Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第三章  新たな試練 (1)




 待ち望んでいた朝は、ようやくやってきた。アイスキャッスルの屋内施設入り口につめかけた人々は、外がうっすらと明るくなっていくさまを、声もたてずに見守っている。やがて歓声が漏れた。それはつぎつぎに伝染し、大きな歓喜の叫びとなって渦を巻く。
「やったー!」
「夜が終わった!」
「冬も終わったのね!」
「春が来たのよ!」
「家へ帰れる!」
 やがて個々の言葉も聞き取れないほどの喜びのざわめきが、アイスキャッスルにひろがっていった。暗黒の冬の間、心配と悲嘆に閉ざされていた心も、ようやく訪れた春の兆しに解けていくように思われた。でも、失われた人たちは帰ってこない。僕らも最愛の子供たちを亡くし、ロビンは妻までも失った。もうとり返しのつかない、埋め合わせることも出来ない大きな傷が、みなの心には残っているだろう。しかし久しぶりに太陽の光を仰ぎ見た時、僕の心にも一条の光と希望がよみがえってきたように感じた。それはきっと、ここにいる人々全員の思いだっただろう。厳しい寒さが温み、太陽の光が届くようになった今、長い冬の間やりたくても出来なかったことができる。外へ行ける。飛行機も飛ばせる。本当にまわりの世界がどうなったのか確かめることが出来る。もし被害がそんなにひどくなく、非常下ながらも都市が機能しているなら、家へ帰ることが出来る。それは大きな希望だった。そんなことはまず無理だとはわかっていても、ここから出られるかもしれないという考えは、みなを勇気づけてくれたようだ。

 日照が回復するようになって四日目に、マスコミの関係者たちが取材用のジェットへリを使って、周辺都市の視察に出かけた。ビデオカメラ、ガイガーカウンターなどの放射能測定器、食料や備品、さらに非常用の発電機と予備の燃料を積み込み、放射能防護服を着込んだ四人の調査隊が、朝ヘリポートから飛びたっていった。大勢の人々がそれを見送った。おそらくみな同じ、希望と期待をこめて。
 夕方、第一報の無線連絡が入った。
「かなり南のほうまで来た。たぶんオンタリオ州に入ったと思う。相当地形が変わっているので、コンパスだよりだが。ここまでに小さな集落らしいところを一つ見かけたが、降りてみたら完全にゴーストタウンになっていた。もうすぐ日没だ。ここは野原の真ん中で何もないが、予備燃料のおかげで給油の心配はないから、ここで野営することにするよ」
「気をつけてくださいね」と、僕らは答えた。
 翌日の昼ごろ、第二報が来た。
「トロントへ着いた。街はある程度残っている。でも一部、爆風によると見られる倒壊が見られる。CNタワーは折れている。でも爆心地らしきものは見受けられない」
「そうなんですか。それで、生存者はいますか?」僕らは問い返した。
「いや、見る限り誰もいない。死体ばかりだ」
 その返答に、言葉を失った。予想していたことだとはいえ、現実にその事実を突きつけられると、ただ慄然とするだけしかできない。調査隊は報告を続けている。
「空港はそれほど損傷していないので、ここで燃料を補給して、周辺都市へ行ってみることにするよ。非常電源を使えば、給油機も動くようだからね」
「お願いします」そう言うだけがやっとだった。
 その夕方、続報が入った。
「周辺都市も全滅だ。デトロイト、シカゴ、ハミルトン、バッファロー、ナイアガラ――そのまわりの細かい町も全部ダメだ。建物の倒壊は、トロントよりこちらの方が、若干ひどい。そして人がいない。死人ばかりだ。ナイアガラやデトロイトは、ほとんど湖に浸かってしまっている。有名な滝も、影も形もない。我々は湖畔で泊まることにした。明日はアメリカ東部の方まで行ってみるつもりだ」
