Part 3 of the Sacred Mother's Ring - In the Abyss of the Worlds

第二章 長い夜 (4)




 もうすぐ三月も終わる。でも、春はまだやってこない。長引く冬の中、希望が次々に奪い去られていく。三月もあと三日で終わるというその日の朝、最後の子供だったロザモンドが、「暑くて気持ち悪いの。それに頭も痛くて」と、ベッドから起きてくることが出来なかった。朝からすでに三八度を超える熱が出ていたのだ。ロザモンドの発病には、エアリィとアデレードだけでなく、僕たちみなが心を痛めただろう。ずっとこの二週間、一人で健気にがんばってきたのに――もう少しで春が来るのにという悔しさと切なさが、胸を締めつける。
 クリスが逝った後、二週間近く空いていた奥の子供用ベッドは、最後の患者をその上に再び寝かせることとなった。僕もこれ以上ベッドの移動はなければ良いと願っていたが、エアリィとアデレードに交代することになってしまった。彼らは最初にここにいて――最後に送ることになるのか。
 僕は自分たちの荷物をまとめて、シーツや布団もろとも移動させる時、声をかけた。
「僕でできることがあったら何でもするから、遠慮なく言ってくれよ」と。
 エアリィはそれに対し、「うん、ありがと。じゃあ……しばらく僕は食事配りとか慰問……休んでもいいかな」と、小さなため息と共に答え、
「ああ、もちろんだ! 当然だろう? 僕らも休んできたんだから」
 僕を含めたその部屋全員が頷いていた。
 アデレードも「ありがとう……」と呟き、涙を飲み込んでいるようだった。
 ロザモンドはそれから五日間戦った。その経過は、クリスの時とよく似ていた。彼女も基本辛抱強い病人だったが、時々こらえきれなくなったように、「暑い」「身体が痛い」「苦しい」と訴える。エアリィはそのたびに娘の手を握って、「がんばれ、ロージィ」と声をかけながら、布団を調整したり、身体をさすってやったりしていた。アデレードもそんな夫の傍らで、娘の汗を拭いたり、やはり身体をさすったりしている。「負けないでね、本当に」そう声をかけながら。
 ある時、エアリィは悲しそうな声で娘に言った。
「僕たちには何も、おまえの苦しみを和らげてやることが出来なくて……ごめんな」と。その思いは、僕にも覚えがあった。
 それに対しロザモンドは微かに笑い、答えていた。
「ううん、パミィとママが……ずっとそばにいてくれて……手を握ったり、撫でてくれると……すこぉしだけ、気持ちが良くなるの。だから……ずっといて」
「ああ、いるよ」「もちろんですとも!」
 二人は同時に頷いていた。そして言葉通り、彼らは娘のベッドのそばから離れなかった。
「あたしが寝てる時は……寝てていいよ。じゃないと……パミィやママが、病気になっちゃうもん」ロザモンドはしかし、両親への気遣いも忘れないようだ。それゆえ、彼女が眠っている時には、どちらかがベッドで仮眠しているようになったが、それでもどちらかは娘のそばに起きて、ずっと見守っているようだった。

 五日目の夜中、僕はふと目を覚ました。静寂の中、低い声で誰かが話している。ローゼンスタイナー・ファミリーの『病室』は、僕たちが今使っているベッド(もとは彼らが、さらにその前はジョージたちが使っていた区画だが)から、ロビンたちのベッド、今はセーラがいなくなって、彼ひとりで使っているそれを隔てた向こうだ。ロビンは眠っているようで、その頭は動かない。ジョージ、ミック、ロブたちのベッド区画は、部屋の反対側だ。その区画はここからでは暗闇に沈んで、何も見えなかった。
 ロザモンドの小さなベッドと両親が使うダブルベッドの間にはスタンドがあり、それがスモールライトになって灯っている。ベッドには誰かが寝ている。灯りにぽおぅと照らされて見える髪の色が濃く、巻き毛だから、アデレードだろう。今は彼女が休む番なのかもしれない。
