Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第三章  新たな試練 (2)




 翌日、僕らはその困難な作業を実行に移した。心は最高に重かったが、とにかくやらなければならない。一般の人たちの希望を打ち砕き、悲嘆に落とし、それでもなおかつここで生きていく気力を持てということがどれほど難しいことか、わかりすぎるほどわかっていたから。
 冬を生き残った七千人あまりの避難民全員をホールに集め、視察隊が撮影してきた膨大な映像記録を、スクリーンに映してみせた。非情な映像に簡単なコメントを付けて、次々にシーンが移り変わる。最初はトロント。比較的建物はそのままあるが、ところどころ崩れ、折れたCNタワーが、まわりの建物を押しつぶしている。人の影はまったくなく、道路には干からびた死体が所々倒れている。当時は深夜に近かったので、人はあまり外には出ていなかったのだろう。次にデトロイト、シカゴ、モントリオール。どこも同じような廃墟の映像が続く。水没したニューヨーク、ロサンゼルス。荒れ果てた大地、生き物の存在しない静寂の街、もの言わぬ灰――アメリカ大陸が終わると、今度はヨーロッパへ。ロンドン、パリ、ローマ、マドリード、ミュンヘン、ベルリン、モスクワ。一面の死の大地。
 人々は最初、声を出すこともできない様子で、ただ映像を見つめていた。目を見開き、震え、最後には泣き出している。絶望の涙が重苦しい沈黙に変わるまでの長い長い間、僕らはただじっと見守っているだけだった。
「いい報告が出来なくて、ごめん。本当に、最悪の結果だね……」
 やがてエアリィが沈黙を破って、静かに口を開いた。
「この映像を撮ってきてくれた視察隊の人たちも、みんな亡くなってしまった。防護服を付けていたのに、それでもみんな死んでしまったんだ。外の世界はまだ、どこも人間の生きられる状態じゃないことがわかったから……僕らはここから、どこにも行けない。これが僕たちのいる現実なんだ」
 彼はスクリーンをぱちっと止め、あいかわらず感情を押さえた声で続ける。
「僕たちはここで、孤立無援で、帰るべきところも、もうなくなってしまっている。この現実は逃げられないんだ。じゃあ、どうしたらいいのか……そう、答えは一つしかない。僕らはまだ、ここで生きて行くしかないんだ。終わりは見えない。だからみんな、この事実を受け止めて、ここで生きて行くために、どうしたらいいか、一人ひとりが考えてほしい。ごめん、本当に他には何も言えない。希望がなくなったように見えても、どこかに希望を見つけて、生きられるように。みんな、強くなって。そのために、絶望の中から希望を見つけられる人になってほしい。それしか僕には言えない。ごめん……」
 エアリィはふっとため息をつき、聴衆たちを見た。そしてくるりと踵を返して、その場からホテルへと、歩いていってしまった。おそらくそれは彼がここでした、最短のスピーチだろう。もっと何かを――前向きな言葉や励ましを期待していた僕は、いささか慌てて後を追った。それは他の三人も、同じだったようだ。
「おまえ、あれじゃ投げっぱなしにならないか? みんな、それでなくとも混乱しているんだぞ」僕は思わず少し非難するように、そう言ってしまった。
「だって、彼らに投げるしかないじゃないか、この状態じゃ」
 エアリィは首を振り、真っすぐに僕を見返した。
「みんなが何を期待してるかは、知ってる。慰めとか、励まし、それに希望なんだろうけど、でもあの状態で、どんな慰めが言える? 励ましや慰めなんて、白々しく響くだけで、みんなの心には入っていけやしない。今の状態で、その余地はないし、僕にも出来ない。それにこれからは、もっとみんな強くならなきゃ、やっていかれないと思う。自分で立ち上がれなきゃ、自分で希望を見付けられる人間じゃなきゃ、生き抜いていけない。そのくらい、今の状況は重いんだ。それは僕ら、みんなそうさ」