 彼らの声には、焦りと不安が色濃くなってきているようだった。
「ごくろうさま。気をつけて」僕らも相変わらず、それだけしか言えない。 
 翌日、東海岸にたどり着いた視察隊は、東部海岸地方はほとんど海の中に水没していると報告してきた。未来世界で聞いたとおりだ。
「信じられないことだが、自由の女神の頭の先っぽが、海の中から辛うじて出ているんだ。折れた高層ビルの残骸や看板なんかが、ぷかぷか浮いている。それを見た時の我々の驚きといったら、言葉では言えない」
 その後、四日間にわたって、視察隊は報告を送ってきた。非常電源を動かして、無人の町から使える燃料や食料を補給し、ヘリの中で寝泊まりしながら、精力的に北アメリカを回る。海岸ぞいをカナダの沿海州方面に北上してから再びアメリカへと南下し、フロリダまで行ってから、大陸を横断――その間に送ってきた報告は、これでもかと言わんばかりに絶望的なものだった。特にアメリカの両海岸と中央の砂漠地帯の被害は甚大で、海岸沿いの大都市のほか、フロリダ半島はすべてなくなり、フェニックスやアリゾナの砂漠などには、所々大きな湖が出来ているという。街によっては跡形もなく消滅したものもあれば、水や土の中に消えてしまったものもあったと言う。
 日を追うごとに、絶望はますますつのっていくように思えた。どこもかしこも無人の廃墟。静寂の大地、沈黙の街。見るのは屍の山ばかりで、生きている人間は自分たちのほか、誰も見かけないと。
「少し前にロサンゼルスへ来た」
 こう報告してきたのが、アイスキャッスルを出てから六日目の夕方だった。
「だが、何と言えばいいのだろう……街はない。ニューヨークと同じく、海の中へ消えてしまったようだ。今、我々はビバリーヒルズにいる。目の前は海だ」
 彼らの声には、まったく生気がなかった。その翌日、最後の連絡が入った。
「操縦士が倒れた。無理もない。放射線量が、どこも異様に高いんだ。即死するほどのレベルではないが、許容レベルを遥かに超えている。確実に致死量だろう。防護服を着ていてさえ、いるだけで気分が悪くなるほどだ」
「そんなにひどいのか……」
 スタンフォード氏がうめくように問いかけた。
「ああ。まだそこから出られる状態じゃない。帰るなんて、自殺行為だ」
「君は大丈夫なのか?」
「いいや、三日目あたりから、身体が変だ。熱っぽくてだるい。ふらふらするし、吐き気もする。汚い話だが下痢も始まって、オムツをつけている有様だ。私はそれでもまだ軽いほうだが、意識のなくなってしまったものも二人いる。もう、我々はそちらへ帰りつけるだけの力は、残っていないだろう」
「そんな……」
 しばらく、誰も何も言えなかった。ただ黙って、顔を見合わせているだけだ。やがて後ろの方からマスコミ関係者の一人がすっと出てきて、マイクに向かって呼びかけた。
「ディッケンズ。今、君たちがいるのは、ビバリーヒルズか?」
「そうだ。その声はネルソンか?」無線器からの声が返答する。
「ああ。君たちはそこから動けないのか?」
「もう……移動は無理だ」
「そうか……」彼はしばらく黙ったあと、言葉をついだ。
「私が迎えにいく。それまで頑張れるか?」
「無茶ですよ!」僕らは同時に声を上げた。
「あなたの命まで危険になりますよ」
 スタンフォード氏が、そう諌めている。
