Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第三章  新たな試練 (4)




 ステラが逝ってしまってから一週間後、父が急逝した。夜、診察にいっていた一般グループの部屋から、「ローリングス先生が倒れた!」との報せが入り、母と僕たち兄弟が駆け付けた時には、父はもう人事不省になっていた。そして部屋へ運ばれてまもなく、意識を戻さぬまま帰らぬ人になった。死因は、急性心不全。いわゆる心臓麻痺だ。
「親父、年も考えないで、無理をしすぎたんだよ。ここへ来てからずっと病人がたてこんで、休む暇もなかったものな」
 父を地下の霊安室に安置した時に、ジョセフは沈んだ口調で言った。
「最近、お父さんは体調を崩していたの。心臓が少し悪かったし……わたしは心配していたのよ。でもジョンは、今は自分を必要とする患者がたくさんいるから休めないって、頑張って……」母はハンカチで目を押さえている。
「でも、お父さんは医師としての務めをはたすことが出来て、満足しているはずよ、お母さん。ごらんなさい、こんなに穏やかな顔をしてるわ」
 ジョアンナは父の上に毛布をかぶせる前に、静かな口調で言い、
「そうね……」母も涙ながらに頷いていた。
 父の顔はたしかに安らかで、静穏な表情が浮かんでいた。別人のようにやつれて、十才以上も老けこんだようには見えるが。
 亡き妻が、父の体調を心配していたことを思い出した。『お義父さまはお年なのだし、ここのところずっと無理なさっているから、心配なのよ』と。彼女は病に倒れた後も、夜中には苦しくても、父の手を患わせようとはしなかった。
「父さん……僕は何も気遣ってあげられなくて、ごめんよ……」
 もう遅すぎることはわかっているが、父に詫びたいことはたくさんあった。医師になる道を捨てて自分の夢を追いかけはじめた、十二年前のあの春からずっと。
「僕は本当に、親不孝な息子だった。父さんをがっかりさせたり、心配させたり……迷惑ばかりかけていたね」
「ジャスティン、お父さんはとっくに、あなたのことを理解していたわ」
 母が穏やかに首を振った。「子供はそれぞれの道を行く権利があるのだろうな、親の所有物ではないのだからって――もうあの夏には、そんなことを言っていたもの。本当はジョイスとファーガスンさんを結婚させたことも、ちょっぴり気にしていたのよ。自分の犠牲にしたのではないかって。わたしはそんなことはないって言ったのだけれど。あの娘はあの娘なりに、十分幸せだったのだから」
「うん……」
「僕も医者という仕事があまり好きじゃなくて、自分の好きなことをやっていたんだ。親不孝という点なら、似たりよったりだな」ジョセフが苦笑しながら、僕の肩を叩いた。
「お父さんは自分の代で病院が途切れたら、先代たちに申し訳ないって気にしてたのよ」
 母は寂しげな、愛おしげな微笑を浮かべている。
「親父は婿養子だからな。そういう負い目はあったんだろうけれど……だがあんな大きな病院が、後継者がいなくなったからって、潰れやしないだろう。優秀な医者や経営者はいくらもいるんだし、養子とか結婚とかそういうまだるっこしいことをしなくても、単純にそいつを後釜に据えたってよかったんだ」
「どうしてもダメなら、最終的にはそのつもりだったんですけれどね」
 ジョセフの言葉に、母も同意していた。
「でもお父さんは、最後まで立派な医師だったわ」
 ジョアンナは父の身体にそっと触れながら、静かに言う。
「そうね。ジョンは大病院の院長に納まるよりも、臨床医としての自分に生きがいを感じていた人だから――本望でしょうね。ここへ来てからも、あの人は言っていたわ。ジョイスに頼まれて半ばしぶしぶだったが、ここで少しは医師として役に立てたのなら、良かったと……」母が再び目頭を押さえた。
「そうだね……本当に」
