Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第三章  新たな試練 (3)




 全員がドームの中に入り、まだ強い風が吹いている中、ステュアート博士が怪訝そうな顔でドアの外へ出、手を伸ばして、風の吹いている中へ突き出し、測定器を作動させた。
「一応、この風の濃度を測って欲しいんだ、継父さん。ぎりぎり風に当たらないところで、でもその中で」と、継息子に頼まれたからだ。
 ピーとエラー音がした。博士は測定スケールを上げ、もう一度測る。またエラーだ。都合それを三回繰り返し、ようやく出た数値に目を向けると、博士は驚いたようにその目を見開いた。「なんだと?」
 僕らもその数値を見た。それは見間違いかと思うほど、恐ろしく高かった。
「おまえのカンは正しかったようだな、アーディス」博士は掠れた声を出した。
「これはたしかに凶風だ。どこからか、とんでもなく濃い汚染物質を運んできたらしい」
「えっ」僕らはいっせいに絶句した。
「さっき入った全員に、言わなければならないな。服を脱げと。コートとズボンと靴を。それを袋に入れて、外に出さないと。それから、できるだけ速やかにシャワーを浴びる。温度がぬるくとも、まあ、致し方ない。汚染物質を落とさないと、二次汚染を引き起こす。幸い今なら建物の中にいれば、コートがなくとも、なんとかなるだろう。それから部屋の中を拭いて、その雑巾も外へ捨てるんだ」ステュアート博士は重々しい顔でそう告げた。
 僕らバンドの五人は慌てて放送室へ飛んでいくと、その旨を全員に伝えた。ひとしきり大騒ぎののち(外へ出ていた全員が、その時に着ていた服を袋に入れて外へ投げ捨て、シャワーを浴び終わるまで、二時間ほどかかり、さらに大掃除で一時間以上かかった)、僕たちは部屋に戻った。そして食事配りをするまえに、僕を含めたバンドの五人は、第一会議室に行った。そこにはロブと親世代の大人たちがいた。
「とりあえず、みんなの処置は終わったみたいだよ、継父さん」
 エアリィがステュアート博士にそう告げた。
「そうか……それなら、我々が今できることは、とりあえずすんだな」
 博士はそう答えると、ふっとため息を一つつき、言葉を継いだ。
「これからのことは、どうなるかわからんが……」
「たしかにそうだ……影響が出るとしたら、これからだろうから」
 父が重々しい顔で頷く。僕は背中に冷たい戦慄が走るのを感じた。
「つまり、外に出ていた人たちが……」僕は声を詰まらせて聞いた。
「そうだ。もう風は収まったようだし、ついさっき測ってみた数値では、直ちに命にかかわるほどのではなかった。だが、かなり上がっていることはたしかだ。もう外出は禁止にしたほうがいい。しかし、それより一番問題なのは、あの風自体が、相当に汚染が濃かったことだ。致死量かもしれないほどに。幸い、あまり地面に落下せずに通り抜けていったようだが、直撃された人は、線源をまともに吸い込んだことになるからな。ことに今はみな、体力が落ちている」ステュアート博士は真剣な表情で、首を振っていた。
「それなら、今外に出ていた人たちは、どうなるのだろう……」
 ミックが青ざめながら、そう問いかけた。
「運次第だと思う。それに量と、それから時間だ。遠くから戻ってきた人のほうが、そして後から戻った人のほうが、当然のことながら被曝時間は長い。放射性物質は基本的にはまだら汚染だから、濃さは一様ではない。どのくらい濃い汚染源が、どのくらいの密度であったか、それをどのくらい取り込んでしまったか……それはわからないが」
 ステュアート博士が腕を組み、そう答えた。
「そうだったのか……」ストレイツ大臣は、気分が悪くなったように青ざめた。
「私は家内と一緒に、二十分近くも風の中にいてしまった。そんなことを知りもしないで」
「私もだ……」スタンフォード氏も困惑したように呟く。