 僕は困惑しながらも、彼の理を認めざるをえなかった。他の三人も、同様だっただろう。たしかにそうなのかもしれない。悲しみ、混乱し、絶望に沈んでいる人々に救いの手を差し伸べることができれば――それは人間の情として、至極当然な願いだ。でも、この圧倒的な現実の厳しさと冷酷さの前に、どんな慰めが言えるだろう。その困難さは僕らだってわかっているはずだった。慰めも励ましも大きすぎる絶望の前に押しつぶされる時、本当に頼りになるのは自分自身だということを、学ばなければならないのだろう。それは困難すぎる戦いだということは、わかってはいても。

 そのあとの一週間ほどは、アイスキャッスルに、大きな抑うつの波がかぶさったようだった。食事配りの時に来る人たちも、うつろな、または泣き腫らした目をし、何か言っても、言葉少なに頷くだけだ。施設全体が外の世界のようにしんと静まり返り、すすり泣きの声や、時折上がるヒステリックな叫び――「こんなところに来なければよかった!」「世界の終わりに、一緒に死んだ方がよかったのに」そんな絶望の叫びの他は、何も聞こえない。しかし、やがてその中から変化が現われ始めた。
(こんなことをしていても、仕方がない。とにかく、ここで暮らすしかないんだ)
 そんなあきらめにも似た認識が、人々に芽生えてきたのだろう。アイスキャッスルには再び、人々の話し声が聞こえるようになった。食事配りの時、「そうですね。強くなります。出来るだけここで頑張ってみます」と、僕らに言ってくる人も増えた。

 五月になるころには、アイスキャッスルの人々は諦めのうちに、冬のころと同じような生活に戻ったようだった。いや、身も凍るような寒さがない分、冬よりも活動的になっているようだ。部屋を掃除したり、部屋の中でトランプゲームをしたりする姿も、よく見るようになった。時には笑い声さえ聞こえるようになった。
 五月初めのある日、スタンフォード氏が苦笑しながらこう言ったものだ。
「ようやく、静かな嵐が収まったようだな。よかったよ」
「人間、絶望が底を打つと、今度は自然に気持ちが上向いてくるんですね」
 ロブがうっすらと微笑し、そして言葉を継いでいた。
「そこが我々人間の素晴らしいところかも知れませんよ。いつまでも絶望の中に沈んではいられなくなるのですから」
「本当に、人間って不思議だね」ロビンが考え込むように口を開いた。
「悲しくても、絶望しきっていても、未来に何の希望もなく思えても、生きることをやめられないんだ。積極的に止めるには、それ以上に勇気がいるし、たいていの人は止められない。心は死んじゃいたいと思っても、身体は生きていこうとするんだ」
「それだからこそ、こんな状況でも生き延びられるのかもしれないね」
 ミックが悟りの境地のような表情で、ふっと息をつき、続ける。
「でも、僕は少し気が引けているんだ。僕は今まで、何も失っていないし……」
「そういう点は、僕もそうだ」ロブが頷き、そして続ける。
「だが、それが幸運なのか不運なのか、誰にも言えない問題だし、だから人の痛みがわからないというものでもない。それにこれから先のことは、わからないんだからな」
「そうだね……」僕らはみな、頷いていた。
 行く先の見えない船は進む。七千百人の乗組員を乗せて。誰も船から下りることはできない。状況の本当の困難さは、まだ一般の人たちには報せていない。どこから見ても絶望的な状況の中、唯一の希望は、十二年近く前に訪れた未来世界での記述――五千八百人は生きてオタワに行けるという、その“事実”を信じることだけなのだ。世界の終わりだけが真実だなんて、そんなはずがあるわけはない。たとえ奇跡が起きることしか助かる道がないにしても、僕らはその奇跡を待ち続けるしかないのだ。希望を失わず、生きる意志を持ち続けて。