 僕は父に毛布の上からそっと手を触れ、頷いた。こんなに小さく、骨ばっていたのだろうかと、驚きと悲しみを感じながら。
 
 父を安置室に移して部屋に戻る途中、母がため息混じりに言った。
「お父さんは、自分がいなくなった後のことを気にかけていたけれど、今もここのクリニックに来てくださった二人のお医者さまがいらっしゃるし、観客さんの中にもインターンさんが何人かいらっしゃるようだから、それにスタッフの中にも医療トレーナーさんがいらっしゃるし、その人たちが今までのように医療をやっていってくださるでしょう」
「まあ、どの人も父さんほどベテランで、有能ではないけれど……でも、精一杯やってくれているようだ。でも、医者は誰もオーバーワーク気味だな、ここのところ。若いとはいえ、あまり無理をさせると、倒れるかもしれないな」ジョセフが首を捻った。
「申しわけないけれど、夜の診療は応じないことにして、一般のみなさんで、まだインターン前の医学生さんがいらしたら、その方にも手伝ってもらっていくしかないのでしょうね」母はしばらく考えているように少し沈黙したあと、そう提案し、
「そうするしかないか……」と、僕も頷いた。
「しかし親父が死んで、残ってる大人はもう母さんと、あの博士だけになったんだなあ。大臣夫妻も社長さんも、放射能にやられてしまって……親父も、そうなんだろうか」
「わからないわ。でも、ジョセフ、父さんはあの時には外にいなかったし、そもそもあまり外へは出ない人だったから、やっぱり過労なのかもしれないわね」
 母は弱々しくため息をつきながら、首を振る。
「なんとかステュアートさんと協力して、わたしでできることは、やらなければね。でもここの従業員の方たちへの行政指揮は、基本的にはジョージ君やロビン君を通じてやってもらったほうが、良くはないかしら。社長さんの血縁ですものね」
「その方がいいな」僕は再び頷いた。

 なんという暗い、悲惨な春が過ぎていったのだろう。なんという、暗澹たる夏だろう。今では白夜のこの地域なのに、太陽はどこにあるのだろう。たしかにいくらかの光はあるが、どんよりとした厚い雲に覆われ、その姿をはっきり見ることは出来ない。もうすぐ夏なのに、気温は零度から上にあがらない。もうすぐ夏なのに、ひとかけらの希望も見えない。絶望感だけが、日に日につのっていくばかりだ。まもなくここの食料も切れる。その時僕たちは、どうやって生きていけばいいのだろう。

 七月に入って、一週間ほど過ぎたころだった。僕は膝を抱え、ヘッドボードに背中をもたせかけた姿勢で、ぼんやりとベッドの上に座りこんでいた。かつてここに、僕とともにいたステラとクリスは、もういない。今は僕一人だけだ。なぜ、こんなことになってしまったのだろう――最近ではこれが、唯一感じる強い感情だ。
 なぜ――なぜ僕たちが? なぜ僕たちはここにこうしていて、苦難に耐えなければならないのだろう。愛する者たちの死に直面しながら。地獄の炎の海だって、これほどの苦しみはしないかもしれない。僕は向こうみずにもそう思った。ここも一つの地獄なのかもしれない。ここで苦しんで力尽きる人たちにとっては。生き延びるかもしれない人たちにとっても。一瞬の閃光の中で消滅してしまったほうが幸いだったのかもしれない。
 ではなぜ、僕たちはここにこうして生きているのか。明日をも知れない命を。それに、もし幸運にも生命を永らえることが出来ても――ああ、幸運などという言い方は、決して正しくはない――これから先、まだまだ多くの苦難にあうかもしれないものを。未来のために? 未来の新世界を築き、多くの人々を生み出すために? でもそのために、なぜ僕らが苦しみ、犠牲にならなければならないのだろう。僕たちがかつて親しんだ世界は、なんだったのだろう。夢? それとも幻――あれはユートピア? 救いがたい混乱? それでもここよりは、何百万倍も良かった。だが、もう戻っては来ない。数千年の歳月をかけて人類が築いてきたものは、いったい何だったのだろう? こんなに壊れやすく、脆いものだったのだろうか? 人類の文明もその繁栄も、すべて一夜の夢だったのだろうか。