「この濃さが仮に均一だとすれば、さっさと戻ってきた人は、大丈夫かもしれない。長期的な影響は出るだろうが。どのあたりが分水嶺になるのか、それは私もわからないが、それを超えたらあとは……運だ」
 ステュアート博士は、それから先の説明を控えたようだった。
「お……」
 それに呼応して何か言いかけたストレイツ大臣が、ふと言葉を途切れさせた。ぽたりと鼻血が一滴手の上に落ち、その上からさらに二、三滴降り注ぐ。それを見て、大臣は再び青ざめた。その夫人も、スタンフォード氏も同じように鼻から赤い筋が垂れている。
 その光景に、僕は背筋が冷たくなった。それはジョージやミックも同様だったらしい。僕らは顔を見合わせた。彼らの表情は、祈るようだった。たぶん僕も同じだっただろう。

 アイスキャッスルの扉は、再び閉ざされた。冬の間ずっと閉じ込められていた抑圧感から抜けたいという思いで外に出ていた人々は、ここの外ももはや安全ではないという事実に落胆してはいたようだが、それがもたらす恐怖については、まださほど明確に知らされたわけではない。しかしアイスキャッスルの扉が閉ざされた一週間後に、悪夢は徐々に現実となっていった。あの時広場エリアの奥まで出ていて、二十分以上かけて戻ってきた人たちの中から、そしてストレイツ大臣たちと同じように、建物の中に入って数時間以内に鼻血を出した人たちから、体調不良が出始めたのだ。それは、さまざまな形をとった。発熱、脱毛、嘔吐、下痢といった、四月にマスコミ関係者たちが被爆地に視察に行った後襲われた症状に非常に良く似た、急性――いや、劇症白血病型の人、初めはそれほど激しい症状ではなかったが、突然循環器障害などを起こして急死する人、同じように激しくはない体調不良から、肺炎や呼吸不全を起こして亡くなる人――パターンはさまざまだが、犠牲者の数は、最終的には八百人ほどにのぼった。
 それは僕らのグループにも、かなりの爪あとを残した。最初に倒れたのは、僕の従姉の子供である二二歳のカーラ・パーマーで、彼女は白血病型だった。その後、ストレイツ大臣夫妻が倒れた。そして大臣は心筋感染症で、奥さんの方は肺炎で命を落とした。大臣の死は発病三日目に突然来たが、奥さんの方は二週間持ちこたえた。その闘病中に、彼女の甥でミックの従弟でもあるロドニー・プレスコットが、その二日後には、パメラも倒れた。ロドニーは心臓麻痺に近く、パメラは白血病型だ。そして六月半ば、スタンフォード氏が突然胸の痛みを訴えて倒れた。心臓発作なのかと思ったが、父は診断の結果、大動脈解離だろうと告げた。そしてその夜、スタンフォード氏は亡くなった。みなあの時風に巻き込まれ、二十分以上かかって、中に入った人たちだった。
 アイスキャッスルは再び病魔の巣と化した。死の影が再びドームを覆い、毎週多くの人が力尽きていった。凶風の到来があまりに突然だったため、その時外にいて巻き込まれてしまった二千人近い人にとっては、常に危険と恐怖に背中合わせだ。
 利己的と誹られても、その中で僕が最も心配したのは、ステラのことだった。彼女もあの時、パメラと一緒に外へ出ていた。しかも戻ってきたのは、大臣たちよりも遅い。二人とも鼻血は出していなかったが、一緒に戻ってきたパメラが発病してしまった以上、ステラにもその可能性がないはずはない。運だ、と博士は言ったが、その運が彼女には良いように働いてくれるよう祈るしか、僕に出来ることはなかった。

 最初の兆候が現れたのは、六月半ばのことだった。その朝、部屋の鏡に向かって髪をとかしていたステラが、突然悲鳴を上げた。ブラシを動かした拍子に、髪が大きな束になって抜けてきたのだ。
「どうして、こんなに……?」
 ステラの声は震えていた。茫然としてブラシにからまっている毛束を見つめ、震える指先でとりのけた。鏡を覗き込み、抜けた場所をそっと押さえて呟いている。
「いやだわ……みっともないわ」
「栄養状態が、悪くなっているのかもしれないね。ここの生活も長くなるから」