 エアリィは娘のベッドのそばに座っていた。僕のところからは後姿しか見えないが、スモールライトの光でも、その髪は輝いて見える。そう言えば、ここではシャワーも浴びられないし、髪も一ヶ月に一、二回くらいのドライシャンプーしか使えない。だから僕らはみな髪が固まったり、汚れてしまうのに、彼はほとんど変わらない。洗った後のような、ふんわり感がないだけだ。それに僕たち男性はみな、髭剃りをサボると無精ひげが伸びてくるのに、エアリィにはまったく髭というものがない。昔から。彼が髭剃りを使っている姿など、誰一人見たことがないくらいだ。そういえば彼は特殊体質で、その体質だと男性でも髭は生えないと、未来世界の大統領が言っていた。僕は手を上げ、頬に触れた。ああ、少し見苦しいだろうか。ここでは電動髭剃りは使えないから水は冷たいが、明日剃ろう。こういう時には、彼の体質は便利だなと思える。
 それはともかく、付き添いが一人だけになっているということは、ロザモンドは眠っていたのだろう。今は真夜中だから。ただ、ふと目が覚めたのだろうか。傍らで見守っている父親と、話をしているようだ。その小さな声が夜の静寂を通して、聞こえてきた。
「少し楽になってきた? ロージィ」
 エアリィは娘に問いかけていた。おそらく、彼女の様子がそう見えたのだろう。
「うん……もう苦しくないわ。でもね、なんだか、すこうし変な感じなの」
 ロザモンドは小さな声で答える。しばらく沈黙。
「大丈夫だよ、ロージィ」
 エアリィは低い声で宥めるような口調だった。
「うん……」
 再び沈黙ののち、娘が口を開く。
「あたし、もうダメなの?」
 再び沈黙。
「そんな感じがする?」
「うん……」
「それで……おまえはどう思ってる、ロージィ?」
「うーん、そうねぇ……」娘は小さな声で、考え込むように言う。
「ホントはね……ここで、ママやパミィと一緒に、いたいの。でも、できないなら……しかたがないかな、って。天国はきれいだっていうし、ティアラやクリスや、ジョーイやプリスおねえちゃんにも……会えるから。ママやパミィに会えないのは、淋しいけど」
 パミィか。その言葉はいつも聞いているが――パパだけれど、その外見や役割から、マミィ的要素も感じるのか、ロザモンドもティアラも父親をこう呼ぶのだ。僕も最初に聞いた時は噴き出したものだが、この場では、笑う要素など微塵もない。会話は静かに、厳粛な響きさえ帯びて続いていく。
「うん。僕らとは、しばらくのお別れだね、ロージィ。でも、そのうち会えるよ。向こうの世界で待ってる時間は、短いんだ。地上の時間にすれば、長い時でもね。それに向こうには、ティアラやクリスくん、ジョーイくんやプリスだけじゃなくて、セーラおねえさんもいるし、おまえのお祖母ちゃんも叔母ちゃんもいるから……おまえは会ったことがないかもしれないけれど、きっと親切にしてくれると思う。他にもいろいろな人が、おまえに優しくしてくれる。だから……怖がらなくても、大丈夫だよ」
「あたしは……怖いわけじゃ……ないの」
 ロザモンドはそう言い、そして少し間を置いて問いかけた。
「パミィも、天国を信じてる?」
「天国っていうか……うん。向こうの世界があるのは信じてるよ。そこは魂がお休みをする場所なんだ。再びこの世におりてくるまでの。人はみんな死ぬと、そこで休憩して、それからまた生まれ変わるんだ。誰かの赤ちゃんになって」
「あたしも、また生まれ変わるの?」
「そうだよ。未来の国で。みんないずれここを出て、また小さな国が出来る。トロントにいた頃みたいに。ちょっと様子は変わってるだろうけど、でも、ここよりは良い所に、太陽の光もおいしい食べ物も、いろいろな楽しみも、大勢のお友達もいるところに、おまえもまた生まれてくると思う。うーん、いつになるか、そこまでははっきりわからないけど、それほど遠くない時に」
「そう。みんなも一緒なの? また会える?」