「わかってはいるが、放ってはおけない。彼は私の同僚で、親友だ。それにせっかく視察隊が撮影してくれた映像を、無駄にしてもいいのかい?」
 ネルソン記者は熱のこもった口調で主張している。
「私も行こう。うちのスタッフも行っているんだ」
 TVレポーターの一人が声を上げた。
「僕も行こう。ジャーナリストとして、この目で状況を見てみたい」
 ある雑誌記者も名乗りを上げた。そして三人の第二視察団が編成された。

 翌朝、彼らは出発し、ロサンゼルスまでの最短距離をとって、飛行していった。それはちょうど第一部隊が見落とした地域をカバーする形になる。カナダの中部平原から、アメリカ大陸を斜めに横断し、ロッキー山脈を越えて、サンフランシスコ経由でロサンゼルスへ。とりあえず救援が先なので、都市の調査は後回しにし、燃料がつきかけてきた時だけ街へおりて、給油スポットを探す。それでも、その第二部隊からの報告も、最初と同じく絶望的なものばかりだった。
「最初の調査隊を見付けた」
 出発してから二日目の午後遅くになって、そう報告が来た。
「だが、遅かった……」
 その言葉には、無限の悔しさがあった。
「彼らは、ここに埋葬することにした。そちらに連れて帰っても埋められないのだし、この中の一人は、ロスの出身なんだ。故郷の土に帰ったほうが、喜ぶだろう」
「そうしてください」僕らは重い口調で同意した。
「撮影されたビデオは持って帰る。もう救援は間に合わなかった以上、急ぐ必要はない。我々はもう少し調査をしながら、帰るつもりだ。太平洋岸を北上して、バンクーバーまで行ったら、中西部の方も見てみたい。このありさまでは希望は持てそうもないが、しかし悔いは残したくない。可能性を探さなければね」
「お願いします。でも、気をつけてくださいね」
「わかった」
 彼らはその後西海岸を北上し、バンクーバーから東南に進路を変えた。調査は絶望の積み重ねだった。アメリカの中西部を見た後、再び北上。そしてカナダの西部平原を突っ切る。新しく都市を訪れるたびに、希望も可能性も崩れていく。ウェニペグまで来た時、ついに彼らは力尽きたようだった。
「もうここまでが限界だ。そっちには帰れそうもない」
 最初に志願したネルソン記者が、最後の報告をしてきた。
「なんとかウェニペグまでは、来たが……来ないほうがよかった。まだそっちにいて、世界があるかもしれないと……希望を持っていたほうが、救われたような気がするよ。だが、事実は事実だ。もう我々にも、君たちにも……帰る故郷は、ないんだ」
 もう帰るところはない――氷のように冷厳な事実の前に、僕は(ほかのみなも)言葉もなく、立ちすくむだけだった。マスコミ関係者たちは、ただちに第三部隊を編成し、救援に向かった。ウェニペグへ行くだけなら、一日か二日あれば行ける。まだ助けられるかもしれない。そのくらいの短距離なら、防護服とシールドを付ければ、残留放射線の被害にもさほどあわずに帰ってこられるだろう。寄り道はしなくてもいい。第一、第二部隊が命懸けで北米大陸のあらかたを調査してくれたのだから。

 翌日、救援隊が出かけ、三日後に帰ってきた。先に出かけた二つの調査隊が撮影したおびただしい量のビデオを回収し、まだ生き残っていた第二隊の二人を連れて。残りの一人と操縦士は救援隊が行き着く前に、向こうで死んでしまったらしい。彼らは西部平原に、埋葬されたという。生き残った二人のうちの一人は、帰ってくる途中で息を引き取ったようだ。唯一アイスキャッスルまで生きて帰ってきたネルソン記者も、もう虫の息だった。
「なんとか……帰ってきたんだな……」
 アイスキャッスルの建物内に担架で運び込まれた時、彼はうっすらと目を開けた。