 僕は自分の声の震えを懸命に静めようとしながら、そんな気休めを言った。
「そうなのかしら……」
 妻は髪の毛を押さえながら、放心したように頷いていた。
「そうだよ。あまり気にしない方がいい」
 のどにこみあげてくる固まりを飲み下しながら、僕は妻の肩を抱いて鏡の前から連れ去った。それから彼女は髪をとかさなくなった。それまで毎日、ブラッシングを欠かしたことがなかったステラなのに。

 その三日後、ついに恐れていた最悪の事態が起きた。夜中に妻の荒い息遺いで目が覚めた僕は、不審に思って手をとった。熱い。僕は驚いて飛び起きた。
「ステラ、ステラ! どうしたんだ!」
 彼女はかすかに目を開き、擦れた声を出した。
「大丈夫よ、ジャスティン。でも……ひどく暑いの。それにのどが乾いて……身体がとてもだるいのよ。本当に、力が抜けてしまったみたいなの」
 僕は洗面所に飛んでいき、水をコップに汲んだ。妻の身体を抱き起こし、支えて水を飲ませる。その身体は、熱にほてって熱い。再び彼女をベッドに横たえた時、僕の手に何か冷たいものが触れた。シーツが濡れている。あわてて懐中電灯を手探りで探し、ベッドの上を照らした。血だ。どす黒い血が、かなり大きなしみになってベッドを濡らしている。僕は一瞬、セーラの最期を思い出した。しかし、これはそれとは違うようだ。
「父さんを呼びにいくよ。待ってて……」
 僕は必死に気を静めようとしながら言った。
「だめよ、ジャスティン。こんな夜中に。お義父さまは……疲れていらっしゃるわ。ここのところ病人がたてこんでいて、休む暇もないんですもの」
 ステラは僕の手を握り、気丈に首を振る。
「でも、緊急のことなんだよ。一刻を争うかもしれない。父さんだって君のことなら、喜んでみてくれるよ」
「いいえ……大丈夫よ。そこまで具合が悪いわけじゃ……ないから。さっきのお水で、少し気分が楽になったわ」
「本当に?」
「ええ。でも、シーツが濡れて気持ちが悪いの。バスタオルを敷いてくれるかしら」
「わかった」僕は言われたとおりにした。
 ステラはタオルで身体を拭いて部屋着に着替え(もともと二泊の予定だったので、ネグリジェは一枚しか持ってきていなかったのだ)、再び横になった。僕の前でも、決して裸になったことはない妻のために、僕は毛布を持ち上げて目隠しを作った。彼女の着替えの時には、いつもそうしていた。
「お腹は痛くないのかい?」
「少し痛いわ。ひょっとして、月のものが来たのかも。ちょっと早いけれど……」
「それならいいんだけれど……」
「大丈夫よ……」妻は気丈にそう繰り返した。
「熱は? 測ってみないと」
「体温計はバッグの中よ」
 測ってみると、摂氏三九度七分だ。
「相当高いよ。本当に大丈夫かい?」
「大丈夫よ。まだバッグの中にアスピリンがあるの。それを飲んで寝るわ」
 ステラのバッグのポケットにあったピルケースには、数錠のアスピリンが入っていた。頭痛や風邪の時の用心にと、少し持ち込んできたのだろう。僕は薬と水を運んできてから、汚れたネグリジェを洗うために洗面所に行った。バスルームに干し、戻ってきた時には、ステラは眠っていた。枕元には空になったコップが置いてあり、薬はなくなっている。
 僕もコップを片づけ、もう一度ベッドにもぐりこんだが、もう眠れなかった。心配が黒い雲のように、湧き起こってきた。たしかに生命にかかわるような緊急の症状ではないようだから、父を起こしにいく必要はない。妻が心配したように、父はここの所ハードワークでかなりまいっていて、本人も倒れる寸前という印象があるのは、たしかなのだ。なんといっても六四才なのだし、出来ることなら僕だって無理はさせたくない。
 だが、確かめたくてたまらなかった。ステラが本当に環境の変化で疲れて体調を崩しただけなのか、それともパメラたちのように、放射線障害を起こしたのか。あの時、かなりあの凶風に当たってしまったから――その可能性は、出来るだけ考えたくなかった。そんなことは、信じたくない。朝になったら、一番に父に尋ねてみよう。そう思いながら、目を開いたまま、僕はベッドに横たわっていた。