(それでも、おまえは生きていかなければならない)
 内なる声が、突然そう呼びかけたような気がした。
(状況がどんなに困難でも、未来が絶望的であっても、おまえは生きることをやめられない。おまえの心臓が鼓動を続け、血が身体を流れ、おまえが呼吸し、痛みを感じ、渇きや飢えが満たされることを欲し続けるかぎり、おまえは生きていかなければならない)
 非情な声だった。だが、それは冷徹な真実でもある。僕は自分の両手を見つめた。痩せて、かなり血管や皺が浮き出ている。でも、まだ僕の意志で開いたり閉じたりする。自分の両足を見つめた。それはまだ歩いていこうとする。目は見、耳は聞き、肌は感触を確かめる。髭さえのびていく。一週間に一度剃刀を当てるだけでは、かなり見苦しいが、これとて生きている証だ。すべての希望を失っても、僕の身体は生きることをやめられない。ましてや自分から止めることも許されない。強い本能的な力に押され、僕は震えながら立ち上がり、ベッドから出た。何かやろう。何かしなければ。こんなところでぼんやりと座り込んでいては、絶望感だけに支配されて、駄目になってしまう。だが妻も子も失った今、未来の展望など僕には、つらすぎる。なにか目先のこと、他の人たちのこれからのこと――そういったことを考えなければ。

 僕は食料倉庫へ向かった。あまりに多くの人が亡くなったため、三部屋に増えてしまった霊安室の前を断腸の思いで通りすぎ、本来の目的をはたすところ――食料庫の重いドアを開けた。明日の朝の食料を配る準備をしようと。
 がらんとしてだだっ広い部屋に、二千枚の乾パンが入った箱が十八個。スキムミルクの十キロ入り袋が十個入った箱が一つと、ばらで四袋。四百個入りのオイルサーディンの缶詰の箱が十二、ポークビーンズとツナの缶詰も、同じくらいある。そして保存用クラッカーの大きな缶が百個ほど入った箱が五つ――その少なさに、僕は改めてはっとした。これだけだと、せいぜい三日くらいしかもたない。もうこんなに事態が切迫していたなんて、今まで気づかなかった。
 後ろから足音が響き、ドアが開いた。ミックとジョージが入ってきた。やはり準備をしに来たのだろう。エアリィは一般グループの誰かの臨終に行っていて(最後に会いたいという要望が、彼らの間では多かったらしく、彼もまた可能な限りは立ち合いに行っていた)、ロビンはやっと本を読む気力を取り戻してきたところだったので、『そっとしておいた』と、あとでジョージが言っていた。僕らはお互いに顔を見合わせてから、残っているストックを眺めた。
「いよいよ食料が危なくなってきたな」
 ジョージが困惑しきった表情で、口を開いた。
「そうだね。あと三日くらいかな」僕は頷く。
「そうだな。そして問題は、そのあとどうするかだが……」
 ジョージが考え込むようにしながら、ストックの残りを眺め、
「ずっと気にはなっていたんだ、僕も。でも、そのことは部屋へ帰ってから話し合おう。まずは明日朝の準備をしよう」
 ミックが促す。僕たちは作業をし、それが終わると、倉庫を出た。

 ホールの横通路にさしかかった時、僕は立ち止まった。透明な窓部分から、灰色の空が見えた。遠くに、オーロラが揺れて光っている。凶風が到来し、外が危険な世界になってからは、再びここだけが外界との唯一の接点だ。
 ミックとジョージは先に部屋へ向かった。僕はしばらく一人で通路に佇み、透明な幕を通して見える、灰色のスクリーンのような空に浮かぶ虹色のカーテンを見ながら、ぼんやりとしていた。
「ジョン・ローレンスくん」