「うん。そうだね。どこかで誰かに会うだろうね。お母さんやティアラ、クリスやジョーイやプリスたちに、また巡り会うと思う。いつもみんな一緒じゃないし、親子とか、兄弟とかお友達とか親戚とか、いろいろ変わっていくけど。もちろんその時には、そんなことは忘れてるだろうけど、でもこの世で仲が良かった人たちとは、生まれ変わっても、また仲良しになれるはずだよ」
「そう……よかった。でも、生まれ変わると……あたしがあたしで、なくなるの?」
「外側は変わると思う。今のロザモンド・ミランダ・ローゼンスタイナーとしてのおまえじゃないけど、でも自分は自分だって思える。新しい自分だけど、それでも自分には変わりないって。だから、そう違和感はないと思うよ、ロージィ」
「みんなそう?」
「そうだね、きっとそうだ」
「あたし、次には……誰になるのかなぁ」
「おまえはどんな感じで、生まれ変わりたい?」
「人間限定?」
「うん。まあ、そうだね」
「んっとね……またパミィとママの、子供がいい。ティアラとも……兄弟になりたい。クリスと、ジョーイと、プリスおねえちゃんとも……お友達になりたい」
「後の方は、叶えられるかもしれないけど、それ以外は、次では難しいかなぁ。だいぶ先かもしれない。次じゃなくとも、待てる? ちょっと変形した形になると思うけど、僕たちみんなが、また家族になれる時は、きっと来るから」
「うん……」
 再び沈黙が流れた。やがて小さな声でロザモンドが問いかけた。
「ねえ……でも、生まれ変わるまでは、向こうにいるんでしょ? あたし、本当に、そこが、好きになれるかなぁ」
「なれるさ。行ってしまえば、誰でも好きになるよ。そこで幸せになれるから」
「よかった……」
「この世はね、いいことばかりの場所じゃないんだ。いろんなつらいことや悲しいことも起こる。ここで今まで、がんばって生きてきたこともね。こっちの世界で人間になることは、魂を成長させるテストみたいなもんなんだ。だけどね、向こうの世界へ行ってしまえば、いやなことや悲しいことなんて、起こらないんだ。お休みする場所なんだから。あの世へ行った魂は、みんな幸せなんだ。だから……そうだなぁ。そういう意味じゃ、天国って呼んでもいいんだと思う」
「悪い人でも、天国へ……行けるの? 地獄は……ないの?」
「ああ。地獄はあるとしたら、この世しかないんじゃないかな。悪いことをすると地獄へ行くよっていうのは、その人が悪いことをしないための、そう、言ってみれば脅しだろうって思うんだ。それにね、悪い人っていうのも、二種類あると思う。本当に悪い人と、悪いんじゃなくて、心が弱いだけの人と。本当に悪い人は、天国というか、向こうの世界へ行っても、自分たちだけの場所から出られなくて、イライラしたりしてるんじゃないかな。そこは地獄じゃないけどね。炎は燃えてないし、硫黄くさいわけでもないけど、それに仏教でいうような、針の山とかもないけれど、曇りの世界なんだ。本当にぼんやりと薄暗い。そこの人たちは……うん、そこでは幸せじゃないかもしれないな。幸せって、その人の感じ方次第な部分もあるから。そういうところへ行く人は、きっと幸せだって感じる力がなくなっているんだと思う。だから、安らげはしないし、怒ったりしてしまうんだ」
「ふうん……なんだか、かわいそう」
「そう……ある意味、とてもかわいそうで、悲しい人だと思う」
「そうよね……」
 しばらく黙ったのち、再び彼女はこう言い出した。
「あたしね……もうじき、向こうへ行くんなら……その前に、ざんげしたいことがあるの。学校の、聖書クラスで……教わったの。だから……」
「うん。気になるなら、言ってごらん。どんなこと?」
「去年のいまごろ、ティアラとお庭で、ボール遊びしててね……あたしが投げたボールが、花壇の中に、飛び込んじゃって……せっかく伸びかけた、チューリップの芽を、みんなつぶしちゃったの。ママが一生懸命、植えてたのに……おまけに、あたし……ママに叱られるって、思って……トリクを放して……そのせいに、しちゃったの」