 時間はゆっくりと過ぎていき、五月半ばを過ぎたころ、ようやく本当の春がやってきた。今にも消えそうなほど頼りない太陽だが、ともかく昼間は日の光が戻り、気温も氷点下一桁程度に回復している。本来なら北極圏の短い夏の始まりを告げるこの季節は、もう少し日照も強く、気温も零度以上に上がるはずなのだが、今の状態ではこれ以上は望めない。あの運命の日から、半年以上が過ぎたことになる。だが、この氷の牢獄に閉じこめられた、厳寒の中での六ヵ月は、まるで六十年のようにすら僕には感じられた。
 そして今――季節は春になっても、アイスキャッスルは依然として氷の牢獄。出ることの叶わない、世界中で唯一、人間が生きていられる場所なのだ。出口の見えない不安と戦いながら、僕らはそれでも生きていく。今のところは食料もある。冬のあいだ猛威をふるい、多くの貴重な生命を奪った病魔も、春の訪れとともに勢いをなくしつつある。長い避難生活は確実にみんなの体力を奪い続けるだろうけれど、少なくとも身体の芯まで凍るような厳しい寒さは、もうない。暖房は順調に稼働し続け、室内気温は朝晩ずっと摂氏十度前後を維持できているし、十日に一度くらいはシャワーを浴びる余裕も出来た。洗濯物もようやくまともに乾くようになった。五月半ばには全員総出の徹底清掃が行われ、ホテルの部屋からホール、廊下に至るまできれいに拭き清め、薄い消毒薬がまかれた。環境はかなり改善された。食料が夏までで切れるという問題さえなかったら、僕らはここで暮らしていけるだろう。

 五月下旬のある日、一般グループの慰問を終えて帰って来た僕は、部屋に妻がいないことに気がついた。最近ステラはあまり部屋にいないと他の奥さんたちが言っていたことを思い出し、少し気にかかったが、ジョセフとジョアンナがちょうど来たので、僕は兄姉にスツールをとってくると、自分はベッドの端に腰かけ、話しながら妻を待っていた。
 一時間ほどたって、ステラが帰ってきた。コートの上から色褪せた金茶色の毛布を、頭からすっぽり被っている。僕は振り向いて尋ねた。
「どこへ行っていたんだい、ステラ?」
「外の空気を吸いに行っていたの」彼女は心持ち頬を紅潮させながら答え、コートを脱いでベッドの上に置くと、毛布を身体に巻き付け、僕の隣に腰を下ろした。
「そう。だけど、まだ外は寒くないかい?」
「ええ。でも、冬の部屋の中と、あまり変わらないわ」
「最近、外へ出ている人が多いわね」と、ジョアンナが頷き、 
「部屋の中じゃ、気が滅入るんだろうさ」ジョセフが伸びをしながら言った。
「まあ、閉所恐怖症の奴には、ずっとこの中というのはきついだろうが、冬で慣れてもいるだろうしな。まあ、時々は外へ行くのもたしかに気分転換にはなるが、多少気も滅入るな。どこまでも氷の世界が広がっていて、出られないって点じゃ、ここだって外だって変わりはしない」
「でも、外の方が、開放感がありますわ」
 ステラは弱々しく微笑みながら、小さくそう答えた。
「灰色の空じゃね。たしかに外も巨大なドームみたいだよ。空気はいくぶん、気持ちいいけどね。でも……」僕は言いかけ、
「もっと遠くへ行きたい、だろ。いつになったらここから出られるのだろうと、思ってしまうと」兄がそう引き取った。
「うん……」僕はため息とともに頷いた。
 ステラも小さくため息をついた。彼女は僕たちの話にあまり加わらず、視線を落として床を見つめている。クリスが死んでから二カ月半になるが、彼女の心の傷はまだまったく癒えないようだ。あれ以来ステラは無口になり、ふさぎ込んでいる。五年半前、二人目の子供ルークが駄目になってしまった時のように――いや、今の彼女はそれ以上の悲嘆の中にいるようだ。
「元気がないのね、ステラさん」
 姉がそんな義妹を気遣ってか、声をかけていた。