 その時不意に背後から、はっきりした声で呼びかけられ、僕は思わず飛び上がった。この名前は現役時代、ホテルにチェックインする時に使っていた偽名の一つ、そして未来世界から帰還した後、二週間偽名として使っていたものだ。父の名前ジョン――もっともありふれた名前に、尊敬しているアーノルド・ローレンスさんの苗字(厳密には、彼のミドルネームだが)を組み合わせて作った。ここに来てからすっかり忘れていたのに、不意を討たれて僕は反応してしまった。
 振り向くと、亜麻色の髪を後ろに束ねた、五十がらみの女の人が立っている。たしかマスコミ関係のジャーナリストの一人だ。彼女は微笑んで、言葉をついだ。
「それがあなたの本名、というわけではなかったのね、ジャスティン・ローリングスさん。わたしを覚えている? エリザベス・ターナーよ。もう十二年近く前の秋、あなたをボルチモアまで乗せていったわ」
「え、ええ!?」
 僕は驚きのあまり、思わず相手をまじまじと眺めた。そうだ。かすかに見覚えがある。未来世界のシンプソン女史に似た、あの時の――そうだ、フリーのジャーナリストだと言っていたっけ。でも、ロックは好きではないと言っていたのに。
「あなたがなぜ、こんなところにいるんですか?」
 僕は思わず、そう問い返してしまった。
「わたしは五年前から、ある女性雑誌の専属になったの。あなたたちくらいのスーパーアーティストだったら、一般誌からも取材は行くわ。特にあれだけの話題をまいた、解散コンサートならね」彼女は少し悪戯っぽい笑みをみせた。
「それで、わたしが志願してきたの。五、六年ほど前に、偶然あなたがたの写真を見て、あなたがあの時の男の子にそっくりだって知ってから、俄然興味が出てきてしまったのよ。わたしは人の顔を覚えるのは、得意なのよ。特にヒッチハイクで人を乗せた経験なんて、あなたを含めて二、三回しかないし、乗せる時には危険がないかどうか、じっくり観察しているから、よく覚えているわ。だから、それから詳しく調べてみたの。あの日は、あなたたちはトロントにいるはずで、初めての全米ツアー、初舞台は翌日のフィラデルフィアよね。たしかあの晩は、あなたがたが代役に立つ前、本来のオープニングアクトのバンドが、あの近郊で事故を起こしている。これは単なる偶然の一致なのか。それにしても、なぜトロントにいるべきあなたが、あの朝ボルチモアとフィラデルフィアの間の場所で、ヒッチハイクなんかしていたのか、それも偽名まで使って。それとも、本当にそれは単なる他人の空似だったのか。それがこの数年間、わたしにとっては大きな謎だったのよ」
 僕は彼女の話を聞きながら、狼狽のあまり頭の中が真っ白になってしまったような気がした。まさか、こんなところで再会するとは。うっかり肯定してしまったりして――どう理由をつければいいのだろう。
 彼女は僕の顔を見ながら、話を続けている。
「でもここへ来て、わたしはあの時の子が他人の空似などではなく、あなた本人だという確信を深めたの。それというのも、もう一つおもしろい事実がわかったからなのよ。わたしは自分のグループの人たちと話をしているうちに、エイダ・マーレイという人と知り合いになったの。彼女は三十才で、『ピープル』誌の音楽記者なのよ。彼女と仲良くなって、いろいろな話をしているうちに、彼女にも『本人なのか、他人の空似なのかわからない』疑問があるんだって言っていたわ。わたしと同じ状況で、彼女はお姉さんと一緒に、大学の寮から家に戻る途中で――お祖母さんが病気で、見通しが良くないからと、一日早く帰ってきたようね――ある少女をヒッチハイクで乗せたって言うの。その時は少女だと信じて疑わなかったらしいわ。髪型も服装も女の子のものだったらしいから。ピンクのトレーナーに白いカーディガン、黒いミニスカートをはいて、髪の毛はツインテールの――きらきら光る、とてもきれいなプラチナブロンドの髪と、本当に神話から抜け出してきたような美しい顔立ちで、一度見たら忘れられない、そう言っていたわ。