「そう……」エアリィはこみあげてきた笑いを、噛み殺しているような感じだった。
「おまえは知能犯だなぁ、ロージィ。でも悪かったって思ってるから、懺悔したんだよね」
「うん……」
「じゃ、大丈夫だ。悪かったって思って、もうしないって思えたら、それで罪は……まあ、それって罪っていうほどのもんじゃないけど、償えたことになるから。それにチューリップの芽だって、つぶれてもまた伸びてくるし、命も続いていくんだ」
「そう。よかった……」安心したような、小さなため息が聞こえた。
「あたし、眠くなっちゃった……」
「そうか。じゃあ、もう眠る?」
「うん……」
 そしてしばらく黙った後、小さな声で彼女は問いかけた。
「ねえ、パミィ。あたし……立派なヒロインに、なれたと思う?」
「ああ、本当に立派なヒロインだったと思うよ、シンデレラも真っ青な」
 エアリィは手を伸ばして、そっと娘の髪をなでているようだった。
「だから、きっと神さまがご褒美に、今度生まれ変わる時、素敵な魔法をかけてくれるよ」
「うん……そうだったら、うれしいな」
 ロザモンドは、眠そうな声だった。
「ねえ、パミィ……あたし、もう起きれないけど、ぎゅって抱っこして」
「うん……」彼は頷くと、屈みこんで、毛布の上から娘を抱きしめていた。
「パミィ……大好き」そんな小さな声が聞こえた。
 その言葉に、僕でさえ思わず涙が出てきてしまった。
「ありがとう……僕もおまえのことが大好きだよ、ロージィ」
 エアリィの声も、明らかに涙に詰まっている。
 しばらくの沈黙の後、再びロザモンドの声が聞こえた。
「ねえ、パミィ……あたしが眠っちゃうまで、お歌うたって」
「いいよ。どんな?」
「『天の母の祈り』がいい」
「あれか。わかった」
 彼は再び椅子に座り、娘の布団の上に片手を置いて、軽く拍子を取るように動かしながら、静かな声で歌い始めた。聞き覚えのない歌だった。旋律は切なく美しく、繰り返されるリフレインがどこか浮遊感と無限の広がりを覚えさせる、不思議な子守歌だ。

 わたしの腕で遊びなさい、子供たちよ
 わたしの膝でお眠りなさい、子供たちよ
 わたしの胸にいらっしゃい、子供たちよ
 おまえたちの光が、わたしの光となるまで
 勇気を持ちなさい、子供たちよ
 強くなりなさい、子供たちよ
 愛を輝かせなさい、子供たちよ
 それがおまえたちの行く、光になるのだから
 大地も風も空も海も、世界はおまえたちのゆりかご
 光も炎も緑も雨も、時はおまえたちの保護者
 夜空に浮かぶ金の小舟
 一粒の星くずが、おまえの眠りに落ちた
 今夜おまえが見る夢は、どんな夢だろう

 ロザモンドは眠ってしまったようだ。エアリィは歌い終わると、深いため息をついた。そして長い間、沈黙していた。ベッドの上の娘の寝顔をじっと見ているようだ。
「ロージィ。ごめん……こんな運命で……」
 彼は手を伸ばして、娘に触れたようだった。そして言葉を継いだ。
「僕は……やっぱり、おまえを……助けることは、出来なかった……」
 彼は肩を落とした。その背中は小さく震えていた。そのトーンには、明らかに涙が入り混じっている。僕は声をかけることなど思いもよらず、黙って見守りながら、我知らず涙をこぼしていた。
 仲良し時間――昔、医学書を読んでいたころ、そんな言葉を知った。死に望んで、一瞬すべての症状が消えたように感じ、意識が明瞭になることがある。ロウソクの火が消える直前に、最後に大きく明るく燃えるように。その間に、傍で見守る介護者と交流することが出来る。最後の別れの前に――ロザモンドも、そうだったのだろう。
 二五歳の父親と、八歳の娘の仲良し時間――普段は親子というより、年の離れた兄妹、いや、姉妹のようにさえ見える感じの二人だが、さっきまで交わされていた静かな会話は、まるで小さな娘の臨終を宥める牧師のそれのように響いてくる。語られていることはキリスト教の教義とは程遠いが、それを真実たらしめる、異様な説得力があった。ある意味でエアリィは僕らよりずっと信心深いという以前からの思いは、当たっているようだ。その信じる神に、絶対的な信頼を置いていることも。