「私はここが……嫌いだった。陰気で、寒くて……だが、今は……世界中で動いているのは……ここだけだ。まるで……外は、時間が止まって、いるようだ」
 ネルソン記者は目を閉じ、呟くように、息を吐くように続けた。
「悪夢だな。ほんとに……生きて、現実に世界の、終わりを……見るなんて」
「だが、他の大陸を見たわけではないが……」
 救援隊の一人が痛ましげな表情で見ながら、なお希望を捨てきれないように言いかけた。
「行ってみるわけにはいかないだろう? それとも北極を越えて、ヨーロッパへ行くか?」
 残っていたマスコミ関係者たちの一人が、ため息をついて首を振る。
 やがて誰からともなく、声が上がった。
「距離的にはアメリカ大陸へ行くのと、あまり変わらないな」
「行くだけ無駄なような気もするが……少しでも可能性があるなら、かけてみたい」と。

 その後、僕ら第一グループと、マスコミ関係者で協議し、ヨーロッパ出身の記者たちのたっての希望で、第二次調査が行われることになった。その経過は、詳しく書くまい。アメリカ大陸で起きたことと、まったく同じだった。調査隊が発見したのは無人の廃墟――死の荒野と、瓦礫と化した街だけだった。第一部隊はロンドンで力尽き、第二部隊はモスクワで旅を終えた。第三部隊がすべての映像記録と、まだ生きていた第二部隊の一人を連れて帰ってきた。操縦士を一人余分に連れて行って、ヘリの回収にも成功した。
 アメリカ、ヨーロッパ両方の調査隊がもたらした膨大な映像記録は、彼らの報告に嘘偽りのない、冷徹な証明だった。その映像を見た衝撃を形容する言葉を知らない。ショックなどという生易しいものではなかったことは確かだ。かつての都市の姿は、およそ三つのパターンに分かれている。完全に原型がなくなって、砂漠や水の中に消えてしまい、そこに散らばった看板や建物の残骸で、ここがかつて都市だったのだと判別できるだけのもの。荒野に不規則なガラス細工のようなかたまりが散らばっている場合もある。たぶんこれは都市に近いところに爆心地があったか、もしくは最初のインパクトで、ほとんどの人が死に絶えたあとに、自動で起動されてしまったオートリベンジシステムによって直撃されたのか、海沿いの都市の場合、津波と地殻変動で水没してしまったか、なのだろう。二番目のパターンは、都市が半壊している――程度はさまざまだが、ビルやタワーなどの比較的背の高い建物がなぎ倒されているケースだ。これはたぶん、爆心地からは離れていたが、その衝撃で壊れた、と見るべきなのだろう。最後のケースは、町自体は無傷で、ほぼそのままの形が残っている。だがそこは、ゴーストタウンだ。都市が半壊している場合と同じように、道や建物の中に、干からびた状態で人が死んでいる。これは核爆発の影響は受けなかったか、中性子爆弾か、もしくは大量の放射線のスカイシャイン現象によって滅びた街なのだ。アメリカもヨーロッパも、状況は同じだった。そして映像記録には、コンスタントにノイズが入り続ける。中性子や半減期の短い放射性物質はかなり減衰したものの、まだ半減期の長いものは残留している。その放射線――それも、ガンマ線だけでも、これだけのノイズがのってくるのだ。撮影隊は都市を訪れるたび、そこの空間放射線量を測り、その数値が表示された映像を残していた。それはどこも安全基準を遥かに超えた――完全に致死量といえる数値だった。