まだ十三、四歳くらいの女の子が、それもものすごく人目を引く可愛い子が、一人でヒッチなんてしていたら危ないと、そう思って、二人はその娘を乗せたのだそうよ。その彼女はアメリー・ステュアートと名乗り、十四歳だと言っていた。ボルチモアの友達のところへ行きたかったけれど、お金がないからヒッチした、と無邪気に言う彼女に、なんて危ない、とお説教したらしいわ。あなたみたいな可愛いきれいな女の子が一人で車を拾うなんて、恐ろしく危ないことよ、と。もう二度としないでね、と言うと、『うん。心配してくれて、ありがとう。これから気をつけて、もうしない』と答えていたらしいわ。それでエイダさんとお姉さんは、わざわざ途中下車してまで、ボルチモアのペン・ステーションまで送っていってあげたって、言っていたの。その子がアーディス・レインさんに瓜二つだったのよ。もっとも彼は男の子だけれど、女の子にも十分見えるし、特に女の子っぽい髪形と体型をカバーするような服装をして、女の子のような喋りをしたら、誰も疑わないでしょうしね。」
「ああ、そう言えば……そうだった」
 僕はあの時の彼の姿を思い出し、思わず頷いてしまった。だが、これでは完全に認めたのも同じだ。まずい! 彼女は話を続けている。
「それで、彼女はその子との出会いがあまりに印象的だったから、あなたがたがその後、世に知られるようになって、すぐに『あ、あの娘にすごく似ている! この子は男の子だけれど、顔も髪の毛もそっくりよ。あの娘はまつげが黒かったけど、明らかにマスカラをつけていたし』と、思ったそうよ。それにエイダは言っていたの。その娘の声も、姿と同じくらい印象的だった。だからアーディスさんのインタビュー映像を見て、ああ、この声だ、と思ったそうよ。彼女の記憶にあるそれは、少しだけトーンを高くしていたようだけれど、同じ響きだと。その認識は、わたしより彼女の方が四年早かったわね。それで彼女、趣味が昂じて音楽記者になったって言っていたけれど。よく聞いてみたら、それがわたしと同じ日なのよ。時間も、二時間弱しか違わないわ。それを知って、わたしたち二人とも考えこんでしまったの。いったいこれは、どういうわけなのかしらって」
 僕は彼女の顔を見つめた。どうやって理由を付けたらいいのだろう。それとも隠さず、本当のことを言った方がいいのだろうか?
「ターナーさん……」僕は辛うじて言葉を絞り出した。
「あの時、僕はたしかにあなたの車に乗せてもらったけれど……でも天に誓って、やましい理由なんかじゃありません。信じてください」
「そうよね。あなたは誠実そうな子だから。あの時、わたしもそう思ったから、あなたを乗せる気になったのだし」
「少し時間をください。ちゃんと本当のことを説明します。あなたにも、それからエアリィを乗せた音楽ジャーナリストの人にも。だけど僕だけの一存では決められないから」
「わかったわ」ターナー女史は頷いた。

 部屋へ帰る途中、僕の頭は混乱していた。あの時ヒッチハイクをして車に乗せてもらった相手と、ここで再会するとは思いもよらなかった。まさか、こんなに世間が狭いなんて。おまけに彼女が、はっきり僕のことを覚えているとは。僕の方は、ほとんど忘れていたのに。さらにエアリィの方にも偶然ヒッチハイク相手が来合わせてしまっていて、二人がお互いの情報をくっつけあっているとなると、もう偶然他人の空似が二つ重なったなどという言いわけが、通用するはずもない。おまけにターナーさんは頭の切れそうな人だ。でも彼女に真実を告げて、納得してくれるだろうか? かりに納得してくれたとしても、他言しないでいてくれるだろうか? 変な尾鰭がついた噂話になって、一般の人たちに広まったりしたら困る。
 部屋にいたのはアデレードとポーリーン、それにエステルだけで、あとは隣の、僕らのグループの集会室にいるようだった。僕もそこへ行き、事の顛末をみなに話した。