 息子の臨終のことが思い出された。死に臨んで、『ぼく、天国へ行けると思う?』と、無邪気に問いかけたクリスチャン。ああ、僕たちは幼い魂が現世の苦悩を離れたのを、喜ぶべきなのだろうか――わかってはいても、感情は納得できない。実際の別れのつらさは、あまりにも大きすぎるから。

 長い静寂が流れた。聞こえてくるのは隣で休む妻と、同じ部屋で寝ている人々の寝息、静かに時を刻む時計の音、それだけだ。僕もいつしかうとうとと寝入りかけたが、頭の中に突然こだました声に、眠りを払われた。それは微かだが、それでも響いてくる声。その声は呼んでいた。(アルフィアさま)と。
 僕はびくっとして、再び目を開いた。あの人が部屋にいる。あの紫の幻影が。それはロザモンドのベッドの傍ら――壁際、いや壁の中に佇んでいた。そしてその名は、かつてロンドンの病院で聞いた。ミストレス・アルフィア――その幻影の声は遠い。僕に呼びかけているわけではない。その人が呼びかけている相手は、ただ一人。
「えっ?」エアリィは小さく声を上げ、頭を上げて見た。そしてその姿を認めたのだろう。「あっ」と小さな声を漏らし、しばらくじっと相手を眺めていた。そして微かに首を振ると、小さな声で、ささやくように抗議している。
「その名前で呼ばれると、違和感あるって言ってるのに、ヴィヴ。まだ早いよ……」と。
(そうかもしれませんね。あなたの意識では、まだ彼女そのものではないのでしょう)
 幻影の言葉が、微かに響いてくる。
(でも私にとっては、同じことです)
 ああ――僕は不意に納得した。その奇妙な名前は、彼の中の“彼女”に対しての呼びかけなのだと。エアリィの内なる超人は女性だと、何度も言われてきていたように。
 彼はふっとため息をつき、髪をかきあげてから、首を振った。
「アルフィア……アルフィアル・アルティスマイン……レフィアス。でも今はまだ、その名前に戻れない」
(そうですね、あなたの意識の上では。でも私には、同じことです)
 幻影は再びそう繰り返す。
「君にとっては、そうかもしれないね。君は変わらないから」
 エアリィは再び小さく首を振り、言葉を続けた。
「ヴィヴ……いや、ヴィヴァール。アーヴィルヴァイン……アヴァルディア・アーヴィルヴァイン・セルート。君はずっとそうだから」
(そうですね。私が別の名前を持つようになるのは、もう少し先でしょうから)
 幻影は微笑んだように見えた。
「別の名前……か」エアリィはふっと息をついて、そう呟いた。
「なんだか、妙な感じがする。最近ものすごく、昔を思い出してる。起きてる間も、記憶が出てくる。雨みたいに。いや……地下水脈からあふれてくるみたいに。なんでだろう。固められてたものが溶け出して、境界がなくなって……昔はそれがわりと違和感だったけど、今はそれも感じなくなってる。天と地ほども違うのに……特に今は。でもそれでも、意識の上では……すごく落ち着いているんだ。それは僕自身のバリエーションに過ぎないんだって」
(ええ、わかりますよ。あなたがどんな風に感じているか。たぶんそれは、肉体の枷が少しずつ外れつつあるからです。この環境では、他のみなさんと同じように、少しずつ体力がなくなっていきますからね。ここの食物ではどうしても生体エネルギーが圧倒的に不足しますし、今は特に、娘さんの看病でかなりご無理をされてますから)
 幻影の静かな声が、かすかに僕の頭にも響き続ける。
(そしてたぶん、あなたも心のどこかで、感じているのでしょうね。あなたのゴールが近づいてきているのを。言ってみればそれは、その準備段階のようなものです)
「僕のゴール……」そう呟くと、エアリィは一瞬震えたようだった。
「近いのかな、今は……考えないようにはしてるけど」