 傍らに寝ている妻の眠りは浅いらしく、時折小さく声を出し、ため息をつく。その苦しそうな息遣いと、熱い身体が気にかかる。朝はなかなかやってこなかった。これほど時間がたつのが遅く、もどかしく感じられたことはかつてないほどだ。
 
 やっと朝が訪れ、父が診察にきてくれた。
「三九度台後半の熱に脱毛、断続的な出血……今朝から嘔吐と下痢も始まったか。感心せんな、ジャスティン。ステラさんは……たしか、あの急激に外の汚染濃度が上がった時に、外へ出ていたんだったな」
「ああ……」頷きながら、背筋に冷たい衝撃が走り抜けた。
「戻ってくるまでに、どのくらいかかったか覚えているか?」
「よくわからないけれど……二十分、くらいだったかもしれない」
「そうか……」父は難しい顔をして考え込んでいるようだった。
「二十分だと……発病率は百パーセントだ。今のところ。だからこれはやはり、あの風の影響なんだろう。七、八分での発病例もあるからな。最近は外気温も上がってきて、しかも午後の一番たくさん人が出ていた時だったのが、不運だった。二千人近くもいたというのが。今のところ、発病ボーダーは十分台前半くらい。そして生死の分水嶺が……人にもよるし、数値にもばらつきがあるが、だいたい十五分前後……そんな感じなんだ」
「父さん!」僕は思わず父にすがりついた。
「ステラは助かる?」
 父は相変わらず難しい表情を崩さなかった。かすかに頭を振り、静かに答える。
「今のところ二十分を超えて中に入った人はすべて発病し、しかも回復していない。それは、分水嶺を超えた数字なんだ、ジャスティン。見たところステラさんの病状は、進行の早い急性白血病のような症状だ。もし設備が整った病院なら、放射性障害の専門的な集中治療が出来、骨髄移植などの手段も使えたなら、ひどい被曝障害でも治る可能性はある。しかし、ここでは無理だ。ことに今は、みな体力が衰えているからな。どのくらい持つかは残された体力次第だが、もう回復は難しいだろう」
 僕は言葉を失い、ただ父の顔を見つめていた。もとは白髪がちらほら混じっている程度だった髪がいつのまにか真っ白になり、痩せて土気色の肌に皺が二倍くらい増えた父の顔を。父さんはたしかに疲れているな――そんな思いがぼんやりと浮かんだ。ほかには考えられなかった。妻が助からないかもしれないなどとは、思いにものせたくない。
「つらいだろうが、気をしっかり持て、ジャスティン」
 父が僕の肩を掴んで、そう言っている。
「ステラさんは、これからが苦しい時期だ。おまえがしっかり支えてやらなくて、どうする。おまえも男なら、しゃんとするんだ」
「ああ……」その言葉に、僕はぼんやりと頷くことしか出来なかった。

 それからの二週間あまりは、悪夢のようだった。ステラの病状は一進一退を繰り返しながらも、確実に悪くなっていく。子供たちの時とは違い、みな自分たちのベッドの上で闘病していたので、場所の移動はない。そのダブルベッドの傍らに置いたスツールに僕は座り、妻を見守っていた。「あなたも寝ないと」とステラは何度も言ったが、その間、僕は自分のベッド、妻の隣に寝ることはなかった。眠りたくなかった。少しでもステラを見ていたかった。生理現象に逆らえず、眠さに耐えきれない時には、座ったまま眠った。でも時々、熟睡しすぎてか、ベッドの上にうつ伏せになった状態で目が覚めることもある。「あ、ごめんよ。重かったかい?」慌てて身体を起こすと、ステラは弱々しく微笑み、答えていた。「大丈夫よ……あなたが眠れてよかったわ、ジャスティン」と。僕はそのたびに大きな塊で咽喉をふさがれたようになり、涙をこらえるのに非常に苦労した。