「早く立ち直ってと言うのは無理かもしれないけれど、でも悲しんでいてもクリスちゃんは喜ばないわ。もっと元気をだしてちょうだい」
「ええ……」ステラは床を見たまま、あいまいな様子で頷いた後、視線を姉に向けた。
「でもお義姉さん、あなたも息子さんたちをトロントで亡くしたのでしょう。それなのに……強いですね。ポールちゃんやマシューちゃんは、まだ生きていると望みをかけていらっしゃるのですか? それとも二人のことは、もう忘れてしまったのですか?」
「望みはもっていないわ。ことに、人が誰もいないトロントの姿を見せられた後ではね。わたしの家族は、もう生きてはいないでしょう。でも、忘れたわけではないわ。たぶん一生、忘れることはないでしょう。ポールもマシューも、それからロバートも。でも、みんな今ごろ天国で幸せにしているのだし、ここで苦しい思いをしなくてすんでよかったのだと思っているわ。すべては神の思召しなのよ」
 ジョアンナは寂しげな笑みを浮かべながら静かにそう答え、首を振った。
「神の思召しか。僕はそこまで思い切れないな」
 ジョセフが天井を仰ぎながら、深いため息を漏らした。
「僕は、おまえみたいに宗教にどっぷり浸かって、悟りの境地にはなれそうにもないんでね、ジョアンナ。ステラさんにだって、それを求めるのは酷さ」
「ええ。わたしも頭では理解しているんです。クリスも天国で幸せなんだって……」
 ステラはぽろぽろと涙をこぼした。その涙を片手でぬぐいながら、続ける。
「でもわたしは、あの子に会えなくて淋しいの。それにきっとあの子も淋しがってるんじゃないか……そんな気がして、たまらないのよ」
「大丈夫だよ、きっと」
 僕は軽く妻の腕を叩いた。その時、ふと彼女が毛布の下に隠すように持っていたものが、目に留まった。クリスがお気にいりだった、古い熊のぬいぐるみ――僕がわが子の遺品の一つとして、バッグの中に入れたものだ。
「ステラ……それ、どうしたんだ?」
 彼女ははっとしたように、古い玩具を抱きかかえた。まるでわが子のかわりのように。
「クリスのところから持ってきたのかい?」
 ステラは涙を流したまま、黙って頷いている。
「外へ行ってたというのは嘘かい?」僕はできるだけ穏やかに尋ねた。
「いいえ。本当に外へも行っていたわ。その前に……」
「これまでにも、地下へ行っていたの?」
「ええ……」
「たびたび?」
 ステラは黙ったまま、ゆっくりと頷く。
「それはやめるべきだよ、ステラ。君にとってもクリスにとっても、よくないことだ」
「でも、わたしはあの子の母親よ!」
 ステラはぬいぐるみを抱きしめながら、頭を振った。
「坊やを忘れるなんて、出来はしないわ。あの子に会えるのに……同じ建物の中にいるのに。わたしを呼んでいるように思えて、しかたがないの!」
「気持ちはわかるよ……」
「わからないわ、ジャスティン! あなたには、わからないわよ。あなたはあの子の父親でしかないのですもの。母じゃないわ!」
「そうかもしれないね」僕は渋々同意した。
「だけどステラ。酷なようだけれど、これだけは言わなくちゃならないよ。あそこへは、行っちゃダメだ! あの部屋は墓場なんだ。神聖な場所なんだ。君は死者を暴いているのと同じなんだよ」
「おお!」妻は身を引き裂かれるような叫びを上げた。
「どうしてそんな残酷なことが言えるの、ジャスティン!」
「残酷だろうけれどね、現実は……」
 僕は妻の身体に手を回した。その腕を振りほどくと、ステラはベッドに突っ伏し、激しく泣き出している。
「どうしてこんなことになったの! なぜわたしたち、こんな思いをしなければならないの! わたしたち、何も悪いことなんてしていないのに!」
「それは、みんながそう思っているよ……」
 僕は妻の震える背中を静かに撫でた。
 彼女の泣き声は徐々に静かになっていった。やがてステラは起き上がり、涙を拭いた。