 僕らは一斉に激しく身震いし、言葉を失った。帰るところはまったく失われてしまった。僕らはここからどこへも行けない。まだ世界で見ていないところはあるが、全部を見るのは無理だ。距離的に遠すぎる。残ったヘリも二機しかないし、操縦士も二人しかいない。救援放送の返答も途絶えている今、かりに無理をして行ったとしても、さらなる絶望を積み重ねるだけだろう。
 生き残ってアイスキャッスルに戻ってきた視察隊の人たちは、半月ほどで全員が亡くなった。防護服とシールドも多量の放射線には、気休めでしかなかったようだ。比較的放射線にさらされる機会が少なく、帰ってきた時には元気だった第三部隊の人たちでさえ、数日のうちに体調が悪化した。高熱と出血、嘔吐、下痢などの症状に苦しんだ末、次々と世を去っていく。父は首を振り、重々しい顔をして呟いた。
「症状的には、急性白血病に近い……放射線障害だろう。おそらく身体の中はボロボロだろう。痛ましいことだな」そして首を振りながら、言葉を継いだ。
「本当にこれでは、ここにいるしかないようだ。帰るのは、自殺するようなものだな」
「まるで悪夢を見ているようだ」スタンフォード氏がうめいた。
「しかし、他に道はないようだな」ステュアート博士がため息混じりに同意し、ストレイツ大臣も困惑しきった顔で頷きながら、問いかける。
「だが、いつまでここにいられるんだ、我々は?」と。
「食料は六月いっぱいくらいまで、大丈夫ですが……」
 スタンフォード氏が考え込むように、天井に目をやりながら答える。
「それまでには、帰れるのかね?」と、問いかける大臣に、
「とても無理ですな」
 ステュアート博士が考えているような沈黙の後、口を開いた。
「私は放射線力学の専門家ではないですが、北米、ヨーロッパとも、調査隊の測定値を見る限り、ひどい数値です。防護服なしで行ったら、全員二週間ほどしか命が持たないでしょう。すぐに調査隊の人たちのようになると思いますね。半年たってこの数値なら、健康被害をもたらさないほどに減衰するには、五、六十年はゆうにかかる。下手をすれば百年かかります」
「そんなにここには、いられないよ!」
 僕らは誰からともなしに、そう声を上げた。
「私もそれには賛成だ。では、せめて百パーセント致死率を回避できるレベルまでと考えるか……」博士は頭の中で計算をめぐらせるようにしばらく沈黙した後、頭を振った。
「それでも、やはり十数年は、かかってしまうだろう……」
「だが我々は、そんなに待てない」スタンフォード氏が苦渋たっぷりに口を開いた。
「今年の夏で食料が切れる。それ以降は、もし食料を補充するとするなら、近くの都市から持ってくるしかない。とはいえ、ここは相当な僻地だから、近くといってもトロントやモントリオールだろうが。比較的、街自体はきれいなようだ。カナダは核保有国ではないから、破壊は軽くすんだのだろう。だから食糧を備蓄した倉庫も、かなり残っているはずだ。だが、実行はかなり難しいうえに、冬になればまた飛行機が飛べなくなる。例年でもここは十一月下旬になれば日照がなくなり、飛行場が凍結して離陸できなくなるんだ。もし今度の冬をここで過ごさなければならないとすれば……我々はもう終わりだ。生きて来年の春を見ることは出来ないだろう」
「行くのも地獄、留まるのも地獄か。我々に助かる道はないのか……」
 ストレイツ大臣が天を仰いだ。
 みなが言葉を失った。空気を支配しているのは、重苦しい絶望感。そして誰の心にも、恐怖が食いこんでいるのだろう。女性たちの何人かは泣き出し、ある者は祈り、ある者は絶望に打ち拉がれて頭をかきむしった。ここで全員死ななければならないとしたら、僕らは何のために生き残ったのだろう。ただ、よけいな絶望と悲嘆にくれるために――? 