(そうでしょうね。あなたが意識せずとも、道は自然とそこまで続いています。むしろ細かい未来は、はっきり見えないほうがいい。あなたは最初に言いましたよね。未来は知りたくないと。あなたのその思いはごく自然のことですし、またあなたらしいとも思います。でも、あえて未来を知ろうとしなくとも、押さえきれない漠然とした思いを感じることもありませんか。そう、今でしたら、まだその時までには、今少し時間があると。それも当たっています。まだこの程度では、あなたの肉体の枷は外れない。肉体が壊れてくれば、眠っているあなたの力は解放されていく。あなたの真の力を解放する時が、あなたのゴールになるのですから)
「うん。わかってる。でも……今の僕は本当に……何もできないのが、悲しいんだ、ヴィヴ。黙って見ているしかないのが……本当に……わかってるんだけど……」
 エアリィは詰まったような声で言い、しばらく黙ってから、再び言葉を継いだ。
「ヴィヴァール……覚悟はしてたはずだった。グランドパージは、悲劇以外のなにものでもないって。けど……実際は、悲劇以上だ……なんでこんなことにって……本当に……」
(わかります。しかし、我々には止められないことですし、どうにもならないことなのですよ。二者択一ですらない、運命なのですから)
 幻影の言葉は、慰めるようなトーンに響いた。
「わかってる。でもやっぱり僕には、犠牲なんだとしか思えない。祝福じゃなくて、生贄なんだって……」
(生贄には聖別の意味もあります。ですがミストレス……いえ、失礼、アーディス・レインさん。ここからは言葉でなく、思念で会話しませんか。その方がいいと思います)
 思念のバイブレーションが、かすかにそう響く。あの幻影は、僕が起きていることを知っているのだろうか? それとも、ただ部屋の誰かが起きている可能性を、恐れているのだろうか。エアリィにも相手の意図がわかったようで、小さく頷いた後、もはや声に出しては何も言わなくなった。それでも、彼らは会話をしているのだな。思念のレベルで――僕にはわかる。幻影の応答だけは、かすかに響いてくるからだ。
(そうですね)
(それが神のご意思なのですから)
(悲しみや嘆きを大きく感じてしまうのは、あなたが今は原始の情動に影響を受けているせいです。元々あなたは、その傾向が強くありましたしね。ことに今は理性が三分の一になっていますし)
(いえ、それが悪いわけではないと思います。それがあなたの特性ですし、あなたの美点でもあると私は信じています)
(まあ、たしかにそれはありますね。でも、それだけではありませんよ)
(ええ、わかります。でも、それは現実的ではないですよ)
(真理は、たいがい無情なものですよ。あなたも知っているように)
(あなたらしい考えですね。あなたは昔からそうだった)
(私は直接的には、あなたを何も助けられない。それがもどかしいです)
(そう思ってくれると、嬉しいですよ)
 しかしこれでは、電話をしている人が話しているのを、聞いているようなものだ。幻影の思念は僕にも多少波長が合うらしいが、僕は決してテレパスではないから、エアリィの思念の言葉まで知りようがない。時おり響く遠いエコーを聞きながら、僕はいつの間にか眠ってしまったようだ。

 目が覚めた時は、午前六時になっていた。部屋は騒然としている。ロザモンドが明け方、ついに息を引き取ったのだ。アデレードがベッドにつっぷして号泣していた。エアリィは黙ってじっと娘の顔を見つめている。美しい髪や白くなった頬をいとおしむように撫でながら、長い間愛娘を見守り、そしてうつむいた。エステルは顔を真っ赤にし、小さな姪を見守りながら、激しく啜り泣いていた。他の人たちも、同情に満ちて取り巻いていた。四月になって三日目、春も間近い日だった。この日、ついにアイスキャッスルからすべての子供たちが消えてしまったのだ。

 その日の午後、エアリィは黙々とした様子で、娘の遺品を整理していた。アデレードはお昼過ぎにロザモンドを霊安室に移して戻ってきて以来、悲しみのあまりか、寝込んでしまっている。だからこのつらい作業を彼がやっているわけだ。彼にとっては二回目――だが、もうこれ以上はないだろう。この作業のつらさは、僕にも経験がある。