「ごめんなさいね、わたし……どうかしていたわ。こんなことを言っても、しかたがないことだって、わかっているのに……」
「僕も悪かったよ。君の気持ちも考えないで、きついことを言ってしまって。でもステラ、どうか挫けないでくれ。僕のために……生きてくれ。お願いだよ」 
「あなたは、あの時もそう言ったわ」
 彼女は僕の手を取ると、再び見上げた。その眼の中には静かな悲しみが宿っていた。
「そうね。わたしはあなたを愛しているわ、ジャスティン。あなたと一緒に生きられるのなら、満足すべきなのよ。たしかに……でもわかっていても、生きていくことはとても苦しいの。ああ、わたし今までは、そんなこと思ったこともなかったのに。ここへ来るまでだって、いろいろなことがあったし、いやなことも悲しいこともあったけれど、それでも一日を迎えるのが嬉しかったし、希望もあったわ。でも今は、生きていくのがつらい。同じことの繰り返しで、時間が過ぎていくだけ。何の楽しみもなくて、希望もない。何を求めて生きていったらいいのか、わからないの。いっそ、わたしもクリスのところへ行きたいなんて、しばしば思ってしまうのよ」
「ステラ……」僕は何も言葉が探せず、ただ妻の手を握った。
「でも希望は持たなくてはだめよ、ステラさん」ジョアンナが静かに口を出した。
「あなたはまだ若いのよ。それにわたしたちよりも、ずっと希望があるわ。あなたたち二人が生きていれば、いつかまた子供に恵まれるかもしれないじゃないの」
「ええ……でも……」
「クリスちゃんは戻ってこないでしょうけれど、また新たに母になれるかもしれないのよ。それは希望ではないかしら?」
「ええ……」
「なにかに希望をもって、生きていかなければね。神がわたしたちを生かしておかれる限り、生きなければならないわ」
「神ねえ……」ジョセフがふんと鼻を鳴らした。
「神が僕らを生かしておいてくれたわけか。じゃあ世界を破滅させ、我々を不幸のどん底に追いやったのも、神の業ってわけか? それとも裁きか? そんなに僕たちは悪いことをしたのか?」
「たいへんな罪を犯したのだわ、わたしたち人類は。このままいったら、母なる地球を滅ぼすところだったのですもの。わたしたちに神の裁きを非難する権利はないのよ」
 姉は相変わらず静かな口調で答えている。「その中で、わたしたちが救われたのは、大きな恵みなのではないかしら。その恵みの中で、わたしたちは今、試練を受けているのだわ。その恵みを受けるに値するかどうかを、試されているのよ」
「そう思えば楽になれるのかい、姉さん?」
 僕は、そう言わずにはいられなかった。
「そうすれば、前向きな力が得られる? もしそれが出来たら、宗教も捨てたものじゃないだろうね。でも、こんな状況で宗教を持ち続けるってことは、ひどく難しいよ」
「いいえ、それは違うわ。こういう逆境の時こそ、わたしたちは主の教えにすがらなければならないの。あなたやステラさんや兄さん、それにほかのみなさんの気持ちも、わたしにもよくわかるの。でもわたしたちは、希望を失ってはならないわ。滅びから助かったことを感謝し、敬虔に生きる努力をしなければならないのよ。そして自分が不幸でどうにもならないと思ったら、自分を捨てて人のために生きることだわ。昔の偉人がこう言っていたそうよ。不幸は単なる自己憐愍に過ぎないって」
 姉の口調は静かで、ひとかけらの迷いも感じられなかった。青白い尖った顔に黒い髪をきちんと後ろで束ねた顔の中で、濃い灰色の瞳が、強い精神をのぞかせている。彼女の強さを支えているのが信仰なら、たしかにそれは人の支えになりうるのだろう。
「わかっているんだ。本当はそうすべきだってこと……」僕は床に目を落とした。
「あなたはもっと揺るぎない信念を持つべきだわ、ジャスティン。だって、あなたはわたしたちの誰よりも、未来のことをわかっているのですもの。希望だってあるはずよ」