ステラも僕を心配させないようにと思っているのだろう。症状がひどい時以外、苦しみや痛みを訴えることはなかった。でも一週間近くたつ頃には、ひどくなっていく症状に、時おり苦しそうなうめき声を上げ、さらに数日がたつと、うとうとと眠りがちになった。ブロンドの巻き毛はほとんど抜け落ち、そのかわりに白いニットの帽子をかぶっている。かつてはふっくらしていた頬も、げっそり落ち窪んでしまった。赤かった唇も色を失い、肌の色もすっかり血の気が失せ、青白いのを通り超して、生気のない土気色になってしまっている。彼女の愛らしさは失われてしまったが、そんなことは問題ではなかった。十二年以上もの間、ステラは僕にとって自分自身の一部だった。いろいろなトラブルに見舞われて心が離れかけた時期もあったけれど、それでも魂同士が呼び会うような深いつながりが、僕らの間にはいつもあったと感じていた。彼女を失うかもしれないと考えることすら、とても耐えられない。
 急死に近い亡くなり方をした大臣とスタンフォード氏、ミックの従兄弟ロドニー、そして緩やかに衰弱していったストレイツ夫人以外は、みな同じように厳しい症状に見舞われているようだった。そして妻を見守っていた間に、以前に同じ型を発症した人たちが、次々と力尽きていった。まず僕の従姉の子カーラが、さらにその五日後に、ついパメラも力尽きた。彼女は同じ部屋にいたので(反対側のベッド区画だが)、僕はその臨終のさまを聞いていた。ジョージの狂気のように悲痛な叫びも。
「パム! パム! 頼むよ! 俺を置いてかないでくれ! 俺にはもう、おまえしかいなんだよ! パム! お願いだ! 死ぬなよー!!」
 苦痛に満ちた悲嘆の叫びを聞きながら、僕は涙を流し、そして同じ言葉を心の中で叫んでいた。ステラ! 僕を置いていかないでくれ、生きてくれ! と。必死になって祈った。ああ、クリスの時と同じだ。生命のために戦っている愛する人を、ただじっと見守っていることしか出来ない。その手を取り、励ましてやることしか。僕には何も――何も出来ない。悔しく、情けなかった。つくづく自分が無力だと痛感しないわけにはいかない。
 外が危険になるかもしれない――それを僕は、考えもしなかった。エアリィが『アイスキャッスルのバリアが切れるのは、いつなんだろう』と言い出すまで。彼はコンピュータと同じで、一度見たものや聞いたものは確実に記憶され、そして消えない。それゆえに覚えていたのだろうが、僕もかなり記憶力には自信があったほうなのに、すっかり忘れていた。いつ外の汚染が流れ込んでくるかもしれない、そんな状態で、でもこれほど激しい凶風が、突然吹いてくるとは思わなかった。
 あの時、エアリィが呼び戻してくれたのは、たしかにありがたいことだ。彼の天性のカン、もしくは『知識』が、少なくとも建物の周りや遊園地エリアのこちら半分にいて、十二、三分以内に戻ってこられた人たちの命を救ったのだから。でも、それより遠くに行っていた人たちは、救えなかった。それも運命なのか――あの時、パメラとステラが外へ出て、アデレードとポーリーンは残った。アデレードは昔の縫い子時代の技術を生かして、着古して穴が開いてしまった衣類の補修を引き受けていた。その作業が忙しく、『これが終わったら、後から行くわ』と言ったらしい。エステルも義姉の作業を手伝って、つぎあての布を切ったり、針に糸を通したり、ごみをまとめたりしていた。
『エステルちゃんも疲れたでしょう。一段落したら、一緒に出ましょうね』
 そうアデレードは言っていたらしい。そしてポーリーンは読書家で、アイスキャッスルの書店にあった本を読んでいる途中で、しかも佳境だったらしい。それで、あとから行くと告げた。しかし、まだ彼女たちが外へ出ないうちに、風が吹いた。父は診療で忙しく、母は父の患者名簿――カルテを整理してノートに書いていた。ステュアート博士とアランさんは元々あまり外には出ない人で、あの時も二人は部屋で、コンピュータに関する難しい議論をしていたという。僕たちバンドの五人は夕食配りの準備をし、それが終わったところだった。そしてステラとパメラはあの時、広場エリアのさらに奥、ラストコンサートでバックステージがあったエリアまで行っていたらしい。かつて無邪気にそこで遊んでいた子供たちを追想するために。