「わたしは……ここで死んでもいいわ……」ステラがそんな呟きをもらした。
「自棄になってはだめよ、ステラさん」ジョアンナは穏やかな口調で諌めた。
「イエス様が、わたしたちとともにおられるわ。きっとよいようになさってくださるのよ」
「やめてくれ、神なんかくそくらえだ!」
 ジョセフがそんな悪態をついた。普段温厚な兄が、憤激のとりこになっているようだ。
 兄はここに、当時妊娠六ヵ月の妻と来た。その二ヵ月半後、一月の半ばに、義姉は厳寒と劣悪な環境のためなのだろう、早産してしまった。そして産後の肥立ちが悪く、四日後に世を去ったのだ。せっかくこの世に生まれた命――エドワードと名づけられた僕の甥も、わずか五時間しか生きていなかった。保育器もなく、しかも氷点下の気温の中だ。二か月近くも早く母の胎内から出された未熟な赤ん坊では、とても生きることはできなかったのだろう。兄はその子をバスタオルでくるみ、その上から撫でさすりながら、自分の体温で少しでも温めようとするかのように、胸に抱いていた。『頼む! 生きてくれ! 生きてくれ!』と、衝かれたように呟きながら。しかし、その腕の中で赤ん坊は徐々に弱っていき、やがて息を引き取った。兄夫妻にとって結婚七年目でようやく授かった、待望の子供だったのに。義姉はその間、ベッドに横たわりながら、泣いていた。その後、彼女は産褥熱になり、それが重症化して、死んでいった。妻と子供をほぼ同時に失った兄は、それ以来、人が変わったようにふさぎ込んでいたのだ。
 僕は兄に同行を頼む時、身重の義姉カレンはできれば一緒にこさせたくなかった。こういう結果になりはしないかと、心配だったからだ。でも何も知らない義姉はほんの二、三日の小旅行のつもりで、気軽に同行してきた。僕も断る理由を探せなかった。向こうに残ればカタストロフの日限りの命なのだし、ここにくれば多少は希望もあるかもしれない、と。しかし不幸なことに、その懸念は当たってしまったのだ。
「僕たちは、みんなここで死ぬのさ!」
 兄はヒステリックな口調で声を上げた。
「やめてくれよ、ジョセフ兄さん!」僕は思わず首を振り、遮った。
「僕らは死ぬためにここに来たんじゃない。生き残るためじゃないか!」
「そうだ。ここで全滅するはずはないんだ……」
 少しためらいがちな声でロブは呟くと、僕たちの顔を見た。
「うん。もしあの記述が本当なら……」ミックがやはり不安げに同意し、
「六千人近くは助かるって、書いてあったんだから」
 エアリィがはっきりした口調であとを引き取った。
「あ、そうだ!」僕は思わず声を上げてしまった。
 そうだ、未来世界で読んだ記述には、【アイスキャッスルで、二千人以上が生命を落とした。残った六千人弱は飛行機でオタワに脱出した】と、書いてあったではないか。あの時代の歴史は、僕らの未来のはずだ――。
「そうだ。全滅はしないよ!」僕は我を忘れ、膝を叩いて叫んだ。
「記録がそうなっているんだから、絶対だ。カタストロフが事実だったんだ。だから、脱出もきっと、事実のはずさ!」
 我知らず口に出してしまってから、はっとした。これは僕らメンバー五人とロブの他は、誰も知らない話だ。ミックやロブが最初に言い淀んでいたのは、そのせいだったのだ。
 案の定、他の人たちはぽかんとした顔で、僕らを見つめている。
「いったい何の話をしとるんだ、おまえたちは?」
 スタンフォード氏がみなを代表するように、怪訝そうにきいてきた。
 僕らは顔を見合わせ、素早く目で相談しあった。いつまでも伏せておけないだろうし、もう惨劇は起きてしまった。ことさらに秘密にしておく理由は、今はあまりない。それで僕らは順々に、思い切って全部話した。もう十一年半前になる、不思議なタイムトリップを。未来世界での経験とそこで得た知識を。最初はみな、あっけにとられたような表情で聞いていたが、やがて話の意味がわかると、彼らの表情は驚きに変わっていった。
「それが……以前おまえたちが言っていた、とても信じてもらえない話か?」