「未来の希望……」
 僕は反復した。遠い未来で得た知識が希望になりえる――。
「僕には娘が生まれるんだ!」
 それに気づいた時、僕は軽く飛び上がりたいような衝動を受けた。
「本当なの?」
 そう問い返したステラの顔も、ぱっと明るくなる。
「本当だよ。僕は向こうで、その子の手紙を読んだんだ。名前はエヴェリーナ……思い出したよ。まだ生まれるのは、かなり先だけれどね」
「でも、事実なのね……」妻は両手を組み合わせ、小さな吐息をついた。
「それなら、わたしも希望が持てるかもしれない。そんな気がしてきたわ。わたし、女の子が欲しかったの、前から。あのお人形、覚えている、ジャスティン? 最初に仲直りした時に、あなたがくれた」
「ああ、あのアンティックドールかい?」
「ええ。あのお人形が気に入ったわけはね、ジャスティンに少し似ているかしら、と思ったからなの。髪の色や目の色が。こんな女の子が欲しいって……でも、あのお人形さんみたいに目がパッチリした、お人形のような愛らしさって、わたしの子供だと難しいとは思ったけれど。あなたもとてもハンサムだけれど、少し傾向が違うから」
「そうだったのか……まあ、お目目ぱっちりのお人形顔だと、ロザモンドちゃんやティアラちゃんだな。あのレベルの両親じゃないと、無理か」僕は思わず苦笑した。
「そうなのよね」ステラも微かに笑っている。
「でも、クリスが生まれた時、わたしは思ったの。百人の女の子より、この子がいいって。でもまた、女の子の親になれるなら、こんなに嬉しいことはないわ。そう……それに、息子も生まれるはずよ。だってあなた、前に言っていたでしょう? わたしたちの幻の子供ルークが、彼方の国で言っていたって。また息子になって、生まれてくるって……」
「そうだよ!」僕は思わず妻の手を取った。
「僕たちにはまだ希望がある。これからまた、子供が生まれるっていう希望が……」
「いいな、おまえたちは」ジョセフが苦笑して、そんな僕たちを見ている。
「いいや、ジョー兄さん。兄さんだって立派な使命があるんだよ。それなしには、未来が成り立たないようなね。兄さんは未来で賢者と仰がれるんだよ」
「何だって?」兄の茶色の目が真丸くなった。
「だから兄さんも、希望をもって生きていてよ。詳しいことは、オタワに行ってから話すけれどね」
「いつになるんだかな」
 ジョセフは苦笑した。しかしその目にも、輝きが少し戻ってきているように感じた。ステラと僕の間にも、再びかすかな希望がよみがえってきた。ようやく遅い春の太陽が顔を出したように。

 数日後の午後、夕食配りの準備を終え(食事はまだ三時間ほど先だったが、この時は前の食事が終わった後、倉庫へ行って次を準備していた)、僕はアイスキャッスルの扉を開け、外へ出た。一緒に作業していたバンドの四人と、ロブも来ている。春になり、日照が回復して外へも出られるようになった時、外と内部をつなぐ六つの通用口の一つ、東側のショッピングセンターのドアを、昼の間は内側のシャッターを開け、外扉も施錠せずにおいていたのだ。そこを通じて、多くの人が今は出入りしていた。外の空気は冷たいし、どこまでも灰色の空と白い世界が広がっているだけだが、建物の中に冬の間ずっといた反動なのか、気分転換と新鮮な空気を求めて、ほとんどの人が時々外へ出ていたようだった。みなここへ来る時にしっかりと防寒をしてきたし、冬の間常に部屋の中でも氷点下という気温で過ごしたため、寒さにも慣れてきているのだろう。実際北国で育っている僕にとっても、このくらいなら普通の寒さと感じる。
 僕はあまり外には行かなかったが、この時にはなんとなく出てみたくなり、外へと踏み出していた。薄い光に照らされたそこは、ほんの少し青みがかった灰色の空に、白一面の大地。空気は冷たいがひんやりとして、心地よささえ感じた。ふわりと風が吹いていた。寒さの中の風はあまり歓迎しないが、この時には爽快さのみを感じた。