「さあ……困ったね」ミックは苦笑して頭を掻いていた。
「おまえ、認めてしまうとは、ドジだなあ」
 ジョージも困惑した顔で、苦笑いしている。
「ええ、ジャスティンの方も来てたんだ?」
 少し前に部屋に戻ってきたらしいエアリィは、驚いたような顔で声を上げていた。
「そうなんだ。おまえは、相手を覚えてるか?」と聞いた後、言わずもがなだったな、と思った。彼には忘れることなど、ありえないからだ。
「ああ。スーザンとエイダ・マーレイさん。でも、あれから十二年たってるし、マスコミの人も大勢いるから、最初はエイダさんに気づかなかったんだ。でも、もうしかしたらそうかな、って、しばらくして思ったけど、知らないふりしてたよ。おまえもとぼけてたらよかったのに、ジャスティン」
「そうできれば、したかったよ。でも不意打ちだったから」
「サプライズに弱いんだなぁ、ジャスティンは。それに正直すぎちゃうし」
「悪かったな! でも実際、本当に弱ったよ。どうすればいいんだろう」
 僕は首を捻り、みんなは一様に考え込んでいるような表情をした。
 そばで僕らの話を聞いていたらしい母が、その時穏やかに口を出した。
「本当のことを全部、話してしまったら?」と。
「彼女たちに?」僕は驚いて問い返した。
「いいえ、その人たちだけではなく、みなさんに。一部に話しただけだと、変形された噂にならないとも限らないわ。情報は正しく、平等にが基本よ」
「私もあなたに賛成だね、ローリングスの奥さん」
 母となにか相談をしていたらしいステュアート博士が、頭を上げた。
「みんなに真実を話すんだ。その上で協力してもらわねばならん。これから状況が厳しくなるだけに、一般の協力は不可欠だ」
「でも協力が必要な時に、かえってそんな話をしては、不利ではありませんか?」
 ロブが気遣わしげに意見している。
「いや、そうは思わない。もしそれが信じてもらえたら、一般の人々にも、希望になりえるはずだ。君たちが私たちに、そう言ったように。ここで全滅するはずがない。未来はつながるのだと信じてもらえたら、幸いじゃないか」
「それはそうだ!」僕たちははっとしたように、お互いに顔を見合わせた。
「わたしたちは今、難しい局面にきているのだと思うわ」
 母は静かな眼差しで、僕らを見た。「もう食料が三日程度で切れるのですもの。ここでそんな空想的な話をするのは、危険な賭けかもしれないけれど、うまく行けば、みなさんに建設的な気分になってもらえるかもしれないわ」
「そうですね……」ミックやロブは頷きながらも、考え込んでいるようだった。
「食料はやっぱり、外から取ってこないといけないのかなあ」
 ジョージがため息とともに、そうもらした。
「それより他に、道はないな」ステュアート博士が短く頷く。
「ほかの都市から調達してくるってこと? だってどこも汚染はひどいし、行ったら、死ぬよ、絶対。おまけに持ってくる食物だって、表面は汚染されてるだろうし」
 エアリィは納得がいかなげな表情だったが、継父は断固としてこう答えた。
「それはそうだ。だが、贅沢は言っていられない。ほかの都市には、トロントにしろモントリオール、オタワにしろ、空港近くに倉庫があるはずだ。そこには空輸するはずの食料がある。なまものは無論駄目だが、保存の効く食料もたくさんあるはずだ。それを持ってくればいいだろう。倉庫には台車もあるだろうし、動くトラックやフォークリフトを見つけられたら、かなり効率的に出来るはずだ。あの時には真夜中近かったから、道はかなりすいていただろう。その間を縫って走ることは可能だ。シェルターや避難拠点もあるはずだから、そこからも保存食を持っても来られる。少なくとも、ここよりは食べ物がふんだんにあるだろう。おまえが言うように表面は汚染されているだろうが、それはいたしかたない。こちらから入れ物を持って行き、箱をほどいて、中身だけを入れれば、かなり汚染は防げるだろう。保存食を入れていた箱が、ここにはふんだんにあるから、それを行きの飛行機に積んでいって、出来るだけ建物の中で詰め替え、ここに運び込むんだ。余裕があれば新しい防御服や薬も、その都度、調達してこられる」