 スタンフォード氏は、絞りだすような声を出した。
「そうなんだ、父さん。本当に信じられないような話だろう?」
 ジョージが頷いてみせた。
「たしかにな……」
 父親の方は腕組みをし、まだ半信半疑の表情が抜けないでいるようだ。
「おまえたちは、集団幻覚でも見たんじゃないのか? 現実にはありえない話だぞ」
「そう言われるだろうと思ったよ」
 僕らは顔を見合わせ、思わずみなで苦笑した。
「でも、なぜ今まで秘密にしていたの?」そうきいたのは母だ。
「未来世界で読んだ手紙に、ことが起こるまでは誰にも話さないように、と書いてあったんだ。向こうの人たちにも、そう言われた。僕らが行動を起こすことによって、タイムシークエンスが破綻する可能性があるなら、危険は冒せないって。向こうでも、回避手段は見つからなかったし、原因そのものも、わからないって言っていた。だから、秘密にするしかなかったんだ」僕はそう説明し、そして続けた。
「それに僕ら自身も、話してもとても信じてもらえないだろうと思っていたし、実際本当におきるのか、記憶は正しいのか、半信半疑だったこともあるんだ」
「だが、おまえは知っていたんだな、ジャスティン」
 ジョセフが声を荒げて迫ってきた。それほど怒りをあらわにし、僕に向かってくる兄の顔を見るのは初めてだった。
「だったらなぜ、あの時にそう言ってくれなかった! わかっていたら、カレンをここに来させはしなかったのに!」
「僕だって、義姉さんを来させるのは乗り気じゃなかったんだ……」
 僕は兄の怒りの前にたじろぎ、頬に血が上るのを感じながら首を振った。
「だけど、あの時に理由を言うわけにはいかなかったんだよ、どうしても。それに、もしトロントに残っていたら、確実にあの日に死んでいたんだし……」
「同じことだと言いたいのか! だが、その結果カレンはどうなった? ここでよけいな苦しみをして、悲嘆にくれて死んでいったんだ。それより何もわからないままで灰になったほうが、どんなによかったか……」
「おやめなさい、ジョセフ!」母がやさしくも厳しい声で兄を制した。
「あなたの気持ちは、わからないではないわ。だけどあの時のジャスティンに、他に何が出来たって言うの。それにもしあなたが今の話をあの時聞かされていたら、カレンさんをここに連れてくるのを本当にやめたかしら? 冷静に考えてごらんなさい」
 兄は黙り込んだ。そして長い沈黙のあと、ぽつりと答えた。
「僕は、信じなかっただろうな。かりに、もし本当だと信じたとしても……よけいに残してはおけなかったかもしれない……たしかに」
「可能性にかけて、生きる望みが少しでもあるなら……やっぱり、ここに来たほうがよかったんでしょうね。結果は仕方がないわ」
 静かな声でジョアンナが同意した。
「そうですよ。それに、ここで愛する人たちを亡くして悲しい思いをしたのは、みな同じなのですよ。自分だけが苦しいとか不幸だなどと、思ってはいけないわ」
 母は穏やかな口調で諭し、みなは一斉に黙り込んだ。それぞれに自分の払った犠牲の重さを思い出したように。そして他の人たちが払った犠牲をも。
「その通りだ……ローリングスの奥さん。あなたは正しいですよ」
 スタンフォード氏が重々しく頷いた。
「みんなが力を合わせて乗り切ることしか、我々には出来ないんだ。無用な感傷や議論よりも。本当にここから生きて出られる望みが、少しでもあるのなら」
「オタワに脱出となると、行き先はシルバースフィアか?」
 ステュアート博士が思案するように沈黙した後、そうきいてきた。
「どことは、はっきりと書いてはなかったんですが」
 ミックが微かに首を振りながら答える
「だが、あそこが使えれば、避難先としては最適だな。もともと同じような目的で、作られたようなものだからな」ストレイツ大臣が頷いた。