「ああ、風が気持ちいいな……」僕は思わずそう声に出していた。
「うん。でも風が吹いてる、ってことは、もう空気は動いてるんだなぁ」
 エアリィが僕の後から出てきて、手をかざし、空を見上げた。
「最後の調査隊が帰ってきた時も、風が吹いてた。でも線量は上がってないんだっけ、まだ?」
「そうだなあ。五日前に測った時には、そんなに高くはなかったぜ」
 ジョージが首をひねって言った。
「アイスキャッスルを守ってくれた力は……いつまで続いたんだろう。もう四ヶ月たってるから、ヨウ素とか、半減期の短い奴はかなり減衰してるだろうけど。それに中性子は、もうほとんどないだろうし。でも、一週間おきの測定じゃ、危ない気がする。空気が動いてる今だと、いつ濃い放射線の空気が流れ込んでくるか、わからないし……あまりもう外にいないほうがいいのかもしれないな」
 エアリィは考え込むような表情で、再び空を見上げていた。
 最初は彼の言う意味がわからなかったが、思い出した時、僕も思わず声を上げた。未来世界で読んだ、記述の断片を。
【アイスキャッスル施設内に残された、気象衛星からの写真には、上空をすっぽりと覆う、巨大な台風のような雲が写っていた。その雲は回転しているようで、真ん中に巨大な“目”がある。それがちょうど施設全体の上空にあった。そこから推測されるのは、ここはちょうど台風の目状態で、周りの気流をはじいていたのではないかということだ】
 そういえば、あの時――コンサートが終わった直後に止んだ風は、冬の間もずっと吹かなかったのだろうか。風の音はたしかにしなかったが。春が訪れた最初の日にも、空気の動きは感じられなかった。気流をはじいただけでは、ここが致命的なフォールアウトを逃れた完全な理由にはならないのだろうが(僕の脳裏に、あの直前に空を覆っていった、かすかな金色の光がよみがえってきた)、それでもそれが理由の一端なのだろう。それほど長く続くなんて、自然現象ではとても考えられないことだが――。だが空気が動いているということは、気流の方の条件は外れたということだ。ただ、最後の調査隊が帰ってきた時には、もう風が吹いていたという。僕は良く覚えていないが、エアリィが言うからには、そうなのだろう。それは一ヵ月以上前――それからも線量はさほど上がっていないことから見ても、風が吹いたら即危険、と言うわけではなさそうだ。空気の流れは気まぐれで、各地の汚染濃度にも違いがある。最も薄い場所さえ、今でも致死量あるが、地面近くではない、大気の流れるような高いところでの空間線量は、それほどではないところもあるのかもしれない。ただ、もし濃い汚染濃度の空気が、どこからかここへ、しかも地表近くへ流れ込んできたら――。
「危ないかもな、たしかに!」僕も思わずそう声を上げた。

 僕たちは親世代に話しに行った。部屋にいた親世代の大人は、母とステュアート博士だけだった。「父さんは、患者さんのところへ行っているわ。社長さんと大臣ご夫妻は、外へ行かれたようよ。風に当たりたいと仰って」と、母は言っていた。
 僕らは事情を説明し、博士が測定器を持って、濃度を測りに行った。
「むっ……」博士はその数値を見て短くうめくと、首を振った。
「線量が上がっている。たしかに」
「そうなんですか?!」僕らは同時に声を上げた。
「ああ。あまり長時間この中にいるのは、勧められない数値になってきている。特にみな、体力は落ちているだろうからな。それに、君たちの話を聞く限りでは、これからも上がる可能性のほうが高い。時間を厳しく制限する必要がある……いや、安全を期するなら、もう外へ出るのは、やめたほうがいい」博士は計測された数字を見て、再び首を振った。