 あの時、中にいた人、外に出た人――外にいた人たちのうち、遠くにいた人、近くにいた人。それはすべて運命なのだろうか。そうは思っても、なんの気休めにもならない。運命を恨むことは無為だが、やり場のない憤りを感じた。焦りともどかしさ、無力感に打ち拉がれながら、二年にも思えた長い長い二週間が過ぎていった。

 六月終わりの夕方だった。ステラは深い眠りから覚め、小さなため息を一つすると、擦れた声で僕の名を呼んだ。
「ジャスティン……」
「なんだい、ステラ」僕は妻の上に屈みこんだ。
「わたし……ひどい顔になったと思うの……恥ずかしいわ……」
 彼女はすっかり細くなった手を顔の上に差し上げながら、そう呟いている。
「そんなことはないよ」僕は彼女の手を取り、その目を見つめた。
「君の目はきれいだよ、ステラ。青い海のようだよ。その目だけは変わらないね」
「わたしが……こんなに、醜くなっても……あなたはわたしを……まだ愛してくれる?」
「あたりまえさ。それに、すぐ元どおりの君に戻るよ。髪の毛もまた生えるだろうし、頬もふっくらしてくる。大丈夫だよ。すぐ元気になれるから」
 そう言うのは、ひどくつらかった。普通に話そうとしても声がつまりがちになって、どうしても震えてしまう。ステラはしばらく僕を見つめ、小さな声で言った。
「ジャスティン……わたしに……キスして」
 ああ――慎み深いステラは、今まで自らそんなことを口にしたことはなかった。でも今、彼女は僕を、僕の愛を求めている――。
「愛してるよ、ステラ」我知らず涙があふれてきた。
「君がどんなになっても、僕は君を愛してるよ。僕はずっと、君の傍にいたい。だから、ずっと……僕の傍に、いておくれ」僕は思いのありったけをこめて、妻の唇に接吻した。
「ありがとう……」ステラは呟いた。
「今まで……ありがとう、ジャスティン……愛してる、わ……いつまでも……」
「ステラ!」僕は折れそうに細くなった妻の手を握りしめた。もう耐えられなかった。
「僕も君を愛してる。ずっと、ずっと、これからも……だから、これからも、僕と一緒にいてくれ、ずっと! 僕を残していかないでくれ、お願いだ!」
 ステラはかすかに微笑み、僕の手を弱々しく握った。何か言いたいように唇をかすかに動かしている。しかし、もう声にも言葉にもならなかった。彼女は目を閉じ、息を吐き出した。眠ってしまったように、静かな呼吸――。
 どのくらいの時間が経ったか、わからない。やがて、死の静寂が訪れた。呼吸の音が途絶え、僕の手の中で、妻のかぼそい指がゆるんで落ちた。
 その瞬間、すべての世界が空白になってしまったように思えた。涙も声も出なかった。何も感じられない。全身が激しく震え出す。最愛の妻が――僕を愛し、支えてくれたかけがえのない伴侶が、この世から奪い去られてしまった。
 ステラは静かな表情で眠っている。その顔に昔の屈託のなかった乙女の面影は、どこにも残っていない。かわりに悲しみと忍従とやすらぎが支配していた。折れそうなほど細くなった手足、すっかりふくらみの落ちてしまった頬、ニット帽から出ている、わずかばかりの金髪――外見と同じく、彼女の人生はここに来た時から大きく変わってしまった。
 名状しがたい強い感情が、胸に込み上げてきた。悲しみと憤りと、無念さと悔恨の思い――妻をこんなに変えてしまったのは、僕のせいなのか、運命のせいなのか――感情が暴発するのを感じた。
「わああ!!」