 オタワのシルバースフィア――政府プロジェクトの一環として、二年ほど前にオタワ市郊外に完成した、自然力利用の独立居住区だ。三階までは地下部にあり――地下三階と言ってもいいのだが、その区画内を通る大通りが地下三階の位置にあり、すべての建物がそこから立っているので、そこを一階としているようだ。そこには国立科学研究センター分室をはじめ、各種商店、デパート、学校や病院も揃っているし、七百世帯ほど収容できるアパートもある。屋根を閉ざせば、簡単なシェルターにもなるらしい。たしかにそこが使えれば、アイスキャッスルより数段整った環境が提供されるだろう。
「いつオタワに脱出できるとか、そういう記録は見なかったのか、君たちは?」
 ステュアート博士が真剣な顔で問いかけ、僕らはお互いに顔を見合わせて、首を振った。
「脱出時期の記録はなかったと思います。ただ、ここにいると全滅の危機となるから、決死の大脱出を行って、成功したと書いてあっただけでした」
 ミックが僕らを代表して答えた。
「ふむ……そしてオタワで生き延びたと?」
「はい。移住後、最初の十二年で三千人くらいになった、とは聞きましたが」
「ふむ。では半分は十二年以上、生き延びているわけか……となると、最低オタワの放射線量は、致死量レベルの十分の一程度になっていないといかんということだな」
「脱出時期は……今年中じゃないかな」エアリィがそこで、はっきりと言った。
「今年中? 無理だろ?」僕らはいっせいに声を上げる。
「うん。まあ普通に考えればそうなんだけど、未来に行った時、大統領が説明してたから、SS暦っていう暦について。たぶんこのSSっていうのはSilver Sphereの略なんじゃないかな。だから行き先は、そこで当たりだと思う。それで、オタワに移った翌年がSS元年で、SS七〇年二月からNA暦が始まってるって。で、NA元年は二〇九二年って市長さんが言っていたから、SS元年は二〇二三年なんだ」
「ああ……」
 僕は小さく声を上げ、頷いた。たぶんそのあたりの数字は、日記には書きとめたが、覚えていなかった。でもそうなのだろう、記録は。他の三人も顔を見合わせている。
「脱出時期としては、それが最も妥当だろうと、私も思う。今年中に出る、と」
 ステュアート博士は腕を組み、目を半ば閉じてしばらく黙った後、言葉を継いだ。
「夏には食料が切れる状態で、この冬を越せるとは思えないからな。だが問題は、オタワの放射線量だ。現在の濃度は高い。致死量をゆうに超える。それが今年中にそんなレベルまで薄まるなど、どう考えても不可能だ。シルバースフィアが簡易シェルターになるとは言っても、当時シールドは閉じていなかっただろう。突然だったからな。あそこはここと違い、手動で閉じるようになっているからな。それに仮に閉じていても、あのレベルの汚染は防ぎきれない。大規模な除染をしない限り無理だろうが、人間が出来る除染はたがが知れている上に、その人間もいない。自然に任せるしかないが、そうなると数十年、数百年レベルでかかるだろう」
「そうなると、結局は無理ということかね? その記述は正しくないと?」
 ストレイツ大臣が苦り切った顔できいている。
「理論的に考えるから、そうなるんだよ、継父さん」
 エアリィが首を振り、博士を見た。
「なにもかも理論で測ろうとするのは、無理なんだ。それだったら最初から、全部ありえない話で終わってしまうよ。僕たちだって、ここで生きてなんかいやしない」
「それは、たしかにそうだな」博士はしばらく黙ったのち、同意した。
「理論で測れないこと、すなわち奇跡だ。もしくは神の御業、とでも言うべきだろうか。では、我々はここで再び奇跡が起こるのを待つしかないのか?」
「本当に、奇跡を祈るしかないようだな……」スタンフォード氏がうめいた。
「その前に、ひとつ大問題があるぞ。一般の連中にこの視察結果を報告し、ここから帰るのは無理だと言わねばならん。もちろん結果が奇跡でも起こらんかぎり絶望的だなどとは、口が裂けても言えんがね。君たちは大変だと思うが……」
「ああ、それがあったんだ……」
 僕らは首を振り、連鎖的にため息をついた。




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