「貨物飛行機にいっぱい積んでくれば、食料は二週間くらいもつのではないかしら。でもね、パイロットさんは、どのくらいいるのかしら。ジョージ君、ロビン君、あなたがたがお父さまから引き継いだ資料の中に書いてない?」
 博士の言葉を受けて、母も頷きながら聞いた。
「待ってください……」ジョージは分厚いファイルを繰った。
「えーと、チャーター機のパイロットが……機長、副操縦士全部入れて……三十二人ですね。客室乗務員が百人くらい、と。あの時、トロント‐アイスキャッスル便は全便ダウンズビューからのチャーターだから、当日に来た飛行機は、次の日の帰りのフライトのために、十六機全部が空港待機だったんで、それで、パイロットもここのホテルにいたんです」
「そうか。かなりいてくれて助かったが、それでもまだまだ数は足りないな。一回につき一人ですめば、それにこしたことはない。機長を勤めた経験がないものは仕方がないが、それ以外なら、助手は一般の人たちで、航空免許を持っているものがいたら、その人に務めてもらうことも可能だろう。そしてパイロットは出来るだけ被曝を避けるために、一般の作業には参加しない。飛行機待機か、防護服を着て建物の中にいるかしてもらおう。しかし……それでも厳しいだろうな。二度目はあまり期待できまい。彼らには気の毒だが……これだけは、どうしても必要な犠牲だな」
「客室乗務員さんにも、一人二人同行してもらった方がいいかもしれないわ。彼ら彼女たちも飛行機のエキスパートですからね」
「それと現地で食料の積みこみをするもの、と。七、八人、いや、十人は必要だな。それも、できれば男の方が望ましい。力仕事だからな」
「そうですね。でも一般の人たちって、女の人の方がかなり多いですよ」
「それでも男も二千人以上いるわけだから、なんとかなる。まずトロントかモントリオールへ行き、食料を積み込んでから、オタワへいったん下りて、放射線の濃度をはかってもらおう。それから帰ってくればいい」
「離着陸が二回は結構たいへんですけれどね。でもオタワは長期戦になるし、人口もほかの二都市より少ないから、そんなに食料備品はないでしょうから、減らさない方がいいでしょう。でも、視察は必要ですしね」
「でも、一般の協力は、どうやって仰げばいいんだろう」
 母と博士の会話を聞きながら、僕はそう問いかけずにはいられなかった。
 二人は僕らの方を見、博士が短い断定的な口調で告げた。
「それは君たちの仕事だろう」と。
「簡単に言わないでほしいな、継父さん。無理だよ。みんなに命を捨ててくれなんて頼めない。食料調達に行ってくれっていうのは、そういうことだから。そんなこと頼める権利は僕らにも、誰にもないんだから!」エアリィは頭を振って、そう抗議している。
「それでは、どうしろというのだ、おまえは?」
 継父の方は厳しい表情で、そう問い返す。
「我々は霞を食べて生きて行くわけには、いかないんだ。食料がなければ、遅かれ早かれ、我々は全滅する。今の段階でオタワに移住など、出来るわけがないからな。それこそ自殺行為だ。だが、ここにはもう食料がない。外から運んでくるのでなければ、あとはもう――霊安室しかないぞ」
 その言葉に、僕はすくみ上がった。人間が人間を食べるなんて、考えただけでも吐き気がしそうだ。さらにステラやクリスのことに考えが及ぶと――愛する妻子が死んだ後さえ安らかに眠れず、ましておや誰かの食料に――そんなことを考えただけで、気が狂いそうだった。僕の愛する家族を犯そうとする奴がいたら、二人を守るために、僕は何をしでかすかわからない。みな一様に青ざめ、気分が悪くなったような顔で沈黙した。