 彼はほとんど手を止めることなく、小さな衣装をバッグに入れていた。絵本や玩具も。そしてお絵かき帳を手に取り、ぱらぱらめくっている。あるところで手が止まり、じっとその絵を見ていた。そして顔を上げて僕と目があうと、悲しげに微笑した。
「見る? ジャスティン。これ、ロージィの大作」
 僕は絵を覗き込んだ。二枚の紙をつなげた大きなものだ。子供らしい奔放な線、あざやかな色彩で描かれているのは、在りし日の世界だった。青い空、白い雲、輝く太陽、草原の緑にピンクや赤や黄色で描かれた花。その中でピクニックをしている家族――それはおそらく、彼女自身のファミリーだろう。両親と妹――二人の男の子たちは、ひょっとしてクリスとジョーイだろうか? 僕は思わず胸がつまってしまった。
「ジャスティンが、泣かないでほしいな」エアリィは小さく肩をすくめた。
「悪い。でも、あんまり切なくてさ」
「うん……」
 僕たちはしばらく黙って、その絵を見ていた。やがて彼は言った。
「ロージィは今、この絵の世界にいるんだよ。僕らはまだ行けないけど」
「そうだな」僕は頷いた。そこにいるわが子をも想像しながら。
「この世界にもまた、いつか色が戻るんだ。僕らはたぶん生きて見れないだろうけど」
 エアリィは静かにそう続け、ぱたんと絵を閉じてバッグの中に入れた。
 世界に色彩の戻る日――僕は想像してみた。いつになるだろう。少なくともこの極北の地では無理だろうが――太陽が姿を見せ、空が青さを取り戻し、大地に緑が茂るまで。十年、二十年――ひょっとしたら、もっと先になるかもしれない。

 彼はバックと人形を手にして、部屋を出ていった。僕は一瞬ためらい、それからあとを追った。邪魔はしたくなかったが、クリスの眠る部屋に行きたかったのと、もうひとつ、夜中に見た幻のことを聞きたかったのだ。
「あの幻影と何の話をしていたんだ?」と。
 エアリィはちょっと苦笑を浮かべ、頭を振ってこう答えただけだった。
「もう忘れちゃったな」
 彼には、忘れるというのはありえない。しかも、昨夜のことなのに。それは僕も、そして彼自身もわかっているのに、あえてそう言うのは、話したくないというのと同義だ。僕はそれ以上追及しなかった。僕たちはそれからしばらく黙って歩き、僕は再び話しかけた。
「おまえ、その前にロザモンドちゃんと、天国と生まれ変わりの話をしてただろ」
「ジャスティン、いつから起きてた? 寝てるかと思ってた」
「聞くつもりじゃなかったけどね。偶然目が覚めてさ。でも、あれは結構異教徒的じゃないか? おまえって、もとからそんな傾向はあったけど」
「異教的っていうか、まあ、キリスト教じゃないけど。でも東洋の一部じゃ、まだ伝わってるみたいだね。昔、一緒に行ったインドの高原で、旅の僧侶に会った時、彼が言ってたことを覚えてる? 『存在から成ることへの変化、それが誕生に見え、成ることから存在への変化、それが死に見える。本当は誰も生まれず、誰も死なない。ただその形が、変化しただけだ』って。あの時、たしかにそれは真理だと思ったんだ。ずっと知っていたはずの真理だって」
「誰も生まれず、誰も死なない。ただ形態が変化しただけ」
 僕は小さく反復した。
「そう。魂は不滅で、転生を重ねながら、純化されていくんだ。だから子供たちだって、死んだわけじゃない。いる場所が変わっただけさ。今は会えないけど、いずれまた、みんな向こうで会えるんだ。だからこの世で別れるのは悲しいけど、そう思えば、救いも慰めもある。向こうの世界は次元が違うから、こっちから認識することは出来ない。向こうからも、こっちの世界は、微かな精神の波動でしか認識されない。今の段階では。でもお互いに存在してる。いずれは次元の壁を越えて会える。向こうでも、そしてこっちでも。これは希望的観測じゃない。事実なんだ。『古くからの知識』は、間違えないから」
