくらい悲しかったよ。生きていることさえ、堪え難いことだったくらいなんだ。でも今は、心は痛むけれど、あの時ほど鋭い痛みは、あまり感じないんだよ。時々、吹き上がって来そうになるけれど、でも自分でそうなる前に、抑えることができるようになったんだ。ものすごく空虚な寂しさだけは、いつも残っているけれど。たしかに悲しみって、時がたつと生々しさを失っていくんだね。だから、ここにいて、いつかオタワに移って、ずっと生きていたら、また希望も出てくるのかもしれないし、他の人を愛したりする可能性も、あるのかもしれない。でもそう考えるのも、僕はいやなんだ。いつかセーラを亡くした悲しみが、消えるかもしれないって考えることがね。悲しくなくなるかもしれないと思うと、なおさら悲しくなるんだ。変なパラドックスかもしれないけれど。だから僕は、それを断ち切りたいんだ。逃げるわけじゃない。でも、これが僕にとってベストの選択だったと思っているんだ」
 ロビンは暗やみの中から、じっと僕を見つめているようだった。そして静かに続けた。
「君はわかってくれるよね、ジャスティン……」
 僕は返事ができなかった。ロビンはしばらく黙った後、再び話し出している。
「セーラを死なせてしまったのは、僕の罪なんだ。彼女はね、子供が大好きだったから、とても子供を欲しがっていたんだ。以前、不本意な流産があったから、よけいだったんだろうね。僕も妻があまりに熱心に望んでいたから、いらないとは言えなかった。僕自身、自分の子供が欲しかったこともあって……みんなを見ているとね。君のところも、ジョージ兄さんのところも、エアリィのところも、みんな親子仲が良くて、楽しそうで、温かそうで、羨ましかった。『パパ』なんてかわいい声で呼んでくれて、僕を無条件に愛して慕ってくれる、自分の分身である子供がいたら、いいなって。でも、同時に怖かったんだ。きっとそんな子供がいたら、僕も愛しくてたまらなくなる。その子を連れてここに来ることになったら、果たして無事でいてくれるだろうかって、心配でたまらなくなると思うんだ。君たちもきっとみんなその恐れを抱えて、そしてその不安は的中してしまったんだよね」
「ああ……」僕は重い気持ちで頷いた。
「だから僕も、今まで子供ができなかったことも、ある意味よかったのかもしれない、そんなことも思っていたんだ。内心、いくらかほっとしていた部分もあったと思う。だけど……結局、こんな結果になってしまった。不運だったと、思わずにはいられないよ。でも、原因を作ってしまったのは、やっぱり僕なんだ。僕が迷わなかったら、子供はあえて作らなかっただろうと思うし、セーラもまだ生きていたかもしれない。でも僕は希望も持っちゃっていたんだ。仮に子供ができても、大丈夫かもしれないって。ひょっとしたら、世界は滅びないかもしれない。ひょっとして、もしそうなってしまったとしても、セーラも子供も無事かもしれないってね。どうしても、その思いが離れなかった。僕の考えが甘かったんだね」
「そんなことはないよ。誰だってきっとそう思うさ。僕だって次の子供について、やっぱりひどく迷ったけれど、希望も持っていたからね。結局うちはできなかったけれど、結果論だけじゃ、どうこう言えないことだよ。第一、それは善悪の問題じゃないような気がするな。子供を生みたいっていうのは、女性なら持っている本能的な願望の一つだと思うんだ。僕ら男にそれを取り上げる権利なんかないよ」
「そうかもしれないね。僕はあの子が無事に生まれて育ってくれたらって……不安だけど、ずっと祈っていたんだ。セーラが欲しがっていた女の子で、そう……どんな子になったんだろうね。僕はあの子に、セシリアって名前をつけたんだ。セーラと話していたから。男の子だったらセシル、女の子だったらセシリアって。あの子は生まれる前に死んでしまったから、向こうへ行っても会えないのかな。あの『The Abyss in Blue』が本当なら……」
 ロビンは一瞬嗚咽をこらえるように黙った。
「ああ……でも、これもハンプティ・ダンプティだね。一回起こってしまったことは、後でどんなに思っても、とりかえしはつかないんだ。あの時子供が出来なくて、セーラがまだ生きていてくれたら、あの子が無事に生まれてくれたら……それは、もう現実じゃない。ネヴァネヴァランドなんだ。未来世界の博士が言っていたように。だから今は僕に出来る最善のことを、セーラのためにもみんなのためにも、やりたいんだ。そして胸を張って、セーラに会いたい。向こうの世界で」彼は再びため息をつくと、天井を見上げた。
「今夜は眠れそうにないよ。ここでずっと、いろいろなことを考えていたんだ。セーラのこと、バンドのこと、家族のこと、子供の頃のこと……あの世界は、いったいどこに行ってしまったんだろうね。僕たち人類は、どこで道を間違えたんだろう。初めて核兵器が作られた、あの第二次世界大戦以来、この運命は定められていたのかな?」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。わからないな……」
「でも、もしこんな結末にならないで、僕らの世界が続いていたら、どうなっていたんだろうね。問題は山積みされてたけれど……環境汚染、人口問題、エネルギー問題……でも、科学の力で乗り切っていけたのかな。それとも遅かれ早かれ、滅びが訪れたのかな?」
「だんだん環境が崩れて、衰退していって、三十世紀くらいで人間は自然に滅びるって、未来世界でそんなシミュレート結果が出ているって、言っていたっけ。パストレル博士だっけ、時空学者の……あの人が別れる前に、そんなことを。思い出したよ」
「ああ、そうだったね。じゃあ、よかったんだ。地球のためには」
「ガン細胞を切って、生き延びたってわけか?」僕は深いため息をついた。
「人間が地球にとってのガン細胞だったなんて、考えたくはないけれどね」
「でも、その通りかもしれないよ」ロビンは静かな声で、同意している。
「人類が地球にしたことは、なんだった? 水と空気を汚し、大地を切り払い、森を壊し、山を切り崩した。破壊しかしなかったよ。だから、当然の報いだったのかもしれないね。ゴールドマン博士だっけ。あの人も言っていたよね。自業自得だって……」
 ロビンの静かな言葉に込められた、すべてを超越した達観の響きが、かえって僕を悲しくさせる。ただ一つの愛を無くし、生きる喜びをあきらめ、ただみんなのためにその命を捧げようとしている友。その気持ちは僕にもわかる。僕もすべてを失くしたのだから。できることなら、僕もそうしようと思ったくらいだから。でも、そんなに静かなあきらめは、やっぱり悲しい。愛と自己犠牲――彼はそれに殉ずる気なのだ。僕は何も言えず、ただ涙を堪えるだけで精一杯だった。




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