「だからな、アーディス。ここは心を鬼にしなければならないんだ」
 ステュアート博士は少しトーンを落とし、話し続けた。
「全体を生かすための犠牲が、今はどうしても必要なんだ。それも、一人ではない。たぶん数百人単位の犠牲だ。一回では、とうていすまないだろうからな。オタワに脱出できる時までかかる。それがいつになるかわからない。先も見えない。だが、我々みなが生きるために、どうしても必要な犠牲だ。私が行けるものなら、そうしてもいいところだが……」
「ダメだよ、継父さんは!」エアリィは、はじかれたように声を上げた。
「そうですよ。あなたはこれから必要な人間です。どうしても。三賢者なんですから」
 ロブも断固とした様子で、首を振る。
「三賢者?」不思議そうな博士に、僕らはただ、「詳しいことはオタワに行ってから話すつもりなんです。それまで待っていてください」としか言えなかった。
「そうか。まあ、よくわからないが……オタワに行ける日が来ると信じて、今は生き延びることが必要だ。そしてそのためには、犠牲が必要なんだ。おまえがそれを言わなければならない。それがおまえの役目だからな」博士の口調は、相変わらず厳しい。
「うん……」エアリィは床に視線を落とし、頷いていた。
「でも、誰も来なかったら、どうなるんだろう……」
「そういう恐れも、あるだろうな。みんな命は惜しいだろうから」
 博士も厳しい表情を崩さぬまま、同意していた。
「うん、そうだね……仮にそうなっても、それはそれで仕方がない。強制する権利は、僕らにはないし。選ぶのは、みんなだと思う」
「だが、出来るだけそうはならないように持っていくことは、おまえならできると思うが、アーディス。緩やかな自殺を選ぶのか、犠牲の上に生き延びる道を選ぶのか。望ましいのは、明らかに後者だ。その道に持っていかなければ、話をする意味はない」
「本当に難しい役で、申し訳ないんだけれど……」
 母が穏やかな口調で、そう言いたしていた。
「わかった……やってみます」
 エアリィは頭を振り、小さくため息をつくと、立ち上がって部屋に戻っていった。
 僕は思わず深くため息をつき、自分の無力感に耐え切れなくなって、頭を抱えた。僕は何が出来る――? 何も出来ない。一般の人たちに向かって、話をすることも――アイスキャッスルでは特に。部屋を訪れ、個人レベルで話すことは出来るが、全体の統制に関しては、彼らが求めているのは、彼らにとっての教祖であり、心理的リーダーである、アーディス・レインの言葉だ。そして彼はその役目を、完璧に果たしている。そこに僕が入る余地はない。ましてやこんな難しい要請は、なおさらだ。アイスキャッスルの実質的な生活運営も、ステュアート博士と母、ロブとレオナ、ミックとジョージにほとんどまかせきりだ。僕が出来ることは、食料をグループごとに仕分け、渡すことと、部屋を回って、そこの人たちと話すこと、それだけだ。それは、僕でなくても出来ることだ。ここでは自分は、どうしても必要な人間ではない。そんな思いすら湧いてきた。
 それならば、いっそみんなのために、最初の食料調達隊に志願しようか。実際、最初は僕らの誰かが行ったほうが、一般の人たちに弾みがつくだろう。ステュアート博士ですら、言ったではないか。行けるものなら自分で行くが、と。博士はもうかなりの年配だし、未来の三賢者だから、論外だが。でも僕は――僕はここで死んでもいいのだろうか? 未来は狂わないだろうか? 僕には娘が生まれるはずなのに――そんな迷いが、なおしつこく付きまとって離れない。ステラがいなくなってしまった今、それがどんな意味を持つというのだろう。そんなことなど、あるはずがない。それなのに、どうしてもそんな躊躇を捨てきれないのは、死に対する恐れのせいだろうか――。




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