「死んだわけじゃない、いる場所が変わっただけ……いずれ、また会える」
 僕は繰り返した。その概念はたしかに、不思議な救いと慰めを与えてくれた。
「向こうの世界では、またクリスとジョーイくんで、ロザモンドちゃんの争奪戦をやっているのかな」思わずそんな言葉が出てきた。子供たちはみな、今は向こう側なのだから。
「ここにいた時みたいに、仲良く遊んでるんじゃないかな」
 エアリィは寂しげな笑みを浮かべながら、そう答えた後、言葉を継いだ。
「それに……もしかしたら、クリスくんとロージィは、次では結婚するかもしれない。本当に……こっちの世界で」
「えっ? そうなのか。次って……次の人生でか?」
 僕は思わず問い返した。だとしたら、息子は喜ぶだろうな、と思いながら。
「うん。『知識』がそう告げてる」
 エアリィは頷くと、子供たちが寝かされているベッドの足元に持ってきたバッグを置き、人形を毛布の下に入れてやっていた。
 知識か――古くからの知識。昔、“生まれなかった子供たちの国”の話をした時にも、その言及があった。『そういう話を、おまえはどこで知った?』という僕らの問いかけに、『古くからの知識なんだ』と答えていた。彼が昨夜、娘に語っていた“向こうの世界”の話も、その古くからの知識なのかもしれない。その正体はなんだか、僕にはさっぱりわからないが、何か大きなものなのだろう。彼の“神”と同じように。そんな気がした。
 僕はクリスの寝かされている毛布の上からそっと手を触れたあと、そこに眠る子供たちみんなに向かって、両手を合わせた。子供たちは、みんな彼方の国に行ってしまった。でも彼らの魂は天国で、今仲良く戯れていることだろう。クリスも今、幸せにしている。僕もいつかまた、わが子に会える。この命が尽きた時に。

 僕たちは黙って引き返した。長い階段を上り、中央ホールを歩いて、ホテルまで帰る。その建物の横通路――唯一透明な窓のあるそこに差しかかった時、普段の照明の光とは違う、別の光を感じた。エアリィも同時にそのことに気づいたようで、はっとしたように僕を見た。僕らは、急いでその窓に駆け寄った。
「外が明るい……?」
 僕らは小走りに管理人室に行き、鍵の一つを借りて、小さな非常用出口に駆けつけた。
 扉を開けると、相変わらず、しんとした静寂が支配している。空気は動かない。張りつめた冷たさをもって取り囲む。気温計はマイナス二六度をさしていた。例年よりはるかに低いが、一月二月のとんでもない寒さからすれば、かなり暖かく感じる。空はもはや漆黒ではなく、無数の星もなく、明るい紫がかった色になっていた。オーロラに見まごうほど弱々しいが、紛れもない太陽が、閉ざされた氷の世界を照らしている。
「夜が終わった……」
 僕は思わず呟いた。ついに長い夜が明けた。冬が終わった。
「なんで今! 遅いよ!!」
 そう小さく叫んで、エアリィはドンと扉を叩いた。そう、もう少し夜の開けるのが早ければ、ロザモンドは死ななかったかもしれないのに――。彼の心情が理解できたから、僕は黙って肩をぽんと叩いた。エアリィは少し気を取り直しように頭を振り、吐息とともに言った。「でも、夜が終わったんだ……ついに」
「ああ、本当に長かったな。犠牲も大きかった……」
「うん……」
 僕たちは黙って、明るくなっていく空を眺めていた。
 やがてエアリィが小さく飛び上がり、声を上げた。
「そうだ! みんなに報せなきゃ!!」
「ああ、そうだな!」僕も強く頷いた。
 アイスキャッスルのみんなに報せよう。夜が明けた。冬は終わった。苦難は終わったのだと。でも本当にそうだろうか。終わったのは最初の困難だけで、これからもまだ続いていくのだろうか? それはわからない。だが、一つの山を越した。その時にはたしかに、そう感じられた。




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