「そうですね。では今、外へ出ている人たちを呼び戻しましょう」
 ロブが少し驚いたような表情で、そう提案する。
「そうだな。まあ、そんなに慌てて戻る必要がある数値ではないが……」
 ステュアート博士の言葉を途中で遮るように、エアリィは声を上げた。
「いや……危ない。すごく、やばい気がする! 早く戻らないと……」と。
 彼は遠くを見るように凝視した後、ぶるっと激しく震えた。そして一瞬沈黙した後、外へ向かって声を上げている。
「みんな! 戻って! 早く! 走って! 風が吹いてくる……凶風が! その風に当たらないうちに、戻ってきて!」
 その声で、外に出ていた人たちが振り向いた。一瞬みな、わけがわかっていないようだったが、行動は一般の人たちの方が早い。かなりの人が戻りかけた。が、急いで逃げているわけではなく、ゆっくりこっちへ向かってきている。
「遠くにいる人たちに、伝えて! 早く戻ってきてって、危ないから! できるだけ早く、建物の中に入って!」エアリィが重ねてそう叫んだ。それに呼応して、建物付近に居た人が遊園地エリアの人たちに「戻ってきてって! 広場の人たちにも伝えて!」と叫び、さらにその人たちが広場エリアに向かって同じ言葉を叫ぶ。そして人々は戻りはじめた。
 最初に戻ってきた人が建物の入り口にたどり着いた直後、たしかに激しい風が吹いてきた。少し生温かい、かすかに重たいような感じのその風は、戻ってくる人々の髪や服を強く揺らしていた。
「早く入って!! 誰か扉、支えてて! 僕は第一ホテルの扉を開けてくる。でも南側は開けちゃダメだ!」
 エアリィは緊迫した声で、そう叫んだ。ジョージとミックが不思議そうな表情ながらも、扉を両側から支え、ロブが「いや、僕が開けてこよう」と走り出した。近くにいたスタッフの数人が、それに続いた。東側の第二扉を開放することで、もう少し効率的に入れるようにするためだろう。そして風向きから、南側を開けると中に風が吹き込んできてしまうから、開けるなと言う。それは、僕らにもわかった。しかしなぜエアリィがそんなに慌てて、みなを中に入れようとしたのか、その時の僕らには、良くわからなかった。博士が計測した数値は高かったが、一刻を争うほどではないものだったのに。
 外から人が戻ってきた。相当な人数だ。それゆえ二つの入口を開放しても、元々通用口で狭いこともあって、少し渋滞が出来てしまった。そのため、全部の人が中に入るのに、三十分ほどかかった。大勢の一般の人たちに混じって、その中には大臣夫妻やスタンフォード社長、縁戚グループの人たち、そしてステラとパメラもいた。
「どうしたの、アーディス君? 急に戻れって、あなたが言ったって、聞いたけれど……」
 パメラが中に入ってきながら、やや怪訝そうに問いかけている。
「パメラさん……ステラさんも、出てたんだ……」
「ええ。外の空気が吸いたくなって。アデレードとポーリーンも誘ったんだけれど、アデルは今洋服の修理が忙しいから、後から行くって言って、ポーリーは読みかけの本がいいところだから、最後まで読んでから行くって、それでわたしたちだけで出たの」
 パメラはそう説明する。その横でステラもやや不思議そうに頷いていた。
「放射線の数値が上がってるから、戻った方がいい……それだけなら、そんなに慌てて呼び戻さなくても良かったんだけど……」エアリィはふっと息をついて、頭を手で押さえるようにした。「僕の思い過ごしだったらいいんだけど……なんかさっき、すごくやばい予感がしたんだ。いや、急いで戻らないとダメだ。今度の風は凶風だって……」
「おまえの……第六感か?」僕は微かに背中に、ちりっとした感覚を感じた。彼はかなり、こういうカンは鋭い方だ。本当に間違いだったらいいのだが――。




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