 激しい叫びが、口をついてあふれて来た。叫びとともに、涙がどっと吹き出てくる。僕はベッドのヘッドボードに頭や手を打ち付けながら、叫び続けた。頭から血が流れる感触を感じたが、それでも止まらない。部屋にいたバンドのみなやロブが駆けよってきて、僕の身体を押さえ、口々になんとか僕の気を静めさせようとしているのはわかったが、僕はみなを振り飛ばそうとした。狂気のような叫びを止めることも出来なかった。悲しみの堰は止まらない。自分の中で荒れ狂う感情をどう処理していいかわからず、僕はただ気が狂ったように叫び続けた。生きる希望もすべての喜びも、妻の死と一緒に潰えてしまったように思えた。これから僕はこの灰色の牢獄の中で、たった一人でどうやって生きていけばいいのだろう。

 ステラはクリスと同じベッドに寝かされた。二人の手を軽く重ね合わせて。クリスも母に会えて、きっと喜んでいることだろう。ステラも息子のことをずっと気にかけていたから、今ごろほっとしているかもしれない。でも、僕にはいったい何が残っているのだろう。妻と息子を奪われて――。もちろん両親や兄弟、それに友たちがいる。彼らの存在は、大きな慰めには違いない。でも僕が作り上げた家族は、もういない。まるで錨のなくなった船のように、心は悲しみと絶望の海をさまよい続けている。
「ごめんよ、ステラ……」
 僕は妻の亡骸にすがって、幾度もそう呟いた。隣にいるわが子にも、同じ言葉を繰り返す。こんなところに眠り続けなければならないなんて。ちゃんと墓を建ててやることも出来ず、土に返してやることもできないなんて。二人の魂は天国にいて、幸せに暮らしていることだろうと、思ってはいても。
 死の部屋を離れる前に、妻子の眠るベッドの傍らにひざまずき、僕は長い間祈った。彼らの魂の平安を、安らかな眠りを。悲しみが青く鋭い炎の刃のように、心を焦がしている。その痛みは激しく、とても我慢が出来ないほどだ。僕は一心に祈ることで、痛みを忘れようとした。クリスが逝ってしまった時、そうしたように。だが、無心に祈ることは難しかった。痛みや苦悩が反逆を起こし、感情が造反する。
 僕はいつのまにか、自分に向かって問いかけていた。ステラやクリスをここに連れてきたことは、正しかったのだろうかと。一瞬に訪れる死よりも、長く続く苦しみの方が、はるかに堪え難いものだろうに。それは僕の家族だけではなく、ここで亡くなった人たち、みんなに言える疑問だ。でも、その質問に答えを出すことは出来なかった。あの時の僕には、他の選択は考えられなかった。それに、こんな結果を百パーセント予知していたわけではない。僕には未来はわからないのだから。
 僕に未来が見えたらよかったのに――僕はこの時、痛切にそう思った。わかっていたら、わかっていたら――僕は二人をトロントに置いてきただろうか? 
 そこまで思った時、急にはっとした。わかってはいても、置いてはこられなかっただろう。遠く離れた故郷で妻子が一瞬で命を奪われたとわかっていたら、僕は最初から生きる希望も持てなかっただろう。最初から別れ別れなんて、考えただけでもたまらない。ここで一緒に何か月かを過ごせたことは、たとえこんな結果に終わったとしても、消えない記憶、経験なのだ。
 僕はゆっくりと立ち上がった。妻と子の眠るベッドの柵に両手をかけ、頭をたれて二人に呼び掛けた。もう決して届かない言葉を。
 ステラ、クリス――安らかにお眠り。僕を許してほしい。僕は君たちと一緒に、新世界の夜明けに立てるかもしれないというわずかな希望のために、ここに連れてきてしまった。許しておくれ。僕は良い夫とも良い父親とも言えなかった。それでも、いつも僕を支えてきてくれたね。本当にありがとう。僕は君たち二人を愛していたよ。僕の心の支えだったんだ。今までありがとう。天国で幸せに暮らしておくれ。時がたって僕がそこへ行ったら、またみんなで一緒に暮らそう。そして再び生まれ変わったら、またどこかで巡り合おう――。それが今の僕の、唯一の慰めであり、希望だった。細く頼りない糸のような、つかもうとすると、はかなく消えてしまうものだったが。でもその糸にすがらなければ、僕は絶望の中に、どこまでも深く沈んでいってしまいそうな気がした。




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